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2008年12月

2008年12月31日 (水)

大晦日の夜はカニ鍋である

 

   焚き火仕事はひと休みして、本日は早朝より、家から車で5分のところにあるラ・グレースGCでゴルフ。2008年のラウンドおさめを、仕事仲間のまっちゃんを呼び出して果たす。午前中より雨やあられが舞い、風が強くかなり寒い。まっちゃんは小学生みたいに鼻の穴の下に鼻水を垂らしている。が、寒くて垂れていることが分かっていないのである。それなのにもうすぐ50歳なのである。そんなだらしない形相で、アイアンを失敗したりするとぎゃああああ、と叫びを上げる。横で見ているのは結構楽しい。

 12月13日のゴルフ馬鹿の会の忘年ゴルフで腰を痛めて以来、クラブを握っていなかったのでスコアはさっぱり。ゴルフはやっぱり日常的にスイングをしていないとだめなスポーツだと実感する。

  ゴルフから帰って、またもや畑で焚き火をしていると、離れの建築を頼んでいるM氏が年末の挨拶にやってくる。そして面白いところがあるから、一緒に見に行かないかと誘ってくる。                                       「ここから車で20分くらいのところにある山の中に、直径が6メートルほどの樅の木があるんだけど、ある人がその樅の木が自分を呼んでいると言って、そのそばに小屋を建てたんです。ムーンロッジって言うんだけど。水道もガスも電気もトイレもない小屋。普段は大阪に住んで、木の彫刻を彫ったりしている人なんだけど、ときどきその山にやってきてはロッジに泊まってその巨木を見ている。見に行きません? その樅の木」

  面白そうなので妹を誘って、見に行く。車で山道をうねうねし、最後には対向車が来てもすれ違えない細い道を登っていくと突然開けた土地が現れ、その横の道を登っていくと、あったあ、見たこともない巨大な樅の木が。なんでも樹齢300年ほどだという。信じられない光景である。まだ、こんなものが残っていたのかと驚く。ほとんど宮崎アニメの世界である。

  その後、スーパーに行って、晩ごはんの材料を買う。こんばんは鍋である。北海道から届いたばかりのカニとカキとタラ。簡易コンロを用意し、台所に近い4畳半の部屋のコタツの上で食べる。この場所で食事をするのはおそらく20年ぶりぐらいのことである。かつては家族全員(といっても5人だが)がこのこたつに足を突っ込み食事を共にしていたが、20年前に父が亡くなってから、その習慣もなくなり、母親は一人作業机の上でささやかな食事を食べていた。そのせいか、最近ではとても食が細くなっていた。

 しかし、今晩は違った。母は、なんだか子供のようにはしゃいで、おいしいおいしいとつぶやきながら、普段の3倍は食べるのだった。その様子を見つめながら、ああ、よかった、よかったと、ほっこりした気持ちが、心の奥底から湧き上がってくるのが、くっきりと分かった。 

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2008年12月30日 (火)

火にくべる

  今年もいよいよ押し迫り、あと一日を残すばかりとなった。

 今日は9時前に起床。朝食をすませてから、村の中央にあるお寺へ墓掃除に出かけた。菩提寺の名前は永福寺と称し、村の中央のすこし小高くなった場所に位置する。寺の入り口には、もっとも古い墓碑は1550年、室町時代のものであるという案内があるから、すでに460年ほどの歴史を持つことになる。この寺の横の小道を下に下りると正面に「藤原文具店」がある(というか、あった、と書くべきか。今はもう商いをしていないようにみえる)。この藤原文具店では中学・高校のころにノートや鉛筆を買ったものだが、実は藤原紀香さんのおじいさんの実家である。

  したがって、この永福寺は、紀香さんの菩提寺でもある。仕事でお会いしたときに、その話を紀香さんとしたことがあるが、そのときに「じゃあ、私たちは墓友ね」とにっこり微笑みながら言われて、なんだかうれしいような、不気味なような妙な気持ちになったことがあった。もっとも、紀香さんは陣内さんとご結婚されたから、もう永福寺は彼女の菩提寺ではなくなてしまったのだが・・・。

  このあたりは密教である真言宗がもっぱらで、しかも私の故郷では、今も土葬が行われている。亡くなると、シンプルな木の棺桶に納められ、みんなでその棺桶を担いで村を歩き、最後に寺に運び上げる。喪主は白い浴衣のような着物を着、荒縄を帯の代わりとし、頭に白い三角の紙をつける(例のお化けが頭につけているやつ)。墓穴は村人が交代で掘り、そこに棺桶ごと納め、上から土をかける。やってみると分かるが、「人を埋める」という行為はなかなか抵抗があって、最初に土をひとかけするのがためらわれる。親しい肉親に土をかけるのだからそれも当然だが、ふたかけめからはもう気にもならず、さっさと埋めていく。

  埋め終わると浜辺で人を埋めたときに小山ができるように、墓地に小山ができる。そこに鋭角に切られた竹をぶすぶすと一面に刺す。針山に針を刺す要領である。山から動物がやってきて遺体を穿り出して食べたりしないようにとの予防のためであろうと思う。

