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2008年11月

2008年11月28日 (金)

久世光彦「マイ・ラスト・ソング」は 「昭和の感傷」を描く

●夕方、虎ノ門のSPEの試写室で「007/慰めの報酬」を観る。
    頭から、激しいアクションシーンである。イタリアのコモ湖沿いの道を疾駆するアストンマーチン、追うアルファロメオ。エンジンの轟音と機関銃の金属音、ブレーキの悲鳴。顔に血糊をちらせながら、冷静にステアリングを握るジェームス・ボンド。いきなり手に汗を握ってしまうオープニングである。

  しかし、すぐに悟る。あまりに過剰な(長丁場でかつ種類豊富な)アクションシーンは、物語の進行を劇画的に簡略化してしまうだけでなく、アクションシーンそのものの持つ衝迫力を減じてしまうものであることを。起承転結、序破急、緩急、オードブル・スープ・メインディッシュ・デザート。どういってもいいのだが、内容もテンポも違うものが、ある流れの中にあるからそれぞれが引き立てあって効果的なのである。想像すれば分かるだろうけれど、頭から最後まで、ずっとこぶしだらけの演歌がもしあったとしたら、極めて退屈なのと同様に、アクションだらけだと飽きてきちゃうのである。

  そういう意味で前作「007/カジノ・ロワイヤル」の方が、私には楽しかった。特筆すべきは、ボンド役のダニエル・クレイグの存在感。鍛えられた肉体をトム・フォードのスーツに包み、冷徹な表情でことに当たる姿ははなはだセクシーであると思う。この冷たい鋼のような男の存在は、女性の目から見てどのように見えるのだろう。「たまらなくセクシー!」という声はあまり聞かれないような気もするが・・・。

●その後、新宿に行って、紀伊国屋書店の地下にある「モンスナック」でポークカレーの大盛りを食べ、額の汗をぬぐいながら今PCに向かっているところである。
    カレーを食べながら、ふと思い出したのだが、71年に田舎から東京に出てきたころ、新宿駅東口の改札を出れば紀伊国屋書店まですぐにたどり着けるのに、駅の出口がそんなにいくつもあるものだとは気がつかなくて(だって田舎の駅の出口はひとつだった)、最初の半年ほどは、新宿駅南口で甲州街道に出て、テクテク長い道のりを歩いていたのだった。

  その頃は、新宿紀伊国屋書店で高橋和巳や寺山修司や五木寛之の文庫本を買って、2階の「ブルックボンド」に腰を落ち着け、パチンコでとったDUNHILLのタバコをゆっくりくゆらせつつ、長髪をかきあげながら、深刻な顔をして本を読みふけり、時にイングリッシュティをすすったりして自由な時間を過ごしていたものだった。

    当時、この紀伊国屋書店の2階で書架を眺めていると、地下1階のカレー屋「モンスナック」からなんともいえないカレーのいい香りが漂ってきて、たまらず階段を駆け下りていったものだった。もう、ほとんどの人は忘れてしまっているけれど、紀伊国屋の地下のレストラン街はその昔は通路の中央に位置し、レストラン両側は通路だったのである。だから、「モンスナック」には両側の通路から入店できるようになっていたし、しかもキャッシュオデリバリーで、前金だったのである。

  あのころカレーを作っていた人たちの顔はもう今の「モンスナック」にはないし、あの頃の、薫り高いスープカレーも今ではもうだいぶ様子が変わったような気がする。昔はお代わりをして3杯立て続けにがつがつ食べたこともあった。
「モンスナック」のしゃびしゃびカレーをスプーンですくっていると、懐かしい自分の昭和の青春の一こまが甦る気がする。

●11月15日と16日、ちょうど仕事で仙台に行っていた間に、世田谷パブリックシアターで興味深いコンサートが開かれていた。題して「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」。これがどういうコンサートだったのか、すこし説明がいるだろう。久世光彦氏とは、あの有名なTVドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などの演出、プロデューサーを務めたテレビマンだが、後半生には文筆家としても活躍(06年逝去)。いくつかの小説を残したが、多くのファンを引きつけたのが14年も雑誌連載を続けた「マイ・ラスト・ソング」というエッセイだった。

<こんなことを考えるのは、私だけだろうか。私の死がついそこまでやって来ているとする。たとえば、あと五分というところまで来ている。そんな末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最後に何か1曲、何でもリクエストすれば聞かせてやると言ったら、いったい私はどんな曲を選ぶだろう>

  というきっかけで始まった「音楽エッセイ」だったが、それは毎回、私たちが、私たちの人生のある日、ある時、ある場所で、心のどこか深いところで交差したさまざまな楽曲を取り上げ、その曲に私たちが託した思いがどのようなものだったのかを、哀切に探る、という体裁のものだった。「哀切に探る」とは妙な言いようだが、そうとしか言えない書きっぷりなのだから仕方ない。

