2009年11月 5日 (木)

夏目漱石夫人と猫

  
    本を読む楽しみのひとつに、その人となりをよく知らない歴史上の人物についても、書中でその人の思いがけないエピソードに出くわすことによって、その人の輪郭が鮮やか浮かび上がったりする点がある。

  かの夏目漱石の奥方、鏡子夫人はなかなかに性格の厳しい女性としてこれまで多くの人々が描いてきたこともあって、我々は、鏡子夫人を、こういっては何だが、まあ、「悪妻」の部類に分類してきたように思う。

  さて、そんな折に、鏡子夫人のお孫さんにあたる半藤末利子さん(あの歴史探偵・半藤一利氏の夫人である)が書いた「漱石の長襦袢」(文藝春秋刊)を読んでいたら、面白いエピソードに出くわした。同書で末利子さんは、「祖母は決して、世間が言うような悪妻ではなかった」と繰り返し書き、そうではなかったエピソードを次々にご披露なさっているのだが、そのさ中に、「漱石夫人と猫」と題された短文が現われる。

  末利子さんが、ここでご披露なさる「鏡子夫人像」がとても興味深いので、皆さんにもご紹介しておきたい。

<朝寝坊のために鏡子は遅い朝食を摂るのだが、火鉢の脇に座ってパンとサラダと紅茶が運ばれてくるのを待つのが常であった(夏はどうだったかは覚えていない)。すると決まってノコノコとどこからか這い出してきて鏡子の膝の上にちゃっかりと陣取って待機する奴がいる。火鉢の五徳の上に置かれた餅あみの上で裏表こんがりと狐色に焼かれたパンに鏡子がバターを塗り始めると、そやつは身を起こし前脚を伸ばしてパンを取ろうとする。と、本当はバターの香りに誘われてパンを欲しいとせがむ猫の気持も察せずに、「今やるよ」と一喝して頭をパチンとぶっ叩いてから、鏡子はおもむろにバターのついていないパンの耳をちぎってそやつに与えるのである。>(P36)

  ぐははははは。こういったさりげないエピソードが、当の人物の人柄を一番表すのではないかと私は思う。果たして鏡子夫人が悪妻であったか否かはみなさんのご判断に委ねるが、ひょっとして、「我輩は猫である」というのは、漱石が、家庭での自身のありようを自嘲的に表現したものかもしれない、と思うのはうがち過ぎであろうか?

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2009年11月 4日 (水)

湯船で谷崎潤一郎を読む悦楽

 
   朝風呂に入るようになってかれこれもう30年以上が経つ。夏場はバスタブに入らずにシャワーだけですませるのだが、今みたいに寒くなってくると湯船につかり、蓋にタオルを敷いてその上に両手を乗せて読書にふけることとなる。

   これが本当に楽しい。夜、ベッドの中に入って本を読むことも楽しいが、生温い朝風呂につかりながらの読書もまた格別の愉楽である。ベッドも湯船もどちらもこじんまりしていて温かい、という共通点があるが、こういう環境で本を読むことが好きなのかもしれない。

   さて、今日は何を読もうかなと、本棚を眺めていたら「谷崎潤一郎随筆集  篠田一士編」(岩波文庫)が目に付いたのでさっそくこれを手にしてバスルームへ。読み始めたら、あまりに面白くてやめられなくなってしまった。汗だらだら。

   何が楽しいといって、一番は「グルーブ感」。昔の正しい日本語で綴られているのに、作者の興が乗ってくると、なんともいえない「うねり」が文章に現われ、そのリズムに身を委ねていると(文字通り素っ裸で委ねているわけだけど)、はなはだいい気分になってくる。例えばこんな具合。

<(・・・・)閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返していうが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそういう厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に長細い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたたり落ちる点滴が、石灯籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつつ土に泌み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。>(「陰翳礼賛」P176-177)

「グルーブ感=文章の躍動感」は、また感性の躍動感でもある。よくもまあ、そういう風に感じるね、そういう風に飛躍できるね、とちょっぴり病的な感性の躍動に感心していると、<私は神経衰弱の激しかった時分>(P186)という一文が出てきたので、なるほど「ちょっぴり病的な」感じというのは、そんなところから来ているのかもしれない、と妙に納得してしまう。

  谷崎潤一郎のもうひとつの魅力は、江戸っ子らしい「歯に衣を着せぬ」物言い。晩年は関西を偏愛した作家だが、根っこはちゃきちゃきの江戸っ子である。

<実際、瀬戸内海地方の夕なぎなどに来合わせたら、ほんの少しビールを飲んでさえ直ぐ体じゅうがねとねとして、浴衣の襟や袂は脂じみ、臥ころんでいながら節々がほごれるようで、そういう時には全く慾も得もなく、房事のことなど考えてもウンザリする。>(「恋愛及び色情」P62)

<京橋の大根河岸あたりだったと思う、鏡花のひいきにしている鳥屋があって、鏡花、里見、芥川、それに私と四人で鳥鍋を突ッついたことがあった。>

  鏡花は衛生家で、用心深く、よく煮えた鶏肉しか食べないのだが、谷崎はよく煮え切らないうち食べてしまう。

<(・・・・)鏡花は、だから予め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に仕切りを置くことにしているのだが、私は話に身が入ると、ついうっかりと仕切りを越えて平らげてしまう。「あッ、君それは」と鏡花が気がついた時分にはもう遅い。その時の鏡花は何ともいえない困った情けない顔をする。(・・・)その顔つきがまたおかしくて溜らないので、時にはわざと意地悪をして喰べてしまうこともあった。>(「文壇昔ばなし」P272)

  こういうお茶目なところも魅力のひとつである。

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2009年10月26日 (月)

立花隆氏と佐藤優氏の博覧強記について

  
    文春新書から「ぼくらの頭脳の鍛え方」という、派手なタイトルの新刊が出た。サブタイトルが「必読の教養書400冊」。筆者が立花隆氏と佐藤優氏。帯には<「知の巨人」と「知の怪物」が空前絶後のブックガイドを作り上げた>と、ずいぶんと大きく出た惹句が踊っている。その横に立花、佐藤両氏の写真が載っている。

    立花氏は髪も薄く白くなり、おなかがぽっこり出ていて、金正日のお兄さんみたいな風貌である。一方の佐藤氏は手足の短い5頭身の「起き上がりこぼし」のような按配である。どっちが「巨人」でどっちが「怪物」かは明示されていないが、なんとなく想像はつく。「怪物」呼ばわりされるのはあまり嬉しくないのではなかろうか。

    それはともかく、この両名は恐るべき読書家であり、かつ蔵書家でもある。立花氏は仕事場に35000冊、佐藤氏は15000冊。尋常な量ではない。普通の人間なら一生かかっても読み終えないほどの量である。このふたりが、まず、自分の本棚から「知的欲望に満ちた社会人へ」向けてそれぞれ100冊ずつセレクト。次に、「すぐに役に立つ、すぐ買える」文庫と新書をそれぞれ100冊セレクト。計400冊のブックガイドとなっている。おまけに、それぞれの書物についてふたりできめ細かく対談しているあたりが凄い。このふたり、いったいどれだけの本を渉猟し、かつ頭に叩き込んできたのかと、凡人は気が遠くなりそうになる。

    こんな荒業ができるのも、このご両人が、超人的な「本読み」だからなのだが、私は以前、このふたりは「特殊な映像記憶の持ち主」なのではないかと書いた(09年4月15日付け)。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/index.html
   
  引用してみる。

<その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。
    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。>
  
  こんな「サヴァン症候群」的能力の持ち主だからこそ、このようなブックガイドを編むことができるのではなかろうか。このおふたり、自分たちに可能なことは他人にもできると思っておられるのか、同書の中で、こんなアドバイスがなされたりしている。

<読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで1ページ、1ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。>(P245 立花隆による「実戦」に役立つ14カ条)

  こんなことも、映像記憶的に書物を読むことができるから言えるわけで、凡人にはこれができない。「1ページ、1ページ繰る」だけでは何にも頭に入って来ないのである。しかし、佐藤氏はこの指摘が外務省での後輩の教育に際して大いに役立ったと述懐している。

<「この本、ダメだな」と思っても、一応最後までページをめくれ、という指摘もありました。驚いたのですが、モサド(イスラエル諜報特務庁)とか、KGBとか、対外諜報庁の連中の本の読み方、本の買い方と立花さんは一緒なんです。>(P12)

  さて、この本の中には面白い話があちらこちらにちりばめられているので、ランダムに抜書きしておきたい。

<立花 ネット空間にも、本になっているものより水準の高い論文などが山のようにあります。ただ、そういう水準のものに出会う確率は相当低い。グーグルでキーワードを入れて検索するにもやはり基本的な教養が必要です。
佐藤  (・・・・)私は情報屋ですから資料も何も持たないで、どれだけインプットできるかが勝負なんです。(・・・・)情報の世界で最後に勝負するときには、紙も何も持っていないですから。私の場合、インターネットだったら紙から吸収する情報量の二十分の一くらいしか入ってきませんね。やはり紙をペラッ、ペラッとめくらないと入ってこない。>(P55)

  
  立花氏は哲学については以下の本を推挙。
「形而上学」 アリストテレス 岩波文庫
「パンセ」 パスカル 中公文庫
「方法序説」 デカルト 岩波文庫
「ツァラトゥストラ」 ニーチェ 中公文庫
「永遠の平和のために」 カント 岩波文庫ほか
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン 岩波文庫ほか
「プラグマティズム」 W.ジェイムズ 岩波文庫

  こんな具合にずらりと並べて<誰でもこれくらいは手に取るべき。>とさらりと書く。いかにも立花氏らしい。「手に取ること」ぐらいは簡単にできるだろうけれど、読破するのは容易ではない。

  佐藤氏は、「フランス革命についての省察」(パーク 岩波文庫)、「なぜ私は生きているか」(J.L.フロマートカ 新教出版社)と「現代のヒューマニズム」(務台理作 岩波新書)の間に、どういうわけか、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社文庫)を挙げている。不思議である。しかも、その文章を大絶賛で、<同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使して完璧な論理を打ち立てる。論理とは何かをしるためにも重要な本。>(P81-82)と手放しである。タイプなんだろうか?