  数ヶ月がたつと、木の棺桶が腐って崩れ、小山が小さくなる。表面が平坦になる。そのころには、竹の代わりに石を並べ、表面を覆う。そんな墓が小山の一面にあり、別に墓標があるわけではないので、うっかりするとどこが自家の墓なのか分からなくなる。人ひとりを横にして埋めることのできるほどのスペースであるが、当然のごとく墓場のスペースは有限であるため、ひとつの家族が占有できるスペースは2箇所ほどである。つまり、同じ墓穴に時間差で同じ家族の者が何人も埋められることになる。

  20年ほど前に祖母が亡くなった。30年ほど前に亡くなった祖父と同じ墓所に埋めることになり、村人が墓穴を掘った。すでに30年が経つのに、祖父はタキシードを着た白骨となって現れた。棺桶に納めたときに化繊の布団にくるんで入れたので、まったく腐ることのない布団にきれいに守られて出てきてしまったわけである。祖父の骨をかき集め、祖母を埋めた上にその骨をかけて埋めなおしたという。

  そんなわけであるからして、墓掃除といっても、普通人々が想像するようなクリーンなものではない。小山の斜面に2箇所、石が並べられた墓があるのだがそこには枯葉が降り積もって汚いことになっている。この枯葉を一枚一枚手で除かねばならないのである。石と石の間に埋まった枯葉は石を取り除いてから拾い、また石をもとの場所に戻さねばならない。そんな作業を延々と続け、それが済んだら花を生け、線香を供え、それが済むと、お次は、ごく普通の墓地のように墓石が並んだ墓所の掃除に移る。寒いし、手は冷たいし、なかなか終わらないし、なかなかに辛い。なかなか辛いが、村人は皆、一年の終わりには先祖が眠る墓所をきれいに清め、そうして新たな年を迎えることになっている。

  墓掃除を済ませると、昨日の続き。畑で祖父母の遺品を燃やす作業に没頭する。風が強くて、火の粉が飛ばないように気を遣う。何時間も炎を見つめていると、人はいろんなことを考える。

  サツマイモを投げ込んで焼き芋を作ったらうまいのではないか。焼き芋というのは日本古来の食べ方のように思いがちだが、たぶんこれは太平洋の南の島でタロイモかなんかを同じようにして焼いて食べていた、その流れをくんでいるのではないか。そういえば焼き鳥もそのルーツをたどれば、シルクロードを通って遠くトルコやギリシャに行き着くに違いない、などと妄想は膨らむ。

  何時間も物を燃やし続けていると、周りの土の様子が変わってくる。それを見て、人が陶器を発明したのも、こんな経験が積み重なってのことに違いないと思う。比較的低温で、たまたま適した土がそばにあったときに、その焚き火のそばで素焼きの器のようなものができたに違いない、などと・・・・。

  祖父は漢学者だったので、沢山のノートが残されていて、そこに几帳面な文字でなにやら細かく記されている。丁寧に読めば何らかの知見を得ることになるのかもしれないが、残念ながら私にはそうしている時間もそれを読み解く知識もない。このまま保存しておいても、結局、だれも目を通すことはないだろう。そんなものを大事に保存しておいても仕方ない、燃やしてしまおう。そう自分に言い聞かせて、多数のノートや手紙や書や写真を火にくべる。なんだかとてもばちあたりなことをしているような気がする。祖母が大事に大事にとっておいた彼女の人生の伴侶の思い出を次々に炎の中に投込みながら、人の生の空しさを肌身にしみて感じてしまっている自分がいる。

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2008年12月29日 (月)

