2009年6月28日 (日)

映画「剱岳 点の記」と「キャデラック・レコード」

   
    6月17日、有楽町の朝日ホールで映画の試写会があった。映画のタイトルは「剱岳 点の記」。監督はかの有名な映画撮影カメラマン、木村大作氏である。長年、著名な監督と組んでフィルムを回してきた木村氏が、満を持して取り組む大作である。原作は新田次郎。

  試写会にはなんと、浩宮皇太子殿下もご臨席。開幕直前に数人のSPに伴われて来場。ど真ん中にお座りなったと思ったら、すぐに映画が始まった。

  さて、その出来具合は? 申し訳ないが、前人未到の退屈さ、であった。あるいは、壮大なる駄作というべきか。こんな物を、わざわざ皇太子殿下をお呼びして、お見せしてよろしいものなのであろうか。殿下は確かに山好きだそうだが、だからといって・・・・。

  このブログを始めるに当たって、悪口は書くまい。何がダメ、これがダメ、こいつが馬鹿、などということは決して書くまいと心に誓っていた。そんな否定的なことを書くぐらいならば、もっと肯定的なこと書くべきだと思っていたからである

  その割には悪口が多いのではないか、と思われる方は、私の日常的悪口の嵐を知らないからそんなことが言えるのであって、じつはこれでも随分抑えているのである。

  まあ、そんなことはどうでもいいか。今回は例外。書かずにいられないのだ。どこがどう駄作なのか。簡単に言えばドラマがないのである。ドラマが効果的に描かれていないのである。これはひとえに監督の責に帰すべき問題だと思う。剱岳をはじめとする山々は、四季の風景の中で、美しく捉えられている。貴重な映像、印象的なシーンはいくつもある。が、肝心のドラマがないためにちっとも心にひっかかってこないのである。

  そんな中でも、香川照之の演技は光っているが、役者が一人輝いているだけではどうしようもない。それにしても、木村大作は長年にわたって有名監督のもとで映画製作に関わってきたはずなのに、いったい、そこから何を学んで来たのか、と思わざるを得ない。

  数日後、アメリカ映画「キャデラック・レコード」を観た。傑作である。登場人物の一人ひとりが際立っている。そうなのだ、映画は人間が描かれていないとダメなのだ。喜び、苦しみ、怒り悲しむ人間の姿がくっきりと描かれていないと、映画は映画として成立しないのだと、つくづく思い知らされた。

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2009年6月17日 (水)

CHANELと「津軽」、そして「マレー戦記」

● 15日、銀座で、ミッキー・ローク主演の映画「レスラー」を観る。生理的にも痛い映画である。喝目すべきは、ストリッパー役のマリサ・トメイ。四十数歳の、悲しみが滲む肉体を惜しげもなく晒し、かつ情感溢れる演技を見せる。彼女に匹敵する日本の女優を挙げることができない。アメリカの役者の層の厚さを思う。

● 16日、代々木体育館でCHANELの秋・冬物のショーを見る。さすがに世界のトップブランドだけあって、ファッション関係のジャーナリストの主だったところが勢ぞろいする。逆だな。ここに勢ぞろいした方々が、日本のファッション・ジャーナリストの代表格である、というべきか。10年以上この手のイベントに出席していると、たまに会う皆さんが、少しずつ年老いていることが分かる。なんだか、すこし悲しい。とともに、ブランド・ビジネスの底が抜けてしまった現在、今後どのようなビジネス・モデルを彼らは描こうとしているのか、と複雑な思いでショーを眺める。服そのものはあいも変わらず、シャネルである。

● 17日朝9時。三鷹の太宰治文学サロンで元NHKアナウンサーだった山根基世さんの朗読を聴く。朗読したのは太宰の「津軽」。プロの朗読というのはこういうものか、と驚かされる。マイクを通さない、山根さんの語りを聞いていると、朗読で重要なのは「間合い」「呼吸」なのだな、と分かる。面白いのは、朗読しながら体がゆらゆらと揺れること。ピアニストやバイオリニストが演奏中に身悶えするように、体が動く。なのに「力み」はどこにもない。

● 最近はまっている戦記物を読み次いでいる。読了したのは河出書房から昭和42年に刊行された「マレー戦車隊」(島田豊作・著)。現在のマレーシアにあたる「マレー」の北部に上陸、シンガポールに向けてイギリス軍、インド軍らと死闘を続けながら捨て身で南進する島田戦車隊の戦いぶりがヴィヴィッドに描かれている。アジアン・リゾートと呼ばれてお気楽なリゾート地として紹介されるアジアの各地で、筆舌に尽くしがたい日本軍の血みどろの戦いが繰り広げられていたことを知ると、なかなか心安らかにリラックスできるものではいな、と思う。

● 続けて、昭和17年、朝日新聞社より刊行された「マレー戦記」(酒井寅吉・著)を読む。酒井氏は朝日新聞記者。従軍記者である。戦中の刊行であるため、国民の戦意を萎縮させるような話は全くない。その手の話は全くないものの、同僚の従軍記者の戦死場面などが描かれると、その場から逃げ出したくなるような、厭戦気分がにじみ出ている。興味深かったのは、日本軍兵士の中にあった、英軍の決死の斬り込み隊に対する崇敬の念。死を覚悟して攻め込んでくるは白人兵たちを全滅させた後に、「実に騎士道魂とでも呼ぶべきものがある」と丁寧に弔ってやるシーンには感動する。

    日本兵の玉砕覚悟の攻撃について。読んでいると、玉砕攻撃の背後には「生きてこのまま過酷な死闘を続けるよりも、いっそ死んだほうが楽でいいや」というようなカジュアルな感覚が兵士の間に醸成されていたことが分かる。なるほど、そういう感覚だったのか、と納得する。

  もうひとつ。兵士の背嚢などにマスコットなどがぶら下げられていたという事実。まるで、携帯ストラップみたいだなと思う。ノラクロなんかがぶら下がっていたのだろうか?

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2009年6月16日 (火)

内田樹の再婚と、映画「レスラー」

  またしても、アクセス数が急増している。いつもは20程度なのが、昨日6月15日には、なんと100を越えた。理由ははっきりしている。ほとんどの来訪者が「内田るん」あるいは「内田樹 披露宴」の検索ワードでひっかかって、「るんちゃん『論座』に載る」のエントリーにお越しになっている。

  
    なぜ突然、そんなことになったのか? これも理由ははっきりしている。6月13日に内田樹氏が教え子と再婚したからである。神戸女学院大学の中にあるチャペルで式を挙げたと、ご本人がご自身のブログで開陳されているから間違いのないことだろうと思う。

  この再婚話を聞いて、すこしがっかりした。いや、人様の慶事を知って落胆したというのは、いささか礼を失した話なのだが、実は私は、内田樹という、この偏屈で弁が立ち、森羅万象一切合切を論じずには止まぬ、という気配を漂わせるめんどくさいオヤジが、ひとり孤独にどのように老いていくかに、大いに興味があったからなのである。

  89年に一人娘を引き取って離婚した話は、これもご本人のブログで知った。氏の文章を読むにつけ、こりゃ、一緒に住むのは並大抵の努力ではかなわんな、と思わせるアクの強さを私は感じ取っていた。悪い人ではない。悪い人ではないが、一緒に生活するにはタイトだぞ、と。だからいずれ、一人娘はどこかに嫁ぎ、ご自身はふさわしい配偶者を得ることもなく、偏屈なジジイとして、老いさらばえていくに違いない。

  おしゃべりな老学徒の無残な晩節をこの目でしかと見届けてやろうと、楽しみにしていたのである。

  しかるに何事であるか! 教え子と再婚! そりゃないだろ、セニョール! とケーシー高峰みたいな口ぶりで憤慨するしかないではないの。しかも相手は、神戸女学院大学の卒業生ですぜ! 東海林さだおの漫画なら、ショージ君が机をこぶしでどんどん叩いているはずである。

  しかもですよ、内田氏は結婚についてこんなことを書いている。

<結婚がオススメなのは、それが「不幸」な経験、「受難」の日々を約束してくれるからである。結婚とはごくたまに愉しいこともあるが、総じて「エンドレスの不快」によって構成されている。(略)
 結婚とはひとことで言えば、「他者と共生すること」である。一緒に暮らすその他者と、あなたは気持ちが通じないこともあるし、ことばが通じないこともあるし、相手のふるまいのひとつひとつが癇に障ることだってある。そしてこう思う。「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない」 
  それでオッケーなのである。(略)
  結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人のことばを聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである。
  自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。>(内田樹著「街場の現代思想」文春文庫 P157-162)

  この文章も、卒業生の彼女に向けて、この偏屈ジジイが書いていたかと思うと、引用しながらも腹が立つ! しかも、一ひねりしたラブメッセージなんじゃないかと思うと、余計に腹が立つ。

  と、人さまの孤独な老後を観察する楽しみを奪われた腹いせに色々と書き散らしたが、ここからが本論である。

  季節に春夏秋冬があるように、人の人生にも春があり、夏があり、秋が訪れ、その後に冬が来る。誰もその転変を止めることはできないし、避けて通ることもできない。ミッキー・ローク主演の話題の映画「レスラー」を観て思ったのは、まずそういうことだった。

  事情は、プロレスラーも同様である。盛夏の筋力や体力は年とともに衰える。いくらホルモン剤や筋肉増強剤や鎮痛剤を服用しても、痛めた関節をいくらテーピングしても、ある朝、秋霜は訪れる。突然の異変に驚愕させられるけれど、その霜柱は、これから訪れる厳冬の前触れにすぎないのだ。

  はじける筋肉や疲れを知らない体力が横溢していた真夏の記憶があるレスラーにとって、忍び寄る老いは素直に甘受できるものではない。しばしの狼狽の後、徐々にそのことに慣れていくしかないことがらなのだ。しかも、身の回りを見渡せば、頼るべき何者もいないことに気づき、日々の生活は暗転する。妻は早々と傍を去り、一人娘は、レスラーとして戦いの日々に埋没しているうちに放擲してしまっている。

  いまさら娘にすがったところで、顧みられるわけがない。どの面下げて、のこのこやってきたのかと蔑まれるのが関の山だ。老いて傷んだ寂寥の身の上を、心優しいストリッパーに預けてみても、相手には相手の寂寥と、負うべき重荷がある。とても他人の重荷まで背負うほどの雅量も愛もないことは、馬鹿にでも分かる。しかし、分かっていても、すがりつくしかない孤独がわが身を覆いつくす。

  そうなったプロレスラーはどうすればいいか?