  その佐藤氏、外務省に勤務していた頃、権力の中枢に位置する人物たちの様々な生態を目撃したという。例えば、こんな具合に。

<昔、赤坂の料亭で、鈴木宗男さんの前で「おしめ換えてくれ」とやる東大卒のキャリア官僚がいた(笑)。お腹を出すことによって、政治家に無限の忠誠を誓うんです。若い国会議員でも、「先生の前で隠すものはありません」と言って、素っ裸になって、オチオンチンを股にはさんで、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌っている場面も見ました。こういう官僚、政治家たちの姿を見たので、中江兆民のキンタマ酒がやはり政治の本質だと思うんです。>(P162)

  読んでるこっちが、こまっちゃうナだが、もうひとつ、にわかには信じがたい話を。

<佐藤 (・・・・)外務省のロシア語通訳はかなりひどい。ロシア政府の公式ホームページを観るとよくわかるんです。(・・・・)日本の要人とロシアの政府要人が会談をすると、そのときの冒頭取材の発言記録がホームページに掲載されるんです。日本側発言を観てみると、「通訳されたまま」というロシア語が出ている。どういうことかというと、メチャクチャなロシア語で、原発言がどうだったか、よくわからなかったという意味なんです。
立花  内容が理解できなかったから、そのまま載せたという断りなんですね。
佐藤  そうです。その日本側発言というのは、仮に日本語に訳してみると、こんな感じです。「あんたさん、ロシアの大統領さんだった。あたい、日本の首相だった。そのとき、二人話して、うまくいった。うまくいったのは何? それ、戦略的行動の計画ね」 これがロシア政府のホームページに出ている。国の恥です。>(P164)

  もしその通りならば、なるほど国の恥である。なぜ、こんなことが起きるかというと、外務官僚に、<通訳をできるようになりたいという動機がないんです。>というから、まさに病膏肓に入る、という気配である。大学生の知性が劣化しているだけではなく、官僚たちも充分退廃しているのかもしれない。

  この本を読んでいると、ああ、この本も読んでみたい、この本も手にとってみたいという気にさせられるから不思議である。最後に、「教養」について立花氏が興味深いことを喋っているので、引用しておきたい。

<教養というのは別の言葉で言えば、人類の知的遺産です。その場合、教養教育とは、知的遺産の財産目録を教えることになります。しかし、いかにしてその全体像を教えるか。私は、知の世界の果てがどうなっているか、それが想像できるような地点へ学生を連れていくことだと思っています。>(P240)

「知の世界の果て」か。刺激的な言葉である。

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2009年10月13日 (火)

ミルフィーユじゃなくてミルフイユ!

 
    久しぶりに、京都在住の関谷江里さんことエリチンのサイト(ブログと言うと怒られる)を見ていたら、いかにもエリチンらしいことが書いてあったので、思わず笑った。ぜひ、もっと多くの人々にこの主張をお届けしたいので、ここに引用させていただきます。エリチンのサイトの冒頭に、<わたしの言葉の好みはこちらです。よろしければご覧ください。>という、みょうちきりんな案内があって、そこをクリックすると、以下のような文章が登場する。一部割愛しつつ、ご紹介します。

<(・・・・・・)この話をはっきりするのは初めてですが、やっぱり聞いてくださいませ。<(_ _)> 
自分の言語感覚はヘンという認識もあった上で語るから許して~。
実はわたしは、ブログという言葉を使わないのです。
このサイトオープン当初には、何度か使いましたが、
ある時から音として耐えられなくなってしまったのです。
「ぶ」で始まる言葉:
ぶさいく 不細工
ぶざま 不様
ぶしょう 不精
ぶきよう 不器用
ぶようじん 無用心
ぶれい 無礼
ぶこつ 無骨 ・・・
で、
ブログ。 (-_-;)
「ブログ」とは、 weblog ウエブログの略であります。
けれど、 ログに、「ぶ」がつくなんて、
理不尽なことだ、かわいそうだ~。\(゜o゜)/
(・・・・)頑張って「ブログ」という言葉に対して無感覚でいようとするのだけど、
それでも「ブログ」という言葉には濁音が2音もあって美しくない。
音として、かなり耐え難いものがあると思います。
「ブロガー」なんて、さらに耐え難い~~~(叫)>

   と、まずは、エリチンの「言葉の音」に対する繊細な美意識をご披露する次第。お次は、用語についての一家言を。

<(・・・・・)どんな言葉をわたしは決して使わないかというと、以下のようなものです。
●お昼を軽く「済ます」というような言葉。食事はありがたく「いただく」ものです。用事じゃないんだから、毎回の食事はうれしいものなんだから、「済ます」という言葉は出てきません。もちろんわたしも毎回きちんとした食事をしているわけではないけれど、それでもたとえば朝食を「済ます」ってやっぱり言わない。(「とる」ならいいと思う。)
●お弁当や鍋を「つつく」とは、わたしは言わない。「つつく」って言うと、なんだかキツツキが木をつんつんしているイメージが思い浮かんで、お弁当やお鍋が痛くてかわいそうやん、と思っちゃう。やっぱりお弁当もお鍋も大切に「いただく」ものだと思うのです。
●それから「こだわりの」って言葉も絶対に使わない。美食にまつわる表現で、これほど安っぽくなってしまった言葉もないでしょう。世の中に、自分の料理(あるいはお菓子などの商品)を提供してやっていこうというくらいの人なら、こだわっていて当然だし、いやもう理屈を超えて、とにかくあまりに安易に使われるようになっていることがやだ~。
●さらに「癒し」とか「癒される」と言う言葉をわたしはほぼ100%使わない。(「傷が癒えたら」というように、本来の意味で使うことがあるから「ほぼ」です。)ものを表現するとき「癒しの○○」とか「癒される空間」といった使い方が、褒め言葉としてものすごく使われるけれど、わたしは全然いいと思わない(-_-;)何でかわからないけれど、これも安易に使われるのがいやだということと、もうひとつ、癒しというからには「疲れ」とか「ストレス」とか、前提としてマイナス要素を含んでいるからだと思う。「癒される」ということは、現在ストレッセな状態であることを認めたことになるんじゃないかと思うのです。例えば「癒しの空間」というのは褒め言葉なんだろうけれど、「心が洗われる空間」あるいは「気持ちが和む空間」っていう方がよりポジティヴなんじゃないかしらん?>

   今度はご自身が好まない言い回しについての説明がなされている。とてもよく分かる話である。「キツツキみたい」というのがいかにもエリチンらしくて笑ってしまう。さて、お次はフランス語について。これに関しては、エリチン、厳しいよ。

<(・・・・)そしてもうひとつ、表記について、日ごろ常々述べたいと思っていたので述べます。日本語におけるフランス語の表現とカタカナ表記についてです。これはかなり多くの料理人やパティシエの皆さんとも意見を同じくしているのです。作る側、それからライターとか編集者が今後一致して変えていかねばならないことです。
●長年の慣例とはいえ、いい加減、「ミルフィーユ」という発音と表記をやめましょう。「ミルフイユ」です。ミルのフィーユっていったら、女の子が1000人いるってことなのよ(-_-;) >

「女の子が1000人」ですか。なんだか、みみず千匹みたいだけど、ちょっと違いますか。え、全然違う? 失礼しました。「女の子1000人」はミルフィーユでmille filles。お菓子のミルフイユはmille-feuilleで、「1000枚の葉」。確かに薄片が何枚も重なったようなお菓子ですもんね。milleは「千の」という意味です。

   ちなみに、長さの単位のメートルはフランス語です。メートル原器がフランスで作られて、それが世界中の長さの基になっているからなんでしょうが、われわれが日常よく使う「ミリメートル」はmillimètreで、頭についているmilliは「千分の1の」というフランス語。つまり「1メートルの千分の1の長さ」が「1ミリメートル」なわけですね。ついでに言うと、「センチメートル」はcentimètreで頭のcentiは「百分の1の」という意味ですね。1メートルの百分の1が1センチである、と。ただし、centは「百、百の」という意味。英語のcenturyは、だから100年という意味で1世紀なんですね。話が脱線しました。エリチンの話を続けます。