眉毛を焦がしながら

  今日は朝8時半に起床。昨夜は、さすがに一人で700キロ運転した疲れが出たのか、9時ころには落睡。約11時間眠った計算になる。いつもは5、6時間睡眠なのに、トイレにもいかずに11時間はすごい。自分を褒めてあげたい。よくぞ、お漏らしをしなかったね、と。
  妹が作ってくれた朝ごはんを食べた後は、鍬と鋤を持って畑へ。半径1メートルほどの浅い穴を堀る。なんのためにかというと、物を燃やすためである。
  「離れ」は築60年ほどで、すでに廃屋状態。もうつぶして新たに小さな平屋を建てるしかあるまい、ということになって目下、屋内に蔵された、いるのかいらないのか分からない、ほとんどゴミといっていいようなもろもろを整理している最中なのである。で、いらないものは畑でがんがん燃やす。都会だとこうはいかないが、なにしろ和歌山の山の中であるからして、派手に燃やしても誰にも迷惑はかけない。
  廃屋の中は、ほとんど、ワイドショーに出てくる「ごみ山おばあさん」の家の中のようである。どうしてここまでほっぱらかしにしていたのか。なぜ、明らかにいらないように思える品物を始末しなかったのか、皆目分からない。わが母上の気性がそうさせるのだろう。とにかく掃除や整理が苦手、というか、その手のカテゴリーに類する作業については、とにかく我関せずなのである。
  思えば、私が物心ついたころからそうなのだから、小さいころからほこりだらけの中で生活していたことになる。たとえば、コタツだが、脚が一本折れて3本脚になったことがある。普通のお母さんならば電気屋へ持っていって直すだろうが、わが母上は違う。みかん箱を適当にかまして、それでよしとするのである。もちろん、1ヶ月でも2ヶ月でもこたつの中を掃除するということはない。
  あるいは掛け布団。普通は布団カバーに入れて、汚れたらカバーをはずして洗濯するのだが、わが母上は違う。あごの当たる部分に、どこかでもらった安いタオルを縫い付けて、それでよしとする。一度縫い付けるわけだから、そうそう頻繁に取り替えるわけにもいかず、タオルが真っ黒になるまでそのままである。社会人になるまで、それはそういうものだと思っていた。しかし、何かの機会に、世間はどうも違うらしいということを悟って、子供のころはずいぶんとひどい生活を送っていたものだと、驚いたことがある。
  そんなわけだから、冷蔵庫や押入れは恐ろしいことになっている。その恐ろしい離れの中に妹は土足で上がりこみ、不要と思われるものを段ボールにばかすか詰め込み、私がそれを受け取って、畑でばかすか燃やすという段取りなのである。
  立ち上る炎の中に次々と不要物を投げ込んでいたが、ときどき思いがけないものが出てきて投げ込むのをためらう。妹を出産するときの母上の日記や、新婚まもないころの、私を出産する際の母親の「自由日記」帳、ずぼらなわりになぜかこれだけは几帳面にためこんでいた昭和30年代からの家計簿、そしておどろくべきことに私が小学1年生のときに書いた絵日記や、小学2年生のときに入院した際にいろいろと書き込んでいたノートなどが出てくるのである。これらはさすがに炎の中に投入するのがためらわれ、キープしておく。
  しかし、キープいておいてどうするのか、と自問自答する。自分が死ねば、だれもこんなものをほしがりはしないだろう。そんなものを保存しておいてどうするのか、と。しかし、すぐに思い直す。自分が死ねば、自分ではない誰かが、何かの機会に、同じように炎の中に投げ込んでくれるだろうと。それまでは、とっておけばいいのではないかと。
  結局、人が死ぬということは、その肉体が焼失させられるだけではなく、その人が大事にとっておいたノートや思い出の品もともに焼かれるということなのである。そして、その人を知る人、その人のことを記憶にとどめる人たちが順番にこの世から退出していって、次第にその人の記憶もこの世から消えうせ、最後にはその人が本当にこの世に存在したのかどうかさえ分からなくなる。はかないとえばこれほどはかないこともない。
  などということを、大きな炎を見つめながら、ときに眉毛を焦がしそうになりながら、ぼんやりと考える、2008年の師走なのであった。

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2008年12月28日 (日)

竹内まりあを死ぬほど聞く

 朝7時に起床。風呂に入って目を覚まし、すぐに車に乗り込み、いざ東名へ! だったんだが、ふとナビを見ると、全然瀬田方向を指さず、調布方向へ行け、と指示している。うん? こいつは馬鹿なのかな、あるいはすごくいいルートを発見したのかな・・・・。よーし、ここはひとつ、ナビ君の言う事を聞いてみよう。いつも会社でも「人の言うことを聞かない、まったく聞く気がない」と各方面からご批判が相次いでいるし、と殊勝な気持ちでナビ君の言葉に従ったのだが・・・・。

 SONYのクソ馬鹿ナビは、なんとおいらを中央道に乗せようとしたのであった。東明に行きたい、と言っているのに。なんだか思いっきり間違っているのではないかい? と気がついたのは調布から中央道に乗った後なのであった・・・・。

  あわてて降りて、甲州街道から環八に入って東名へ。すでに45分ほど経過してしまっている。まったく幸先の悪いことこの上ない。だが、道路はガラスキであった。ぎゅうぎゅうかと思っていたのだが、普段よりもずっとすいている。

  途中、浜名湖のPAで青空の下陽光をきらめかせる浜名湖を眺めてから、うな重を食べる。そのあと、ソフトクリームが食べたくなったので、売店で買って、震えながら車に戻り、なめなめしつつ運転。運転中は、竹内マリアの3枚組ベストアルバムをぐるぐるグルグル何回も聞き倒す。山下達郎だってこんなに集中して聞いたことはないだろう、というほど聞く。大音量で聞く。頭がおかしくなるほど聞く。竹内さんは切ない女心をこんなに何曲も歌っていたのかと再認識。

  そのことについては、またあらためて書くことにしよう。なにしろ8時間一人で運転しっぱなしでぐったり疲れちゃったので。

  和歌山の山中は寒い。しんしんと冷えてくる。山に囲まれていて日照時間が極端に少ないせいだろう。東京は暖かくていいな、ほんとに。

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2008年12月27日 (土)

さーてと、師走の東名に突入だ!

 さて、冬休みに突入。


  私は、なんとあと数時間後の12月28日午前6時に、わがアウディに乗り込んで、700キロかなたの我が故郷、和歌山に向かう。帰省者でぎゅうぎゅうの東名に、あえて突入するのである。米国の浮沈空母に体当たりするような気分である。まあ、あんまり込んでたら、途中で脱落。適当な土地の適当なホテルで休養しちゃうもんね、という気楽さであるけれど。

  今回の帰省には、PCを持参。パナソニックのかなりレベルの高いやつに、昨日買ったデータ通信用の携帯をくっつけて、いきなりリッチなIT生活である。ブログも毎日更新できるかもしれない。おもちを食べ過ぎなければ。

  というわけで、行ってきまーす。

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2008年12月20日 (土)

「昭和の感傷」とは何か?

