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2009年1月

2009年1月30日 (金)

「アンダーワールド ビギンズ」の不可解

  雨がざんざか降る中、虎ノ門まで出かけて、映画「アンダーワールド ビギンズ」を観る。化け物同士の戦いの話である。最初から最後まで、狼男族と吸血鬼族の血で血を洗う争いの映像が続く。しかしどうしてこういう話が欧米の方々はお好きなんだろうか。そこのところがもうひとつよく分からない。

  日本で言えば一つ目小僧とロクロ首の戦い、みたいなもんだがそんなもの誰も観たくないもんね。

  特筆すべきは、吸血鬼族の頭を演じた、ビル・ナイの鬼気迫る演技。青い目をぎらつかせながら、英国アクセントで芝居がかったセリフを吐き出すように喋るのだが、異様な存在感があった。パンフレットを見ると、英国の舞台で活躍し大きな賞を受賞している模様。「スティル・クレイジー」と「ラブ・アクチュアリー」ではともにピーター・セラーズ賞を受賞。「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」では半分イカ、半分人間の役を演じてMTVムービー・アワードを受賞したというから、半端な人じゃないよ、この人は。

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2009年1月27日 (火)

ヒートテックと文庫本、あるいはジンガロ

●もう、花粉症をわずらってかれこれ30年になる。30年もずるずるしていると発見することもある。20年ほど経ってから分かったのだが、花粉症発症の初期段階には必ず口内炎ができる。とともに必ず便秘になる。今がそうである。口の中があっちこっち痛い。そしておなかがウン・・・・・・。もう少しすると、胃袋の中に綿を詰め込んだような感覚に見舞われる。1月頭からクラリチンという名の抗アレルギー薬をのんでいる。これを5月頃まで毎日のむのだが、ずいぶんと楽になった。

●朝風呂に必ず入るが、その時の読書が無上の喜びであるということはすでに書いた。昨日も1時間ほど、文庫の「福翁自伝」を楽しみながら読んだ。会社に着いて続きを読もうと思ったのだが、カバンの中に見あたらない。おかしいな、風呂場に忘れたのかな、と思った。夜家に帰ったら、机の上に紙ねんどのようなものが乗っかっていた。よく見ると、「福翁自伝」だった。水を含んで3倍くらいの大きさになっている。洗濯機で洗濯物と一緒に洗ってしまったようなのだ。脱水機で水分はかなり飛んでいるが、もはや本とは思えない。どうしたものか・・・・。大事なところにマークをつけていたのだが、ページもしっかりくっついて何が何やら分からなくなっている。

●もっと大変なのは洗濯物だった。真っ白な紙くずがすべての洗濯物について異様なことになっている。靴下やパンツについた白いくずをコロコロ(粘着テープをころがしてゴミを取るもの)で一生懸命とるが容易ではない。一番大変だったのは、ユニクロのヒートテック下着。しかも黒色。みなさんにお教えしたい。ユニクロのヒートテックと文庫本は絶対に一緒に洗わない方がいいです、はい。

●1月23日の金曜日の夜、木場にある東京現代美術館の公園で行われた「ジンガロ」を観にいく。「ジンガロ」というのはバルタバスという名の(カタログによると出生、本名不明と書かれている)おじさんが主宰する騎馬スペクタクル。公園に設置された会場の中央には直径15メートルほどの円形の土俵状のものがこしらえられ、馬が走り回りやすいように土が敷き詰められている。土俵の中央には天井から水が柱状のシャワーのように落ちている。今回の出し物のタイトルは「バトゥータ」といい、ジプシー(と言ってはいけないのかな最近は。ロマと呼ぶのが正しい呼称だろう)の音楽や衣装や民話(?)などにインスピレーションを得て作られたストーリーのようである。

ようである、というのは全くよく分からないのである。騎乗の技術の高さはよく理解できるのだが分かるのはそこまで。奪われた花嫁や、処女に馬乗りになる熊や、3つの乳房をもつ女や、馬車の中のバスタブなどが次々と登場するのだが、それが何を意味するのかが皆目分からない。だから、「物語」を読み取ることができない。「物語」を読みとれない、ということは極めて退屈なことだと分かった。

たとえば、カメにまたがった青年が釣竿を持っていたら、われわれはそこから浦島太郎をすぐに連想するが、多分ロマの人たちはそれを見ても何のことやら分からないだろう。同様のことがこのスペクタクルにも言えて、ロマの方たちにはすぐにピンとくることが、私たちにはちっとも分からない。よく分からないことに1時間半付き合うのはなかなかに厳しい。

そのあと、コンデナストジャパンの斉藤社長と月島に行って「一と八」でシャンパンを飲む。

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2009年1月25日 (日)

ビリケン

   会社勤めを始めてかれこれ30年以上になる。20歳のころから最寄り駅は四ツ谷で、界隈の飲食店や喫茶店や駐車場にはずいぶんとお世話になってきた。

  中には顔見知りになって親しく口をきくようになった人もいた。 しかし、30年も時が経つと、いつの間にか顔が見えなくなる人がいる。

  新宿通りを渡ったビルの地下には割烹料理店がある。20年ほど前、毎晩、会社でそば屋の出前ばかりを食べていた。それがつくづくいやになり、まっとうな晩御飯を食べたくなった私は考えた。その割烹料理屋は抜群にうまい。しかし、値段も抜群に高い。昼のランチはリーズナブルで旨い。なんとか、夜もランチが食えぬものか。

    104で料理屋の電話番号を調べて、ある日の夕方、電話をかけた。主人らしき人がでた。 「近所の会社に勤めるものだけど、毎晩そば屋の出前ばかりを食べていて、そんな食生活がつくづくいやになった。なんとかまともな晩御飯が食べたい。ご飯と味噌汁、漬物、お魚。それだけでいい。会社の先輩に聞いたところお宅のお魚はとてもおいしいと言う。そこでお願いなのだが、全然お酒は呑まない、ご飯を食べるだけだけど、お宅の店に行っていいだろうか?」「ああ、いいよ」

「もひとつお願いがあるんだが・・・。実は、お宅の食事をどうしても食べたい。おいしい魚をなんとか食べたい。しかし、私には十分な金がない。誠に申し訳ないのだが、お昼のランチの値段で食べさせてもらえないだろうか?」   

  私が常々口にしているモットーは「頼むのはタダ」というものである。ダメでもともと、頼むだけ頼んでみるという、なかばやけっぱちなモットーだが、いつでも誰に対してもこれだけは平気でできる。相手はなんと言って断ってくるんだろうか、という興味がむくむくとわいてくる。  

 この時は、店の主人は一瞬黙った。数秒、時間があった。怒鳴るかな、と受話器をきつく握りしめたが、 「わかった、来な」   主人は短くそう応えた。

  以来、その店には通いつめた。私だけ特別料金なので、大きな声で金額の話はできない。カウンターの端のレジのところで人に見られぬように急いで金を払う。で、いつの間にか、そのレジの横が私の常席となった。

   ある日主人の顔が見えなくなった。聞くと、脳溢血で倒れたと言う。それから数年して店は別の人が継ぐことになった。会えなくなる前に、一言お礼を言いたかったなと今になって思う。  

 会社の近所にある駐車場の管理人にも世話ないなった。が、すでに2人が亡くなった。今でも二人の顔や交わした話を思い出すことができる。  

 先日、髪が伸びたので、いつも行く半蔵門の床屋に予約の電話を入れた。電話に出た若い男の子の様子が変だった。「いないんですよ」「いないって?」「入院したんです」「入院?」「どこが悪いの?」「肺がんが見つかったんです・・・・」。  

 あわてて店に行き、経緯を聞いた。昨年末から主人の咳が変だったという。いつまでも治らないから病院に検査に行ったところ、5センチの肺がんが見つかったという。有明にあるがんセンターに即入院。今は手術に耐える心臓かどうかを都内の別の病院で検査中だということだった。  

 翌日の夕方、電話をすると、「今ちょうど病院から帰っているところなんです。一人くらいならカットできると言ってるんで、今からどうですか」という。大丈夫なんだろうかとためらったが、電話の相手が強く勧めるので出かけた。髪を切ってもらおうと思った。

  夕暮れで雨が降っていた。傘をたたんで傘たてに入れ、ドアを押して明るい店内に入るといつもの主人の顔があった。普段と変わらぬ笑顔だが、こけたように見えた。黙ってシートにすわり、いつものようにカットしてもらう。月に1度、もう20年も続いている段取りである。陽気に語りかける言葉が見つからないので、黙って目を閉じる。主人も黙々とはさみを動かす。丁寧に、いつもよりずっと真剣にエッジをにらみつけながらカットしている。