  それを中野翠さんは「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、久世氏を追悼する一文の中で記している(「マイ・ラスト・ソング 最終章」久世光彦著 文藝春秋 P172)。そして続けて、

<(久世さんは)昭和の歌の数かずが「忘れないで」と手をさしのべているのを感じたのだろう。例えば「海ゆかば」の回など読むと、何か大きなものに背中を押されて書いているんだなという感じが伝わってくる。「支那の町の支那の子」や「茶目子の一日」のような昭和の色濃い歌を忘却の淵から救い出し、藤田まさと「妻恋道中」の「好いた女房に 三下り半を/投げて長脇差(ながどす) 永の旅」の後半の「なの字尽くし」に「歌詞」とは違う「文句」の芸を発見し、「昭和維新の歌」(青年日本の歌)と「インターナショナル」を青年たちにとってのロマンティックな革命歌として等価に語るー。やっぱり久世さんにしかできなかった仕事だと思う。
  私たちは「マイ・ラスト・ソング」シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった。
  久世さんは溺れることを怖れない人だった。
  好きなものにはとことん溺れた。頭を垂れ、跪き、自分の感傷性を思いっきり解放した。(・・・・・・)
  なにしろ久世さんは「マイ・ラスト・ソング」の中で、ほとんど曲ごとに泣いているのだ。「泣いた」「涙を流した」とハッキリ書いていない場合でも、文章自体が潤んでいる。そう、潤んでいるのだ。>

  14年間も続いたそんなエッセイ集の中から、松江に住む歌手・浜田真理子さんが選んだのはこんな曲だった。初日と二日目とでは、第二部のラインナップが変わっている。 初日は、

【第一部】
みんな夢の中 (作詞・作曲:浜口庫之助)
月の砂漠 (作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる)
離別(イビヨル)(作詞・作曲:吉屋潤)
冬景色(文部省唱歌)
朧月夜(作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一)
おもいでのアルバム(作詞:増子とし 作曲:本田鐡磨)
プカプカ(作詞・作曲:象狂象)
海ゆかば(作詞:大伴家持 作曲:信時潔)
港が見える丘(作詞・作曲:東辰三)

【第二部】
爪(作詞・作曲:平岡精二)
ガード下のくつみがき(作詞:宮川哲夫・作曲:利根一郎)
さくらの唄(作詞:なかにし礼 作曲:三木たかし)
As Times goes by(作詞・作曲:Herman Hupfeld)
街の灯り(作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)
知りたくないの(作詞:D.Robertson作曲:H.Barnes 訳詞:なかにし礼)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  そして、二日目は、第二部がこう変わっている。

【第二部】
愛のさざなみ(作詞:なかにし礼 作曲:浜口庫之助)
星の流れに(作詞:清水みのる 作曲:利根一郎)
爪(作詞・作曲:平岡精二)
十九の春(沖縄県民謡)
.黒の舟歌(作詞:能吉利人 作曲:桜井順)
.テネシーワルツ(作詞・作曲:P.W.King/R.Stewart)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  2日間で歌われた歌は21曲。そして、浜田真理子さんがこの21曲を歌う前に、久世氏の「教え子」でもあった小泉今日子さんが、氏のエッセイを朗読する(のだろうと思う。何しろ仙台に出張に言っていたから聞いていないのだ)。

  このコンサートを聴いた知人は「ぐずぐずに泣いた」という。「まわりの人たちもみんな泣いていた」という。「海ゆかば」ではどうしても、涙がこらえきれなかったのだという。もし私がこのコンサートに出かけていたら、最初から最後まで鼻水をすすりあげていたことだろう。

  聴きたかったなあ。(この項続く)

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2008年11月27日 (木)

安宅コレクションを見る

   で、鶴橋で焼肉食ったけど、あまりおいしくはなかった。確かに値段は安いが、目からうろこが落ちるほどの感動は覚えなかった。そういうものを食べたければ、鶴橋以外の地域に行かねばならないのだろうか。
  
   鶴橋はまるで戦後の闇市がそのままそっくり残ったようなディープなエリアだが、ディープだからといって、必ずしも旨いものに出会えるわけではない、ということを悟った。
  
  大阪では、仕事の合間に、中之島公会堂のすぐそばにある大阪市立東洋陶磁美術館にでかけた。ここは、かの安宅英一氏が人生をかけて収集した美術コレクション(主に中国と韓国の古い陶磁器)が静かに展示されている。

  安宅英一と聞いてぴんと来る人も、もう少なくなったかもしれない。1977年に倒産、伊藤忠に吸収合併された大手の総合商社「安宅産業」の会長で、退任後は「相談役社賓」という聞いたこともない肩書きのもとで、社内で隠然たる力を持ち、社の経費を使って「安宅コレクション」という名の、美しい陶磁器コレクションをなした人物である。