  久世光彦氏の「マイ・ラスト・ソング」は、「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、中野翠さんは氏を追悼する文章の中で書いている。また、「私たちは『マイ・ラスト・ソング』シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった」とも記している。

  では、「昭和の感傷」とはいったい何なのだろうか? 「平成の感傷」でもなく「大正の感傷」でもない、「昭和に固有の感傷」とはいったいどういうものなのだろう。私は昭和に生まれ、昭和時代に青年期を過ごしたが、久世氏が14年間もかけて、かけがえのないものとして書き残さねば死んでも死に切れぬと思った「昭和の感傷」の直接の担い手であったかというと、ちょっと違う気がする。もちろん、理解はできる。読んでいて涙ぐみそうにもなる。しかし、その感傷を自らの胸のうちに抱きこんで孵化させ、血を吐くように表白する、当の「昭和人」であるかというと、すこし違うように思う。

  久世氏は昭和10年の生まれで、私はそのほぼ20年後に誕生している。ともに昭和生まれで、思春期を昭和の時代に過ごしてはいるけれど、その20年の間には大きな懸隔がある。それはつまりこういうことでないのかと思う。

  阿久悠氏が、やはり久世氏を偲ぶ文章の中で、

<久世光彦が死んだ。それは得がたい人を失ったということより、もっともっと切実な、僕の中の貴重な証人に突然去られた思いで、ぼくもまた一部死んだのである。>(「マイ・ラスト・ソング  最終章」文藝春秋 P186)

  と書き出して、「貴重な証人」について実に興味深いことを述べている。これを読むと、「昭和の感傷」とは、このような「昭和人」によって初めて抱かれる「哀切な独特の感懐」なのではないかと思われてくる。引用が長くなる。

<そう、久世光彦は最大の証人だった。ぼくもまた、彼の証人だった。
  昭和20年8月15日を八歳とか九歳とかで迎えた少年は、滅びるでもなく、生まれるでもなく奇妙な間の世代で、お互い同士でしか理解し難い特異性を持っていて、それを何らかのアイデンティティとするには、相互証人の立場を取るしかなかった。
  久世光彦から、あんたは証人だと言われたことはなかったが、言われなくてもわかった。なぜなら、ぼくは証人を探してこの仕事の世界へ入って来たのであるから、雑踏の中で宇宙人が宇宙人を認識するように、霊能的にわかったのである。
  8歳、9歳、いや10歳、そのあたりで歴史の活断層を跨いだ少年は、少年ではあるが子供ではなかった。子供をスキップしてかなり皮肉な面もある大人になり、それからの数年間は子供を演じて抹殺を免れた。
  信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる。>

  この文章を読むと、敗戦のその時を、8歳、9歳、10歳で迎えた昭和人こそが、久世氏が書き留めようとした「昭和の感傷」の担い手なのではないかという気がしてくる。終戦時に20歳であった人間は確かに生年で考えれば昭和人であるが、敗戦という「歴史の活断層」を、大人の眼差しで見つめ跨ぐことができたはずである。しかし、8歳、9歳の少年は違う。

  すこし想像力を働かせれば分かるはずだが、彼らは、生まれて後、物心ついたときから、「天皇陛下の赤子として、お国のために死ね」と教えられて育ったのである。親からも教師からも、世間の多くの人たちからも「国のために殉ぜよ」という滅私の精神を説諭されて育った世代である。そんな無茶なと、拒否する心さえ彼らには芽生える余裕はない。なにしろ、人として生まれ落ち、言葉を理解するようになったその時には、すでに熾烈な戦いが戦われ、隣近所の何人かは死に、またこれから死地に赴こうとする人びとがいる中で、「お前たちもお国のために尽くすんだよ」と言われて育てば、それを当たり前のこととして受けとめる以外に術はなかっただろう。

  「お国のために死ね」と説いた年長の人々には、自分たちが無体なことを言っている、という意識はあっただろう。そんなスローガンを必要としない世の中を生きた経験が彼らにはあり、たまたま生きる方途としてのっぴきならず国家主義、軍国主義を選び取ったという意識があったはずだからだ。だから彼らは日本の敗戦を一人の大人として冷静に、相対化して受けとめることができたはずだが、多くの久世少年たちは違った。彼ら少年にとって「歴史の活断層」を跨ぐことは、身を引きちぎられるような苦痛に満ちた精神的経験であったに違いない。なにしろ、昨日までは「お国のために死ね」と言われ、今日からは「今までは間違っていた。新しい国を建設するために強く生きろ」と言われるのだから。本当はどっちなんだ? 何が正しくて何が間違っているんだ? 大人が言っていることを信じていいのか?

