« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008年2月

2008年2月28日 (木)

あくびをするときは手で口をかくせ!

 前項で引用した内田樹氏の著書「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)の中に、とても興味深いことが書いてあった。その一文のタイトルは「子どもに触れさせてはいけないもの」。
 そこで、内田氏は、「金は不浄」という禁忌の感覚は1950年代まで、日本のふつうの家庭に存在していた、と書いている。

<私の子ども時代までは「子どもの前で金の話はしない」ということは日本の家庭の常識であったし、「子どもが人前で金の話をする」ことは即座にゲンコツを食らうほどの禁忌であった。
 高校生の頃、仲間とレストランで食事をしたことがあった。みんなばらばらのものを頼んだので値段が違う。レジで代金を支払うときに、誰がいくらだっけとざわついていたら、中のひとりがやや気色ばんで、「金のことで人前で騒ぐな」といって全員の分を払ってさっさと扉を押し開けて出て行ってしまった。私はその剣幕に一瞬あっけにとられたが、「なるほど」と得心した。>(P209)

 ほぼ似たような時代に育ったので、この感覚はよく分かる。

 たとえば、人にお金を渡すときに、現金を裸で手渡すことは、はしたない行為であると教えられていた。慶事、弔事にお金を包んで贈るのは、お金が「品のないもの」であるという感覚が、みんなに共有されているからなんだろうと思う。おそらく、こういった感覚は、アメリカ人には絶対に分からないだろう。

 死んだ父親からはよく、人に金を貸すな、とも言い渡された。なんで唐突にそんなことをいうのかといぶかしんだが、「特に、親友には絶対、貸すな。そのことで親友を失うことになるかもしれないから」と聞いて、そんなものかと思ったものだった。その忠言にもかかわらず、成人した私は、しばしば人にお金を貸した。そして、確かに、気まずくなったケースは一度ならずあった。

 先人のアドバイスはきくものだなあ、とそのときに思った。
ついで思い出すのは、なぜ父がそんなことをアドバイスしてくれたのか、よく分からないが、「鶏口となっても牛後となるなかれ」と折に触れて呪文のようにいい続けていた言葉である。息子にそう告げずにはいられない、どういう経験が父親にあったのかはついに聞かずじまいだった。

 思い起こすと、禁忌というほどのことではないが、「しつけ」として、今はもう誰も注意を喚起しなくなったような事柄を、父母からしつこく言い渡されていた気がする。

「人より先に風呂に入るときは、必ず、その人に、お先にご無礼します、と言え」
 薪で沸かした風呂に家族は順番で入っていた。今のようにシャワーもなければ追い炊き機能もない。風呂桶にたまったお湯がすべてで、それを全員で大事に使ったのである。あとの人のことを考えると必要以上にぬるめてはならず、お湯を使いすぎてもいけなかったのだ。だから、風呂に入るときには、いつも緊張を強いられていた。

「食事のときは黙って食べろ。ぺちゃくちゃ喋るな。脇をしめて食え。出されたものは絶対残すな」

「ごはんのおかわりをするときは、茶碗を両手で渡せ。いただくときは必ず両手で受け取って礼を述べよ」

「贈答品はそれをくれた人の前で包装紙を開けたりすることは絶対に慎め」

「トイレのスリッパは次の人がはきやすいようにそろえて脱げ」

「あくびやくしゃみをするときは、必ず手で口をかくせ。口の中を人の視線に晒すべきではない」

 口の中や、耳や目や、普段露出していない肉体の部分を人目に晒すことは、恥ずべき行為だったのだ。電車の中で化粧をしたり、物を食したりすることなど、とんでもないことだったのである。

 日常生活のさまざまなシーンで、実にいろんなことをしつけられたことを思い出す。その中には、こんなものもあった。

 子どもの頃、食事のときに沢庵をバリバリ食べていた。すると、母親が、「沢庵は一口で噛み切らないで、必ず二口で噛み切りなさい。一口だと、歯形がそのまま残って、美しくない」と言ったのである。
「食べ物に残された歯形は美しいものではない」。
 子ども心に、ふーむ、と思った。そういうものなのか、と。
 そうしつけられてから、もう何十年もが経つ。

 今年の正月、ふるさとに帰省し、母親と食事に出かけた。
 田辺市の国道42号線沿いにある「銀ちろ」のカウンターにふたり並んでお刺身定食を食べた。
 80歳になる母は、カウンターの椅子の上で小さく見えた。
 背中を丸めて、静かに、すこしづつ箸を運ぶ。そのペースにあわせて私もゆっくりと食べていた。
 見るともなく、ふと母の皿を見ると、そこには、きれいに二口で噛み切られたかまぼこがちょこんと乗っていた。

 すこし、胸がつまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月26日 (火)

大佛次郎「終戦日記」を読む。

 ブログを始めたからなのか、人の日記ににわかに興味がわいてきた、という話は以前に書いた。佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)について、佐野氏がその執筆にあたって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、時に日記の筆者を罵倒しながら(笑)、死ぬほど退屈な日記を読み続けた話は、ご披露したばかりである。

 で、続けて読み始めたのが、大佛次郎の「終戦日記」(文春文庫)。鞍馬天狗の作者の、昭和19年9月から、20年10月までの個人的な日記である。これを、毎日、風呂の中で、スポーツドリンク片手に汗をだらだら流しながら、読み進めた。一気に読みきるのではなく、まさにだらだらと楽しみながら読み続けた。そして、昨夜、ベッドの中で深夜、読了。読み終わって、泣いた。

 比喩ではない。夜の闇の中で、静かに、涙を流した。本を読んで泣く、などということはめったにあることではない。まあ、ちょっと、歳をとって涙もろくなったということはあるかもしれない。が、何よりも僕の心をつかんで静かに強く揺さぶったのは、「日本と日本人の行く末をこんなにも一生懸命、案じた人がいたのか」という、崇敬に近い思いだった。
 もちろん、その後で、「翻ってこの俺は、いったいなんという人生を送っていることか」という慙愧の念が襲ってきたことは言うまでもない。

 日記を読む楽しみは、まるで、その筆者と寝起きをともにしているような気になることである。会ったこともない、口をきいたこともない、明治30年生まれの作家と、戦時下の鎌倉で、一緒に酒を飲み、飯を食い、時の為政者や軍部の愚行をのろい、ともにB29の空襲におびえ、ゲーテやツルゲーネフやゴオゴリやチェーホフを紐解くのである。

 何日もかけてその日記を読みついでいくと、まるで、大佛次郎が自分の身内のような気持ちになってくる。とても大事な人に思えてくるのである。
 しかし、読み終えて、文庫のカバーに記された作家の経歴を見ると、

<昭和48(1973)年4月30日逝去。>

 とある。そうか、もう死んだのか、もう、死んじゃったのかよー、というなんとも言えない哀切な気持ちが心を覆いつくす。明治30年生まれなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、日記を読み続けていた何日間かをともに生きた、という実感があるから、ある種の喪失感が訪れる。もう、いないのか、あんなにも日本と日本人のことを真摯に憂い続けた人が、もうこの地球上にはいないのか、と思うと、とても無念な気持ちにさせられる。
 できることならば、謦咳に接したかった、と今の僕は切実に思う。が、昭和48年の僕は、たとえそのとき、目の前に大佛次郎がいたとしても、そんなことはこれっぽっちも思わなかったに違いない。

 日記を読んで驚いたことがふたつある。ひとつは、昭和19年、20年というせっぱつまった年であるにもかかわらず、彼らはほとんど毎日浴びるように酒を飲んでいることである。もっとも、稼いだ金はほとんど麦酒と本に費消したとどこかで自嘲的に豪語していたぐらいの人だから、その飲酒量が日本人の平均であったわけではないだろう。

 しかし、昭和のその頃は、銃後でさえ、飲まず喰わずであったに違いない、と戦後生まれの僕たちは早とちりするが、日記を読む限りでは、なかなかどうして、みんな、ジャンジャン飲んでいるのである。他にすることがなかった、ということもあるに違いない。
 どんなに飲んでいるか、その部分だけを書き抜いてみよう。こんな具合である。

