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2009年2月

2009年2月26日 (木)

人生に負けるな! 玉置浩二

  
    はなはだしく遅ればせながら、YOU TUBEというものの威力、というのかやりたい放題といえばいいのか、そんなものをつくづく思い知らされることがあった。
  
    ある日の夜、突然、パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」が聴きたくなって、どこかでダウンロードできるかなとWEBを調べ始めたのだが、「その前に、一応YOU TUBEでも検索してみよう」と探ってみると、あっという間に、歌と映像が画面に映り出したので驚いた。
  
    そんなに簡単に見聞きできるならと、豊島たづみや園まりや伊東ゆかりの名前を片っ端から検索にかけてみると出てくる出てくる・・・・。そりゃ、CD売れなくなるわけだわ。
  
    で、すごく好きな歌である玉置浩二の「メロディ」を調べてみると、これまたいっぱい映像が出てきた。初期の玉置から最近の白髪頭の玉置まで広範にアーカイブされているので次々と聞いてみたのだが、驚かされたことがあった。
  
    時代によって、玉置の顔つきが違う。
  
    もちろん人間誰だって、若い頃と年老いたときとでは顔つきが違うのは当たり前なのだが、そういう容貌の変化ではない。「面構え」が違うのである。うまく説明できないのだが、是非一度YOU TUBEで玉置浩二を検索して、各時代の顔を見比べてみて欲しい。
  
    はなはだしく変わってしまっている。穏やかな明るい顔、狼のように鋭く険しい顔、ふっくらと穏やかに老いた顔。本当に同一人物なのだろうか、とその尋常ならざる変化に奇妙な感じをいだきつつ、彼のライブの記録映像なのだろう、「MR.LONLEY」という曲をア・カペラで熱唱する映像と歌声に接することになった。
  
    それを聞いているうちに涙が次から次へと溢れて出て止まらなくなってしまったのである。
    
http://www.youtube.com/watch?v=tdI0OTRYwIo&feature=related
  
    その時の玉置は、短く刈り上げた髪で、鍛えた身体をTシャツに包み、文字通り身をよじり、心の内奥から振り絞るように「言葉にならない悲しみ」を叫びに乗せて吐き出して見せている。
  
    それにじっと聞き入っているうちに、そこに「男の、死にそうなほどの孤絶の叫び」を聴き取ってしまったのである。「孤独な男の叫び」ではない。そうではなくて、「男が男として生きていかねばならないときに避けがたくまとわりついてくる孤独」についての絶望的な表白を玉置がステージの上で必死に行っているように思えたのである。
  
    なんなのだろう、この耐え難いほどの孤絶感は。いったい、何があったんだろう、と思わずいぶかしみ、その謎を解き明かしたくて、GOOGLEで玉置浩二と検索してみた。すると、今、彼は病気と闘っているという話に出くわした。それによると膵臓をいためて活動を休止しているとのことだった。
  
    なるほど、病気なのか、と思いつつさらにスクロールしているうちに、「ある時期に玉置は心を病み、精神科に入院。しかし、過剰な投薬に恐怖を覚えて退院、故郷に帰って自然の中で療養につとめた」という記事に出くわした。
  
    またしても、なるほど、と思った。玉置浩二は苦しんでいるのだ、と思ったのだ。

    そう思ったときに、なぜ自分が彼の歌が好きなのか、なぜ彼が作った歌にえもいわれぬ感銘を受けるのかが分かった気がした。その「面構え」の激変ぶりも腑に落ちた。そしてまた、彼は、持続的に安定した人間関係を維持することが決して上手ではなく、そのために3回もの離婚を繰り返したに違いない、という勝手な想像をしたりもした。
 
    一刻も早く病から立ち直り、もう一度元気な姿で、あの感動的な歌を聞かせて欲しいものだと思いつつ、その夜、PCの電源を落とした。
 
    翌朝、スポーツ紙の一面に、玉置が石原真理子とニトリで一緒に仲良くお買い物をしている写真が掲載された。そこには、長い紆余曲折の後、二人は最近よりを戻した、という話が書かれていた。もの凄いシクロニシティというものはあるもんだな、と不思議な気がした。
 
    記事を読みつつ、そうすることで玉置が幸せになれるなら、それにこしたことはない。はやく再びステージに立ち、またあの「孤絶の叫び」を聞かせて欲しいものだと思った。たとえ石原のおかげで「孤絶」の度合いがいくばくか和らぐことがあったとしても、それはそれでしょうがないな、とも思いつつ。

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2009年2月24日 (火)

