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2008年10月

2008年10月23日 (木)

デューク・エリントンから村野藤吾まで

  

  仕事が異常な立て込みようで、とても更新している余裕がない。まったく情けない。備忘録として急ぎ足で最近の話を箇条書きにしておきたい。

● 10月21日、丸の内のコットンクラブでデューク・エリントン・オーケストラを聴く。メンバーたちは、実に楽しげに自由にスイングしている。オーケストラの真横で聴いたのだが、彼らの私語やささいなしぐさを仔細に観察することができた。彼らはプレーしながら、自分たち自身が心から楽しんでいるように見える。「ヤー」とか「イエー」とか「ナントカカントカ」とか演奏中に掛け声をかけたり、隣のプレーヤと目配せをしたり、話をしたり、ビールで喉を潤したり、実に闊達である。

  これを見て感じたのは、「我々日本人は、きっと永久に、このスイングの軽快な感じや、恐るべきリズム感を身に着けることはできないだろうな」ということだった。途中でスペシャルゲストで登場したオマー・エドワーズの驚異的なタップダンスを目撃して、日本に生まれ日本語で育ち、日本文化の中で生活している人間にはこのリズムは絶対に刻めまい、と確信した。

  それは、アメリカで生まれ、英語圏で育ち、その文化に浸っている人間が、浪曲や演歌の「こぶしまわし」の、肉体化した理解に到達できないだろう、ことと同様である。

● 在米の映画評論家でありコラムニストである町山智浩氏の新刊「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」を面白く読む。この本は、別のタイトルを付けるとすると「アメリカ人はどこまでバカか?」というものになるだろう。アメリカに住み、異文化を背景に持つコラムニストの眼差しで彼らの日常を注視しているからこそ、その驚くべき「異常さ」が浮き彫りにされる。

  そうだったのか、と勉強になったのはこんな部分。

<アメリカにおける保守とリベラルの対立は、日本における右と左の対立とかなり違う。・・・・共和党が堅持する、アメリカの伝統的な保守思想は「自由主義」である。信教の自由を求めてヨーロッパから逃げてきた人々の国だし、イギリス国王の重税からの経済的自由を求めて共和制を勝ち取った国だからだ。ところが「自由主義」を英語で言うとリベラリズムだ。実はアメリカのイデオロギー抗争は、いろんな種類の自由主義のせめぎあいなのだ。

  まず、経済における自由主義とは、自由市場で勝手に競争させておけば世の中はよくなるとういう考えだ。・・・・だから市場経済に関して政府は放っておけ。政府の権限は小さければ小さいほどいい。
  アダム・スミスは経済を「神の見えざる手」が操るのだと唱えた。この古典的自由主義は、プロテスタントの信じる「予定説」、この世のすべては神の思し召し、という考えと結びついた。つまり自由放任経済は神への信仰に支えられているわけだ。
  ところが実際は、経済を放任していると暴走する。

  ・・・・実際、1929年に大恐慌が起こったが、当時のフーヴァー大統領(共和党)は「神の見えざる手」を信じて、市場に何も介入しないで景気回復を待った。・・・・・フーヴァーに代わって就任したF・D・ルーズベルト大統領(民主党)は革新的な景気打開策をとった。・・・・ニューディール政策である。かくして民主党は、富を貧しい者に分配すること、つまり「平等」の実現を党是として確立した。
共和党の「自由」、民主党の「平等」、この対立する二つのイデオロギーは、アメリカを動かす右と左の両輪だ。>(P164-165)

  なるほど、だから共和党・ブッシュ政権は金融市場をかくも無残な状態になるまで「神の見えざる手」に委ねてきたのか。いったいどういう理屈でヘッジファンドらの暴走を看過しているのかはなはだ理解に苦しんだが、神様におまかせ、ということであれば分からぬでもない。なにしろ、本気で「神様」を信じているんだから。

 ノーベル経済学賞受賞のジョセフ・スティーグリッツ氏(米コロンビア大学教授)は先ごろ米国議会で証言。「金融危機を招いた最大の原因は、とにかくFRBがなんにもしないで金融市場を放任し続けたことが大きい。今後は、もっと監視を強化せねばならない」と述べたらしい。町田氏の共和党と民主党との対立の図式の中でこの証言を聞くと、じつに飲み込みやすい。

● 先日、汐留にある「松下電工汐留ミュージアム」へ、茶道家の千宗屋氏と一緒に出かけ、建築家・村野藤吾の仕事の足跡を辿る展覧会を見た。会場にはセピア色なった設計図が何枚も掲示されていたが、何よりも驚いたのは、村野の細部への偏執的なこだわりであった。そのこだわりは随所に垣間見られるのだが、一番驚いたのは、ある建築物の壁にかけられる掛け時計の文字盤までが、「原寸大」で設計されていたことである。はっきりいって、目をむいた。そこまでやるの! 時計の針の形状、数字の大きさと書体、盤面の中央に描かれた動物をモチーフにした絵。これだけですさまじい労力である。しかし彼が設計しているのは建物全体である! そのために、いったいどれだけの時間が費やされたのかを考えると気が遠くなる。「神は細部に宿りたまう」と確かにいうけれど・・・・。