「肺がんになっちゃってさあ。悪いところがあるんなら、すっぱり切り取ってくれって医者に頼んだんだけど、簡単なことじゃないらしい・・・・」「そう・・・」。会話を軽快に続けたいのに、それができない。

  会話が途切れて、主人はかみそりを持ち、襟足を剃る。肩をマッサージし、背中をもむ。前かがみになって背中をもまれるままに任せていたら、主人が「あれ?」という。「これ何?」「これって?」「お尻のポケットから出てる携帯のストラップ」

「ああ、それね、それはビリケンっていうんだよ」

「ビリケンって商売の神様だったけ?」

「さあ、どうだろう。大阪の通天閣の展望台に備え付けてあるらしいよ」

「頭をなでると幸せになるんだろ」

「頭じゃないよ。足の裏をなでるといいらしいよ」

「俺も足の裏をなでたいなあ」

「ははは」  

 散髪が終わり、主人は、立ち上がった私の体についた髪の毛をブラシではらう。いつものように、いつものしぐさで。金を払うと、にっこりしながら受け取る。いつもの笑顔を浮かべて。

「どうもありがと」。そのあと、どう言っていいか分らなかった。「うん、あした有明に戻るんだ」「そうか、ありがとうね」。そう言って私は私より10歳は年長の主人の手を強く握り締めた。

「早く帰ってきてくれよ。早く帰ってきて、また俺の髪を切ってくれよ」。主人は頷いたように見えた。   

  外に出るとあたりはすっかり暮れて暗くなり、小雨が降っていた。傘を差しながらゆっくりと道を歩いた。すっきりした髪のせいで、頭がすーすーした。歩きながら、ああ、ビリケンのストラップ、あげればよかったな、と思うと、胸が詰まった。

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2009年1月20日 (火)

苅谷剛彦「階層化日本と教育危機」を読む

  高速道路を車で走っていて、渋滞に巻き込まれたとき、遅々として進まぬいらいらから「どこのアホがちんたらちんたら走っとんねん!」と呪い声をあげることがある。

  ポルシェやBMWやベンツなど、軽―く時速200キロ走行できる優秀な車が、渋滞の先頭を、落ち葉マークを貼り付けた、どこぞのポンコツ車がよたよたと走っているせいで、そのオタンコナスに合わせて走らねばならない髀肉の嘆をかこってしまっているではないか、と。

  いっそのこと、右端のレーンは時速200キロ制限、真ん中は100キロ、左端は80キロという風に分けたらどうなのか、と思う。そうすればそれぞれの車の実力を十分に発揮することができるし、渋滞だって解消するだろう。それぞれに能力の違う車に、同じ規則を適用するのは、間違っているのではないか。

  というような私の高速道路上の呪詛を、苅谷剛彦氏の「階層化日本と教育危機 不平等再生産から意欲格差社会へ」(有信堂)という本を読みながら思い出した。苅谷氏は東京大学大学院教育学研究科の教授。現在の日本の教育現場の悲惨な現状を、「階層」という概念を持ち込みながら鋭利に描き出している。

  学者の書き物というのはえてして「研究のための研究」に陥りがちだが、本書には、一人の学者として、崩壊した日本の教育を再生するための一助となりたいという強い意志が漲っている。とても刺激的で様々な発見に富んだ論考が収められているが、門外漢の私にもとても興味深かった2、3の見解をここに拾っておきたい。

  まずは、「学力による序列化を悪しきもの」ととらえる戦後の風潮について。苅谷氏はこう書く。

<たしかに、戦後日本社会に生きる私たちの多くは、能力や学力、あるいは学業成績によって、子どもたちを差異的に扱うことを嫌悪してきた。学力や成績によって子どもたちを差異的に扱うことが「落ちこぼれ」や「非行」の原因である。そのような見方も、私たちのあいだにかなり広範に存在する。学力による序列化、成績による生徒の差異的処遇は、「差別」であり、「悪しきもの」である。教育をとらえるこのような見方は、すでに私たちの「日常的知識」とさえなっている。>(P68)

  では、

<日本の教育を、「能力主義的差別」、あるいは「差別=選別教育」として同定する教育の認識枠組みは、どのような経緯で発展していったのか。>(P69)

  こう言うとき、実は「差別」という言葉の意味合いが、国際比較の観点からすると、必ずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない、と苅谷氏はいう。たとえば英語における「差別」=discriminationはこのような事態を差別とは呼ばない、と述べ、英語圏における「差別」概念を次のように説明する。

<discriminate: to make a difference in treatment or favor on a class or categorical basis in disregard of individual merit(個人のメリットとはかかわりなしに、階級(集団)的あるいはカテゴリカルな基盤をもとに差異的な処遇をしたり、ひいきをしたりする)

Discrimination: the act, practice, or instance of discriminating categorically rather than individually (個人的にではなく、カテゴリカルに、差異的に扱う行為、実践、事例)>(P72)

  つまり個々人を、女性だから、黒人だからというような、カテゴリカルなくくりで画一的に処遇することが「差別」なのであって、<個人の能力差や成績の差異を基準とした差異的処遇にまで射程を広げ、そうした事態を「差別」とみなす議論ではないのだ。> 従って、<「能力主義的差別」や「差別=選別教育」として結晶化された、私たちが教育をとらえる認識の枠組は、(戦後)日本社会に出現した、社会的、文化的、歴史的な産物であるということができるのである。>(P73)

  そのような産物を生み出すのに精力的に寄与したのは日教組で、50年代から60年代にかけて、「能力主義」は「差別教育」につながるとことごとく指弾してきた。

<(・・・・・)教育における序列化や差異化を問題視する場合、序列のなかで下位に位置づけられた子どもの差別感を除去すべきであると判断し、そうした感情を喚起する教育を差別教育とみなす認識枠組みがつくりだされてきた。>(P81)

  その結果、

<「できない子」の心情を起点においた差別批判では、具体的な解決策は出にくい。成績による序列が問題の根源だとされ、にもかかわらず実態として残る学力差に対しては、成績による序列化をみえにくくすることのみが解決の方法となる。どの子もがんばればできるはずだ、という理想をかかげ、それでも生まれる差異については、「できない子」の心情を配慮し、できるだけ表面に出ないようにする。そうした解決策が、一方では欧米的な意味での教育における<差別>問題を不問に付し、他方で、まっとうな学力の評価さえ忌避する教育界の「雰囲気」をつくりだしてきたのである。>(P130)

  ここで、私の高速道路上の呪詛が立ち上がるわけである。なにもクルマを例に採らなくてもよい。マラソンでもいい。42キロを2時間台で走る生徒もいれば10時間かけても走れぬ生徒がいる。それは本人のやる気や「がんばり」とは別の次元で現に存在する。その時に、明らかに存在する個体間の能力差を無視して、10時間レベルの生徒に「悲哀」を味わわせないようにしようと、低レベルに合わせてみんなに「平等」な指導を施せば、2時間レベルの生徒にとっては、それは時間の浪費以外の何物でもない。それぞれの生徒の能力に応じた指導をすることこそが、まさに「平等」な教育というものなのではないのか、というのが私の考えである。

  身体能力に歴然と格差があるように、知的能力にも同様の格差が、人間にはある。それは「差別」ではなく「格差」である。それぞれの生徒がそれぞれに最高のパフォーマンスを発揮できるようにすることこそが、教育の本来の姿なのではないのだろうか。

  
    が、日本の教育界はそうは考えなかった。簡単に言えば、過剰な競争が子どもたちの心に荒廃をもたらすという理由から、「もっとゆとりをもたせよう、教える内容を簡単にしよう」という学習へ向かわせる圧力をぐんと低下させた。1999年10月号の「論座」で、文部省の寺脇研政策課長は、「だれでも100点が取れる」教育を目指すと語っている。

  おお、寺脇研! 懐かしい名前である。40年ほど前、「キネマ旬報」に日本映画評をせっせと投稿し続けていた東大生である。それに負けじと一生懸命映画を観て、しこしこ映画評を書いては送っていたのはこの私だった。ともに10代か20代の始めの頃である。そんな映画青年が、卒業して文部官僚となり、こんなふやけた教育理念を語るとことになるとは思いもよらなかったぞ、寺脇。

