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2008年9月25日 (木)

「神様が降りてきた」数学者たち

   たぬきの話を書いて以来、仕事に遊びに忙しくて、まったく更新することができない。まだ更新してないのかよ、さっさと更新しろよ、とときどきのぞきにきて下さっている方が罵詈雑言を浴びせかけていることを知っているので、まことに落ち着かない。とても申し訳ない。

  ふたたびたぬきの話で申し訳ないが、直前の項で書いた、ウスイさんちのたぬきだが、なーーーーんと、9月25日号の週刊文春の表紙を飾っている。といっても、ウスイさんが撮影した写真ではなく、その写真を見て、イラストレーターの和田誠氏が描いたものである。高円寺のたぬきが週刊誌の表紙を飾るなんてなんだかとても愉快である。

  で、忙しい忙しいとしきりにエクスキューズを繰り返しているが、何に忙しかったかというと、ゴルフなのであった。9月13日は大学時代の同級生とアメリカ人の弁護士2人と一緒に、兵庫県の芦屋カンツリー倶楽部で。昭和27年に開業された名門コースであるらしいが、アップダウンが激しくて、なかなか厳しい。

  ゴルフ英語について、かねがね気になっていることがあったので、昼食時にネイティブに聞いてみた。

「日本人はいい当たりをしたときに、ナイスショットと声をかけるが、それはいささか猥褻な意味合いを含んでいるので、できることならグッドショットと言ったほうがいいと言われたんだけど、ほんと?」
「いいや、どちらも使うよ、ほとんど同じ」
「ふーん。では、打った球がグリーンに乗ってコロコロ転がって外に出そうになったときに、テレビでPGAの試合などを見ていると、ステイ、ステイと叫んでいる。何で、ストップって言わないの? 日本人の感覚だと、留まれ! というより止まれ! と言うほうが適切に思うんだけど」
「それは、慣用的にステイ・オン・ザ・グリーンという言葉があるからだと思うよ」
「ふーん。じゃ、プロに試合で観客に対して、お静かにという札を出しているけど、あれはクワイエットと書いある。なんでカームじゃだめなの?」
「カームだと、幼稚園児が騒ぎまわっているときに、静にしなさい!という感じ。クワイエットはご静粛にって感じかな」

  さすがに弁護士は説明がうまい。

    帰りの新幹線に乗車する前に、新大阪駅の地下にあるHORAIで餃子と生ビールで乾杯する。今度は東京で一番うまい餃子を食べに行こう、と約束する。

   9月20、21日は長野県の三井の森蓼科ゴルフ倶楽部で連荘でラウンド。台風のせいで2日目は雨にたたられる。一緒に回ったのはエイベックスのHさんやスポーツ紙のSさんたち。エイベックスのHさんの車に乗せてもらったら、車内TVではずーっと80年代の歌謡番組が流れている。もちろんDVDで。あれこれ録画して自身で編集したらしいのだが、ピンクレディ、キャンデーズ、松田聖子、山口百恵、郷ひろみらの全盛期の歌と映像が次々と映し出される。

   その歌番組を見ていると、いまどきの楽曲がいかにつまらないか、いかに貧血しているかがよーく分かる。70年代、80年代の日本の音楽シーンは最高である、とつくづく思う。フォークがあり、歌謡曲があり、演歌があり、ポップスがあり、なによりもクリエイティビティがある。売れるか売れないか、金になるか否かといったビジネス的基準ではなく、なにかいいもの、新しいものを作り出そうという熱気が音楽界に渦巻いていたように見える。

   現代はそうではない。すべてマーケッティング至上主義であり、なによりもまず、売れることが大事なのである。投資した金を回収できなければ次にのぞめないという世知辛い世の中である。リスクは冒したくない。となると、今売れている楽曲に似たもの以上のものを危険を冒して作る気概は、なかなか持てるものではない。よって、なんだか聞いたことのある曲がいつも流れていることとなる。

