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2008年11月 5日 (水)

篤姫が眺めていた「江戸の惨状」

   NHKの大河ドラマ「篤姫」が大人気らしい。幕末の疾風怒涛の世を、宮崎あおい扮する篤姫が必死の覚悟で生き抜こうとする、その真摯な生き方に心動かされるようである。不況風激しく、「蟹工船」が愛読されるこの時勢だからこそ、よけいに感動を呼ぶのだろうか。あおいちゃんが、毎回瞳をうるうるさせているのを見ると、日本中の視聴者も一緒になってうるうるしているのに違いない。

   実際、篤姫が生きた時代は、毎日うるうるするしかないほど、変転の激しい世の中だった。生まれたのが1836年、亡くなったのが1883年。47歳で生涯を閉じるその瞬間まで、めまぐるしく移り変わる変転の渦中に身を置き続けた女性だった。

   中学、高校の日本史で、明治維新というのが、日本の近代史の中の結節点ともいうべき特異な時期だったことは概念的には学んだが、どのくらい特異な時期であったかは、なかなか感覚的には分からない。江戸時代、明治時代という年号を聞くだけで、なんだかとても昔の話に聞こえるからである。

   そこで、面白いことを考えついた。江戸、明治というから皮膚感覚的に実感しにくいのだから、これを、我々になじみのある昭和、平成に置き換えて日本史年表を眺めれば、全く違った時間感覚で歴史を捉えなおすことができるのではないかと思ったのである。

   明治維新を平成元年に起きたこととして年表を書き換えると、篤姫は昭和32年に生まれて平成16年に亡くなったことになる。これだと、とても実感しやすいのではないだろうか。ちなみに、昭和32年に生まれた女性には、秋野暢子さんやかたせ梨乃さんがいる。ご両名はともにご存命であるが、もし、篤姫が平成20年まで生きていたとしたら、そんな感じである(どんな感じなんや?)。

   昭和、平成の元号に置き換えて篤姫の生きた時代を描き換えるとこんな風になる。

昭和32年 薩摩に生まれる。
昭和33年 1歳。天保の大飢饉、大塩平八郎の乱。
昭和34年 2歳。高野長英、渡辺崋山らが鎖国政策を非難。
昭和37年 5歳。天保の改革。
昭和49年 17歳。ペリーが浦賀に来航。薩摩藩主・島津斉彬の養女に。
昭和50年 18歳。日米和親条約締結。
昭和54年 22歳。安政の大獄。大老井伊直弼、老中間部詮勝らが「日米修好  通商条約への調印、徳川家茂の将軍職継承」の施策に反対する一派を弾圧。
昭和56年 24歳。桜田門外の変。水戸藩浪士が井伊直弼を暗殺。徳川家定の正室として大奥に。
昭和58年 26歳。生麦事件。薩摩藩士がイギリス人を殺傷。夫・家定急死。結婚生活1年9ヶ月で夫を失う。10日後、父・斉彬も死去。
昭和59年 27歳。薩英戦争勃発。
昭和60年 28歳。蛤御門の変。長州藩士が京都御所を襲う。
昭和61年 29歳。長州征伐。
昭和62年 30歳。薩長同盟成立。倒幕をめざす。
昭和63年 31歳。大政奉還、江戸幕府が滅びる。王政復古の大号令。
昭和64年・平成元年 32歳。戊辰戦争。明治新政府が江戸幕府勢力を一掃。江戸城開城。
平成2年  33歳。版籍奉還。
平成4年  35歳。廃藩置県。郵便制度制定。義務教育開始。新橋・横浜間に鉄道開設。東京・大阪間に電信開通。太陰暦から太陽暦に。
平成5年  36歳。群馬県富岡に製糸工場設立。
平成6年  37歳。徴兵令発布。地租改正で、初めて土地の私的所有権が確立。
平成7年  38歳。板垣退助、後藤象二郎らが民選の議会設置を要望。
平成10年  41歳。西南戦争。
平成12年  43歳。琉球藩を沖縄県とする。
平成14年  45歳。10年後に帝国議会を開設を天皇の名で国民に約す。
平成15年  46歳。大隈重信が立憲改進党を結党。
平成16年  死去。