<昭和20年 元旦  夕方酔いて門田君のところへ行く。大住君坂田水口などいる。深酔して些か過激の言を弄し翌朝極りわるきことなりし。

正月六日 茶室で熱燗の酒を出し暗くなってから二楽荘へ行く。集る者里見久米長田秀吉屋信子川端康成、村上猶太郎、皆々酔う、乞食大将(大佛次郎のこと)も威張って見せる。

正月七日 佐、今、清、吉野と香風園へ行き飲む。気焔の残りを吉野君と家へ持って帰り激語す。

正月八日 広安氏がくれたウイスキを飲んで寝たが夜中睡られず。

正月九日 新聞三回書き夜十時ウイスキーをのみながら酔った勢いで大きく外科手術をする。
正月 十一日 木原君のところの合成酒を取寄せ岸吉野を呼び飲む。吉野の酔い方近頃激し。>

  おとなしく飲んでいるだけではない。こんな日もあった。

<二月十九日 夕方相馬君が清酒一升さげて入ってくる。岸君を呼び何もないからコンニャクで飲む。吉野君加わる。酔って腹の立つことあり吉野君にバケツで水をかぶせる。怒らなかったのに後で感心した。>

<七月二十三日 山田兼次来たる。昼食後吉野君の家へ酒を持って二人で行き、沢木原これに加わってから無政府状態の酔となり、家へ帰り土中を掘起し取っておきの酒までぬく。(略)あばれ出すと飲みものも喰いものも人に出して了うこと洗城の観あり。何もなくなった。>

 思わず、頬がゆるむが、これは、特に飲酒シーンが多い日を選択的に列挙しているわけではない。適当に選んで抜書きしてみたらこうなったまでである。ビールなどは、本数は少なくなったものの一般に配給されている。日本酒も、あるところにはいっぱいあったようである。 
 考えてみれば、ビールの製造に携わる人々はそれで生計を立てていたわけだから、戦中といえども、生活をしなくてはならず、ビールを製造し続けていたとして何の不思議もない。(もっとも、昭和20年3月14日付けで、「昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定すと、いよいよ禁酒なり。」の記述がある。もちろん、どうやって調達したのか、大佛次郎翁はその後もかわらず、飲み続けているが。)

 もうひとつ驚いたことは、なんと人の行き来が多い家なんだろうか、ということである。上記の日記の抜粋を見ただけでも、何人もの人物が(我々が知っている人も知らない市井の人も含めて)、入れ替わり立ち替わり大佛家を訪れ、飯を食い、酒を飲み、何事かを談じ、ときに酔っ払って泊まっていくのである。ほぼ毎日誰かが訪れている。しかも、大佛次郎はそのことを苦痛には思っていない。むしろ、愉快に感じているふしもある。

 一升瓶を持って来る人がおり、獲れたばかりのアジをいっぱい持って来てくれるひとがおり、野菜や砂糖や肉を届けてくれる人がいる。向こう三軒両隣のお付き合いだけではない。出版社の編集者、新聞社の記者、軍人、作家、評論家、画家、近所の飲み屋のオヤジやおかみさんなど、およそありとあらゆる人が大佛次郎を尋ねてきて、ほっこりした気持ちで帰っていくのである。人徳といえば人徳だが、むしろ当時の人々は、そのようにしてお互いに助け合って生きていた、と考えるほうが自然なように思う。

 たとえば、この日記の末尾に、当時、大佛次郎が書いた書簡が掲載されている。その中にこんな記述がある。

<この豆腐屋やの大将がこの間ひょっくりと台所へ顔を出した。奥さん見てくれと云って二尺ぐらいの大きな鯛を出して、旦那が戦地から帰ってきたお祝いに何か持って来たいとずっと思っていたら今日になってやっとこいつを見つけたから持って来た、喰っておくんなさいと云う。>(昭和19年12月1日付け)

 実は、この豆腐やの大将に限らず、こんな人のいい人々がこの日記には次々と登場するのである。
 ちょうど、この日記を読み進めながら、同時に、内田樹氏の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)というエッセイ集を読んでいた(氏の書名としては、曲に溺れた難解なタイトルである)。

 そして、なるほど、内田氏が手をかえ品をかえ、主張していることはこういうことなのか、と深く納得することとなった。
 内田氏は、一人で食事をする「孤食」、あるいは「個食」の人が増えていることを踏まえて、こんなことを書いている。

<「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
 それが可能であるのは二つの理由がある。
 一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。
 これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
 けれども、人類が誕生して数十万年の間、「食物や水が貴重な財ではなく」、「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」という環境に人間が生きることができたのはきわめて例外的な場合だけである。
 ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。>(P196-197)

 「終戦日記」に登場する人々の心理と行動はまさに上記の通りではないか。いつ死ぬかもしれない、明日の運命をもしれぬ日常を生きることになると、人は無意識のうちに手を取り合って生き始める。スタンド・アローンな生き方は、即、死に直結する。<人間は共同体を分かち合う他者がいてはじめて人間になることができる。>(P66)という「人類学的知見」も実によく分かるのである。
 内田氏がレヴィ=ストロースの知見としてよく引用している、「人は手に入れたいものは、それを他者に与えることによってしか、手に入れることはできない」という文言も、あるいは、<今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。>(P80)という一文も、よく飲み込めるというものである。

 理屈っぽい話になってしまった。内田氏の文章を引くと、とたんに話が理屈っぽくなってしまうのが困ったもんである(笑)。勝手に引用しておいて難癖つけるとはどういう料簡だ、と叱られるだろうが。

 それはさておき。この日記に記された好きなシーンを最後にご紹介しておきたい。日記には、簡潔な文章で、メモのように坦々と日々の出来事が記されている。詩的な感興や文学的たくらみを、そこに封じ込めようという作者の意図はもとよりないのだが、それにもかかわらず、眼がそこに釘付けになる記述というものがある。まさにその時代のその日時を生きていた人たちの息遣いを、しっかりと聞き取ったような気持ちにさせられるような描写がある。

 たとえば、昭和20年2月7日。

<新聞を二回書いて送ってから一睡。鞍馬の火祭りの校正二百五十頁了、後半など悪くないと思った。合成酒と麦酒一本をコタツで飲む一時半床に入る。宵より雪となる。便所の窓から手を伸ばし南天の葉につもりしを払う。>

 深夜、便所の窓から手を伸ばして南天の葉に積もった雪を払い落とす、大佛次郎の姿が見える。どんな気持ちで、なぜ払い落としたのかは書かれない。しかし、夜の暗闇の中で、さっと落ちる白い雪が見える。
 そんな記述が僕の胸に刺さる。

 あるいは、9月26日。すでに戦いも終結し、疎開していた人々がつぎつぎに帰郷してくる。漫画「フクちゃん」の作者・横山隆一もその一人だった。親交の厚い大佛は横山のことをフクちゃんと呼んでいた。
 
<客、水口内山基、野原夫人、門田ゲッティ来たり夕食、フクちゃんも信州から出てきて加わる。フクちゃん台所より入り来たり酉子の顔を見るなり無言で落涙す。よき人なり。>

 生きて戦後を迎えた二人が再会する。大佛家のかって知ったるフクちゃんは、玄関からではなく、台所の勝手口から入ってくる。そして、大佛夫人を見とめて無言で泣くのである。涙をただ流すのである。
 たまらないシーンである。何回読んでも胸に迫る。
 昭和20年の9月26日夕刻、横山隆一は大佛家の台所で、確かに、すすり泣いていたのである。

 大佛次郎は、戦後の日本と日本人はどうあるべきかを真摯に案じ、かつ実践した人であった。
 戦後の日本の復興を、政治・経済・外交・文化のさまざまな局面で推進した人々は、そのような多くの大佛次郎たちであった。彼らは、明治中期から後期に生まれ、大日本帝国憲法下の「アンシャン・レジーム」のもとで成長し、その倫理と論理を確立した、骨のある日本人たちであった。
 皮肉なことに、戦後の日本の推進力となったものは、戦前の廃棄すべき体制のもとで形成されたものだったのである。
 その彼らがこの世から去り(大佛次郎が死去したのは1973年)、戦後生まれの、戦後の倫理と論理を身につけた日本人が日本運営の中心メンバーになってからというもの、日本丸の運行はまことにもってはかばかしくない。
 明治後期生まれの日本人の実力は、実に、侮れないものなのだ。