  コレクションを保有する会社が倒産したのだから、普通であればすべてが叩き売られて現金化されるところだが、さる金融機関の雅量で(だと思うが)、すべてがそのまま、私立の美術館という体裁を保って保存されている。

  展示されている陶磁器は、ある繊細な美意識によって選び抜かれたものばかりで、眺めているうちにある種の酩酊に襲われる。

  陶磁器にはなんの造詣もないけれど、名品を次々と見ているうちに、自分は朝鮮の白磁が好きなことに気がつく。素朴でてらいのない乳白色の器は、なぜか優しい気持ちに誘ってくれるように思う。こんなの一個ほしいな、と思うけれど、とてつもなく高い値段であろう。

  その美術館の売店で、面白い本に出会った。「安宅コレクション余聞 美の猟犬」伊藤郁太郎著(日本経済新聞出版社)。伊藤氏は東北大学の美術史学科を卒業して安宅産業に入社。以来、倒産するまで、かの安宅英一氏の手となり足となって、そのコレクション収集に従事し、倒産後は、この美術館の館長となって安宅コレクションの守護神として、今は亡き安宅氏の「美しい遺品」を守り抜いている人である。

  不思議な人生である。ほぼ全人生を、ある人の美術コレクションに捧げたも同然なのである。そんな身の上を、伊藤さんはこんな風に書いている。

<(この書物は)あくまで個人的な記憶のきれぎれを集めたパッチワークである。さらに言えば、安宅さんという確固たる美の王国の領主に仕えた一介の猟犬、ただし、狙う獲物を指示されれば、脇目も振らず驀地に疾駆していった忠実なる美の猟犬のドキュメントであり、ほろ苦さも交えた追想録でもある。>(P14)

  一読すると、安宅英一なるひとが、いかにとてつもない人であったかを教えられる。もっと細かく書きたいが、そろそろ家に帰って寝ないといけないのだ。明日の朝は早くから会議なのである。そんな真面目な人生、これまで送ってなかったのに、なんでこんなことになっちゃうんだろうなあ。

  

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2008年11月21日 (金)

大阪にはおばさんしかいないのか!?

  水曜日に仕事で大阪へ向かう。

  地下鉄・御堂筋線に乗って、新大阪から淀屋橋へ向かう。ホームにやってきた車両に飛び乗って、荷物を網棚に載せ、つり革を握って中吊りをきょろきょろ見回しているうちに、ん! と気がついた。

  おばさんしか乗っていないのである。自分以外はぜーんぶおばさん。醤油と砂糖をいれて煮詰めればおばさんの佃煮ができそうなくらいにひしめき合っている。はあ、大阪というのは男女比でいうと、女性のほうが圧倒的に多い地区なんだな、と思う。そういえば、さっきから何人かのおばさんが私のほうをちらちら見ている。これも、男を見る機会が少ないからに違いない。

  こりゃあ、もてるぞ、大阪では! とにんまりしつつ淀屋橋で降りようとすると、乗り込んでくる女性客が私をにらみつけていく。

  降りてからわかった。私が乗っていたのは女性専用車だったのである。

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2008年11月18日 (火)

「理」でなく「情」をこそ。

  またしても備忘録。てんやわんやである。

●11月13日付けの「内田樹研究室」のブログ「かっちゃん」の文章がなかなか素敵である。理屈の上に理屈を載せたような内田氏の文章に欠けているのは、情感に溢れた、余韻の残る文章である、と私は感じている。その意味で「かっちゃん」は、なんだか村上春樹の初期の文章のようなセンチメントに彩られていて、とってもいい。
もっとこういう文章を書けばいいのに・・・。

  最後に人を動かすのは、「理屈」ではなくて「情感」であると私は思う。

●13日―14日の両日、ホテル・ニューオータニで開かれた「電子 雑誌 東京 紙とデジタルの融合」というメディア・コンフェランスに朝の早くから出かける。午前9時から夕方6時まで、ホテルの椅子に座っているのは、とてもお尻にとって苦役である。

アジアの各地のみならず、アメリカやヨーロッパから雑誌ビジネス、ネットビジネスに従事している方々が集まって、その現状と展望を開陳する。その中に混じってわが日本の会社の幹部の発表も行われる。欧米各社の幹部の発表と、日本の各社のプリゼンテーションの間にははっきりと違いがあった。

一言で言って、幼いのである。わが日本チームの発言内容は極めて狭小でチープなのである。「日本の雑誌ビジネスはかつてなかったほどの不況風に見舞われている。しかし、我が社は、デジタルを活用、ネット環境を利用して、このようなビジネスを展開、読者にモノを売りつけることで、かくかくしかじかの利益を上げて会社の売り上げに貢献している」というスケールの小さい自慢話ばかりなのである。