<(・・・・)いい加減「ブーランジェリ」という発音と表記をやめましょう。「ブーランジュリ」です。「ジョルジュ・サンク」という発音や表記は定着しているのだから(「ジョルジェ・サンク」と言ったらヘンでしょう?)「ブーランジュリ」と言えない(書けない)はずはないと思う。>

   はい、ごもっとも。パン屋さん(お店)はboulangerie(ブーランジュリ)、パン屋さん(人)はboulanger(ブーランジェ)。多分、両方がごっちゃになって「ブーランジェリ」になったのではないでしょうか。ちなみに女性下着のブラジャーはフランス語ではsoutien-gorgeで、英語でbrassiere。この英語が日本に入ってきてブラジャーとなった、と物の本(どんな本やねん!)には書いてあるが、この英語の綴りはどう見てもフランス語綴りである。そこでフランス語の辞書をよーく見てみるとありました! Brassièreで「女性の胸着」と。しかし、こんな立派なフランス語があるのになぜ、フランス人はブラジャーをスーティエン・ゴルジュなどという不思議な単語(直訳すれば「喉支え」)にしたのか、私にはその心がよく分からない。おっと、また脱線だ。

<それから、「グランメゾン」という言い方はおかしいのです。いったいいつ、誰が言い出したのでしょう。言うなら「グランドメゾン」だし(メゾンmaison=女性形)、さらにこれは、たとえば「タイユヴァン」とか「グラン・ヴェフール」とか、いわゆる「老舗」といえるお店に使う言葉です。>

  これはすべての名詞に男女の別があるというフランス語ならではの話なので、なかなか難しいです。後ろの名詞がmaisonみたいに女性名詞ならその前につける形容詞は女性形になります。だから、grande maison(グランドメゾン)となる。しかし、男性名詞の前ではgrand(グラン)となる。gran-croix(グランクロワ=レジオンドヌール一等勲章)というように。どうすれば名詞の男女の別が分かるのか? これはフランス人なら誰でも分かる。八百屋で、ジャガイモはマスキュランかフェミナンかと尋ねると、即座に返事が返ってくる。他の野菜すべてについても同様。これには感動する。フランスやイタリアで、公園のホームレスが拾ってきた新聞を読んでいるのを見ると、ああ、イタリア語(フランス語)が読めるんだとちょっと嫉妬する。

    私が気持ち悪いのは「既視感」を意味するフランス語のdéjà vu。déjà が「既に」、vuが「見た。あるいは見られた」。日本語表記でデジャ・ヴュなのだが、ときどき「デジャブー」という表記を見ることがある。これが気持ち悪い。「すでに高木ブーになっちゃった」ということなのかと思ってしまう。

      ついでに書いておくと、よく「プチ・バカンス」という和製フランス語が使われるけれど、vacanceは女性名詞。しかも「休暇」という意味で使うなら複数となってvacancesとなるので正確には「プティット・ヴァカンス」petites vacancesとなります。どうでもいいけど。

  アー、疲れた。

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2009年10月12日 (月)

石川遼とチューイング・ガム

  18歳の石川遼が、49歳のケニー・ペリーを打ち負かした。

  10月8日より4日間、アメリカはカリフォルニア州のハーディングパークGCで行なわれたザ・プレジデンツカップ。石川遼は25名の世界のトップ・プレイヤーに立ち混じってプレーし、通算3勝2敗という好成績を残した。

  なにしろ、18歳である。1991年生まれである。1991年といったら、ついこの前ですよ。そんな頃に生まれた青年がすでに世界のトップ・プロに育ったのだから、驚異的な話である。私など、1997年から必死に練習しているけれど、100を切るのがやっとなのだから。

    まだ、成長途上で、体つきも華奢な石川遼が、自分の父親よりも年上の(たぶん)ケリー・ペリー相手に敢然と立ち向かい、力でねじ伏せるさまは、観ていて爽快なものがあった。勝利後のインタビューでも、拙いながらも一生懸命英語で答えている様子はとても好感が持てた。

    しかし、解せないことがひとつあった。この爽やかな青年が4日間、プレー中にずっとチューjング・ガムを噛み続けていたことである。なぜ、自分より遥かに格上の選手であるタイガーやペリー相手に、サングラスをし、ガムを噛み続けながらプレーするのだろうかと。すくなくとも、私が中継を観ていた限りでは、石川以外にガムを噛みながらプレーをしていた選手を皆無であった。

    アメリカの野球選手がよく噛みタバコやらガムをくちゃくちゃやっているのは知られたことだが、ゴルフは野球とは違う。ゴルフは、勝敗もさることながら、いかに「紳士的」であるか、いかに「人間として成熟しているか」が先行的に重要視されるゲームなのである。だから、impoliteな振る舞いをしたプレーヤーは出場停止になるのである。

    プレー中にガムを噛むのはimpoliteな行いである。葬式の挨拶をするときに、結婚式で神父の前で、演説をするときに、病院で診察を受ける際に、社長が訓示を垂れる際に、ガムを噛みますか?

    石川遼の周りの大人がどうしてそう指摘しなかったのか私には不思議で仕方がない。「タイガー・ウッズ相手にガムを噛みながらプレーするのは、相手に対して失礼にあたりますよ」と。

    本当のことを言うと、私はもっと絶望的な推測をしている。ゴルフ・ネットワークで放送されたザ・プレジデントツカップの中継中、頻繁に石川遼を起用したロッテのグリーン・ガムのCMが流されていたのである。爽やかな遼君が、試合中にガムを噛む、というCMである。

    なんの裏づけもないし、証拠があるわけでもない。しかし、こう思うのだ。それが、スポンサーなのか広告代理店なのかそれは分らない。だが「ザ・プレジデンツカップの試合でガムを噛んでプレーしてもらえないだろうか。噛んでもらえれば、1試合につき○○万円、CM契約料とは別にお支払いします」と頼み込んだ人物がいるのではないかと。あるいは、石川サイドから逆にそのような提案がなされたのかもしれない。その辺は部外者の私には全く分らない。

  だけれども、曇天の下でのプレーでもはずさなかったサングラスにも同様の疑念を私は感じている。ガムもサングラスも、いつもの石川遼らしくなく、とても不自然に見えたからだ。

  この不世出の、爽やかなゴルフ・プレーヤーが、「大人の思惑」に振り回されることなく、世界有数のトップ・プレーヤーに育つことを、また人間としても成熟した存在となることを心の底から祈る。ペリーを破った直後、グレッグ・ノーマンに「よく頑張ったね」と肩を抱かれてねぎらわれ、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている18歳の石川遼の姿を見ていると、強く、そう願わずにはいられない。

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2009年10月 8日 (木)

SEと教育者と「学び」と

   
    元SE(システムエンジニア)で現在は物書きである、きたみりゅうじ氏が書いた「会社じゃ言えないSEのホンネ話」(幻冬舎)を読んで、「SEとは寝ない人のことなり」と分かった。

    もうひとつ分かったことは、SEは情報システムを構築するために、PCに向かい「チクチクと、素人では全く解読できないプログラムというものを延々書き続ける人なり」ということも分かった。(その業界の知人に聞くと、そういう人はプログラマであって、SEはもうすこし上位に位置する職種だということだが、でもきたみ氏は眠らないSEであったということなんでしょうね)

    で、その「延々」というのが、どうも常軌を逸した「延々」で、2,3日徹夜ということは日常茶飯事的にあるようなのである。風呂にも入らず、一睡もすることなく、半睡半醒、朦朧とした状況でキーボードをタカタカタカタカ叩き続ける。タカタカ叩き続けている最中に睡魔が襲ってきて、椅子から崩れ落ちるように床に倒れこみ、そのまま眠ってしまうこともあるらしい。

    そんなとき、ヒートした頭は夢を見ている。その夢というのが、ちいさなコビトが何人も出てきて、キーボードのキーの上に乗っかって足踏みしながら、代わりにプログラムを書いてくれている夢である。すごい話ではないですか。

    そんなことだから、<自分を信用しない、それがこの業界の第一歩>というタイトルのエッセイが書かれることになる。こんな話である。

<プログラマ界隈でよく言われる格言というものがある。たとえば「プログラムは思った通りじゃなくて書いた通りに動くんだ」とか、「他人の書いたコードを信用しちゃいけない。自分の書いたコードはもっと信用しちゃいけない」みたいなものだ。(・・・・・)

   思えばこの業界に入った当初は、先輩が「自分がプログラミングした飛行機にだけは乗りたくない」とか言っているのを聞いておったまげたもんである。それでいいのか? と当時は思ったものだけど、そこまで自分を疑うようでないと、徹底したバグ出しなんかできやしないのだろう。>(P278)

   怖い話ですね。そんなきたみ氏のエッセイの中に<楽したバカモノは十年経って悔い改める>と題された一文があった。

<実は自分という人間は、「卒業のために最低限必要な勉強だけをする」というのを延々やってきてしまったバカモノである。
「こんな勉強が将来何の役に立つんだよ」

   そんな小賢しげなことを言っては、なまける方向へと逃げをうってきたものだ。
   しかし、将来というのがその人の思い込み次第でなんとでも姿を変えるように、その勉強が役に立つかどうかなんてのも、その人次第でどうとでも変わるものである。(・・・・)
   知識というのは、知っていれば視点を増やしてくれるものである。知らなければ手詰まりに見える局面も、知識の数が多いほど色んな視点からのとっかかりを得ることができるようになるものなのだ。
   学校で学んだことは、社会に出て即座に役立つものではない。むしろそれにこだわり過ぎると、素直さの消失という弊害を生みかねないものですらある。
   けれども時が経てば、そしてその時が長ければ長いほど、きっと役に立つ局面がやってくる。>(P146)