 長くなった。クサい話が好きな僕らしいエピソードを書いておしまいにしよう。
 この分厚い日記の中で、大佛次郎は2回、野糞をしている。しかも、うれしそうにそのことを書いている。さあ、どこに書いてあるでしょう?
 ご自分の目で探してください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

眉間のしわ

 昨日、夜中に眼が覚めて眠れなくなった。
 自分のことを棚の最上段にあげて、人の文章を悪し様にけなしたバチだろうか。
 あーあ、眠れないなあ、と手を眉間にあてたところ、深いしわにぶちあたった。ありゃあー、しわがますます深くなってるよー。毎日険しい顔をしてんのかなあ、いやだなあ。高校生のころはこんなの、なかったのになあ、と寝ぼけた頭で考えながら、もみ消してやろう、と一生懸命マッサージしているうちに、また寝入ってしまった。

 朝起きて鏡を見ると、眉間のあたりが、真っ赤にはれあがっている。モミモミのしすぎである。えらいことになっている。
 もう、ボトックスするしかないのかなあ。

 会社に行くと、ABCマートの三木正浩氏から小包が届いていた。あけてみると、ゴルフのシューズを入れるバッグ。手紙が添えられていて、
「戸塚カントリー倶楽部、東コース4番ホールで、生涯初のホールインワンした記念である」と書いてある。文面がにこにこ踊っていて、ほっこりした気持ちにさせられる。
 羨ましい。
 私も、死ぬまでに一回はやってみたいと、眉間をなでながら、思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

橋本治の恵み

 橋本治氏について、さほど多くのことを知っているわけではない。
 一番古い記憶は、今から40年ほど前。
 古いなあ、話が。我ながら驚いてしまうが、いまだに鮮明に覚えているのだからしかたがない。何気なくテレビを見ていたら、デニムのつなぎを着た長髪の青年が登場して、タバコをすったり寝転がったりしながら、カメラの前でニコニコしつつ何やら一生懸命喋っていたのである。おせんべいのような、丸くて平たい顔がとても印象的だった。

 それが橋本治氏だった。1968年の東大駒場祭のポスターの絵とコピーを書いた本人として紹介されていた。当時、20歳。東大文学部国文科の学生であり、かつイラストレーターだったのである。どれだけの人が覚えているか知らないが「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という名コピーとともに橋本氏の名前は人々にしっかりと記憶された。

 それから20年。友人(男性)がなにやら派手なセーターを着ていた。胸のあたりになんだか分からないが絵が編みこまれている。
「どうしたの、そのセーター」
 と聞くと、
「あ、これ? 橋本治さんにもらったんだよ。橋本さん、編み物うまいんだよ」
 ふーん、器用な人なんだなあ、とそのとき思った。

 それからまたまた20年。
昨年の小林秀雄賞の授賞式での橋本氏のスピーチがとても秀逸だったと友人から聞いた。受賞者は内田樹氏。文春新書の「私家版・ユダヤ文化論」での授賞である。そのお祝いのスピーチをするために、選考委員を代表して橋本氏がマイクの前に立った。
 内田氏の学生時代の卒論がモーリス・メルロ=ポンティだったことを受けて、
「人は学生時代に、メルロ=ポンティに出会うか、カルロ・ポンティに出会うかによって、その後の人生が大きく変わる」
 うまいこというなあ。センスいいなあ、と大いに感心した。
ちなみに書いておくと、メルロ=・ポンティはフランスの哲学者、カルロ・ポンティはイタリア人の映画プロデューサーでソフィア・ローレンの亭主である。

 私の中で、橋本治氏は、絵も描けば、コピーもものする器用で、センスのいい人として登録されたのだった。その橋本氏が「小林秀雄の恵み」(新潮社)なる評論を上梓したというので、早速買って読み始めた。何しろ、小林秀雄賞の選考委員でもある。さぞや、数々の「恵み」が軽快に披露されているのだろう、と思ったのである。

 読み始めて驚いた。なんじゃ、こりゃ、とひっくりかえったのである。申し訳ないがそれが素直な感想だったのである。それまで、橋本氏の本を読んだことがなかったので、なおのこと「びっくり」に拍車がかかった。
「こんにちわー」と橋本家の門扉を開けて玄関に向かう道が、あまりの悪路でひっくり返りそうになったような感じなのである。おそらく、本書を読了した人は、作者自身と編集者と校正者と、あとはGOOGLEのスキャナーくらいのもんではないか、と思う。

 つべこべ言ってないで引用しよう。

<読み手である私が「小林秀雄を読む」とは、私にとって必要なところ、分かるところだけを拾って読むのに過ぎない。「私の読んだ小林秀雄」は、「小林秀雄の語ったこと」の一部に過ぎない。「私の分かったところ」に「私の分からないところ」を合わせて、それが「小林秀雄の語ったこと」である。「分かる、分からない」は読み手の能力の問題でもあるが、それを超えて「分からない」になる部分もある。それは、時代の差である。小林秀雄が死んだのは、私が小林秀雄を読む二年前だが、それは偶然に過ぎない。しかしあるいは、必然かもしれない。なぜならば、私にとって、小林秀雄は初めから「古典」だからである。(略)
 
 小林秀雄は、私とは違う時代に生きていた。だから、私が小林秀雄を読んで「分からない」と思う部分は、彼の生きた時代のもたらした部分である------そのように思うからこそ、「分からない」ということが気にならない。それは、自分の生きている時代とは違う、「小林秀雄の生きていた時代」に関わることだからである。その「分からなさ」を看過してしまえば、容易に小林秀雄は分かる。そしてそうなった時、小林秀雄は私の同時代人である。しかし、その私の「分かったこと=読んだこと」は、小林秀雄の語ったことのすべてではない。一部である。私は、小林秀雄の「語ったこと」にしか関心がない。小林秀雄の「語らない部分」はどうでもよい。そして、私が知るべきことは、「小林秀雄の語った、私の分からない部分」なのである。>
(P15-16)

 もう、分かったよー。と叫びたくなってくる。くどいよーーーーー。
 しかし、まだまだ続くよ。

<『本居宣長』をもう一度読まなければならないと思った二〇〇三年の私は、小林秀雄の「分かる」と「分からない」の違いを、明確に意識していたわけではない。ただ、「今読んで分からない部分はあるのだろうか?」と思って読み始めた。「おそらく、小林秀雄の語ることのすべては分かるだろう」と、考えてもいた。「『本居宣長』に書かれたあらかたはもう知っている」と思えばこそ、そのようにも思った。ところが、読み始めてしばらくして、愕然とした。愕然として仰天して、感動に手が震えた。>(P17-18)

 私も愕然とした。愕然として仰天して、本を投げ出した。
 もう、勘弁してください、という心境である。

 世の中に、難解な文章というものがあることは分かる。難解にしか表現できないことがらが存在するからである。しかし、難解な文章と悪文は断固として違う。難解に書く必然性のない難解な文章のことを悪文、というのである。そして、上記の文章は、正真正銘の悪文である。

 なんのために、こんな牛のよだれのような文章を書こうと、橋本氏が思い立ったのか、私にはさっぱり分からないのである。しかも、第一章の冒頭に、である。さあ、旨い寿司を食うぞ、と思って寿司屋の暖簾を分けて入ったら、いきなり、わけもなく、塩をまかれたような気分である。せめて、終章ぐらいのリズムの文章をお書きいただきたかった、と一読者として慨嘆せざるをえない。「小林秀雄の恵み」どころか「橋本治の恵み」にも邂逅することなく、すごすごと退散するしかなかったのである。

 こうなったら、悪文ついでに、もうひとつ書いておこう(笑)。
 かねてより、不思議に思うことがある。朝日新聞の大江健三郎のエッセイである。なぜ、朝日が、「名文と呼ぶにはいささか困難を覚える」氏の文章に、大きなスペースを割くのか、これも皆目分からない。たまたま、朝日の2月19日付け朝刊で氏の「定義集」と題された一文を目にした。

 前段で、氏は、学生時代から、気に入った文章をカードに記録し、正確に引用するように心がけていた、と述べる。しかし、最近、その一節は覚えているものの、どの本から書き写したものだったかをしばしば忘れている、と書く。それを、受けて、

