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2008年8月

2008年8月29日 (金)

キム・テヒですよ!

 

    昨日書いた文章中に大きな誤りがあった。「韓国で一番の美人女優」の誉れも高いその人の名を、私は「なんとかテジさん」と記してしまったのだが、すぐに中村奈央子さんより、「キム・テヒですよ!」というお叱りのメールが届いた。

  本当に申し訳ありません。最近、耳がよく聞こえなくて・・・。ヨボヨボ。なので、「なんとかテジさん」は「なんとかテヒ」さんと訂正いたします。

  そして、実は「キム・テヒさん」でないと、文中の、クボちゃんの発言、「竹島は日本の領土だ、って彼女にばちこーんと言ってきて」の面白みが半減してしまうのである。

    美人女優、キム・テヒさんはソウル大学在学中に、地下鉄でスカウトされて芸能界入りした才媛なのだが、その一方で、2005年に親善文化大使として招かれたスイスで、竹島(韓国では独島)は韓国固有の領土であると、「独島愛キャンペーン」を堂々と展開した愛国者でも知られているのである。

  もっともかねがね、政治的活動と芸能活動は全く別物で、もし自分が主演する作品が日本で公開される際には、そのプロモーションのために日本を訪れることにやぶさかではない、とこれまた堂々と主張していた方でもあった。

  残念ながら、お目にかかった際にはそのことを全然知らなかった。もちろん、知っていたとしてもあまりの美女ぶりに、すぐにおずおずと後ずさっていただろうことは間違いないのだが。

 

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2008年8月28日 (木)

神様が降りてくる

 先週末は和歌山の実家で、他にすることもないのでテレビをじっと食い入るように見続けた。普段はほとんどテレビを見ないので、とても新鮮である。北京オリンピックに関しては、8月11日の項に書いたように、うっかり中継を見てしまうとかなり一生懸命応援してしまい、その応援の甲斐がない結果になると心から落胆してしまうので、その結果を報じるニュース番組だけを見るように努めた。これだと、いい結果のみを集中的に何度も報じてくれるので、安心して見ることができるのである。
 
  何度も何度も繰り返し報道されたのが、女子ソフトボールの金メダル。特に上野由岐子投手が感涙に咽びながら、恩師でもある元監督に向かって人差し指を高く突き出すシーンは繰り返し放送された。何度見ても、いいシーンである。

  面白かったのは、各局各番組で上野投手へのインタビューが行われていたのだが、それぞれのスタッフの力量の差か、彼女から引き出してくるコメントが全く違っていたことだった。答える人は同一人物なのに、尋ねる人間が異なると、回答が変わる。聞き手の力量がそこに如実に現れてしまうのである。

  その中で、興味深い話を引き出していたのは、元プロテニス・プレイヤーの松岡修造氏だった。多分、「報道ステーション」での取材だったように思う。彼に応えて上野投手は、おおむね次のような話を披露していた。この話は、私が視聴した限りでは、他のどの番組ででも聞くことができなかった。

「最初の方の回で、すでに勝利を確信していました。というのも、これまで経験がないほどに自分は冷静で、ここに投げれば絶対に打たれない、という球筋が、まるで線でも引いてあるように、ラインで見えていたんです。だからそのライン通りにボールを投げればよかった。まるで、神様が降りてきたようでした」
 
 なるほど、そういうことがあるのかと話を聞きながら思った。ゴルフの世界ではそれを「ゾーンに入った状態」という。おそらく、ほとんど「となりに神様が降りてきたゾーン」に自身が突入するということだろうと思う。驚くべき集中力の中で、やることなすことすべてがいい結果をもたらすようになる。ドライバーは正確無比なだけではなく、距離も出る。アプローチはベタピン。パットというパットが奇跡的に入る。タイガー・ウッズは実にしばしば、この「ゾーンに入る」プレイヤーである。
  
  あることに極度に集中し続けると、そんなふうな状態に人はなるんだなあ、と実に興味深い感慨にとらわれた。で、テレビのチャンネルを変えると、NHKであの妖怪マンガでおなじみの水木しげるの顔のアップが映った。そこで、水木さんがこれまた興味深い話をしていた。
  