  寺脇らが推進した「ゆとり教育」が目指したものは、<自らの興味・関心に従い、自己実現をめざす、意欲あふれる個人、「自ら学び、自ら考える」個人、「内発的な動機づけ」にしたがった、自己啓発的な人間のモデル>(P178)を作り上げることだった。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」。そのことを自発的、内発的に考える生徒を作り出すことだった。

  しかし、ちょっと考えれば分かることだが、ほとんど哲学的ともいうべきこの難問に立ち向かうには、「自発的」「内発的」な思弁を待っているだけでは応えることができるわけがない。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」を考えるためには、まず「つべこべいわずに死に物狂いで勉強すること」が必要だし、「膨大な量の知識を自身に詰め込んでから」でないと「その知識」の有用性など分かるはずがないではないか。知識というものがそもそもそういうものなのだから・・・・・。

   結果、ゆとり教育という名の、「学習への減圧」は「馬鹿の大量発生」を招くことになったことは、先刻多くの方々が指摘する通りである。

   それだけではない。戦後、実際に存在する個人間の「格差」を見てみぬふりをしてきた教育界は、その背後に大きく潜む社会的格差=階層(収入や社会的威信や文化資本の有無)をもほとんど意図的に見落としてきた。苅谷氏がこの本1冊を要して問いかけているのも、戦後日本に厳然として存在する社会階層の存在と、それが教育の現状に密接にリンクしているという事実にどう対応していくべきなのかということなのだが、実はここにも驚くべき知見が記されている。

   詳しくは本書を参照されたいが、ごくかいつまんでいうとこうなる。

   統計的調査によると、低い社会階層の出身である生徒は、勉強時間が短く、かつ「あくせく勉学に励む」ことを忌避し、むしろ積極的に学習的態度からドロップアウトし、そうすることで「自身の有能感」を得ている、というのである。びっくりするような話ではないか。

   ここからは、私の想像である。つまり、彼らは、物心ついたときから、「がつがつ勉強ばかりしているやつは、人間のくずだ。人間にはもっと大切なことがある。自分と何か。本当に自分がしたいことは何か。それを追い求めることこそが人生で一番大切なことなのだ」という、ほとんど洗脳に近い教育を強く刷り込まれてしまったのではないか。だからこそ、がつがつとした「能力主義」の土俵に乗ることを忌避し、まさにそのことで自己の有能感を味わっているのではないか。

   しかし、その彼らを待ち受ける世界は、そのように甘いものではない。世知辛い能力主義が、日本のみならず、全地球規模で待ち受けている。しかし、彼らはドロップアウト・ライフスタイルを改めることはしない。いまさら改めようもないのだ。就職の機会には、そのライフスタイルを改める気持ちがさらさらない、というその理由で正規雇用者の地位を獲得するチャンスは極端に低くなる。結果、彼らの行き着く先はフリーターであり派遣社員という弱者の立場以外にはない。

   想像するに、彼らはまさにそのような立場に追い込まれているという事実にしがみつくようにして、今、自己の有能感を思う存分、満喫しているのではなかろうか。

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2009年1月18日 (日)

ことば遊び

その1

マルクス主義 から
アスクル主義 へ。

電話一本で、人類の幸せが届けられます。
字面は似ているけど、ずいぶん違うね。

その2

日本の山奥の農村で、ひとり一生懸命フランスの歌を
歌っている女性がいます。
村人は彼女のことを

山村歌手 と呼んでいます。

その3

ある女性のソプラノ歌手が、親しい人の葬式に花を送りました。
花屋に電話して「ソプラノ歌手 ○△□○」と名前を書いてね、とお願いしました。
当日、葬儀に出かけると、自分の花束が届いていましたが、その名札には

「ソープランド歌手 ○△□○」と書いてありました。

その4

高校時代の同級生の藪君が医者になって地元に開業しました。

看板には藪医院 の名。

患者の入りがよくないような気がします。

その5

奥という苗字の親戚が歯医者になりました。

奥歯科医院 といいます。

近所の人たちは、奥歯を専門とする歯医者だと思ってるようです。

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   下らない? 下らない。

    あ、そう。

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2009年1月17日 (土)

師弟関係をめぐって

   正月に書いた原稿が、アップしようとした瞬間に、多分間違った操作をしてしまったのだろう、あっという間に消滅してしまったということはすでに書いた。4時間ほどかけて書いたものだったので、大いに落胆し、もう一度書き直そうという気も起きなかったが、気を取り直して再挑戦してみようと思う。というのも、その時に考えたことが、PCからではなく、頭の中そのものから消え去ってしまいそうなおそれがあるからである。

  これは冗談ではなく、シリアスな恐怖なのである。というのもたった1年しか経っていないブログなのに、過去のエントリーを読み返してみると、ふーん、自分はこんなことを書いていたんだと驚くことが多々あるからである。年配の作家のエッセイを読んでいると、既にどこかで読んだことのある話しがぶり返されていることがままある。あれは、ご本人は初めて書いているつもりなのだと思う。

  この正月に、大学教授だった私の祖父の日記や原稿や講義ノートなどを、畑に穴を掘って、そこでかたっぱしから燃やしたという話は1月2日と3日のエントリーで既に書いたが、その遺品を整理していると、教え子たちとの長きにわたるしみじみとした心の交流があったことがわかる。祖父が還暦を迎えたときや古希になったときには、かつての教え子たちが世代にかかわらず集って祖父の長命を祝ってくれている。そのことは、その際に記念に編まれた小冊子を見ると手に取るように分かる。それを目にしてすぐに思い出したのが、内田百閒をモデルとした黒澤明監督の遺作映画「まあだだよ」のことだった。

  老齢となった師を招き、かつての教え子たちはその長命を寿ぐ。そして、愛をこめて大声で師に問う。「(この世とおさらばするのは)まあだだかい?」。すると師は、ビールをぐっとあおって同じく大きな声で応える。「まあだだよ!」と。仰げば尊しの精神がまだ脈々と息づいていた、古き美しき時代の話である。

  翻って、我らの時代に、このような師弟関係は存在するのだろうか、と考えたときに、わが身を振り返っても否定的にならざるを得ない。「私は私、あなたはあなた」「わしもアホやけど、あんたもアホやあ」という、あらゆる価値観が相対化し、フラットに並列する時代にあっては、弟子が師を仰ぎ見て、その高みに近づこうと心に決める、というシーンに出くわすことはなかなかあるものではない。

  師弟関係というのは、人間的にも優れ、識見や人格が備わった師となるべき人が存在すれば、おのずと弟子がそこに集まり、自然に生じるもの、というものではない。あるいは、師となるべき資格を持った人物が、周りの優秀な若者を選んで、「今日から君は私の弟子である」と宣言してすぐに切り結ばれるものでもない。

  そのことをあまり誰も言わないようだが、師弟関係というのは、弟子となるべき人間が優れているときに初めて完成する関係なのではないかと思う。「師」は「弟子」から「あなたは私の師です」と名指されて初めて「師となる」。孔子が偉いのは、孔子が偉いから偉いのではなく、孔子を師と仰ごうと決意した七十数名の有能な弟子が存在したから偉いのである。もし孔子に弟子がいなかったならば、孔子は、ただ一代限りの傑出した人物としてその生涯を終えていただろう。孔子の思想が現代に至るまで残っているのは、有能な弟子たちがその思想を受け継ぎ、整え、輪郭を明確にして次代に引き継いでいったからに他ならない。

  荒川博が優れているのは王貞治から師と仰がれたからである。

  芭蕉が優れていたのは優れた門下生を擁していたからである。

  北野武が優れているのは、北野武を師と仰ぐたけし軍団がいるからなのである。

  つまり、優秀な弟子筋が存在しない時代には、完成度の高い師弟関係は生まれないのである。師弟関係というものを考えるときに常に私の頭に浮かぶのは、大学教授である内田樹氏のことである。以前、氏の文章を読んで驚愕したことがあった。その一文は「師恩に報いるに愚問を以てす」と題され、こう書かれていた。