「おくりびと」のアカデミー賞受賞を祝う

「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。大変な偉業だと思う。

昨年の秋に、松竹の試写室でこの映画を見た後、感動するところがあって、このブログでこんなことを書いた。

<悲しむ遺族の前で、床に横たわる遺体をきれいに整え、死後の世界へ送り出す葬儀社の青年の話である。本木雅弘がその青年の役を演じている。
   
    映画の性質上、次々と遺体がスクリーンに現れる。多分、布団の上に横たわる遺体がこんなに数多く登場する映画はこれまで洋の東西を問わず、存在しなかったと思う。だいたい、「おくりびと」を主人公にした映画を作ろうと思い立ち(まあ、思い立つことはあるだろうけれど)、それを完成させた製作者たちの腕力には、脱帽するしかない。
   
    その次々に登場する遺体の一人が峰岸徹さんだった。ただ、せんべい布団の上に無精髭を生やして「死んでいる」役である。回想シーンで数秒間ほど生きているシーンがなくはないが、登場シーンはほぼ「死んでいる」役なのである。しかも、本木が愛憎を抱く実父の役であり、実の父親の死に装束を調えるもっくんが静かに涙を流すシーンは圧巻である。
   
    峰岸さんが肺ガンで亡くなったという報に接したときすぐに思い出したのはこの映画のことだった。撮影は昨年の春ごろだというから、まだ病はそれほど重篤ではなかっただろう。が、ご本人も周囲の人たちも、峰岸さんが肺ガンに冒されていることは知っていたに違いない。
   
    そんな、「死にとても近づいている」俳優に、「死んでいる」役を依頼しに行った人もすごいけれど、その要請をしっかと受けとめて、自身にひたひたと近づきつつある「死んでいる人」の役をみごとに演じきった峰岸という役者もすごい人だとしみじみ思う。
 
    役者の持つ、すさまじいまでの業というものを感ぜざるをえない。>
  
    今回の受賞を峰岸さんもどこかで喜んでいることだろうと思う。
  
    この映画の凄さにはいくつかのレベルがあると思う。まず、①納棺師に着目しその映画を作りたいと思いたち、その実現化に努めた映画人がいた、ということ。自分が映画人だったら、と想像してみればいい。まず、思いつかないし、思いついたとしてもすぐに自分で否定してしまっているはずである。

    その次に、②どうみても興行的には大成功をおさめるとは思いがたいテーマの映画を作ることにGOサインを出した松竹の雅量の大きさ。制作陣は最初に東宝に話を持って行ったらしいが、合意に至らなかったらしい。東宝が失ったものは大きい。

    ③は、公開時には小規模でスタートしたにもかかわらず、じわじわとクチコミでその評判が広がり、最終的には多くの観客を感動させたと言う事実である。誰がどう考えたって、爽快な話ではない。見終わって自身の人生が前向きな明るいものに思えるようになる、というものでもない。

    にもかかわらず、観客が押し寄せたという事実に、なんだか「凄い」ものを感じる。

    納棺師は、人間が死んだ際に、その人を厳かに、傷つけることなく、誠意を持って死者のサイドへ送り出す役目を負っている。生者が死者へ移行し、この世ではないどこかへ旅立つ儀式を、死者の尊厳をそこなうことなく、執り行なう者のことである。

    内田樹氏はその著書「街場の教育論」(ミシマ社)の中で、孔子の六芸、礼、楽、射、御、書、数の筆頭である「礼」というのは「祖霊を祀る儀礼のこと」であると書いている。

<どうやって正しく死者を弔うか。これが人間が第一に学ぶべきことである。(・・・・)葬礼というのは「正しく祀れば死者は災いをなさない。祀り方を誤ると死者は災いをなす」という信憑の上に基礎づけられています。生きているもののふるまい次第で死者のふるまいが変わるというのは、要するに死者とのコミュニケーションが成立しているということです。「存在しないもの」とも人間はコミュニケーションできる。これを人間が学ぶべきことの筆頭に置いたというのは、人間の洞察として深いと私は思います。>(P84)
   
    つまり、もっくんは「死者とのコミュニケータ」なのである。
  
    この映画の「凄さ」の④は、先に書いた映画人の発意や、映画会社の雅量や、この映画が持つテーマの真摯さもさることながら、「そんな映画を観ようと足を運ぶ日本人がまだ数多くいる」という日本の社会事況そのものが、おそらくはアカデミー賞選考委員の心を揺さぶったに違いない、という点にある。
  