   村野は1891年、佐賀県唐津で生まれている。江戸時代の職人的集中力を感じざるを得ない。

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2008年10月16日 (木)

サブプライム問題が分からない

   

   またしても、分からぬことがある。他でもない、サブプライム問題についてである。まことに恐縮だが、もしご存知であればどなたかご教示いただけないであろうか。どこのボタンを押せばこのことに対する回答が飛び出してくるのか、そのことも分からない。分からないことだらけなのである。

● まず、サブプライム問題というのはこういう解釈でいいのだろうか。米国に住む、信用力の低い人(つまり、借金を踏み倒す可能性が一般的な人より高い人)に対して、米国の金融機関は、サブプライム・ローンと称する、一見お手軽だが、実際には利率の高いローンを使ってお金を貸し付け続けた。低信用力な人々はその借金で、分不相応な住宅購入にあい努めたわけだが、これも、住宅価格が右肩上がりで上昇している間は、辻褄があった。しかし、永久に値上がり続ける商品はこの世に存在しない。ひとたび住宅価格の上昇が止むと、借金を返せない人々が続出し始めた。ここまでは、実に分かりやすい話である。

この時、金融機関はいったい、どのくらいの損失を蒙ったのか? データを持っているわけではないので大まかに考えると、3000万円の借金をして同額の住宅を買い、返済不能に陥って借金を踏み倒した人が10000人出たとする。これが3年間にわたって起きたとすると、踏み倒された金額は総額、9000億円である。その10倍の10万人が踏み倒したとしても9兆円である。実際には貸し手は土地・家屋の担保を取っているだろうから、そこまでの金額にはならないだろう。つまり、この仮定の見積もりがそれほど間違っていなければ、金融機関は自らが抱かえた数兆円の損失を、確かに膨大な金額ではあるが、それをなんとか処理すれば、それで済んだ話であったはずなのだ。

しかし、報道によると、米国は、不良資産買い取り制度などを柱にした「緊急経済安定化法」(金融救済法)に基づいて、最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金を投じ、金融機関から住宅ローンや関連の金融商品などを政府が買い取ることにしたという。しかも、一部報道によると、この規模の資金投入では焼け石に水で、その10倍くらいの資金投入が必要になるだろう、と言う。10倍なら、750兆円である。一体全体、どうしてそんな巨額な資金が必要になったのだろうか? 我が国の国家予算・約83兆円に比してもベラボーな金額ではないか。

そんなことになってしまった最大の理由が、サブプライム・ローンの証券化にある、と説明されているのだが、このあたりのことがよく分からない。サブプライム・ローンの貸し手である金融機関は、踏み倒される危険性を十分に察知していて、その危険度を分散させるために、ローンを貸付債権として証券化・分割し、複数の金融商品の構成要素の一つとして細切れに組み込み、世界中に販売したというのだ。

まず、具体的にイメージがわかないのが、「債権の証券化」というテクニック。こりゃ、具体的にどうすることなんだろうか。たとえば、3000万円の住宅を購入するために全額ローンを組んだ低信用力の人がいるとする。金融機関は、この人に対する債権を証券化する。どうせそのうちに踏み倒されるんだから、この危ない債権をいつまでも自分で゙保持するのは賢明なことではない、さっさとこれに値段をつけて(高利の利息がつくからおいしいよ、と3500万円くらいで)他人に売り飛ばしちゃえ、というのが「債権の証券化」ということなのだろうか? 多分、極めて単純化して記しているから乱暴に聞こえるかも知れないが、本質的にはこういうことではないだろうか。

もしそうだとすると、「完済確立の低いローンを貸付債権として証券化・分割し、複数の金融商品の構成要素の一つとして細切れに組み込み、世界中に販売」するという行為は、人として、してはならない、恥ずべき行為なのではなかろうか。しかも、「細切れに組み込む」ことによって、その金融商品にサブプライム・ローンの証券が混入していることが分からなかったり、あるいは意図的に隠蔽していたりしたケースさえあったというから、こうなると、牛乳にメラミンを混入していた中国の業者となんら変わるところがないのではないか。

本来ならば、数兆円の損失で済んだはずの、米国金融機関の無分別な貸付行為の結末も、それを細分化してそれと分からなくしていろんな金融商品に混入したものだから、驚くべき巨額の損失に膨れ上がってしまったわけである。つまり、メラミンの入った牛乳は丸ごと廃棄するしかないように、サブプラ関連商品が混じった金融商品全体が崩壊してしまったわけなのである(と思う)。その結果、連鎖的に金融機関、金融システムの信用不安が噴き出してしまった、というのがことの成り行きであろう。

そう考えると、証券化が許される債権というのは、「高い確率で借金は返済される」という見込みがあるものに限るべきで、そうでなければ、狂牛病にかかった牛の肉を、二束三文で焼肉屋に売り飛ばすのと同様の行為ではないのかと思わざるを得ない。そんなものを売り続ければ、発病する人間が出てくることは明々白々であったはずである。