  戦中、水木さんは日本陸軍の兵士としてニューギニアに送られる。そこで自身が所属する部隊が全滅。一人、銃を捨て、丸裸になって逃走する。ジャングルの道なき道を闇雲に逃げる。文字通り、必死である。靴底は数時間で抜けた、という。水木さんが言う。

「僕は三日三晩、真っ暗なジャングルの中を走って逃げ続けました。その時に面白いことに気がつきました。ジャングルの中は道もないし、平坦でもない。なのに、僕はその三日三晩、一度もこけなかったんです。転ばなかった。一度も転ぶということがなかったんですよ。不思議ですね。そのとき感じたのは、ジャングルが僕を守ろうとしているということでした。ジャングルの神様が僕を守ってくれているんです」
  
  実に不思議な話ではないか。これに似た経験など、ほとんどの人間はしたことはないだろう。NHKのインタビュアーも、別にニューギニアでの霊的体験を聞きだすことが主眼ではない。ただ、戦中のニューギニアでの過酷な体験を聞く、というものだったのだが、水木さんはこのことが、よほど強く記憶に残っているのだろう。語らずにはいられなかったのである。
 
  極度の集中力を働かせている人間には、ときとして「神様が降りてくる」。降りてきてくれるだけでない。「手助けをしてくれる」のである。
  
  これほどの例ではないけれど、私にも似たような経験がある。ある企画を練らねばならず、何日も何日も、目覚めて意識がある間中考え続けていると、1週間ほどたった深夜、眠っているのに、まるで「空からそのアイデアが降りてきたように」、天啓のようにしてプランがするするっとまとまることがある。あ、メモしておかないと忘れる、と思い立って起きだし、枕もとのメモにあわてて書き留めるのである。その時、なぜ、自分はそんなことを思いつけたのかが分からない。
  
  メモを書いているのは自分なのだが、自分ではない誰かに書かされているような気にさせられることもある。上野さん、水木さんのような強烈な体験でないけれど、なんだか、妙な体験である。

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タクシー王子・川鍋社長に会う

  昨夜、六本木ヒルズで「上海コンテンポラリーアート展」の告知パーティが行われた。上海にもアートにもあまり関係のない身の上ではあるけれど、友人の中村奈央子さんがご招待下さったので、いそいそと出かけた。「韓国で一番の美人女優が来るから、紹介してあげるね」と中村さんに言われて、会場に向かう足取りもいつになく軽やかなのだった。

  でも、その女優さんの名前(なんとかテヒさんだったような気がするが正確ではない)を聞いても、韓国芸能事情に全く疎いので、その方に出会うことがどのくらいありがたいことなのかがよく分からない(猫に小判)。

    お目にかかると確かに美しい方であったが、彼女の経歴を全く知らないので話しの接ぎ穂がない。こういう場合、経験的には大概失礼なことを相手に申し上げて大顰蹙をかうことが多いので、「お目にかかれて光栄です」とだけ申し上げて、別の場所に移動する。中村さんの友人のクボちゃんは「竹島は日本の領土だ、って彼女にばちこーんと言ってきて」とけしかけるが、とてもとても、そんな勇気は私にはありません。

    と、そこへ颯爽とひとりの青年が現れた。中村さんが「日本交通の川鍋さんです」とご紹介くださる。「日本交通・・・・、川鍋・・・・・」 ん? あ、タクシー王子じゃないの。そうだ、あなたには話したいことがあるんだ、と初対面にも関わらず、先月乗った日本交通のタクシーでの経験をぶしつけにもご説明申し上げることとなった。その経験については、7月25日の項で「日本交通・中村運転手の英断」と題して、こんなふうに書いている。

< おとついのこと。


  会社の同僚3人とタクシーに乗り込んだ。私が先に後部座席に乗り込んだのだのだが、ふと足元を見ると、茶色い封筒が落ちている。お、現金拾っちゃったかな、とにんまりしつつ中を見てみると、ミュージカルのチケットが3枚。