    多くの欧米人にしてみれば、日本にいる、この「死者とのコミュニケータ」は見たことも聞いたこともない、驚くべき存在だったに違いない。日本には、自分たちとは全く違う死生観を持ち、全く違う方法で死者と接する人がおり、その人をテーマにした映画を観るためにわざわざ足を運ぶ多くの日本人がいるという事実に、「なんだか分からないもの」を感じてしみじみ畏怖したのではなかろうか。
  
     彼らがこの映画をどう観たのか、早く知りたいと思う。

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2009年2月21日 (土)

第三回関西人の会行われる

   
    先週、1年ぶりに「関西人の会」を行った。会といっても、単に関西出身の、仕事も年齢も趣味も違う面々が集まって、大声で関西弁をしゃべり倒し、飲み食いするだけ、という素朴で純粋な会である。

  会場は、今回もお好み焼き屋「ごっつい」。今回は六本木は芋洗坂にオープンしたばかりの店になった。参加メンバーは報道カメラマンの不肖・宮嶋こと宮嶋茂樹氏、ライターの森綾さん、ママリブ主宰&伊原剛志夫人の伊原純子さん、レコード会社にお勤めの川もっちゃん、そしてコンラッド東京にお勤めのT香さん。

  関西人といっても出身地はさまざまで、私と伊原さんは和歌山、森さんとT香さんと川もっちゃんが大阪、宮嶋氏が兵庫。同じ関西弁でも出身地ごとに微妙に違う。南にいくほど声が大きくなり、荒っぽくなる。だから、「和歌山は日本のシシリーやで」という発言も飛び出す。

  北部イタリア人にとってシシリー島なんてのはほとんど別の国だもんね。

  毎回参加していたTFMのT谷さんは体調不良のため欠席。欠席理由は体調のせいだけではなくて、頭上をほんまもんの関西弁が飛び交うと、もうほとんど会話に参入することができないほどの心理的圧迫感があるからのようだ。

  典型的関東人であるT谷さんの言語感覚からすると、生の関西弁は「なんか怒鳴られてるみたいで、こわい」んだそうである。

「あの、宮嶋さんがよく使う<おま>って何なの?」
「おま?」
「うん、<○○でおま>とか<そりゃあんた、○○でおますがな>とか。あの<おま>って何なの?」
「うーん、なんなんだろうねえ。全然気にしてなかったけど・・・」

  で、説明したのが、<○○でおま>というのは、<○○でおます>の簡略形であること。<おます>は<です>の関西での表現であることだけだったが、詳しくいうとこんなことになるらしい。

「ある」の丁寧語に「御参らす」という言い方があって、それが転じて「おます」となった。それが短縮化されたのが「おま」。京都のおねえさんが「~でおす」と色っぽく言うのは「おはす」が転じたものであるらしい。

「おます」は「で」とくっついて丁寧な断定を表わしたりもする。「○○○でおます」というように。

    T谷さんは関東人の女性なので、不肖・宮嶋の口から頻繁に発せられる<おま>単語が妙に気に障るのかもしれまへんな。

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2009年2月20日 (金)

チュッパチャップス

  
    うー。紀尾井町のオーバカナルで、ハーフアンドハーフのビールを飲んで、ステーキフリットを食っちゃったから、しばらくはクルマの運転ができない。酔っ払ってるもんね、はっきりと。酔いがさめるまで、しばしコツコツとブログ書きに励も。

  二日前に、信濃町の創価学会の裏手にある立派な貸スタジオで、「コンサートのリハーサル」というものを初めて経験した。午後2時からスタートして終わったのが夜10時。演奏するグループが一組、あとは出演するアーティストが時間差で次々とやってきて、自分の担当する歌を歌い、細かいところを打合せする、というのがパターンだった。

  感心したのは、そこに集まったメンバー全員の音楽リテラシーの高さ。まあ、プロなんだから当たり前といえば当たり前なんだけど、楽譜も読めなければ、空気も読めない私にしてみれば、ただただ驚くことばかり。

    初見の楽譜を見て、全員で、「8番目のFのところでベースのソロ入れとこうか」「この終わりはバンバッ、バンバッ、バッ、でいっとこう」と何言ってるんだか素人にはさっぱり分からない相談の後、「じゃあ、軽くやってみよう」と演奏が始まる。アーティストが歌を歌う。もう随分前からみんなでこの曲を演奏してきたんじゃないか、というくらいの完成度である。

    ジャズの場合には絶妙のアドリブなんかも入れて楽しんでいるとしか思えない。プロというのは凄いもんだなあと思うとともに、でもこれは野球で言えば、松坂投手がブルペンで、130キロくらいのストレートを肩慣らしで投げているようなもんなんだろうな、と思う。本気で投げたら、凄いんだろうなあ、と。