  だからこそ、「信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる」しかなかったのだと阿久氏は書くのだろう。考えてみれば、悲しい悲しい世代である。

    信じるべきなにものももたず、頼るものは自らしかない。幼少年期に受けた心の傷はトラウマとなって生涯彼らの心に傷痕を残し続けた。焼きゴテでジュッと捺されたような傷痕は、おなじ傷痕を持つ者を、すぐに見つけだしただろう。だから彼らは自分たちしか理解できない屈折を、お互い同士で、証人として証言するしかないのである。

    内田樹氏は、新著「昭和のエートス」(バジリコ)の中で、こう書いている。

<私が「昭和人」に数え入れるのは「断絶以前」の自分と「断絶以後」の自分との不整合を個人的な葛藤として苦しんだ人々である。>(P16)

  そして「昭和人」の一人として養老孟司氏を挙げる。

<養老孟司は1937年生まれで、敗戦の年にはまだ8歳であるが、早熟の少年にとっては「断絶」の衝撃は十分すぎるものであった。養老はそのことの意味について著書の中で何度か触れている。(・・・・・・・)
  養老は「だまされた」半身を断絶以前に残している。それは切り捨てることのできぬものとして戦後も尻尾のようについて回る。だから、養老たちの世代の葛藤は「もう、二度とだまされない」ということがつねに、どのような局面でも優先的に配慮されるという徴候を示すのである。>(P17)

  また典型的な「昭和人」として、もう一人吉本隆明氏の名を挙げる。

<彼を転向論に導いたのは、「敗戦経験」が彼にもたらした「気狂いじみた執念」である。吉本はそう書いている。にぎやかに戦後民主主義をことほぐ進歩的知識人とは違って、彼は彼の少年期の揺籃であった日本の封建制を簡単には否定できない自分を感じていた。断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られているというこの感覚こそがおそらく「昭和人」に共通する実感なのである。>(P21)
  
  そのような「昭和人」として久世光彦氏を見つめると、氏が綴った「昭和の感傷」はもうすこしその姿が鮮明になる。

  「断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られている」がゆえに、いくら断絶後にその非道さを説諭されても、「封建的・軍国主義的日本」への得もいえぬ傾斜、懐かしい親和感を抱いてしまう自分がいる。抱いてしまうが、それは否定されるべき心性であると断絶後の自分は頭では理解するものの、だからといって、戦後ののっぺりとした明るさは到底許容することのできるものではない。

    戻る場所もなく、行くべき場所もない。この宙ぶらりんな寄る辺なき心持ちから生まれる悲しみこそが、久世光彦が書き遺そうとした「昭和の感傷」なのではないだろうか。

  しかし、そのような「昭和人」も次々と世を去り、「昭和の感傷」自体も世の中に理解されにくくなり始めている。いずれ、この複雑な「感傷」も理解されなくなり、世の中から静かに、消えてなくなるだろう。

    だけれども、私は書き残しておきたいと思う。そんな感傷にすがりつくようにして生きていた年上の昭和人たちがこぼした涙や、うつむきがちに消えていく後ろ姿を、確かにこの目で見、とても強く心を動かされたということを。

  

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2008年12月17日 (水)

ギックリ腰!

  もろもろ仕事が立て込んでしまって、「昭和の感傷」なんてそっちのけ。身体がもう一つほしいほどになってきた。13日の土曜日には嵐山CCで「ゴルフ馬鹿の会」の忘年ラウンド。ラウンド後、馬鹿の会会長に選出され、馬鹿の馬鹿たるゆえんを会員諸氏にご披露し、かつ会名を、このままでは嵐山の2階の個室に看板も出せないので、「馬と鹿 プレーイング・ゴルフ アホ会な」と改変する。略してUSPGAである。

  それはいいけれど、スタート前にドライビングレンジで練習したときに腰を痛め、まっすぐに立てなくなってしまった。痛いのである。かがめもしないしねじりもできない。痛みに顔をゆがめながら18ホールを回ったのがいけなかったに違いない。帰りには車の乗り降りに難渋するほどに。翌14日もコンペである。しかも幹事である。これは大変なことになった、とシップを貼って早く寝る。

  眼が覚めたら全快してたらいいなあ、と思って眠ったのだが、14日5時半、目が醒めたけれど腰が痛い! ベッドから起き上がるのも難儀である。風呂に入って身体を温め、いたたたたと呻きながら車に乗り込み五日市CCへ。東海林さだおさんを中心とした「多ン摩会」なる年に一度のコンペである。冷たい雨が降っている。困ったなあ、幹事だし、自分の性格からして、はってでもラウンドしちゃうだろうし、そうなったらしばらく寝込むことになるだろうなあ、と腰をさすりながら泣きそうになっていたら、東海林さんから「今日は中止しよう」の一声。みなさんには悪いが、良かったー、と思う。
  メンバーの一人でもある社長に「すいません、私の日ごろの行いが悪くてこんな雨になってしまいました」と頭をさげると、「そうだ、お前が悪い!」と一喝される。そ、そんな・・・・・。

  また泣きそうになりながら車に乗り込み、ニューオータニホテルまで車を飛ばして、朝飯を食う。まだ9時である。テーブルに座ってトーストをかじっていると、ウェイトレスがやってきて、コーヒーをもう一杯いかが? と英語で尋ねてくる。いったい、おいらは何人に見られているんだろうか? 以前、夏にサングラスをかけていたときには「香港のエロ按摩師」と言われたことがる。そういえば、79年に初めてニューヨークに行ってタクシーに乗ったときに、運転手から「スパニッシュ?」と聞かれたことがあった。おいらのどこがスパニッシュやねん?