   これを読んでいて、すぐに内田樹氏の「学び論」を思い出した。内田先生は、この「学び」の話を手を換え品を換え、もう30回ぐらいブログや本や講演会でご披露なさっている。多分、ご本人はそんなに何回も書いたり喋ったりしていない! とお怒りになるかもしれないが、それはお忘れなのである。私は30回くらい読んでいる! 今回は先生のブログからコピペ。

<「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
  それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
      この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
   そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
   私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。>(ブログ、内田樹研究室
2009年1月28日)

   片やSE、片や学者にして教育者。そんなふたりが期せずして同じような結論に辿り着いたところがとても、面白い。

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「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の「しなやかさ」


    先日、新聞を見ていたら朝日出版社の単行本の広告が出ていた。そこに、東京大学文学部教授の加藤陽子氏の近著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の書名があり、なんと10万部が売れた、と特記してあるのを見て、ほほーと思った。このような本が10万部も売れるなんて、素晴らしいなと思ったのである。

    この本は、日本近現代史の専門家である加藤教授が、栄光学園の歴史好きな中学生・高校生17名相手に、クリスマスから正月までの短い休みを利用して、「日本人の戦争」について行った講義をまとめたものである。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変から日中戦争、太平洋戦争について噛み砕いた語り口で書かれている。

    その中には、生徒への適切な「問いかけ」と生徒からの卓抜な「応答」が含まれていて、とても楽しい。「戦争」に関して書かれた本は、そのほとんどが、ある史観、価値観をもって、現在時点から過去を振り返る形で記述されたものである。その論調の大概は、「非道な戦争」か「正義の戦争」かのどちらかであることは、戦争について書かれた本を読んだことがある人なら、つとに周知の話である。しかし、本書は全く違う。

    その昔、といっても40年以上前の話だが、NHKで「タイムトンネル」という米国の番組が放送されていた。時空を行き来できる渦巻状のトンネルがあり、現在を生きる主人公が、いきなり過去の「白熱した歴史的現場」に放り出されて、右往左往するというのが毎回の話だったように記憶している。例えば、ある回では、少年が南北戦争の真っ只中に放り出されてしまう。そこでは、歴史として整理された「南北戦争」が描かれているわけではない。頭上を鉄砲の弾が行き交う、「切迫した現在」としての「南北戦争」展開されているのである.

    この本はちょうどそのような形で、生徒たちを、あるときは日露戦争の直前に、またあるときは満州事変の渦中へと誘うのである。そこで加藤教授が生徒たちに披露するのは日本の近現代史の最新の研究から得られた知見である。満州事変の渦中に置かれた栄光学園の生徒たちは、とりあえずその後、歴史はどのように展開していったかは知らぬものとし、その時、その場所で、時の政治家や軍の幹部が持っていた現状認識と、これから解決せねばならない問題を与えられるのである。そして、「さあ、あなただったら、この時どういう決断をしたでしょうか?」と問われるのである。

    そこで求められるのは、教条主義的な、あるいはイデオロギッシュな判断ではない。あらゆる条件を勘案した後に導き出される理性的で合理的な解決策なのである。そんなやり取りを読み進んでいるうちに分かってくることは、どの戦争にせよ、一部の狂信的な軍国主義者によって、日本が誤った方向へ引きずり込まれていったというわけでは決してなかった、ということなのである。

    むしろ、当時の日本の政治家や官僚や軍の幹部は、ほとんどベスト&ブライテストと呼んでもいいような怜悧な頭脳をもった人々であった。にもかかわらず、あるいはだからこそ、日本は戦争に突入せざるを得なかったのだ、という具合に思えてくるのである。書名の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」はそこから来ているのだと思う。

    現在時点から過去を断罪するのではなく、予断を排し、その歴史的事象が起こった時点にわが身を置き、その時のわが身を取り巻いたであろう状況と条件を深く考察し、しかるべき後に判断を下すこと。歴史から学ぶということは、まさにそういうことなのだと本書は教えてくれる。

    そういう意味で新鮮な1冊だったし、そのようなものの見方が10万人の読者をひきつけたという事実は感慨深いものがある。最後に加藤氏の「おわりに」の文章から、控えめだけれど強靭な言葉を引いておきたい。

<歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。

   しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

  私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また、現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去事例との対比を行っています。

  そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。>(P407-408)

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2009年10月 6日 (火)

坂の下のドブ

  
    前回、われわれは「坂の下のドブ」に向かって、厳しい現実を歩んでいると書いた。前代未聞の不況と政治的混迷、民間の活力喪失などなど、いったい、この「暗夜行路」は何に起因しているのだろうかと、時に深く考え込んでしまうことがある。

  歴史に「IF」はないというが、もしこれが存在しなかったならば、われわれはこれほどの混迷を経験せずとも済んだのではないか、と思うものがふたつある。ともに20世紀末のアメリカ合衆国が生み出したモノだが、ずいぶんと罪作りなものを考案してしまったものだとしみじみ思う。

  ひとつは「インターネット」。嘘か誠かは知らないが、核戦争下、一つの都市が全滅したとしても指揮系統を混乱させることなく、その他の都市間の軍事的コミュニケーションをとり続けるためにアメリカの科学者たちが考案したといわれているしろものである。発明の動機がどのようなものであったにせよ、上記のような目的には最適のシステムであることに変わりはない。中枢がなく、各節々が独立して神経細胞のように有機的に繋結している。

  このシステムがぶち壊した既存のシステムを数え上げればきりがない。まずは既存メディアである、テレビ、ラジオ、新聞、出版・雑誌が壊滅的打撃を蒙った。新聞社は新聞紙を印刷して販売するだけでは経営が成り立たず、テレビもラジオも番組を電波に乗せて配信するだけでは会社が成り立たないところにまで追い込まれている。

    もはやこれまでのビジネス・モデルが成り立たなくなったのはこの業界に留まらない。レコード会社、映画会社、百貨店などの小売業など、間接的影響で衰退した業種を挙げていけばもっと膨大なものになるだろう。

    ぶち壊したのは、単にいくつかの業界だけではない。出会い系サイトやエロサイト、人殺し請負サイトや自殺幇助サイト、その他もろもろの出現で、それまでも無きに等しかった最低限のモラルもきれいさっぱり吹き飛んだ。流言飛語は日常茶飯事となり、名誉もプライバシーも白昼堂々毀損されている。もちろん、著作権も肖像権も知的所有権もへちまも実質的にはない。

    もちろんインターネットの「功」が皆無とは言わないが、それをチャラにしても余りある「罪」を膨大にかつ急激に世界にばら撒いたと私は考えている。

    アメリカが生み出したもうひとつの発明物は、これまでにも何回か書いたけれど、いわゆる「金融派生商品」である。最新の数学と金融工学を駆使した、金儲けの商品である。この商品群誕生の背後には「額に汗せずに大金を儲けることは善である」という非道な信念がうずくまっている。「労せずして誰かの大金を我が物とする」ということは、身も蓋もなく言えば、「誰かが汗水たらして稼いだ金をかっさらう」という行為に他ならない。

    そのような信念がアメリカに発生し、グローバルゼーションの掛け声とともに地球上に遍く行き渡ったとき、われらが世紀は失墜を始めたというわけである。「インターネット」と「金融商品」がタグマッチを組んだときには、この世で見たこともない、史上最悪の「商品」ができあがったのである。その傷からわれわれはまだ回復することができないばかりか、そもそも回復できるのかどうかさえ分からない。

    けだし、天罰である。

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2009年10月 5日 (月)

「坂の上の雲」と「奇胎の四十年」

  暇がそんなにあるわけじゃないのに、そんなときに限って読書にはまる。朝早起きして、バスタブにつかりながら蓋の上に腕をおいて本を読む、というのはなかなかの快楽である。

    関川夏央氏の「『坂の上の雲』と日本人」(文春文庫)を読むと、関川氏が無類の「鉄ちゃん」、つまり鉄道好きだということがよく分かる。日露戦争当時の日本の鉄道網について薀蓄を披露し、「坂の上の雲」の中の記述に不可解な点があると指摘している。一般読者にしてみれば、あまり本筋とは関係のない、どうでもいいことなのだが、鉄道オタクにしてみると、看過できないことなのだろうな、とほほえましく思う。

  と同時に、関川氏はかなりの軍事オタクでもある。日露戦争のディテールになると、「坂の上の雲」を超えて、やたらと詳しい記述が登場する。それはさておき、同書で一番啓発されたのは次のような一文だった。

<司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、「坂の上の雲」にえがききったわけです。しかし、その健康であったはずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました。彼はそれを(・・・・・)「奇胎の四十年」としるしています。>(P301)

  それに続けて、関川氏は、「では、太平洋戦争後の40年間はどうだったか」と問う。明治維新後の40年が上り坂であり、その後、今次大戦に突入するまでの40年が下り坂であったとするならば、戦後の40年間はどうなのかと。そして、そのことを説明するために、船曳建夫氏の「『日本人論』再考」からこう引用する。

