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2009年1月20日 (火)

苅谷剛彦「階層化日本と教育危機」を読む

  高速道路を車で走っていて、渋滞に巻き込まれたとき、遅々として進まぬいらいらから「どこのアホがちんたらちんたら走っとんねん!」と呪い声をあげることがある。

  ポルシェやBMWやベンツなど、軽―く時速200キロ走行できる優秀な車が、渋滞の先頭を、落ち葉マークを貼り付けた、どこぞのポンコツ車がよたよたと走っているせいで、そのオタンコナスに合わせて走らねばならない髀肉の嘆をかこってしまっているではないか、と。

  いっそのこと、右端のレーンは時速200キロ制限、真ん中は100キロ、左端は80キロという風に分けたらどうなのか、と思う。そうすればそれぞれの車の実力を十分に発揮することができるし、渋滞だって解消するだろう。それぞれに能力の違う車に、同じ規則を適用するのは、間違っているのではないか。

  というような私の高速道路上の呪詛を、苅谷剛彦氏の「階層化日本と教育危機 不平等再生産から意欲格差社会へ」(有信堂)という本を読みながら思い出した。苅谷氏は東京大学大学院教育学研究科の教授。現在の日本の教育現場の悲惨な現状を、「階層」という概念を持ち込みながら鋭利に描き出している。

  学者の書き物というのはえてして「研究のための研究」に陥りがちだが、本書には、一人の学者として、崩壊した日本の教育を再生するための一助となりたいという強い意志が漲っている。とても刺激的で様々な発見に富んだ論考が収められているが、門外漢の私にもとても興味深かった2、3の見解をここに拾っておきたい。

  まずは、「学力による序列化を悪しきもの」ととらえる戦後の風潮について。苅谷氏はこう書く。

<たしかに、戦後日本社会に生きる私たちの多くは、能力や学力、あるいは学業成績によって、子どもたちを差異的に扱うことを嫌悪してきた。学力や成績によって子どもたちを差異的に扱うことが「落ちこぼれ」や「非行」の原因である。そのような見方も、私たちのあいだにかなり広範に存在する。学力による序列化、成績による生徒の差異的処遇は、「差別」であり、「悪しきもの」である。教育をとらえるこのような見方は、すでに私たちの「日常的知識」とさえなっている。>(P68)

  では、

<日本の教育を、「能力主義的差別」、あるいは「差別=選別教育」として同定する教育の認識枠組みは、どのような経緯で発展していったのか。>(P69)

  こう言うとき、実は「差別」という言葉の意味合いが、国際比較の観点からすると、必ずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない、と苅谷氏はいう。たとえば英語における「差別」=discriminationはこのような事態を差別とは呼ばない、と述べ、英語圏における「差別」概念を次のように説明する。

<discriminate: to make a difference in treatment or favor on a class or categorical basis in disregard of individual merit(個人のメリットとはかかわりなしに、階級(集団)的あるいはカテゴリカルな基盤をもとに差異的な処遇をしたり、ひいきをしたりする)

Discrimination: the act, practice, or instance of discriminating categorically rather than individually (個人的にではなく、カテゴリカルに、差異的に扱う行為、実践、事例)>(P72)

  つまり個々人を、女性だから、黒人だからというような、カテゴリカルなくくりで画一的に処遇することが「差別」なのであって、<個人の能力差や成績の差異を基準とした差異的処遇にまで射程を広げ、そうした事態を「差別」とみなす議論ではないのだ。> 従って、<「能力主義的差別」や「差別=選別教育」として結晶化された、私たちが教育をとらえる認識の枠組は、(戦後)日本社会に出現した、社会的、文化的、歴史的な産物であるということができるのである。>(P73)

  そのような産物を生み出すのに精力的に寄与したのは日教組で、50年代から60年代にかけて、「能力主義」は「差別教育」につながるとことごとく指弾してきた。

<(・・・・・)教育における序列化や差異化を問題視する場合、序列のなかで下位に位置づけられた子どもの差別感を除去すべきであると判断し、そうした感情を喚起する教育を差別教育とみなす認識枠組みがつくりだされてきた。>(P81)

  その結果、

<「できない子」の心情を起点においた差別批判では、具体的な解決策は出にくい。成績による序列が問題の根源だとされ、にもかかわらず実態として残る学力差に対しては、成績による序列化をみえにくくすることのみが解決の方法となる。どの子もがんばればできるはずだ、という理想をかかげ、それでも生まれる差異については、「できない子」の心情を配慮し、できるだけ表面に出ないようにする。そうした解決策が、一方では欧米的な意味での教育における<差別>問題を不問に付し、他方で、まっとうな学力の評価さえ忌避する教育界の「雰囲気」をつくりだしてきたのである。>(P130)