このコンフェランスの副題は「紙とデジタルの融合」となっている。ならば、まず吟味すべきは、「紙とデジタルは融合したほうがいいのかしないほうがいいのか」、どちらの方が人間の幸せにより資するのか、どちらのほうが我々の生活をより豊かにしてくれるのか、という本質的な部分なのではなかろうか。

ところが、その検証はすっとばして、ア・プリオリに「融合は善である」という前提で話は進んでいく。しかも、我が日本チームは「金儲け」の語法でしかものを語らないのである。いや、語れないのである。それを聞いているうちに、いかに我々はチープな思想、発想でしか物事を考えていないかが炙り出されてくるのである。

健全なジャーナリズムを育てるには、デジタルをいかに活用すべきなのか、人々の幸福にとってデジタルは有効なのか、あるいは無効なのか。そのような視点が決定的に抜け落ちている。金儲けのワーディングでしか物を考えられない我々は、かなりいかれているのではないか、と強く自省する。

●「文藝春秋」12月号で「死ぬまでに絶対読みたい本 大アンケート」という特集が載っている。日本の読書家52人に問いかけているのだが、与謝野馨氏は「カッツ 数学の歴史」、柄谷行人氏はヘロドトスの「歴史」、佐伯チズさんは「源氏物語」と、まあ、言ってみれば重厚長大な書物をあげている。その中で、榊原英資氏は、渡辺京二著の「逝きし世の面影」を上げていて、おやっと思った。

そんなの別に、「死ぬまでに~」なんていわないでさっさと読んじゃえばいいじゃないの、と思ったこととは別に、「ミスター円」とまで呼ばれた元大蔵官僚の氏が、100年に一度の今回の大恐慌の最中に、「逝きし世の面影」を上げてきたことが面白かったのである。

江戸末期から明治初年にかけては、まだ残っていて、いまではすでに失われてしまった我が国の美風、良俗とでもいうべきものを、その当時、日本を訪れた外国人たちが書き残した書物を引用することで、立体的に浮き上がらせて見せるのである。そして、榊原は、

<江戸文明というユニークな文明の「扼殺と葬送」の上に日本の近代が成立したのだと渡辺が述べる時、筆者は不可避ではあったとはいえ、明治以来の近代化・産業化が何だったかという思いに沈まざるをえない。>

  と書くのである。ふーん、「ミスター円」が思いそこに至るほどに、昨今の日本は、というより世界は混迷を迎えているのか、と思わざるを得ない。

「逝きし世の面影」を読んでいると、最初のうちは、まるでひいきの引き倒し、そこまで褒められるようなものではないのではないの、という気持ちが強くするが、過分な褒め言葉がつぎつぎと畳みかけるように展開されると、そのうちに、ひょっとすると彼らの賛嘆は過分なものなのではなく、私たちの身の回りにはすでに見ることのできなくなったが、かつての日本には「本当に美しいもの」が実在したのかもしれないという気にさせられてしまう。ある章では、思わず泣いてしまったほどなのである。恥ずかしいけど。

  経済がここまで窮まると、我々はおそらく、江戸時代に回帰していくことになるであろう。人口が少なくても、決して右肩上がりで収入が上がらなくても、美しく、秩序ある生活を営むことのできた素朴な社会へ。本家本元のロハスに。CO2削減どころか、我々の呼気にしかCO2がないほどに。

●15,16,17日と仙台に出張。仙台は大都会でもないし、田舎でもないし、とてもほどがいいところのように思える。仙台で一番うまいといわれる福寿司のカウンターで鮨を食う。うまい。そして、東京より、ずっと安い。ずんだもちを土産にかって帰る。

●明日から大阪出張。鶴橋で焼肉喰ったろ。

  

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2008年11月11日 (火)

黒人大統領からズルズル・ジーンズまで

   またしても分からないことが出現。

  オバマ新大統領(来年1月からだけど)を指して、「黒人初の大統領」という呼称がもっぱらだけど、本当にそう呼んでいいのだろうか、と強い違和感を覚える。ご存知のように、バラック・オバマさんはケニア人のお父さんと白人のお母さんの間に生まれている。たまたまケニア人のお父さんの肌の色を強く受け継いで褐色の肌に見えるけれど、それはたまたまであって、場合によっては母の肌色を受け継いで、白人としか見えないアピアランスで誕生した可能性だってあったのである。

  もし、そうであったとしても、マスコミは「黒人初の大統領」として彼を迎え入れただろうか。疑問である。もし、白人と黄色人種の間で生まれた子供が大統領に選出された場合には、「黄色人種初めての大統領」と呼んだだろうか。

   もっとも、「黒人初の大統領」と呼んだマスコミは、「ついに我々アメリカ社会は黒人をその統領に選出するほどの理性を獲得した」ということを強調したいのだろうか。たしかに、この国で黒人が味わってきた歴史的苦境を考えると、「白人の血が半分混じっている」とはいえ、オバマ大統領誕生の大きな意味があるのかもしれない。