    レイ・チャールズの「ジョージア」の音合わせの時には、関西出身のバンド・リーダーが「まだ8時やのに、ジョージア」とくだらない駄洒落を愉快に飛ばしていたから、この人たちが本気になったらかなり凄いことになるに違いない。本番は3月2日。楽しみである。

    しかし、この人たちは休憩時間に猛烈にタバコを吸う。嫌煙権とか禁煙スペースとか肺がんとかの語彙は、この方たちの楽譜にはない。廊下が灰色にかすむくらいにタバコを吸う。紫煙が苦手な音楽家はどうするんだろう。

    私は仕方がないので控え室に大量に用意されたお菓子に手をつける。壜にいっぱい詰まったアメをひとつ取り出してなめる。ちゅぱちゅぱなめる。

    リハーサルが終わって、「お疲れ様でしたー」の挨拶を済ませ、また壜の中から、棒つきキャンデーを一つ取り出してくわえ、ちゅぱちゅぱしながら最寄り駅の信濃町に向かう。これ、ちゅぱちゅぱするからチュッパチャップスというんかいな、と思いながら。

    信濃町の改札口を抜け、口から出た棒を上下に躍らせながら階段を下りてプラットフォームに着くと、そこに似た年恰好の男がいた。ハンフリー・ボガートみたいなしぶいコートを着ている。その男が私の方を振り向いた。

    あ、と驚いた。その男も口から棒を突き出してちゅぱちゅぱしていた。全く見知らぬ男だが、お互いに気まずく目をそらした。男は千葉方面へ、私は三鷹方面の電車に乗った。

    電車に乗ってから、笑いがこみ上げてきた。

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2009年2月15日 (日)

うれしはずかし科学者の名前

  福岡伸一氏の「できそこないの男たち」を読んでいて、ふと気づいたことは、科学の世界には、人名の付された発見が数多い、ということだった。

  同書には、受精後数週間目の胎児には2本の管が生まれ、それぞれミュラー管、ウォルフ管と呼ばれると書かれているが、ともに発見者の名前である。

  シュレジンジャーの猫とか、パブロフの犬とか、その科学者の理論を説明する際に引き合いに出される動物も多い。

  病名にも、発見者の名前を冠したものが少なくない。バセドウ氏病(1840年にドイツ人の医師カール・アドルフ・フォン・バセドウが発見)やハンセン氏病(1873年にノルウェイのアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見)などはよく知られている。
  
  意外に知られていないのが、温度示す摂氏や華氏が人の名前であるということ。摂氏は1742年にスェーデン人のアンデルス・セルシウスが考案したもので、1気圧下における水の凝固点を0℃、沸点を100℃とするというもの。セルシウスで摂氏だから、これはまあ、想像がつく。

  じゃあ、華氏は? これはドイツ人の物理学者、ガブリエル・ファーレンハイトが1724年に提唱したもの。これはクリスチャン・ディオールの香水の名前にもなっているから、意外に知られているかもしれない。でも、ファーレンハイトのどこが華氏なのかちっともわからん。実はファーレンハイト(Fahrenheit)の中国語訳が「華倫海特」で、そこから華氏になったんだそうな。なぜ、中国語を経由して本邦に入ってきたのかは分かりません。

  人体各部の名称にもその発見者の名が付けられている。

  ランゲルハンス島は、村上春樹氏が「ランゲルハンス島の午後」なんていうロマンチックな名前のエッセイ集を出しているけれど、これは膵臓にある細胞の塊のこと。発見したのは1869年にドイツの医師パウル・ランゲルハンスが発見。

  エウスタキオ管というのは高校の生物の授業で習って、今でも覚えている名前だけど、耳から鼻に抜ける細い管のことですが、これはイタリアの解剖学者Eustachioが発見したものだそうである。

  イタリア人というのは小さな管が好きなのか、その名を聞くと今でもドキリとしてしまうバルトリ氏腺というものがある。高校生の頃にその名称を知って以来、懐かしい名前だが、ときどきスポーツ選手や音楽家の名前でTVで大声で連呼されたりしてどぎまぎしてしまうことがある。どういうものなのかは皆さん、検索して下さい。

  もうひとつ、その発見者の末裔の方々は肩身が狭かろうなあ、というのがカウパー氏腺。1702年にイギリス人の外科医ウィリアム・カウパーが発見、ということになっているが、ここから分泌される液体をカウパー氏腺液という。ウィキペディアではその俗語として「先走り」「ガマン汁」「第一チンポ汁」と記されている。私が書いたのではない、ウィキペディアがそう書いてるんです、はい。