そこで思うのは、米国には経済界にも金融界にも叡智の人士は多数いたはずであるのに、何故、その中の誰ひとりとして「こんなことをしていたら大変なことになるよ」と警告を発したりしなかったのだろうか、という疑問である。米国金融界がやったことは、どう考えてもまともな人間のやることではない。はっきり言って「狂気の沙汰」である。彼らが「金儲け」をたくらんで無邪気に振舞ったその行いは、核兵器のそばで打ち上げ花火をあげて遊んでいるような無思慮な行為であると思う。

ひょっとして、我々が知らないだけで、我々の耳に届かなかっただけで、この無思慮な経済活動の悲劇的な結末を誰かが予告し、警告していたのだろうか。マスコミはその声に耳を貸さなかったのだろうか。土地バブルで狂奔していた80年代の我々と同様、米国国民はみんな目が見えなくなっていたのだろうか。そこのところが、一番私が分からないところなのである。だって、冷静に考えれば、誰がババを引くかという、危険なゲームでしかなかったのだから。

●   次によく分からないのが、米国の態度である。毎日新聞の記事にこんなことが書いてあった。

<ブッシュ米大統領は(10月)11日、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)に出席した各国財務相らをホワイトハウスに招き、G7がまとめた「行動計画」や各国の金融危機対応について意見を交わした。大統領がG7財務相と直接会談するのは異例。
 会合には、ポールソン米財務長官や中川昭一財務・金融担当相、ダーリング英財務相らG7財務相のほか、ゼーリック世界銀行総裁とストロスカーン国際通貨基金(IMF)専務理事も参加した。
   会談終了後、ブッシュ大統領は声明を読み上げ、「金融危機は世界のすべての市民に深刻な影響を与えている」との認識を示した上で「世界中の国が協調して迅速に行動する必要がある。米国は金融危機に対処するため率先して特別な役割を担う用意がある」と表明。G7の行動計画に沿って、金融機関への公的資金による資本注入などに前向きに取り組み姿勢を強調した。
   ブッシュ大統領は10日のG7会合に先立ち、公的資金による金融機関への資本注入を実施する考えを表明していた。
[毎日新聞10月11日] >

    これを読んで、驚いた。ブッシュ大統領は各国財務相らをホワイトハウスに「招き」と書いてあるが、これは後ろの文章を読むと「呼びつけ」の間違いではないかと思う。呼びつけて、ブッシュ大統領は何を言ったか。

まず、開口一番、「金融危機は世界のすべての市民に深刻な影響を与えている」と言ったのである。ちょっと待ってくださいよ。あなたの国の金融機関が無茶苦茶やったから世界の金融事情が無茶苦茶になっちゃったんじゃないですか。「深刻な影響を与えている」などと他人事なことをほざいている場合ではなくて、まずは、「うちの若い衆がほんとに迷惑かけた。悪かった。ほれ、このとおり、土下座して謝る」というのが、筋なのではなかろうか。私がブッシュならそうするし、私が各国財務相の一人ならばそれを求めるだろう。
しかも続けて、「世界中の国が協調して迅速に行動する必要がある」とえらそうなことをのたまうのである。お前に言われたくないよ、と熊さん・はっつぁんなら言うだろう。どうしてお前はそんなにえらそうなんだよ。上から目線で物言ってんじゃないよ。お前がちゃんと監督責任を果たさないばかりか、音頭とってチャンチキおけさを踊っているから世界中がしっちゃかめっちゃかになっちまたじゃねえかよ。どうしてくれんだよ、ぼーっとアホ面さらしてんじゃねえよ! とまくし立てるに違いない。

しかし、熊さん・はっつぁんの憤りをよそに、米国政府や金融当局は、サブプライム・ローン問題が、直接的に金融システムないしは信用システムに危機的悪影響を及ばしたという見解を否定している。どういう理屈でそういう態度がとれるのか、ここも私には分からないところである。自らの非を認めていないわけだから、土下座なんかするわけもなかったわけもない。その理説をどなたか、説明してくれないだろうか。

● 最後に分からないことがひとつ。マネーゲームにおいては、誰かが大損をするということは、それと同じ分だけ、大儲けをした人がいる、ということである。マスコミはまるで天災のように金融危機を報じ続けているけれど、一向に大儲けした人のことを報じようとはしない。もっとも、そういう人がいるとしても、「うわあ、一晩でこんなに大儲けしちゃいましたあ」と大声でアナウンスしたりはしないだろう、ということは想像に難くない。難くないけれど、そういう者がいるということを報じないのは、物事の一面しか見ていないことになるのではないか。殺された人間がいる、ということは殺した人間がいるということなのだから。

色々と調べていたら、大儲けした人の一人が分かった。Institutional InvestorのAlpha誌の調査によると、2007年のヘッジファンド業界の報酬トップはPaulson & Co.の創業者、ジョン・ポールソン氏の37億ドル(約3800億円)だったという。ポールソン氏のヘッジファンドは住宅担保証券の下落で大儲けしたらしい。しかもあろうことか、このポールソン氏は元ベアー・スターンズのマネジングディレクターだったのである。