   死ぬしかないのである。汗がほとばしり、筋肉が悲鳴を上げるあの夏の日の記憶の中で、爆発しそうな心臓を抱かえながらロープ最上段から身を投げるしかないのである。「スラムダンク」の桜木花道がそうであったように、人生の盛夏の記憶の中で、自らの人生の幕を引くしか手はないのだ。「老い疲れた自分にとって、世間はリングの上より辛かった」と一人ごちながら・・・。

 だがしかし、知性のプロレスラー、内田樹はそうはしなかった。これも、知性のなせる業なのだろうと思う。知性の力も、記憶力も、想像力も、体力も気力も衰えた晩年の自分のために、再婚という、実に羨ましいアジールを自らの力で用意したのである。まあ、おめでとうございます、と言うしかないが、最後っ屁をひとつ。

  会ったことも話したこともない、その新妻に一言。あのね、この偏屈ジジイと同じ一つの屋根の下に暮らすのは楽じゃないと思うよ。いや、まあ、確かに余計なことですけど・・・。

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2009年6月15日 (月)

母の口笛

    週末を利用して帰省。「離れ」の建て替えも完了したので、その様子を見がてらの帰省となった。でも一番の目的は、改築時に同時に作った花壇に花や木を植えること。

  造園の知識などなにもないので、本で色々と調べて、「香りがいいこと」「役に立つこと」の2点に絞って品種を選ぶことにした。

  結局植えたのは、オリーブ3本、ブルーベリー2本、ライラック、山椒、ラベンダー、ローズマリー、バジル、オレガノ。果たしていったい何本がこの南紀の地に根付くのか。オリーブなんかはぴったりだと思うんだけど。

  朝、新しいベッドで目覚めると、窓の外でいろいろな鳥がさえずっている。東京で生活しているときには、そんなことに全く気がつかなかったのだが、その鳥同士がコミュニケーションを取り合っていることに初めて気付いた。

  ピピピと一匹が鳴くと、それに呼応するようにピーピッピと別の一匹が鳴く。それがあちらこちらで繰り返される。ああ、こいつらは会話を楽しんでいるんだと分る。

  81歳の母は、夕方、ひとりゆっくりと、川端を散歩する。するとそれを待ちかねたように、うぐいすがやってきて、ホーホケキョと鳴くんだそうである。それに応えて口笛でホーホケキョと応えると、また相手も鳴き出す。

  そんな具合で、母は、朝な夕なに、口笛で鳥たちに語りかけている。一人住まいの寂寥と無聊に迫られてのことなのか、そのへんはよく分らないが、今朝もまた、母の口笛が田園に響く。

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2009年6月 8日 (月)

みなさん、ありがと。1万だ!

    ただ今、2009年6月8日、午後7時15分。
  なんと、総アクセス数が10000を記録。嬉しい!
  でも、今は何かを書く気力がないから、これだけ。
  みなさん、ありがとうございました。

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2009年6月 4日 (木)

シギラベイサイドスイート アラマンダの休日

  
    08年の1月からコツコツ書いてきたこのブログも、もうすぐ総アクセス数が1万になる。よくぞ、続いたなあ、と思うと同時に、どこの馬の骨だか分からないおっさんの世迷言をよくも1万回も読んでくれる人がいたもんだ、と驚く。

  前回、羽田空港の不便さについて、カーッとして書いたので、肝心のことを書くのを忘れた。何をしに宮古島まで行ったのか、について書きそこなったので、補足を。

  南西楽園の宮古島シギラリゾート「シギラベイサイドスイート アラマンダ」というホテルが4月25日にオープン。そのお披露目にご招待されての宮古島行きだったのである。このリゾートホテルは全室にプライベートプールが完備。BRAVATのシンプルな浴槽につかり、ガラス張りの浴室の外を眺めると、すぐそこにプライベートプールが青い水面をきらめかせている。

  プールではあるけれど、なにしろプライベートであるから、浴室からそのままフリチンでプールに入るもよし。プールの向こうにはゴルフ場、そしてその向こうには紺碧の太平洋が広がる。浴室にはシェードがあって、外からの視界を遮蔽することができるけれど、こちとら、別に見られて困るようなものは持ち合わせていないので、堂々と開陳。

  朝早く起床、シギラベイカントリークラブで18ホールをスルーでラウンドし、昼食を食べて、生ビールを2杯いただく。そののち、ふらふらしながら部屋に戻って、バスタブに身を沈める。1時間ほどぬるま湯の中でうつらうつらしたのち、アメニティとして用意されたロクシタンのボディクリームを体中に塗りたくり、そのまま素っ裸でベッドへ。滑らかなシーツの中へ、体を滑り込ませる。うーーー、極楽極楽。

  他の皆さんは、バスで宮古島を1周して観光スポットに行くらしいが、酔っ払った私は勝手にパス。寝るより楽はなかりけり、浮世の馬鹿が起きて働く、などと口ずさみつつ、熟睡。ハワイ島もそうだが、島にはなんだかとても体にいい「気」が横溢しているように思う。

  よく、重病の芸能人などが静養のためと称してハワイに出かけるが、それは本当にその通りなのではないだろうか。誰かにそう教えられたからそう思うのではなく、実際にその地で数日過ごすと、体にエネルギーがたまっていくような気がする。海を渡る風のせいなのか、あるいは海中から顔を出す島の磁場がそんな効果を生み出すのか、そこのところは分からないが、心身が整えられて元気になる気がする。

  この「シギラベイサイドスイート アラマンダ」にこもっていると、2年前の夏に出かけたモルディブのリゾートホテルのことを思い出した。その名はリーテラ、ワン&オンリー。もう、これ以上のリゾートホテルに泊まる経験は、私の人生には訪れないだろうという気にさせられたホテルである。

  毎日のルーティン化したモノトーンな人生の足取りとは対蹠的に、そこで過ごした1週間はカラフルな色彩で彩られて、記憶の中で屹立している。なぜ、急にリーテラのことを思い出したんだろうと考えたが、それは部屋の匂いだと分かった。木のフローリングの匂いなのか、麻のラグの匂いなのか、それとも南の島で作られた家具の匂いなのか、それは定かではないが、同じ匂いが漂っていたのだ。そういえば、部屋の作りもなんとなく似ている。

  リーテラの想い出で、生涯忘れえぬものは、漆黒の闇が島全体をすっぽり覆うような夜ふけ、2本の椰子の木にくくりつけたハンモックに寝そべって夜空を見上げたときの星空である。夜空の中に、キラキラと星が光っている、というようなものではない。大げさに言えば、満天にちりばめられた星と星の間を黒い夜空が埋めている、といった趣である。

  その時の星々には及ばないけれど、宮古島で見る星たちもなかなかに際立ったものだった。

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  読書メモ(最近読んだ本)

●「アンティキテラ 古代ギリシャのコンピュータ」(ジョー・マーチャント  文藝春秋)

1900年に、地中海の小島の海底から引き上げられたブロンズの塊。こびりついた緑青をはがすと、底からは沢山の歯車とギリシャ文字が現れた。それはまるで時計か計算機のように見えるが、そんなものが古代に製作できたのだろうか。数多くの科学者が次々に登場、その謎のブロンズの真相に迫ろうと悪戦苦闘する、その群像を描く。何よりも感服するのは、決して簡単ではない「歯車の仕組み」を映像ではなく、文章で説明しようとした筆者の執念。

●「ミッドウェー海戦」(牧島貞一 河出書房 昭和42年刊)

最近、戦記物にはまっている。名前は知っているけれど、その実際を良く知らない戦争の実際について、これを機にちょっと読んでおこうと思って手に取ったところ、はまってしまった。戦記物の筆者たちはみんな、生死の境を彷徨い、そののちついに生き残った強運の持ち主たちばかりである。当然といえば当然だが、生き残ったものだけが実録戦記を記すことができたのである。興味深いのは、この強運者たちの死生観はみんな共通して、面白いようにあっけらかんとしていることである。

●「新・作庭記」(丸山健二  文藝春秋)

和歌山の実家の庭に花壇でも作ろうと思って読み始めたが、全然「作庭記」ではない。作庭に仮託しつつ、身の回りの愚劣な人々やことどもに対する呪詛に満ち溢れた、まことに奇妙な本である。

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2009年5月31日 (日)

羽田空港のバカヤロー!!

  2年前の夏に、友人3人とサイパンへゴルフ旅行に出かけた。「3泊4日7ラウンドの旅」というすさまじいもので、焼けつくような太陽の下、午前1ラウンド、午後1ラウンドを苦行僧のように眉間にしわを寄せながらこなして、結局5ラウンド回り終えて発熱、腹痛でダウンした。

  その試練に比べれば今回は大したことはない(少なくともブログをアップしようという気持ちが残っているだけまし)が、しかし、腰と股関節がかなり悲鳴をあげている。

  土曜日、日曜日は悪友たちと、それぞれ札幌国際CC島松コース、恵庭CCへ。月曜日、火曜日と仕事をして、水曜日は会社のイベントに呼ばれて、よみうりカントリー倶楽部でラウンド。木曜の早朝8時の飛行機で宮古島へ。これは地元のリゾートホテルにご招待いただいて。で、金曜日の朝8時よりシギラベイCCでラウンド。南の島の陽光は5月とはいえかなり厳しい。 シャワーを浴びて休憩した後、夜の便で羽田へ。10時過ぎに羽田到着。帰宅したのが12時過ぎ。

   すぐに寝ればいいものを、なぜかゴルフシューズを抱いて風呂に入り、ボディソープと歯ブラシできれいに掃除。靴の内部もシャワーをかけてきれいにする。まことに気分爽快である。しかし、眠りについたのが1時半過ぎ。 翌朝6時に起床して、五日市CCへ。仕事仲間とのコンペに参加。小雨の降りしきる中かまわず強行。集中してがんばったおかげで3位に入賞。夕方帰宅してそのまま爆睡。翌朝8時まで眠る。

    本日、日曜日、鉛の詰まったような体をかろうじて起こし、なんとかベッドから這い出して、部屋をクイックルで掃除し、クリーニング屋へ行ったり、洋服を修理に出したり、東急百貨店で信州フェアーをやっているのでそこへ軽井沢ソフトクリームを食べに行ったりしながら、すでに夕方。おなじみの三鷹・ハイ・ファミリアで紅茶を飲みながらこれを書いている。

     今回特記しておきたいのは羽田空港の駐車場の大馬鹿ヤローぶりについてである。宮古島への便はANAであったので車をP3に駐車。「P3、5階、いるか、いるか・・・」と、駐車場所を忘れぬように、その階に掲げられた動物の名前を何度も繰り返しながら意気揚々と出発。