<朝起きてメールをチェックすると、多田先生からメールが来ていた。
前日、今度の広島での講習会に杖・剣を持参すべきかどうか、学生たちから問い合わせが続いたので、それを確認するために先生にメールを差し上げたのである。
「メールで失礼いたします。今週末の広島講習会ですが、杖剣は持参したほうがよろしいでしょうか? これまでの広島講習会は体術だけでしたが、何人かの部員から問い合わせがあり、『要らない』と断言するのもはばかられて、お訊ねする次第です。
お忙しい中、お手数ですが、『持参せよ』か『持参せずともよろしい』かだけお知らせ頂ければ幸いです。」
という私のメールに多田先生は次のようなご返事を下さった。
「内田樹様
広島で杖、木刀の稽古を行った事は、旧広大の道場で一回だけあります。
今回は私も杖木刀を持ってゆこうと思っております。
『持参せよ』
多田  宏」
私はこのメールを読みながら、足ががたがた震えた。
多田先生が広島での講習会を始められたのは先生が20代の頃からのことと伺っている。ということは、ほぼ半世紀のあいだに先生が広島で杖・剣を使った稽古をされたのは一度だけということである。私が広島の講習会に参加するようになってからも多田先生が稽古で杖剣を使われたことは一度もない。
帰納法的な思考をする人であれば、ここは「確率的には『使わない』ので、持参するには及ぶまい」というふうに「合理的に」推論するだろう。
現に私もそのような「合理的思考」にいつのまにかなじんでいた。
多田先生は私にそのような「帰納法的推理」は「武道的思考」とは準位が異なるということをきびしく示唆してくださった。
私はそう解釈している。
だから、足が震えたのである。>(2005年5月4日の「内田樹の研究室」より)

  最初に、この文章を読んだ時に、私は何か悪い冗談を書いているのだと思った。「足ががたがた震える」ほどの話ではないではないか、と。しかし、読み続けるうちに、内田氏は本当に足をがたがた震わせたに違いないと確信するに至った。氏は、多田宏という武道家を師と仰ぎ、本気で崇敬しているのだということがひしひしと分かったからである。その時に思ったことは、このような構えで自らの師と仰ぐ人間に向き合うことのできる内田樹という人の卓抜な才能のことだった。

  すでに書いたように、ある人物が師となるためには、彼を師と名指す優秀な弟子の存在が不可欠だからである。内田氏にはもう一人、人生の師ともいうべきエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人の難解な思想家がいる。レヴィナスについて内田氏はあちらこちらで文章を書くだけでなく、師の著書の翻訳まで手がけていて、おそらくは生涯の師として仰ぎ続けるのだろうと推測される。師弟関係を切り結びにくいこの時代にあって、しかも決して長くはない人の一生の間に、二人の師を得ることできた内田氏の才能と幸運を羨まずにはいられない。

  だが、優秀な弟子がそのまま、幸福な師になれるわけではない。内田氏は、やはり氏のブログの文章で、ため息のようにその悲嘆をもらしている。

<そんなふうにしてフランス語で書かれたテクストを練れた日本語に翻訳するという仕事は組織的にニグレクトされ、その結果30年ほどして、日本の大学からフランス文学科というものそのものがなくなった。
もちろん、フランスに行って学位を取り、フランス語で著述している学者はまだいる。けれども、いずれいなくなるだろう。
日本のどこにもニーズがないからである。
日本にはもうフランス文学者もフランス哲学者にも需要がない。
「そのような人々の書くものを読む以外にフランスの文化にアクセスする手だてがない読者」を30年かけて根絶してしまったからである。
(・・・・・・)フランス語の世界では、「フランス語を日本語に置き換える」という作業の重要性が顧みられなくなった後に、学界そのものが重要性を失った。あと数年から十年のうちに消失するだろう。
もちろん、そのあともフランスで高等教育を受けてフランス語で研究し、著述を行う日本人はいなくならない。
けれども、先達が150年かけて錬成してきた「フランス語で書かれたテクストを適切な日本語に置き換える技術」は誰にも継承されずに消える。
私は長い時間をかけてその技術を身につけたけれど、もうそれを伝える「弟子」はひとりもいない。
私が長い時間をかけて身につけた二つの技術のうちのひとつ(合気道)については、それを伝えてほしいという人々がたくさんいるのに、フランス語を日本語にする技術については後継者が一人もいない。
「モヒカン族の最期」みたいなものである。>(2008年12月17日の「内田樹の研究室」)
  
  どうにも悲しい吐息である。

  しかし内田樹を師と仰ぎたいと思うような若者を、日本の教育界は戦後、組織的に芽むしり仔撃ち、根絶してきたのだから致し方ない。内田氏の目から見れば、弟子筋になるべき世代は、「あたり一面馬鹿ばっか」に見えているに違いない。

  もうひとつ、師弟関係を考えたときに鮮烈に記憶に残っているシーンがある。

  2008年の1月、フランス料理店「オテル・ドゥ・ミクニ」のシェフ、三國清三氏は、厚労省より「現代の名工」に選ばれ、その受賞を祝うパーティが帝国ホテルで行われた。ミクニ・ファンの各界の著名人(総理を辞めたばかりの安部晋三氏まで来た!)が臨席、パーティは華やか執り行われたのだが、その宴会場の隅で一台のモニターがDVDの興味深い映像を繰り返し、映し出していた。

  雨がそぼ降る中、オテル・ドゥ・ミクニの入り口で、三國氏は傘を捧げ持ち、直立不動の姿勢で、車から降り立つひとりの老人を迎えていた。老人は元帝国ホテルの総料理長の村上信夫氏だった。

 三國氏は中学卒業とともに札幌グランドホテルに就職。その2年後、帝国ホテルの村上信夫料理長に預けられ、徹底的にフランス料理の基礎を叩き込まれる。といっても皿洗いや後片付け、塩振りといった見習いの雑用程度の仕事しか与えられなかったのだが、その2年後、あろうことか村上料理長より、駐スイス大使館の総料理長に推薦される。料理らしい料理を作らせてもらったわけではないのに、驚くべき大抜擢である。時に三國氏は弱冠20歳。

「なぜ私は三国君を推薦したのか。彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら、下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。ちょっとした雑用でも、シェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。それと、私が認めたのは、塩のふり方だった」と村上は自著で、三國氏を抜擢した理由を語っている。これをきっかけに三國氏はフランス料理シェフの階梯をとんとん拍子に上り詰め、現在の地位を築くことになる。

  三國氏にとって、村上信夫氏は自身の人生を大きく方向付けた、大いなる「師」以外の何者でもなかっただろう。まだ十代だった彼の目の前に現れた大いなる存在に、一歩でも近づこうと、三國青年は、与えられた見習い仕事の合間に必死になって技を盗もうとしていたのである。

  それから数十年。今、三國シェフはかつての「恩師」を、自身の名を冠したレストランに迎え入れようとしている。車から降り立った恩師に傘を差し出し、テーブルへ案内する三國氏の表情は今より少し若く見えるから、オテル・ドゥ・ミクニをオープンした当時の映像かもしれない。東京の一等地に構えたレストランの厨房で、三國氏は恩師のために、ありったけの腕をふるって料理を作り始める。いまこうして、ここでこのような料理を作ることが出来るのは、ほかでもない、テーブルの前で自分の料理を待ってくれている、この老いた恩師がいたからなのである。

  できあがった料理を恭しく師の元に供すると、三國は緊張した面持ちで師の脇にはべる。両手を腰の前で合わせて直立不動である。師がナイフとフォークを手に持って料理を口に運び始めたときの三國氏は卒倒しそうなほどの緊張感に包まれている。

  村上氏が一口料理を食べ、三國氏の顔を見て静かに頷いたとき、三國氏はほとんど泣きそうな顔になった・・・・・。

  モニターでその様子を見ながら、私もまた泣きそうになった。にぎやかにざわめくパーティ会場の隅で、静かにハンカチで涙をぬぐった。その時、私の頭にあったのは、二人の間に流れた時間のことだった。長い長い旅路の果てに、一家を成した一人の料理人としてかつての恩師に向き合うことのできる三國清三氏の幸運を思った。そして、今にも泣きそうになるほどの真摯さで、「わが師」に向き合うその姿に、胸をつかれたのである。

  以上が、4時間かかって書いて、不注意で消してしまった文章の再現である。前に書いたものと、ちょっと違う気がするが、文章を書くと言うのは、その時の、一回きりのインプロビゼーション的行為なんだなあと、つくづく思う。以降は今思いついたこと。

  弟子がある人物をわが師であると名指すとき、極めて重大な決断を下すわけだが、しかしその時、弟子はまだ未熟で、人格、識見、技術のすべてにおいて師よりも劣っている。しかし、弟子はそのような劣位の状況下で、自力で自身の師を選ばねばならないのだが、そのようなことが可能なのだろうか?