  カウパー家の末裔の方々は「うちの先祖は、また、ずいぶんなものを発見しちゃって・・・」と思っておられるかもしれない。

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2009年2月12日 (木)

男は女のできそこないである


  科学者が書いた読物は大概が面白くないものだが、福岡伸一氏は数少ないその例外の筆者のひとりである。氏が書いたものを初めて読んだのは「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)だったが、まずはその語り口のうまさに舌を巻いた。

  学者の読物には、その専門分野の該博な知識は確かに充填されてはいるのだが、その知識を「いかに面白く読ませるか」という「物語る技術」がはなはだしく欠落していて、なかなか読み進めないことが多い。

  そういう意味で、福岡氏の、その端正で詩的な文章や簡潔な比喩が駆使された「物語力」は群を抜いている。「須賀敦子さんの文章が好きだ」とどこかで書いていたが(私も大好きである)、確かにそうに違いないと思わせられる繊細な文章にしばしば出会って驚かされることも多い。

  今、手元に「生物と無生物のあいだ」がないので記憶で書くのだが、刺激的だったのは、ドイツの生物学者、ルドルフ・シェーンハイマーという人が唱えた「動的平衡論」の紹介。我々は人間の体が様々な分子で構成されていることを知っている。そして人体を構成する分子は固定されたままである、と思い込んでいる。

  食物を摂取しても、ただ消化器官で消化吸収し、不要物を排泄するだけ、食物を構成する分子群は体内をスルーしていくものだと思い込んでいる。しかし事実はそうではないということを、シェーンハイマーは実験で証明して見せた。簡単に言えば、我々の身体を構成する分子は、つねに入れ替わっているのである。体内に取り込まれた食物は分解され、原子、分子レベルで、体を構成しているそれと頻繁に置き換わっているというのである。

  これを読んだときに私が抱いたイメージはバケツに水道水がざーざー注ぎ込まれている様子だった。バケツは私たちの体。注ぎ込まれる水は食物。どれだけたってもバケツの中の水はバケツの形だが、中の水は常に入れ替わっている。行く川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず、というわけである。確たる形で確固として存在しているように見える生物も、実はとてもはかなくも流動的な存在なのだと知らされて、興奮してしまったのである。

  もう一点は、ウイルスについて。私はウイルスと言うのはごくごく微小な、極めて悪辣なバイキンのようなものだと思い込んでいた。拡大すれば身体や足があるに違いないと思っていた(私だけなのかな、そんなことを思っていたのは)。

  しかし、ウイルスは生物とも無生物ともいえぬ、まるで鉱物のように見える物質なのだという。ふーん、そうなのかあ、と目からウロコがぱらぱらと落ちていった。どうして高校の生物の教科書にはそういう面白いことが書いてないのだろうか。

  またしても前置きが馬鹿みたいに長くなってしまった。今回書きたかったのはそんなことではなくて、福岡氏の近著(といっても08年10月刊)の「できそこないの男たち」(光文社新書)。今回もまた、ウロコが何枚もはらはらと落ちまくるほどの面白さだった。

  その面白さは「物語る力」にあると思うが、ご本人もそのことを的確に指摘している。

<教科書はなぜつまらないのか。それは、なぜ、そのとき、そのような知識が求められたのかという切実さが記述されていないからである。そして、誰がどのようにしてその発見に到達したのかという物語がすっかり漂白されてしまっているからでもある。>(P37)

  今回、福岡氏が読者を案内してくれるのは、「男はいかにして男になるのか」という、これまた実に興味深いテーマにとりつかれた科学者たちの、しのぎを削りあう研究・実験のスリリングな現場である。精子の発見、染色体の発見、遺伝子の働きの解明などののち、その科学的巡礼の最後に我々が辿り着くのは「生命のデフォルト=基本仕様はメスであり、オスはメスのできそこないである」という身も蓋もない結論である。

  アリマキという小さな蟻のような昆虫がいる。この昆虫はすべてがメスで、生殖行為もなくメスがメスを産むという営みを営々と続けている。が、冬になる直前にだけ極少数のオスが産まれる。女の群れの中に生れ落ちたオス君は、まさに腎虚、恐るべき数のメスと死ぬまで交わり続けることになる。

  確かに生命の基本仕様はメスだが、ひたすらメス→メス→メスとつながる単一の命の流れの中では遺伝子はすべて同一である。延々と同一遺伝子が継続するということは環境の変化への対応を考えるとはなはだ脆弱なものだといわざるを得ない。そこで、遺伝子をシャッフルする役目を負ってオスが登場したわけである。