  よーく見ると、赤坂アクトシアターでやっているミュージカル、「フラガール」のものでS席9000円である。3枚で〆て27000円なり。いつのチケットなのかなと見ると、なんと、30分後に開演となっている。おそらくは、このタクシーで3人は劇場に向かったのだろう。が、あろうことか、肝心のチケットを車内に落っことしたまま・・・・。

「運転手さん、俺たちを乗せる前に、赤坂まで3人組を乗せなかった?」
  と運転手さんに聞くと、
「ああ、乗せましたよ。若い女の子の3人組だったけど」
「ありゃあ、その子達、赤坂にミュージカルをみに行ったんですよ。でも、チケット3枚ここに落っことしてんですよ」
「ええっ・・・・」
  運転手さん、一瞬絶句。どうしたんだろう、と思っていると、その運転手さん、意を決した様子で、
「お客さん、すいませんがここで降りてください」
  決然とそういう。なんだ、何事だ?
「私、チケット持って、急いで赤坂に向かいますっ」
  おお、そういうことか。わかったわかった。それは俊敏で優しい判断である。われわれ4人は急いでタクシーから降りた。タクシーは慌てて赤坂に向かう。

  後から来たタクシーに乗り込んだ我々は、「ちゃんと女の子3人組にチケット渡せるかなあ」「女の子たち、きっと今頃呆然としてるよ。27000円だもんなあ」「タクシーの領収書をもらっていたら、チケット落としたといって、タクシー会社に連絡できるんだけどな」「でも開演30分前だしなあ」などといいろいろ話し合っていると、一緒にいた30代後半の女性が、
「女の子たちって、きっと、若くてかわいい3人組なんだよ。絶対そうだよ。おばさんだったら、絶対行かないね、赤坂まで」
  と言い放つ。一同、納得。

  でも、日本交通の中村某運転手、あんたはえらい。
  さすが、「タクシー王子」川鍋社長が指揮する会社のメンバーだけあるぞ。>

  という顛末を、川鍋社長に説明すると、「おお、それはいい話ですねね」と言って、手帳を取り出してメモを始める。「自分のブログで、いい話として書こう」とおっしゃる。いいね、レスポンスが早くて。
「社長、この中村運転手に、ぽーんとボーナスはずんで下さいね」と調子に乗ってお願いすると、「うん、ポケットマネーででも、払います」という迅速なご返事。

  よかったね、中村運転手! 

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2008年8月19日 (火)

つられあくび

 今年の3月1日付けで、「嘔吐論」という気持ちの悪いタイトルで以下のような話を書いた。

<で、今回のテーマはですね、前置きがずいぶんと長くなってしまいましたが「人はなぜ、つられゲロをしてしまうのか」についての陳腐な私見をご披露したいと思うわけです。なぜ、人は、他人が嘔吐している様子を間近で目撃すると、自分も気持ち悪くなってしまうのか。時には、なぜ、一緒になって吐いてしまうのか。気持ちの悪いテーマですが。 (略) 

   まあ、それはいいとして、「つられゲロ」に言及する前に、それに似ているけれど全然違う「つられあくび」を考えてみます。よく、テレビを見ていて登場人物があくびをすると、見ているこちらもあくびをすることがあります。喫茶店などで友人とお話をしていて、相手がちょっと疲れてあくびをすると、それにつられてこちらもあくびをすることがよくありますよね。
 
   あれは、つまり、「今、自分の目前にいる人間があくびをしている、ということは彼、または彼女は体内の酸素が不足していて、無意識のうちに、あくび、つまり酸素を体内に大量に供給することによって、その不足を解消しようとしている」という無意識の理解がこちらにあって、本能的に、そう、まったく本能的に同じ動作をしてしまうんじゃないかと思うわけです。つまり、目前の人物があくびをしているということは、今、二人が置かれている環境は、酸素が不足している可能性が高いので、深呼吸したほうがいい、ということを暗黙のうちに察知し、「つられあくび」をしてしまうわけなんです。
 