   15日月曜日。まだ腰は痛いがまっすぐ歩けるようにはなってきた。夜は中村奈央子さんと、桜新町の「しんとみ」で会食。中村さんもぎっくり腰から癒えたばかりで、いかに大変だったかを聞かせてくれる。海外旅行から帰って家でガラゴロとうがいをしていたところにガツンと来てしまって、あとは激痛。歩くこともできず、いざることしかできなかったとか。ベッドに寝るために妹さんに抱きかかえられたとたんに激痛で失神。気を失ってしまったという。「あんまり痛いと気を失っちゃうんだよねー。おかしくて笑っちゃったけど」。

   16日火曜日は、すこし和らいだので、なんとかしのぐ。

   で、本日水曜日、西荻北のカイロプラテッィクでバキボキしてもらい、キネシロテープを背中にべたべた貼ってもらう。ずいぶんと楽になる。先生はぐいぐいと私の身体を捻りながら、バキボキいわせて「うん、これで入った・・・」と一人ごちる。ほんとにそんなことで入るのかあ? と疑っていたが、帰り道は軽快である。西荻窪駅南口側にあるラーメン屋「はつね」でラーメンを食べる。20代の頃から食べている。先代はもう亡くなったのか、今は若い主人が一人で作っている。昔はちくわが入っていたが、今日はかまぼこだった。

  この間に、池田清彦氏と養老孟司氏の共著「正義で地球は救えない」(新潮社)を読んでいたのだが、常々思っていたことが明瞭な言葉になって書かれていたので、膝を打つ。「生物の多様性を保全しよう」という運動がある。絶滅しそうな種を保護しようというのもその運動の一環である。しかし、つねづね、私は浜口庫之助が歌うように「命に限りがある、恋にも終わりがある」と信じているので、「絶滅するものは絶滅する」のであって、それを先延ばしにしてもしょうがないだろう、と思っている。人類だって早晩絶滅する。鯨だって絶滅する。犬だって絶滅する。あなたが大好きな猫だって絶滅する。泣いても叫んでも絶滅するものは絶滅する。

  それが耐えられない、というのは単なるセンチメンタリズムではないのか、と思っていたのでだが、学者の言葉で異議を呈してくれているので溜飲が下がった。

  また、この本の中で養老氏がこんな発言をしている。

<いいかげんに、無意味な欧米スタンダードを踏襲するのはやめてほしい。僕は、生まれた時代が古いせいか、そういうのは植民地主義だというふうに、どうしても思ってしまうんですよ。自分たちのライフスタイルや価値のスタンダードをよその国の文化に押しつけるという傾向が、反捕鯨にせよ禁煙にせよ環境問題にせよ、とくにアングロサクソンがやることの根底には強くあるよね>(同書 P120)

  とりわけ、アメリカのあの押し付けがましさはいったいどこからやってくるんだろう、と思っていたのだが、誰しも思うことは同じなのだなあと思う。「アメリカの押し付けがましさ」の核とも言えるのがアメリカの「ランド」という研究所なのだということを、「ランド 世界を支配した研究所」(アレックス・アベラ著 文藝春秋)を読んで知った。そんな研究所があることさえ知らなかったが、原書は「SOLDIERS  OF  REASON  the  RAND CORPORATION and the rise of the American empire」。「合理性の兵士たち  ランド研究所とアメリカ帝国の勃興」という感じかな。とにかくこの研究所には、全米から選りすぐりの頭のいい連中が佃煮にできるほど集まっている研究所で、ノーベル賞受賞者を輩出しまくっている。

  いったいどんな研究所なのか、一言で説明するのはかなり難しいが、同書から引用するとこんなことになる。

<1950年代と1960年代、さらに1980年代にも、アメリカは国家安全保障法に裏付けされた国防体制を確立した。そこで大きな役割を果たした組織は多数あるが、その中でもランドは抜きん出た存在だ。17世紀のイエズス会のように、ランダイト(ランドの研究者や出身者の総称)はある種の信仰を信じる兵士となったのだ。もちろん、その信仰はキリスト教会のものではなく、いわば「合理性教会(チャーチ・オブ・リーズン)」のものだ。ランダイトとその支持者は権力の廊下を渡り歩き、宣教師のようにワシントンをはじめ世界主要国の首都で「ランド信仰」の布教に努めたのである。
  ランド信仰では、人間は物質的利益という意味での合理性に基づいて行動する合理的な存在だ。自己の利益に結びつかないものはなんでも非合理であり、それが宗教であり、愛国心であれ、どんな種類の利他主義であれ、避けなければならない。また、ランド信仰には、どのような歴史の教訓があろうが、人間の行うことはすべて分類できて、計測できて、配分できるという信念がある。この物質主義は、特定の政治家や企業の利益になるような政策を打ち出す際の道具として使うことができる。
  要するに、マルクス主義者が歴史から決定論を見いだしたように、ランド信者は数値至上の世界観に決定論を見いだしているのだ。このようにして、客観的な合理性といわれるランド信仰を発展させ、国家安全保障政策を決定する支配階級にとっての武器へと変貌させたのだ。>(P13-14)