そう、ベアー・スターンズというのはアメリカ第5位の投資銀行・証券会社大手の1つであったが、アメリカにおけるサブプライム・ローン問題が原因で経営が急速に悪化、ニューヨーク連邦準備銀行が緊急融資を行って対策を講じたものの、その甲斐なくこの5月30日にJPモルガン・チェースに買収されたばかりの会社である。実に倒錯した話である。サブプライム・ローン問題が引き金となってぶっつぶれた会社のマネージング・ディレクターが、その問題に乗じて、個人的に3800億円儲けていたのである。この倒錯ぶりに、この世界の怪しさが如実に投影されているような気がしてならない。

● 最後の最後にもうひとつ、全く分からないことがある。ここ最近の米国の株価、ダウの動きは全く尋常なことでなはい。日替わりで、ジェットコースターのように上がったり下がったりしている。

その動きを見ていると、これは「国家的な株価操作」なのではないか、という気がしてならない。何か証拠があるわけではない。ただその動きを傍観していて、ありえないことが起きていると、強く実感するのである。通常の株取引を行っていればこんなことは絶対に起きないことが起きていると思う。まるで陰謀史観のようではあるが、米国金融機関、というより米国経済といったほうが適切かもしれないが、それが末期的症状を呈し始めたなか、影でうごめくヘッジ・ファンドや投資銀行や、それを隠れ蓑にした世界の有名銀行や投資家たちが、どさくさにまぎれて株価を操作しているように思えてならないのだ。

9月29日、米国下院はブッシュ大統領が推し進める、米国金融救済法案を否決した。全世界がびっくりである。その直前までブッシュ大統領はこの法案が通ればもう安心とばかり、余裕をかましていたのである。世界もそれを見てすっかり安心。世界の株価も法案可決を見込んで上伸、ところが蓋を開けてみたらびっくり仰天の否決である。直後のNYダウは採用30の全銘柄が値を下げ、平均株価は777ドル、過去最大の下げ幅を記録。それを受けて世界中の株価が大暴落したのである。

この法案の否決を見越していた、一部の人々がいただろうと私は思う。彼らは、それによって巨額の利益を得たに違いない。もちろんあくまで推測である。証拠はない。証拠が残るようなヘマを彼らは行わないであろう。あるいは、ヘマがあったとしてもそんなことをいちいち気にしていられないほどの非常事態が現出してしまっているから、誰も気に留めないに違いない。当局もマスコミも、もう何がなんだかよく分からないのである。

5年後か10年後か、いつのことだかわからないが、この狂気の日々に何が起きていたか、誰が何をしていたかを、白日の下に晒すようなレポートを誰かにまとめて欲しいものだとしみじみ思う。

我々の、愚劣な歴史の一幕を。

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2008年10月14日 (火)

不謹慎ですみません

   休みの日は、終日ベッドに寝転んで本を読んだり携帯でメールをチェックしたり、ニュースを読んだりすることが習慣となってしまっている。この3連休も、同様に、なまけもののような毎日を送った。

  携帯でチェックするニュースは毎日新聞のものと決めている。読みやすいし、記事が長いのも気に入っている。夜中の2時頃にふと眼が覚めると、意味もなくちゃちゃかとアクセスし、なんか新しいニュースはないかいな、と覗くようになってしまっている。

   昨夜は、たまたまだと思うが、にんまりしてしまうニュースに出くわした。不謹慎ではあるけれど、ニマーとしてしまうのである。「人間てのは、ほんとに困ったもんだなあ」というのがそのニュースを読んだ感想である。このブログを読む方々にもニマーとしていただきたくて長くなるが引用したい。出典は「毎日新聞ニュース」である。

   まず、そのいち。

<強盗:スパイダーマンの覆面で襲う…大阪と堺で4件連続
 堺市と大阪市で12日夜、米国映画のヒーロー「スパイダーマン」の覆面などをした2人組による強盗事件が4件相次いだ。2人とも男とみられ、1人は赤地に黒いクモの巣の模様がある覆面姿でバイクを運転。もう1人は後ろに乗り、覆面をしていない場合もあったという。大阪府警は同一グループによる犯行とみて、強盗傷害容疑などで行方を追っている。
 12日午後9時半ごろ、堺市堺区戎之町東5の市道で、この2人組が飲食店員の男性(62)に鉄パイプのような棒をちらつかせて「金を出せ」と脅し、現金約2000円を奪って逃げた。
 約40分後、大阪市浪速区で美容師の男性(37)が同様の手口で脅され、さらに約30分後に同市西成区で会社員の男性(55)も脅されたが、いずれもけがや現金の被害はなかった。
 さらに約15分後、同市阿倍野区帝塚山1の市道で、大学生の男性(22)が「お金持ってないか」などと言って近づいた2人組に、いきなり顔面を殴られた。現金は奪われなかった。
 2人はいずれも、声や体格などから20歳前後とみられるという。
【宮地佳那子】>
  
  お次は、

<違法飛行 容疑の82歳男性逮捕 町役場も捜索 北海道

    国土交通省の許可を得ずに北海道の上士幌町航空公園(上士幌町)から飛行機で飛行したとして、帯広署は13日、上士幌町上士幌東3線、無職、米倉辰雄容疑者(82)を航空法違反容疑で逮捕した。同署は公園を管理する町が米倉容疑者の違法飛行を知りながら放置した疑いがあるとみて、町役場など3カ所を家宅捜索。詳しい経緯を調べている。

