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2008年12月 9日 (火)

浜田真理子さんのコンサートへ

  年末であるからして、どうしても忘年会のようなものが増える。今夜も、築地の布恒更科で一席設け、呑めもしない日本酒を呑んだものだから、はっきり言って、ヘロヘロである。ヘロヘロのまま、会社に戻り、机のPCを起動させ、うつらうつらしながら文章を書いている。なぜそうまでしてPCに向かっているかというと、そうでもしないとブログの更新が覚束ないからである。

  では、なぜ、そうまでしてブログを更新しようとしているのかと言えば、ひとつには書きたいことがあるから、そしてもうひとつは、見ず知らずの方だけれど、頻繁にのぞきに来てくださっている方がいるということが、「生ログ」のチェックで分かってしまうからである。こんなどこの馬の骨だかわからないオッサンが書いているブログを、わざわざ読みに来てくれる人がいるという事実に、たまらなく恐懼してしまうのである。

  酔っ払いは前置きが長い。


   12月6日の土曜日、横浜の神奈川県民ホールへ、浜田真理子さんのコンサートを聴きに出かけた。タイトルは「花鳥風月 ~波止場にて~」。浜田さんにとっては今年の掉尾を飾るソロ・コンサートであるという。先日書いたけれど、世田谷で開かれた浜田さんのコンサート「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」を仕事の都合で聴き逃しているので、そのよすがをひょっとすると味わえるかもしれないと思い車を飛ばして出かけたのである。

   いいコンサートだった。特に「マイ・ラスト・ソングを歌う」で歌われた「哀しみのソレアード」は背筋の毛が総立ちになるほどに素晴らしいものだった。まだ、CDには一度も収録されていないが、この哀しみのメロディが浜田さんの歌声に乗ると、筆舌に尽くしがたく哀切である。もう死んでもいいや、という気にさせられる。

   分かったことが一つある。浜田さんの歌はそのどれをとっても、歌い出す前に「何事かがすでに終わってしまっている」のである。恋であれ、夢であれ、人生の希望であれ、歌の最初の第一声を発する前に、どういう理由でかもう断ち切られてしまっているのである。断念。諦念。絶望。悲嘆・・・。そのすべてが入り混じった感情が第一声に重く閉じ込められている。閉じ込めながら、悲しみの淵にある魂を鎮めようとする声のように思える。と、いくら書いても、浜田さんの「清冽な絶望」の歌声の醍醐味はなかなか分かってもらえるものではないだろう。

   その「清冽な絶望」の歌声の主が、久世光彦の「マイ・ラスト・ソング」に痛く感応して、小泉今日子さんと一緒になってコンサートを開いたことが私には、とても興味深い。久世さんの「マイ・ラスト・ソング」は「昭和のさまざまな感傷」を描くと前項で書いたけれど、なぜ、浜田さんが久世さんが描く「昭和の感傷」に感じ入ったのかはなんとなく分かる気がする。「昭和の感傷」も、もはや終わろうとしているからである。久世さんが目を潤ませながら書き留めようとした「昭和の感傷」を、まるで自身の傷跡をなぞるようにして「受けとめる」人が早晩、いなくなろうとしているからである。

   久世さんが書き留めようとした「昭和の感傷」とはこのようなものであった。

<惚れて  惚れて
 惚れていながら  行くおれに
 旅をせかせる  ベルの音
 つらいホームに  来は来たが
 未練心に  つまずいて
 落とす涙の  哀愁列車

 三橋美智也の「哀愁列車」がヒットしたのは、(・・・・・・)昭和31年だが、そのころの汽車は、たとえばいまの新幹線に比べれば、歩いているみたいに遅かった。私がその2年前に、疎開先の富山から大学受験のために上京したとき、むろん鈍行ではあったが、富山から上野まで12時間もかかったものだ。夜中に何度も目が覚めて、その度にデッキに出て夜風に当たる。遠い民家の灯が瞬きしているように光っては消え、それはあの「雪国」の冒頭の文章そっくりの夜景だった。ときどき寒村の玩具みたいな駅に停車して、長いこと動かないことがある。北陸線にはそのころまだ複線になっていないところがあって、向こうからくる汽車を待っているのだ。3月の夜寒の中に汽車の蒸気が白々とホームに流れ、年とった駅員の掲げるカンテラが滲んでゆれていた。
  もうあんな寂しい情景を見ることはないだろう。

 燃えて  燃えて
 燃えて過ごした  湯の宿に
 うしろ髪ひく  灯がひとつ
 今宵逢瀬を  待ちわびる
 君の幸せ  祈りつつ
 旅にのがれる  哀愁列車

(・・・・・・)三橋美智也の高く張った声は、遠ざかる汽笛に似ていた。闇に消えてゆく赤いテールランプを追いかける、女の悲鳴にも聞こえた。私はそのころ、まだ20歳そこそこだったが、どうしてか「哀愁列車」や「おさらば東京」の草臥れた横顔の男の心情が見に沁みた。(・・・・・・)昭和30年代というのは、そういう時代だったのだと思う。

 泣いて  泣いて
 泣いているのを  知らぬげに
 窓は二人を  遠くする
 堪えきれずに  見返れば
 すがるせつない  瞳のような
 星がとぶとぶ  哀愁列車

「すがるせつない  瞳のような」というフレーズに痺れた。名文句である。「縋る」にしても、「切ない」にしても、日本語にしかない絶妙のニュアンスを持った言葉である。(・・・・)こうした言葉が歌の中に生きていたのも、昭和30年代までだった。39年の東京オリンピックを境に、歌の「文句」は「歌詞」になり、そのフレーズは目に見えて翻訳調になっていった。(・・・・)
  あと半世紀もすれば、「汽車」という言葉はほとんど死語になってしまうだろう。いまだって「汽船」とは誰も言わない。煙を吐いて汽車が走る風景をイメージできる人がいなくなれば、「いまは山中 いまは浜」や「汽笛一声新橋を」などと歌うこともなくなってしまい、男と女の別れだって、喫茶店の片隅や、空港の出発ロビーばかりで、「縋る」女も「切ない」男の後ろ姿もーー歌の中から消えてしまうだけである。

 やりきれないよ
 胸にやきつく  あの瞳
 この世に生まれて  ただ一度
 真実惚れた  夜も夢
 あばよ東京  おさらばだ>

  書き写すために久世さんの本をぱらぱらと読み返していたが、何度読んでも心がしんとする。

  昨日の深夜、ベッドの中でTV番組制作会社のテレビマンユニオンのリーフレットを読んでいたら、今野勉氏が、亡くなった吉田直哉さんの言葉としてこんな言葉を記していた。

「私が死ぬと、私のなかで私と共に生きてきた、何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ」

「何人」を「何曲」と、「人びと」を「歌」と置き換えると、久世さんが哀切な思いで、14年間もかけて「昭和の感傷」を書き残そうとした気持ちがすこし分かる気がする。

  何回読んでも、私は「マイ・ラスト・ソング」に涙する。

  (この項はまだまだ続く)

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