<・・・・個々の人間が自由にその人生を過ごし、個性のあふれた生活をすること。民主主義の下、社会から階層的な較差を廃し、平等を社会の中に、また男女の間に実現すること。そして、平和を専一として、それを至上の価値とすること。
  これらが戦後を担った、戦前から戦後にかけて活動し、戦前の反省を胸に刻んだ第一世代と、戦後の回復と高揚の実働部隊となった第二世代が、実現しようとしたことがらであった。これからの数十年を担う日本人は、そうした戦後の四十年に生まれ、その理念で育てられ、教えられた人々のことである。>(P304)

  戦後の四十年間がそのような「坂の上の雲」であったなら、その後の40年間(そこには現在も含まれるが)は「坂の下のドブ」、あるいは「奇胎の四十年」と変わり果てる蓋然性は、これまでの国民的性向を鑑みればかなり確度の高いものだと思わざるを得ない。そして関川氏は、嘆息でもつくようにこう書き記すのである。長くなる。

<昭和戦後の第三世代は明治の第三世代よりも、はるかに経済的に恵まれていました。親は彼らを徹底して守りながら、個性をのばせといいつづけました。その結果、音楽やスポーツなども得意で、「人が人の上に立つことを嫌い、男女が平等であることを」自然に受け入れ、「平和ということがいかによいことか、争いと摩擦は極力避けなければならない」と信じる日本人が多数出現しました。先行世代の「戦後の夢」はかなえられました。
  そんな彼らが、自由が制約との緊張関係のあいだに成立することを理解せず、また、ただ好きなことだけをして生きて行くことが「個性的生活」であると短絡し、人の上に立つことを「平等」のエクスキューズのもとに異常に恐れ、また「平和」を個人的レベルで実現するために他者との関係を、摩擦も融和もひっくるめて拒絶した「引きこもり」となったとしても、育てられ教えられたようにふるまっているだけなのだと考えることができる、と船曳さんはいいます。戦後の四十年には明治の四十年ほどの緊張感はありませんでしたし、その「平和」の理念にはあなたまかせのところが少なくありませんでしたが、おしなべてよい時代だったでしょう。しかしよい時代がよいものを次代に引き継ぐとは限らないのです。>(P306)

  痛ましい指摘だが、われわれはその痛ましい時代の渦中を喘ぎながら生きているのである。

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哀しみのソレアード

  実にめまぐるしい土曜日だった。朝、4時半に起床。朝風呂に入った後に、迎えに来てくれたゲンちゃんのスマートに乗って、一路、中央区新川にあるショップ・チャンネルのスタジオへ。午前6時55分に集合、打合せを済ませた後、8時からON AIR。ゲンちゃんと組んで作ったトラベル・バッグをテレビ通販で売りまくったのである。

    バッグ製作会社の社長がメイン・ゲストで、私がおまけのゲストで出演。けたたましい勢いで、いかにこのバッグが素晴らしいかを力説し、今すぐ買うべきであると勧奨するMCの女性に合いの手を入れたり、質問に即応したりしながら1時間。なんとバッグは完売! 

    現場の緊張感はただごとではない。ON AIR中、時々刻々と、あと何個残っているかや、何色の売り上げが弱いかや、視聴者がバッグの中の収納を見たがっているなどという情報がカメラの前に立つわれわれに届けられる。それに即応しなくちゃならないから、緊張もいやがうえにも高まるわけである。

    放送終了後、ゲンちゃんと朝飯を食いに築地に出かけてみたものの、観光客と思しき人々で溢れかえっているので、諦めて「コンラッド東京」のゴードン・ラムゼイでコンチネンタル・ブレックファーストを食べる。食後、いつものようにぐずぐずとよしなしことを喋り続ける。「とにかく、ふたりとも、65歳までは健康でいて、一生懸命働こう」と誓い合う。でもまだ午前11時である。

    ゲンちゃんに会社まで送ってもらい、職場のソファに横になる。眠ろうと思ったがなぜか眠れないので、机の上にあった本を読む。きたみりゅうじ氏という人が書いた「SEのホンネ話」で、帯には「最先端技術を駆使した肉体労働者(=SE)の過激で笑える胸の内」とある。システム・エンジニア(SE)という人種と話をしたこともないので、その生態の一端が分かって興味深い。

    気がつくと夕方になっていたので、半蔵門から地下鉄に乗って三軒茶屋へ。本日のメイン・イベントである。世田谷パブリックシアターで行われる、浜田真理子さんのコンサート「マイ・ラスト・ソング vol.2」を聴く。タイトルから分かるとおり、久世光彦氏のエッセイ集「マイ・ラスト・ソング」の中から何曲かを選び出して、浜田さんが歌うという趣向のもの。昨年もこの会場で行われたが、仙台に出張していたので聴くことができなかった(その辺の話は2008年12月9日付けですでに書いた。http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/index.html

  今回で浜田さんのコンサートを聴くのは3回目だが、過去2回はみっともない話だが、泣いてしまっている。浜田さんの歌声に接するとなぜか涙腺が緩むのだ。しかし、今回は会社の同僚が複数いる。隣には女性の同僚。すこし先には、あろうことか弊社社長までいるから、うかつに泣くわけにはいかないのである。なんとか涙腺をきゅっと締めて最後の曲まで辿り着く。あとはアンコールが残るのみ。「あー、まさか<哀しみのソレアード>なんか歌ったりしないだろうなあ・・・・」と身構えていたら、案の定、その通りだった。この曲には弱いのだ。

  久世氏の本にこの曲が載っているわけではない。「久世さんにこの曲を捧げる」という趣旨で浜田さんは歌うのである。原曲は、作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldanでタイトルが「SOLEADO」。

    スペイン語で「日当たりの良い場所、陽だまり」のことだそうである。最初はイタリアのグループがインストで演奏。それがアメリカに渡って、クリスマスソングになったらしい。「哀しみ」など、最初はどこにもなかったのに、どこかの誰かが「哀しみのソレアード」と名づけた。「哀しみの陽だまり」。いいタイトルである。浜田さんが静かに、哀切に歌い始めると、会場のあちらこちらで嗚咽が聞こえ始める。

もうすぐ終わるのね
ふたりの砂時計
さよならの足音が
背中に聞こえるわ

あなたの温もりを下さい
もう一度 この心 この肌で
覚えておきたいの

ひとりで生きてゆく
明日はつらいけど
倒れずに行けるでしょう
想い出があるかぎり

淋しい人生に
光をくれた人
今はただ言いましょう
この愛をありがとう

今はただ言いましょう
この愛をありがとう

  ベソをかきそうになるのをかろうじて堪えて、もちろん、社長に挨拶もせずに、会場を後にする。三軒茶屋から地下鉄に乗り、渋谷で山の手線に乗り換え、新宿で総武線に乗り換えて、静かに電車の振動に身を預ける。窓の外は暗い。窓に映った自分の姿を見つめる。蛍光灯の明かりで青白く見える。

  三鷹で下りて、なじみのカフェ「ハイ・ファミリア」に行き、スパゲッティ・ミートソースを食べ、ベルギーの生ビール「ヒューガルデン ホワイト」を2杯一気に飲む。夜道をふらふらしながら家に帰る。公園の前で千鳥足になっている自分が分かる。随分安上がりな体質だな、と思う。

  家に帰って、シャワーを浴びる。新型インフルエンザのウイルスはしっかり洗い流しておかなくちゃな。文庫本をもってベッドにもぐりこむが、読み出すパワーがすでにない。電池は切れかかっている。頭の中では「哀しみのソレアード」のメロディがずっと続いている。

  ゲンちゃんももう眠っているだろうか、と思いつつ眠りに落ちる。

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2009年10月 2日 (金)

銀座のユニクロでジル・サンダーの新作を検分

  
    昨日の夕方、銀座のユニクロに出かけた。あの、ジル・サンダーが手がけた秋冬物のお披露目会があったからである。もとの銀座ユニクロのビルは全館が女性用に。そのすぐ隣のビルが男性専用にと様変わりしている。

  両館を回遊して、ジルの手になるユニクロ製品「+J」をくまなく見てみたのだが、感想は「うーーむ」である。今回の商品を見て、あらためてジル・サンダーの魅力とはなんだったのかがよくわかってしまった、というのが屈折した結論なのである。

  ユニクロの特設フロアに並んだジル・サンダーの低価格の洋服を眺めながら、彼女の洋服の魅力の大半は、その形や色といったデザイン的部分もさることながら、一番は「素材」だったのだなあと思い知らされたのである。

    どこでどうやって手に入れてきたんだろうというような上質なカシミヤやウール、ため息のでるようなニット素材などがジルの真骨頂だったのである。それを身につけることでオーラのように発光し始める「上質感」は、当然のことながら、ユニクロ製品にはない。どんなに素晴らしいカッティングをしても、繊細なシルエットを描いても、凡庸な素材では話にならないのである。

    ユニクロ価格では、使用できる素材に限りがある。それどころか、ユニクロ製品内で見比べても、同価格帯を比較すれば、ジル製品には彼女へのギャラ(多分、かなりなものだと思うけど)が上乗せされている分、劣っているような気がしないでもない。
    逆に言えば、名もないデザイナーを起用したユニクロ製品の方が、かえって素材がいいのではなかろうか。