<その私は家内からどういう言葉なのかを聞かれ、きみもぼくから聞かされたはずだけれど、と話したのです。シェークスピアの二行ほどをフランスの小説家が引用していて、それをカードにとって訳したのをよく口にしてたから・・・・・記憶にあるのは、
  ----そのように考え始めてはいけない、というところでね。
 私は読んだ本を整理するのが仕事、とは幾度も書いてきました。家内は、人生で本当に大切に感じた本はすべてしまっておいてるのじゃないか、と思われるタイプ。高校を出たばかりの家内と私が知り合ったのは、友達のお母さんから、戦争の始まったころに出た本で(今年、朝日賞を受けられた石井桃子さんの訳の)「熊のプーさん」「プー横丁にたった家」を、娘が貸し失って嘆いている、どこかで見つけられないか、と頼まれたのがきっかけです。すぐに探して送ったのに礼状が来て、娘さんとは今も一緒にいます。>

 分からなくはない。分からなくはないが、いろいろと忖度して解釈しなくてはならない箇所が多すぎる。そのような文章もまた、悪文と呼ばれる運命にあるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月20日 (水)

アラン・ロブ=グリエが死んだ。

 アラン・ロブ=グリエが死んだ。

  新聞の死亡欄に、ひげもじゃの老いた顔が載っているのを見つけて、ああ、死んじゃったのかあ、という思いとともに、三十数年前の自分の姿が頭の中のスクリーンに甦った。

  新潮社からでた、平岡篤頼訳の「ニューヨーク革命計画」を小脇に抱え、長髪で痩せこけて、サンダルをぞろぞろ引きずりながら、ハイライトをくわえて、うつむきながらキャンパスを歩いていた自分の姿を思い出した。
  本当に、暗かったねえ、あのころは。神様が現れて、もう一度、あの時代に戻らせてやろうという思し召しをお示しくださったとしても、丁重にお断り申し上げたいくらいに、時代も自分自身も暗かった。
  しかし、何を好き好んで、ロブ=グリエなんか読んでいたんだろうか。いや、それは正確ではない。「ニューヨーク革命計画」を読了した記憶はない、どころか、どんな話だったのかも皆目思い出せないのだ。

  思い出せないのは、ロブ=グリエだけではない。 ミシェル・ビュトールもナタリー・サロートもクロード・シモンもフィリップ・ソレルスもル・クレジオも、なーーんにも、覚えてはいない。うんうんいいながら、格闘しつつ何冊かは読んだはずなのに、そのかけらさえ、脳味噌の中には残ってはいないのだ。

 それも、しょうがないのである。彼ら、ヌーヴォー・ロマンの作家たちは、従来の小説の概念や作法を根底から否定してスタートしたわけだから、もう、何が何だかよく分からない、のである。ストーリーもあるのかないのかよく分からない、面白いのか面白くないのかさえ、分からない。ということは、面白くなかったんだろうな、きっと。面白ければ、少なくとも、なんであるのかは分かったはずだから。

 そのころからである。フランス人というのは、本当に分けの分かんないことを、ぐずぐずぐずぐず表現する面倒くさい人たちなのである、ということを理解し始めたのは。

 しかし、当時の大学生たちは、戦後のフランスに発祥した、そんな文学の新思潮に、真摯に立ち向かおうとしていたのである。今から思うと、なんでそんなに真面目だったのか、よく分からない。よく分からないが、その真面目さを思い出すと、ちょっと泣けてきそうになる。
  サルトル、カミュの次の世代に立ち現れた、実験的小説を理解しようと悪戦苦闘していたのである。本来ならば、まず語学を習得した後に原書に向かうべきなのに、男子学生は、そんな辛気臭いことはやってられんない、と平岡篤頼氏や菅野昭正氏の翻訳本に頼ったのだった。

 愚かなことであった。今ならば、たとえ、迂遠な道のりに見えたとしても、語学をまず習得することが最短コースであることを知っている。「語学を学ぶ」ということは、単に単語を覚えたり、文法をマスターしたりすることではなく、「その言語で生きる人々の物の考え方を学ぶ」ことであるから、その回路を通過して新思潮に接するのが、理解に到達する最も手っ取り早い方法なのである。後悔先に立たず、とはよく言ったものである。

 で、気分がとってもおフランスになっていたところに、京都に住むエリチンこと関谷江里さんからメールがとどいた。関谷さんは、泣く子も黙る、道で遊んでいた子も走って逃げる、パリ&京都マニアである。ソルボンヌの「外国人学生のためのフランス文明講座」の一番難しいクラスをちゃんと履修した、まじめな方であるが、なぜか、京都の魅力に取り付かれ、昨年、東京の自宅を引き払って、京都に移り住んでしまったお方である。仕事で京都を訪れた際には一緒にご飯を食べたり、お茶を飲みに行ったりしていただいている仲である。

  その関谷さんと、数年前、今出川のル・プチ・メック(Le Petit Mec )というパン屋さんに出かけたことがある。小さなパン屋さんだが、気分は完全にパリのパン屋さんという風情で、壁にはゴダールの映画「Pierrot Le Fou」(気違いピエロ)やルイ・マルの「Zazie dans le métro」(地下鉄のザジ。レイモン・クノーが原作だったなあ、そういえば)の馬鹿でかいポスターが貼られ、フランスのラジオ放送がずーっと流れている。その空間にいると、その昔、ヌーヴォー・ロマンに入れ込んでいた頃のことなどを思い起こさずにはいられないパン屋さんなのである。

「いいなあ、フランス語の放送が流れてると、本当にパリみたいだね」
 というと、真っ赤なセーターに真っ赤なマニュキュアの関谷さんは、
「わたしなんか、おうちでもフランス語の放送をずーーーーーーっと流してます」
 と、真っ赤な口紅を塗った唇をピクピクさせて自慢するのだった。
 その関谷さんから、 こんなメールが来た。

http://www.france-info.com/spip.php?rubrique9&theme=9 

↑お話ししたフランスアンフォです。
右に出てくる黒枠の、
player のところ、
direct で聴けます。

これをかけっぱなしにしたら「ル・プチメック」状態になります♪>

 試してみたら、なるほど、気分はおフランスである。しかも、タダというのが私の性分にマッチしていて、まことに、トレビアンなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

宇宙人の落書き?

  どなたかご存じであれば、是非、お教えいただきたい。

 街のあちこちに書き殴られている落書きみたいなモノを、誰が、何のために、いつ書いているのかを。その中には、EKYSと縦書きになっていて、なんとか読めるのだが、あとはたいがい、アルカイダの落書きかサンスクリットの早書きか、宇宙人のイタズラ書きのようなのである。 なんなのであろうか。アート? 宣伝? 新興宗教の おまじない? 

 まったく分からない。電信柱、看板、東京電力の分電(?)の冷蔵庫みたいな機械など、気にするとあっちこっち、めったやたらに書かれている。しかし、誰かが書いているところを見たことはない。

 もう一点。このブログの行間をもうすこし広げたいのだが、どうすればあけられるか、ご存じの方、是非是非、お教えください。私の能力では、できません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月17日 (日)

バート・バカラックと綴れますか?

 バート・バカラックを知っていますか?
 まあ、ほとんどの人は知っているでしょうね。でも、バカラックと綴れるひとはあまり多くないでしょう。Burt Bacharach。1928年5月12日生まれだから、もうすぐ、80歳! そのバカラックのコンサートを聴きに、東京国際フォーラムに行ってきました。
 約5000席が満席。私同様、中高生の頃にラジオで初めてその音楽に接し、都会的で、大人な雰囲気の曲に酔わされて、それ以来ファンになったと思しき、白髪混じり、あるいはゲーハーなオヤジ&オバハンが会場を埋め尽くしていました。

 バカラックはアルマーニと思しき、ノーベンツのダークスーツを着て、長い手脚をもてあまし気味に深々と頭を下げて挨拶をし、往年の曲を次々に披露しました。
 多数の曲をさまざまなアーティストに提供していることに驚かされます。ディオンヌ・ワーウィック、カーペンターズ、トム・ジョーンズ。そして映画音楽も。「明日に向かって撃て」の主題歌「雨に濡れても」はあまりにも有名。最近では、エルビス・コステロなどともコラボ。