   太古の昔、人間は洞窟などで共同生活を送っていたはずです。洞窟の中で焚き火をすることもあったでしょうし、洞窟そのものに新鮮な空気が流入しにくい構造のものがあったに違いありません。ほかの動物や人間の襲撃を避けるための住まいならばなおのことそうだったに違いありません。そんな生活空間で誰かがあくびをすることは、周囲に同時にいる人間たちもそうしたほうがいい行為だったはずです。つまり、それは危険を知らせるシグナルだったわけです。
 
   
    ここから「つられゲロ」の行為を類推してみたんです。こういうことです。大昔の人間たちは、おそらくその親族らとともに起居し、ともに同じような食物を食べていたはずです。同じ水を飲み、同じ細菌に冒されていた可能性は大いに高かたに違いありません。
 
    そんなときに、集団の成員の誰かが、激しく嘔吐するということは、その原因となるものがなんであれ、成員の全員が同じ原因物質を摂取したおそれが十分にあるわけです。つまり、成員の誰かが「嘔吐している」ということは、「彼、あるいは彼女が体内にとどめておかないほうがいい物質を、口から体外に排出している」わけですから、同様の物質を摂取した可能性の高い周囲の成員も同様に排出したほうが絶対にいいわけです。かくして、「つられゲロ」は人の本能として身についた次第なのです。
 
   つまり、十分に「つられゲロ」が身に付いた集団は幸いにして生き延び、そうでない集団はそうでないがゆえに、長い人類の歴史の中のどこかで死に絶えたというわけです。ですから、この地球上に生息する人類はみーんな「つられゲロ」仲間だといっても過言ではないのです。>
  
   まあ、ここで書いていることは単なる思いつき、なんの根拠もないインチキ生物学なのであるが、仮説としてはかなり面白いものではないか、と自負している。そんな話を書きつけたことも忘れていたのだが、つい先ごろ、朝日新聞に興味深い記事が掲載された。引用する。

<人のあくびが犬に伝染することが実験で確かめられた。あくびの伝染は人やチンパンジーの間で報告されているが、人と犬では初めて。ロンドン大学の千住淳研究員(心理学)らが英科学誌バイオロジー・レターズに発表した。「飼い犬は人に共感する能力を備えているのかも」と話している。
 
   実験は、飼い主の家など、犬が落ち着ける場所で行った。飼い主以外の人が5分間犬と一緒にいて、目があったら声を出してあくびをした。その結果、29匹のうち21匹が1回以上のあくびをした。あくびと同じような口の動きだけでは1匹もあくびをしなかった。人から犬へのあくび伝染のメカニズムについては研究が必要という。 >
  
   面白い研究である。私の「つられゲロ」仮説を裏付けてくれるような話ではないか。犬も人も、「つられゲロ」「つられあくび」を身につけたがゆえに、現在こうして生存しているのではないか。
  
   しかもそれが、種を超えて伝染するとは、なんだかとても愉快ではないか。

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2008年8月15日 (金)

「ハプニング」

   お盆休みである。会社は13日からお休み。やり残した仕事があったので、お休み気分のまま、半ズボンで会社に来たら、通常通りに勤務している方たちがずいぶんたくさんいたのでびっくり。みんなぎょっとして私の半ズボンを見ている。どうもすいません。で、目下、半ズボンのまま、会社のPCで原稿を書いているところ。

  お盆休みをいいことに狂ったようにゴルフ場通いを続けていて、もう真っ黒である。尋常な黒さではない。とてもまともなお仕事に従事している人には見えないだろう。今日の昼に、近所に住む同い年のゲンちゃんから、「練習に行くぞ」とメールが入ったので、あわててイトウ・ゴルフガーデンに駆けつけるが、あまりの暑さに練習を切り上げて、三鷹産業プラザ1階のカフェで昼飯を食い、その後、「たかね」でカキ氷を食べる。私はミルクあずき。ゲンちゃんは黒蜜。店を出た後、いかにしてドライバーを飛ばすかという話になり、真っ黒なおっさんが二人道端に立ち止まり、ビルのガラスに姿を映しながらスイングのレッスンを始める。多分、道行く人々にとっては、異様な光景だったに違いない。

