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2009年1月17日 (土)

師弟関係をめぐって

   正月に書いた原稿が、アップしようとした瞬間に、多分間違った操作をしてしまったのだろう、あっという間に消滅してしまったということはすでに書いた。4時間ほどかけて書いたものだったので、大いに落胆し、もう一度書き直そうという気も起きなかったが、気を取り直して再挑戦してみようと思う。というのも、その時に考えたことが、PCからではなく、頭の中そのものから消え去ってしまいそうなおそれがあるからである。

  これは冗談ではなく、シリアスな恐怖なのである。というのもたった1年しか経っていないブログなのに、過去のエントリーを読み返してみると、ふーん、自分はこんなことを書いていたんだと驚くことが多々あるからである。年配の作家のエッセイを読んでいると、既にどこかで読んだことのある話しがぶり返されていることがままある。あれは、ご本人は初めて書いているつもりなのだと思う。

  この正月に、大学教授だった私の祖父の日記や原稿や講義ノートなどを、畑に穴を掘って、そこでかたっぱしから燃やしたという話は1月2日と3日のエントリーで既に書いたが、その遺品を整理していると、教え子たちとの長きにわたるしみじみとした心の交流があったことがわかる。祖父が還暦を迎えたときや古希になったときには、かつての教え子たちが世代にかかわらず集って祖父の長命を祝ってくれている。そのことは、その際に記念に編まれた小冊子を見ると手に取るように分かる。それを目にしてすぐに思い出したのが、内田百閒をモデルとした黒澤明監督の遺作映画「まあだだよ」のことだった。

  老齢となった師を招き、かつての教え子たちはその長命を寿ぐ。そして、愛をこめて大声で師に問う。「(この世とおさらばするのは)まあだだかい?」。すると師は、ビールをぐっとあおって同じく大きな声で応える。「まあだだよ!」と。仰げば尊しの精神がまだ脈々と息づいていた、古き美しき時代の話である。

  翻って、我らの時代に、このような師弟関係は存在するのだろうか、と考えたときに、わが身を振り返っても否定的にならざるを得ない。「私は私、あなたはあなた」「わしもアホやけど、あんたもアホやあ」という、あらゆる価値観が相対化し、フラットに並列する時代にあっては、弟子が師を仰ぎ見て、その高みに近づこうと心に決める、というシーンに出くわすことはなかなかあるものではない。

  師弟関係というのは、人間的にも優れ、識見や人格が備わった師となるべき人が存在すれば、おのずと弟子がそこに集まり、自然に生じるもの、というものではない。あるいは、師となるべき資格を持った人物が、周りの優秀な若者を選んで、「今日から君は私の弟子である」と宣言してすぐに切り結ばれるものでもない。

  そのことをあまり誰も言わないようだが、師弟関係というのは、弟子となるべき人間が優れているときに初めて完成する関係なのではないかと思う。「師」は「弟子」から「あなたは私の師です」と名指されて初めて「師となる」。孔子が偉いのは、孔子が偉いから偉いのではなく、孔子を師と仰ごうと決意した七十数名の有能な弟子が存在したから偉いのである。もし孔子に弟子がいなかったならば、孔子は、ただ一代限りの傑出した人物としてその生涯を終えていただろう。孔子の思想が現代に至るまで残っているのは、有能な弟子たちがその思想を受け継ぎ、整え、輪郭を明確にして次代に引き継いでいったからに他ならない。

  荒川博が優れているのは王貞治から師と仰がれたからである。

  芭蕉が優れていたのは優れた門下生を擁していたからである。

  北野武が優れているのは、北野武を師と仰ぐたけし軍団がいるからなのである。

  つまり、優秀な弟子筋が存在しない時代には、完成度の高い師弟関係は生まれないのである。師弟関係というものを考えるときに常に私の頭に浮かぶのは、大学教授である内田樹氏のことである。以前、氏の文章を読んで驚愕したことがあった。その一文は「師恩に報いるに愚問を以てす」と題され、こう書かれていた。