  そのような方々が押し付けがましくないわけがない。しかし、この研究所のスタッフは数々の社会理論を構築してきてもいる。いわく「ゼロサムゲーム」「囚人のジレンマ」「システム分析」「終末兵器」「フェイルセーフ」・・・・・。

  あ、もう行かなきゃ。またしても「昭和の感傷」はお預けだ。早く書かないと忘れちゃう。気持ちが悪い・・・・。

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2008年12月11日 (木)

トンカツ屋で受難

 「昭和の感傷」からちょっとはずれて、番外編。

  昨日、銀座・数寄屋橋にあるビルの地下にあるトンカツ屋に入った。ある人に、「みんな知らないけど、あそこはおいしいよ」と教えられたからである。午前11時10分、誰もいない店にふらりと入ってランチのとんかつを注文。ごはん、豚汁、漬物、とんかつが出てきた。「豚汁、お熱いのでご注意下さい」。そうか、表面に油が浮いていて無茶苦茶熱くなってるんだろうな、と思いながらフーフーしてそーっとすすったら、「ぬるーーーーーー!」。なんだよー、冷たいじゃないかよー、浮いてるお揚げさんなんか、こりゃ生じゃねえかよー。当然、ぬるいと突っ返したところ、カウンターの中にいる料理人が「え、ぬるい?」と言いつつ右手の人差し指を鍋の中に突っ込んで、温度を確認している。あちゃー、えらいとこに入っちゃったなあ、と思いつつとんかつをがりがり食っていたら、調理場のその若いのが、ステンレスの机の上に積み重ねられた皿をためつすがめつしながら、「おっかしいなー」と言うと、老眼鏡をかけて豚肉をとんとん叩いている年かさの男を手招きで呼び寄せると、「えらい、皿が汚いんだよ。これ、アレじゃねえか?」と小声でささやく。ひそひそ声だけど、そういうものにおいらはいたく敏感なんだよ。聴き取っちゃうんだよ。普段はよく聞こえない耳なんだけど。「え? アレか? どれどれ・・・・・。うーーん、まずいなあ・・・・」と年かさのオヤジ。「汚れてるよ、ほら」。
こそこそした動作と声が、ひどく気になるんですけど・・・・。アレって、ひょっとしてアレのことか? と思いつつ、とんかつを食べる意欲が急速に減退していく。アレって、お前、ねずみのことだろ。夜中にねずみちゃんが駆けずり回って、皿の上でうんこでもしっちゃったんじゃないのか。それとも、ねずみちゃんのよだれでもついてんのか? まずいとこ、入っちゃたなあ、と再び思いつつ、できるだけお皿に直接接していないキャベツやとんかつの衣の中の豚肉を選び食いし、ごはんもどんぶりに直接接していないごはんのみをおそるそおる食べる。若い調理人は汚れた皿を洗う風でもなく、手でしゅっしゅっとぬぐうや、元に戻して知らぬ顔である。全く、とんでもないトンカツ屋に入っちゃった。冗談じゃねーよ、このやろー。

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2008年12月 9日 (火)

浜田真理子さんのコンサートへ

  年末であるからして、どうしても忘年会のようなものが増える。今夜も、築地の布恒更科で一席設け、呑めもしない日本酒を呑んだものだから、はっきり言って、ヘロヘロである。ヘロヘロのまま、会社に戻り、机のPCを起動させ、うつらうつらしながら文章を書いている。なぜそうまでしてPCに向かっているかというと、そうでもしないとブログの更新が覚束ないからである。

  では、なぜ、そうまでしてブログを更新しようとしているのかと言えば、ひとつには書きたいことがあるから、そしてもうひとつは、見ず知らずの方だけれど、頻繁にのぞきに来てくださっている方がいるということが、「生ログ」のチェックで分かってしまうからである。こんなどこの馬の骨だかわからないオッサンが書いているブログを、わざわざ読みに来てくれる人がいるという事実に、たまらなく恐懼してしまうのである。

  酔っ払いは前置きが長い。


   12月6日の土曜日、横浜の神奈川県民ホールへ、浜田真理子さんのコンサートを聴きに出かけた。タイトルは「花鳥風月 ~波止場にて~」。浜田さんにとっては今年の掉尾を飾るソロ・コンサートであるという。先日書いたけれど、世田谷で開かれた浜田さんのコンサート「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」を仕事の都合で聴き逃しているので、そのよすがをひょっとすると味わえるかもしれないと思い車を飛ばして出かけたのである。

   いいコンサートだった。特に「マイ・ラスト・ソングを歌う」で歌われた「哀しみのソレアード」は背筋の毛が総立ちになるほどに素晴らしいものだった。まだ、CDには一度も収録されていないが、この哀しみのメロディが浜田さんの歌声に乗ると、筆舌に尽くしがたく哀切である。もう死んでもいいや、という気にさせられる。