   しかし、私もゲンちゃんも、そもそも自分の事をまともな人間だとは少しも思っていないので、一向にひるまない。困ったおっさんデュオなのだ。

   明日も飯能パークゴルフクラブでラウンド。これで、日焼けも極限状態に近づき、黒光りし始めるに違いない。

   先日、M・ナイト・シャマラン監督の新作「ハプニング」を観てきた。このインド人の監督の作品には、どの作品にも、「なんだかえたいの知れないもの」が「われわれの平穏な日常を脅かす」という一貫したテーマが貫かれている。

   今回の新作「ハプニング」も同様。はっきりと明示的にそのことが提示されているわけではないが、「地球上での、人間の利己的なふるまいに、植物たちが業を煮やして、人間たちに報復を開始し始めた」様子を、独特の映像とストーリー展開で、描いている。なんだか、しみじみ恐い。

   この映画を観ていて、昨今、我々の身の回りにとても多くなった「心を病んだ人」たちのことを考えた。躁うつ病、気分変調症、統合失調症、境界性人格障害・・・・・。これらの「心の病」はひょっとして、「何か」が「我々に」報復している結果ではないのか、と。でも、その「何か」が何のかは、しかと分かりはしないのだが。

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2008年8月11日 (月)

北京オリンピック「頑張れ日本!」

    不愉快である。
  
    たまたま日本に生まれたから、ついつい、がんばれ日本! と応援してしまうのだが、往々にしてこの声援は空しいものに終わる。そう、もちろん北京オリンピックの話である。

  どうして日本を応援してしまうのか。どうしてこんなに弱いのに、一生懸命応援してしまうのか、自分でもよく分からないが、応援してしまう自分が悲しい。なので、極力TVは観ないことにしている。観れば、失望することが分かっているからである。何かの拍子にうっかり観ちゃったときには、瞬時にどちらが勝ちそうかを判断し、勝ちそうな方を応援することにしている。W杯のときもそうして堪えてきた。

  次に思うことはこんなことである。どうしてこんなに弱いのに、日本はいろんな種目に選手を送り込むのであろうか。むなしく、予選の藻屑と消え去ることが分かりきっているのに、なんでわざわざ負けるために北京くんだりまで出かけるのか。まさか、国民の税金で行ってるわけじゃないだろうな、ということである。種目の参加は、メダルの可能性のあるものだけにしてもらえないだろうか。ひょっとすると、日本人という民族は、スポーツに向いていないのではないか。体型的にも民族心性的にも全く向いていないように思う。

  あきらかに向いていないことに地道をあげるほど空しいことはない。サラブレッドに立ち混じって、ロバが天皇杯に出場するくらい空しい所業である。即刻、ロバ君にはに山道での荷物運びに精出してもらうべきではないのか。だいたい、日本人に向いているのは、田植えとか囲碁将棋とか盆栽とか、そういうことではないのか。なんで、外国まで行って飛んだり跳ねたりしなくてはならないのか。

  ついでにいうと、TVのアナウンサーは、頼むから「がんばれ日本!」という何の内容もない、絶叫型の文言を解説者と一緒にがなりたてることをやめてもらえないだろうか。「まだ、一縷の可能性が残っています」とか「まだ大丈夫」とか「相手が失敗すれば入賞の可能性もある」とか、あまりに楽観的、希望的観測を公共の電波に乗せることを即刻中止してもらいたいのである。

  昭和20年、敗戦必至、もう絶対負けるに決まってる戦争なのに「そのうちに神風が吹く」だの「一発大逆転の新兵器が開発される」だの「一億火の玉になってことに当たれば大丈夫」だの、テキトーなことをアナウンスしていたのとなんらかわるところがない。

  そんなテキトーなことを視聴者は聞きたいのではない。少なくとも私は聞きたくない。放送に携わる人々はもっと、ジャーナリストとしての自覚を持って欲しい。その種目で日本が勝てないならば、何故勝てないのか、どうすれば世界レベルの選手を輩出できるようになるのか、世界のトップレベルの選手とはどのような人々なのか、何故彼らはそこに到達できたのか、彼我の差は何に起因するのか、どのような点に着目して観戦すれば、より豊かな知見を得られるのか、そういうことを冷静に報道して欲しいのである。