  そんなわけで、結局ジル製品はなんにも買わなかった。多分、同様の感想を持つ人は少なくないだろうから、こんなことを予想して申し訳ないけれど、「+J」はそんなに売れないのではなかろうか。そうなると、ただちにユニクロ内部でも今後どうするかについて議論が重ねられることになるだろう。

  あの完璧主義者のジル・サンダーが今回のユニクロ製品に、素材面を考えただけでも、素直にOKを出したとは思いがたい。おそらくはうんざりするほどタフな激論が交わされただろうと想像する。きっと、従来の製品作りに慣れ親しんだユニクロ・スタッフは心から面食らったに違いない。その末に生み出された製品がさして売れないとなると、今後についてはスタッフは懐疑的にならざるを得ないだろう。

  ジル・サンダーの盛名は、我々の世代(柳内さんもその中に含む)には響くけれど、ユニクロのヘビーユーザーには大して「霊験」はないのではなかろうか。むしろ、ジルの名前に惹かれて初めてユニクロの敷居を跨ぐ人が増加する、という点にこそそのメリットはあるのではないか。となると、今後の方策としては次の2つしかない。

  ひとつは、ジルの名に恥じない、もっと高品質の製品を作ること。価格は現在の3倍にする。その代わり、素材をもっと上質なものにする。さもなければ、すっぱり止める。ふたつにひとつだろうと、外野席で眺めながらそう思う。

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2009年9月27日 (日)

庄野潤三氏の訃報に接して

  庄野潤三氏が亡くなった。若い頃、氏の小説が好きでよく読んでいた。身辺の日常を精緻に淡々と描きながらも、その小説世界には、いつしか時間や空間を超越して、人生の真理とでも呼ぶべきものを瞥見させてくれる瞬間が訪れる。その時に味わう酩酊感が何よりも好きだったのだ。

   庄野氏と同世代の小説家の作品もずいぶんと愛読した。小島信夫や安岡章太郎、三浦哲郎・・・・。そういえば、明治以来綿々と続く、いわゆる私小説というものも嫌いではなかった、というよりもかなり愛好していた。「私」という曲がりくねった細いトンネルを潜り抜けていくと、突然広くて明るい(時には真っ暗な)光景が目前に広がる。その転変がたまらなかったのだと思う。

   そんなわけだから、村上春樹氏の小説もデビュー当時のものを偏愛していて、最近の「物語モノガタリ」したものは全く受け付けられない。「風の歌を聴け」「1972年のピンボール」以降の長編は私にとっては何物でもない。特に好きなのは「中国行きのスロウ・ボート」などの初期の短編で、どうしてこういうものをもっと書かないのかととてもいぶかしく思う。(余談だが、最新作「1Q84」を私は「IQ84」と勘違いし、IQの低い少年の話だと思い込んで、ずいぶんとチャレンジングな小説に挑まれたものだ、と驚いた)

   というようなことを、もう何年も前に直接ご本人に面と向かって申し上げたことがあった。極めて不満そうな表情をされていたが、今となっては、世界的な作家に対して本当に失礼なことを申し上げたとは思うが、その気持ちは全く変わってはいない。

   だからなのか、このブログも時どき、とても「私小説」的な筆致になってしまうことがある。そのようなメンタリティが好きなのだから、仕方のないことなのだが、昨日、関川夏央氏の<「坂の上の雲」と日本人>を読んでいて、自分のそんな性向をちょっぴり反省した。

<日本の「純文学」は「私」というものが完全に主人公になったときに成立したと考えられます。だから自意識を主張しつつ作品化する、あるいは自意識の傷を鑑賞に値するものとして提出する、そのような過程をどうしてもどうしてもくぐり抜けなくてはならなかった・・・・・>(P93)

  もちろん、「鑑賞に値するものとして」の部分に感応したのである。「自意識の傷」を、それを読む人の「鑑賞に値するもの」として提出するにはそれなりの「芸」が必要になる。しかし、「芸」を演ずるには「自意識の傷」に溺れていてはかなわない。「自意識の傷」を客観的に俯瞰し、計量し、忖度する節度がなくては、「芸」など演ずることはできないからである。だが、「傷」を強く効果的に表出するには、「傷」の痛みの渦中にうずくまることが捷径なのである。

  このジレンマを乗り越えないと、「自意識の傷を鑑賞に値するものとして提出する」ことはあたわない。泥酔しながら覚醒していること。呻吟しながら平静でいること。(分りにくいかなあ)

  その確たる答えを得ることもなく、今宵もまた徒然なるままに、よしなきことを書き綴ってしまった。合掌。

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2009年9月21日 (月)

私の心は石ではないので

  世間はシルバーウィークに突入。その初日の土曜日に、ゲンちゃんとふたりでラウンドする約束をしていた。場所はいつもの五日市CC。

  5連休の初日だから、きっと高速道路は混むに違いないと、7時前に家を出た。一般道で五日市に向う。東八道路の野崎八幡前を左折し、下石原交番前を右折して甲州街道に入る。昨夜よく眠れなかったので、なんとなく体が重い。

  カーラジオはかけなかった。

    心が弱りきっていた。かろうじて平静を装っていられるだけで、何かの拍子に瓦解してしまいそうな予感があったので、できるだけ刺激を与えないほうがいいと思ったのだ。ラジオから流れてくる音楽で泣き崩れてしまいそうな気がしていた。

    ただひたすら前方の道路を見つめる。エンジンの音に心を集中する。余計なことは何も考えない。今日のラウンドのことを考える。日野橋から新奥多摩街道に入る。ただ、道路を見つめる。南コースの攻略法を考える。

    昨晩、辛いメールを書いた。涙がポタポタと漫画みたいに落ちて、キーボードが濡れた。あわててティッシュでぬぐった。書き終えてから、1時間ほど、声を押し殺して泣いた。泣きながら、こんなに泣くのはどれくらいぶりだろうと、頭の別の場所が考えていた。いったい、いつになったらもっと強くなれるのだろうかと。

    新奥多摩街道を内出交番前で左折し、睦橋通りに入ったところで、我慢ができなくなった。またしても大量の涙が溢れ始めた。目にワイパーがないと道路がうまく見えないほどだった。手の甲でぬぐってもぬぐってもひっきりなしに涙はこぼれてきた。まるで、母親に捨てられた子供のように泣きじゃくった。どうして人生はこんなにも悲しみに縁取られているのかと。

    ゴルフ場に到着したが、人が待つ正面玄関には寄らずに直接、駐車場に入る。車を止め、サイドブレーキをかけ、メガネをはずして両手で顔を覆った。なんとか落ち着こうと思った。車の座席に座ったまま、コンビニで買った牛乳を飲み、ヨーグルトを食べた。サンシェードの鏡を開けて自分の顔を見てみた。

    醜い男の顔がそこにあった。生気のない灰色の肌は乾いてしわだらけだった。鬢には白髪がまじり、無精ひげが伸びていた。頭の髪の毛は信じられないほどに少なくなっていた。57歳と5ヶ月のくたびれた男の顔がそこにあった。目は泣き腫らして真っ赤になっていた。ああ、こんなになっちゃったんだなあ、と人ごとのように思った。別に、こんな風になりたいわけではなかったのだ。いったい、どうすればもっと強い大人になれるのだろうか、と思った。

    フロントで手続きを終え、着替えてスパイクを履いてパターの練習場に行くと、ゲンちゃんがいた。よう、という風に手を上げて近づいてきた。近づくなり、「どうしたの? 目が真っ赤だよ」といった。「アレルギーが出て・・・」と答えたが、ゲンちゃんがそれを信じたかどうかは分からなかった。それ以上は何もいわず、「パターの練習をしようよ」と僕をいざなった。

    暑くもなく、寒くもない、気持ちのいい秋の一日だった。連休中だからだろう、他の仲間が集まらずに、ゲンちゃんとふたりだけのラウンドになった。「いいね、空気が乾いていて」と、ゲンちゃんは言った。「本当に、汗がすぐに乾くね」と僕が答える。夕方になると、赤とんぼが舞っていた。

    ラウンドを終えて、ふたりは風呂にも入らずに帰ることにした。キャディバッグをクルマにしまいこみ、エンジンをかけて出ようとしていると、ゲンちゃんのスマートが近づいてきた。ゲンちゃんは、ウインドーを下ろして話しかけてきた。

「この連休中に練習に行くなら、電話をかけて。一緒に行こう」
  
    僕はうなづいて、自分の車をスタートさせた。一足先にゲンちゃんの草色のスマートが発進し、すぐに視界から見えなくなった。

   帰りに三鷹のサミットで卵と缶詰と牛乳とヨーグルトを買った。心を病んで自室にこもったままの息子のための食料として。同じ屋根の下に暮らしているが、もう3年も顔を見たこともない。息子は虫のように静かに悲しく生きている。

  帰宅して風呂に入り、缶ビールを一気に飲んで8時頃に眠りに着く。このまま、眠りから醒めなくても一向にかまわない、と思った。

  2009年9月19日。南51、東40 トータル91

  爽やかな秋の一日に、また、少しだけ、僕が死んだ。

http://www.youtube.com/apartRECORDS

http://www.youtube.com/watch?v=tdI0OTRYwIo&feature=related  

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2009年9月10日 (木)