   分かったことが一つある。浜田さんの歌はそのどれをとっても、歌い出す前に「何事かがすでに終わってしまっている」のである。恋であれ、夢であれ、人生の希望であれ、歌の最初の第一声を発する前に、どういう理由でかもう断ち切られてしまっているのである。断念。諦念。絶望。悲嘆・・・。そのすべてが入り混じった感情が第一声に重く閉じ込められている。閉じ込めながら、悲しみの淵にある魂を鎮めようとする声のように思える。と、いくら書いても、浜田さんの「清冽な絶望」の歌声の醍醐味はなかなか分かってもらえるものではないだろう。

   その「清冽な絶望」の歌声の主が、久世光彦の「マイ・ラスト・ソング」に痛く感応して、小泉今日子さんと一緒になってコンサートを開いたことが私には、とても興味深い。久世さんの「マイ・ラスト・ソング」は「昭和のさまざまな感傷」を描くと前項で書いたけれど、なぜ、浜田さんが久世さんが描く「昭和の感傷」に感じ入ったのかはなんとなく分かる気がする。「昭和の感傷」も、もはや終わろうとしているからである。久世さんが目を潤ませながら書き留めようとした「昭和の感傷」を、まるで自身の傷跡をなぞるようにして「受けとめる」人が早晩、いなくなろうとしているからである。

   久世さんが書き留めようとした「昭和の感傷」とはこのようなものであった。

<惚れて  惚れて
 惚れていながら  行くおれに
 旅をせかせる  ベルの音
 つらいホームに  来は来たが
 未練心に  つまずいて
 落とす涙の  哀愁列車

 三橋美智也の「哀愁列車」がヒットしたのは、(・・・・・・)昭和31年だが、そのころの汽車は、たとえばいまの新幹線に比べれば、歩いているみたいに遅かった。私がその2年前に、疎開先の富山から大学受験のために上京したとき、むろん鈍行ではあったが、富山から上野まで12時間もかかったものだ。夜中に何度も目が覚めて、その度にデッキに出て夜風に当たる。遠い民家の灯が瞬きしているように光っては消え、それはあの「雪国」の冒頭の文章そっくりの夜景だった。ときどき寒村の玩具みたいな駅に停車して、長いこと動かないことがある。北陸線にはそのころまだ複線になっていないところがあって、向こうからくる汽車を待っているのだ。3月の夜寒の中に汽車の蒸気が白々とホームに流れ、年とった駅員の掲げるカンテラが滲んでゆれていた。
  もうあんな寂しい情景を見ることはないだろう。

 燃えて  燃えて
 燃えて過ごした  湯の宿に
 うしろ髪ひく  灯がひとつ
 今宵逢瀬を  待ちわびる
 君の幸せ  祈りつつ
 旅にのがれる  哀愁列車

(・・・・・・)三橋美智也の高く張った声は、遠ざかる汽笛に似ていた。闇に消えてゆく赤いテールランプを追いかける、女の悲鳴にも聞こえた。私はそのころ、まだ20歳そこそこだったが、どうしてか「哀愁列車」や「おさらば東京」の草臥れた横顔の男の心情が見に沁みた。(・・・・・・)昭和30年代というのは、そういう時代だったのだと思う。

 泣いて  泣いて
 泣いているのを  知らぬげに
 窓は二人を  遠くする
 堪えきれずに  見返れば
 すがるせつない  瞳のような
 星がとぶとぶ  哀愁列車

「すがるせつない  瞳のような」というフレーズに痺れた。名文句である。「縋る」にしても、「切ない」にしても、日本語にしかない絶妙のニュアンスを持った言葉である。(・・・・)こうした言葉が歌の中に生きていたのも、昭和30年代までだった。39年の東京オリンピックを境に、歌の「文句」は「歌詞」になり、そのフレーズは目に見えて翻訳調になっていった。(・・・・)
  あと半世紀もすれば、「汽車」という言葉はほとんど死語になってしまうだろう。いまだって「汽船」とは誰も言わない。煙を吐いて汽車が走る風景をイメージできる人がいなくなれば、「いまは山中 いまは浜」や「汽笛一声新橋を」などと歌うこともなくなってしまい、男と女の別れだって、喫茶店の片隅や、空港の出発ロビーばかりで、「縋る」女も「切ない」男の後ろ姿もーー歌の中から消えてしまうだけである。

 やりきれないよ
 胸にやきつく  あの瞳
 この世に生まれて  ただ一度
 真実惚れた  夜も夢
 あばよ東京  おさらばだ>

  書き写すために久世さんの本をぱらぱらと読み返していたが、何度読んでも心がしんとする。

  昨日の深夜、ベッドの中でTV番組制作会社のテレビマンユニオンのリーフレットを読んでいたら、今野勉氏が、亡くなった吉田直哉さんの言葉としてこんな言葉を記していた。

「私が死ぬと、私のなかで私と共に生きてきた、何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ」

「何人」を「何曲」と、「人びと」を「歌」と置き換えると、久世さんが哀切な思いで、14年間もかけて「昭和の感傷」を書き残そうとした気持ちがすこし分かる気がする。

  何回読んでも、私は「マイ・ラスト・ソング」に涙する。

  (この項はまだまだ続く)

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