   テレビのニュースを見ていると、すっかり老いた黒人指導者のジャクソン師がぐしゃぐしゃの顔をして涙ぐんでいる様子が映った。「はるけくも きつるものかは」という心境なんだろうなあと、感慨深くその様子を見守ったのだが、よく考えれば、オバマさんの父親は「アフリカから奴隷として連れてこられた黒人」の末裔ではなくて、ケニア出身のインテリであった。そこのところをぐっちゃにして「黒人初の大統領」という呼んでもいいのだろうか。

   そんな差異は、アメリカ合衆国における黒人の地位を考えれば、取るに足りないものなんだろうか。そこのところが、私には分からない。

   分からないこと、その2。最近の若い男性サラリーマン(だけではないけど、サラリーマンでさえ)ヘアスタイルがなんだか寝起きのようにぐしゃぐしゃになっている。昔ならばボサボサ頭と呼ばれたものである。もっとも、理髪店に行かないでそうなっているわけではなくて、理髪店、あるいは美容室で大枚はたいて、「おしゃれにぼさぼさな感じ」にしてもらっているのである。細身の着丈の短いスーツを着て、パンツも細身、そして靴がこれまた特徴的なのだが、虫歯菌やバイキンや悪魔がはいているような先っぽがとがって上向きにそっくり返っているような、みょうちきりんな靴なのである。しかもぴかぴかに磨き上げられているのではなくて、購入したときからおんぼろ感が漂っているシロモノである。

   不思議な流行ですな、ほんとに。女子の、細身のジーンズの上に薄い生地の腰巻を巻くという、理解に苦しむ流行はすでに見慣れて、これまた不思議なことにかわいいな、と思うようにさえなってしまっている。

   今朝、電車の中で目撃したのは、新たな女子のモード。長いブーツに短パン! 結構寒いんですよ、朝は。なのに短パンでっせ! もちろんちょっと味わいのあるタイツを下にはいていたりするのだが、どこの誰がこんな流行モノを思い付いたのか、そしてどういう理由でそれが若い女性の間に浸透してきたのか、興味深いものがある。

   その理由がもう一つ分からないことに、若い男子の「脱げかけズルズル・ジーンズ」がある。どちらさまも、多分駅の階段などで、仰天なさったことと思うが、あんたそのまま歩いているとズボン脱げちゃうよ、という格好の若い男性(時に女性も)に出会ったはずである。しかも、脱げかけジーンズの上から安物のパンツやトランクスがはみ出しているのである。ばかやろー、そんなかっこうするんだったら、もうすこし高めの上等なパンツはいていろ、と思うのだが、そこまで気が回らないのが彼らの特徴である。時にそこまでずるずるだとペンギンみたいで、歩きにくくないのかな、と思ってその後ろを付いて歩くことがある。観察していると、さすがに彼らも歩きにくいらしくて、時折両手でずりずりっとパンツをずりあげている(笑)。

   このズルズル・ジーンズの流儀はもちろんアメリカからである。アメリカ合衆国では、犯罪者が刑務所に収監される際には、ベルトを取り上げることになっている。凶器になるからね。そうなると、大きめのジーンズをはいている若者はほとんど脱げかかったジーンズで所内をうろつくことになったのである。刑期を終えて娑婆に出てきた後も、「務所帰り」の箔を、そのズルズル・ジーンズで誇示し続けたのが、いつのまにかモードになり、全世界に広まったのである。

     そのことを、日本の青少年は分かっているのだろうか?

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2008年11月 7日 (金)

もっといろいろ付け足したいのでアイデア募集!

  

     JCBカードでBLTサンドを買った後、ATMで金を下ろし、ETC付のホンダのFITで首都高に入ってOMCのカードでゲートを通過、NRTに向かう。ポケットにはJTBで入手したLAX行きのチケット。JALかANAかで迷ったが、結局NWAに。TDLをすぎたあたりで、TFMをつけると、SASの曲が流れている。それも飽きたので、DATでとったELTの曲をBGMに、UCCの缶コーヒーを飲む。やはり、家でJBLで聞いたほうがいい音だ。NTTの携帯でTELしようとうつむくと、なんとAPCのJKTのファスナーが壊れている。YKKなのに!JISマーク付いてるのに! 飛行場のロビーでNECの液晶PCでWEBチェック。その後TVを見ようとするが、URLがよく分からず、NHK、BBC、FOX、NBC、CBSのどれにしようか悩んだ末にTBSにすると、そこでは冷戦時代のKGBとCIAの争いのレポート。前FBI長官やらIEA議長まで登場してきたところでいやになりMTVに。AIUで保険をかけて、機内に乗り込み、シートに座るといかにもVIP然としたおっさんが腕にBCGのあとの残る部下と話をしている。どうやらJFEにお勤めのよう。「TOBであの会社を買収してOEMでCPUを作らせたのはいいが米国SECが目を光らせている。FRB議長に助っ人を頼んだがCEOもCOOもそんなことは知ったことじゃない。それどころか、一緒に連れてきたWEB事業室の連中と、SEOはどうした、CMSはどうした、やっぱこれからはCGMだろうなどと分けの分かんないことをほざいていたかと思うと、TBCのMENSエステに出かけている。昨日は子供のPTAで休むし、もっと仕事をしろというとILOに訴えるぞというし、ときどき会社を抜け出して、MLBやPGAやWBCの試合を観にいったりしている」「これではGDPもだださがり。ああいう連中にはNPOかNGOにでも行ってもらうしかないですな。自衛隊に入ってPKOにでも行って頭にDDTでもかけてもらえば根性もなおるでしょう。でもDDTかけるとWHOに怒られるかも。もうSOSですな」「全く仕事のABCも知らないし、毎日CNNでPLOのNEWSばかり見ているし。KKKにやっつけてもらうかUFOにさらってもらうしか手はありません」

