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2008年10月 8日 (水)

内田樹氏は、「それでよろしいのか」おじさんである

    プレジデント社から刊行されたばかりの「大人のいない国」(鷲田清一 内田樹著)をあっという間に読み終える。全115ページ。いくらピンポイント選書と銘打つにしても、いくらなんでも薄すぎませんか? それで1143円とはいくらなんでも高すぎませんか?
    まあ、それでも買う自分が悪いんだけどね。

    この本の編集者さまにお伝えしたいのは、雑すぎる、ということ。ちゃんと校正を通しましたか? たとえば、44ページの「彼らの言悦の過半は」は「言説」の間違いではないでしょうか? 「言悦」って何かを語って悦楽にひたるようなことなのかしらん。でも、そんなの聞いたことないよ。

    あるいは、初出一覧の中の、「不愉快な他社を受け容れること」というのは「他社」ではなくて「他者」でしょ、きっと。「不愉快な他社」というのも確かにいっぱい存在するけど、そんなことを内田氏が書くわけないしね。

    で、話のマクラはこれくらいにしてと。この本を読んで、内田樹氏というのは、「それでよろしいのか」おじさんである、ということに気がついた、ということについて書きたい。「それでよろしいのか」おじさんとは何かというと、内田氏の語り口は大体において、読者に対して「みなさん、本当にそれでよろしいのか、え、よろしいのか?」とにじりよるスタイルを得意技とするおじさんである、ということである。

    分かりにくいね。具体的に書こう。内田氏の語法は簡略化するとこうなる。

    ○○について、みなさんは△△だと思っておられるようだが、○○は△△ではない。○○は実は□□なのである。
    ○○を△△だと思うことによって、人は幸せになれないし、世の中が住みよくなるわけでもないのだが、みなさん、それでよろしいのか? 本当に本当にそれでよろしいのか? 

    とまあ、こんな具合である。最初の○○にあたるものがある時は「愛国者」であり、またあるときは「言論の自由」であったり「学び」であったりするが、ここには実にさまざまな論件が充当される。そう思って氏のさまざまな言説を読むと、ふむふむととても理解がしやすい。

    具体的に当てはめてみよう。まずは「愛国者」。

「愛国者」について、みなさんは<日本と日本人を愛する人>だと思っておられるようだが、事実は全くそうではない。「愛国者」は「(自分たちと)政治的意見を異にする人々を<日本人>に算入することを拒む」人々である。
  しかし、真の「愛国者」とは「肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら<不快な隣人たち>を国民国家のフルメンバーとして受け容れること」ができる人のことを言う。
   みなさん、同胞に対して狭量な精神でしか臨むことのできぬ人々を「愛国者」として遇してよろしいのか? 本当によろしいのか?

   お次は「言論の自由」。

「言論の自由」について、みなさんは「誰でも言いたいことを言う権利がある」と信じておられるようだが、実はそうではない。
「すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する<敬意>がなくてはすまされぬ」。
「言論の自由」とは、「自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである」。「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う」のが「言論の自由」だとはき違えていると、そのことによって傷つく多くの人が出現するであろうが、みなさん、それでよろしいのか?

   最後に「学び」。

「学び」という行為について、みなさんは、<これだけの時間をかけて、こんな方法で、このようなことを教えてもらう。その費用はかくかくしかじか>というように、消費者の立場から、あたかも「商品」のごとく、実利的に捉えておられるようである。しかし、「学び」は全く「商品」ではない。このようなマインドでは「学び」を動機づけることはできない。
  なぜなら、「学び」とは「自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない、だから<学び>を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順逆が逆転したかたちの営み」なのである。「学び」をそのように捕らえないと、学ばない子供や労働しない若者を次々に生み出すことになるけれど、みなさん、それでよろしいのか?

  これでご理解いただけただろうか、「それでよろしいのか」おじさんの面目躍如が。

    世間的には△△だと思われている○○を、□□だと言い張る語法、説き伏せる技術は、読んでいてとても小気味のいいものでもある。逆に言うと、内田先生は世間の常識を覆すことを、無上の喜びとされておられるご様子でもある。これまで誰も思いつかなかったこと、思っても誰も言い出さなかったことを、できる限り明晰に語ってみせるという姿勢が、内田樹氏の真骨頂であると思う。その明晰さは、ご本人の性格もあるだろうけれど、フランス語とフランス文学を学んだことの影響が多大にあるに違いない。

    なぜなら、明晰でないものはフランス的ではないからである。

    時に、先生、いくらなんでも論理展開に無理があるのでは、そりゃ飛躍しすぎなのでは、と思われる場所にさしかかると、先生はやおら、「私はそう考えている」「私はそう信じている」という力強い一文をさしはさみ、ご自分でご自分の背中を、ぐいっと押されながらどんどこ前進されていくのである。おもわず、むふっと、読んでいるこちらの頬がゆるむ。

    そんな風にして、ごりごりと邁進して行く内田氏の背中に漂っているのは、「この世の中を少しでも住みよくしたい」「人が少しでも幸福に生きていくにはどうすればいいのか」という、私の身の回りではめったに出くわすことのない崇高な「志」なのである。

    そしてその「志」にほだされて、私は今日もまた、内田樹氏の、脳味噌に鞭を入れるような文章を読むハメになってしまうのである。

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