 バカラックさん、ピアノの弾き語りに挑戦するのですが、もうすぐ80歳になるだけあって、残念ながら、思うように声がでません。会場からは、頑張れ、と応援するようなあたたかい手拍子が自然にわきあがります。いいなあ、こんな優しいファンに囲まれて幸せな人だなあ、と思ってしまいました。

 コンサートの最後は、「雨に濡れても」を会場と一緒になって大合唱。スタンディング・オベイションに応えて、前列のファンと握手をすると、いい年をした観客が殺到するほど、根強いファンに愛されているようです。

  そういえば、その昔、自分はこの人の曲を聴いて、「都会」や「大人」や「洒脱」というものに憧れたのだったなあ、と遠い日のことを思い出しました。そうだ、そういったものに憧れて自分は東京に出てきたんだったと気づきました。で、今は満足しているのかい、という、昔の自分から今の自分への問いかけが、曲を聴いている最中にやってきました。

 うん、どうなんだろうな、満足しているのかなあ。よくわからない。
 でもね、よかったよ、頑張っているバカラックを見ることができて。もうこれが最後かも知れないしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月14日 (木)

ケアリイ・レイシェルで泣く。

 ブログ初心者なので、今日まで一生懸命、よしなしことをガリガリ書き込んできたけれど、あんまり全力投球すると、身がもたない、というか、本業に差し支えるということが、うっすらと分かってきた。
 確定申告もしなくちゃいけないし・・・・。

 たまには、軽―く、書き流すこともしとかないと。

 車を運転しながら、ラジオで、ケアリイ・レイシェルというハワイ在住の歌手が歌う、「カ・ノホナ・ピリ・カイ」という曲を聴いて、涙がこぼれた。たまに、そんな曲に出会うことがある。日々の憂きことが一瞬、洗い流されて、心が澄明に静まるように感じることがある。
 ちょっと、弱っているのかな。
   
 すぐにその曲が収められているアルバムを入手した。リリースされたのは3年ほど前だから、ずいぶんと経ってから聞いたことになる。
 アルバムのサブタイトルに、SCENT OF ISLANDS, SCENT OF MEMORIES  とある。

  島の匂い、思い出の香り。

 いいタイトルだと思う。
「カ・ノホナ・ピリ・カイ」を聞いて涙した、と書いたが実はこの曲は沖縄出身のグループ、ビギンの「涙そうそう」をカバーしたもの。沖縄から発された叙情が、ハワイの感性に掬い上げられて、美しくも優しい独特のリリシズムをまとって生まれ変わったように思われる。

「涙そうそう」のカバーではあるけれど、聞いているとあれっと思う。確かに出だしは「涙そうそう」なのだけれど、途中から、ごく自然に、似ているけれど、まったく違う曲にすりかわっていく。
  滑らかに、静かに優しく。

 滞日中だったケアリイ・レイシェルはたまたまビギンが歌う「涙そうそう」を聞いて衝撃を受け、このアルバムの柱に据えることを決意したという。が、カバー化はたやすくなかった、とアルバムに収められたライナーノーツの中で語っている。

「ビギンが作ったこの素晴らしい曲を、私はただカバーしたいと思っていたわけではないんです。そこから私は、私自身の歌が現れるのをじっと待ちました。<涙そうそう>を聴いたときから私は感じていたのです、そこには何か私に歌われるべき別の物語がある、と。私は待ち、それから作業を始めましたが、作業も困難を極めました。様々な変換やアレンジを試しました。でも、私は心の声が言うままに従い、そうやって<カ・ノホナ・ピリ・カイ>は完成したのです」(今井栄一氏のライナーノーツより)

 素敵な話である。ケアリイ・レイシェルは「涙そうそう」を自分流に歌いこなそうとしたわけではなく、「何か私に歌われるべき別の物語」があるような気がして、その到来をじっと待ち続けていたのである。
  沖縄の旋律が風に乗って、遥かハワイに舞い降り、その地でゆっくりと醸成されるのを待って、静かに、歌い上げたのである。

  彼の歌声に身を任せると、島の匂い、思い出の香りが、聞くものの心を、あたたかく、包み込んでくれるような気がする。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月13日 (水)

佐野眞一氏が泣きじゃくる。

  このブログをスタートするにあたって、他人の日記というものに興味が起きた。
永井荷風の「断腸亭日乗」やら山田風太郎の「戦中派不戦日記」など、参考にすべき名作日記はいろいろとある。そんなことを思っていた時に本屋で偶然、佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)なる本に出くわした。

  その帯の惹句に心が動いた。

<大正期、激動の宮中におそるべき“記録魔”がいた
世界最長の日記に佐野眞一が挑む!
宮中某重大事件、皇族・華族のスキャンダル、摂政問題、白蓮騒動、身辺雑記・・・・・
 とにかく書いた、何でも書いた。
 誰も読み通せなかった近代史の超一級史料をノンフィクションの鬼才が味わい尽す!>

 うまいもんですな。
担当編集者が興に乗って、パソコン相手に書きなぐっていたらどんどこ書けてしまって、ええい、全部帯に載せちゃえ、と言ったかどうかは知らないけれど、とにかくにぎやかな帯が出来上がっている。
「世界最長」という部分にまず、眼を奪われた。
   ミシシッピ川じゃあるまいし、そんな長いことに意味があるんだろうか、といぶかしんだ。次に「誰も読み通せなかった」というところが妙に気になった。なんで、読み通せなかったんだ? そんな凄い日記なのに、と誰しも思うだろう。

  そう、そう思ってしまったときに、もう、負けてしまっているのである。担当編集者にまんまと乗せられてしまっているのである。

  ページを繰ってみると、それはもう、もの凄い日記であった。

  まず、驚かされるのが、その分量。日記の巻数は、小型の手帳、大学ノートなど297冊。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。分厚い本にして50冊は優に超える量だという。しかも、癖のある手書きなので、解読は容易ではない。
  日記の筆者は、倉富勇三郎。1853年久留米藩の漢学者の家に生まれ、昭和23年、96歳で死去。東大法学部の前身の司法省法学校を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官など経て、枢密院議長などの要職を歴任したエリートである。佐野氏の比喩を借りれば、「石部金吉に鎧兜をつけたような」人物である。
       
「正直言って、これほど浩瀚な日記を書きつづけた人物が、本当に仕事をするひまがあったのだろうかと、訝られるほどである」という膨大な、この倉富日記の完全読破に挑戦した先達が2人いた。
  ひとりは倉富の縁戚にあたる作家の広津和郎。だが、その長大さに途中で投げ出し、次に挑戦したのが、みすず書房創業者、小尾俊人氏。が小尾氏も、倉富のみみずの書のような手書きに辟易して撤退。
  そんな難攻不落の巨大日記に、佐野眞一氏が敢然と挑戦! だと思って読み始めたら、全然そんなことはないのである。
 実は、佐野氏も日記全部を完全読破できていない。それどころか、26年分の中の2年半分しか読めていないのである(しかし、それでも、400字詰原稿用紙で5000枚ほど)。
  しかもそれだけを解読するのに5年を費やし、本書を完成させるためにさらに2年を費やしている。よっぽどの難業だったようで、佐野氏は泣くのである。泣いて泣いて泣きまくるのである。
  実は、ここが本書の一番面白い部分でもある。引用してみよう。

「ただただこの長い日記をひたすら読み込んだ者の立場から言わせてもらえば、倉富日記の記述は、重複がきわめて多いせいもあって、死ぬほど退屈である」(P17)
「例えて言うなら、倉富日記を読む作業は、渺茫たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている」(P18)
「倉富の記録精神は、やはりこの日記を全体としては砂を噛んだようなものにさせている。倉富日記を読む者は、益体もない記述の連続に、いやでもうんざりさせられ、必ず途中で投げ出すことだろう」(P20)
「こうした味気ない記述」(P21)
「ほとんど無味乾燥なこの日記」(P21)
「倉富は(略)、相かわらずどうでもいいようにしか思えないことを、おごそかな文体で述べている」(P38)
「読んでいてじれったくなるほど冗長な原文」(P66)
「修身の教科書にでも出てきそうな倉富の生活からは天才のひらめきも、特異な才能を持つ者が発するアブノーマルな底光りもまったく感じられない。(略)たゆまぬ努力によって該博な知識を身につけた超のつく凡人だった」(P109)
「倉富日記には、(略)くどくどしい言い回しが多く、書き写すのもうんざりする」(P227)
「倉富はなぜこんな埒もない出来事を、誰に読まれるわけでもない日記に書きとめたのだろうか」(P249)

 もう、ボロクソである。ここまで酷評されると、そりゃいったいどんな日記なんだろう、とかえって興味がわいてくるというものである。
読みたくなってきたでしょ?