  調べでは、米倉容疑者は8月18日午後3時ごろ、飛行許可のない自家用のウルトラライトプレーン(超軽量動力飛行機)=約210キロ=で、場外離着陸場の許可を得ずに公園内の滑走路を使用して上空を飛行した疑い。

  米倉容疑者は旧日本軍で戦闘機パイロットだった元特攻隊員。20年以上前から公園内で離着陸を繰り返していたが、約5年前に脳こうそくを患い操縦免許を失効。約10年前に中古で購入した自家用機は当時から機体の飛行許可を得ていなかった。調べに対し「機体を点検しているうちに飛びたくなってしまった」と供述している。【田中裕之】>
  
   はい、不謹慎です。不謹慎ですが、なんか笑っちゃいます。

 

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峰岸徹さんの訃報に接して

   俳優の峰岸徹さんが亡くなった。緒方拳さんに続き、個性的な俳優を我々は失ったことになる。

   1カ月以上前に、「おくりびと」という映画を試写会で観た。悲しむ遺族の前で、床に横たわる遺体をきれいに整え、死後の世界へ送り出す葬儀社の青年の話である。本木雅弘がその青年の役を演じている。

   映画の性質上、次々と遺体がスクリーンに現れる。多分、布団の上に横たわる遺体がこんなに数多く登場する映画はこれまで洋の東西を問わず、存在しなかったと思う。だいたい、「おくりびと」を主人公にした映画を作ろうと思い立ち(まあ、思い立つことはあるだろうけれど)、それを完成させた製作者たちの腕力には、脱帽するしかない。

   その次々に登場する遺体の一人が峰岸徹さんだった。ただ、せんべい布団の上に無精髭を生やして「死んでいる」役である。回想シーンで数秒間ほど生きているシーンがなくはないが、登場シーンはほぼ「死んでいる」役なのである。しかも、本木が愛憎を抱く実父の役であり、実の父親の死に装束を調えるもっくんが静かに涙を流すシーンは圧巻である。

   峰岸さんが肺ガンで亡くなったという報に接したときすぐに思い出したのはこの映画のことだった。撮影は昨年の春ごろだというから、まだ病はそれほど重篤ではなかっただろう。が、ご本人も周囲の人たちも、峰岸さんが肺ガンに冒されていることは知っていたに違いない。

   そんな、「死にとても近づいている」俳優に、「死んでいる」役を依頼しに行った人もすごいけれど、その要請をしっかと受けとめて、自身にひたひたと近づきつつある「死んでいる人」の役をみごとに演じきった峰岸という役者もすごい人だとしみじみ思う。

  役者の持つ、すさまじいまでの業というものを感ぜざるをえない。

   合掌。

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2008年10月 8日 (水)

内田樹氏は、「それでよろしいのか」おじさんである

    プレジデント社から刊行されたばかりの「大人のいない国」(鷲田清一 内田樹著)をあっという間に読み終える。全115ページ。いくらピンポイント選書と銘打つにしても、いくらなんでも薄すぎませんか? それで1143円とはいくらなんでも高すぎませんか?
    まあ、それでも買う自分が悪いんだけどね。

    この本の編集者さまにお伝えしたいのは、雑すぎる、ということ。ちゃんと校正を通しましたか? たとえば、44ページの「彼らの言悦の過半は」は「言説」の間違いではないでしょうか? 「言悦」って何かを語って悦楽にひたるようなことなのかしらん。でも、そんなの聞いたことないよ。

    あるいは、初出一覧の中の、「不愉快な他社を受け容れること」というのは「他社」ではなくて「他者」でしょ、きっと。「不愉快な他社」というのも確かにいっぱい存在するけど、そんなことを内田氏が書くわけないしね。

    で、話のマクラはこれくらいにしてと。この本を読んで、内田樹氏というのは、「それでよろしいのか」おじさんである、ということに気がついた、ということについて書きたい。「それでよろしいのか」おじさんとは何かというと、内田氏の語り口は大体において、読者に対して「みなさん、本当にそれでよろしいのか、え、よろしいのか?」とにじりよるスタイルを得意技とするおじさんである、ということである。

    分かりにくいね。具体的に書こう。内田氏の語法は簡略化するとこうなる。

    ○○について、みなさんは△△だと思っておられるようだが、○○は△△ではない。○○は実は□□なのである。
    ○○を△△だと思うことによって、人は幸せになれないし、世の中が住みよくなるわけでもないのだが、みなさん、それでよろしいのか? 本当に本当にそれでよろしいのか? 

    とまあ、こんな具合である。最初の○○にあたるものがある時は「愛国者」であり、またあるときは「言論の自由」であったり「学び」であったりするが、ここには実にさまざまな論件が充当される。そう思って氏のさまざまな言説を読むと、ふむふむととても理解がしやすい。

    具体的に当てはめてみよう。まずは「愛国者」。

「愛国者」について、みなさんは<日本と日本人を愛する人>だと思っておられるようだが、事実は全くそうではない。「愛国者」は「(自分たちと)政治的意見を異にする人々を<日本人>に算入することを拒む」人々である。
  しかし、真の「愛国者」とは「肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら<不快な隣人たち>を国民国家のフルメンバーとして受け容れること」ができる人のことを言う。
   みなさん、同胞に対して狭量な精神でしか臨むことのできぬ人々を「愛国者」として遇してよろしいのか? 本当によろしいのか?