   事情は、音楽界だけではなく、映画業界も、TV業界も、雑誌業界も自動車業界も家電業界もすべて同じである。いまほどコンテンツ、コンテンツとその重要性が声高に語られているくせに、コンテンツ自体に金太郎飴的退屈さが充満しているのは実に不思議なことである。本当に困った世の中である。政治だって同様かもしれぬ。

   で、今週末だが、今度は九州は福岡である。27日は志摩シーサイドカンツリークラブ、28日は古賀ゴルフクラブ。やはり大学時代の同級生と回る。古賀GCは今年の日本OPENが開催される名門なので非常に愉しみなのであるが、そんなことを友人に話すと、君はいったい何をやっているのかね、優雅だねえ、とあきれられる。そうである、優雅である。優雅であることはいけないことであろうか?

   などと言っている間に、リーマン・ブラザーズは破綻し、まるで腹話術の人形のような麻生太郎が総理大臣になってしまっている。有為転変は、まことに世のならいである。皆さん、覚えておいでだろうか。ホリエモンの会社、ライブドアがあったビルは六本木ヒルズであるが、実はリーマン・ブラザーズが入っていたのも六本木ヒルズなのである。しかも多分、複数のフロアーを一括して借りていたはずである。

   六本木ヒルズはよくよく運の悪いビルだな、と思うのは話の順序が逆で、実際は、多くのライブドアやリーマン・ブラザーズのような会社が六本木ヒルズのようなものを必要とし、産み落としただけのことなのである。


  ライブドアとリーマンの両社に共通しているのは、「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増やすことはよいことである」という信念である。そのためにありとあらゆる手立てを尽くし、策を弄し、知恵を巡らせたわけである。しかし、ちょっと考えればすぐに分かることであるが、この地球上にただ今現在存在する富は一定なのだから、どこかの誰かが「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増や」せば、どこかの誰かが「あっというまに、手持ちのお金を失う」ことになるのである。そんなこたあ、あったりまえなのである。

  その当たり前のことに気がつかず、全員が汗水たらしてお金を稼ぐことを放棄し、「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増や」そうとすれば、世の中、立ちいかなくなるのが当然なのである。世界のヘッジファンドや投資銀行が行っていることの内実を世界中の人がつぶさに知れば、絶対に仰天するようなことを彼らはしているはずである(確たる証拠があるわけではないが、絶対にそうであると確信している)。

  何年かして、あるいは何十年かして現在の金融界を振り返ったときに、なんであんなことが当時は許されていたんだろうか、という日が必ず来るような気がする。

  どうでもいいことをグダグダ書きすぎてしまった。今日書こうと思ったことはこんなことではなかった。

  8月28日の項で、ソフトボールの上野由岐子投手や、水木しげる氏の話を引用しながら、「神様が降りてきた」人たちの話を書いた。ある事柄を達成しようと、驚異的な集中力でのぞむ人々には、ごく稀に、「神様が舞い降りてきた」のではないかと錯覚するほどの、恐るべきパフォーマンスがもたらされるものだ、という内容である。

    そんな話を書いた直後に、面白い本を読んだ。「天才の栄光と挫折 数学者列伝」藤原正彦著 文春文庫)。

    そうなのである。「ある事柄を達成しようと、驚異的な集中力を発揮する人々」の最たるものが「数学者」なのである。考えて考えて考え抜いた、ほんのひとにぎりの数学者たちの上に、ある日、ふっと神様は舞い降り、奇跡的な発想や思考を賦与してくれる。その瞬間に、その数学者は歴史に名を残すことになる。

    この本は、その奇跡が舞い降りた地に筆者である藤原氏自身が足を運び、ごく少数の天才的な数学者たちに訪れた、一生に一度の奇跡の瞬間を再現して見せようという、とてもスリリングで興味深い列伝となっている。しかも、数式など一切使用することなく(されてもちんぷんかんぷんなんだけど)、一般人にも理解できるような言葉で綴られているところが、素晴らしいと思う。