  たとえば、世界の巨大銀行の格付け報道があって、日本のある銀行が15位だったとすると、「がんばれ日本!」「まだ6位以内に入る可能性はある!」「サブプライム問題がもっと拡大すれば、日本にもいくばくかの可能性はある」なんてことを言いますか? 言わないでしょ? もっと冷静に、世界の中で日本の銀行はどのような位置にあるのかを報じるでしょ? そういうことなんです。 頼むよ。

    がんばれ、ニッポン!!!!

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2008年8月 7日 (木)

内田樹と「その土曜日、7時58分」

  

   ただ今、夜の10時半。会社の机の上のパソコンに向かっている。外で酒を飲み会社に帰ってきたところ。結構酔っ払っちゃっている。このままでは、とてもクルマの運転はできない。なので、酔い覚ましついでにブログを更新することにしたが、いかんせん酔っ払っている。素面になってから読み返したら、あきれるようなことを書いてしまうかも知れないが、どうかご寛恕いただきたい。

  先日、シドニー・ルメット監督の最新作「その土曜日、7時58分」を試写会で観てきた。ルメット監督は84歳。本作が45本目の作品になるんだという。さすがに、今時のテンポの映画ではないが、老練らしい手さばきで、込み入った脚本をそつなくこなしている。

  何より、監督がルメットだということで、一癖も二癖もある役者が揃っているところがすごい。「マグノリア」「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマン。「ヒマラヤ杉に降る雪」のイーサン・ホーク。「さよなら。いつかわかること」のマリサ・トメイ。そして「ボーン・アルティメイタム」のアルバート・フィニー。

  どいつもこいつも、一筋縄ではいかない。軽量級の監督ならば吹き飛ばされそうなアクの強さである。「泣き」の演技をさせたら右に出るもののいないホフマン。「なさけない奴」を演じさせたら右に出るものいないホーク。「おつむの足りない女」を演じさせたら、この人、地がこういう人ではないのかと思わせるトメイ。映画の撮影に参加する前に病院に行くべきだろうと思わざるを得ないほどに「心臓の悪い人」の演技が堂に入っているフィニー。怪演、奇演、壮演のオンパレードである。

  で、そんなに個性的な役者がそろってどんな話を演じているのかというと、あまり詳しく書くと興ざめになっちゃうだろうから簡単に書くけれど、裸形の「家族の肖像」である。ある一つの事件を契機に、まるでたまねぎの皮がむけるように、次から次へと、醜い家族の裸の姿が露呈していくのである。結構きつい話なのである。それを個性的な面々が演じているので、なかなか飽きさせない。

   そんな醜悪な家族の話を観た後で、内田樹氏の最新刊「こんな日本でよかったね」(バジリコ)を寝転がって読んでいたら面白い一説に出くわした。

<親族が集まったとき、「ある人」がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。
「その人がいない」ことを「欠落」として感じる人間、それがその人の「家族」である。
  その欠落感の存否は法律上の親等や血縁の有無とは関係がない。・・・・・
  家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である。>(P64)

  これを読んで、ああ、内田氏は幸せな家庭環境のうちに育ったのだなあ、と思った。「家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である」というのは美しいフレーズである。だが、あまりに美しすぎて、それはあまりに一面的ではないかと思わざるを得ないのである。

  私は17年前に父を亡くした。今は懐かしい回想の中にしか父は生きてはいないが、本当に父が生きていた頃に、2度ほど痛切に殺したい、と思ったことがあった。もちろん思うだけで実行に及ぶことはなかったのだが・・・。

  何が言いたいのか。つまり、その人の「不在」を悲しみのうちに回想する人々だけがその人の家族であるわけではなくて、「その人が自分の眼前に立ちはだかるとき、この人さえいなければ、とその消失を切望し、実際に消失したときに、心から安堵する人もまた、まぎれもなく、その人の家族なのだ」ということを、ある種の悲しみを抱きながら、記しておきたかったのである。

