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2008年11月28日 (金)

久世光彦「マイ・ラスト・ソング」は 「昭和の感傷」を描く

●夕方、虎ノ門のSPEの試写室で「007/慰めの報酬」を観る。
    頭から、激しいアクションシーンである。イタリアのコモ湖沿いの道を疾駆するアストンマーチン、追うアルファロメオ。エンジンの轟音と機関銃の金属音、ブレーキの悲鳴。顔に血糊をちらせながら、冷静にステアリングを握るジェームス・ボンド。いきなり手に汗を握ってしまうオープニングである。

  しかし、すぐに悟る。あまりに過剰な(長丁場でかつ種類豊富な)アクションシーンは、物語の進行を劇画的に簡略化してしまうだけでなく、アクションシーンそのものの持つ衝迫力を減じてしまうものであることを。起承転結、序破急、緩急、オードブル・スープ・メインディッシュ・デザート。どういってもいいのだが、内容もテンポも違うものが、ある流れの中にあるからそれぞれが引き立てあって効果的なのである。想像すれば分かるだろうけれど、頭から最後まで、ずっとこぶしだらけの演歌がもしあったとしたら、極めて退屈なのと同様に、アクションだらけだと飽きてきちゃうのである。

  そういう意味で前作「007/カジノ・ロワイヤル」の方が、私には楽しかった。特筆すべきは、ボンド役のダニエル・クレイグの存在感。鍛えられた肉体をトム・フォードのスーツに包み、冷徹な表情でことに当たる姿ははなはだセクシーであると思う。この冷たい鋼のような男の存在は、女性の目から見てどのように見えるのだろう。「たまらなくセクシー!」という声はあまり聞かれないような気もするが・・・。

●その後、新宿に行って、紀伊国屋書店の地下にある「モンスナック」でポークカレーの大盛りを食べ、額の汗をぬぐいながら今PCに向かっているところである。
    カレーを食べながら、ふと思い出したのだが、71年に田舎から東京に出てきたころ、新宿駅東口の改札を出れば紀伊国屋書店まですぐにたどり着けるのに、駅の出口がそんなにいくつもあるものだとは気がつかなくて(だって田舎の駅の出口はひとつだった)、最初の半年ほどは、新宿駅南口で甲州街道に出て、テクテク長い道のりを歩いていたのだった。

  その頃は、新宿紀伊国屋書店で高橋和巳や寺山修司や五木寛之の文庫本を買って、2階の「ブルックボンド」に腰を落ち着け、パチンコでとったDUNHILLのタバコをゆっくりくゆらせつつ、長髪をかきあげながら、深刻な顔をして本を読みふけり、時にイングリッシュティをすすったりして自由な時間を過ごしていたものだった。

    当時、この紀伊国屋書店の2階で書架を眺めていると、地下1階のカレー屋「モンスナック」からなんともいえないカレーのいい香りが漂ってきて、たまらず階段を駆け下りていったものだった。もう、ほとんどの人は忘れてしまっているけれど、紀伊国屋の地下のレストラン街はその昔は通路の中央に位置し、レストラン両側は通路だったのである。だから、「モンスナック」には両側の通路から入店できるようになっていたし、しかもキャッシュオデリバリーで、前金だったのである。

  あのころカレーを作っていた人たちの顔はもう今の「モンスナック」にはないし、あの頃の、薫り高いスープカレーも今ではもうだいぶ様子が変わったような気がする。昔はお代わりをして3杯立て続けにがつがつ食べたこともあった。
「モンスナック」のしゃびしゃびカレーをスプーンですくっていると、懐かしい自分の昭和の青春の一こまが甦る気がする。

●11月15日と16日、ちょうど仕事で仙台に行っていた間に、世田谷パブリックシアターで興味深いコンサートが開かれていた。題して「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」。これがどういうコンサートだったのか、すこし説明がいるだろう。久世光彦氏とは、あの有名なTVドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などの演出、プロデューサーを務めたテレビマンだが、後半生には文筆家としても活躍(06年逝去)。いくつかの小説を残したが、多くのファンを引きつけたのが14年も雑誌連載を続けた「マイ・ラスト・ソング」というエッセイだった。