   お次は「言論の自由」。

「言論の自由」について、みなさんは「誰でも言いたいことを言う権利がある」と信じておられるようだが、実はそうではない。
「すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する<敬意>がなくてはすまされぬ」。
「言論の自由」とは、「自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである」。「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う」のが「言論の自由」だとはき違えていると、そのことによって傷つく多くの人が出現するであろうが、みなさん、それでよろしいのか?

   最後に「学び」。

「学び」という行為について、みなさんは、<これだけの時間をかけて、こんな方法で、このようなことを教えてもらう。その費用はかくかくしかじか>というように、消費者の立場から、あたかも「商品」のごとく、実利的に捉えておられるようである。しかし、「学び」は全く「商品」ではない。このようなマインドでは「学び」を動機づけることはできない。
  なぜなら、「学び」とは「自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない、だから<学び>を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順逆が逆転したかたちの営み」なのである。「学び」をそのように捕らえないと、学ばない子供や労働しない若者を次々に生み出すことになるけれど、みなさん、それでよろしいのか?

  これでご理解いただけただろうか、「それでよろしいのか」おじさんの面目躍如が。

    世間的には△△だと思われている○○を、□□だと言い張る語法、説き伏せる技術は、読んでいてとても小気味のいいものでもある。逆に言うと、内田先生は世間の常識を覆すことを、無上の喜びとされておられるご様子でもある。これまで誰も思いつかなかったこと、思っても誰も言い出さなかったことを、できる限り明晰に語ってみせるという姿勢が、内田樹氏の真骨頂であると思う。その明晰さは、ご本人の性格もあるだろうけれど、フランス語とフランス文学を学んだことの影響が多大にあるに違いない。

    なぜなら、明晰でないものはフランス的ではないからである。

    時に、先生、いくらなんでも論理展開に無理があるのでは、そりゃ飛躍しすぎなのでは、と思われる場所にさしかかると、先生はやおら、「私はそう考えている」「私はそう信じている」という力強い一文をさしはさみ、ご自分でご自分の背中を、ぐいっと押されながらどんどこ前進されていくのである。おもわず、むふっと、読んでいるこちらの頬がゆるむ。

    そんな風にして、ごりごりと邁進して行く内田氏の背中に漂っているのは、「この世の中を少しでも住みよくしたい」「人が少しでも幸福に生きていくにはどうすればいいのか」という、私の身の回りではめったに出くわすことのない崇高な「志」なのである。

    そしてその「志」にほだされて、私は今日もまた、内田樹氏の、脳味噌に鞭を入れるような文章を読むハメになってしまうのである。

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2008年10月 7日 (火)

サブプライムとソロスとショーン・コネリー

  このところの世界の株価はもう大変なことになっている。いわずと知れた、米国発のサブプライム・ローン禍が世界に遍く行き渡り、各国の銀行や証券会社、保険会社がにっちもさっちもいかなくなった挙句の大異変が株価に反映している次第である。

  どうしてこんなことになったのか? 我々日本人は、それについては身にしみて知っている。80年代に土地バブルが強烈に破裂した経験は、忘れたくともなかなか忘れられない。

  簡単に言えば、当時、市場にじゃぶじゃぶに溢れた資金は、土地などの不動産に向かい、その値段はどんどこ揚がった。株価もそれに連れてどんどこ揚がった。生まれたものはいつかは死ぬ。揚がったものはいつかは落ちる。そんな簡単なことを忘れて、老いも若きも有り金はたいて、ついでに借金までして不動産を買いあさったのである。当然のように待ち受けたピークで、風船ははじける。あとは、転がり落ちるまでである。

  このたびのサブプライム・ローン問題も同様。このまま土地や家屋は値上がりし続けるであろうという根拠のない臆断で、一般市民までが、返せる当てもない金額を銀行から借り入れて不動産を購入。値上がりしたら返済すればいいや、と思っていたところに突然天井が現れ、夢のプランは崩壊。

  しかもである。あろうことか、この一般市民の返せる当てもない借金を「証券化」して、何がなんだか分からなくして(まるで牛乳にメラミンを混入するように)世界中にばら撒いたもんだから、被害は何倍にも拡大して世界中の金融界を混乱に陥れたのである。

  冷静に考えれば、そりゃ、混乱に陥りもするだろうよ、と呟かざるを得ない。みんなでこぞって欲をかき倒したんだから、天罰も下ろうというもんである。以前どこかに書いたけれど、全員が汗水たらしてお金を稼ぐことを放棄し、「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増や」そうとすれば、世の中、立ちいかなくなるのが当然なのである。

  ヘッジファンドや、投資銀行や、世界の大銀行が行ってきたことは、「汗水たらしてお金を稼ぐこと」ではなく、「手持ちの資金をあっというまに何倍にもするチャンスをお金で売り買いすること」だったからである。金融工学だとかデリバティブだとかかっこいいことを言っているが、これって、本質的にはパチンコや宝くじや競馬競輪となんら変わるところがないのである。

