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2008年4月22日 (火)

次元の違う話

 では、前回に引き続いて「私には分からない」シリーズ第2弾をご披露したい。いささか小難しい話になるが、「次元」について思うところを記したい。

  最近、ポール・デイヴィスの新刊「幸運な宇宙」という本が出たが、13年ほど前に、この人が書いた「宇宙 最後の3分間」という本をわくわくしながら読んで、すっかり「宇宙物」のとりこになってしまった。文字通り、宇宙の最後の3分間はどのようなものであるのかを、分かりやすく、丁寧に、一般人も理解できるように解説した本である。

 とともに、今現在、我々人類がここに生存しているということが、いかに「たまたま」であり「奇跡的」であるかを明示し、全てが無に帰す「宇宙の最後」を目前にすると、我々の日常的な営みのすべてが、いかに「虚無」のブラック・ホールに落ち込まざるを得ないかを淡々と示唆する。たまらなくスリリングな話なのである。

 以来、「宇宙物」を見つけると買い込んではムシムシと楽しみながら読みついできた。「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン)、「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」(リサ・ランドール)などなど。で、気づいたことがある。誰もそのことを指摘しないので、あえて、超門外漢の身の上ではあるが、「分からないこと」を書く。

 前記の2冊には、どちらも「次元」の話が登場する。1次元、2次元、そして我々の住む3次元の世界について。もっと読み進むと、超ひも理論では、この世の中は11次元でなくては話の辻褄が合わなくなる、ということまで書いてあって、軽いめまいに襲われる。11次元! なんじゃ、それは。それはいったいどんなものなのか? 想像しようにも想像のしようがない。手も足も出ない。さっぱり分からない。

 しかし、私が「分からない」と言うのは11次元のことではない。1次元、2次元の説明に関して、どうしても「分からない」ところが生じるのである。

  我々の生きる3次元世界は、簡単に言えば「幅と奥行きと高さ」のある世界を指す。では、1次元は? それを直感的に理解するために「幅」だけの世界を想像せよ、とほとんどの著者は説明する。

「紙の上に定規で直線を一本引く。その線だけの世界が1次元である」と言う。その線の上に生息する生物がいたとしたら彼の世界は1次元なのである、という説明をする。しかし、ちょっと待ってくれよ、と言いたいのである。紙の上にボールペンだか鉛筆だかで引かれた線は、それが線として認識されるということは、紙の分子の上に、インクかカーボンの分子が乗っかっていることで初めてそのように見て取れるわけである。インクやカーボンの分子にはそれなりの「幅と奥行きと高さ」があるから線として看取されるわけで、そうなると、それはちっとも1次元ではないのではないか。すでにそれは3次元ではないのか、という疑問が生じるのである。

 2次元も同様である。1枚の画用紙を目の前に取り出して、この「幅と奥行き」がある平面が2次元である、という。冗談ではない。画用紙を平面として我々が理解できるのは、画用紙を構成する分子があるからで、その分子たちは先に述べたように3次元的存在物である。立派に「高さ」を有している。そのようなものたちを繰り出して、2次元を把握せよ、というアナロジーはすでに破綻しているのではなかろうか。

 つまり、私はこういいたいのである。我々、3次元に生息する生物は「幅」しかない1次元も、「幅と奥行き」しかない2次元も直感的には絶対理解ができないのだ、と。「幅と奥行きと高さ」を有するものしか我々は思い浮かべることができないのである。

「幅だけあって、奥行きも高さもないもの」や「幅と奥行きだけあって高さのないもの」は、どちらも我々の頭脳はうまく想像することができない。あなたは、いや、そんなことはない、と「線」や「面」を思い浮かべるかもしれないが、それはすでに述べたように3次元的作物でしかない。1次元、2次元を思い浮かべられないという、その「想像の困難さ」は10次元、11次元を直感的に想像できないことと同様なのではないか、というのが私の感想なのである。

 結局、我々が直感的に理解できる次元は3次元のみなのである。

 さて。私の書いていることはおそらく、どこかが間違っているであろう。だって、誰も、こんなこと言わないもんね。でも、どこが間違っているのだろうか。「私には分からない」。どなたか、ご存知の方、お教えいただけないだろうか。

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コメント

子どものころ、図工の時間に2Bとかの濃い鉛筆で線を引くたび「これって線じゃなくて鉛の分子、すなわち点(の集まり)だよなあ」と思ったクチですので、うんうん頷きながら読みました。

大人になった私は、そのへん割と鷹揚になり、1次元・2次元は「3次元をうまく説明するためのパーツ以上の意味はない」と無理やり結論づけてしまっていて、そこから理解が進んでおりません。これは悪い例ですが、この日記でおっしゃっていることは、大人よりむしろ子どもがハマりやすり陥穽のように思えます。そんな子どもたちが、腑に落ちる解説を行える教師と出会えれば幸せだろうなあ、と想像をたくましくしてしまいました。

投稿: クランツ | 2008年4月25日 (金) 02時47分

馬鹿みたいに「私は分からない」シリーズを続けています。もうすこし、分からない話を書いてみようと思っています。「自分にはよく分からない」ことを書くのは面白いということに気がつきました。また、お目通しいただければ。。。

投稿: クランツさま 路傍より | 2008年4月25日 (金) 13時11分

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