<つまり、メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。生物界においては普通、メスの数が圧倒的に多く、オスはほんの少しいればよい。(・・・・・)
  本来、すべての生物はまずメスとして発生する。なにごともなければメスは生物としての基本仕様をまっすぐに進み立派なメスとなる。このプロセスの中にあって、貧乏くじを引いてカスタマイズを受けた不幸なものが、基本仕様を逸れて困難な隘路へと導かれる。それがオスなのだ。>(P184)

「すべての生物はまずメスとして発生する」という事実は人類にあっても例外ではない。その証拠に、人間の胎児は染色体の型(XXがメス、XYがオス)に関係なく、受精後7週目までは全員が女である。それ以降、オスはメスを無理矢理改変する形で形成されていくのだが、そのあたりのことを福岡氏は次のように説明する。

<生命の基本仕様。それは女である。(・・・・・)
  基本仕様によれば、まず割れ目から細い陥入路が奥へと伸びる。これはミュラー博士が注意深い顕微鏡観察によって見出した、胎児における原始的な管組織である。以来、袋小路のこの管は、ミュラー管と呼ばれるようになる。
  ミュラー管は、このあと細胞分化によって入り口の部分は膣に変化し、奥に行くにしたがって広がりつつ、子宮、そして卵管を作り上げる。(・・・・・・・)割れ目の中央にできた膣口の上に、腎臓へ伸びる尿道が開口する。さらに上方の舳先(へさき)には尖った陰核が作り出され、割れ目は船形の、より割れ目らしい形となる。これが生命の発生プログラムにおけるデフォルト=基本仕様なのだ。
  では、もしこの子が男の子になろうと思うなら、まずしなければならない変更点は何?
  それはなにはともあれ、割れ目を閉じ合わせることである。男なら皆、自分の体の微妙な場所で、それが実際に起こったことだということを知っている。睾丸を包む陰嚢を持ち上げてみると、肛門から上に向かって一筋の縫い目がある。それは陰嚢の袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐ続いている。
  俗にこれは、“蟻の門渡り”と呼ばれる細いすじである。男の子は早いうちからこのすじの存在に気づいている。(・・・・・)
  蟻が一列に並んで渡らなければならないほど狭い通路、そう名づけられたこのすいじこそが、生命の基本仕様に介入してカスタマイズがかけられたことを示す、まごうことなき痕跡なのである。>(P154)

  福岡センセイが思いっきり楽しみながら書いている様子が目に浮かぶ。絶好調な筆致である。もうすこしゼッコーチョー振りをご披露しよう。

<このカスタマイズのプロセスでひとつだけ不都合なことが生じる。要らなくなった膣口を閉じることはよい。大陰唇を縫い合わせて玉袋をつくることもよい。が、そこから上の割れ目を全部閉じ合わせてしまうとどうなるか。精子を放出する開口部が出口を失ってしまうという困った事態が出来する。また、はたと気がつけば割れ目を閉じると尿の出口もなくなってしまうではないか。>(P163)

  いいですねえ、もう筆は止まりません。

<しかしそのとき一つだけ配慮が行われた。(・・・・・・)縫い合わせる際、尿と精子が通過できる細い空洞を残しながら割れ目を閉じていったのである。(・・・・)内部に細い通路を残しながら小陰唇を全部左右に縫い合わせると最後に三角形の突起に行き当たる。小陰唇を合一した棹は最後にその頂にこの三角形の突起をドーム状に拾い上げて載せてから、その下側に通路の口をあけた。テストステロンの作用がこれらに参画するすべての細胞の増殖を促進し、一連の造形を太く、長くした。これで完成である。
  男性諸君、今一度、自分の持ち物の形状を仔細に点検してみよう。棹にあたる部分はあたかも“たらこ”のような紡錘形の海綿組織を左右から寄せ合わせたようになっている。亀頭の部分もそうだ。こけしの頭の真ん中に穴をうがったような単純な半球形ではない。まさに爬虫類の頭部のように上側は丸く底面は平たい。そして尿道はその底面の中央をあたかも左右に寄せたような浅い通路を通って開口しているのだ。この不可思議にも精妙な形状はすべて、女から男へのカスタマイズの明々白々な軌跡そのものなのである。>(P164-165)

  実にスリリングで、手に汗握る迫真の描写力である。男は性器ひとつとってもこのように無理に無理を重ねて女から改造されるのだから、体全体を考えれば、おそらく想像を絶する負荷がかかっているだろうと思われる。