  でだ、パチンコを例にとればすぐに分かることだが、ゲームに参加した人間全員が儲かるなんてことは絶対にない。誰かが儲かれば、同じ分だけ誰かが損をすることになっている。実に単純な話なのである。要は、「誰がババをつかむか」という話なのである。

  そこで、話は冒頭に戻る。アメリカでも日本でも、株式相場がしっちゃかめっちゃかになっている。9月に入ってからのダウの日足を見るともう笑うしかない。ありえないグラフを描いている。通常の株価のグラフがなだらかな上り下りの坂道だとすると、ほとんどジェットコースター状態で、しかもところどころでレールがなかったりしている。90度上昇したかと思うと、地上に向かって真っ逆さまに墜落している。もう、インサイダーだろうが株価操作だろうがなんでもあり。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ、こんちくしょー、という恐るべき相場になっている。

  誰が、こんちくしょーと叫んでいるかというと、恐らくは、断末魔のヘッジファンドであり、血を流す投資銀行であり、苦しみのた打ち回る世界の大銀行であり、このドサクサで大儲けしてやろう企む世界の大金持ちたちである。その内実はうかがい知ることができないが、なんとか生き延びようとみんなが壮絶な戦いを戦っている、のだろうと想像する。生き延びられなければ死ぬだけだから、もはやインサイダーや株価操作で訴えられようがどうしようが、そんなのはへの河童なのであろう、と思う。

  と思いつつ、いったいヘッジファンドっていうのは、どうなっているんだろうかと手に取ったのが、「ヘッジファンド 世紀末の妖怪」(浜田和幸著 文春新書)という本。平成11年に刊行された本で、90年代末の、アジアの通貨危機を米国のヘッジファンドがいかに仕組んだか、を描いたもの。筆はもっぱら、ジョージ・ソロスという米国のヘッジファンド界の妖怪を描くことに割かれているが、その妖怪振りというか、悪者ぶりというか、が実に面白く描かれている。

  ソロスは1930年、ハンガリーの首都ブダペストで、ユダヤ人の両親のもとに生まれた。ナチス占領下のブダベストをたくみに逃げ回り九死に一生を得る。彼の父親は「ドイツ軍が侵入してきた非常事態の下では、法律などあってなきがごときものだ。戦時下においては、通常のルールは意味を失う。平時に通用したような考えを一切捨てなければ生き残れない」と言って、息子ソロスに、偽造身分証明書を与え、他家に養子に出してしまう。

  戦後、ソ連の支配下に入ったハンガリーを逃れ、ひとりロンドンへ。その後、どういういきさつでそんなことができたのかは不明だがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスという名門大学に入学。そこで、著名な哲学者、カール・ポパーに出会い、「開かれた社会」という思想の虜になったのだという。(P81-81)

  へえーと思うしかない。というのも、ソロスは後に「オープン・ソサエティ」という慈善団体を作り、世界中で、ほとんど内政干渉的策謀というしかない活動を続けるからである。何がどう影響するのかは、実にわからないものである。

  で、笑われるかも知れないが、今日書きたかったことは株価の話でも、ソロスの話でもなかったのである。もっとくだらないことを書こうと思って書き始めたのだが、そこにたどり着くまでにずいぶん、時間を費やしてしまった。

  この「ヘッジファンド」を読んでいて、「マネー・ロンダリング」という言葉に出くわし、そういえば、かねがねこの言葉に違和感を抱いていたんだったなということを思い出したのである。

  マネー・ロンダリングとは、もちろん、「資金洗浄」である。Money Launderingである。なにの、ホテルのクリーニング・サービスは「ランドリー・サービス」という。Laundry Service。なんで一方が「ロンダリング」で他方が「ランドリー」なのか。マネー・ロンダリングというなら、ロンドリー・サービスというべきではないのか、と思っているうちに、そういえば、小学生のときに習ったローマ字の表記にヘボン式というのがあったけど、どうしてオードリーはヘップバーンなんだろう。オードリー・ヘボンなんじゃないか、と思い立ち、そういえば、と次々に「そういえば」が来襲し、Luxuryはラクシャリーとしか言わないのに、どうしてラグジュアリーなんだろうか、とかショーン・コネリーはSean Conneryなんだから、どうみても、シーン・コナリーだろうと思い、しかし、Sean Pennはなんでショーン・ペンなんだろうと、不可解はますます拡大していくばかりなのであった。

  今日はこれにて終わり。

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2008年10月 2日 (木)

うまくいえないけど、最後は動物的カンだろう

   先日、ラジオを聴いていたら、安岡正篤のお孫さんにあたるという女性が登場し、子供たちに論語の素読を教えている、という話をしていた。お孫さんの名前は溝本定子さん。東京の伝通院で月に1回ほど、小学生たちに、「子曰く」と声に出して論語を教えているという話だった。