     しかし、なんという不運か、帰りはJALであった。カートにゴルフバッグやら旅行鞄を積み込み、さあP3駐車場へ、と思って案内板を眺めるが、P3の表示はどこにもない。P1、P2があるばかりで、P3に行くにはどうすればいいか皆目分らないのである。

      JALとANAとでは出発の際、建物が違うことは分っていたので、駐車場もそれぞれの建物に付属していて、P3は今自分が居る場所とはかなり隔たった場所にあるのであろうことは分かるのだが、そこへどうやって行けばいいのかの案内が皆無なのでさっぱり要領を得ない。

     夜も遅い。乗客も空港職員もほとんどいない。 と、そこへ制服を着て胸になんだかわからないバッジをつけた若い男性がやってきたので、丁寧に尋ねると、「一つ上の階に行けば案内が出てますよ。行けば分りますから」と言われてその気になって重いカートをゴロゴロ押してエレベータに乗り込み上がって見ると、周りは食堂ばかり。案内板もありゃしない。あの野郎、だましやがったなと思ってみても後の祭り。

     また、エレベータに乗り込み倒れそうになるゴルフバッグを左手で必死に支えながら、もとの階に戻って、やっと警備員に出くわしたので聞くと、「巡回バスに乗るか、B1の京急の乗り口の横にある長い通路を渡っていくしかない」と言う。巡回バスに乗るにはカートをあきらめて荷物をバスに載せるしかない、とも言う。外を見ると雨がザーザー降っている。

    仕方ない。B1で行くしかあるまい、と観念してまたしてもカートをゴロゴロ押してエレベータに乗り込み、B1へ。通路を見つけてゴロゴロ行くと、突然階段が目の前に現れる。「バカヤロー、どうなってんだよ、羽田はよ。想像力を働かせて設計しろよ、想像力を働かせて! ちょっと頭を使えば、カートにゴルフバッグを乗せた人はこの階段を登れないことぐらいすぐに分るだろうが!」と内心で怒鳴りながら、左右を見渡すとエレベータの標識が。 おお、エレベータがあった! とカートを押してその方向に向かう。

    ゴルフバッグは最初のうちこそ縦に積んでいたが何度も倒れそうになるのですでに横向きに倒して積んでいる。ゴロゴロとエレベータに近づくと、なんともちっぽけなエレベータでゴルフバッグを縦にしないと乗り込めないのである。ええい、バカヤローと罵詈しつつ、疲れた体でバッグを縦に立て、左手で支え、右手でカートの取っ手を下に押しながら(カートは取っ手を下に押さないとブレーキがかかって動かない)必死の思いで乗り込む。 ガタゴトガサゴソ。開いた扉が閉まりそうになるのを無理やりカートを押し出して防御しつつ、外に転がり出る。

   全く、もう! やっとの思いでP3に到着。エレベータで5階に上がり、車に荷物を積み込み、お次はカートをカート置き場に返却しなくてはならないのだが、これがまたどこにあるのか分らない。カート置き場くらいあちらこちらに設置して、C のマークでもデカデカと出しておいたらどうなんだ、といらだつ。

   ガラスに囲まれたスペースにカート置き場はあった。「カート置き場」の案内もまことにささやかに、わざと目立たないように配慮しているとしか思えない大きさで掲示されていた。しかもカート置き場にカートを納めるために、ガラスの自動扉を開けて入らねばならぬというおたんちんぶりである。そんなこんなで、10時半に羽田に着いたのに、家に着いたのは12時半。疲れた・・・・。

   一体全体、この手の公共施設のグランド・デザインは、どこのどいつが、何を考えてやっているのかと思う。一度、ゴルフバッグを4つほど車に積んで羽田の駐車場に泊め、ANAで宮古島に行き、帰りはJALに乗って羽田に到着してみろ、といいたい。もちろん、どしゃぶりの夜にである。そうすれば、羽田空港のグランドデザインがいかに狂気の沙汰かがよーく理解できるだろう。

   狂気の沙汰は何も、羽田空港だけではない。道路、それも高速道路、とりわけ首都高の無定見ぶりには驚くしかない。道路がドライバーに「死ね! 死ね!」と叫んでいる。が、この話になるとまた長くなるのでこれはまたの機会に詳しく書きたい。

   しかし、書いているうちにまた腹が立ってきた。

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2009年5月27日 (水)

「沖縄の最後」と「雷撃機出動」

  

   昭和42年に河出書房から刊行された「太平洋戦記シリーズ 雷撃機出動」(森拾三著)をアマゾンの古本リストの中から探し出して読む。42年前の本なので、定価も290円と安い。これまで戦記物などにまったく興味もなかったが、たまたま読んだ一冊がとても面白かったので、つい続けてシリーズを買ってしまったのだ。

  和歌山の田舎の実家の離れを建て替える際に、徹底的に屋内を整理したのだが、そのとき、同シリーズで「沖縄の最後」という本が本棚の奥から出てきたのだ。著者の名前を見ると、古川成美とある。

  あ、と思った。私は高校時代、古川氏の家に下宿していた。実家が山深く、通学にはなはだ不便なので、通っている高校の近くにある古川氏の家に居候することになったわけだが、古川成美氏はそのときどこかの高校の校長先生だったと思う。その古川先生がこんな本を書いていたとは、と驚いた。

  読み出すと、巻を措くことあたわず。太平洋戦争に従軍した兵士たちの生々しい体験が、ドクドクと鳴る血流が聞こえてくるほど鮮やかにそこに記されているのである。高校時代、ときに一緒に夕食を食べていたあの古川先生は、戦中こんな驚くべき体験をしていたのか、と今になって驚いた。

  本が刊行されたのは、昭和42年。終戦が昭和20年だから、戦後22年たっての出版である。原稿そのものが書かれたのはおそらくもっと前のことだろうから、人々の記憶や肉体の中に、戦争の傷痕がまだくっきりと残っていた時代に書き刻まれた文章なのである。文章の巧拙より前に、そこに書かれた事実そのものの迫力に気おされるのである。

  ああ、あの時、古川先生に戦中の体験を聞いておけばよかったなあ、と思うが、残念ながら、当時の自分には、そんなことはあまり関心ある物事ではなかったのである。

「沖縄の最後」を読了後、次に読み始めたのが上記の「雷撃機出動」。真珠湾攻撃にも参加した、海軍の雷撃機のパイロットである。ガダルカナル島での戦闘で右手首を失って戦線離脱。この本にも、信じがたい体験が素直な文章で書かれている。「死ぬこと」がこんなにカジュアルな日常があったのかと驚愕する。

  あとがきを読むと、筆者の森氏は、本が刊行されたころ、つまり昭和42年頃には、西荻窪の一角でささやかな酒場を営んでいる、と書かれている。私が上京したのが昭和46年。48,49年頃には西荻窪をうろうろしていたから、森氏と道ですれちがったり、あるいは店に迷い込んだりしたことがあったかもしれない。

  しかし、あれからもう40年。もはや従軍体験者の話を直接聞くことはできなくなってしまった。だからこうして、かび臭い古本を1ページ1ページ、緊張しつつ、大事に繰るしかないのであるが。

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2009年5月26日 (火)

吉永小百合さん、ありがとうございました!

  
    週末を利用して、いつものゴルフ仲間と、札幌へ「2泊3日2ラウンドの旅」に出かける。JALツアーズを利用すると、信じられないくらい安い。これでどうやって各社は利益を捻出しているのかと思う。ちなみに明細を書いておくと、羽田、札幌間の往復航空券、札幌グランドホテル2泊、ゴルフ2ラウンドすべて込みで約7万円!

  土曜日の夜はすすき野の羊肉の店で、メ~~と泣きそうになるくらい腹いっぱいラムを食べる。ミルクラムから始まって、各部位を食べつくす。ラムやマトンはあまり好きではないのだが、同行の3人が大好物だというので、うつむきながらご相伴する。

  食後、ホテルの部屋に帰ってシャワーを浴びるが、自分が羊臭いことがわかる。口の中はもちろんだが、体全体から羊肉臭が立ち上っている。深夜、トイレで小用を足すが、なんと、羊臭い!!!!

  コーヒーを大量に飲んだ後の小用のときに、コーヒー臭がすることは経験的に知っていたが、羊肉臭とは・・・・・。このトイレでの羊肉臭は、翌日の昼間まで続いた。羊さんは侮れないよ。

  考えてみると、この小用時の「羊肉臭」というのは、羊肉をたまにしか食べないし、あまり好きな香りではないので、こんなふうに敏感に感じてしまうだけなのかもしれない。実は牛肉やマグロを食べたときにも、味噌汁を飲んだときにも同様の現象は起きているのだけど、あまりに日常的なことなので慣れっこになっているだけなのかもしれない。

  西洋人が成田に到着したときには、鰹だしの匂いや醤油の匂いがすると言っていたのを思い出す。イベリコ豚もどんぐりばっかり食ってるからああいう香りになるのだろう。

  豚インフルエンザを恐れてマスクをしている人が多い。多くのレストランの入り口にはアルコールの消毒液が設置されている。その様を見ながら、ふと思った。現在は医学(科学)が進んだので、凶悪そうな新手のウィルスが豚に取り付き、それが人間に感染したという科学的事実が喧伝されているが、ひょっとして、過去にも似たような事象は少なからず起きていたのではないか、と。

  明治期、大正期、昭和初期。たまたま科学的技術が発達していなかったためにそのことを察知できなかっただけで、当時も同様に、鳥やら豚やら羊やらの体内で増殖したウィルスが人間に感染していたのではなかろうか。最近になってそのような事態が白日の下に晒されるようになっただけで、かつては何も知らないままみんな感染してしまっていたのではなかろうか。

  年配者がこの豚インフルに感染しにくいのも、彼らがその長い人生の途上のどこかで、すでに凶悪なウィルスに感染し、それを駆逐し、頑強な免疫力をつけたがためなのではないか。もちろんこれは、ド素人の勝手な疫学的妄想ですが・・・・。

  ゴルフは、土曜日には札幌国際CC島松コースを、日曜日には恵庭CCをラウンド。土曜日は雨が降り、うすら寒い最悪のコンディションだったが、日曜日はうってかわって絶好のゴルフ日和。暑くもなく寒くもなく、はるか彼方に恵庭岳を遠望しつつ、快適な1.5ラウンドをこなす。途中、どこかのバンカーでウェッジの52度を置き忘れたらしく、困り果てる。