 返す刀で、倉富自慢の漢詩についても、情け容赦ない。
「悲憤慷慨の思いだけは伝わってくるが、素人眼にもよくできた漢詩とは思えない。(略)対句仕立ての出来の悪い日めくり格言集を読まされたようで、思わず、吹き出してしまった」(P88)
  坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ついに、その舌鋒は倉富の容貌にまで及ぶ。
「倉富の風貌は(略)、村夫子そのものである。倉富の春風駘蕩然とした表情には、緊張感というものが微塵も感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめてきたかと思うと、本人には失礼ながら、その不思議さに頭が煮えてきそうだった」(P101)
 
 そして、佐野氏はついにこんな告白までしてしまうのである。
「ある日曜日、読み終わった倉富日記を朝から晩までパソコンに向かって打ち込む作業を続けた。夜になって一段落したとき、終日かかって書きあげたのが、倉富が執筆した1日分の日記に過ぎなかったことに気づいた。
 そのとき大げさでなく、体中に重い鉛をまきつけられて、深い海に沈められるような脱力感を覚えた。(略)正直に告白すれば、その時点でこの仕事をやめようと思った」(P250)
 にもかかわらず、7年の歳月を費やして、本書をなんとかかんとか完成することができたのは、
「倉富日記を何とか読み進めることができたのは、(略)刺激的なエピソードが、索漠たる叙述の中に時折現れ、その都度、鞭をあてられるように覚醒させられたからである」(P248)

 あくまでも、ボロクソである。

 そのような、前人未到の長大な日記を書き記した倉富が最後に書きとめた1行は、昭和19年の大晦日の日付欄にある。
「午後五時{十七時}三十分頃、硬便中量」
    
 午後5時30分、硬いウンコが普通の分量、出た。

 人の一生というのは、なんだか悲しい、としみじみ思う。
  
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月12日 (火)

不肖・宮嶋の「自衛隊レディース」

  「関西人の会」の翌日、不肖・宮嶋こと、カメラマンの宮嶋茂樹氏が、ご自身の新著を手渡しに来てくれる。
  新著は写真集で「自衛隊レディース」(イカロス出版)という。

http://secure.ikaros.jp/sales/mook-detail2.asp?CD=D-102
   その謳い文句は以下の如し。

<『カメラマン不肖・宮嶋、満を持して堂々世に送る』。 思い起こせば13年前、女性自衛官がまだ「婦人自衛官」と呼ばれていた頃、不肖・宮嶋、北から南まで飛び回り、全国の大和撫子自衛官を撮りまくった、あの伝説の傑作写真集が、21世紀を迎えた今まさに、満を持して、復活を遂げた! しかも今回はただの自衛官やない、すべて「空飛ぶ大和撫子」たちである。 ある者はP-3C哨戒機の左席に座り、ある者はC-1の機長を務め、またある者はキビシイキビシイ教官として男子学生をビシバシ鍛える。命がけの救難救助ミッションに敢然と立ち向かうヘリ・パイロットの凛々しい横顔、かと思えばスッチーに見まごう政府専用機の麗しい乗務員たち。さぁさぁ、そこらのギャルにうつつを抜かしている場合ではない。有事となれば一瞬の迷いもなく国防のため飛び立つうら若き乙女から、真実の戦いとはなにかを学ぶ時がきた。 今こそ、不肖・宮嶋のレンズの前に立つ憂国の美女たちの声を聞け。 さぁ、覚悟はできたか!? > 


   いいねえ、相変わらずの宮嶋節。衰えを知らぬ愛国エンタメ感が何よりも素晴らしい。写真集をぱらぱら見ていて、あることに気がついた。
「あれえ、今回は水着写真がないの?」
  宮嶋氏、口をとんがらかして、
「何をいうてまんねん。もう、そんな時代とちゃいまっせ。そんなセクハラ写真、撮れますかいな」
  今回の写真集は、自衛隊からのお声がかりによって成立したという。不肖・宮嶋の、これまでの信じられぬほどの活躍(戦地取材はもう、ここに書ききれぬほどなので、興味のあるかたは、宮嶋氏の著書をお買い求めください)を、自衛隊は正しく評価しているのであろう。あるいは、その真実の姿をまだ、よく認識していないのかもしれない。いやいや、そんなことは、あるまい・・・・・。
「あれえ、女性自衛官も男性自衛官も、おんなじ制服なの? ほら、股間のこの変なところにジッパーの引っ張るところがプラリンと・・・」
「また、しょうもないことによう、気がつきまんなあ。あんた、どこ見とんですか。一緒。男も女も制服は一緒ですわ」
「えええ? だってトイレのときに困るでしょ。男性は簡便だけど、女性はこんな格好だと、感単に用も足せないのでは?」
「緊急時の小用のときは、男性用にはポコッとつけるマスクみたいな簡易トイレみたいなもんがあるんですけど、女性用はないっ」
「ない!? どうすんの、女の子は」
「垂れ流し。そのまま、じょじょーと」
「そのまま、じょじょー!」
「そうです。ディズニーランドに遊びに行っとるんと違うんでっせ。戦場にいて、生きるか死ぬかの戦いをしているんでっせ。もう、羞恥心もへちまもありまっかいな。当然、じょじょーです」
「ああ、そんなもんですか。じょじょーですか」
「アメリカでもフランスでもじょじょーです」
  この手の知識については、宮嶋氏、恐るべき該博で、一緒に戦争映画など観にいったら、出てくる武器や戦車、戦闘機、制服について、ひとくさり能書きを聞かせてくれるので、退屈しない。
   その氏が、「じょじょー」だというのだから、きっと、「じょじょー」なのであろう。
   宮嶋氏、続けて、「低酸素状態の体験」について、面白い話を披瀝してくれた。自衛隊の戦闘機に同乗するには、それに耐えうる能力があるかどうか、その適正を事前にテストするのだそうだ。
    ご存知のように、ヒマラヤ山頂ははなはだしく低酸素で、酸素ボンベなしでは運動能力も知能も急激に低下する。戦闘機が飛行するのは、それよりもさらに高高度である。
「個室に入れられて、気圧をどんどん下げる実験をするんですわ。まあ、すこしづつでっさかい、だんだんに慣れてきます。で、紙と鉛筆を手渡されて、そこに、1000からひとつづつ少ない数字を書け、と言うんですわ。
  1000、999、998 と書くわけです。何をしょうもないことさせるんや、なめとんかい、こんなん、簡単やないか、とすらすら書く」
  で、実験室から外に出てから、自分が書いたその紙を手渡される。
  宮嶋氏、それを見て、びーーっくり!!!
「1000、999、998までですわ、おうとるんわ。後はもう無茶苦茶。998からいきなり940に飛んでたり、でたらめなことが書かれてまんねん」

  もうひとつの、面白い体験もご披露。
「もうひとつ、狭い部屋に何人も押し込まれて、徐々に空気を抜かれて、低気圧に対する耐性をテストされるんですわ。もちろん、酸素マスクをつけてまっせ。せやなかったら、死んでしまいますがな」
  誰でも経験があるに違いない。高速エレベーターで上階に昇ると、鼓膜が裏返ったようになるのを。体内の気圧が、対外の気圧よりも高くなり、鼓膜が内側から押されてペコポンとなったような感じがするのを。同じような感覚は飛行機に乗ったときにも味わうことがある。
  これが急速に起きると大変なことが起きる。体内の圧力が体外のそれに比して急激に高まり、内側から爆発してしまうのである。
  深海に棲む魚を一気に釣り上げると、手元に来たときには、口から内臓をはみ出させて悶死しているが、それも同じ理屈である。
「すこしづつすこしづつ気圧が下がっていくんですよ。そうするとですね、腸の中の気圧が高まって、自然にスーっと抜けていくんですわ。何が、って、ガスですよ。おなら」
「実弾は出ちゃわないの」
「また、汚いことを。そんなもん、出まっかいな。きゅっと締めてますがな。きゅっと。にもかかわらず、その辺の小さな隙間からすこしづづ、ガスが出て行くわけです。で、テストが終わって、試験官が、はい、では皆さん、酸素マスクをはずしてください、というんです。命令に従って、素直にマスクをはずしたら・・・・・・・、くっさーーーーーー! ものすごい臭いんですわ、おならが充満。12畳くらいの部屋に十数人がひしめき合って、全員が腸からガスを全部出してるから、もう、臭いのなんの、もの凄いにおいでっせ」
  尾籠な話で申し訳ない。しかし、私はこの手の話がなぜか、大好きなのである。宮嶋氏と話をすると、往々にしてこんな話になってしまう。
   クサい仲なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月11日 (月)