   安岡正篤(まさひろ)というのは1898年生まれ。陽明学や東洋古典思想の研究家として著名で、大川周明や北一輝とも東京帝国大学在学中に親交があり、戦中は軍部にも影響力を持ち、戦後は公職追放されたものの、歴代政治家に隠然たる影響を及ぼし続けた人物として知られている。
  歴代の首相、麻生太郎の祖父・吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳らが師として仰いだというから、大変な人物であったに違いない。我々の生活に引き付けて語ると、元号「平成」を考案した人物としても知られている。

  その日本を代表するような東洋思想家であるおじいさんがまだご健在な頃、溝本さんは一緒に暮らしていた。大学生だった彼女は、学校で習ってきたことで、よく分からないことが出てきたときには、夕食時、食卓でくつろぐおじいさんによく質問を投げかけたという。

  すると、安岡氏はその質問にただちに答えるのではなく、彼女を書庫に連れて行って、薄暗い書棚の中から数冊の本を抜き出し、「ほら、そのことはここに書いてあるよ」と教えてくれたという。そして、「大事なのは、そのことを暗記していることではない。どうすればそのことを知ることができるかを知っていることが大事なんだよ」と諭したという話を、溝本さんは静かに語っていた。

「知るための方途を知っていることが大事なのだ」と。

  ふーむ、なるほど、と思い、そして次に、なんだか同じような話を最近どこかで読んだような気持ちになったので調べてみたら、ほとんど同様の話を内田樹氏が自身のブログで書いていた。9月24日の項で、こう書いている。

<かつての教養主義の時代に知識が尊ばれたのは、「知識を得るための知識」という「メタ知識」がそこに付随しており、この知識を会得することがなかなかにむずかしかったからである。
メタ知識というのは、どこに行って、どういうボタンを押すと、どういう資料が出てきて「探している知識」を探し当てることができるかについての知識である。
例えば私が大学院生のころ、ゼミで読んでいた18世紀の文献には聖書からの大量に引用が含まれていた。
教師はそのすべてについてすらすらと出典を告げた。
   大学院の先生というのは聖書全文を掌を指すように諳んじているのか、あな恐ろしやと私は感服したのであるが、その後に、院の先輩からこの世には「コンコルダンス」というものがあって、キーワードで検索すれば、聖書からの引用典拠は簡単に探せるんだよということを教えてもらった。
「知識のありかについての知識」というものがあるということを私はそのときに学んだ。
そして、学者は「知識についての知識」へのアクセスの仕方を知っているという点において、「街の物知りおじさん」と差別化されているということも学んだ。>

  そして、現在のネット社会ではいかなる知識にもGoogleの検索一発でたどり着けるので「メタ知識」はもはや不要になったような風潮があるが、それはそうではないのではないか、と続く。確かに全くそうではないと、私も思う。逆に今ほど「知識のありかについての知識」が重要な時代はないのではないかとさえ思う。

  たとえば、どんな片言隻句でもいい、Googleで検索してみればいい、瞬時にその言葉を含む情報が驚くほどずらりと並ぶはずである。しかし、困惑するのはその先なのだ。いったい、どこに求める「真の知識」があるのかは皆目分からない。ネットの世界は、いうなれば広大な海にミソと糞、真と贋、プレミアとジャンクがぐちゃぐちゃになって浮かんでいるようなものなのである。

  いったいどこに「真でありミソであり、プレミア」な知識が存在するのか、未踏の密林の中で小径を探すような困難が待ち受けている。もっというと、メタ「メタ知識」が必要で、もう頭の中はメタメタになってしまうのである。ネット環境が人々を覆いつくす以前には、手間取りはするけれど、もっと確実に「知識」にアクセスできたものが、ネットの出現によって、多岐亡羊の疲労の渦の中に我々は投げ込まれてしまうのである。

   大和証券のTVCMだったろうか、「あまりに選択肢が多いと、人は選択するという行為を避けようとする」という興味深い指摘があったが、ネットでの検索による知識習得の行為には常にそんな困難がつきまとう。

  しかし、にもかかわらず、我々は真の知識に何とかしてたどり着こうとする。しかし、それはどのようにして可能なのだろうか。そもそもミソと糞の境目はどこにあるのだろうか。「真」なるものが本当にこの世に存在するのだろうか、存在するとして、それはどのようにしてそれと知ることができるのだろうか。

   うまく説明できないけれど、それはもはや動物的カンであるような気がする。

   山中で遭難し、食糧は尽き、餓死寸前のとき、ふと見つけた茸が毒キノコか否か。それを嗅ぎ取るのが最後には己の動物的カンであるように、「今ここにあるこれが、将に求めているものであるかどうか」を察知するのはカンであるような気がする。

   ところで、ところで。
  話は晩年の安岡氏に戻る。 
   80年代の初め、日本を代表する東洋思想家・安岡正篤氏は、当時銀座のクラブのマダムであった細木和子と再婚の約束を交わす。当時85歳だった氏が、クラブのソファで細木さんと仲良くくつろぐ写真が今はなき「FOCUS」の誌面に掲載されたことをうっすらと覚えている。

   当時の安岡氏には、「今ここにいるこの女こそが、将に自分が求めている女であるかどうか」を察知するカンがはなはだ鈍っていたのだろうと思う。

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