  と、マスター室のカートがやってきて「お忘れ物です」とウェッジを届けてくれる。

「このウェッジ、吉永小百合さんが拾ってくださいました」
「え? ヨシナガさんて、あの吉永さん?」
「ええ、小百合さんです」
「後ろをラウンドしてらっしゃるの?」
「ええ、プライベートで」
「ふーん、あとでお礼に伺わなくては・・・」

  しかし、その後すぐに0.5ラウンドに突入したため、結局、吉永さんにはご挨拶ができずじまい。吉永さん、どうもありがとうございました! この場を借りて御礼申し上げます。

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2009年5月18日 (月)

金達寿著「日本の中の朝鮮文化」を読む

  かねてより、おかしいな、おかしいなと思い続けていた。

  週末、自家用車を運転して、関東のあちこちのゴルフ場に行く機会が多いのだけれど、郊外の、その地名標識を眺めながら、「これって、どう考えても日本語じゃないよなあ」と思うことが結構多かったのである。

  たとえば埼玉県にある嵐山GCに行くときには、東松山でICを下りて、新郷を左折、唐子、上唐子を曲がるのだが、「唐子」というのはどう考えても日本の地名ではない。というか、この地名が生まれた時に、この地域は、明らかに半島や大陸から訪れた人々の居住地域だったに違いない、と思われるのである。

  あるいは、五日市CCに行く際には、「あきるの市」を通過する。この「あきるの」というのも絶対に日本語ではない、と思った。住居表示は平仮名で「あきるの」だが、近くにある神社は「阿伎留神社」と表記する。音を聞くだけで、日本語じゃないなあ、と思わざるをえない。

  あるいは、千葉で「酒々井」という地名が「しすい」と発音するのだと知って、これも日本語としては奇異な読み方だと直感した。

  しかし、関東圏のこんな田舎に渡来人が住んでいた、というのも妙な話であるなあとも思い、自分のそんな推測を打ち消し、以後そう考えたことさえもすっかり忘れていた。

  ところが最近、古本屋さんで「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著 講談社 昭和45年刊)という本を見つけて読んだところ、先に書いた自分の直感が正しかったことを知って驚いた。しかも同書には「唐子」「あきるの」の地名が半島からの渡来人の居住地域であったと明言されているのである。たとえば埼玉県の「唐子」については、

<(・・・・・)河田楨『武蔵野の歴史』にこう書かれている。
   唐子という地名は七世紀に遡る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。

  そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須恵や今宿というところもあるが、東松山には新漢(いまきのあや)の高貴を祀ったものといわれる高負古(たかふこ)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。>(P125)

  また「あきるの」に関しては、

<(・・・・・・)須田重信『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。
   狭山の西南方面、多摩川から秋川が分かれるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸に阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも伝えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。>(P126)

  この「日本の中の朝鮮文化」という本は、金氏が独自に行った学術的調査を書物にまとめあげたものではなく、その手の本や資料を縦横に渉猟しつつ、関東に存在する、半島からの渡来人ゆかりの地を、氏が自らの足で訪ね歩くという紀行文の体裁をとっている。そういうわけで、やたらに引用の多い、というか、肝心の部分はすべて引用、という形の書物となっている。

  だから、先に引用した文章もほとんどが引用、つまり引用の引用というややこしいことになってしまっているが、そのことに慣れてしまうと、同書のなかには驚くべき知見があちらこちらにちりばめられている。「えっ? そんなこと、日本史の授業で習わなかったよ」というような。そんな一節をランダムに拾ってみるとこうなる。

<「朝鮮帰化人の移住が盛んに行われ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういう具合である。
  まず、『続日本紀』の716年、霊亀2年5月条のいわゆる1799人の高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)

<(狛江古墳の中でもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる) どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の放牧もさかんとなった(・・・・・)。
  中島利一郎『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(こま・高麗)といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものである(・・・・・)。>(P100)

<日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国神社、許麻(こま・高麗)神社などというのも(渡来人が日本各地に群居した・・・・・)結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、彼らがいかにこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。>(P104)

<武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし・韓モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信『関東の史蹟と民族』にはこうある。
  ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先づ上総の国には武射郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚ほ山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明しておくが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。>(P194)

  あまり長々と引用ばかりしていてもきりがないからこのくらいでやめるが、同書を読むと、関東には古代より半島からの渡来人が多く住み着いたため、地名、神社名、人名に朝鮮由来のものが驚くほど多く存在していることがわかる。初めて教えられることも数多い(日本の義務教育ではなかなかここまで詳しくは教えてくれないので)が、その中でも、<だいたいそもそも、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである(・・・・・)」>(P198)というくだりには目から鱗が落ちた。

  ええ、そうだったの? 古墳というのは日本の天皇のお墓だとばかり思っていたのに、そもそも古墳という墳墓自体が朝鮮文化の産物であり、そこに眠っているのはほとんどが朝鮮から渡来した王族なのである、というのである。知らなかった。考古学的には現在どのような定説が主流となっているのか知らないが、なるほど日本のの文科省はそのあたりのことを積極的には教えたがらない理由もなんとなく分かる。

  古代、自分が大陸や朝鮮半島に住んでいたとする。もちろん紀元前、昔々の大昔である。その時、飢饉や戦乱など、不測の事態が出来してその地に留まることができなくなったときどうするか。敵が押し寄せてきて、どこかに逃れなくてはならなくなったらどうするか。そんな切羽詰った状況に置かれれば、おそらくは家族を引き連れて、成功するかどうか分からない、エキソダスを試みるだろう。

  船に乗って、はるか南に大きく広がる島に逃げるであろう。もちろんその頃にはその島に日本列島という呼称もなければ、人さえろくに住んでいなかっただろう。海に隔てられたかの島は逃亡先としては最適だったに違いない。大陸や半島だけではない。南の島々からも流れ着いた人々もいただろう。

  いってみれば大昔の日本列島は、東南アジアの吹き溜まり、避難民のアジールだったのではあるまいか。つまり渡来人が渡ってきたのはなにも西暦5,6世紀だけのことではなく、先史時代から次々とあちらこちらから渡来人がやってきていたのではないか、という感想をこの本を読むと持たざるを得ない。

  極論すれば、現在日本人と呼ばれる人はすべて渡来人である。1万年前に来て住み着いた渡来人の末裔もいれば、1500年ほど前に渡ってきた渡来人の末裔もいる。そのすべては遺伝子的にシャッフルされてもはや出自は分からぬようになってしまっているが、どの人もこの人も、早く来たか遅く来たかの違いだけで、すべて渡来人なのではないか。

  通勤の電車の中で前のシートに座る見ず知らずの乗客の顔をつくづくと眺めると、我々は全員が「日本人」だと思い込み、これは日本人の容貌をしている、と無根拠に納得しがちだが、よくよく顔を見つめてみると、そこにははなはだしいバリエーションがある。朝青龍のような顔もあれば、金正日みたいな顔もある。ペヨンジュンみたいな顔もあれば林家ペーみたいな顔も、あるいは玉木宏みたいな顔の人もいる。日本人として、とてもひとくくりにはできない多様性があるように思う。それも我が国の位置が、東南アジアの吹き溜まりなればこそなのではないかと思わないわけにいかない。

  同書には、しばしば「朝鮮からやってきた帰化人が・・・」という表記が見られるが、この「帰化人」という言葉にも違和感を覚えざるを得ない。我々が理解する「帰化」とは「日本国籍でない人が日本国籍を取得すること」である。しかし、その意味で、当時の渡来人たちは「これから日本人になろう」と決意したのだろうか、という疑問は残る。だって、まわりじゅう渡来人だらけで、確かにずいぶんと早く来た人もいるので言葉が通じなかったりしたこともあっただろうが、全く違う国に紛れ込んでしまったという感覚は少なかっただろうと思うからだ。

<高句麗、百済(馬韓の発展したもの)、新羅(辰韓の発展したもので、のち弁韓の駕洛・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、1世紀のはじめごろであるが、7世紀の668年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗が亡び、遺民の多くは地つづきであった満州へ入って渤海国を打ちたてることになる。が、その一部はまた海を渡ってこの日本へやって来たものであった。>(P33)

  私が、赤坂の韓国クラブへ行くと、ホステスからいきなり韓国語で喋りかけられ、「いやいや、私は韓国語が分からないですから・・・」と制止しても、「なにしらばっくれてるのよ。顔観りゃわかるわよ」とあくまで韓国人として遇されるその理由も、80歳になる母親が、どうみても韓国映画に出てくるおばあちゃんにそっくりなのも、親戚のおじさんがチョーヨンピルに似ているその理由も、きっとそういうことなのだろうと、深く理解できてしまうのである。

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2009年5月12日 (火)

覚悟してろよ、スワローズ

  見つかったらしい。

   例の宝の地図を書いてボトルに入れて流した張本人が。この一つ前のエントリーで新聞記事を引用したので、詳細はそれをお読みいただくとして、その新聞記事を読んだ親御さんが「うちの子供が流したものではないでしょうか」と海上保安部に連絡をとったらしい。流したのは小学生。保安部の逞しい海の男たちはこの子を船に招待して、楽しい一日をプレゼントしようと手ぐすね引いて待っているらしい。とにかく、よかった。

   さて、この週末は和歌山に帰省。完成に近づいた「離れ」をとくと観察。なかなか良いできばえで、満足。「とにかくオレには金がない。金はないけど、母親が人生の最後の穏やかな日々を過ごすための家を作ってやりたいんだ。だから、そこのところを何とか頼む」という、強引&わけの分からない懇請で工務店の社長をかきくどき、最低価格の家がついに完成寸前。エントランスには、かわいい花壇まで作ろうというのだから、私も変わった。でもまあ、よかった。

   よくないことが一つある。まだ、人が住む前なのに、空気孔の覆いの上にツバメが巣を作ってちゃっかり2羽でそこに棲みついてしまっているのである。2羽で一生懸命藁くずのようなものを拾ってきては巣を補強している。犬走りのコンクリの上にウンチをたらしていたりする。

   コノヤロー、人がまだ住む前にあつかましいヤローだ。ぶち壊してやる、と息巻いていると、妹が「まあまあ、ツバメさんが住みたくなるような家なんだから、きっといい家なのよ。幸せを運び込んでくれてるんだから、そのままにしておいてあげましょう」とグリム童話みたいなことをいうのでなんとなく気勢をそがれる。

   仕方がないから、今回は多めに見てやろうと思う。しかし、冬になったら、はしごに登って、水をかけてふやかしたのち、きれいに取り除いてやろうと思う。覚悟してろよ、スワローズ。

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2009年5月 8日 (金)

「人間に対する愛」がそこにあるから

  
    いいなあ、こういうニュース。この記事を書いた報知の記者もえらいけれど、その妙味を認めて配信させた上司もえらいと思う。

  こういうほのぼの系の記事を書くのはとても難しい。ほとんどの記者は、このテの事実を知っても、「こう書けば記事なる」と直感的に悟ることはないだろうと思う。

  しかしこの記事を書いた記者は、そうではなかった。面白みのツボをきちんと掴んで楽しくまとめている。こういう眼差しのある記者の書いたものは信用していいと私は思う。何よりも「人間に対する愛」がそこにあるからだ。では、引用開始。

<ペットボトルの中に「たからのちず」差出人だぁれ?