るんちゃん「論座」に載る。

  内田樹氏のブログ、「内田樹研究室」の2月6日付の文章に、驚くべきことが書いてあったので、そのことに触れたい。
 まずは、内田氏の文章を引用する。

<『論座』の今月号に私は短いエッセイを書いた。
掲載誌を送ってきたので、ぱらぱらと読んでいたら特集が「ポスト・ロストジェネレーション」である。
ロストジェネレーション話についてはこれまで何度か書いたので、私がこの問題の切り出し方について批判的であることはご案内の通りである。
この論題を持ち出したのはもともと朝日新聞であり、それが「え、もうポストなの?」と私はちょっと驚いたのである。
その中に「ポスト・ロストジェネレーション世代」の座談会というのがあって、四人の20代前半の男女がおしゃべりをしている。
読み進むと、中の一人の「01年に関西の高校を卒業して、それから東京に出てきてずっとフラフラしている」女の子が「東京高円寺の『素人の乱』という、アナーキストとろくでなし(笑)がやっているリサイクルショップでバイトしていましたが、いまは完全な無職です」と自己紹介したので、口からワインを噴き出す。
あまり父親を脅かすものではないよ>

 つまり、こういうことである。朝日新聞社刊の論壇誌「論座」の3月号に、内田氏は読書についての短文を寄稿した。その掲載誌を編集部が送ってきたのでパラパラページを繰っていたら、なんと、「ポスト・ロストジェネレーション世代」の座談会ページに、ご息女が登場していたというのである。そりゃ、「口からワインを噴き出」しもするだろう。

 この一件を読んで、いくつかのことを感じた。
まずは、編集者のマナーはどうなっているのか、ということである。
 ある特定の雑誌の特定号に、著名な文筆家の原稿を依頼し掲載する場合、その同じ号に当該文筆家の親族(妻、父母、子供でしかもマスコミとは無縁の市井の人である)になんらかの形で登場してもらう場合には、当該文筆家に断りくらい入れるのが常識ではなかろうか。

 ましてや、当の文筆家が極めて批判的な論題についての座談会に、彼の親族を引っ張り出し、しかも一言の断りも無いというのは、①当の文筆家に対して含むところがあり、「ハメる」意図が最初からあったか、②座談会に登場した女性がご息女であることを知らなかったか、③断りを入れるのを忘れたか、④断りを入れたのに、内田氏が繁忙のために、失念してしまっていた。という4つくらいの理由しか思いつかない。
 ④の「繁忙による失念」は、たった一人のご息女の事柄ゆえ、もし、打診があったなら、鮮明に内田氏の記憶に残るだろうから、まずありえない。②の、女性が内田氏のご息女であることに気がつかなかった、というケースは99パーセントありえないと思う。日本列島に住む、「ポスト・ロストジェネレーション世代」と思しき日本人の中から任意に4人を選び出したときに、その中の一人がご息女である可能性は限りなくゼロに近い。

 下衆の勘繰りを承知の上で書けば、こういうことではないか。
「ポスト・ロストジェネレーション世代」についての特集を組もうと考えた編集者は、まず、高橋源一郎氏のところへ相談に行った。そこで、座談会の話を持ち出したときに、ご息女の名前が挙がったのではないか。
 内田樹→高橋源一郎→橋本麻里→ご息女と、その交流は決して浅くは無いことを、内田氏のブログ・ファンならば知っている。この推測の正否は措くとして、担当編集者は「内田の娘」としてしかと認識していたはずなのである。
 となると、残るのは①と③だが、どちらであるにせよ、やはり編集者の「マナーの問題」として極めて劣悪であるというほかないのではないか。今後、内田氏は朝日新聞社からの依頼には、虚心坦懐に臨むことは難しいだろう、と他人事ながら思う。

 次に思ったことは、「ポスト・ロストジェネレーション世代」座談会、という企画はまだ、成立しえない、ということである。20代の男女4人が語り合うその座談会を読めば、「うーん、困っちゃうなあ」というシロモノであることは否定できない。どの4人にも、自身が属する世代を鳥瞰的に認識し表現する言葉と論理が備わっていないので、目先のあれこれを虫瞰図的に行き当たりばったりに発言する他ないのである。そうなると、1000人いれば1000通りの人生があるわけで、とても「世代座談会」には成りえない。日本列島に生息する当該世代に所属する若者を任意に4人選抜して座談会を催しても、おそらく結果は同じだろう。まだ、世代としての成熟が足りないのだ。

 最後に思ったことは、そうは言いながらも、内田氏のご息女の発言は、その中でも秀でているということである。これまでの人生で味わったさまざまな経験を血肉化していて(感知するセンスがあったのだろうと思う)、誰よりも重みのある発言を披露している。

<もう本当に、小学生時代からずっと、「早く学校を卒業したい」と思ってました。ゴミを拾っただけで、「お前、ホントにいいやつだな=偽善者だな」とか言われる。だから目立たないようにひたすら蹲って「早く大人になりたい」と思ってましたね。>
どうやって生活しているかを聞かれて、
<親の援助です。うちは離婚してるんでが、お父さんが、私が高校を卒業した後からだんだんお金持ちになってきたので。母方は岐阜の田舎で造り酒屋をやっていて、そこをいずれ私が継ぐことになっているので、困ったらそっちに引っ越せばいいという。>
<息を詰めていた学生時代があまりに長かったので。「学校を卒業した後は、1分1秒たりとも息を詰めたくない」ってずっと思ってましたから。楽に息ができないぐらいだったら、好き勝手生きて「もう食べていけない」ってなったら首つっちゃえばいいや、と思う。>(「論座」08年3月号P190~203)
 これらの発言を、朝日新聞社から送られてきた雑誌で初めて眼にした内田氏の狼狽ぶりは想像するに難くない。
 そこで、内田氏はブログにこう記している。

<私は娘がそれほど学校生活で屈託していたとは気がつかなかった。
学校がつまらないのは私もよくわかる(だから私も一年で中退したんだから)。
でも、自分の子どもの苦しみは「誰でもそんなもんだろう」と高をくくっていて、それほど深く苦しんでいるとは思わなかった。
配慮の足りない親であった。
育児論を偉そうに語る資格はない。
教師としても同じようにろくでもない教師であり、おそらく相当数の学生を回復不能な仕方で傷つけたはずである。>

 内田氏ほどの人でも、こと自身の子育てのことになると、こんな風に強く、自省的になるのがほほえましい。
 しかし、と思う。朝日新聞社が発行する雑誌の座談会に出席して、思うところを堂々と開陳する「るんちゃん」を育て上げたのは、他でもない、内田樹その人なのである。臆するところ無く、みごとに自身の考えを自身の言葉で語っているではないか。確かに、「内田樹の娘」以外の何者でもないではないか、と。
 ついに、子育てに失敗した一人の親として、羨ましく見つめるしかない、ほほえましい光景なのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月 6日 (水)