  まだ加減乗除の計算がやっとの若者が、この人を自分の数学の師としよう、と過たずに決定することが果たして可能なのだろうか? 師選びに失敗することはないのだろうか?

  多分、多くの若者が失敗しているに違いない、と思う。だからこそ、エイチャンや長州力を師と仰ぐ若者が現れるのだろう。彼らの多くは人生のどこかで「師選び」を間違えたことに気付くか、あるいは今なお、エイチャンと長州力を師として崇敬しつづけ、そうすることで得ることができたはずの「なんらかの成就」を、依然として手にすることができずにいるのだろうと思う。

  しかし、限りある人生の途上で、自身より先行して生きるある人物を、師と言う名の人生の「ロールモデル」として選びとり、一歩でもそこに近づこうと決意して生きるという、そんな「構え」を持つこと自体の中に(師選びの成否はともかくとして)、その人の人生をより豊かにする鍵が潜んでいるような気がする。

  師を持つことが難しい時代であればこそ、なおのことそう思う。

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2009年1月15日 (木)

村上春樹氏がフライパンをふるっていた頃

    
   やることが無限にあって、やってもやっても終らない。要領が悪いせいもあるが、ひとつひとつじっくり片付けないと気がすまないという性分のせいもあって、毎日夜遅くまで机に向かっている。会社からはほとんどの社員が消えて、しーんとしている。窓際の席に座っているので背中が冷える。でも集中してなすべきことをなす。こういう状況が嫌いではない。というか、子供の頃から、かなり好きである。なぜかはわからないけれど。
  
 11時近くまで作業を続け、晩ごはんを食べ損ねたので、タクシーに乗って、代々木の明治通り沿いにある立ち喰いそば屋「吉そば」に向かう。運転手さんが「このそば屋も古いですねえ」と話しかけてくる。確かに古い。もう30年以上はここで商売をしているはずである。かきあげそばに生卵を落としたものを食す。体がすっかり冷えていたのでうまい。ついでにお稲荷さんもひとつもらう。おそばに一味をたっぷりかけて食べたので体が温まる。
   
    マフラーを首にしっかり巻いて代々木駅に向かう。20代の頃、代々木に住んでいた。その頃にあった店はもうほとんどない。この街は当時、日本共産党のカルティエで、なんとなく猥雑で灰色のイメージがあったが、それももうない。随分と時間が経っちゃったなあ、と思う。その頃、代々木には作家の山川健一君が住んでいて、ときたまルノワールでタバコをふかしながら小説の話などをしたもんだった。山川君と同じマンションには、現在、幻冬舎の社長である見城徹氏も住んでいて、3人でお茶を飲んだこともあった。その頃は、多分みんな20代だった。
   
    代々木のはずれにはマガジンライター(当時、今は作家である)の伴田良輔君のアパートがあってときどき転がり込んだりしていた。伴田君の盟友、美術評論家の伊藤俊治君は今でこそ大学教授だが、当時は千駄ヶ谷のボロマンションに住んでいて、黒尽くめの格好をした、陰気な東大の大学院生だった。みんなで遅くまで映画や写真の話をしたりしたものだった。そういえば、伊藤君はギャラリーワタリのえっちゃんがまだ大学生だったときに、バイトで代わりに卒論を書いてあげていたなあ。
  
    伊藤君のマンションの近所に「ピーターキャット」という店があってカウンターの中では村上春樹さんがフライパンを持ってソーセージを炒めたりしていた。今からは想像もつかないけれど、村上さんはヘビースモーカーですぱすぱタバコを吸っていたように思う。WINSTONかなんかのアメリカ煙草だったのではないかな。店には大きなスピーカー据えられていて、音が大きすぎてスムースに会話ができないほどだった。
  
    というようなことを思いだしながら、寒さに首をすくめながら代々木駅まで歩いた。冷えた夜空の向こうにまん丸な月が輝いていた。
   

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2009年1月14日 (水)

「チェ 28歳の革命」を観る

  昨日、お台場のメディアージュでスティーブン・ソダーバーグ監督の新作、「チェ 28歳の革命」を観る。ラーメン国技館で徳島のこってりしたラーメンをかきこみ、生ビールをあおってからシートについたので、自分がにんにくくさいことが分かる。周りの人にはさぞ迷惑だったと思う。

  半分酔っ払っていたのでぼーっとして観ていたのだが、相変わらずデルトロの演技は渋い。ゲバラになりきりぶりが、凄いと思う。デルトロは最近ぶくぶくに太って、たんなるデブのおやじだったのに、ゲバラを演じるために25キロ(!)ダイエットしたというからさすがである。見上げた役者根性である。

  この映画で一番驚かされたのがカメラワーク。巻頭のモノクロ映像は、粗い画像処理をほどこして、当時のニュース・フィルムを想起させる。しかも手持ちに長い玉をつけて、ドアップで被写体に迫る。自然光で撮影しているため(多分)、絞りは開放に近く、被写界深度が浅いため、ピントは甘い。それが手持ちでぶれるために、かなり見にくいのだが、それがある種の臨場感をかもし出してなかなかのできばえである。

  プロダクション・ノートによると、この効果をもたらしたのは、REDという革新的なカメラのおかげだと言う。「35ミリフィルムの質とデジタルカメラの使い勝手を備えている」というのだが、いったい何を言いたいのか分からない。ノーツを書いている本人もよく分かっていないのではなかろうか。ただ、重量が9キロというから従来の映画撮影用機材の常識から考えるとかなり軽いものなんだろうと思われる。だからこそ、執拗な手持ち撮影が可能になったのだろう。
  
    戦闘シーンはほとんどが手持ちで、緊張感が高まる。この映画もなるほど「プライベート・ライアン」以降の映画で、戦闘シーンには「プライベート・ライアン」で確立された手法が駆使される。特に特徴的だったのは、銃弾が飛び交うときの金属的な音。肉を引きちぎるような、重い鉛の玉が飛び交っていると思わせ、恐怖感をあおる。

  キューバ革命の山場となったサンタ・クララでの、オリエント州軍への増援部隊と物資を載せた列車を脱線させて進行を阻止する戦いのシーンでも手持ちカメラはその威力を示す。列車脱線の直前に手持ちカメラはわずかに列車に迫る。列車の轟音で野良犬が尻尾を巻いて飛び逃げる様子を隅に映しこみながら、激しく脱線する列車の様子をリアルに捉えている。

  とまあ、そんな瑣末なことをいつまでも書いていないで、ゲバラについて書いておこう。こんなことを書くと叱られそうだが、彼は一種の「革命中毒者」だったのではなかろうか。アルゼンチンの中産階級に生まれ、大学では医学を学ぶインテリである。バイクに乗って中南米を旅するうちに各国の虐げられた民衆と、圧政的な独裁を目の当たりして、「どげんかせんといかん」という思いにかられる。彼をそのように突き動かしたのは、本人の言うようにある種の「愛」であったのかもしれないが、ひょんなことからキューバ革命に参画することになったというのは、言ってみれば、北朝鮮を旅行していた日本人旅行者が、ひょんなことから金日成とともに戦うことになったようなもので、極めてその心情を理解しにくいものではあるのだ。
  
    キューバ革命を成就した後、ゲバラは来日している。ウィキペディアによると、1959年7月15日にキューバの使節団を引き連れて来日。主要メディアはその動向を報じることがなかったというが、7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープの製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回ったという。精力的な施設団長である。
  
    普通の人間ならば、その延長線上の職務に従事し、革命後のキューバの発展に尽くしただろうけれど、ゲバラはそうではなかった。彼が望んだのは「南米各国の革命」だったのである。結局、日本を去ってから8年後にボリビアでの革命運動の最中に射殺されて命を失う。尋常な話ではない。自分の故国のために命を投げ出したのではない。よその国の、その未来のために命を投げ出したのである。
  
    まともな神経ではできることではない。そうまでして「革命家」であり続けたかったのは、政治的な信条や思想の問題ではなくて、「革命運動」という渦中に身を投じることによって生まれる恐怖と陶酔の罠から逃れられなかったからではないのか、という思いを捨て切れないのである。ひょっとして、パチンコ中毒と同様の、革命中毒だったのではないかと。
  
    しかし、それは映画を観終わった後の単なる妄想である。
  
     夜遅く、豊洲の紀伊国屋書店(驚くべき広さである)に出かけてゲバラの本を何冊か買う。彼はどのような人生を送りたかったのだろうか、という思いが心を去らないので、とりあえずは彼が書き残したものを読んでみようと思ったのである。