  多分そのせいで、男は女より寿命が短い。あらゆる国で、ありとあらゆる民族や部族の中で、男は常に女より平均寿命が短い。男は女より、いつでもどこでも弱く、死にやすい存在なのである。弱きもの、汝の名は男なり、三時のおやつは文明堂! なのである。

  長くなったが、もう一つ二つだけこの本が教えてくれた驚愕の新事実(?)を記しておきたい。2002年に世界中の男性から多数のY染色体が集められた。Y染色体は人をして男たらしむる指令が書き込まれた染色体のことで男だけが持っているものである。これを精査した結果、分かったことは現在地球上に存在するすべての男性は、十数万年前、アフリカで生まれた一人の男性に由来する、という事実だった。

  アフリカから始まった「男の旅路」はC、D、E、F、K、Pの6つのルートに大別できるが、それを大雑把に描くとこういうことになる。

  C系統はソマリア沿いにアフリカを脱出、アラビア半島を経てインドへ向い、その後、インドネシア、パプアニューギニア、オセアニアに。

  C系の一部は分派してインドシナ半島からアジア大陸を北上、バイカル湖付近に至る(C3型)。C系統の分岐が起こったのは約2万8000年前、旧石器時代のことである。シベリアに達したC3系の一部がサハリン、カムチャツカ半島を経由して日本にやってきたと思われている。このC3型はベーリング海峡を渡って、アラスカからアメリカ大陸にまで足を伸ばし、アメリカ先住民となった。

  D系統はアフリカを出てひたすら東を目指した。インドシナ半島を北上、一部はモンゴルへ、一部はチベットへ。最後の一団は朝鮮半島を経由して日本の南部へ。ここに安住の地を見つけ繁栄した(D2型)。D2型は日本固有のタイプで、日本人の男性はほとんどがこのD2型。Dからすぐに分岐したE型はアフリカに留まったり、ヨーロッパ南部に定住した。

  F系統は世界各地に散らばり、もっとも沢山の分派を生み出した。F系の子孫であるG、H、I、J系は主に中東と西アジアに。F系から枝分かれしたK系はさらにL、M、N、O系を生み出し、東南アジア、中国に広がった。

  F系から枝分かれしたもう一つの分派、P系はRとQの系統を生み出し、彼らはヨーロッパ人となっている。

  女性のルーツもミトコンドリアの遺伝子を解析することで、アフリカに生きていた一人の女性であるということが分かっているが、人類はみんなアフリカからやってきた兄弟ということになる。この長い長い遺伝子の旅路を考えるとめまいがしそうになる。

  最後に本当に驚いたことを簡単に記して終わりとしたい。これから書く知見は2003年に「アメリカ人類遺伝学雑誌」という専門誌に発表されたというから、信用するに足るものではないかと思う。発表したのは、オックスフォード大の生化学者たち24名の共同研究である。

  彼らは、アジア16地域から採集した2123人の男性のY染色体をこまかく解析し分類を進めた。サンプルのうち92%は出アフリカを果たした様々な男たちを祖先とする混成集団だった。ところが、残りの8%の男性はなぜか、ほとんど同じ型(C3型の系譜)を共有していた。しかもこの8%の男たちは同一の民族でもなく、同一地域に住むものでもなかった。男たちは、広く、中国東北部からモンゴル、果てはウズベキスタン、中央アジアはアフガニスタンに至るまで広大に散在している。通常、このような広大な地域に同一型の染色体をもつ男がぱらぱらと住んでいることは確率的にはありえないことなのである。

  だが、実際には、そのありえないことが起きている。
  この8%の男たちの染色体を詳しく調べると、全員にわずかな染色体の書き間違いが見られ、その間違いが起きたのは約1000年ほど前のことだということが分かった。1000年前、アジアはどうなっていたか?

  1162年ごろにチンギス・ハーンはモンゴルの有力な一族に生まれ、1206年には全モンゴルの支配者となっている。モンゴル帝国は西はチグリス川まで版図を広げ、世界史上最も広大な領土を有する帝国となった。征服した国々での略奪は凄惨を極めたが、チンギス・ハーンはどの戦士たちにも平等な略奪権を与えたという。しかし、例外があった。美女はすべてチンギス・ハーンに献上しなければならなかった。