<朝起きてメールをチェックすると、多田先生からメールが来ていた。
前日、今度の広島での講習会に杖・剣を持参すべきかどうか、学生たちから問い合わせが続いたので、それを確認するために先生にメールを差し上げたのである。
「メールで失礼いたします。今週末の広島講習会ですが、杖剣は持参したほうがよろしいでしょうか? これまでの広島講習会は体術だけでしたが、何人かの部員から問い合わせがあり、『要らない』と断言するのもはばかられて、お訊ねする次第です。
お忙しい中、お手数ですが、『持参せよ』か『持参せずともよろしい』かだけお知らせ頂ければ幸いです。」
という私のメールに多田先生は次のようなご返事を下さった。
「内田樹様
広島で杖、木刀の稽古を行った事は、旧広大の道場で一回だけあります。
今回は私も杖木刀を持ってゆこうと思っております。
『持参せよ』
多田  宏」
私はこのメールを読みながら、足ががたがた震えた。
多田先生が広島での講習会を始められたのは先生が20代の頃からのことと伺っている。ということは、ほぼ半世紀のあいだに先生が広島で杖・剣を使った稽古をされたのは一度だけということである。私が広島の講習会に参加するようになってからも多田先生が稽古で杖剣を使われたことは一度もない。
帰納法的な思考をする人であれば、ここは「確率的には『使わない』ので、持参するには及ぶまい」というふうに「合理的に」推論するだろう。
現に私もそのような「合理的思考」にいつのまにかなじんでいた。
多田先生は私にそのような「帰納法的推理」は「武道的思考」とは準位が異なるということをきびしく示唆してくださった。
私はそう解釈している。
だから、足が震えたのである。>(2005年5月4日の「内田樹の研究室」より)

  最初に、この文章を読んだ時に、私は何か悪い冗談を書いているのだと思った。「足ががたがた震える」ほどの話ではないではないか、と。しかし、読み続けるうちに、内田氏は本当に足をがたがた震わせたに違いないと確信するに至った。氏は、多田宏という武道家を師と仰ぎ、本気で崇敬しているのだということがひしひしと分かったからである。その時に思ったことは、このような構えで自らの師と仰ぐ人間に向き合うことのできる内田樹という人の卓抜な才能のことだった。

  すでに書いたように、ある人物が師となるためには、彼を師と名指す優秀な弟子の存在が不可欠だからである。内田氏にはもう一人、人生の師ともいうべきエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人の難解な思想家がいる。レヴィナスについて内田氏はあちらこちらで文章を書くだけでなく、師の著書の翻訳まで手がけていて、おそらくは生涯の師として仰ぎ続けるのだろうと推測される。師弟関係を切り結びにくいこの時代にあって、しかも決して長くはない人の一生の間に、二人の師を得ることできた内田氏の才能と幸運を羨まずにはいられない。

  だが、優秀な弟子がそのまま、幸福な師になれるわけではない。内田氏は、やはり氏のブログの文章で、ため息のようにその悲嘆をもらしている。

<そんなふうにしてフランス語で書かれたテクストを練れた日本語に翻訳するという仕事は組織的にニグレクトされ、その結果30年ほどして、日本の大学からフランス文学科というものそのものがなくなった。
もちろん、フランスに行って学位を取り、フランス語で著述している学者はまだいる。けれども、いずれいなくなるだろう。
日本のどこにもニーズがないからである。
日本にはもうフランス文学者もフランス哲学者にも需要がない。
「そのような人々の書くものを読む以外にフランスの文化にアクセスする手だてがない読者」を30年かけて根絶してしまったからである。
(・・・・・・)フランス語の世界では、「フランス語を日本語に置き換える」という作業の重要性が顧みられなくなった後に、学界そのものが重要性を失った。あと数年から十年のうちに消失するだろう。
もちろん、そのあともフランスで高等教育を受けてフランス語で研究し、著述を行う日本人はいなくならない。
けれども、先達が150年かけて錬成してきた「フランス語で書かれたテクストを適切な日本語に置き換える技術」は誰にも継承されずに消える。
私は長い時間をかけてその技術を身につけたけれど、もうそれを伝える「弟子」はひとりもいない。
私が長い時間をかけて身につけた二つの技術のうちのひとつ(合気道)については、それを伝えてほしいという人々がたくさんいるのに、フランス語を日本語にする技術については後継者が一人もいない。
「モヒカン族の最期」みたいなものである。>(2008年12月17日の「内田樹の研究室」)
  
  どうにも悲しい吐息である。

  しかし内田樹を師と仰ぎたいと思うような若者を、日本の教育界は戦後、組織的に芽むしり仔撃ち、根絶してきたのだから致し方ない。内田氏の目から見れば、弟子筋になるべき世代は、「あたり一面馬鹿ばっか」に見えているに違いない。

  もうひとつ、師弟関係を考えたときに鮮烈に記憶に残っているシーンがある。

  2008年の1月、フランス料理店「オテル・ドゥ・ミクニ」のシェフ、三國清三氏は、厚労省より「現代の名工」に選ばれ、その受賞を祝うパーティが帝国ホテルで行われた。ミクニ・ファンの各界の著名人(総理を辞めたばかりの安部晋三氏まで来た!)が臨席、パーティは華やか執り行われたのだが、その宴会場の隅で一台のモニターがDVDの興味深い映像を繰り返し、映し出していた。