おなか、ひっこまないかな・・・・

 
    朝風呂に入ってさっぱりしたのち、ヨーガンレールのシャツとジャケットを身にまとい、アウディのステアリングを握って、清澄白河にあるヨーガンレールの本店に向う。高井戸から首都高速に乗る。オーディオで平原綾香の新しいアルバム「my classics!」を馬鹿でかいボリュームで聞く。

  おお、いい気分だ。平原綾香は素晴らしい声の持ち主だと思う。紗のかかったようなハスキーな声。しかも、発声に余裕がある、ように聞こえる。例えて言えば、時速260キロ出るクルマを120キロほどで転がしているような感じである。だから、安心して聞いていることができる。おまけに恐るべき音域と音程の安定感。今回トライしたのは、よく知られたクラッシクの名曲。それに自ら詞をつけ、伸びやかに歌い上げるのである。

  聞きながら感じ入ったのは、そもそも歌われるために作られたわけではないクラッシックを見事に歌いこなしていること。想像だが、レコーディングに際しては、すさまじい困難が伴ったのではないかと思う。それをなんとか乗り越えてのアルバムの完成には脱帽せざるをえない。そのチャレンジング精神には大きな拍手を送りたい。

  その中でも私が好きだったのは8曲目の「AVE MARIA」。ゆったりと大人っぽく、情感をこめて歌い上げられる。静かでかそけき気配の出だしから、一転高音の歌声が伸び上がり、しばしのちにまた元に戻る。そしてその後に続く、意表をつくジャジーなスキャットがもうたまらぬ。鳥肌が立つ。酔ったような心持ちになる。

  ヨーガンレールで茶道家の千宗屋氏とその辣腕マネージャの中村奈央子さんと一緒に秋冬ものを見る。そのあと、2階の社員食堂でヨーガンレールさんと一緒に昼食をいただく。ここのメニューは雑誌で紹介されたこともあるので知られていると思うが、動物性たんぱく質ゼロ。野菜が主のいわば精進料理である。健康にはいいだろうが、私は3日も耐えられないと思う。「そんなこと言ってるから太るのよ。腹8分目! そのおなかなんとかしたほうが・・・」と奈央子さん。クソー。

  昼食後、たまたま来訪されていた「うおがし銘茶」広報の土屋葉さんがいれてくれた煎茶をのみながら、1階のババグーリで売っていたマフィンを買ってきて皆で食べる。むしゃむしゃ。太るだろうな・・・・。

  会社に帰って、新潮社から送られてきた「月刊 渡辺奈緒子」をパラパラめくる。いつもの号より過激である。誰が撮影したのだろうと、クレッジットを見るとそこには窪塚洋介の名前が! クボヅカってあのクボヅカなのかと思ってあらためてページを繰ると、最終ページに、渡辺奈緒子と窪塚洋介の2ショットが載っている。クボヅカ君、まぶたをほんのり紅潮させ、呆けたような顔で映っている。この号の中で一番インパクトのある写真ではなかろうか。パラパラめくると、クボヅカ君、これってあなた、ひょっとして本当にやっちゃってない? というような妖しい写真もあって、なかなか凄い。

  正気に戻った後、ブリジストンスポーツのマネジャーと打合せのあと、ゲンちゃんと打合せ。その後、会議が2つ。7時頃おなかがすいたので、近所の「ゆで太郎」でかきあげそば、生卵入りとおいなりさん2個を食べた後会社に戻ると、すぐに親しい知人から電話。晩御飯食べましょう、と。はい、わかりました、すぐに行きます。また、ゆで太郎のそばのイタリアン・レストラン「エノテカ・ドーロ」に向かい、バーニャカウダ、ピザ、スパゲッティを食べ、ビールを飲む。

  平気で食べれちゃう自分が悲しい。おなか、ひっこまないよな、これじゃ。太るよな・・・・。

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2009年9月 9日 (水)

友を送るということ

  
    テレビマンユニオンから定期的に「テレビマンユニオンニュース」という小冊子が送られてくる。巻頭には、社員の長い文章がもちまわりで掲載される。エッセイだったり、論文だったり、テレビ論だったり、その時々でさまざまだが、どの号にも力のこもった文章が綴られている。「テレビマン」なのにずいぶん文章を書くことが好きなんだなあ、と毎号思いつつ、なんとなく目を通してしまう。

  8月31日号、NO606の巻末に重延浩氏の短文があった。重延氏が演出する番組の多くを撮影してきた重本正氏への弔辞というスタイルをとった文章である。おそらく若い頃からふたりはコンビを組んで番組を作ってきたのだろう。時は流れて、ともに老い、戦友たちがひとりずつ舞台の袖に消えていく。この重延氏の文章は、袖に消えていった仲間への惜別の情に満ちている。

  ふたりで作った名作は数多い。「ルノワール・美しきものの肖像」「ベルリン美術館・もうひとつのドイツ統一」「ガラのダリ」「空気を描く画家 フェルメール」、そして「須賀敦子・静かなる魂の旅」・・・・・。最後の番組の撮影のために、ふたりでアッシッジを訪れたときの様子を重延氏はこう書いている。こころに染み入るような文章だったので、長くなるが、ここに引用しておきたい。

<アッシッジの丘の中ほどにある、聖フランチェスコがこもった質素なサン・ダミアーノ教会。そこに誘われるように私たちはやってきた。夕日が壁に赤い射光をあてていた。そのとき、一人の尼僧が、陽に背を向け、壁に向ってひたすらに祈る姿を見た。彼は黙って尼僧と壁の夕陽をカメラで捉えた。鳥の声だけが残る静謐。やがて陽が沈み、壁に映る赤い陽光も消えると、尼僧は祈りを終えた。なんと静かなる魂のひとときだったことか。そのひとときに、深い人間の魂がこめられていた。3分50秒のこの1カットを、私はそのまま手をつけることなく放送した。あれが彼の残したベストカットだったから。そしてラストカットだった。>

  

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2009年9月 3日 (木)

その背景にあるものは?

  

  ラジオやテレビを見ていて、アナウンサーが発する単語のイントネーションが妙に気になることがある。

  そんな単語のひとつが「背景」。バックグラウンド、はいけい、である。

  この単語を、最近のアナウンサーは「拝啓」とおなじ抑揚で発声する。「拝啓、おふくろさま」というときの(例えが古くてすまない)、「拝啓」である。なんだか気持ちが悪い。

  私は長らく、「廃鶏」と同じイントネーションで発音してきたし、そうでないと「背景」な感じがしないのである。

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2009年9月 2日 (水)

麻生太郎の曲がった口

   
   総選挙の騒ぎもひと段落。実はこれからが大変なのだが、まあ、それはさておき。

   選挙運動も真っ盛りのときに、家を出て玉川上水沿いを歩いて三鷹駅に向っていた。川沿いには候補者のポスターを貼ったボードが掲示されている。その中には、妙に色っぽい候補者のポスターが。ふーん、この政党は妙齢の女性を次々に候補者に送り込んでいるんだな、と思いつつ駅の階段を上りきると、そこにはついさっきポスターでみた美女が、クソ暑いのにスーツを着て必死になって挨拶している。

   おー、あの女性だ、と思って顔を見ると、向こうもこちらの顔を凝視している。と、一瞬の間があって、その女性がやおら、
「○○○○さんっ!」
  と私の名前を口にしたから、びっくり! こちらは向こうの名前を知らないのに向こうはこちらの名前を知っている、というのはすごく気持ちが悪い。
「えー! なんでオレの名前を知ってんだよ」
  と問うと、
「私、△△で仕事をしていました」
  という。前職は同業者だったのである。
「○○○○さん、よく中村さんと一緒にパーティなどにいらっしゃったでしょ。だから覚えているんです。私、中村さんと同級生なんです」
  世間は狭いものである。そんな世間話をしていると、通りがかりの人々が怪訝な顔して通り過ぎていくので、じゃあ頑張ってね、と激励して改札口に向った。

  選挙の結果を新聞で見ると、彼女は最下位であった。

  民主党が圧勝して唯一いいことは、あの口がひん曲がって思いっきり貧相な麻生の、他人を小馬鹿にしたような話しっぷりを、もう目にしたり耳にしたりしなくてもよくなったということである。漢字が読めるとか、読めない以前に、私は彼の、人とのコミュニケーションのとり方の下手さ加減にうんざりしていたのである。

  同じようなことは、ブッシュが大統領になって初めて行った演説を聞いたときにも感じた。もちろん英語がすらすら理解できていたわけではないが、それにもかかわらず、すぐさま「あ、こいつはアホや」と分かってしまったのである。

  人がある人に対峙して、何らかの判断をする際、その材料とするのは「その人が語った内容そのもの」ではなくて、「その人の語り口」や「語る際のまなざし」や「語る際のしぐさ」であるなあ、とその時、しみじみ思ったのだった。

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2009年8月24日 (月)

「サブウェイ123 激突」と「強欲資本主義」

 
    先日、映画「サブウェイ123 激突」(トニー・スコット監督)を観た。映画そのものは特筆すべきものは特になし。地下鉄を乗っ取る犯人役をジョン・トラボルタが、運行司令室の職員をデンゼル・ワシントンが演じていて、そのふたりの熱演ぶりは、まあ、特記しておいていいかもしれない。が、まあその程度なのである。