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2009年1月11日 (日)

USPGA2009年第一回目のラウンド

   1月10日、私が会長をつとめるUSPGA(とえらい偉そうな名称だが、実は「馬と鹿プレーイング・ゴルフ・アソシエーション」の略)の2009年第一回目のラウンドが東京五日市CCで行なわれる。前日に雪が舞い散ったというだけあって、早朝は真冬らしい寒さに見舞われたが、昼ごろにはかなり暖かくなる。メンバーはゲンちゃん、ジーコマ、とおるちゃんと精鋭が終結。平均年齢は63歳くらい、たぶん。じいちゃんが新年から集まって、股引はいてクラブをぶん回したのである。
  
   結果は私が45,43の88でトップ。2名より各1000円を巻き上げる。幸先のよいすべり出しである。はなはだ気分がよい。ゲンちゃんはスコアがまとまらず、終始不機嫌である。いつもは饒舌なのに、ラウンド後、みんなであんみつを食べているときも、ひとりお茶だけ飲んでいる。口数が少ない。面白くないのであろう、がはははは。
  
   ラウンド中はつねに、とにかく何でもいいから、くだらないことを全員で次々に口にするということを会の基本方針としている。ただし、あまりにセンスのない発言に対しては全員から冷たい視線が送られる。今ラウンド中に発された発言で、私が気に入っているものをひとつだけ。

「マンションを買い換えようと思っているんだけど、銀行のローンがなかなか組めない。担保がないので難しいらしい」

「うん、無担保ローンは難しいね」

「あのね、僕も近々ローンを組まなきゃいけないんだけどね、じつはねすごくいい湯たんぽ持ってるんだよね。この湯たんぽで500万円くらい誰かお金貸してくれないかな?」

   一同、「・・・・・・・・・・」。

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2009年1月 9日 (金)

風呂で突然気がついた!

  東京は久しぶりに冷え冷えとして、凍てつく夜がやってきた。まだ会社のPCに向かっているけれど、窓の外は今にも雪が降りそうな気配。でもそうなってもらっては困るのだ。明日は今年最初のラウンド。腰も治ったし、頑張るのだ。

  八王子ICを降りて車で30分。山の中にわが東京五日市CCはある。まるで居酒屋のような気さくなというか、雑駁なゴルフ場であるが、近くて安いところはここしかなかったのだからしょうがない。あと11時間後にはスタートである。早く帰って寝ないといけないな。

  今朝風呂の中で、内田樹著「昭和のエートス」を読んでいて、なるほど、そりゃそうだ、と気づいたことがあった(朝起きて、ぬるい風呂に入りながら、蓋の上に手を出して本を読むのは極上の愉しみである。夏はすぐに熱くなってそんなことはできないが、冬は1時間は読んでいられるから嬉しい)。

  カミュを論じる「アルジェリアの影」の章を読んでいて、なるほど、世の中のあらゆるものには影がある、と思った。木にも家にも人にも雲にも影ができる。その影は地上に黒く印される。しかし、この世の中で唯一つ、どうしてもその影を見ることができないものがある。さて、それは何でしょう?

  森羅万象に影を提供する太陽それ自身の影を、われわれは永久に見ることができない、ということに初めて気がついた。

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2009年1月 7日 (水)

更新ができない!

年末年始は意地になって更新していたけれど、いざ仕事が始まってしまうと、全然物を書く時間やノーミソがなくなってしまう。困ったもんだ。

年賀状も最近は出すのをやめたけれど、やっぱりいただいた年賀状には極力ご返事も出したい。しかし、その時間もない。今年はもうすこし、熱心にブログを書こうと思っていたのに・・・・。

でも、この前、石川セリさんに、最近のエントリー、つまらないって言われちゃったしな・・・。

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2009年1月 6日 (火)

歯医者に直行

 

  年末、歯の調子がよろしくないので、かかりつけの歯医者へ行って、「なんとか雑煮を食べられるよう、応急処置を」とお願い、その場はなんとか治まったのだが、新年になってから、またもや不調に。歯茎が腫れ、押すと血が出る。強く噛めない。じじいになっちゃったもんだ、と嘆いていたが、ジクジク痛んでだんだんいらいらしてきた。

  5日は朝9時半にアウディに乗って、和歌山の実家をスタート。東京へ向けて飛ばしていたが、どうにも歯の痛みが気分が悪い。三重県の御在所SAで肉まんを食いながら歯医者に電話。「これから大急ぎで向かうからなんとか夕方に診てほしい」と泣きつく。「でも大急ぎでも、あと4時間半くらいかかりますけど・・・」

  ぶっ飛ばして、4時半に歯医者に到着。朝9時半に出発したから、7時間かかった計算になる。で、研磨機のようなものでキーンと削ってもらったところ、悪い色の血が出てきて腫れがひく。すっきりした。

  久しぶりにあった人に、ずいぶん日に焼けてますね、と言われる。自分でも鏡を見て顔が黒いな、と思っていたが、これは日焼けではなくて、焚き火焼け。1週間、ぶっつづけで焚き火に向かっていると、顔のでっぱった部分、頬骨とか額などが熱く焼けたような感じになる。きっと、遠赤外線が出ているんだろうな。

  でも、焚き火で焼けました、といっても人は信じてくれそうにない。

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2009年1月 4日 (日)

4時間かけて書いたものが一瞬に消えた!

 がっかり! 物凄い力を入れて書いたのに・・・・・。もう寝よ。

 明日は早朝より愛車に乗って東京へ。約600キロ、7時間の運転。ちょっとうんざり。

 しかし、あの原稿、どこに消えちゃったのかなあ。ちゃんと「保存」のボタンを押したのに。

バカヤローーーー!

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2009年1月 3日 (土)

わが祖父の文章をここに遺す

 

  私の祖父は、明治25年(1892年)に和歌山の山奥の貧農の家に長男として生まれ、昭和39年(1964年)の雨の日に、電車に轢かれて死んだ。

  明治45年に和歌山師範学校を卒業後、広島高等師範学校へ。卒業後は高等女学校、中学校の教師を務めた後、昭和7年に、母校・広島高等師範の教授に。以後いくつかの学校の教師を務めている。一生を教育者として過した人だった。そのことは、祖父の還暦を祝って刊行された「思想と教育」という小冊子に経歴として記されている。その小冊子は教え子たちが、師の学恩に報いようと、すでに一家をなした学者として自身の専門分野の論文を持ち寄るという形になっている。いったい、どういう人たちがどういった論文を寄せているか、「功徳」として書き出しておきたい。ちなみにこの小冊子は昭和30年に刊行されている。

正木慶秀 「戒律のゆくえ」

内海巌 「上代における仏教受容について」

越智通敏 「愚管抄の道理と政理」

高橋賢陳 「神皇正統記の実践原理」

木南卓一 「張横渠研究 朱子の理解を中心にして」

村上敏治 「江戸時代儒学者の義理の論   その習俗との関係」

縄田二郎 「石田梅岩の学における性と心との関係について」

井上順理 「政教論序説 社会政策と道徳教育との問題を中心として」

及川利二 「政治と教育」

斉藤岳夫 「社会科研究序論」

岩橋文吉 「教育編成の対象としての勤労青少年集団の性格と問題点」

小林健三 「西新道について その晩年定説の一考察」

   以上である。論文のラインナップを眺めれば、祖父がどのような学者であったかなんとなく分かろうかというものである。そのいかめしい論文が並ぶ小冊子の巻頭に祖父は「感想」と題して、こんなエッセイを寄せている。

<はじめ私は此処に回想録を書こうと思った。そしてペンを執った。しかし実際書きかけて見るとこれは可なりむつかしい事であって短い時日では出来ないことであることがわかった。又僅かの紙幅に載せかねることもわかった。しかし諸友がその研究の精華を集めて私の還暦を記念して呉れるのに黙って居るのも気持ちが納まらないので、挨拶の如き感想の如きものを書き綴って諸友の好意を謝したいと思う。

