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2008年2月26日 (火)

大佛次郎「終戦日記」を読む。

 ブログを始めたからなのか、人の日記ににわかに興味がわいてきた、という話は以前に書いた。佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)について、佐野氏がその執筆にあたって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、時に日記の筆者を罵倒しながら(笑)、死ぬほど退屈な日記を読み続けた話は、ご披露したばかりである。

 で、続けて読み始めたのが、大佛次郎の「終戦日記」(文春文庫)。鞍馬天狗の作者の、昭和19年9月から、20年10月までの個人的な日記である。これを、毎日、風呂の中で、スポーツドリンク片手に汗をだらだら流しながら、読み進めた。一気に読みきるのではなく、まさにだらだらと楽しみながら読み続けた。そして、昨夜、ベッドの中で深夜、読了。読み終わって、泣いた。

 比喩ではない。夜の闇の中で、静かに、涙を流した。本を読んで泣く、などということはめったにあることではない。まあ、ちょっと、歳をとって涙もろくなったということはあるかもしれない。が、何よりも僕の心をつかんで静かに強く揺さぶったのは、「日本と日本人の行く末をこんなにも一生懸命、案じた人がいたのか」という、崇敬に近い思いだった。
 もちろん、その後で、「翻ってこの俺は、いったいなんという人生を送っていることか」という慙愧の念が襲ってきたことは言うまでもない。

 日記を読む楽しみは、まるで、その筆者と寝起きをともにしているような気になることである。会ったこともない、口をきいたこともない、明治30年生まれの作家と、戦時下の鎌倉で、一緒に酒を飲み、飯を食い、時の為政者や軍部の愚行をのろい、ともにB29の空襲におびえ、ゲーテやツルゲーネフやゴオゴリやチェーホフを紐解くのである。

 何日もかけてその日記を読みついでいくと、まるで、大佛次郎が自分の身内のような気持ちになってくる。とても大事な人に思えてくるのである。
 しかし、読み終えて、文庫のカバーに記された作家の経歴を見ると、

<昭和48(1973)年4月30日逝去。>

 とある。そうか、もう死んだのか、もう、死んじゃったのかよー、というなんとも言えない哀切な気持ちが心を覆いつくす。明治30年生まれなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、日記を読み続けていた何日間かをともに生きた、という実感があるから、ある種の喪失感が訪れる。もう、いないのか、あんなにも日本と日本人のことを真摯に憂い続けた人が、もうこの地球上にはいないのか、と思うと、とても無念な気持ちにさせられる。
 できることならば、謦咳に接したかった、と今の僕は切実に思う。が、昭和48年の僕は、たとえそのとき、目の前に大佛次郎がいたとしても、そんなことはこれっぽっちも思わなかったに違いない。

 日記を読んで驚いたことがふたつある。ひとつは、昭和19年、20年というせっぱつまった年であるにもかかわらず、彼らはほとんど毎日浴びるように酒を飲んでいることである。もっとも、稼いだ金はほとんど麦酒と本に費消したとどこかで自嘲的に豪語していたぐらいの人だから、その飲酒量が日本人の平均であったわけではないだろう。

 しかし、昭和のその頃は、銃後でさえ、飲まず喰わずであったに違いない、と戦後生まれの僕たちは早とちりするが、日記を読む限りでは、なかなかどうして、みんな、ジャンジャン飲んでいるのである。他にすることがなかった、ということもあるに違いない。
 どんなに飲んでいるか、その部分だけを書き抜いてみよう。こんな具合である。

<昭和20年 元旦  夕方酔いて門田君のところへ行く。大住君坂田水口などいる。深酔して些か過激の言を弄し翌朝極りわるきことなりし。

正月六日 茶室で熱燗の酒を出し暗くなってから二楽荘へ行く。集る者里見久米長田秀吉屋信子川端康成、村上猶太郎、皆々酔う、乞食大将(大佛次郎のこと)も威張って見せる。

正月七日 佐、今、清、吉野と香風園へ行き飲む。気焔の残りを吉野君と家へ持って帰り激語す。

正月八日 広安氏がくれたウイスキを飲んで寝たが夜中睡られず。

正月九日 新聞三回書き夜十時ウイスキーをのみながら酔った勢いで大きく外科手術をする。
正月 十一日 木原君のところの合成酒を取寄せ岸吉野を呼び飲む。吉野の酔い方近頃激し。>

  おとなしく飲んでいるだけではない。こんな日もあった。

<二月十九日 夕方相馬君が清酒一升さげて入ってくる。岸君を呼び何もないからコンニャクで飲む。吉野君加わる。酔って腹の立つことあり吉野君にバケツで水をかぶせる。怒らなかったのに後で感心した。>

<七月二十三日 山田兼次来たる。昼食後吉野君の家へ酒を持って二人で行き、沢木原これに加わってから無政府状態の酔となり、家へ帰り土中を掘起し取っておきの酒までぬく。(略)あばれ出すと飲みものも喰いものも人に出して了うこと洗城の観あり。何もなくなった。>

 思わず、頬がゆるむが、これは、特に飲酒シーンが多い日を選択的に列挙しているわけではない。適当に選んで抜書きしてみたらこうなったまでである。ビールなどは、本数は少なくなったものの一般に配給されている。日本酒も、あるところにはいっぱいあったようである。 
 考えてみれば、ビールの製造に携わる人々はそれで生計を立てていたわけだから、戦中といえども、生活をしなくてはならず、ビールを製造し続けていたとして何の不思議もない。(もっとも、昭和20年3月14日付けで、「昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定すと、いよいよ禁酒なり。」の記述がある。もちろん、どうやって調達したのか、大佛次郎翁はその後もかわらず、飲み続けているが。)

 もうひとつ驚いたことは、なんと人の行き来が多い家なんだろうか、ということである。上記の日記の抜粋を見ただけでも、何人もの人物が(我々が知っている人も知らない市井の人も含めて)、入れ替わり立ち替わり大佛家を訪れ、飯を食い、酒を飲み、何事かを談じ、ときに酔っ払って泊まっていくのである。ほぼ毎日誰かが訪れている。しかも、大佛次郎はそのことを苦痛には思っていない。むしろ、愉快に感じているふしもある。

 一升瓶を持って来る人がおり、獲れたばかりのアジをいっぱい持って来てくれるひとがおり、野菜や砂糖や肉を届けてくれる人がいる。向こう三軒両隣のお付き合いだけではない。出版社の編集者、新聞社の記者、軍人、作家、評論家、画家、近所の飲み屋のオヤジやおかみさんなど、およそありとあらゆる人が大佛次郎を尋ねてきて、ほっこりした気持ちで帰っていくのである。人徳といえば人徳だが、むしろ当時の人々は、そのようにしてお互いに助け合って生きていた、と考えるほうが自然なように思う。

 たとえば、この日記の末尾に、当時、大佛次郎が書いた書簡が掲載されている。その中にこんな記述がある。

<この豆腐屋やの大将がこの間ひょっくりと台所へ顔を出した。奥さん見てくれと云って二尺ぐらいの大きな鯛を出して、旦那が戦地から帰ってきたお祝いに何か持って来たいとずっと思っていたら今日になってやっとこいつを見つけたから持って来た、喰っておくんなさいと云う。>(昭和19年12月1日付け)

 実は、この豆腐やの大将に限らず、こんな人のいい人々がこの日記には次々と登場するのである。
 ちょうど、この日記を読み進めながら、同時に、内田樹氏の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)というエッセイ集を読んでいた(氏の書名としては、曲に溺れた難解なタイトルである)。

 そして、なるほど、内田氏が手をかえ品をかえ、主張していることはこういうことなのか、と深く納得することとなった。
 内田氏は、一人で食事をする「孤食」、あるいは「個食」の人が増えていることを踏まえて、こんなことを書いている。

<「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
 それが可能であるのは二つの理由がある。
 一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。
 これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
 けれども、人類が誕生して数十万年の間、「食物や水が貴重な財ではなく」、「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」という環境に人間が生きることができたのはきわめて例外的な場合だけである。
 ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。>(P196-197)

