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2009年1月 3日 (土)

わが祖父の文章をここに遺す

 

  私の祖父は、明治25年(1892年)に和歌山の山奥の貧農の家に長男として生まれ、昭和39年(1964年)の雨の日に、電車に轢かれて死んだ。

  明治45年に和歌山師範学校を卒業後、広島高等師範学校へ。卒業後は高等女学校、中学校の教師を務めた後、昭和7年に、母校・広島高等師範の教授に。以後いくつかの学校の教師を務めている。一生を教育者として過した人だった。そのことは、祖父の還暦を祝って刊行された「思想と教育」という小冊子に経歴として記されている。その小冊子は教え子たちが、師の学恩に報いようと、すでに一家をなした学者として自身の専門分野の論文を持ち寄るという形になっている。いったい、どういう人たちがどういった論文を寄せているか、「功徳」として書き出しておきたい。ちなみにこの小冊子は昭和30年に刊行されている。

正木慶秀 「戒律のゆくえ」

内海巌 「上代における仏教受容について」

越智通敏 「愚管抄の道理と政理」

高橋賢陳 「神皇正統記の実践原理」

木南卓一 「張横渠研究 朱子の理解を中心にして」

村上敏治 「江戸時代儒学者の義理の論   その習俗との関係」

縄田二郎 「石田梅岩の学における性と心との関係について」

井上順理 「政教論序説 社会政策と道徳教育との問題を中心として」

及川利二 「政治と教育」

斉藤岳夫 「社会科研究序論」

岩橋文吉 「教育編成の対象としての勤労青少年集団の性格と問題点」

小林健三 「西新道について その晩年定説の一考察」

   以上である。論文のラインナップを眺めれば、祖父がどのような学者であったかなんとなく分かろうかというものである。そのいかめしい論文が並ぶ小冊子の巻頭に祖父は「感想」と題して、こんなエッセイを寄せている。

<はじめ私は此処に回想録を書こうと思った。そしてペンを執った。しかし実際書きかけて見るとこれは可なりむつかしい事であって短い時日では出来ないことであることがわかった。又僅かの紙幅に載せかねることもわかった。しかし諸友がその研究の精華を集めて私の還暦を記念して呉れるのに黙って居るのも気持ちが納まらないので、挨拶の如き感想の如きものを書き綴って諸友の好意を謝したいと思う。

  還暦を記念して諸友が論文集を出して呉れるということは誠にありがたいことである。只ありがたいだけでなく自分に取っては甚だ過分な仕合せである。そういうことをして貰う人が世の中に幾人居るかを考えて見て、そうして正直に素直に自らを省みれば、これは全く過分なことである。過分至極のことであって勿体ないことである。或いは恐縮して辞退すべきことであったかも知れない。しかし昔学生であった諸君が皆成長して、学者として又教育者として今や盛りの年に及んで、老いたる旧師を偲んでその研究の一端を示してその寂寥を慰めてやろうという志は私としては辞退することの出来ないものであった。

  私が微力な学徒であり薄恩の師であったにも拘らず、斯ういう果報に恵まれるのは私の生涯携わった仕事が学問と教育であったからである。これが軍人や政治家や会社員であったら到底こんな喜に遇えないであろう。

  私は履歴書にある通り多くの種類の学校に勤務した。聾盲学校の如き特殊なものや幼稚園を除いては殆ど教育界のすべての場面を経歴した。これは殆ど無節操に近い遍歴である。私の如き教育界遍歴者は皆無ではなかろうがたしかに稀有であろうと思われる。

  しかしこれは勿論私の素志でもなく希望でもなかった。むしろ思いも寄らぬことになったのである。郷里の師範学校を卒業した時は私はひたすら善き小学教師になろうとのみ考えて居た。「一粒の麦」になるのだと決心して居た。その心情は極めて純真であり、その志望は熱烈でさえあった。又三十歳を出たばかりで郷里の中学校の教員になった時もそこに安住して一重に郷党の少年のよき伴侶になって此の処にわが生涯を尽くそうと決心して居た。そういう志が果たせなくて又しても又してもふらふらと迷い出たことは何回思い返しても残念なことである。迷い出たのは人に勧められたからである。勧めた人を恨む気持ちは勿論ないが、自分としてはそれだけの志を立てながら操持の堅固ならざりしを惜しむ心で一杯である。西先生が度々の勧誘を退けて生涯を広島に捧げ給うたことは誠に偉大である。先生の学徳は勿論どこに居られても偉大であるけれども、広陵の老書生として終わられたことの偉大さはその学徳の偉大さに匹敵するものであると私は思う。

