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2008年4月 4日 (金)

桜の花が咲く頃

 桜の花が咲く季節になると、思い出すことがある。
 
 私が12歳のときに、家族は、大阪のど真ん中から、和歌山の山中に引っ越すことになった。大阪のど真ん中、というのがどういうものかうまく説明できないが、崔洋一監督の「血と骨」(梁石日原作)を観ていたときに、多分、CGだと思うが懐かしい光景が現れた。

 天王寺から南に向かうチンチン電車(上町線)の線路を斜め俯瞰で見晴らすシーンである。ああ、懐かしいなあ、私が少年期を過ごしたあの時代のあの線路だ、と目が釘付けになってしまった。この電車に乗って、自分は幼稚園に通ったのだ。心配顔の母は、最初のうちだけ北畠駅まで見送りにきてくれていたなあと、思い出した。

 スクリーンには、もうひとつ懐かしい建物が現れた。天王寺にあった日赤病院である。今はもう影も形もなくなった、黒くて陰鬱な建物である。8歳のときに2カ月間入院した病院なのだが、ここへ入院するときには、「自分はもう生きてここから出られないんだなあ」と子供ながらに覚悟をしたことがあった。そのことについては、また書くことがあるかもしれない。

 そんな都会から、和歌山の山中に引っ越すことに決めた父親に対して、母親は抵抗したらしい。病院に行くにも、映画館に行くにも、本屋に行くにも、バスに1時間乗らねばならない田舎だった。そのバスの便も1日に3往復しかない。思えば母は当時36歳。都会から隔絶した鄙に下るのはなかなか承服しがたいことだったに違いない。

 文字通り泣く泣く、都落ちし、12歳の私は、地元の中学校に入学した。全校生徒120人の、木造の小さな小さな学校だった。

 その春に、母は、家の庭に桜の木を植えた。母が、何を思ってそうしたのかは、聞いたこともないので分からない。
 それから6年が経ち、高校を卒業した私は、東京の大学に進学するために村を出ることになった。桜の木は、自分の背丈よりも大きい木に育っていた。

 3月の終わりのある日の早朝。学生服の私は、大きなボストンバッグを一つ持って村の中心部にある四辻のバス停に向かった。見送るために、母は一緒についてきていた。会話は何もなかったように思う。あぜ道の草が濡れていて、新しい靴の先がわずかに濡れたことを覚えている。しばらくすると、バスが到着し、私は、じゃあ、といって乗り込んだ。

  ガチャリと音を立てて扉が閉まると、バスは舗装もされていない道を土ぼこりを立てながら走り出した。座席に座った私は、窓の向こうに手を振る母の姿を見た。バス停に立って、遠ざかるバスに向かって、いつまでもいつまでも手を振る母の姿があった。しかし、そのとき、自分の心を領していたのは、これから新たに始まる東京での新生活への期待だった。

 当時私は18歳、母は42歳。

 今ならば、そのとき、母がどんな気持ちで息子を送り出したかが分かる。いつまでもいつまでも、手を振り続けずにはいられない気持ちが痛いほどよく分かる。今になってやっと、母と子が一緒に過ごすのは、長い人生の中のほんの一時期、たかだか18年にすぎないのだ、ということが痛切に理解できる。

 だが、当時はそうでなかった。

 桜の木は今では「離れ」の屋根を覆うほどに大きく育ち、母は80歳になった。妹も上京し、父は死に、母はひとり陋屋に住む。

 一人で食事をし、一人でテレビを見、一人で眠る。

 先日、電話をした。「もう、桜は満開かな? 東京は満開だけど」
「まだ、3分咲き。山の中やからちょっと寒いんかな。でも来週には満開になるね」


 多分今頃は、手入れの行き届かぬ荒れた庭に、白い花弁がはらはらはらはらと舞い散っているに違いない。

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