  5月8日8時1分配信 スポーツ報知
 
  神奈川県横須賀市の横須賀海上保安部の船着き場に、4月に漂着したペットボトルの中から「たからのちず」と記された紙が見つかり、7日、同保安部が公開した。小さな子どもの筆跡ながら、「たからのしるし」として、ドクロマークで3か所もの宝の隠し場所を示す内容。同保安部では今後差出人を捜し、見つかれば「そのお宝とは何なのか?」を尋ねた上で、記念品の贈呈や巡視艇の体験乗船などのプレゼントを考えているという。

 「たからのちず」「こたつ」「ゆうたへや」-。巡視艇の乗組員たちも興味津々の“お宝マップ”が発見された。地図は1枚で、B5判の白い紙に鉛筆書き。部屋の間取り図のようにも見え「たからのしるし」として、ドクロマークが3か所記載されている。

 横須賀海上保安部の管理課によると、地図が見つかったのは4月22日。東京湾内を巡る巡視艇「ゆうづき」乗組員が出航前、プロペラに絡まったりするのを防ぐため、網で周辺のゴミを取り除く作業をした際、500ミリリットルのペットボトルが交じったという。

 乗組員はペットボトルの中に手紙のようなものを発見。2つに折った後に丸められた紙を取り出して開いてみると「たからのちず」の文字が。乗組員8人の船内で、思わず「宝の地図を見つけた!」と声を上げたという。

 地図を拾った乗組員は、数日後に管理課に提出。同課では地図を吟味した結果「ゆうたへや」「なつベット」「しょうくん」と書かれていることから、「差出人は3人兄弟」との見方を強めた。

 ただし「どの方面から流れてきたかは全く分からない」という。ペットボトルのキャップにはJTのお茶「辻利」の文字。JTによると「2007年9月から、全国的に販売されている」商品で、宝のありかの手がかりは、あまりに薄い。

 同課では差出人が分かり次第「まず、宝が何なのかを聞きます。こちらから宝を探しに行きたいぐらいです」。差出人の年齢などを考慮した上で、記念品の贈呈や巡視艇の体験乗船などを検討しているという。

 問い合わせは同保安部まで。(電)046局861・8366 >

  というわけなので、何か手がかりを知っている方は、是非上記の電話番号にご一報いただきたい。

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2009年5月 1日 (金)

トラベラー・バッグ・ガールズ

  

  最近、気がついた。ひょっとすると、気づくのがかなり遅いのかもしれない。

  若い女性が、小さくてかわいいトラベラー・バッグ(底にキャスターが付いていて、取っ手が、孫悟空の如意棒みたいにぐいーんと伸びるバッグのこと)をコロコロ引きずって歩いているのである。

  最初は、地方から東京見物に来た女の子がホテルに向かっているのかな、と思っていたのだが、どうも様子がおかしい。だって真昼間に、麹町をコロコロさせている子がいるかと思えば、午前中に三鷹のバス通りをコロコロ引きずっている子がいる。

  ひょっとして、新手の風俗嬢なんだろうか、とも考えたが、それにしては妙におしゃれである。となると職のないニートさんで、インターネットカフェで寝泊りしてるのかな、ブリトニーとかいう女性漫画家みたいに、とも思うが意外に清潔そうである。

  いろいろ思案した結果、私的には、「これは、若い女性の最近のファッションであろう」という結論に達した。しかし、ファッションだとするとはなはだ面倒なファッションではないか。
 
    一時期、頭の悪そうな青年が、子供の頃に乗った「足こぎ二輪車」(なんと呼ぶのか知らないが、きっと英語のおしゃれな呼び名があるに違いない)みたいなものを大事そうに抱きかかえて電車に乗り込んできたことがあった。電車から降りると、それに片足を乗せて、ホームをすいすい転がって行った。

    落ちろ! 線路に落ちろ! 馬鹿は電車に轢かれてしまえ、と強く念じたが、祈念むなしく若者はすいすいと先に進み、見えなくなってしまった。最近ではあの「足こぎ二輪車」もすっかり見なくなったが、あれも随分と不便なファッションだったなあ、と思う。

    というわけで、このトラベラーバッグのはやりも早晩廃れることになるだろう。しかし、おじさんは知りたいのだ。あのバッグの中に何が入っているのだろうか。一体全体、どこがおしゃれだと思って、あんなものを引きずっているのだろうか。

    世のトラベラー・バッグ・ガールズよ、教えてくれないか。
  

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2009年4月21日 (火)

不肖・宮嶋、高円寺「沢」で嘆く

  
    高円寺駅のガード下にある「お好み焼き・沢」にて、不肖・宮嶋とお好み焼きを豪食する。といっても、往年のすさまじい分量はもうふたりともこなせなくなっているが。先日、丸ビルで宮嶋氏は講演会を行い、講演内容にふさわしくない多額の謝礼をもらったようなので、それでオレにお好み焼きをおごれ、という強要が昨晩実を結んだのであった。

  豚ペイ焼、鳥皮焼、にんにく焼(あ、だから、朝起きたら部屋の中が猛烈に臭いんだ!)、豚タマのお好み焼き、野菜炒め、焼うどん、牛タン焼、ねぎ焼くらいは思い出せるが、あと何を食べたかは酔っ払っていてよく思い出せない。飲めないのに、生ビールを2杯も飲んだし・・・・。ダイエットをしようしようと思っているのに、こんなじゃあ、とてもダメだ。

  酒席の話題は、老母の面倒をどうすればいいか、という20年前の二人には思いつきもしなかった話題である。つらくて厳しいテーマである。

  もうひとつの話題は、最近の若者はいかにアホか。不肖・宮嶋に憧れてアシスタント志望で若者が次々とやってくるらしいが、どいつもこいつも使い物にならん、という話を氏は延々と語る。「最近の若者は・・」と口にし始めたらすでにそのひとはおっさんであるが、すでにふたりとも立派な、押しも押されもせぬ、筋金いりの、オッサンである。

「きみ、僕のとこにアルバイトしに来たいのは分かったけど、将来は何がしたいの?」
「はあ、映画製作です」
「おお、映画か。そんじゃあ、『トラトラトラ』は観たか?」
「はあ? 『トラトラトラ』ですかあ?」
「おお、そうや、知っとうか?」
「いいえ」
「なにい、そんなことも知らんのか。そんじゃあ、真珠湾攻撃発令時の暗号は?」
「はあ? 何ですか、それは」
「真珠湾攻撃は知ってるよな」
「はあ、いいえ」
「なにい! そんなことも知らんのか! そんじゃあ、『トラトラトラ』というのは何だと思ってるんだ」
「掛け声じゃあないんですか。ワッショイワッショイ、みたいな・・・・」
「・・・・・・・・・・・」

  という凄まじい世代間格差というのか、ミリタリー・リテラシー格差というのか、そのようなものに遭遇し、不肖は言葉少なに、「もう、日本は終わりでっせ」と呟くのだった。

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2009年4月20日 (月)

内田樹氏の「Googleとの和解」のテクストを読んで

  09年3月23日付けのご自身のブログで、内田樹氏は「Googleとの和解」と題して、著作権についてのお考えを開陳しておられる。一読して、得もいえぬ違和感を覚えたので、そのよって来るところについて書いてみたい。なんだか、とても長くなるような予感がするけれど・・・・。

  その前に、「Google問題」とは何かについて、コンパクトにまとめておきたい。これが理解できないと、内田氏が何を言っているのか、理解に苦しむからだが、とはいえ、この問題は、簡潔にまとめるにはかなり骨が折れるしろものである。この際だから、Google問題を整理しておきたいので、本論に関係ないところまで詳しく書いてみる。関心のないムキには、まったくどうでもいいことのように思えるだろうが、しばしご辛抱を。

  インターネット上の検索エンジンとして有名なGoogleを運営しているのがアメリカ合衆国のソフトウェア会社Googleである。同社は、「人類が生み出した全ての情報を集め整理し、検索できるようにする」という気宇壮大かつ稚気溢れる使命感をもって1998年に設立された。

  2004年、同社の使命を実行すべく、Google社は、提携したいくつかの図書館(ハーバード大学、スタンフォード大学、ニューヨーク公立図書館など)に収蔵されている図書を、著作権者の許諾を得ることなく、片っ端からスキャン開始。これまでに700万冊をスキャンし終え、電子書籍のデータベースを構築、書籍検索や抜粋表示に利用してきた。

(ここで注意しておくべきは、同社の収益の大部分は、アドワーズなどのリスティング広告の収入に依存しており、当然ながら、上記の電子書籍データベースを活用した検索結果表示に対しても、それを利用した広告が表示されたという事実である。つまり、端的に言えば、Google社は、著作権者に許諾を得ることなく蓄積した書籍のデータベースを活用してすでに金儲けをしてきた、ということである)

    Google社のこの行為に対して、アメリカ作家組合(authors guild)とアメリカの有力出版社5社は、さすがに業を煮やし、2005年の秋に、「著作権侵害である」として訴訟を起こした。これに対して、Google社はアメリカ著作権法107条の「フェア・ユース(公正な使用)」にあたると反論。

    この「Google書籍検索訴訟」の和解が昨年の10月に成立。ニューヨークの下級裁判所を介しての「和解」なのだが、ここからがこの話の凄いところであり、かつはなはだハタ迷惑なところなのである。よーく、目を凝らしてお読みいただきたい。

    今回の訴訟はクラス・アクションとして和解に至った。はてクラス・アクション(class action)とは? とお思いだろうが、これに完全に合致する法的概念は日本には存在しないらしいのだが、あえて言うと「集団訴訟」。つまり、アメリカ作家組合とアメリカの有力出版社5社が起こしたこの訴訟は、「世界中の著作者と出版社を代表して起こした」訴訟、ということになるらしいのである。

    日本人も、イギリス人も、フランス人も、ドイツ人もだーれも頼んでもいないのにアメリカ合衆国にお住まいの何人かが「その代表」として訴訟を起こし、その結果成立した「和解」の効力が他の国の人々も及ぶことになった、というわけなのである。

    一般化して言うと、クラス・アクションとは、訴訟に参加している当事者と利害が共通する関係者は、その訴訟に直接参加していなくとも、裁判の判決や和解案などの効力が自身に及んでくるというアメリカ独特の訴訟制度のことなのである。

    世界のほとんどの国が批准している、著作権に関する国際条約であるベルヌ条約に基づいて、日本の著作権者はアメリカ国内においても著作権を有し、保護されることになっているので、今回の和解の効力は、日本在住の著作権者、出版社にも及ぶことになったというわけなのだ。

  さて、では日本の著作権者はどうすべきだと今回の和解は告げているのか?