<こんなことを考えるのは、私だけだろうか。私の死がついそこまでやって来ているとする。たとえば、あと五分というところまで来ている。そんな末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最後に何か1曲、何でもリクエストすれば聞かせてやると言ったら、いったい私はどんな曲を選ぶだろう>

  というきっかけで始まった「音楽エッセイ」だったが、それは毎回、私たちが、私たちの人生のある日、ある時、ある場所で、心のどこか深いところで交差したさまざまな楽曲を取り上げ、その曲に私たちが託した思いがどのようなものだったのかを、哀切に探る、という体裁のものだった。「哀切に探る」とは妙な言いようだが、そうとしか言えない書きっぷりなのだから仕方ない。

  それを中野翠さんは「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、久世氏を追悼する一文の中で記している(「マイ・ラスト・ソング 最終章」久世光彦著 文藝春秋 P172)。そして続けて、

<(久世さんは)昭和の歌の数かずが「忘れないで」と手をさしのべているのを感じたのだろう。例えば「海ゆかば」の回など読むと、何か大きなものに背中を押されて書いているんだなという感じが伝わってくる。「支那の町の支那の子」や「茶目子の一日」のような昭和の色濃い歌を忘却の淵から救い出し、藤田まさと「妻恋道中」の「好いた女房に 三下り半を/投げて長脇差(ながどす) 永の旅」の後半の「なの字尽くし」に「歌詞」とは違う「文句」の芸を発見し、「昭和維新の歌」(青年日本の歌)と「インターナショナル」を青年たちにとってのロマンティックな革命歌として等価に語るー。やっぱり久世さんにしかできなかった仕事だと思う。
  私たちは「マイ・ラスト・ソング」シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった。
  久世さんは溺れることを怖れない人だった。
  好きなものにはとことん溺れた。頭を垂れ、跪き、自分の感傷性を思いっきり解放した。(・・・・・・)
  なにしろ久世さんは「マイ・ラスト・ソング」の中で、ほとんど曲ごとに泣いているのだ。「泣いた」「涙を流した」とハッキリ書いていない場合でも、文章自体が潤んでいる。そう、潤んでいるのだ。>

  14年間も続いたそんなエッセイ集の中から、松江に住む歌手・浜田真理子さんが選んだのはこんな曲だった。初日と二日目とでは、第二部のラインナップが変わっている。 初日は、

【第一部】
みんな夢の中 (作詞・作曲:浜口庫之助)
月の砂漠 (作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる)
離別(イビヨル)(作詞・作曲:吉屋潤)
冬景色(文部省唱歌)
朧月夜(作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一)
おもいでのアルバム(作詞:増子とし 作曲:本田鐡磨)
プカプカ(作詞・作曲:象狂象)
海ゆかば(作詞:大伴家持 作曲:信時潔)
港が見える丘(作詞・作曲:東辰三)

【第二部】
爪(作詞・作曲:平岡精二)
ガード下のくつみがき(作詞:宮川哲夫・作曲:利根一郎)
さくらの唄(作詞:なかにし礼 作曲:三木たかし)
As Times goes by(作詞・作曲:Herman Hupfeld)
街の灯り(作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)
知りたくないの(作詞:D.Robertson作曲:H.Barnes 訳詞:なかにし礼)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  そして、二日目は、第二部がこう変わっている。

【第二部】
愛のさざなみ(作詞:なかにし礼 作曲:浜口庫之助)
星の流れに(作詞:清水みのる 作曲:利根一郎)
爪(作詞・作曲:平岡精二)
十九の春(沖縄県民謡)
.黒の舟歌(作詞:能吉利人 作曲:桜井順)
.テネシーワルツ(作詞・作曲:P.W.King/R.Stewart)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  2日間で歌われた歌は21曲。そして、浜田真理子さんがこの21曲を歌う前に、久世氏の「教え子」でもあった小泉今日子さんが、氏のエッセイを朗読する(のだろうと思う。何しろ仙台に出張に言っていたから聞いていないのだ)。

  このコンサートを聴いた知人は「ぐずぐずに泣いた」という。「まわりの人たちもみんな泣いていた」という。「海ゆかば」ではどうしても、涙がこらえきれなかったのだという。もし私がこのコンサートに出かけていたら、最初から最後まで鼻水をすすりあげていたことだろう。

  聴きたかったなあ。(この項続く)

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