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風邪をひいてしまった・・・・・・・・・・・・

   風邪をひいいてしまった。
  寒気がする。
  首筋から背中にかけてぞくぞくする。
  なのに、明日は早朝より、山梨の山奥でゴルフである。
  しかも、予想最高気温は今日よりも8度も低い、12度。おまけに雨の予想もされている。この体調で出かければ絶対にもっと熱が上がるだろう。
  さーて、どうしたもんか。今晩一晩寝て、朝起きたら全快、絶好チョー、なんてことにならないだろうか。ならないだろうなあ。うん、ならないような気がする。でも、ゴルフしたいしなあ・・・・。

  まずは、今晩鍋焼きうどんを食べて身体を温めよう。うん、そうしよう。

  でもどこでおいしい鍋焼きうどんが食べられるのだろうか。東京においしいうどん屋はなかなかないしなあ・・・。

  あかん、もう全然覇気がないわ、体内に。

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2008年11月 6日 (木)

オバマ新大統領と「打倒! 自由主義経済」

  

  10月16日の項で、こんな風なことを書いた。


  アメリカが今回の甚大な金融危機を引き起こす前に、こんなことをしていては大変なことになるよ、と注意を促す叡智の人がアメリカにはいなかったのだろうか。いかに鈍重でも、米国金融界のかくも傍若無人な振る舞いを見ていれば、一言言わずにはいられなかったのではないか、と。

  もちろん、そういう人はいた。ただ私が知らなかっただけで、早くから警鐘を鳴らし続ける経済学者が確かにいたらしい。ただ日本のマスコミは、危機が起きる前に、ではなく、危機が訪れたその後に、彼らの意見を紹介している。まさに後知恵以外の何物でもないのだが・・・。

  月刊誌「WILL」の12月号でG・ボグダン氏が紹介しているのが、今年ノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学教授のポール・クルーグマン氏の意見。こんな記事である。

<彼(クルーグマン氏)はコラムの中で、再三ブッシュ大統領が推し進めたグローバリゼーションや80年代から増え続ける個人と国の借金を憂い、深刻な危機の訪れを訴えてきた。
  まさに「予言者」となったクルーグマン氏は、金融危機が訪れたそのとき、ヘンリー・ポールソン財務長官に書簡を送っている。その中では、「あなたはロシアン・ルーレットを楽しんでいる」と綴られ、誰かが確実に銃弾を撃ち込まれることを言い当てていた。>(P28)

      もう一人が、やはりノーベル経済学賞を受賞したコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授。(余談だが写真家のアルフレッド・スティーグリッツはスティーグリッツと音引きが入るのに、こちらは無しで表記するんですね。不思議)

   このスティグリッツ教授の意見を11月3日付けの朝日新聞が掲載している。

<責任はまず、金融界やモーゲージ業者、そして私が「共犯者」と呼ぶ各付け会社にある。背景にあるのが、自由な市場経済を口実にしたブッシュ政権の規制緩和と企業優遇策だ。・・・・FRBにも不良債権の毒を爆発的に広げた重大な責任があるが、とりわけ非難されるべきはブッシュ政権の政策だ。>

  と、ブッシュ政権の非を強く唱えている。

<この危機をきっかけに、新自由主義は終わりを迎えなければならないと思う。規制緩和と自由化が経済的効率をもたらすという見解は行き詰まった。
  ベルリンの壁の崩壊で、共産主義が欠陥のある思想であると誰もが理解したように、新自由主義と市場原理主義は欠陥のある思想であることを、ほとんどの人が理解した。>