  この映画のタイトルは「その土曜日、7時58分」となんだか思わせぶりだが、本来のタイトルは「BEFORE THE DEVIL KNOWS YOU’RE DEAD」。「あなたが死んだことが、悪魔に知れる前に」という意味だが、本当はアイルランドで交わされる古い乾杯の音頭、「死んだことを悪魔に気づかれる30分前に天国に行けますように」からとったものだという。

  妙に含蓄に富んだタイトルである。そうだね、私も、あなたも、死んだことが悪魔に気づかれる30分前に、できることなら天国に行きたいよね。地獄はいやだ。

    そろそろ、酔いも醒めてきたかな。クルマ、運転できるかな。

  誰も言わないから、最後に書き付けておきたい。

  家族というのは、地獄のファーストネイムに他ならない。

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2008年8月 6日 (水)

不肖・宮嶋の「私の異常な愛情」

  

    不肖・宮嶋こと、カメラマンの宮嶋茂樹氏から最新刊の文庫が送られてきた。「私の異常な愛情」(光文社文庫)。不肖・宮嶋らしい異常なタイトルである。「博士の異常な愛情」をもじったタイトルなのであろうが、まあ、意味はよく分からない。分からないが、別段問題はない。

  サブタイトルが「不肖・宮嶋流 戦争映画の正しい観方」。これで、内容がはっきりする。そう、「トラ・トラ・トラ!」から「硫黄島からの手紙」まで、宮嶋氏が愛してやまない戦争映画27本について、いかにも氏らしい薀蓄をこれでもか、これでもかとひたすら大展開してみせるのである。

  読んでいるうちに、二人で品川のイマジカへ「プライベート・ライアン」の試写会に出かけた日のことを思い出した。ちょうど10年前、1998年の今頃だったのではなかろうか。宮嶋氏の、ほとんど筋者としか思えぬ柄の悪いベンツ(ガラスは真っ黒で、しかも神戸ナンバー)に乗って、ドーンとイマジカに乗り付けたのだった。

  座席にふんぞり返って余裕をかましていたのは映画が始まるまでで、始まったとたんに二人はビビリまくり、座席で小さくなっていたのである。冒頭から始まるノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンのあまりの迫力に声を失った。イマジカの音響設備は素晴らしいもので、四方八方から飛んでくる金属的で鋭利な銃弾音は、まるで自分がその戦闘の真っ只中に放り出されたような気にさせられた。見終わった二人はぐったり疲れ、言葉もない。

「あかんで、宮嶋。戦争取材には行ったらあかん・・・・。死ぬで」
「はあ、すごかったですなあ」
「この映画、もう一回観に行こ。映画館でもう一回ちゃんと観てみよ」
「はあ・・・」

  たぶん、二人でもう一度この映画を観に行ったように記憶する。私はそれでも足りず、DVDまで入手し、音量をできるだけ大きくして、これまで5,6回は観たはずである。かなり精緻に鑑賞したつもりでいた。

  しかし、不肖・宮嶋の観点は想像を絶するほど、人と変わっていた。極めてユニークであった。ほとんど話しについていけないほどコアであった。どれほどユニークであるか、同書から引用してみたい。

<武器のディテールだけでも、この映画は観る価値がある。わずかだが、動くタイガー戦車も出てきた。・・・映画でツィメリット・コーティング(対吸着性地雷装甲)された戦車を見たのも初めてである。ただ旧ソ連のT34をベースに改造したため、かなり小ぶりのタイガーであった。本物のタイガーは56トン。自動車のカローラが五十台分くらいの重戦車だったのである。>