  こうして、年号を置き換えるだけで、我々のタイムライフに即した物差しで明治維新前後の出来事を把握することができるので、漫然と日本史年表を眺めているときとはずいぶんと印象が違う。

   篤姫ほど、生まれてから死ぬまで、人生とその時代がかくもシュトゥルム・ウント・ドラングな女性は日本史の中でもそんなに多くはないだろうと思う。もの心がつくころには、世の中の既成秩序が軋みをあげ始めており、そこへ海外からの圧力が加わり、戦いの歳月が続くことになる。日本国内で同胞が、その政治的立場をことにするという理由だけで血で血を洗う争いに向かうことになったわけである。

  そして訪れた、「一種の革命」とも言える明治維新で、既存のエスタブリッシュメントは崩壊し、新秩序が血なまぐさい空気の中で荒々しく打ち立てられていく。平成元年から篤姫が亡くなる平成16年までの年表を見ると、毎年のように新たな制度や施策が打ち立てられ、世の中は激しく変貌していく。その波浪に洗われながら、篤姫はなるほどうるうるするしかなかったのだろうなとしみじみと実感されるのである。

  ところで、明治維新後、世の中の激変によって泣きそうになったのは篤姫だけではなかったらしい。とりわけ東京では、貧民が大量に発生。町中に貧民が充満し、すさまじいことになっていたのだと、文春新書「貧民の帝都」(塩見鮮一郎著)が教えてくれる。1868年、幕府が瓦解、江戸が薩長の手に落ちたとき、江戸は完全に無政府状態だったというのだ。まあ、想像してみればそれもそうだろう、と思うが、そう指摘されるまではそんなことは考えもしなかった。日本史の授業でもそんなことまでは教えてくれない。

  世間の不穏な空気を察知するや、各藩の要人たちは屋敷を捨て、さっさと故郷へ逃げ帰り、江戸には各藩邸に雇われていた使用人たちや、各藩相手に商売をしていた町人たちが職を失って溢れかえっていたというのである。

<百万人の江戸は半分になり、都市機能は完全に破壊された。給金も支払われなくなり、日常の物資の運搬もままならない。駕籠舁きがいても乗り手はまれだ。通りという通りに紙くずが舞い、くさった野菜がちらばり、猫の死骸がころがる。馬の糞をひろう物もいなくなった。堀には死体がゴミに取りかこまれてぷかぷかと流れている。おびただしいカラスが初夏の空に舞った。
  旧暦四月の初めに江戸城が官軍に明けわたされるが、しばらくはそのまま放置されていた。とてつもなくおおきな「空き家」が江戸の中央に誕生したわけだ。よろこんだのはこじきたちで、かんざしの一本も落ちてはいないかと大奥にまで入りこんだ。夜鷹(街娼)をつれてきて将軍気取りであそぶ者もいた。>(同書 P17)

   マルコス大統領が逃げ出したマラカニアン宮殿のことをつい思い出してしまう。1986年の人民革命でマラカニアン宮殿を追われたマルコス大統領夫妻はハワイに逃げたが、暴徒が宮殿に殺到。そこで、イメルダ夫人の3000足の靴、500着のブラジャー、膨大な量の香水が発見されたと当時噂された。

<徳川に最後まで忠誠をつくそうとするサムライは、八百八町の夜の闇にひそむテロリストで、道がわからないでまごまごしている官軍の兵は斬られた。小伝馬町の牢屋敷にいた囚人たちも、火事のときに行われる「切放」の制度が適用されて街頭に放出されている。三日以内にもどってくれば刑を一等減じてもらえるという約束だが、今回は裁く者がいない。それなのにとぼとぼと小伝馬町にもどってくるのは、廃市でどうやって食っていけばいいのかわからなかったからだ。それにしても物騒なことで、空き巣狙いは常態で、泥棒に強盗に恐喝、婦女暴行が日夜くりひろげられた。>(同書 P18)

  東京の、そのようにすさまじい様変わりを篤姫はどのような気持ちで眺めていたのだろうか? そのことは、小説を読んでも、ドラマを見ても、一向に分からない。

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