  しかし既に無節操に遍歴し終ったのであるから今更悔やんでも仕方のないことである。只どの勤務地でも私は幸福であった。これは大いに感謝しなければならぬ。又実際大いに感謝して居る。冥加とか果報とか云う言葉を常に思い出すほど感謝して居る。私はどこでも楽しかった。どこでも最善を尽くしたなどとは決して言えないのであるが、どこでも人々に愛せられて幸福であった。周囲の人々を見ると私の如き者は多くは居ない。その理由は全然わからないが、私は権威の座に対する野心に乏しく、人と争うほどの覇気もなく、本物ではないにしても一応温良の相を備えて居たからであるかも知れない。

  米国では青年に適正検査を施してその人の個性に適した職業に就けてやると云うことがあるらしい。近年わが国でもその真似をして居るところがあるようであるが、吾が国では職が少なくて人が多い。誰も彼も先を争うて採用試験場に殺到し、採用された職場の仕事を適職とも天職とも観念してその事に勉励するより外はない。私の少年時代は日露戦争の頃である。適正検査などはない。それでも都会の少年は日常身辺に様々の職種の人を見る。親戚交友の間に官吏も軍人も医者も商人もある。父兄は子弟の個性を観察して適当の方向に指導することも出来る。私の育った山村には農家だけしかない。少年の目に映ずるのは農人と学校の先生とだけである。既に農人にならないと決定して居る少年には学校の先生を志すより外の道はない。それは選択の道ではなく只おのずからの道である。その間にも多少の彩色はあって真言宗の寺から小僧に貰われかかったこともあった。金持らしい家から養子の口がかかって法科を勉強して会社を経営させるんだと云うようなこともあった。材木会社の大将に担がれかかったこともあった。しかし教育と学問の道からは踏みはずすことがなくて、無節操ながら、遍歴ながら、ともかくこの一筋につながって今日に及ぶことが出来て、これは吾ながら実によかったと思っている。

  太平記に楠公の最期を叙して有名な七生滅賊の大述懐を載せて居る。それを罪障深くこそ覚えしかと言うのも一つの見方ではあるが、この楠公の述懐は後世太平記の流行とともに多くの人々を感発せしめた。それは主として七生滅賊と云うその内容が然らしめたのであるけれども、私はこれを内容抜きにして只その形式だけを考えて、やはり楠公は偉大であると思う。偉大であるのみならず幸福であったと思う。せがれは必ず堅気にしてと遺言する俠客がある。むしろ俠客の遺言はそれに決まって居る。作者はどう云うつもりで俠客にそんな遺言をさせるのであるか。その最期を悲壮ならしめようとするのであるか。悲壮は悲壮であろうが最期に臨んでわが生涯の経路を否定しなければならないのは誠に悲惨である。此上もなく悲惨である。救はれざる悔恨である。七生滅賊と言うは滅賊そのことに失敗した人の言葉である。しかし失敗はしたけれどもわが畢生の志願は完全に肯定して居るのである。桜井の遺訓はこの湊川の七生滅賊の誓に依って更に千釣の重きを加える。そんな意味で自分のことを考えて見ると自分は偉大ではないが幸福であることだけは確かである。私は行き替り死に替り万劫末代教育と学問に繋がって居りたいとまでは思わないけれども、もう一度この道を通れと言われても決して迷惑だとは思わない。>

  いかにも明治の人らしい、もって回った、のんびりした文章である。こういうストロークの文章も、優雅で嫌いではない。しかし、「楠公の七生滅賊の大述懐」と言われても、何のことやらちっとも分からない。しかし、当時この文章を読む人々にとっては、みんなが共有する逸話だったに違いない。時の隔たりをしみじみと実感する。

  のんびりした文章をもうひとつ。昭和38年(不慮の死を遂げる前年)に地元の新聞に寄せたエッセイである。タイトルは<漸く佳境に入る>。

<晋の顧愷之(コガイシ)は有名な画家である。一五〇〇年も前の人で、今残っている作品も稀で、僅かに存するものは勿論超国宝級のものである。この人の伝記を見ると、三絶を以って聞こえた人であると書いてある。その三絶というのは才絶、画絶、痴絶の三つだという。絶とは何事によらずずばぬけて人にすぐれて居ることである。才気は衆にまさって、画絶は抜群で、そして痴絶であった。痴はおろかとか馬鹿とかいうことで、痴絶とは間抜けていることも飛切りだったということになる。一体芸術の達人には、どこか抜けたようなところがある。余り目のつんだ抜け目のない人は、頼りになることもあるが、その半面油断のならぬところもあって面白みがない。この人は役人としても相当な地位にあったのであるが、多分役所の仕事などはしないで、画をかいたり詩文を作ったりしていたのであろう。