<しかし、なんちゅうても影の主役はドイツのMG機関銃である。今に至るもNATO軍が改良に改良を重ね、愛用し続けている機関銃の中の傑作である。それが、あの七十年前にドイツではすでに完成されていたのである。まさにドイツのクラフツマンシップが生み出した、銃の中のメルセデスベンツなのである。シンプルな構造、振り回しやすいバランス性、MG34(1934年ドイツ軍制式採用)、MG42ともに現在に至るも口径7・62ミリ。あまりに速い連射性から(銃声が連続的に聞こえるため)、その銃声は牛の鳴き声とも、ヒトラーのひき肉機とも言われた。・・・・上陸用ハッチが降りた瞬間から、もう、いっきなしミラー中隊が洗礼を受けたのも、このMG機関銃である。鉄のヘルメットを紙のように弾頭を貫通させ、脳ミソ、肉片をそこら中に撒き散らす。>

  とまあ、こんな具合である。これほどディテールにこだわって映画を観ることができたらさぞかし楽しいだろうなあ、と感心する。

  それから4年後の2002年の初めに、やはり二人で「ブラックホーク・ダウン」を観に行ったが、ここでも二人はビビリまくった。

「あ、あかん、宮嶋。アフリカだけは行ったらあかんで。なぶり殺しにあうで・・・・」
「ごっついですなあ、これは。実話でっさかいな」
「おお、あかんでえ、行ったらあかん。もう戦争取材はやめとけ、やめとけ。高円寺で一緒にお好み焼き食べてたほうがええで・・・」

   映画を観た後しばらくは、不肖・宮嶋もビビッていたが、喉もと過ぎればなんとかで、その数年後、一番ホットな時期にイラクに潜入、九死に一生を得ることとなるが、その話はまた今度。
  

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2008年8月 4日 (月)

チャン・フォンイー=城島茂説

  

  ジョン・ウー監督の新作「レッドクリフ」の試写会に出かけた。会場は「C.C..Lemonホール」、かつての「渋公」である。

「男たちの挽歌」「フェイス/オフ」のウー監督が今回取り組んだのはなんと「三国志」。そうである、ウー監督は、今から約1800年ほど前の中国を舞台に展開される歴史的物語の映画化に取り組んだのである。

   が、この映画の謳い文句、<「M:I-2」「パイレーツ・オブ・カリビアン」のチームが贈る、アクション・アドベンチャー超大作。>からすぐに想像できるだろうけれど、いわゆるひとつのハリウッド的娯楽大作となっている。

  ウー監督がそのことを望んだのかどうかは知らないが、血しぶきが飛び散る戦闘場面は、監督の面目躍如といったところ。「ああ、ここにもプライベート・ライアンの影響は及んでいるのだ」と思わされたのは、戦闘シーンになると、画面がセピア色を帯び、コマ落としで動きがギクシャクし始め、画像が妙にざらざらして見えるようになること。

  この手法は、「プライベート・ライアン」でスピルバーグ監督が、戦闘の迫力を増すために当時のニュース映画のタッチで映像を作ったことによる。以降、いろんな映画の戦闘シーンでこの手法は採用されていて、明らかに、「プライベート・ライアン」以前、以降では戦闘シーンに変容が見られる。

  しかし、今回書き付けておきたいのはそんなことではなかった。

  三国志におなじみの登場人物を、有名俳優が演じている。諸葛孔明を金城武、周瑜をトニー・レオン、劉備をヨウ・ヨンが演じている。そして、曹操を、チャン・フォンイーという、「さらば、わが愛~覇王別姫」の主役を演じた有名な俳優が演じているのだが、この人の顔が、なんだかTOKIOの城島茂君にそっくりなのである。城島君、年取ったらこんな顔になるんだろうなあと、チャン・フォンイーの熱演を眺めながら考えている自分がいる。

  一度そう思ってしまうと、曹操が登場するたびに、あ、城島くんだ、と思うようになり、どんな荘重な演技も、城島君が演じているように思えてきてしまって、はなはだ感情移入しにくくなってしまうのである。

  そんなことってないですか? ある人の顔を見るたびに、似ている誰か別の人間を思い浮かべてしまう、ということが。たとえば政治家の加藤紘一を見ると、必ず、私は太った吉幾三を思い出す。加藤がもっともらしいことを言い始めると、何言ってんだよ、幾三、と思ってしまうのである。

  チャン・フォンイー=城島茂説、ぜひ映画館に足を運んで確かめてみてくださいな。

  

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