第二回、「関西人の会」開催さる。

 麻布十番の「韓すき」で「関西人の会」を挙行する。
  というほど大げさな会ではなく、東京で仕事をする、関西出身のさまざまな仕事につく人間が、心置きなく関西弁丸出しで、一席を共にするというお気楽な異業種懇親会のようなものである。出席者は、伊原剛志氏の夫人の伊原純子さん(和歌山出身)、ライターの森綾さん(大阪出身)、カメラマンの「不肖・宮嶋」(兵庫出身)と「忍者・大倉」(香川出身)など、総勢10名。
  会場となった「韓すき」は伊原さんのお店。前回も伊原さんのお店である「ごっつい」という、いかにも関西らしい名前のお好み焼き屋でとりおこなわれたが、今回は韓国料理屋さん。供される韓国風すき焼きは、いわばお袋の味らしい。最後にうどんをぶち込むのだが、これがうまかった。
  会は最初から盛り上がる。「なんでやねん」「誰がやねん」「ほら、おもろいなあ」「しょーもな」「うまいやんけ」などなど、東京での日常生活では普段、封印している関西弁がフルスロットルでかけめぐる。
  年齢も26歳から55歳まで、男女ほぼ半々なのだが、まるで、小学校の同窓会のように大騒ぎ。声は大きくなり、トーンは高くなり、関西人のあの無遠慮な騒々しさが炸裂する。
  会の帰りに一緒になったTFMのT嬢が「ものすごく、怖かったあ」と感想をもらす。
「怖かった?」。実は、T嬢ひとり、関西人ではなく東京生まれの東京育ち。参加者の中に数人知人がいるので、オブザーバーとして参加したのだった。
「だって、普段からよく知っている人が、関西弁を喋り始めた途端に、全然別人格になっちゃうんだもん。声は大きくなるし、表情も変わるし・・・・」
 つまり、関西弁を使い始めると、普段知っている顔の向こうから、まったく異形の、これまで接したことのない「別人の顔」が立ち現れてくる、というのである。もし、そう感じているのだとすれば、それは確かに怖い経験に違いない、と思いつつ、ふと、そう言われてみれば、関西弁を喋っている自分は「普段の自分とはずいぶん違う自分」であるような気がしてきた。いったい、何がどう違うのか?
 まず第一に、仕事モードの標準語から、関西弁に移行した瞬間に、脳の違う部位を使い始めた感じがする。標準語を操るのが脳の表層だとすると、関西弁は脳のもっと奥、芯の部分が司っているような気がする。知性的な部位ではなく、もっと本能的な部位が参加しているような気がするのだ。
 それはおそらく、青年期に関西を離れ、上京して標準語をマスターした我々に特異な例かもしれない。我々は、関西弁で幼少期を過ごし、標準語で成人し、成熟したからである。大人の身振りや語彙や発想を身に着けたのは、常に標準語を通してであった。そんな我々が関西弁モードに入ると、たちどころに、「幼少期の記憶」が甦るのである。我々の関西弁には、幼少期の、屈託の無い「発想、語彙、表情」がびったりとくっついているように思う。
 だから、楽しいのである。関西弁で喋り始めた途端に、とても自由な気持ちになる。素直な自分がカチッと音を立てて起動した感じがする。その変貌振りを、T嬢は恐ろしく感じるのである。
 二つ目は、関西人の心性がいかんなく発露するからであろう。標準語世界では、「そのことは言わないほうがよい」「正しい社会人として振舞ったほうがよい」という規制がかかっているが、それが、関西弁の到来とともに、スコーンと解除されるのである。
 簡単にいうと、こんな感じである。
「おれもアホやけど、おまえもアホやんけ。おんなじアホどうし仲良くしよやないか」。
「何をかっこつけてんねん、ホンマの話をしよやないか」
そこから、自虐と露悪の全面展開が始まる。これが、もう、本当に気持ちがよいのである。これも、T嬢にはなじみのない心のありようであるからして、実に恐ろしく感じるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 5日 (火)

ラーメン屋で「あんた、何者!」

 文春新書から出ている、内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」を読んでいると、いかに自分の頭が悪いかが、しみじみと分かって楽しい。
 ほとんどマゾのような気分にさえなってくる。足の指が痒いのに、ブーツを履いているために、かくこともままならず、そのまま我慢し続けなくてはならないような、胃袋の上のほうがジワーっと熱くなってくるような妙な感覚である。
 この薄っぺたい新書には構造主義を代表する何人かのフランス人学者が濃縮コンクで詰め込まれている。彼らの言説のいくつかが引用されているが、情けないことに読んでいるといらいらしてくるのである。
 どうしてフランス人の学者というのは、こんなに分かりにくいことを分かりにくく書くのであろうか。何かうらみでもあるのか、この野郎、と怒鳴りつけたくなってくるのである。もし許されるなら、ここに登場する哲学者、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンを横一列に並べて、「歯を食いしばれ、この野郎!」と怒鳴りつけて、往復びんたをくらわせたい、という野生な衝動が湧き上がってさえくるのである。
 おそらく、彼らは、自身が主張する事柄を万人に分かってもらおうという気持ちはさらさらないに違いない。むしろ、万人に分かってもらえるように書くことによって損なわれてしまう繊細な思考、とでもいうものがあると確信しているに違いない。そうとしか思えない。理解できる人間だけに理解してもらえればよい。
 もっというと、難解に書くことによって、読者を選定している、のかもしれない。1次予選、2次予選、準決勝を勝ち残った者だけが決勝戦に出場可能。足切りをした後に、有力者同士で、頭脳の勝負をしようじゃないか、と。

 前置きはこのくらいにして、内田氏の本から難解ぶりを抽出してみよう。前後の脈絡なく引用するので、ますます分からなくなっているのが、実に楽しい。
 内田氏はソシュールを構造主義の始祖と位置づけ、その後に、構造主義四銃士が居並ぶ。その最初の銃士、ミッシェル・フーコーから。
<17世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる「統治」の問題として前景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。>(「狂気の歴史」)
 まあ、なんとなくはわかりますわね、まだ。「かつて狂人は神聖視されていたけれど、17世紀になって、社会的に認めがたい人として排除されるようになった」ということでしょ。そう書けばいいのにねえ。
 次、ロラン・バルト君、前へ。
<テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない。>(「作者の死」)
  これも、なんとなくしか分からないでしょ。「言葉や文章というものは、それを発した人がそこに、どんな意味をこめたかということよりも、受け手がどう受けとめたかによって、意味が決まってくる」というようなことなんでしょうか? ほーら、ちょっといらいらしてきたでしょ。
 お次は、クロード・レヴィ=ストロース君。
<彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。>(「野生の思考」)
 さあ、これは、なんと言っているのでしょうか? たぶん、「人間性というものは、時代が違い、場所が違えば、まったく異なったものなのであって、これが人間性というものなのだと指し示すことのできる唯一のものはない」ということなんでしょうかねえ。またしても、いらいらしてきませんか。
 さてどん尻に控えしは、泣く子も黙るジャック・ラカン様の登場です。
<まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は私たちの眼には、範例的なしかたで、象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、「私」はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて「私」が自己を対象化することにも、言語の習得によって「私」が普遍的なものを介して主体としての「私」の機能を回復することにも先行しているからである。>(「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」)
 ははは、は。もう、笑うしかないでしょ。こんなことをいっているのかなあ、と想像するのもいやになるくらい、無茶苦茶ですね。筆者の内田氏も、「特にラカンは、正直に言って、何を言っているのかまったく理解できない箇所を大量に含んでいます。」(167ページ)
 そんなに分からない箇所が多いのに、どうしてこの人が構造主義に多大に貢献したということがわかるのであろうか。そこが不思議である。羅漢様、恐るべしである。
 さて、ところで。ある冬の日の夕刻。
青山通りを歩いていた私は、腹がすいたので、表参道近くのラーメン屋に入った。カウンター中心の、安っぽいラーメン屋である。初めて入った店では、その実力のほどが分からないので、いつも、普通のラーメンを頼むことにしているのだが、その日もそうだった。
 と、時を同じくして入ってきた50前後のオヤジがいて、アスパラガスのにんにく炒めと炒飯とビールを注文。ビールをコップに注ぎ、すぐに出てきたアスパラを肴に、旨そうにやっている。ふと見ると、左手に本を持ち、ビールをぐびぐびやりながら、熟読しているのである。このおっさん、ラーメン屋で何を読んでいるんだろうと気になってよーく見ると、洋書である。さらに目を凝らすと、Jacques Lacan と書かれているではないか。
 ビール片手に、アスパラかじりながら、フランス語の原書でラカンを読むとは、「あんた、何者!」と思わず、声をかけそうになった。東京は広い。すごい人がいるもんだと、つくづく思った。
それにしても、何者であろうか。大学の先生? 翻訳家?
精神科医? いや、そんな勤勉な医者はいないだろうから、先生かね、やっぱり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »