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2008年4月

2008年4月23日 (水)

スカートがめくれたら

 最近、若い女性のファッションだと思うが、ジーンズの腰の周りにスカート状のものがピラピラしているけれど、あれはいったいなんであろうか?
  スカート? 腰巻? 腰みの? いや、腰みのではないな。退化したエリマキトカゲのエリのような、ピラピラ。疑似餌ようなピラピラ。あれでオスをおびき寄せようというのであろうか? あんな安っぽいもんで? で、近づいたら針がグィと刺さって・・・・?
  奇妙といえばもう一つ奇妙なのが、短いスカートの下からでている2本の脚にピッタリ張り付いているタイツ状のもの。でも、足首くらいまでしかないね。パッチのような、股引のような。ストッキングではないことは知っている。ちょっと分厚いもんね。レギンス? あ、そう、レギンスね。あんなの、半ズボンはいたおっさんが下にはいてたら気持ち悪がられるだろうなあ。
「オヤジ、半ズボンの下から、ステテコ出してんじゃねえよ!」って。
  でね、分かんないことがあるのよ。女子の方にお聞きしたいのだが、  ストッキング、タイツ、スパッツ、レギンス、股引をそれぞれはいていて、その上にスカートをはいていると仮定しよう。そこへ突風が吹いてきてスカートがあられもなくまくれ上がったとするわね(変態じゃないよ、別にオレは)、その時に、「いやーーん」と言ってあわててスカートを手で下ろすのは何をはいていたときなの?
  つまり、スカートの下がストッキングのとき、これはあわてて手で制しますわね。ストッキングは下着ですからね。
  では、タイツのとき。これはどう? いやーーん、か無視か?
  ん、じゃあじゃあ、スパッツは? これはもうズボンみたいなもんだから気にしない? そうねえ、うちの会社の女性がスパッツはいて会社に来たことがあってね、上はセーター、下は黒いスパッツ。初めて見たときは驚いたね。「おい、電車ん中にスカート落としてきたんじゃないの?」って。どぎまぎしちゃうね。もう慣れたけど。
  ほんじゃ、レギンスは? 風がびゅーーと吹いてきて、パステルのスカートがちぎれて飛んでいっちゃうの。そんなときはどうすんの? 平気? 構わないの? 手でかくすの? だから、オレは別に変態じゃないって言ってるでしょ! 女性心理の検査なの!
  そっかー、じゃあ、股引は? え、そんなもんはかない? はかないの? あったかいよ、これは。でもいらない。ふーーーん。
  で、結局、何ならOKで何ならヤバイのか、「私には分からない」、その女心が。

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2008年4月22日 (火)

次元の違う話

 では、前回に引き続いて「私には分からない」シリーズ第2弾をご披露したい。いささか小難しい話になるが、「次元」について思うところを記したい。

  最近、ポール・デイヴィスの新刊「幸運な宇宙」という本が出たが、13年ほど前に、この人が書いた「宇宙 最後の3分間」という本をわくわくしながら読んで、すっかり「宇宙物」のとりこになってしまった。文字通り、宇宙の最後の3分間はどのようなものであるのかを、分かりやすく、丁寧に、一般人も理解できるように解説した本である。

 とともに、今現在、我々人類がここに生存しているということが、いかに「たまたま」であり「奇跡的」であるかを明示し、全てが無に帰す「宇宙の最後」を目前にすると、我々の日常的な営みのすべてが、いかに「虚無」のブラック・ホールに落ち込まざるを得ないかを淡々と示唆する。たまらなくスリリングな話なのである。

 以来、「宇宙物」を見つけると買い込んではムシムシと楽しみながら読みついできた。「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン)、「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」(リサ・ランドール)などなど。で、気づいたことがある。誰もそのことを指摘しないので、あえて、超門外漢の身の上ではあるが、「分からないこと」を書く。

 前記の2冊には、どちらも「次元」の話が登場する。1次元、2次元、そして我々の住む3次元の世界について。もっと読み進むと、超ひも理論では、この世の中は11次元でなくては話の辻褄が合わなくなる、ということまで書いてあって、軽いめまいに襲われる。11次元! なんじゃ、それは。それはいったいどんなものなのか? 想像しようにも想像のしようがない。手も足も出ない。さっぱり分からない。

 しかし、私が「分からない」と言うのは11次元のことではない。1次元、2次元の説明に関して、どうしても「分からない」ところが生じるのである。

  我々の生きる3次元世界は、簡単に言えば「幅と奥行きと高さ」のある世界を指す。では、1次元は? それを直感的に理解するために「幅」だけの世界を想像せよ、とほとんどの著者は説明する。

「紙の上に定規で直線を一本引く。その線だけの世界が1次元である」と言う。その線の上に生息する生物がいたとしたら彼の世界は1次元なのである、という説明をする。しかし、ちょっと待ってくれよ、と言いたいのである。紙の上にボールペンだか鉛筆だかで引かれた線は、それが線として認識されるということは、紙の分子の上に、インクかカーボンの分子が乗っかっていることで初めてそのように見て取れるわけである。インクやカーボンの分子にはそれなりの「幅と奥行きと高さ」があるから線として看取されるわけで、そうなると、それはちっとも1次元ではないのではないか。すでにそれは3次元ではないのか、という疑問が生じるのである。

 2次元も同様である。1枚の画用紙を目の前に取り出して、この「幅と奥行き」がある平面が2次元である、という。冗談ではない。画用紙を平面として我々が理解できるのは、画用紙を構成する分子があるからで、その分子たちは先に述べたように3次元的存在物である。立派に「高さ」を有している。そのようなものたちを繰り出して、2次元を把握せよ、というアナロジーはすでに破綻しているのではなかろうか。

 つまり、私はこういいたいのである。我々、3次元に生息する生物は「幅」しかない1次元も、「幅と奥行き」しかない2次元も直感的には絶対理解ができないのだ、と。「幅と奥行きと高さ」を有するものしか我々は思い浮かべることができないのである。

「幅だけあって、奥行きも高さもないもの」や「幅と奥行きだけあって高さのないもの」は、どちらも我々の頭脳はうまく想像することができない。あなたは、いや、そんなことはない、と「線」や「面」を思い浮かべるかもしれないが、それはすでに述べたように3次元的作物でしかない。1次元、2次元を思い浮かべられないという、その「想像の困難さ」は10次元、11次元を直感的に想像できないことと同様なのではないか、というのが私の感想なのである。

 結局、我々が直感的に理解できる次元は3次元のみなのである。

 さて。私の書いていることはおそらく、どこかが間違っているであろう。だって、誰も、こんなこと言わないもんね。でも、どこが間違っているのだろうか。「私には分からない」。どなたか、ご存知の方、お教えいただけないだろうか。

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2008年4月15日 (火)

なぜ、そこに花束を供えるのか

「あんな痛い話をブログに載せてどうすんの」と親しい人に言われたけれど、そうだよね、思わず読んでしまった人には「痛くて申し訳ありません」とうなだれるしかありません。
 たまには、もっと軽快な話を書かなくちゃね。でも、それがなかなかできません。性分、なんでしょうね。

 それにしても、更新もしていないのに、頻繁にのぞきに来てくださっている方がいて、本当に恐縮してしまいます。「生ログ」を見て、見覚えのある「訪問者ID」に出くわすと、あ、この人、また読みにきてくれている、す、すいません、すぐになんか書きますから、と宿題を忘れた小学生のようにあせってしまう。
  
 今回は「私には分からない」シリーズの第一弾を。

  車で走っていると、道路わきのガードの足元に供えられた花束にしばしば出くわす。それが何を意味するのかは分かっている。多分交通事故で、その場所で絶命した人がおり、その人と親しい関係にある人が、その人の死を悼んで花束を供えたのである。そこまでは分かる。

  分からないのは、なぜ、その場所に供えるのか、ということである。死亡したその人にとっては、その場所は、たまたま通りかかった場所で、何かの不運で、そこで命を失ってしまっただけの場所でしかない。死に場所としてそこを意図的に選んだわけでもないし、そこになんらかの思い入れがあるわけでもない。単なる、アトランダムな場所である。

  確かに、その人が最後に目撃したものは、その場所から見上げた夜空かもしれないし、空転するタイヤかもしれないし、目前に迫るアスファルトだったかもしれない。しかし、何度も繰り返すけれど、それは、その人が選んだわけではない、たまたま、「そこ」だったのである。

  にもかかわらず、親しい人たちは「その人の絶命場所」に花を供えようとする。何故なのか? しばらく前に、深夜の甲州街道で、車が高速で次々に走り抜けていく場所にバイクに二人乗りでやってきたカップルが、泣きながらその危険な場所(だからこそ彼らの知人はそこで絶命したのだが)に決死の思いで花を供えているのを目撃したことがある。その時に思ったのは、何故、人はそうまでして「最期の地」にこだわるのだろうか、ということだった。

  死んだその人が一番好きだった場所でもいいし、その人の骨が納められた墓でもいいし、その人の家の仏壇でもいいではないか。本で読んだことがあるが、古代人の墓を調査すると、亡骸の上に花が置かれた後が見られることがある、とあった。かなりの大昔より、人は死者に花を手向けていたようである。そう、亡骸の上でいいではないか。

  ヒトと動物の違いは、「葬送」の行為があるかどうか、「悼む」心が備わっているかどうかであるらしいが、確かに、ヒト以外にそのようなことをする生物を目撃したこともないし、聞いたこともない。しかし、何故、その場所なのだろうか。そうせずにはいられない気持ちが、お前は分からないのか、と聞かれたら、「いや、なんとなく分かる」と応える。しかし、精密に、何故そうするのかを考えてみると、最後にはよく分からなくなる。

 その昔、岡田有希子というアイドルが18歳で、四谷大木戸ビルの屋上から飛び降り自殺をしたとき、彼女が転落したまさにその場所にファンが大勢集まって泣きながら花を供えていた。
  
  ジョン・レノンがNYで射殺されたときも、彼が倒れた場所に多くの花束が供えられた。

  尾崎豊が事故で死んだときには、彼が住んでいたマンションの案内板の足元に次々と訪れるファンが花束を供えていた。同じマンションに住んでいたので、そのときの光景をよく覚えている。9階のベランダからその光景を眺めていた。黒い服装の若い男女が涙をぬぐいながら次々に訪れては花束を案内板の足元に供えていったのである。最初はそれが何だか分からなかった。尾崎豊が同じマンションに住んでいたことも知らなかったし、死んだことも知らなかったからだ。
  しばらくしてそのことを知ったが、その後も黒い若者の姿は途絶えることがなかった。それを目撃したときに、誰に命ぜられたわけでもなく、誰かと申し合わせたわけでもない、極めて自発的で、純粋な「喪」の形がここにある、と考えて感動したことがあった。
  
  死んでしまった親しい人に対して、その冥福を祈って花を供えたい。
  その人が、ついにそこで生命を失ってしまった「絶命の場所」に供えたい。その感覚は分かる。
  しかし、何故、そうしたくなるのか、私には分からない。

  死者の「無念」が宿るその「場所」を鎮めないと、生者に災厄がもたらされるからだ、という説明はできるが、無意識的にも意識的にもそんな感覚はまったくないから、やっぱり、よく分からない。

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2008年4月11日 (金)

妹のこと

  4月4日の項で、子どもの頃に、大阪は天王寺の日赤病院に入院した話を書いた。灰色の(印象しかない)暗い建物は今はもう存在しない。先日、劇場で映画「血と骨」を観たときに、その病院の外観がほんの数秒登場したことがあった。どこかで似た建物を探してきたのか、CGで作ったのかは分からないが、それを目にした途端に、子どもの頃の、灰色の記憶が甦った。

  小学校2年生の春、微熱と頭痛が続いた。通学することもままならなくなり、寝たきりになった。1カ月ほど自宅で横になったままだったが、快方に向かうことはなかった。ある日、母親に連れられて、天王寺の日赤病院に行った。薬品の匂いのする廊下と、蛍光灯の青い光。診察室の扉の上には、黒い板に白い塗料で、「小兒科」と書かれていたことを、なぜか鮮明に覚えている。

  診察が済むなり、医師は母親にすぐに入院させないといけない、と告げた。「ロクマクエン、ハイシンジュン」という診断だった。母親はうろたえた暗鬱な顔になり、子ども心に、ただごとではないのだな、ということがすぐにわかった。後に分かるのだが、当時、肺浸潤や肋膜炎という病名は、肺結核の別名であった。戦後すぐまでは、結核に対して有効な治療法がなく、結核は不治の病だったため、「肺結核」という言葉を避けて、「肺浸潤」「肋膜炎」という迂回的な言葉を使っていたらしい。

  翌日、昼過ぎに入院することになった。居間に布団を敷いて、熱に苦しみながら横たわっていた。父親は仕事に出かけ、母親は入院準備のためにどこかへ出かけていた。家には5歳の妹とふたりだけだった。

  入院するのか、と思った。こんなに具合が悪いんじゃ、もうこの家に帰ってこられないかもしれないな、という絶望的な気分が心を覆った。死んじゃうのか、悲しいなあ、と思いながら自分の手のひらをじっと見つめた。もうすぐ死ぬのかもしれない、と思ったとき、人は手のひらをこんなふうにしみじみ見つめるのか、なんでだろうなあ、という醒めた感覚も、8歳の自分にはあった。手のひらを閉じたり広げたりしているうちに、猛然と悲しくなった。

「トッチ」
  と、妹の名を呼んだ。5歳の妹は枕元にやってきた。
「トッチ、あのな、お兄ちゃん、入院するねん。それでな、ひょっとしたらもう家に帰ってこられへんかもしれへんねん。せやからな、お兄ちゃんの机の上に、硬筆でもろた盾があるやろ、あれ、全部、お前にやるわ。想い出にとっといて。机の上にあるもん、全部お前にやるわ。お兄ちゃんがいなくなっても、それ見るたびに、お兄ちゃんのこと、思い出してな・・・」
  そう言うのがやっとで、私は泣き出した。死ぬことが怖かったというより、家族の住むこの家にもう二度と戻ってこられないに違いない、という予感が無性に悲しかったのだ。妹の顔を見ながら、声をあげて泣いた。
  妹も、涙を流していた。妹は自分の小さなタンスに行くと、何かを取り出して戻ってきた。そして小さな手を差し出した。
  手には、小さく四角く畳まれた、赤いハンカチがあった。
   妹は泣きながら、これ、あげる、と言った。
「ありがとう・・・」
  受け取った妹のハンカチを失くさないように、私はパジャマのズボンのゴムの部分に大事にはさんだ。
  その時、私は8歳で、妹は5歳だった。

 午後、タクシーで病院に運ばれた。灰色のコンクリートの部屋に入れられ、鉄パイプのベッドに横たわらされた。しばらくすると、母親に、パジャマを着替えるために、ベッドの上に立ち上がるように言われた。
言われたとおりに立ち上がり、パジャマを着替えた。ズボンを脱いだときに、白いシーツの上に、妹の赤いハンカチがぽたんと落ちた。
  母は怪訝な顔でハンカチを拾った。
「何、これ。トシコのハンカチでしょ」
  私は、うつむいたまま、
「間違って持ってきた・・・」
  と返事をした。

  あれから、もう50年近くが経つ。
  2カ月間毎日、ストレプトマイシンの静脈注射を打ち、両腕は針の跡で紫色になったが、私は回復し、退院した。

                  ******

  お母さん、あのとき僕は、「間違って持ってきた」と言ったけど、本当はそうじゃなかったんだよ。今まで、黙ってたけど、あれは、5歳のトシコが、お別れのしるしとして、僕にくれたものだったんだ。
  本当のことは、あんまり悲しすぎて言えなかったけれど、お母さんが出かけている間に、僕たちは、本気でさよならを言い合ったんだよ。信じてもらえないかもしれないけど、そんなことがあったんだ。
       
                             ******

  先日、本棚を整理していたら、昔書いた小説らしきものが出てきた。書かれた日付をみると、20歳のとき書いたもので、妹のことを描いている。幼い文章だけれども、今ではすっかり忘れてしまったことも、20歳の頃には鮮明に覚えていたらしく、丁寧に書き込まれていて、読み返すと微笑んでしまう。おそらく、「すっかり忘れてしまった」のは「すっかり忘れてしまいたかった」からだろうと思う。

  小説のタイトルは「掃除機」となっている。話のついでに、長くなるけれど、ブログに記録しておきたい。

  僕が小学校の低学年、妹はまだ小学校にあがる前のころだったろうか。その日は日曜日でうららかな春の光が廊下にこぼれていた。家族全員がそろって朝食を食べることの嬉しさに、僕の心は明るくとびはねていた。おまけにその日は、前日届けられて部屋の片隅に置かれている掃除機を初めて使用する日でもあったのだ。そのために、朝食の時から僕の胸は高鳴っていた。
「おとうちゃん、ごはん食べたら掃除機の箱あけるんやろ」
「ああ、ちょっと休憩してからな」
「はよ、掃除機使いたいなあ」
「ハハハ」
  父の顔にも微笑が浮かんでいた。
「きよし、ちょかちょかせんとよくかんで食べなさいよ」
  口ではそう叱る母の顔にもやはり笑みは漂っていた。
「トッチ、はよ電気掃除機みたいなあ」
  長すぎる箸を使って無心に食べている妹に言った。
「うん」
  妹は僕の顔をみつめると、うなづきながらそう言った。
  木でできたまるい食卓を囲んで畳に座って僕たちは食べていた。右隣に妹、左に父が、炊事場に近い所には母が座っていた。僕は、そんな状態に何かくすぐったいような暖かさを感じていた。胸がつまるような喜びが体の奥の方から這いあがってくるのを感じながら、ずっとこのままだといいのになあ、と思っていた。

「きよし、おかあちゃんとこへいってハサミもろてこい」
  食後の一服を済ませた父は、掃除機の入ったボール箱をじっと眺めている僕の所にやってきて言った。
  ハサミを手渡すと父は壊すとでも言った方がいいような手荒さで箱を開けていった。そばでは母と僕と妹が、まるで贈り物の中には何が入っているのだろう、といった顔つきで見守っていた。
  水色をした本体と白いホースが取り出されて初めて、こわごわとした手つきで母はそれに触れた。父は説明書を見ながら掃除機を組み立て終わると、
「きよし、これコンセントに差し込んでくれ」
  と、プラグを僕に手渡した。父は極端に電気をこわがるのだった。
「よし、スイッチを入れるぞ」
  掃除機の柄を持ってかまえると、今まさに実験しようとする科学者ような顔をして言った。思わず僕たちは一歩後ずさりした。
  ヴィーン
  初めて聞く掃除機が発する音が、僕はすこしこわかった。間違って指でも持っていったらひきちぎられてしまいそうな音だったからだ。しかし、生暖かい奇妙なにおいのする空気をおしりからはき出しながら、ごみを次次と吸い取って行く掃除機に僕はいつしか恍惚としはじめていた。父の顔も、まるで新しいオモチャを与えられた子供のように輝いていた。
「たいしたもんやねえ」
  と、僕の側で様子を見ていた母は感心したような口ぶりで呟いた。妹はキャアキャア言いながらはしゃぎまわっては母の脚にまつわりついた。
「トッチ、ほら、見いなあ、ボタンまで吸いよるで」
  テレビの下に一つころがっていたボタンを掃除機が吸い込むのを見ると、妹の手を引っぱって言った。
  父は掃除機の柄の先を奇妙な形のにとりかえると、母に手渡し、天井の隅の方を掃除するように指示した。母はしっかりと両手でそれを支えると天井のホコリを吸いとっていった。
「おとうちゃん、それ高かったんやろなあ。なんぼぐらいしたん?」
  僕は掃除機の音で吹き消されそうになるので大声をあげて訊いた。
「1万円や」
「ふーん、1万円もしたん。高いねんなあ。トッチ、あれ見いなあ、1万円もしたんやで、ほら、キャアキャア騒がんとよう見てみいなあ」
  掃除機の高価さを教えてやろうと、走りまわる妹つかまえると指差しながら言った。妹は掃除機そのものへの関心よりも、掃除機に浮きたったみんなの雰囲気に興奮してか、うれしそうに走り回った。
「いちまんえんもしてんでぇ・・・」
  もう一度くりかえすと妹は、エヘヘヘへと笑いながら僕の手を振り払い、つかまえてごらんといった風に逃げ出した。
「ようし、まてえ、としこ」
  僕も一緒になって騒ぎ始めた。妹は追い詰められると笑い声をたてて洋服ダンスの中に入りこんだ。
「閉じこめてしまうぞ」
  僕は洋服ダンスの扉を閉めようとした。中から妹が手で押すのか、閉まりにくいので、思い切って反動をつけるとギュッと押した。すると妹は急に火のついたような、叫ぶような声で泣き出した。
「ヘエエ、トッチ、こわいかあ」
  僕は面白くなってますます扉を強く押し続けていた。妹のその奇妙な泣き声は洋服ダンスの中にこもって、不思議な音に聞こえるのだった。その時、足先に妙に生あたたかいものを感じて、驚いて眼を落とすと真っ赤な血が扉の隙間から流れ出していた。ヘナヘナと力が抜けるのを感じながら僕はあわてて扉を開けた。妹の叫び声が急に鼓膜をつんざくように部屋に響きわたると、母はびっくりしてスイッチを切りこちらを見つめた。掃除機の大きな音が消えると泣き声だけが残り、僕は突然現実に引き戻されたような気分になった。洋服ダンスの中で小さな左足をおさえて泣き喚いている妹を目にすると母は真っ青な顔になり、他人を見る冷たい目で僕をみつめた。僕は背筋が寒くなった。今までそんな母の顔を見たことがなかった。その顔にははっきりと敵意の表情が浮かんでいた。父がハッと我に返ったように洋服ダンスに歩み寄ると、妹を抱きかかえた。母は血が溢れる出る妹の足の指先を見ると、異様な声をあげ、エプロンを引き裂くと妹の足首をきつく縛った。
「は、はよ病院に・・・」
  母は震えていた。父は何も応えず、妹を抱きかかえたまま放心したような顔で、外へ飛び出していった。その後を母はふらつく足で追いかけて行った。
  急に静かになった部屋の中で、両親の狼狽ぶりを思い出すと、自分がやったことが恐ろしくなり歯がガチガチ鳴り、体が小刻みに震えだした。僕は母が結婚したときに持ってきたという鏡台の前に座ると、手を合わせて、
「かみさま、かみさま・・・・」
  と、泣きながら繰り返し始めた。鏡の中の僕の真っ白な頬をつたう涙を見ていると一層悲しくなり、まるで何かにとりつかれたように、「かみさま、かみさま」と繰り返すのだった。

  ガラッと玄関の戸があいた。びっくりして振り向くと父が立っていた。
「きよし、としこの指をさがせ」
  父はすこし引きつった顔でそう言うと、部屋の隅や洋服ダンスの中を探し始めた。僕はその言葉を聞くと心臓をギュッとつかまれた様な気持ちになって、目の前が黄色くなり、あげそうになった。
「としこの指、としこの指・・・」
  こわばって自由にならない口の中でモグモグ言いながら僕は立ち上がると、ナフタリンの匂いがする洋服ダンスの中を一生懸命覗き込んだ。どこへ行ってしまったのか、妹の指は見つからなかった。ただ黒ずんだ血がこびりついているだけだった。あたりの畳の上を四つんばいになって探したが、やはりなかった。ただ、朝刊にはさまれていた広告だけがクシャクシャにまるまって落ちているだけだった。
  ポタリと音を立てて涙が畳の上に落ちた。僕はその場にうずくまってしまった。父はまるで怒ってでもいるようにタンスをゴトゴト揺らしながら探していた。
「きよし、見つかったか」
  父は見つからないのを知っていながら僕に怒鳴るように尋ねた。
「ううん、見つかれへん・・・」
  畳の網目を見つめながら僕は小さな声でそう答えた。
  父は妹の指を見つけるのをあきらめると、大きな音を立てて戸を閉め外へ出て行った。
  僕は部屋の隅に投げ出されて転倒している掃除機を遠い世界のもののように眺めていた。

  どれだけ時間が経ったのか分からなかった。静かに玄関の開く音がして、白い包帯を左足首にグルグル巻きつけた妹を抱きかかえた父と、その後に、目をはらした母が入ってきた。母は黙って押入れを開けると、妹の布団を出して敷いた。父はそこへ妹を静かに寝かせた。そのまわりに座り込んだまま、父も母も僕も、一言もしゃべらなかった。
  どこか遠くを飛行機が飛んでいく音がしていた。
「きよし、としこにおかし、こうてきたり」
  小さなかすれた声でそう言っては母は50円玉を財布から出すと僕に渡した。
「としこ、何がほしい?」
  まだ青ざめた顔で、唇の端をピクピクさせている妹に、母はのぞき込むようにして尋ねた。
「チョコレート」
  妹は小さな声でそう答えた。僕は50円玉を握って立ち上がると、サンダルをつっかけて、表に出た。もう、陽が傾いていた。僕は50円玉を汗ばむほどしっかり握りしめながら、うつむいて歩いていた。
  砂ぼこりでサンダルが奇妙にザラザラしていた。

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2008年4月10日 (木)

倍賞千恵子の「やるせない声」

 もう、忙しくてたまらん。4月の人事異動で、なんだか急に仕事が増えてしまって、とてもブログを更新している場合ではないのである。時々のぞきに来てくださっている方々(ごくごく少数でしょうが)には、誠に申し訳ない。「なんだよー、この前のままじゃないかよー」とお怒りのことと思う。もうすこし、時間を下さい。席の移動やら、新しいメンバーとの打ち合わせやら、歓送迎会やら、よせばいいのに、新しくオープンするレストランの試食会だとかでバタバタなんです。馬鹿みたいだと、自分でも思う。

 忙しい最中に、時間を見つけて、桜を観にいった。山手通りの目黒橋に車を停めて、車の中から、目黒川の両岸に猛然と咲き誇る桜を眺めた。まるで、吹雪のように花びらが降りしきる。その有様を見つめながら、これまたよせばいいのに、倍賞千恵子のCDを聞いてしまった。誰かにもらった2枚組みの「まるで映画のひとこまのように」なるソニーのCDである。その中に、「ゴンドラの唄」(中山晋平作曲、吉井勇作詞)が入っている。

降りしきる桜の花弁を眺めながらこの曲を聴くと、もうたまらない気持ちになる。

「ゴンドラの唄」がどういうものかすぐには思い出せない方も、「命短し、恋せよ乙女」というあの曲である、と聞かされれば、すぐに思い出していただけるであろう。(吉井勇は、行動的な詩人である。あっちこっちで出くわすぞ、この人には。京都・祇園の白川通り沿いをそぞろ歩いていると、この人の詩碑に出くわす。「かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」。好きだったんだな、祇園が。)  ここまで読んでも、全然わかんない方は、どうぞ、どこか別のブログを読みに行ってください。


  文字で、「命短し、恋せよ乙女」と書いてもなんてことはないのだが、倍賞千恵子の声にこの歌が乗ると、もう悶死しそうになる。

 切ない、というのでもない、悲しい、というのでもない。「やるせない」のである。漢字だと、「遣る瀬ない」となる。慰める手立てはなにもない、というような感じである。倍賞千恵子の声には、日本の女性が昔から抱え込む「やるせなさ」が浸潤しているような気がする。

 思い出してほしい。さくらが寅次郎に切々と諭すシーンを。
「おにいちゃん、おにいちゃんのせいで、みんな困ってるじゃないの。ほら、みんな泣いてるわよ。私だって、私だっておにいちゃんのせいで、どんなにつらい思いをしてきたことか・・・」
 さくらがそう訴えかけるとき、観客もみんな自分に向かってそう言われているような気がしてしーんとしてしまったはずである。
 「やるせない」のである。なんとかしてあげたいけど、どうにもしてあげられないミゼラブルな声なのである。分かっていただけるだろうか。


  疲れていることもあって、ちょっとおセンチになりそうだったので、あわてて別のCDに換える。がしかし、これが竹内まりやの「デニム」に入っている「人生の扉」なのだった。もう、あかん。。。。。

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2008年4月 4日 (金)

桜の花が咲く頃

 桜の花が咲く季節になると、思い出すことがある。
 
 私が12歳のときに、家族は、大阪のど真ん中から、和歌山の山中に引っ越すことになった。大阪のど真ん中、というのがどういうものかうまく説明できないが、崔洋一監督の「血と骨」(梁石日原作)を観ていたときに、多分、CGだと思うが懐かしい光景が現れた。

 天王寺から南に向かうチンチン電車(上町線)の線路を斜め俯瞰で見晴らすシーンである。ああ、懐かしいなあ、私が少年期を過ごしたあの時代のあの線路だ、と目が釘付けになってしまった。この電車に乗って、自分は幼稚園に通ったのだ。心配顔の母は、最初のうちだけ北畠駅まで見送りにきてくれていたなあと、思い出した。

 スクリーンには、もうひとつ懐かしい建物が現れた。天王寺にあった日赤病院である。今はもう影も形もなくなった、黒くて陰鬱な建物である。8歳のときに2カ月間入院した病院なのだが、ここへ入院するときには、「自分はもう生きてここから出られないんだなあ」と子供ながらに覚悟をしたことがあった。そのことについては、また書くことがあるかもしれない。

 そんな都会から、和歌山の山中に引っ越すことに決めた父親に対して、母親は抵抗したらしい。病院に行くにも、映画館に行くにも、本屋に行くにも、バスに1時間乗らねばならない田舎だった。そのバスの便も1日に3往復しかない。思えば母は当時36歳。都会から隔絶した鄙に下るのはなかなか承服しがたいことだったに違いない。

 文字通り泣く泣く、都落ちし、12歳の私は、地元の中学校に入学した。全校生徒120人の、木造の小さな小さな学校だった。

 その春に、母は、家の庭に桜の木を植えた。母が、何を思ってそうしたのかは、聞いたこともないので分からない。
 それから6年が経ち、高校を卒業した私は、東京の大学に進学するために村を出ることになった。桜の木は、自分の背丈よりも大きい木に育っていた。

 3月の終わりのある日の早朝。学生服の私は、大きなボストンバッグを一つ持って村の中心部にある四辻のバス停に向かった。見送るために、母は一緒についてきていた。会話は何もなかったように思う。あぜ道の草が濡れていて、新しい靴の先がわずかに濡れたことを覚えている。しばらくすると、バスが到着し、私は、じゃあ、といって乗り込んだ。

  ガチャリと音を立てて扉が閉まると、バスは舗装もされていない道を土ぼこりを立てながら走り出した。座席に座った私は、窓の向こうに手を振る母の姿を見た。バス停に立って、遠ざかるバスに向かって、いつまでもいつまでも手を振る母の姿があった。しかし、そのとき、自分の心を領していたのは、これから新たに始まる東京での新生活への期待だった。

 当時私は18歳、母は42歳。

 今ならば、そのとき、母がどんな気持ちで息子を送り出したかが分かる。いつまでもいつまでも、手を振り続けずにはいられない気持ちが痛いほどよく分かる。今になってやっと、母と子が一緒に過ごすのは、長い人生の中のほんの一時期、たかだか18年にすぎないのだ、ということが痛切に理解できる。

 だが、当時はそうでなかった。

 桜の木は今では「離れ」の屋根を覆うほどに大きく育ち、母は80歳になった。妹も上京し、父は死に、母はひとり陋屋に住む。

 一人で食事をし、一人でテレビを見、一人で眠る。

 先日、電話をした。「もう、桜は満開かな? 東京は満開だけど」
「まだ、3分咲き。山の中やからちょっと寒いんかな。でも来週には満開になるね」


 多分今頃は、手入れの行き届かぬ荒れた庭に、白い花弁がはらはらはらはらと舞い散っているに違いない。

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2008年4月 1日 (火)

サブリミナル効果?