  雨がそぼ降る中、オテル・ドゥ・ミクニの入り口で、三國氏は傘を捧げ持ち、直立不動の姿勢で、車から降り立つひとりの老人を迎えていた。老人は元帝国ホテルの総料理長の村上信夫氏だった。

 三國氏は中学卒業とともに札幌グランドホテルに就職。その2年後、帝国ホテルの村上信夫料理長に預けられ、徹底的にフランス料理の基礎を叩き込まれる。といっても皿洗いや後片付け、塩振りといった見習いの雑用程度の仕事しか与えられなかったのだが、その2年後、あろうことか村上料理長より、駐スイス大使館の総料理長に推薦される。料理らしい料理を作らせてもらったわけではないのに、驚くべき大抜擢である。時に三國氏は弱冠20歳。

「なぜ私は三国君を推薦したのか。彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら、下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。ちょっとした雑用でも、シェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。それと、私が認めたのは、塩のふり方だった」と村上は自著で、三國氏を抜擢した理由を語っている。これをきっかけに三國氏はフランス料理シェフの階梯をとんとん拍子に上り詰め、現在の地位を築くことになる。

  三國氏にとって、村上信夫氏は自身の人生を大きく方向付けた、大いなる「師」以外の何者でもなかっただろう。まだ十代だった彼の目の前に現れた大いなる存在に、一歩でも近づこうと、三國青年は、与えられた見習い仕事の合間に必死になって技を盗もうとしていたのである。

  それから数十年。今、三國シェフはかつての「恩師」を、自身の名を冠したレストランに迎え入れようとしている。車から降り立った恩師に傘を差し出し、テーブルへ案内する三國氏の表情は今より少し若く見えるから、オテル・ドゥ・ミクニをオープンした当時の映像かもしれない。東京の一等地に構えたレストランの厨房で、三國氏は恩師のために、ありったけの腕をふるって料理を作り始める。いまこうして、ここでこのような料理を作ることが出来るのは、ほかでもない、テーブルの前で自分の料理を待ってくれている、この老いた恩師がいたからなのである。

  できあがった料理を恭しく師の元に供すると、三國は緊張した面持ちで師の脇にはべる。両手を腰の前で合わせて直立不動である。師がナイフとフォークを手に持って料理を口に運び始めたときの三國氏は卒倒しそうなほどの緊張感に包まれている。

  村上氏が一口料理を食べ、三國氏の顔を見て静かに頷いたとき、三國氏はほとんど泣きそうな顔になった・・・・・。

  モニターでその様子を見ながら、私もまた泣きそうになった。にぎやかにざわめくパーティ会場の隅で、静かにハンカチで涙をぬぐった。その時、私の頭にあったのは、二人の間に流れた時間のことだった。長い長い旅路の果てに、一家を成した一人の料理人としてかつての恩師に向き合うことのできる三國清三氏の幸運を思った。そして、今にも泣きそうになるほどの真摯さで、「わが師」に向き合うその姿に、胸をつかれたのである。

  以上が、4時間かかって書いて、不注意で消してしまった文章の再現である。前に書いたものと、ちょっと違う気がするが、文章を書くと言うのは、その時の、一回きりのインプロビゼーション的行為なんだなあと、つくづく思う。以降は今思いついたこと。

  弟子がある人物をわが師であると名指すとき、極めて重大な決断を下すわけだが、しかしその時、弟子はまだ未熟で、人格、識見、技術のすべてにおいて師よりも劣っている。しかし、弟子はそのような劣位の状況下で、自力で自身の師を選ばねばならないのだが、そのようなことが可能なのだろうか?

  まだ加減乗除の計算がやっとの若者が、この人を自分の数学の師としよう、と過たずに決定することが果たして可能なのだろうか? 師選びに失敗することはないのだろうか?

  多分、多くの若者が失敗しているに違いない、と思う。だからこそ、エイチャンや長州力を師と仰ぐ若者が現れるのだろう。彼らの多くは人生のどこかで「師選び」を間違えたことに気付くか、あるいは今なお、エイチャンと長州力を師として崇敬しつづけ、そうすることで得ることができたはずの「なんらかの成就」を、依然として手にすることができずにいるのだろうと思う。

  しかし、限りある人生の途上で、自身より先行して生きるある人物を、師と言う名の人生の「ロールモデル」として選びとり、一歩でもそこに近づこうと決意して生きるという、そんな「構え」を持つこと自体の中に(師選びの成否はともかくとして)、その人の人生をより豊かにする鍵が潜んでいるような気がする。

  師を持つことが難しい時代であればこそ、なおのことそう思う。

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