 「和解」文書は以下のようなことを提示し、世界中の著作権者に対して、本年の5月5日までに自身の態度を表明せよ、と言っている。まことに急な話である。

   2009年1月5日以前に出版された書籍について、

① 著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合はどの程度かを表明する権利を持つ。
②Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入、およびその他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取ることができる。
その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館や教育機関には無料で)頒布することができる。ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲覧できる。
③既にスキャンしてしまった著作物については、請求があれば1冊につき60ドルを受け取ることができる。

    その他にも、こまごまといろんなことが書かれているのだが、それはすべて、どのような条件を満たせば、Googleはスキャンした書籍のデータを自社のビジネスに使用することができるか、という話である。(実はこの和解文書の中には、法律の専門家でさえ、いったい何を言っているのかさっぱり分らない部分がかなり存在しており、その内容を完全に把握することは、現時点で困難であるらしい。無茶苦茶な話である)。

    さてそれに対して、日本の著作権者はどのように対応することができるのかというと、「和解に参加する」か「和解に参加することを拒否する」の2通りしかない。

    もっと詳しく書くと、

① 和解に参加し、Googleによる著作物のデータ使用を全部認める。
② 和解に参加した上で、
(a) 表示使用から自分の著書を除去させる。
(b) 表示使用から自分の著書のうち、特定の書籍を除去させる。
③ 和解に参加することを拒否する。(今年の5月5日までに申し立てる)
④ 和解に対して異議申し立てを行なう。(今年の5月5日までに米国の裁判所に異議を申し立てるか公聴会への出席希望通知を出し、公聴会で意見を述べる)

    とまあ、整理して書いているだけでもわけが分らなくなるのに、こんな内容をいきなり英文で突きつけられた(実際的には各出版社が日本語化したようだが)、当事者である日本の著作権者の皆さんの「苦虫の噛み潰しよう」を想像すると気の毒に思わざるを得ない。もし私が著作権者だったなら、一言「ふざけんな!」とののしって、和解文書を破り捨てただろう。

    もし、そのように破り捨てたらどうなるか? それこそGoogleの思う壺なのである。破り捨てた途端に、その人の著作物は「和解」の対象外と認定される。そうなると、どうなるか? Googleは自分たちの行為は「フェア・ユース(公正な使用)」であるという従前の主張を維持して、これまで通り、「破り捨てた」著作権者の書籍のデジタル・データを使用するだけでなく、今後もどんどん彼の著作物のデジタル化を推し進めていく可能性が高いのである。

    Googleは何のためにそんなことをするのか? 表向きには「フェア・ユース」を標榜して、人類の知的資産を全人類が平等に簡便に活用できるように、というだろう。確かにそういう一面がないとは言わないが、実際的には自社のビジネスをより一層強固にするため、であることは自明なことであるだろう。

    つまり、そうされることがいやなら、地球上の著作権者は、否が応でもまずはこの和解に応じるしかない、という無茶苦茶がまかり通っているのである。しかも、ニューヨークの地方裁判所が仲介した単なる一和解案であるにもかかわらず、世界中の著作権者がただ今現在、これに振り回されているのである。そんなことがアリなのだろうか。

    たとえば、和歌山地方裁判所で成立した、日本の著作権者と、どこかの検索エンジン業者の「和解」が世界中の著作権者にその効力を及ぼすことがありうるだろうか。もしそうしたとして、米国の著作権者および出版社はそれを尊重するだろうか。たぶん、一顧だにしないような気がする。ここにアメリカの驕りというか、夜郎自大というか、オレ様ぶりが如実に顕在化しているような気がする。いわば文化的帝国主義である。

    それとともに思わざるを得ないのは、アメリカ社会の振幅の激しさのことである。ある傾向が生じると、極端にまで行き着くまでその傾向はとめどなく増進する。サプリメント信仰しかり、反イスラムしかり、反共産化しかり、デジタル化しかり。今回の一件を眺めていて分るのは、社会のある傾向(なんの傾向でもいいが)が極端に走ることを制御するブレーキがないことなのである。

    極端に行き着くまで行って、不都合が生じるとゆり戻す、というのがアメリカ社会の特徴である。今回も同様で、不都合が生じたので訴訟が起こされた。裁判沙汰になるまでは、基本的には「どうぞ、自由におやんなさい」という自由放任主義がアメリカ社会の根底には横溢している。それが社会秩序を揺るがしそうになると、「司法」が強権を揮って「社会秩序」の再構築に努めるのである。だからこそ、訴訟社会になるのだろう。

    一方、わが国はそうはなっていない。アメリカ合衆国で「司法」がその任を負っている「社会秩序の形成」は、日本では「立法」がその任を負うているのである。社会が極端に走り出す前に法律がそのブレーキの役目を果たす。この「司法」国家と「立法」国家の違いが、今回の一件にも大きく影響していて、事態の理解をより困難にしているように思う。

    話が大いに脱線した。ここでやっと、内田氏の主張にたどり着くのである。今回のこのGoogle問題に関しての内田氏の意見、主張を、氏のブログを引用しながらまとめると以下のようになる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。(・・・・・・)私の場合は、テクストを書くことで「一円でも多く金を稼ぎたい」ということより「一人でも多くの人に読んで欲しい」ということの方が優先する。
ただ、私はそれを原理主義的に主張しているわけではない。「専業物書き」が職業的に成立しなくなると、読者は困る。すぐれた書き手が書くことに専念できる環境は読者の利益のためにもぜひ担保すべきものである。
そのためにはテクストの「交換価値」を生み出すための市場が必要である。
しかし、テクストは商品ではない。
テクストを商品と「みなす」のは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、テクストを書き、読む快楽が増大する確率が高いからである。
「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。自余のことは、その快楽を増進させる上でどれほど効果的かという尺度に基づいて考量されるべきである。(・・・・・・)著作権の保護が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成するし、ウェブでのテクスト頒布が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成する。著作権の保護とウェブ上でのテクスト閲覧が背馳するなら、そのどちらか、より「テクストを書き、読む快楽」を増進させる方に私は賛成する。(・・・・・・)私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。(・・・・・・)著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。
そういう「プロの物書き」が多数存在することは事実であるけれど、私は彼らを「物書きのデフォルト」とみなすことには同意しない。>

  例によって、明晰だけれどややこしい主張をもう一段要約するとこうなる。

<「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。その快楽がより増進されるかどうかで、WEB上でのテクスト頒布の是非を決するべきで、「経済的利益が損なわれるか否か」で決めるべきではない。>

  以下に何ゆえに違和感を覚えたかを書く。

    まず、指摘しておきたいのは「テクストを書く快楽」と「テクストを読む快楽」は必ずしも一致するものではない、ということである。ここで急いで「テクスト」とは何かを定義しておくと、「テクスト」とはある作者が書く文章のことである。

    例えば、内田氏がご自身のブログに気ままに書いているのは「テクスト」という名の一次作物である。内田氏ご自身は誰に頼まれたわけでもない、自発的に書きたいことを書いているわけだから、大いに「テクストを書く快楽」に浸っておられるに違いない。しかし、そのテクストがそのまま「読む快楽」に直結するかというと、失礼ながら、そんなわけでは全くないのである。

  内田氏の熱烈ファンは氏のブログを楽しみながら読んでいるだろうが、殆どの読者が氏の文章に接し、「読む快楽」を得ているのは、氏の「テクスト」からではなく、実は「書物(本)」からなのである。

「書物(本)」は「テクスト」をそのまま紙にインクで印刷したものではない。「書物(本)」というのは、内田氏が日々生産する一次作物的テクスト(その中には読むに値しないものもあれば、つまらぬもの、下らないものも混在している)の中から、「読む快楽」を齎してくれるであろうテクストを、編集者という名の共同作業者が取捨選択し、順番を決め、タイトル、リードを付し、本の体裁(大きさ、紙質、デザインなど)を勘案し、ついでに宣伝方法を考えてその費用を捻出し、営業的にも、この書物がより多くの読者の手に届くように各方面に活動を繰り広げる、そうした一連の行為の末に誕生する物なのである。

  だから、極論すれば、内田氏の本は、専一的に内田氏ただ一人によって生み出された作物ではなく、それが世に出、多くの人々の手中に納まるまでには多数の人びとの知恵と労力がそこに注ぎ込まれているのである。

  それだからこそ、「本」は「商品」なのである。それに見合った対価を得ないと、良質な「本」は産まれない。物書きは片手間でできるだろう。大学教授をしながら、銀行員や医師をしながらでも文章は書けるだろう。しかし、編集者は片手まではできない。その全生活を編集に捧げないと編集者は務まらないのである。優秀な編集者は、書き手が費やした何倍もの時間と労力を、その編集のために費やす。その行為によって「読む快楽」を与えてくれる「本」は誕生するのである。編集者は自らが生み出したその商品によって経済的利益を得なければ、他に生活を支える方法はない。だから「本」は「商品」なのである。「本」は「商品」になることによって初めて「本」になるのである。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」なるご本をお書きになったのだから、そのぐらいのことは重々ご存知のことと思っていたが、あるいは、ほうっておくと唯我独尊的に生き急ぐ傾向がご自身に抜きがたくあるものだから、それへの戒めとしてこのご本を上梓されたのであろうか。
  
  最後に、予言的に書いておきたい。WEB上でのテクストの発表は、ここで私がどうがなろうと、世の趨勢として強まっていくだろう。そうして、テクスト制作者はより簡便に、そのテクストを世に頒布するようになるだろう。しかし、残念ながら、かつての書物に匹敵する内容を備えたものはこの先もはや産まれないと断言してもいい。ただ、貧しいテクストがインターネットの海の中にやみくもに漂うようになるだけである。

  内田氏は先の文章の冒頭でこう書いておられる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。>

   そこまでおっしゃるなら、どうぞ、実行してみていただきたい。「あらゆる措置」とおっしゃるならば、書店で無料で配布することである。その費用は当然、ご自信の負担となるだろう。