  彼らがここで再三主張していることは、ブッシュ政権(共和党政権)がとり続けてきた「新自由主義」は完全に行き詰ったということである。

    アメリカの共和党が堅持する、伝統的保守思想は「自由主義」である。信教の自由を求めてヨーロッパから命からがら逃げてきた人々が打ち立てた国アメリカでは、何よりも自由である、ということが第一義的に重要視される。経済における自由主義とは、自由市場で勝手に競争させておけば世の中はよくなるという信念である。よって、市場経済に関して政府の権限は小さければ小さいほどいいということになる。

   そんな信憑が共和党には根強く息づいているらしい。

   しかし、アメリカの国民はこのたび、次期大統領として民主党の、バラク・オバマを選出した。この行き詰まりを解消してくれるのは、もはや共和党ではない、という考えに国民の多くが傾いたからなのだろう。

   共和党が奉じる信念が「自由」であるならば、民主党が掲げるのは「平等」という名の松明である。簡略化して言えば、自由と放任は常に手を携えているので、時には自由をセイブしてでも、平等をもたらさねば、人は幸せにはなれない、という信憑である。

   したがって、今後、アメリカでは監督・規制が極めて強化されるだろう。オバマ新大統領は明確にその方向に向かって舵取りをするだろう。国民の大多数がそれを望むのだから。そのことで、すくなくとも金融業界の放埓なふるまいは当座抑制されることになるだろうことは想像に難くない。

   しかし、すぐにオバマが思い知らされるのは、アメリカのエスタブリッシュメントはその金融業界の方々によって形作られているという、厳然たる事実である。さて、どうやってオバマは生き延びればいいのか。

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2008年11月 5日 (水)

篤姫が眺めていた「江戸の惨状」

   NHKの大河ドラマ「篤姫」が大人気らしい。幕末の疾風怒涛の世を、宮崎あおい扮する篤姫が必死の覚悟で生き抜こうとする、その真摯な生き方に心動かされるようである。不況風激しく、「蟹工船」が愛読されるこの時勢だからこそ、よけいに感動を呼ぶのだろうか。あおいちゃんが、毎回瞳をうるうるさせているのを見ると、日本中の視聴者も一緒になってうるうるしているのに違いない。

   実際、篤姫が生きた時代は、毎日うるうるするしかないほど、変転の激しい世の中だった。生まれたのが1836年、亡くなったのが1883年。47歳で生涯を閉じるその瞬間まで、めまぐるしく移り変わる変転の渦中に身を置き続けた女性だった。

   中学、高校の日本史で、明治維新というのが、日本の近代史の中の結節点ともいうべき特異な時期だったことは概念的には学んだが、どのくらい特異な時期であったかは、なかなか感覚的には分からない。江戸時代、明治時代という年号を聞くだけで、なんだかとても昔の話に聞こえるからである。

   そこで、面白いことを考えついた。江戸、明治というから皮膚感覚的に実感しにくいのだから、これを、我々になじみのある昭和、平成に置き換えて日本史年表を眺めれば、全く違った時間感覚で歴史を捉えなおすことができるのではないかと思ったのである。

   明治維新を平成元年に起きたこととして年表を書き換えると、篤姫は昭和32年に生まれて平成16年に亡くなったことになる。これだと、とても実感しやすいのではないだろうか。ちなみに、昭和32年に生まれた女性には、秋野暢子さんやかたせ梨乃さんがいる。ご両名はともにご存命であるが、もし、篤姫が平成20年まで生きていたとしたら、そんな感じである(どんな感じなんや?)。

   昭和、平成の元号に置き換えて篤姫の生きた時代を描き換えるとこんな風になる。

昭和32年 薩摩に生まれる。
昭和33年 1歳。天保の大飢饉、大塩平八郎の乱。
昭和34年 2歳。高野長英、渡辺崋山らが鎖国政策を非難。
昭和37年 5歳。天保の改革。
昭和49年 17歳。ペリーが浦賀に来航。薩摩藩主・島津斉彬の養女に。
昭和50年 18歳。日米和親条約締結。
昭和54年 22歳。安政の大獄。大老井伊直弼、老中間部詮勝らが「日米修好  通商条約への調印、徳川家茂の将軍職継承」の施策に反対する一派を弾圧。
昭和56年 24歳。桜田門外の変。水戸藩浪士が井伊直弼を暗殺。徳川家定の正室として大奥に。
昭和58年 26歳。生麦事件。薩摩藩士がイギリス人を殺傷。夫・家定急死。結婚生活1年9ヶ月で夫を失う。10日後、父・斉彬も死去。
昭和59年 27歳。薩英戦争勃発。
昭和60年 28歳。蛤御門の変。長州藩士が京都御所を襲う。
昭和61年 29歳。長州征伐。
昭和62年 30歳。薩長同盟成立。倒幕をめざす。
昭和63年 31歳。大政奉還、江戸幕府が滅びる。王政復古の大号令。
昭和64年・平成元年 32歳。戊辰戦争。明治新政府が江戸幕府勢力を一掃。江戸城開城。
平成2年  33歳。版籍奉還。
平成4年  35歳。廃藩置県。郵便制度制定。義務教育開始。新橋・横浜間に鉄道開設。東京・大阪間に電信開通。太陰暦から太陽暦に。
平成5年  36歳。群馬県富岡に製糸工場設立。
平成6年  37歳。徴兵令発布。地租改正で、初めて土地の私的所有権が確立。
平成7年  38歳。板垣退助、後藤象二郎らが民選の議会設置を要望。
平成10年  41歳。西南戦争。
平成12年  43歳。琉球藩を沖縄県とする。
平成14年  45歳。10年後に帝国議会を開設を天皇の名で国民に約す。
平成15年  46歳。大隈重信が立憲改進党を結党。
平成16年  死去。