    登場する天才数学者は、アイザック・ニュートン、関孝和、エヴァリスト・ガロワ、ウィリアム・ハミルトン、ソーニャ・コワレフスカヤ、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、アラン・チューリング、ヘルマン・ワイル、アンドリュー・ワイルズの9名。

   その中でも驚倒したのはインドが生み出した天才数学者ラマヌジャンである。1887年に生まれた彼は一冊のノートブックを残した。これがもの凄いしろものなのである。

<「ノートブック」を埋めつくす計3254個もの公式を一つずつ証明する試みは、その後、・・・・幾多の学者によりなされてきた。その一人であるイリノイ大学のバーント教授は、ここ20年間その集大成に心血を注ぎ、1997年になってやっと5巻本を完成した。ただしそれは証明が完了したというだけで、これら公式の持つ意義、数学における位置付け、応用等についてはほとんど手がついていない。>(P190)

  そして、ここからが筆者・藤原氏の筆が冴えるところなのである。

<ラマヌジャンは「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見しただろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「十年か二十年もすれば誰かが発見する」のである。
  ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した気に少なくとも私はなれないのである。それは誰かが、我が家の柿の木の根元に金塊が埋まっていると予言し、それが事実だったときの気分である。事実は認めても、予言の必然性や脈絡をたどれぬ限り苛立つ。>(P192)

  うまいなあ、書きっぷりが。柿の木の下の金塊なんていう比喩はなかなか思いつくものではない。数学に全く造詣のない私をこんなに夢中にさせるというのは、全く持って筆者の筆力のおかげである。ラマヌジャンという人は、神様が降りてきた、というよりは神様そのものだったのかもしれない。

  もうひとつだけ、印象的な一文を引用しておきたい。アンドリュー・ワイルズの話である。ワイルズ氏は「フェルマー予想」が正しいということをついに証明してみせた数学者である。「フェルマー予想」とは、

<Nを3以上の整数とするとき、
XのN乗+YのN乗=ZのN乗 を満たす正の整数X、Y、Zは存在しない。>

  というもので、17世紀の前半にフランス人のフェルマーはそう書き記し、ついでにノート端っこに「余はこの命題の真に驚くべき証明を発見したが、この余白はそれを書くには狭すぎる」と書き残して死んでいったのである。以来、3世紀半、その命題を証明しようと幾人もの数学者が挑戦し、そして敗退してきたのである。ものすごい話である。350年間、誰も解決できなかったのであるから。

  だが、ワイルズ氏がついに証明に成功したのである。
  1994年9月19日、月曜日の朝、ワイルズ氏についに神が舞い降りた。彼はこう語っている。

<「突然、まったく不意に信じがたい閃きに打たれました。コリヴァギン=フラッハ法だけでは駄目だが、岩澤理論と合わせるとうまくいくことに気づいたのです」>(P279)

  そのときのことを後に、BBCテレビの特別番組でワイルズ氏は項語っている。

<「形容できない、美しい瞬間でした。とても単純でとても優雅で、なぜそれまでに気づかなかったのか自分でもわからず、20分間ほどじっと見つめていました。それから数学教室を歩き回っては机に戻るということを繰り返し、アイデアがそこにまだあることを確かめていました。とても興奮していました」
  そしてしばらく何かを思い出すように沈黙してから、
「あれほどのことはもう二度とないでしょう、私の生涯に」
  こう言うとワイルズは突然絶句し横を向くと、カメラをさえぎるように右手を振った。>(P280)

  この部分を読むたびに私は感動する。
   
   これほどの天啓はもう二度と再び自分には舞い降りないだろうという諦念と、しかし確かに一度は舞い降りたという幸運の狭間で涙ぐむワイルズ氏の姿を想像すると、私まで涙ぐみそうになる。

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