  甘蔗が好きであったと見えて、毎日甘蔗をしゃぶっていたというから甘党であったらしい。この時代は、有名な竹林の七賢の出た時代で、七賢には左ききの人が多かったが、この人は子供みたいに砂糖きびをかじって居た。ところがその甘蔗をかむのに末の方からだんだん根の方へかんで行った。ご承知のようにあれは根元の方が甘くて、末の方へ行くほど甘さが少なくなる。ずっと端の方は甘さがなくてすっぱいような変な味になる。この先生はその末の方のすっぱいところから始めて根元の方へ進んで行く。そして途中まで来たころに「漸く佳境に入る」といって嬉しそうな顔をしたんだという。晋書という本にそう書いてある。どんな顔つきの人であったかわからないが、役人あるから例の長いひげをはやしていたであろう。それが長い甘蔗をかかえ込んで口の端から汁をこぼしながら「漸く佳境に入る」などといったのでは、なるほど痴絶とでもいうより外はない。

「漸く佳境に入る」という言葉はそれ以来有名な言葉になって、昔泰山に登ったときにも五合目位の道の傍に「漸入佳境」の四字を達筆に彫り込んだ石碑が建っているのを見たことがある。漸くというのはだんだんとか、ぼつぼつとかいう意味である。「ぼつぼつ面白くなって来たわい」というほどの意味である。漸く佳境に入るものは世の中にいくらでもある。しかし甘蔗をかじっていて、だんだん甘くなって来たことを、漸く佳境に入るというのは、表現が大袈裟で普通の人にはちょっと思付かない表現である。その辺も痴絶愛すべき一端であろうか。聞いた人が面白がって評判にしたのであろう。

  ところが読者諸君、皆さんは何かうまいものを食べるときに、たとえばこれから楊梅(やまもも)が出るが、あれを食べるときに、黒く見えるほどよく熟したのが一番うまくて赤いのはうまくないがどちらから先に食べられますか。黒いのから黒いのからよって食べたらお皿にはまずくて赤いのだけが残る。しまいには一番まずいのが残る。その反対にまずそうな奴から先に食べて、うまそうな奴をあとに残しておく食べ方もある。どちらの食べ方をなさいますか。

  先憂後楽という言葉もあるが、あれはちょっと意味が違うので仮りに先苦後楽というとすると、先苦後楽か先楽後苦かということになる。苦しいことを先ずやってみて、楽しみをあとに残しておくか、その反対に楽しいことを先ず楽しんで、苦しそうなことをあとに残しておくか。あとに残しておくというほどでもないが、あとはまあ何とかなるだろうという位の気持で先楽後不顧とでもいうことにするか。もっともはっきりこの二種類にわかれて居るとは限らない。手当たり次第というのもあり、時によってどちらでもというのもあろう。そしてそれにはみなそれ相当の哲学みたいなものがついて居るであろう。

  この痴絶といわれた愛すべき芸術家はまずい方から先に食べて、漸く佳境に入ることを楽しみにしたらしい。私にはこれは痴絶居士にしてはいささか不似合のような気もするのであるが、ここにお国振りのちゃっかり性が出て居て、宵ごしの銭をもっているのは恥かしいというような人種との違いが見えて居るのであろうか。>

  長い。しかもひとつのネタを引っ張り倒し、うにうにと話をこねくり回しているあたりがいかにも明治の人間の文章という感じがするが、それはまあいい。面白いのは、読者に語りかけるという手つきである。話としてはさして面白いものでもないが、なんとか読者に面白く読んでもらおうというサービス精神に満ちているところが、いわゆる学者の文章らしくなくて好ましい。

  先に引用した文章は祖父が還暦を迎えた際に、記念刊行された小冊子から引いたものだが、その10年後。今度は「古希」の祝いが盛大に行われた。その祝いの発起人として、離れを掃除していたときに出てきた案内をみると100人ほどの名前が並んでいる。すさまじい規模の「お祝い」である。70歳を迎えた恩師を祝おうと、かつての教え子たちが勢ぞろいしたわけである。

 その師弟関係は、なんだか内田百閒の「まあだかい」を思い出させる、ほのぼのとしたものでもある。仰げば尊し、わが師の恩、というものがまだこの頃には世の中に確かな形で存在していたのである。

  そんな風にして「わが師」をもつことができた人たちは幸せだと思う。思えば、われわれの時代は「わが師」を持つことがはなはだ困難な時代であるように思える。

  ちなみにわが祖父の名は、西川平吉といった。

       

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