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2008年12月20日 (土)

「昭和の感傷」とは何か?

  久世光彦氏の「マイ・ラスト・ソング」は、「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、中野翠さんは氏を追悼する文章の中で書いている。また、「私たちは『マイ・ラスト・ソング』シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった」とも記している。

  では、「昭和の感傷」とはいったい何なのだろうか? 「平成の感傷」でもなく「大正の感傷」でもない、「昭和に固有の感傷」とはいったいどういうものなのだろう。私は昭和に生まれ、昭和時代に青年期を過ごしたが、久世氏が14年間もかけて、かけがえのないものとして書き残さねば死んでも死に切れぬと思った「昭和の感傷」の直接の担い手であったかというと、ちょっと違う気がする。もちろん、理解はできる。読んでいて涙ぐみそうにもなる。しかし、その感傷を自らの胸のうちに抱きこんで孵化させ、血を吐くように表白する、当の「昭和人」であるかというと、すこし違うように思う。

  久世氏は昭和10年の生まれで、私はそのほぼ20年後に誕生している。ともに昭和生まれで、思春期を昭和の時代に過ごしてはいるけれど、その20年の間には大きな懸隔がある。それはつまりこういうことでないのかと思う。

  阿久悠氏が、やはり久世氏を偲ぶ文章の中で、

<久世光彦が死んだ。それは得がたい人を失ったということより、もっともっと切実な、僕の中の貴重な証人に突然去られた思いで、ぼくもまた一部死んだのである。>(「マイ・ラスト・ソング  最終章」文藝春秋 P186)

  と書き出して、「貴重な証人」について実に興味深いことを述べている。これを読むと、「昭和の感傷」とは、このような「昭和人」によって初めて抱かれる「哀切な独特の感懐」なのではないかと思われてくる。引用が長くなる。

<そう、久世光彦は最大の証人だった。ぼくもまた、彼の証人だった。
  昭和20年8月15日を八歳とか九歳とかで迎えた少年は、滅びるでもなく、生まれるでもなく奇妙な間の世代で、お互い同士でしか理解し難い特異性を持っていて、それを何らかのアイデンティティとするには、相互証人の立場を取るしかなかった。
  久世光彦から、あんたは証人だと言われたことはなかったが、言われなくてもわかった。なぜなら、ぼくは証人を探してこの仕事の世界へ入って来たのであるから、雑踏の中で宇宙人が宇宙人を認識するように、霊能的にわかったのである。
  8歳、9歳、いや10歳、そのあたりで歴史の活断層を跨いだ少年は、少年ではあるが子供ではなかった。子供をスキップしてかなり皮肉な面もある大人になり、それからの数年間は子供を演じて抹殺を免れた。
  信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる。>

  この文章を読むと、敗戦のその時を、8歳、9歳、10歳で迎えた昭和人こそが、久世氏が書き留めようとした「昭和の感傷」の担い手なのではないかという気がしてくる。終戦時に20歳であった人間は確かに生年で考えれば昭和人であるが、敗戦という「歴史の活断層」を、大人の眼差しで見つめ跨ぐことができたはずである。しかし、8歳、9歳の少年は違う。

  すこし想像力を働かせれば分かるはずだが、彼らは、生まれて後、物心ついたときから、「天皇陛下の赤子として、お国のために死ね」と教えられて育ったのである。親からも教師からも、世間の多くの人たちからも「国のために殉ぜよ」という滅私の精神を説諭されて育った世代である。そんな無茶なと、拒否する心さえ彼らには芽生える余裕はない。なにしろ、人として生まれ落ち、言葉を理解するようになったその時には、すでに熾烈な戦いが戦われ、隣近所の何人かは死に、またこれから死地に赴こうとする人びとがいる中で、「お前たちもお国のために尽くすんだよ」と言われて育てば、それを当たり前のこととして受けとめる以外に術はなかっただろう。