  還暦を記念して諸友が論文集を出して呉れるということは誠にありがたいことである。只ありがたいだけでなく自分に取っては甚だ過分な仕合せである。そういうことをして貰う人が世の中に幾人居るかを考えて見て、そうして正直に素直に自らを省みれば、これは全く過分なことである。過分至極のことであって勿体ないことである。或いは恐縮して辞退すべきことであったかも知れない。しかし昔学生であった諸君が皆成長して、学者として又教育者として今や盛りの年に及んで、老いたる旧師を偲んでその研究の一端を示してその寂寥を慰めてやろうという志は私としては辞退することの出来ないものであった。

  私が微力な学徒であり薄恩の師であったにも拘らず、斯ういう果報に恵まれるのは私の生涯携わった仕事が学問と教育であったからである。これが軍人や政治家や会社員であったら到底こんな喜に遇えないであろう。

  私は履歴書にある通り多くの種類の学校に勤務した。聾盲学校の如き特殊なものや幼稚園を除いては殆ど教育界のすべての場面を経歴した。これは殆ど無節操に近い遍歴である。私の如き教育界遍歴者は皆無ではなかろうがたしかに稀有であろうと思われる。

  しかしこれは勿論私の素志でもなく希望でもなかった。むしろ思いも寄らぬことになったのである。郷里の師範学校を卒業した時は私はひたすら善き小学教師になろうとのみ考えて居た。「一粒の麦」になるのだと決心して居た。その心情は極めて純真であり、その志望は熱烈でさえあった。又三十歳を出たばかりで郷里の中学校の教員になった時もそこに安住して一重に郷党の少年のよき伴侶になって此の処にわが生涯を尽くそうと決心して居た。そういう志が果たせなくて又しても又してもふらふらと迷い出たことは何回思い返しても残念なことである。迷い出たのは人に勧められたからである。勧めた人を恨む気持ちは勿論ないが、自分としてはそれだけの志を立てながら操持の堅固ならざりしを惜しむ心で一杯である。西先生が度々の勧誘を退けて生涯を広島に捧げ給うたことは誠に偉大である。先生の学徳は勿論どこに居られても偉大であるけれども、広陵の老書生として終わられたことの偉大さはその学徳の偉大さに匹敵するものであると私は思う。

  しかし既に無節操に遍歴し終ったのであるから今更悔やんでも仕方のないことである。只どの勤務地でも私は幸福であった。これは大いに感謝しなければならぬ。又実際大いに感謝して居る。冥加とか果報とか云う言葉を常に思い出すほど感謝して居る。私はどこでも楽しかった。どこでも最善を尽くしたなどとは決して言えないのであるが、どこでも人々に愛せられて幸福であった。周囲の人々を見ると私の如き者は多くは居ない。その理由は全然わからないが、私は権威の座に対する野心に乏しく、人と争うほどの覇気もなく、本物ではないにしても一応温良の相を備えて居たからであるかも知れない。

  米国では青年に適正検査を施してその人の個性に適した職業に就けてやると云うことがあるらしい。近年わが国でもその真似をして居るところがあるようであるが、吾が国では職が少なくて人が多い。誰も彼も先を争うて採用試験場に殺到し、採用された職場の仕事を適職とも天職とも観念してその事に勉励するより外はない。私の少年時代は日露戦争の頃である。適正検査などはない。それでも都会の少年は日常身辺に様々の職種の人を見る。親戚交友の間に官吏も軍人も医者も商人もある。父兄は子弟の個性を観察して適当の方向に指導することも出来る。私の育った山村には農家だけしかない。少年の目に映ずるのは農人と学校の先生とだけである。既に農人にならないと決定して居る少年には学校の先生を志すより外の道はない。それは選択の道ではなく只おのずからの道である。その間にも多少の彩色はあって真言宗の寺から小僧に貰われかかったこともあった。金持らしい家から養子の口がかかって法科を勉強して会社を経営させるんだと云うようなこともあった。材木会社の大将に担がれかかったこともあった。しかし教育と学問の道からは踏みはずすことがなくて、無節操ながら、遍歴ながら、ともかくこの一筋につながって今日に及ぶことが出来て、これは吾ながら実によかったと思っている。

  太平記に楠公の最期を叙して有名な七生滅賊の大述懐を載せて居る。それを罪障深くこそ覚えしかと言うのも一つの見方ではあるが、この楠公の述懐は後世太平記の流行とともに多くの人々を感発せしめた。それは主として七生滅賊と云うその内容が然らしめたのであるけれども、私はこれを内容抜きにして只その形式だけを考えて、やはり楠公は偉大であると思う。偉大であるのみならず幸福であったと思う。せがれは必ず堅気にしてと遺言する俠客がある。むしろ俠客の遺言はそれに決まって居る。作者はどう云うつもりで俠客にそんな遺言をさせるのであるか。その最期を悲壮ならしめようとするのであるか。悲壮は悲壮であろうが最期に臨んでわが生涯の経路を否定しなければならないのは誠に悲惨である。此上もなく悲惨である。救はれざる悔恨である。七生滅賊と言うは滅賊そのことに失敗した人の言葉である。しかし失敗はしたけれどもわが畢生の志願は完全に肯定して居るのである。桜井の遺訓はこの湊川の七生滅賊の誓に依って更に千釣の重きを加える。そんな意味で自分のことを考えて見ると自分は偉大ではないが幸福であることだけは確かである。私は行き替り死に替り万劫末代教育と学問に繋がって居りたいとまでは思わないけれども、もう一度この道を通れと言われても決して迷惑だとは思わない。>

  いかにも明治の人らしい、もって回った、のんびりした文章である。こういうストロークの文章も、優雅で嫌いではない。しかし、「楠公の七生滅賊の大述懐」と言われても、何のことやらちっとも分からない。しかし、当時この文章を読む人々にとっては、みんなが共有する逸話だったに違いない。時の隔たりをしみじみと実感する。

  のんびりした文章をもうひとつ。昭和38年(不慮の死を遂げる前年)に地元の新聞に寄せたエッセイである。タイトルは<漸く佳境に入る>。

<晋の顧愷之(コガイシ)は有名な画家である。一五〇〇年も前の人で、今残っている作品も稀で、僅かに存するものは勿論超国宝級のものである。この人の伝記を見ると、三絶を以って聞こえた人であると書いてある。その三絶というのは才絶、画絶、痴絶の三つだという。絶とは何事によらずずばぬけて人にすぐれて居ることである。才気は衆にまさって、画絶は抜群で、そして痴絶であった。痴はおろかとか馬鹿とかいうことで、痴絶とは間抜けていることも飛切りだったということになる。一体芸術の達人には、どこか抜けたようなところがある。余り目のつんだ抜け目のない人は、頼りになることもあるが、その半面油断のならぬところもあって面白みがない。この人は役人としても相当な地位にあったのであるが、多分役所の仕事などはしないで、画をかいたり詩文を作ったりしていたのであろう。

  甘蔗が好きであったと見えて、毎日甘蔗をしゃぶっていたというから甘党であったらしい。この時代は、有名な竹林の七賢の出た時代で、七賢には左ききの人が多かったが、この人は子供みたいに砂糖きびをかじって居た。ところがその甘蔗をかむのに末の方からだんだん根の方へかんで行った。ご承知のようにあれは根元の方が甘くて、末の方へ行くほど甘さが少なくなる。ずっと端の方は甘さがなくてすっぱいような変な味になる。この先生はその末の方のすっぱいところから始めて根元の方へ進んで行く。そして途中まで来たころに「漸く佳境に入る」といって嬉しそうな顔をしたんだという。晋書という本にそう書いてある。どんな顔つきの人であったかわからないが、役人あるから例の長いひげをはやしていたであろう。それが長い甘蔗をかかえ込んで口の端から汁をこぼしながら「漸く佳境に入る」などといったのでは、なるほど痴絶とでもいうより外はない。

「漸く佳境に入る」という言葉はそれ以来有名な言葉になって、昔泰山に登ったときにも五合目位の道の傍に「漸入佳境」の四字を達筆に彫り込んだ石碑が建っているのを見たことがある。漸くというのはだんだんとか、ぼつぼつとかいう意味である。「ぼつぼつ面白くなって来たわい」というほどの意味である。漸く佳境に入るものは世の中にいくらでもある。しかし甘蔗をかじっていて、だんだん甘くなって来たことを、漸く佳境に入るというのは、表現が大袈裟で普通の人にはちょっと思付かない表現である。その辺も痴絶愛すべき一端であろうか。聞いた人が面白がって評判にしたのであろう。