   その時、心ある編集者たちは、一人去り二人去りするであろう。そうなったとき、果たしてそこに「読む快楽」を十全に与えてくれる書物が誕生する余地があるものかどうか、お考えいただければありがたい。

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2009年4月15日 (水)

写真を撮るように本を読むということ

  
    ラジオの読書の番組で、ナビゲーターの児玉清さんが、リスナーからの「どうすれば本を早く読むことができるようになりますか?」という質問に答えて、いつものように、あー、それはですねえ、という紳士的な口調でこんな風に語っていたのを聞いて驚いた。

「それはですねえ、カメラで写真を撮るように読めばいいんですよ。見開いた2ページをぱっと頭の中に入れちゃう。そうすると、大体分かりますよ。新聞なんかもぱっと見て情報を頭の中にいれるでしょ。それと同じです」

  それを聞いて、ははあ、児玉さんもレインマンなんだ、と思った。レインマンというのは1988年に公開された映画のタイトルで、サヴァン症候群の人物を主人公にした物語。ダスティン・ホフマンが主人公を演じていた。

    いや、もちろん、児玉さんがサヴァン症候群に罹患しているといいたいわけではない。そうではなくて、とても特異な能力を備えている人なんだなあということが分かったということなのである。その証拠に、児玉さんは誰でも「カメラで写真を撮るように読む」ことができるものだと思っている。しかし、そんなことができるわけないじゃないの、というのが私を含めて、ごくごく普通の人の反応なのではなかろうか。

    その前に「サヴァン症候群」説明しておかなくてはいけない。ウィキペディアの解説によると、<知的障害や自閉性障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者の症状を指す。「savant」は、フランス語で「賢人」の意味である。>

    あわてて断っておくと、当然ながら児玉さんが知的障害者であるといっているわけではない。むしろ、「常人には及びもつかない能力」をお持ちだと言いたいのである。サヴァン症候群の人びとが備えている超人的能力というのは、これまたウィキペディアを引用すると、

<●特定の日の曜日を言える(カレンダー計算)。ただし通常の計算は、1桁の足し算でも出来ない場合がある。
●航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起すことができる。映像記憶。
●楽譜は全く読めないが、1度聞いただけの曲を、最後まで間違えずにピアノで弾くことができる。
●書籍や電話帳、円周率などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。
●芸術性の非常に高い作品(絵画、彫刻など)を作ることができる[1]。
●並外れた暗算をすることができる。 >
  
    この中の「映像記憶」というのが、児玉さんの言う「写真を撮るように本を読む」という能力のことで、実は、この能力を備えている、あるいはどうも備えているように思えるという人が、確かにときどきいるのである。
  
    その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。

    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。
  
    そんなことが一度ならずあった。
  
    世の中には、つくづく、もの凄い人がいるものだとその時に思った。それ以来、その手の方々は私の中では「レインマン」とカテゴライズされ、私の人物帳にはそのように登録されている。児玉清さんも今日からその仲間入りである。

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2009年4月12日 (日)

桜の花の、その下で

  春爛漫である。和歌山の草深い田舎でぼよよーんとしていると、のんびーりした気持ちになる。こういう様子を、昔の人は「命の洗濯」とか「キンタマのしわのばし」などと呼んだ。実に適切な表現ではなかろうか。

  2月から建て始めた「離れ」が8分がた出来上がったので、そのチェックのために金曜日の夜に帰省。土曜日にはレンタカーに乗って御坊のホームセンター「コメリ」に出掛け、白いプラスチックの椅子を買ってくる。980円なり。

  これを庭に据えて、ぐでんと座って庭を眺める。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、ゆで卵を作って、庭で食べる。春らしい陽光が胸や膝に降り注ぎ、乾いてなまぬるい風が首筋をなでていく。

  見たこともない小鳥があわただしく飛び回って、グリリリリと、これまた聞いたこともない鳴き方でさえずっている。蜂が、大きいのから小さいのまで各種、ぶんぶん飛び回っている。この時とばかり、花に頭を突っ込んでいる。特に庭の中央に大きく育った濃いピンクの小さな花がびっしり咲いている花蘇芳(はなすおう)の周りには、朝から蜂君たちがせわしない。

  庭の西南に大きな桜の木が立っている。私が中学校に入学したとき、その記念にと母親が植えたものが、すでに巨木と化している。18歳の年に郷里を離れたが、そのころには桜の木が植えられた理由も知らなければ、そもそも桜の木がそこにあることも知らなかった。だから当然、桜の花を愛でたことさえなかった。

  なのに、今は、散り急ぐ桜の花を、ぼーっと眺めながら、時の過ぎ行くさまを呆然と見送る愉しみを身に着けたように思う。なんといえばいいか、竹内マリアの「デニム」な感じと言えばいいか。

  満開の桜を眺めるのも、はらはらと散り急ぐのを見上げているのも嫌いではない。今年も、隅田川の墨堤で、四谷の土手で、千鳥ケ淵の公園でピンク色の光りを楽しんだ。

  今、自宅は三鷹の下連雀にある。朝家を出て、玉川上水沿いの通り(「風の通り道」と名づけられている)に出る。出た場所が、今から61年前に太宰治が入水自殺した現場で、そこには記念碑が立っている。そこから駅まで約5分。ずっと続く桜並木の下を歩いていく。

  上水側の歩道は、信号もなく、自転車も、自動車も通らず、ただただマイペースで、右手にせせらぎを感じつつ、頭上の桜を振り仰ぎ、土手に咲き乱れるかわいい白い花や、誰かが植えたチューリップを見ながら歩き続けることができる。言ってみれば、「毎朝がお花見」状態で、極めて愉快である。

  こんな快適な通勤路は、東京中探してもそうないだろうと思う。玉川上水の南側は三鷹市、北側は武蔵野市なのだが、明らかに三鷹市のほうがこの「風の通りに道」の環境整備に力を入れている。ということはつまり、お金をかけている。

  歩道を整備し、電線の地中化をすすめ、桜並木の手入れをし、満開のシーズンには街灯に特別に設置した電灯でライトアプしてみせる。三鷹市の住民としては、うん、確かにわしの住民税が有効に使われておるわい、と実感できて大変満足である。あまり誰も言わないけれど、三鷹市下連雀は極めて快適な土地だと思う。

  というわけで、本日は、まるでご隠居様のような、のんびーりした桜話に終始したが、この境涯がご隠居様ならご隠居様も悪くないな、と思わないわけでもない。数時間後には東京行きの飛行機に乗って、またあわただしい日常に帰るが、これからは御隠居様気分で行ってみよう。東京に戻ったら、のんびりと中目黒の目黒川沿いの桜でも観に行こう。

  そんなことを考えるのもこの頃、内田百閒にはまってしまい、あのなんともいえぬうねうねした文章の虜になってしまっているせいもあるかもしれない。これからは、百鬼園先生に倣って、「可憐で、おちゃめな、クソ爺」にGO! である。   

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2009年4月 2日 (木)

「東京オリンピック招致」中吊り広告の駄文

  しばらく前のブログで、電車の中吊り広告に、「東京オリンピック招致」を目指すものがあって、その文章がろくでもないものだった、と書いた。そのろくでもない広告に、再び車中で出会ったので、急ぎ携帯で撮影。その画面をじっと目を凝らしながら書き取ったのが以下の文章である。

  いったいこれはなんなのだろう?
   
  何が言いたいのだろう? 分かりますか? すんなりと。

< 来ますよ。
21世紀の東京オリンピック。

日本経済は必ず復活します。
いつ、その時がくるのか。
どうすれば、より早く来るのか。
日本人自身が、日本のよさに気づくこと。
世界の人にそれが伝わり、日本に注目が集まること。
   2016年の開会式当日までの7年間
   新しいエコの取り組みと日本の経済力に、
世界は感心するでしょう。
パラリンピック選手をお迎えするために
街全体をバリアフリー化しながら準備を進める。
その姿に、世界はなるほどと思うでしょう。
それが、自然を尊敬し、平和を求める国、日本の
あたらしいオリンピックです。
2016年東京オリンピック・パラリンピックには
莫大な経済効果があります。
でも、それ以上に大切なのは、
気配りや、おもてなし、もったいない、安全世界一、
といった日本らしいオリンピックで世界を結ぶことで、
大人が自信を取り戻すこと。
それを見た世界の子供たちに夢を与えることです。

さあ、東京オリンピックで、
日本は世界を結びます。>

 何度読んでも、はっきりと分からん。支離滅裂である。「オリンピックを招致することには経済効果がある」ということを言いたいのかと思ったら、「そうではない。それ以上に大切なことがある」という。それは何なの? と問うと、「自然を愛し、平和を求める姿を内外に誇示することである」という。そうすることで、大人は自信を取り戻し、それを見て子供も夢を抱くことができるようになる、というのである。はあ、そんなもんですかねえ、と首をひねっていると、いきなり「2016年東京オリンピック・パラリンピックには莫大な経済効果がある」とまた、わけのわかんないことを言い出す。

  いったい何を言いたいんだよ、と普通の人ならば怒り出すだろう。誰が書いたんでしょうね、この文章。私が想像するに、最初の文章はこのようなものではなかったろう、ということ。多分、どこかの代理店のコピーライターが書いたに違いない。

  で、これでどうでしょうか、と代理店の担当者がクライアントのところへ持って行ったところ、「だめだ、こんなんじゃ」とクライアントのボスが自分でガシガシと赤を入れたのではなかろうか。出来上がった文章がろくでもないものだということは、周りの誰もが気づいたが、誰一人ボスにそう忠告することもがきない。で、結局そのまま印刷されてしまった、という次第なのではないか。

  もちろん、想像である。しかし、そうとでも考えなければ、こんな駄文を、高い金を払って(多分、東京都民の税金だろう)、電車の中のワイドの中吊りに印刷したりしないだろう。

  文章の出だしに、「来ますよ。21世紀の東京オリンピック」というコピーがあるが、ここでは「来る」と漢字を使用しているのに、そのすぐ後の「いつ、その時がくるのか」の「くる」は平仮名。この統一性のなさは、普通では考えられない、のである。さて、そのボスって誰なんでしょうね?

  話題は変わって、ジル・サンダーがユニクロの服を作る、という話。早くこの服を着てみたいが、この洋服のブランド名を思いついたので、いち早くここに記しておきたい。2009年4月2日記、である。ジル・サンダーがデザインしたユニクロの名は「ジルクロ」! これで行きましょう!