  ここで、私の高速道路上の呪詛が立ち上がるわけである。なにもクルマを例に採らなくてもよい。マラソンでもいい。42キロを2時間台で走る生徒もいれば10時間かけても走れぬ生徒がいる。それは本人のやる気や「がんばり」とは別の次元で現に存在する。その時に、明らかに存在する個体間の能力差を無視して、10時間レベルの生徒に「悲哀」を味わわせないようにしようと、低レベルに合わせてみんなに「平等」な指導を施せば、2時間レベルの生徒にとっては、それは時間の浪費以外の何物でもない。それぞれの生徒の能力に応じた指導をすることこそが、まさに「平等」な教育というものなのではないのか、というのが私の考えである。

  身体能力に歴然と格差があるように、知的能力にも同様の格差が、人間にはある。それは「差別」ではなく「格差」である。それぞれの生徒がそれぞれに最高のパフォーマンスを発揮できるようにすることこそが、教育の本来の姿なのではないのだろうか。

  
    が、日本の教育界はそうは考えなかった。簡単に言えば、過剰な競争が子どもたちの心に荒廃をもたらすという理由から、「もっとゆとりをもたせよう、教える内容を簡単にしよう」という学習へ向かわせる圧力をぐんと低下させた。1999年10月号の「論座」で、文部省の寺脇研政策課長は、「だれでも100点が取れる」教育を目指すと語っている。

  おお、寺脇研! 懐かしい名前である。40年ほど前、「キネマ旬報」に日本映画評をせっせと投稿し続けていた東大生である。それに負けじと一生懸命映画を観て、しこしこ映画評を書いては送っていたのはこの私だった。ともに10代か20代の始めの頃である。そんな映画青年が、卒業して文部官僚となり、こんなふやけた教育理念を語るとことになるとは思いもよらなかったぞ、寺脇。

  寺脇らが推進した「ゆとり教育」が目指したものは、<自らの興味・関心に従い、自己実現をめざす、意欲あふれる個人、「自ら学び、自ら考える」個人、「内発的な動機づけ」にしたがった、自己啓発的な人間のモデル>(P178)を作り上げることだった。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」。そのことを自発的、内発的に考える生徒を作り出すことだった。

  しかし、ちょっと考えれば分かることだが、ほとんど哲学的ともいうべきこの難問に立ち向かうには、「自発的」「内発的」な思弁を待っているだけでは応えることができるわけがない。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」を考えるためには、まず「つべこべいわずに死に物狂いで勉強すること」が必要だし、「膨大な量の知識を自身に詰め込んでから」でないと「その知識」の有用性など分かるはずがないではないか。知識というものがそもそもそういうものなのだから・・・・・。

   結果、ゆとり教育という名の、「学習への減圧」は「馬鹿の大量発生」を招くことになったことは、先刻多くの方々が指摘する通りである。

   それだけではない。戦後、実際に存在する個人間の「格差」を見てみぬふりをしてきた教育界は、その背後に大きく潜む社会的格差=階層(収入や社会的威信や文化資本の有無)をもほとんど意図的に見落としてきた。苅谷氏がこの本1冊を要して問いかけているのも、戦後日本に厳然として存在する社会階層の存在と、それが教育の現状に密接にリンクしているという事実にどう対応していくべきなのかということなのだが、実はここにも驚くべき知見が記されている。

   詳しくは本書を参照されたいが、ごくかいつまんでいうとこうなる。

   統計的調査によると、低い社会階層の出身である生徒は、勉強時間が短く、かつ「あくせく勉学に励む」ことを忌避し、むしろ積極的に学習的態度からドロップアウトし、そうすることで「自身の有能感」を得ている、というのである。びっくりするような話ではないか。

   ここからは、私の想像である。つまり、彼らは、物心ついたときから、「がつがつ勉強ばかりしているやつは、人間のくずだ。人間にはもっと大切なことがある。自分と何か。本当に自分がしたいことは何か。それを追い求めることこそが人生で一番大切なことなのだ」という、ほとんど洗脳に近い教育を強く刷り込まれてしまったのではないか。だからこそ、がつがつとした「能力主義」の土俵に乗ることを忌避し、まさにそのことで自己の有能感を味わっているのではないか。

   しかし、その彼らを待ち受ける世界は、そのように甘いものではない。世知辛い能力主義が、日本のみならず、全地球規模で待ち受けている。しかし、彼らはドロップアウト・ライフスタイルを改めることはしない。いまさら改めようもないのだ。就職の機会には、そのライフスタイルを改める気持ちがさらさらない、というその理由で正規雇用者の地位を獲得するチャンスは極端に低くなる。結果、彼らの行き着く先はフリーターであり派遣社員という弱者の立場以外にはない。

   想像するに、彼らはまさにそのような立場に追い込まれているという事実にしがみつくようにして、今、自己の有能感を思う存分、満喫しているのではなかろうか。

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