 「終戦日記」に登場する人々の心理と行動はまさに上記の通りではないか。いつ死ぬかもしれない、明日の運命をもしれぬ日常を生きることになると、人は無意識のうちに手を取り合って生き始める。スタンド・アローンな生き方は、即、死に直結する。<人間は共同体を分かち合う他者がいてはじめて人間になることができる。>(P66)という「人類学的知見」も実によく分かるのである。
 内田氏がレヴィ=ストロースの知見としてよく引用している、「人は手に入れたいものは、それを他者に与えることによってしか、手に入れることはできない」という文言も、あるいは、<今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。>(P80)という一文も、よく飲み込めるというものである。

 理屈っぽい話になってしまった。内田氏の文章を引くと、とたんに話が理屈っぽくなってしまうのが困ったもんである(笑)。勝手に引用しておいて難癖つけるとはどういう料簡だ、と叱られるだろうが。

 それはさておき。この日記に記された好きなシーンを最後にご紹介しておきたい。日記には、簡潔な文章で、メモのように坦々と日々の出来事が記されている。詩的な感興や文学的たくらみを、そこに封じ込めようという作者の意図はもとよりないのだが、それにもかかわらず、眼がそこに釘付けになる記述というものがある。まさにその時代のその日時を生きていた人たちの息遣いを、しっかりと聞き取ったような気持ちにさせられるような描写がある。

 たとえば、昭和20年2月7日。

<新聞を二回書いて送ってから一睡。鞍馬の火祭りの校正二百五十頁了、後半など悪くないと思った。合成酒と麦酒一本をコタツで飲む一時半床に入る。宵より雪となる。便所の窓から手を伸ばし南天の葉につもりしを払う。>

 深夜、便所の窓から手を伸ばして南天の葉に積もった雪を払い落とす、大佛次郎の姿が見える。どんな気持ちで、なぜ払い落としたのかは書かれない。しかし、夜の暗闇の中で、さっと落ちる白い雪が見える。
 そんな記述が僕の胸に刺さる。

 あるいは、9月26日。すでに戦いも終結し、疎開していた人々がつぎつぎに帰郷してくる。漫画「フクちゃん」の作者・横山隆一もその一人だった。親交の厚い大佛は横山のことをフクちゃんと呼んでいた。
 
<客、水口内山基、野原夫人、門田ゲッティ来たり夕食、フクちゃんも信州から出てきて加わる。フクちゃん台所より入り来たり酉子の顔を見るなり無言で落涙す。よき人なり。>

 生きて戦後を迎えた二人が再会する。大佛家のかって知ったるフクちゃんは、玄関からではなく、台所の勝手口から入ってくる。そして、大佛夫人を見とめて無言で泣くのである。涙をただ流すのである。
 たまらないシーンである。何回読んでも胸に迫る。
 昭和20年の9月26日夕刻、横山隆一は大佛家の台所で、確かに、すすり泣いていたのである。

 大佛次郎は、戦後の日本と日本人はどうあるべきかを真摯に案じ、かつ実践した人であった。
 戦後の日本の復興を、政治・経済・外交・文化のさまざまな局面で推進した人々は、そのような多くの大佛次郎たちであった。彼らは、明治中期から後期に生まれ、大日本帝国憲法下の「アンシャン・レジーム」のもとで成長し、その倫理と論理を確立した、骨のある日本人たちであった。
 皮肉なことに、戦後の日本の推進力となったものは、戦前の廃棄すべき体制のもとで形成されたものだったのである。
 その彼らがこの世から去り(大佛次郎が死去したのは1973年)、戦後生まれの、戦後の倫理と論理を身につけた日本人が日本運営の中心メンバーになってからというもの、日本丸の運行はまことにもってはかばかしくない。
 明治後期生まれの日本人の実力は、実に、侮れないものなのだ。

 長くなった。クサい話が好きな僕らしいエピソードを書いておしまいにしよう。
 この分厚い日記の中で、大佛次郎は2回、野糞をしている。しかも、うれしそうにそのことを書いている。さあ、どこに書いてあるでしょう?
 ご自分の目で探してください。

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