  「お国のために死ね」と説いた年長の人々には、自分たちが無体なことを言っている、という意識はあっただろう。そんなスローガンを必要としない世の中を生きた経験が彼らにはあり、たまたま生きる方途としてのっぴきならず国家主義、軍国主義を選び取ったという意識があったはずだからだ。だから彼らは日本の敗戦を一人の大人として冷静に、相対化して受けとめることができたはずだが、多くの久世少年たちは違った。彼ら少年にとって「歴史の活断層」を跨ぐことは、身を引きちぎられるような苦痛に満ちた精神的経験であったに違いない。なにしろ、昨日までは「お国のために死ね」と言われ、今日からは「今までは間違っていた。新しい国を建設するために強く生きろ」と言われるのだから。本当はどっちなんだ? 何が正しくて何が間違っているんだ? 大人が言っていることを信じていいのか?

  だからこそ、「信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる」しかなかったのだと阿久氏は書くのだろう。考えてみれば、悲しい悲しい世代である。

    信じるべきなにものももたず、頼るものは自らしかない。幼少年期に受けた心の傷はトラウマとなって生涯彼らの心に傷痕を残し続けた。焼きゴテでジュッと捺されたような傷痕は、おなじ傷痕を持つ者を、すぐに見つけだしただろう。だから彼らは自分たちしか理解できない屈折を、お互い同士で、証人として証言するしかないのである。

    内田樹氏は、新著「昭和のエートス」(バジリコ)の中で、こう書いている。

<私が「昭和人」に数え入れるのは「断絶以前」の自分と「断絶以後」の自分との不整合を個人的な葛藤として苦しんだ人々である。>(P16)

  そして「昭和人」の一人として養老孟司氏を挙げる。

<養老孟司は1937年生まれで、敗戦の年にはまだ8歳であるが、早熟の少年にとっては「断絶」の衝撃は十分すぎるものであった。養老はそのことの意味について著書の中で何度か触れている。(・・・・・・・)
  養老は「だまされた」半身を断絶以前に残している。それは切り捨てることのできぬものとして戦後も尻尾のようについて回る。だから、養老たちの世代の葛藤は「もう、二度とだまされない」ということがつねに、どのような局面でも優先的に配慮されるという徴候を示すのである。>(P17)

  また典型的な「昭和人」として、もう一人吉本隆明氏の名を挙げる。

<彼を転向論に導いたのは、「敗戦経験」が彼にもたらした「気狂いじみた執念」である。吉本はそう書いている。にぎやかに戦後民主主義をことほぐ進歩的知識人とは違って、彼は彼の少年期の揺籃であった日本の封建制を簡単には否定できない自分を感じていた。断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られているというこの感覚こそがおそらく「昭和人」に共通する実感なのである。>(P21)
  
  そのような「昭和人」として久世光彦氏を見つめると、氏が綴った「昭和の感傷」はもうすこしその姿が鮮明になる。

  「断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られている」がゆえに、いくら断絶後にその非道さを説諭されても、「封建的・軍国主義的日本」への得もいえぬ傾斜、懐かしい親和感を抱いてしまう自分がいる。抱いてしまうが、それは否定されるべき心性であると断絶後の自分は頭では理解するものの、だからといって、戦後ののっぺりとした明るさは到底許容することのできるものではない。

    戻る場所もなく、行くべき場所もない。この宙ぶらりんな寄る辺なき心持ちから生まれる悲しみこそが、久世光彦が書き遺そうとした「昭和の感傷」なのではないだろうか。

  しかし、そのような「昭和人」も次々と世を去り、「昭和の感傷」自体も世の中に理解されにくくなり始めている。いずれ、この複雑な「感傷」も理解されなくなり、世の中から静かに、消えてなくなるだろう。

    だけれども、私は書き残しておきたいと思う。そんな感傷にすがりつくようにして生きていた年上の昭和人たちがこぼした涙や、うつむきがちに消えていく後ろ姿を、確かにこの目で見、とても強く心を動かされたということを。

  

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