  話は実に単純で、あるグループが地下鉄を乗っ取り、警察がその一味を追い詰める、というだけのもの。単純といえばこれほど単純な展開はない。その中で唯一面白かったのが以下のシーン。

  地下鉄を乗っ取った一味の企みは、「地下鉄乗っ取り事件」で株価を急落させ、金(ゴールド)を暴騰させることによって、瞬時に大金を手にすること。実に今時の知能犯なのだが、事件の冒頭ではまだ、捜査陣はその一味の素性をつかむことができない。

    捜査が進展して、やっと犯人たちのプロフィールがおぼろに見えてきたときに、捜査陣にひらめきが走る。「犯人はウォールストリート・ガイズだ!」と叫ぶのである。これを聞いて、私はほほう、と思った。

「ウォールストリート・ガイズだ!」は、訳してみれば「証券業界の野郎たちだ!」くらいになるだろうか。つまり、このろくでもない事件の犯人は証券業界の野郎どもだ、とスクリーンの上で捜査陣は大見得を切るのである。

  私がほほうと思ったのは、現在のアメリカ合衆国では、「証券業界の野郎ども」はすっかり「悪者」のカテゴリーに分別されてしまっており、そのことに違和感を抱く人々は決して多くないのだなと実感したからである。それはまるで、9.11事件以降のイスラム原理主義者(イスラム教徒)のようでもある。

  思えば、1987年に公開された「ウォール街」(オリバー・ストーン監督)では、監督の意図はともかく、証券マンが実に魅了的に描かれていた。この映画をNYで観た私はチャーリー・シーン演じる証券マンのファッションがかっこいいと思い、すぐにズボン吊りを買いに走り、しばらくそれをして出社していたおっちょこちょいでもあったが、ウォールストリート・ガイズがそれほど、かっこよく描かれていたのである。

  それから二十数年。ウォールストリート・ガイズは地に落ちた。このたびの金融危機の元凶となったのだから、無理もないが、まるで「悪の象徴」のようでもある。

    が、それもむべなるかなと思ったのは、文春新書の「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(神谷秀樹著)に記された彼らの所業を知ったからである。こういうときのために自業自得という言葉はあるのではないかと思わざるをえない。何度も書いたことだが、今回の金融危機のすべての源は、アメリカ合衆国の金融業界に端を発する、「楽をして大金を儲けることは良いことである」という信憑がグローバルに瀰漫したからであると思っている。

    同書には、米国金融関係者のこんな言葉が引用されている。

<「・・・・・ウォール街がぶち壊している産業はホテルだけではないよ。今すべての産業で同じことが起こっている。投資といっても、所詮は安く買い、出来るだけ早く高値で売るために使っている金だ。彼らには将来を築くための投資を十分にする気持ちなどないよ。買い叩いて、コストを削って見かけのキャッシュフローを増やして売り払うことしか頭にない。しかもほとんど他人の金でそれをやる」>(P120)

  ウォールストリートで日本人として20年以上金融ビジネスに携わった人物の見聞だけに、書かれていることに説得力がある。最近のウォールストリートのモラル・ハザードぶりには目を覆うものがあるとも書く。グローバル・スタンダードの美名のもとに、その価値観が日本にも流通しようとするだろうが、日本人は絶対にこのモラル・ハザードに侵されてはならぬ、と神谷氏は力説する。

  そのモラル・ハザードぶりを、こんな風に、一口キャッチフレーズ風にして紹介している。

<曰く「借りた金で今日を愉しむ」、「借りた金で投機する」、「貸せる金は融資基準をいくら下げても貸し込め。そのローンを束にして売ってしまえば、不良化しても自分の損にはならないから」、「ノンリコースで借りた金は、返せなくなったら担保物件の鍵を渡せば終わり。値上がり益は僕のもの、値下がり損は君のもの」、「連帯保証など怖くない。眠り口銭(手数料)が入ってくる」といったものである。>(P155)

  ウォールストリート・ガイズの悪辣振りをもっと知りたい方はどうぞ、同書をご覧いただきたい。

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2009年8月19日 (水)

母が壊れていく

 

 このお盆休みは、郷里・和歌山で過ごした。ひとり住まいの、80歳の老母の様子を見るためというのが一番の目的である。

  母の日常生活が楽になればと、バリアフリーの「離れ」を新築した話は何度も書いたけれど、帰ってみると、母は相変わらずおんぼろ母屋で生活している。台所や風呂に行くのに、いちいち階段をヨッコラショと下りてサンダルをはかなければならない不自由さがあるはずなのに、「なんだか落ち着かない」という理由で「離れ」にはなじもうとはしない。彼女にとって新しい環境になじむことはもう苦痛なのかもしれない。

  かくてはならじと、食事は「離れ」の食卓でとることにした。妹が食事を用意し、3人で食事をする。そんなことを数日続けたある日の夕食で、母親が突然、「ここで食事をするの初めて」と言い出した。最初は、なにかの冗談を言っているのかと思った。「初めてって、どういうこと?」「だから、この離れで食事をするのは初めてっていうこと」

「ちょと待ってよ。昨日もおとついも、その前も、ずっとここで食事をしてるじゃないの」
「そう?」
「そうって、昨日はここできしめんを食べたし、その前は3人ですき焼を囲んだじゃないの。お肉を3種類買ってきて、ここに並べたでしょ」
「そうだったかなあ・・・・・」

  母は困った顔してうつむいた。いたずらがバレた子供のような顔である。母が近過去の出来事を次々と忘れている、ということは妹から教えられていた。しかし、よくよく観察していると、「忘れている」というよりは、むしろ最初から「記憶に入って行っていない」ようにも思える。つい昨日のことがきれいさっぱり記憶に残っていない。まるで白紙状態なのである。

  そう言えば、私が帰省した時、妹が「お母さんは、お兄ちゃんのことを<よっちゃん>だと思っているよ。<よっちゃん>が来る、<よっちゃん>が来る、って言ってたから。驚かないでね」と耳打ちしてくれた。<よっちゃん>というのは母の弟である。弟と自分の息子がごちゃごちゃになってしまっているのである。

「お母さん、どんどんもの忘れが激しくなって来ちゃったね。でも昔のことなら大丈夫かな。教育勅語は言える?」
「えっ? 教育勅語ね。朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。あとは忘れた・・・・」
「ふーむ、覚えてるね。じゃあ、天皇陛下の名前は?」
「神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安・・・・・」
「うーん、昔覚えたことはまだ多少は残っている。じゃあ、昨日の夜のデザートで果物のゼリーを食べたけど、それを半分残したことは覚えてる?」
「えー? 私、ぜりー嫌いだもん。そんなもの私、食べた?」
「そうか、覚えてないか・・・」

  小さくなってちじんでしまったような母はソファに腰掛けたまま、老人性紫斑であちらこちらに内出血した枯れ枝のような細い腕を2本膝の上に置き、うつむいて困惑してしまっている・・・・・。

  記憶できないことを責めても仕方ないので、もう何も言わないことにした。こうして人は老いていくのかと思った。

    一緒に食べたすき焼のことも、食後のデザートがおいしかったことも、窓の外の夕焼けが驚くほど美しかったことも、いかなる事柄も、もう、母の記憶の器には収められることはない。ということは、過去を振り返りながら、「お母さん、あのときに食べたすき焼はおいしかったね」「ホテルのカフェの大きな窓の向こうに見えた夕暮れの様子はきれいだったね」と言って、想い出を共有することはもうできない、ということなのだ。

  母と私の間には、もはや、すき焼を食べているその瞬間、夕日を眺めているその瞬間しか共有することはできない。そう考えると、私は深くうなだれてしまう。「想い出を共有することはもうできない」ということがこんなに辛く、淋しいことだとは考えてもみなかったのだ。

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2009年8月14日 (金)

おじさん化のメルクマール その2

 

 この単語を使うようになったら、その人はもうおじさん、という話を前回書いた。
  

   そのことについてある人に説明していたら、
「うーん、なるほど。確かに背広とかズボンとか、まだ言っているようじゃ、しっかりおじさんかもね」
「え、じゃ、なんて言えばいいの?」
「背広はジャケット。背広の上下はスーツ、あるいはセットアップ。ズボンはパンツでしょ。背広っていうのは、英国のサビルローという地名から来てるんだよね」
「はあ」
「あ、すごいメルクマールがひとつあるよ」
「なんでしょう?」
「映画<卒業>ってあったでしょ。ダスティン・ホフマンが主演の。あの主題曲を歌っている男性2人組みの名前はなんでしょう?」
「あ、あれね。そりゃ簡単だわさ。サウンド・オブ・サイレンスとか歌っている2人組でしょ」
「そう。その名前は?」
「ずばり、答えます。<サイモンとガーファンクル>です!」
「ぎゃはははは、おやじっ! サイモン「と」ガーファンクルなんて言っているのは正真正銘のおじさん。聞いてごらん、今の若い人に。みんな<サイモン・アンド・ガーファンクル>って答えるから」
「え、いつから呼称が変わったの? 卑怯じゃないか! こんちくしょー」
「がははは、おやじー!」

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