 昨夜は、HUGO BOSSの秋冬物のショーを見るために東京都現代美術館に出かける。寒い。早く着いてしまったのでカフェかレストランで時間つぶしをしようと考えたが、周辺にはコンビに以外、なーーーんもない。なかなかに厳しい地域である。
 ショー終了後、我先にトイレに駆け込む。みんなすっかり冷え切ってしまっている。ブルブルブル(身震いの音)。

一緒に出かけた友人(女性)もトイレに駆け込むが、しばらくして青ざめて出てきた。
「落としちゃった、落としちゃった、携帯をトイレに落としちゃった・・・」
  右手の指先でしずくのたれる携帯をはさみもち、半泣きである。4月から猛然と忙しくなる仕事に必要なさまざまなデータがそこに入っていたらしい。
  そりゃ大変だ! すわ一大事! すぐさまにタクシーに乗って有楽町のビックカメラに。

「ああー、どうしよう。うううううう」とタクシーの中で文字通り、半べそ状態。気の毒だとは思うが、その狼狽振りがおかしくて、はははは、と声をもらしそうになるが、そんなことをしたら狼狽に怒気が混じって大変なことになることが予想されたので黙っている。
  ふと見ると、彼女は濡れた手をタクシーのシートでぬぐっている。手だけではない、携帯の湿り気も一生懸命シートになすりつけている。きたねえなあ、あんた、そりゃ、ないだろう、と言おうと思ったが、すぐに思いとどまる。狼狽に怒気が混じるのが怖い。

  タクシーは閉店間際のビックカメラに到着。「もうこの時間では、携帯の買い替えはできません」と店員に冷たく告げられるが、すがりつくようにお願いした末に新携帯をゲット。データも糞尿負けせずに、無事回収。めでたしめでたし。しかし、その間約1時間、ビックカメラの店内にいて私が本気で思ったことは、「この店は頭がおかしいんとちゃうか?」ということであった。

  音がうるさいのである。けたたましいのである。今でも頭の中で鳴り響いているのは「ビーク、ビク、ビク、ビックカメラ」というあの音楽。それが、エンドレスに延々繰り返される。ほとんど15秒おきに、大音量で「ビーク、ビク、ビク、ビックカメラ」である。店員の説明もよく聞き取れないほどである。なにしろ、「ビーク、ビク、ビク、ビックカメラ」なのであるから。いったい、どういう意図でこんな大音量で意味もない歌を延々繰り返すのであろうか? 考えてみればビックカメラだけではない。

  ヨドバシもコジマも二木ゴルフも、1時間もそこにいたら気が狂いそうになっるほどの大音量&単調リピート攻撃である。二木ゴルフの店内を思い起こすと「にっきごるふー」という単純なフレーズが頭の中に鳴り響き、こぶ平のにんまり顔が脳裏に浮かぶ。うううう、たまらん。これは、ほとんど拷問である。何か、サブリミナルな仕掛けがこめられていて、消費者をして正常な判断ができないように仕組まれているのではないか。で、なんだか、分からないうちに思わず買ってしまう、と。そうとしか、思えない。そうだ、陰謀である。

  私は、ビックカメラの店員にはなれない。二木ゴルフの店員にもなれない。すぐに難聴になり、気がふれてしまうだろう。ビックカメラの社長は、一度でいいから、あの店内のスピーカーの下に一日立ってみてほしい。発狂するよ、きっと。

  しかし、世の中には奇特な人がいるもんである。他でもない、京都の関谷江里さんである。暇な人は、「関谷江里  ビックカメラ」で検索してみて欲しい。3月30日のご自身のブログには、こんなことが書かれている。

<間隙を縫ってビックカメラへ。用事が終わってしばしの合間、飛び込んだのは22時まで営業の有楽町店です。神さまありがとう、わたしいい国に生まれました。気持ちも浮き立って、髪の毛逆立てて1分を惜しんで仕事してたのはいつのことだ? 目はハート、口はポカン状態で幸せを満喫です。21:30とかそんな時間でもわんわんと賑わっていて、違うなあ東京は♪>

  関谷さん、賑わってるんちゃいませっせ。やかましいだけでっせ。

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