  ところが読者諸君、皆さんは何かうまいものを食べるときに、たとえばこれから楊梅(やまもも)が出るが、あれを食べるときに、黒く見えるほどよく熟したのが一番うまくて赤いのはうまくないがどちらから先に食べられますか。黒いのから黒いのからよって食べたらお皿にはまずくて赤いのだけが残る。しまいには一番まずいのが残る。その反対にまずそうな奴から先に食べて、うまそうな奴をあとに残しておく食べ方もある。どちらの食べ方をなさいますか。

  先憂後楽という言葉もあるが、あれはちょっと意味が違うので仮りに先苦後楽というとすると、先苦後楽か先楽後苦かということになる。苦しいことを先ずやってみて、楽しみをあとに残しておくか、その反対に楽しいことを先ず楽しんで、苦しそうなことをあとに残しておくか。あとに残しておくというほどでもないが、あとはまあ何とかなるだろうという位の気持で先楽後不顧とでもいうことにするか。もっともはっきりこの二種類にわかれて居るとは限らない。手当たり次第というのもあり、時によってどちらでもというのもあろう。そしてそれにはみなそれ相当の哲学みたいなものがついて居るであろう。

  この痴絶といわれた愛すべき芸術家はまずい方から先に食べて、漸く佳境に入ることを楽しみにしたらしい。私にはこれは痴絶居士にしてはいささか不似合のような気もするのであるが、ここにお国振りのちゃっかり性が出て居て、宵ごしの銭をもっているのは恥かしいというような人種との違いが見えて居るのであろうか。>

  長い。しかもひとつのネタを引っ張り倒し、うにうにと話をこねくり回しているあたりがいかにも明治の人間の文章という感じがするが、それはまあいい。面白いのは、読者に語りかけるという手つきである。話としてはさして面白いものでもないが、なんとか読者に面白く読んでもらおうというサービス精神に満ちているところが、いわゆる学者の文章らしくなくて好ましい。

  先に引用した文章は祖父が還暦を迎えた際に、記念刊行された小冊子から引いたものだが、その10年後。今度は「古希」の祝いが盛大に行われた。その祝いの発起人として、離れを掃除していたときに出てきた案内をみると100人ほどの名前が並んでいる。すさまじい規模の「お祝い」である。70歳を迎えた恩師を祝おうと、かつての教え子たちが勢ぞろいしたわけである。

 その師弟関係は、なんだか内田百閒の「まあだかい」を思い出させる、ほのぼのとしたものでもある。仰げば尊し、わが師の恩、というものがまだこの頃には世の中に確かな形で存在していたのである。

  そんな風にして「わが師」をもつことができた人たちは幸せだと思う。思えば、われわれの時代は「わが師」を持つことがはなはだ困難な時代であるように思える。

  ちなみにわが祖父の名は、西川平吉といった。

       

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2009年1月 2日 (金)

見たこともない人々の顔

  毎日毎日「不要物償却作業」の報告で申し訳ないけれど、それしかしてないからしょうがない。許してたもれ。

  祖父の書き物が山のように出てきた話はすでに書いたが、まだまだ出てきました。驚くべき量の書き物が。ノート、手帳、原稿用紙、和紙などに、論文、エッセイ、講義ののための準備稿、日記、思いつきなどが小さな文字でみっちり書き込まれている。明治から昭和にいたるまで、3元号をまたぎ、全部積み上げれば3メートルくらいの高さにはなるのではないか。寝る時間と食事の時間以外はずーっと何かを書いていたのではないかと思われる。そういえば、汽車のなかでも乗車中ずっと手帳に書き物をしていたという近所の人の証言を聞いたことがある。頭が下がる。おそるべき努力家だったに違いない。

  そのほかに大量に出てきたのが写真。明治末年に師範学校を卒業した人たちは別れの際に記念の品として、自身の写真を贈る習慣があったらしい。それも写真館できちんと撮影したポートレートで立派な厚紙に貼り付けられていて、裏に送る相手の名前、自身の名前、年月日、ちょっとした言葉などが、達筆な毛筆で記されている。しかも漢文の素養に満ちた人たちであったらしく、今時の学生には書くことも読むこともできぬようなものが書かれている。当時のインテリたちの自負というものはなかなかのものであったように思える。

  翻って、今、大学卒業時に、自らをインテリの一員であると自覚している学生はどのくらいいるのだろうか。

  その若きインテリたちの利発そうな写真(その全員がすでにこの世の人ではない)に混じって、親族と思しき人たちの写真も次々と出てきた。中には、これから取り壊そうとしている離れの縁側に座って撮った記念写真もある。背景の建物は建てたばかりらしくて新しくて立派だが、目を凝らせば、確かにこれは今まさに取り壊そうとしている離れであることが分かる。しかし、そこでカメラに収まっている人たちの顔を見ても、一向に面識はない、見ず知らずの人であり、したがって彼らのことを私は何も知らない。しかも、全員、すでにこの世の人々ではない。ほんの5,60年前に、ここで元気な顔をして写真におさまっていた人たちはあっという間にこの世の人ではなくなってしまっている。

  今現に生活しているこの住まいにかつては、自分が知らない親族たちが寝起きし、生活していた事実を目の当たりにすると、不思議な感慨が沸き起こる。その見知らぬ顔の中に、どこか自分に似た顔を見つけると、連綿と続く血縁の流れのようなものを思い浮かべる。その大きな血の流れの中の、自分はひとつのあぶくでしかないということもよく分かる。

  自分につながる多くの人々が生活していたこの地に建つ離れをこんなに簡単に取り壊してしまっていいものだろうか、彼らの魂がまだこの地の上をさまよっているかもしれないのだから、きちんと事情を説明しご理解をいただいたほうがいいのではないか。そんな気持ちにさせられるのである。

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2009年1月 1日 (木)

2009年元旦

  元旦は朝から北西の風が強く吹き、ときに氷雨、あられが舞う、ろくでもない天気になった。ここ数日来、眉毛を焦しながら一生懸命続けていた畑での「不用品償却作業」もしばし中止して、コタツでのデスクワークにとりかかる。

  が、寒い。ぼろ日本家屋は隙間だらけで、北風がすーすー通り抜けていく。暖房は足元のコタツのみ。はーと息を吐くと、白く見えるほどに冷え込んでいる。和歌山というと南国のイメージを持つ人々が多いが、それは海沿いの地域の話であって、ひとたび山奥に入ると、山陰に遮られて、日の出は遅く、日の入りは早い。日照時間が極端に短いため、南国とは思えない底冷えに見舞われる。

  山裾にあるに中学校に通っていたころは、真冬でも教室には暖房もなく、寒暖計を見ると、しばしば氷点下を指し示していた。こうなると手がかじかんで鉛筆を持てなくなる。いくらはーっと息を吐きかけて暖めても温まるものではない。休み時間には給食を作る部屋から出ている煙突に手を当てて必死になって温めたものだった。

  居間の窓から北方を眺めると真妻山が見える。頂上では、雪が吹雪いているのが見える。寒いわけである。

  時々雨が小止みになるのを待って、少しだけ焚き火をする。何しろこの冬休み中に燃やし尽くさねばならないので、のんびりもしていられないのである。祖父は学者であり、教育者でもあったので、恐るべき分量の原稿を書き残している。何十冊ものノートや膨大な量の原稿用紙が突然現れる。それを次から次へと炎の中にぶち込むのだが、時々は気になって読んでしまう。読み始めると、つい面白くて、あられに打たれながら、焚き火のそばに立ち尽くしながらページを繰り続けることになる。

  このブログでもいつか記したことがあるが、安岡正篤氏という思想家がかつており、戦後の首相のご意見番として隠然たる力を揮ったという趣旨の話だったと思うが、その安岡氏とも交誼があったらしく、手紙が残っている。こんなの燃やしていいのかな、と思いつつもやっぱりとっておいても仕方ない、二人ともすでにこの世にはいないのだから、と自分に言い聞かせつつ、書簡を火にくべる。

  明日のブログででも、祖父がどのような原稿を書いていたか、書き写してみよう。もし、この時代に彼が生きていたなら、原稿を書くのがむやみに好きな人だから、きっとブログを活用していたに違いない。燃やしてしまうと、永遠にこの世から消え去ってしまう文章も、ネット世界に残しておけば、おそらく半永久的に地球のどこかに残り続けるのではないか、という淡い期待が心のどこかにあるからでもある。子孫としての、ある種の供養でもある。

  このブログを読みに来てくださっている極少数の皆様にむけて。皆様にとっても、今年が良い年になりますように、心よりお祈り申し上げます。

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