« 黒人大統領からズルズル・ジーンズまで | トップページ | 大阪にはおばさんしかいないのか!? »

2008年11月18日 (火)

「理」でなく「情」をこそ。

  またしても備忘録。てんやわんやである。

●11月13日付けの「内田樹研究室」のブログ「かっちゃん」の文章がなかなか素敵である。理屈の上に理屈を載せたような内田氏の文章に欠けているのは、情感に溢れた、余韻の残る文章である、と私は感じている。その意味で「かっちゃん」は、なんだか村上春樹の初期の文章のようなセンチメントに彩られていて、とってもいい。
もっとこういう文章を書けばいいのに・・・。

  最後に人を動かすのは、「理屈」ではなくて「情感」であると私は思う。

●13日―14日の両日、ホテル・ニューオータニで開かれた「電子 雑誌 東京 紙とデジタルの融合」というメディア・コンフェランスに朝の早くから出かける。午前9時から夕方6時まで、ホテルの椅子に座っているのは、とてもお尻にとって苦役である。

アジアの各地のみならず、アメリカやヨーロッパから雑誌ビジネス、ネットビジネスに従事している方々が集まって、その現状と展望を開陳する。その中に混じってわが日本の会社の幹部の発表も行われる。欧米各社の幹部の発表と、日本の各社のプリゼンテーションの間にははっきりと違いがあった。

一言で言って、幼いのである。わが日本チームの発言内容は極めて狭小でチープなのである。「日本の雑誌ビジネスはかつてなかったほどの不況風に見舞われている。しかし、我が社は、デジタルを活用、ネット環境を利用して、このようなビジネスを展開、読者にモノを売りつけることで、かくかくしかじかの利益を上げて会社の売り上げに貢献している」というスケールの小さい自慢話ばかりなのである。

このコンフェランスの副題は「紙とデジタルの融合」となっている。ならば、まず吟味すべきは、「紙とデジタルは融合したほうがいいのかしないほうがいいのか」、どちらの方が人間の幸せにより資するのか、どちらのほうが我々の生活をより豊かにしてくれるのか、という本質的な部分なのではなかろうか。

ところが、その検証はすっとばして、ア・プリオリに「融合は善である」という前提で話は進んでいく。しかも、我が日本チームは「金儲け」の語法でしかものを語らないのである。いや、語れないのである。それを聞いているうちに、いかに我々はチープな思想、発想でしか物事を考えていないかが炙り出されてくるのである。

健全なジャーナリズムを育てるには、デジタルをいかに活用すべきなのか、人々の幸福にとってデジタルは有効なのか、あるいは無効なのか。そのような視点が決定的に抜け落ちている。金儲けのワーディングでしか物を考えられない我々は、かなりいかれているのではないか、と強く自省する。

●「文藝春秋」12月号で「死ぬまでに絶対読みたい本 大アンケート」という特集が載っている。日本の読書家52人に問いかけているのだが、与謝野馨氏は「カッツ 数学の歴史」、柄谷行人氏はヘロドトスの「歴史」、佐伯チズさんは「源氏物語」と、まあ、言ってみれば重厚長大な書物をあげている。その中で、榊原英資氏は、渡辺京二著の「逝きし世の面影」を上げていて、おやっと思った。

そんなの別に、「死ぬまでに~」なんていわないでさっさと読んじゃえばいいじゃないの、と思ったこととは別に、「ミスター円」とまで呼ばれた元大蔵官僚の氏が、100年に一度の今回の大恐慌の最中に、「逝きし世の面影」を上げてきたことが面白かったのである。

江戸末期から明治初年にかけては、まだ残っていて、いまではすでに失われてしまった我が国の美風、良俗とでもいうべきものを、その当時、日本を訪れた外国人たちが書き残した書物を引用することで、立体的に浮き上がらせて見せるのである。そして、榊原は、

<江戸文明というユニークな文明の「扼殺と葬送」の上に日本の近代が成立したのだと渡辺が述べる時、筆者は不可避ではあったとはいえ、明治以来の近代化・産業化が何だったかという思いに沈まざるをえない。>

  と書くのである。ふーん、「ミスター円」が思いそこに至るほどに、昨今の日本は、というより世界は混迷を迎えているのか、と思わざるを得ない。

「逝きし世の面影」を読んでいると、最初のうちは、まるでひいきの引き倒し、そこまで褒められるようなものではないのではないの、という気持ちが強くするが、過分な褒め言葉がつぎつぎと畳みかけるように展開されると、そのうちに、ひょっとすると彼らの賛嘆は過分なものなのではなく、私たちの身の回りにはすでに見ることのできなくなったが、かつての日本には「本当に美しいもの」が実在したのかもしれないという気にさせられてしまう。ある章では、思わず泣いてしまったほどなのである。恥ずかしいけど。

  経済がここまで窮まると、我々はおそらく、江戸時代に回帰していくことになるであろう。人口が少なくても、決して右肩上がりで収入が上がらなくても、美しく、秩序ある生活を営むことのできた素朴な社会へ。本家本元のロハスに。CO2削減どころか、我々の呼気にしかCO2がないほどに。

●15,16,17日と仙台に出張。仙台は大都会でもないし、田舎でもないし、とてもほどがいいところのように思える。仙台で一番うまいといわれる福寿司のカウンターで鮨を食う。うまい。そして、東京より、ずっと安い。ずんだもちを土産にかって帰る。

●明日から大阪出張。鶴橋で焼肉喰ったろ。

  

|

« 黒人大統領からズルズル・ジーンズまで | トップページ | 大阪にはおばさんしかいないのか!? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「理」でなく「情」をこそ。:

« 黒人大統領からズルズル・ジーンズまで | トップページ | 大阪にはおばさんしかいないのか!? »