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2009年3月26日 (木)

アカペラとプエルトリコ

 
  いつの間にか、間違えて覚えてしまっている言葉がある。
 
 たとえば、「アカペラ」。これは歌手が伴奏無しで歌を歌うこと、と理解しているが、正しくは「ヨーロッパの教会音楽の一様式」。アカペラはイタリア語のa cappellaで、英語だと in chapelに相当するんだという。意味は当然「聖堂にて」ということになる。
  
  私は長い間、「赤ペラ」だと思っていた。なんなの、赤ペラって? と思われる方もいるだろう。ご説明しよう。「赤」は「赤貧」のように、「非常に、とても」といった意味で、「ペラ」は「1枚の紙切れ」、そこから転じて、「何も記されていない楽譜」のことなのである。だから、「赤ペラ」は「全く白紙の楽譜」の意で、要するに、無伴奏で歌を歌うこと、になるのである。
  
  すごいこじつけでしょ。でも長い間勝手にそう理解していたのであるから、無知というのは恐ろしいものである。だから発音する場合にも、「ア・カペラ」ではなく「赤・ペラ」と発音していた。なんとなくその方が日本語ネイティブには言いやすいように思う。
  
  以前、クルマの名前に「カペラ」というのがあったけど、あれは「聖堂」という意味だったのかな。そんなに堂々としたクルマではなかったけれど、もしそうだとしたらすごいネーミングである。
    
  もうひとつ、最近、なんだそうだったのか、と気づいたのが「プエルトリコ」。長い間「プエル・トリコ」だと思っていた。なんなんだ、トリコって、と詰め寄られても困る。あえてご説明すると、「トリコ」とは「トライアングル」の意味で、「三角地帯」という意味である。現地にそんなものがあるのかどうかは知らないが、とにかくそういうことなのである。
 
 こんな誤解が私の頭に根付いたのも、正しい発音「プエルト・リコ」が、日本語ネイティブにはやはり発声しにくいからである。何だが字足らず、というか尻切れトンボというか・・・・。「プエルト・リコ」はスペイン語でPuerto Rico、英語だとPort Rich で文字通り「豊かで、美しい港」ということになる。
 
 ウィキペディアは、その語源を、コロンブスがサン・ファンの港に入港したときに、「なんて素敵な港なんだ!(¡Qué Puerto Rico!)と叫んだことに由来するといわれている、と記している。勉強になるなあ。

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2009年3月24日 (火)

路上潰想

 

  休日の朝6時。どんよりと曇って薄暗い空の下、八王子に向けて車を走らせる。お察しの通り、ゲンちゃんとゴルフである。午前中は雨との予報が出ていたが、なんとか外れてくれますようにとハンドルの前で手を合わせ、ゴルフの神様にお願いしながら、灰色の道路を疾駆する。

  と、突然、遥か先の道路の上に何かの死体が転がっている、と思ったらあっという間に近づいて、何台もの車に執拗に踏み潰されたネコの死体だと分る。あわててハンドルを切り、踏んづけないように、ぐちゃぐちゃネコを両輪の間を通過させる。

  朝っぱらから、気持ち悪いもん見ちゃったなあ、とげんなりしながらも、ふと、思い立つ。どうして自分は「ぐちゃぐちゃネコ」を見て「気持ち悪い」と思うのだろうかと。運転中は暇なので、いろんなことを思いつくが、暇にまかせて、この自問に向き合ってみた。だって、自分は「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもないマクドナルドのハンバーガーは平気、どころかおいしいと思ってしまっているではないの、と。

  これに対しては「ネコ」と「牛」は違うよ、という反対意見を表明される方もいるかもしれない。愛玩動物である「ネコ」がぐちゃぐちゃだから「気持ちが悪い」のであって、ほぼ食品としてしか接することのない牛ならば、ぐちゃぐちゃであっても平気なはずである、と。しかし、ちょっと考えただけでそんなわけはない、と分かる。

  次々に走り来るクルマに引かれてぐちゃぐちゃになった子牛を思い浮かべてみてほしい。大きく見開いた目の周りの長い睫毛に血がこびりついていることを想像すると、耐え難い気持ちになる。とてもじゃないがマクドナルドのハンバーガーなどを思いつくわけもない。ただ気持ち悪いだけである。

  ここまで考えてくると、結局、ヒトでも牛でもネコでも犬でも、路上でぐちゃぐちゃになっている様を目撃すると、自分は「気持ちが悪くなる」のだということが分かる。ここまではいい。では、マクドナルドはどう考えればいいのか。

  あれはどこから見たって、牛の肉体をぐちゃぐちゃにして焼いたもの以外の何物でもないではないか。ぐちゃぐちゃにするだけでも大惨事なのに、あまつさえそこに塩と胡椒どころか玉葱まで刻んで混ぜるという非道な行いを果たした後に完成する、とんでもない食物である。なのに美味しそう、と思うのは「ぐちゃぐちゃ」が存在する「場所」の問題なのかもしれない。路上だから気持ちが悪いのであって、キッチンのステンレスの上ならば旨そう、に感じるのではないか。つまり、「ぐちゃぐちゃ」がどこに存在しているのかが「気持ち」を大きく左右するのである。

  うーん、そうだろうか。

  では、次にこう考えてみる。道路の上に「ぐちゃぐちゃ牛」の代わりに「近江牛のサーロインステーキ肉10キロ」が落ちていたらどうなるか。考えるまでもない、誰でも、「お、うまそう」とクルマを止めて拾い上げに行くに違いない。

  私は、「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもない「ユッケ」が気持ち悪くて嫌いだが、「ユッケ」ならば、たらい一杯路上に落ちていようがキッチンのステンレスの上に置かれてあろうが、どちらにしても、気持ちが悪い。つまり、「場所」の問題ではなくて、そこに死んでいる動物の「様子」が気持ち悪さを生むようである。どうやら私は、「ぐちゃぐちゃ」がいけないようなのである。

  つまり「ぐちゃぐちゃ」のように「死骸」の様相を呈していると「気持ちが悪く」、「サーロインステーキ」のように「食物」の様相をしていると「旨そう」に感じるのである。「気持ち悪さ」は「場所」ではなく「様相」の問題であるようなのだが、しかし、ことはそんなに単純ではない。「死骸」と「食物」の境目のありようは人によって個人差があり、またそれを認める人の胃袋のありようによっても異なっているからである。

  以前、ラジオで聴いた話である。オーストラリアのさるレストランの、ジビエ料理を得意とするシェフはジビエのシーズンが到来すると、籠を持って、近所の幹線道路に赴き、テクテクと歩く。クルマにはねられて死んでいる動物のなかから、旨そうなものを選りすぐって持ち帰り、料理して客に供するというのである。そのシェフにとっては「ぐちゃぐちゃ」だろうが何だろうが、そこに死んでいる動物はすべて「食材」なのである。

  ここが難しいところである。「気持ち悪さ」に絶対性は皆無なのである。

  つまり、命をなくした動物は、それが存在する環境によって、あるいは形状によって、あるときは死骸であり、またあるときは食料ということになる。そしてそれを見極めるのは、それを見ている人間だということになる。それを視認した人間の脳みその中で、「死骸」と「食料」のスイッチが切り替わるのである。

  しかし、このスイッチは極めて個人的なものでなかなか一般化することはできない。各人が送ってきた食生活や生活習慣によって全く異なるものとなることはすぐに分る。佐川一政氏にとって死亡した白人女性の太腿は「食料」だったし、アンデス山中に墜落した航空機の乗客の中で生き延びた人々にとって、死亡した同乗者の脳みそはいつのまにか「死骸」から「食料」に変わった。喜びをもって貪ったという記録が残されている。

  太平洋戦争下、南方の島で食糧が絶たれ、飢餓に直面した日本兵は最後の最後に、耐え切れずに死体を食った。人肉を食った人間はすぐにそれと分かったと、結城昌治の小説「軍旗はためく下に」にはある。それまで目がくぼみかさかさの肌をしていた兵隊の肌の色艶が急によくなる、というのである。彼らにとって友人の死骸はある一瞬に食料に変貌したのである。「死骸」と「食料」の境目は、それを見つめる人間が置かれた状況によっていくらでも変わる。

  イヌイットの方々は厳冬期、捕獲して殺したアザラシを自宅の庭に投げ捨てておいて、腹が減ったらガチガチに凍ったその肉をナイフで削って「食料」とする。そう見てくると、「死骸」と「食料」の線引きは、時代によって、民族によって、また個人の習慣によって全く変わってくる極めて「文化的な産物」だということができる。

  習慣や経験や教育という文化的なふるまいというのは、実に奇怪なものであると時々思うことがある。話しはすこしそれて、鶏の卵の話をする。

  われわれはいつの間にか、鶏の卵を「卵」という「食材」としてごくごく自然に受けとめている。白くて硬い殻に入った黄身と白身を「卵」と呼んで、ゆでたり、焼いたり、炒めたりして実に多種多様な調理法を駆使して日常的に食べている。「卵」をおいしくいただいているわけである。

  しかし、皆さんは、ご存知だろうか。メスの鶏を解体して内蔵を掻き分けると、卵の中身、つまり黄身と白身が、いくつも連なって並んでいることを。それも大きいものから少しずつ小さくなっていく。もちろん殻などついていない。大きいものから順に、薄皮で包まれ、そのまわりに殻をつけて体外に排出されるのだが、あの卵の中身は、じつは鶏の内臓なのである。

  嘘だと思うなら、人間の卵を考えてみればよろしい。人間の卵も受精しなければ体外に排出されるが、あれは卵巣という内臓からはがれてやってくる女性の体の一部なのである。同様に、鶏の卵の黄身はヒヨコを作り出すための内臓の一部であり、白身はほとんど「オリモノ」みたいな物なのである。

  そう考えると、「卵ご飯」ほどおぞましいものはない。温かいごはんに、ヒヨコになるはずの鶏の卵子をぶっかけ、おまけにオリモノまでまぜこんで、しかるのちに醤油までさして、箸でくちゅくちゅくちゅくちゅ掻き回してずるずるっと口の中へ運ぶのである。こんなおぞましいことが世の中にあるだろうか。

  メレンゲなんぞを口にするなんてのは狂気の沙汰ではなかろうか・・・・。けだし、「文化的なふるまい」というのは恐ろしいものだ。

  なんて下らないことを考えているうちにクルマは五日市CCに到着。こんなことをグルグル考えていたわけだからスコアがいいはずもなく、沈没。お昼には、カレーライスに生卵をぶちこみ、ウスターソースをじゃぶじゃぶかけて食べる。旨い。

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