  こうして、年号を置き換えるだけで、我々のタイムライフに即した物差しで明治維新前後の出来事を把握することができるので、漫然と日本史年表を眺めているときとはずいぶんと印象が違う。

   篤姫ほど、生まれてから死ぬまで、人生とその時代がかくもシュトゥルム・ウント・ドラングな女性は日本史の中でもそんなに多くはないだろうと思う。もの心がつくころには、世の中の既成秩序が軋みをあげ始めており、そこへ海外からの圧力が加わり、戦いの歳月が続くことになる。日本国内で同胞が、その政治的立場をことにするという理由だけで血で血を洗う争いに向かうことになったわけである。

  そして訪れた、「一種の革命」とも言える明治維新で、既存のエスタブリッシュメントは崩壊し、新秩序が血なまぐさい空気の中で荒々しく打ち立てられていく。平成元年から篤姫が亡くなる平成16年までの年表を見ると、毎年のように新たな制度や施策が打ち立てられ、世の中は激しく変貌していく。その波浪に洗われながら、篤姫はなるほどうるうるするしかなかったのだろうなとしみじみと実感されるのである。

  ところで、明治維新後、世の中の激変によって泣きそうになったのは篤姫だけではなかったらしい。とりわけ東京では、貧民が大量に発生。町中に貧民が充満し、すさまじいことになっていたのだと、文春新書「貧民の帝都」(塩見鮮一郎著)が教えてくれる。1868年、幕府が瓦解、江戸が薩長の手に落ちたとき、江戸は完全に無政府状態だったというのだ。まあ、想像してみればそれもそうだろう、と思うが、そう指摘されるまではそんなことは考えもしなかった。日本史の授業でもそんなことまでは教えてくれない。

  世間の不穏な空気を察知するや、各藩の要人たちは屋敷を捨て、さっさと故郷へ逃げ帰り、江戸には各藩邸に雇われていた使用人たちや、各藩相手に商売をしていた町人たちが職を失って溢れかえっていたというのである。

<百万人の江戸は半分になり、都市機能は完全に破壊された。給金も支払われなくなり、日常の物資の運搬もままならない。駕籠舁きがいても乗り手はまれだ。通りという通りに紙くずが舞い、くさった野菜がちらばり、猫の死骸がころがる。馬の糞をひろう物もいなくなった。堀には死体がゴミに取りかこまれてぷかぷかと流れている。おびただしいカラスが初夏の空に舞った。
  旧暦四月の初めに江戸城が官軍に明けわたされるが、しばらくはそのまま放置されていた。とてつもなくおおきな「空き家」が江戸の中央に誕生したわけだ。よろこんだのはこじきたちで、かんざしの一本も落ちてはいないかと大奥にまで入りこんだ。夜鷹(街娼)をつれてきて将軍気取りであそぶ者もいた。>(同書 P17)

   マルコス大統領が逃げ出したマラカニアン宮殿のことをつい思い出してしまう。1986年の人民革命でマラカニアン宮殿を追われたマルコス大統領夫妻はハワイに逃げたが、暴徒が宮殿に殺到。そこで、イメルダ夫人の3000足の靴、500着のブラジャー、膨大な量の香水が発見されたと当時噂された。

<徳川に最後まで忠誠をつくそうとするサムライは、八百八町の夜の闇にひそむテロリストで、道がわからないでまごまごしている官軍の兵は斬られた。小伝馬町の牢屋敷にいた囚人たちも、火事のときに行われる「切放」の制度が適用されて街頭に放出されている。三日以内にもどってくれば刑を一等減じてもらえるという約束だが、今回は裁く者がいない。それなのにとぼとぼと小伝馬町にもどってくるのは、廃市でどうやって食っていけばいいのかわからなかったからだ。それにしても物騒なことで、空き巣狙いは常態で、泥棒に強盗に恐喝、婦女暴行が日夜くりひろげられた。>(同書 P18)

  東京の、そのようにすさまじい様変わりを篤姫はどのような気持ちで眺めていたのだろうか? そのことは、小説を読んでも、ドラマを見ても、一向に分からない。

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