<かくしてチンギス・ハーンのC3タイプY染色体は数え切れないほど多く蒔かれたのである。数多くの子孫たちはまた各地に散開し、より多くの種を蒔き、それが何世代も繰り返された。その結果、あらゆる場所の、あらゆる階層にハーンの刻印があまねく広まることになった。
  もちろん、チンギス・ハーン自身のY染色体を現在、手に入れて調べるすべはないから(チンギス・ハーンの墓がどこかはいまだに謎である)、厳密に言えば、アジアの1600万人に共有されているY染色体が、ハーンに由来するものだと100%は断定できない。
  しかし、このY染色体が出現した時期とその分布がモンゴル帝国の勃興と領土にぴたりと一致し、帝国の境界線を越えた地域ではほとんど見つからないことは、これがまぎれもなくハーンの染色体であることを示唆するものである。>(P226)

  時に、こんな記述に出くわすから、科学物の読物はやめられないのである。

  
  

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2009年2月10日 (火)

そこにあったものがなくなることによって       立ち現れてくるもの

 
  週末の夕刻、羽田から小さなジェット機に乗って、田舎に帰った。出発ゲートをくぐるとバスに乗って航空機にまで運ばれる。ちっぽけな地方の空港向けの便は、こんなふうに冷遇されている。

  だけど、そのおかげで、バスから降りてタラップまでの数メートルを歩く間に、冷えた夕暮れの空気の彼方に富士山の影を見ることができた。

  あくまでもだだっ広い空港の滑走路のはるか向こうにその姿を認めると、いつものように、ああ、江戸時代の人々は関東平野からこんなふうにして毎日、富士の姿を仰いでいたんだろうなあ、と懐かしさに似た感慨を抱く。

  今は東京のどこに行っても、ビルやマンションが林立して、関東平野の広大さを自覚する機会はない。智恵子は「東京には空がない」と嘆いたというから、その頃から、東京には建物が犇いていたのだろう。

  だから、ふっとタイムスリップしたようなこんな光景に出会うと、得したような気分になるのだ。例えば、道を歩いていて、ビルの取り壊し(四ツ谷の駅から半蔵門に向かって歩いていると、最近なぜか建て直しが多い)に出くわすと、囲いの間からその風景を覗いてみる。

  すると、ビルがあったせいで見えなかった「ビルの向こう」の風景が見えてとても新鮮に感じることがある。ああ、麹町に住んでいた江戸の住民は、この風景を見ていたんだなあ、と妙な気持ちになる。そこにあったものがなくなることによって、そこに物がなかった頃の時間が帰ってくる、というような感じである。

  今回の帰省は、「離れ」の取り壊しに立ち会うためである。昭和13年に建てられた木造の平屋は歳月とシロアリと居住者の急減によってすっかり荒廃してしまった。もはや建て替えるしかないので、昨年末からせっせとその中に収められていた家財道具を整理し続けていたことは、このブログでもしつこいほどに書いた。

  いよいよその取り壊しである。70年間そこに家が建っていた場所は、大きなブルドーザーがやってきて、ひとたまりもなく平地に戻った。本当にあっというまだった。敷地が広く、明るくなった。おお、我が実家はこんなに広かったのか、と驚くほどさっぱりしてしまった。

  長い黒髪の美女が丸坊主になったような(見たことないけど)ものである。

  その時に思ったのは、我が祖先たちがここに住み始めたときに眼にした光景はこのようなものであったんだろうなということだった。遠い遠い昔の時間が舞い戻ってきたような錯覚にとらわれた。

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2009年2月 4日 (水)

笑顔の効能

  しばらく前のことだが、ある出来事があって、心身ともにすさまじいストレスに晒されたことがあった。

    仕事をしていてもまるで雲の上を歩いているように不安定でぼーっとしているし、夜眠ろうとしても熟睡はできず、常に神経のどこかが張りつめていて休まらない。当然のように食欲はわかず、まるで生きる屍のようになったことがあった。

    あまりの調子の悪さに病院に行くと、私の顔を見た医師がすぐに大丈夫ですか、と問いかけてくるほどに悲惨な外貌に変わってしまっていた。精神安定剤を処方してくれて、それでいくらか夜は眠れるようにもなった。

    そんなときのことである。深夜ベッドに横になって電気を消し、さあ、眠ろうというときに、別に面白いことも楽しいことも何もないばかりか、大きな暗雲が心を大きく覆い隠すような気分に満ち満ちていたのだが、なぜか突然、笑顔になってみようと思ったのだ。そして、そっと笑顔を作ってみた。実に不自然な挙動なのだが・・・。

    すると、ほんのりと、いい気分が訪れた。別にいい気分になることなど皆無なのに、笑顔を作ることで、そんな気分が訪れたのである。

    本来は、楽しいことや愉快なことがあって初めて人は笑顔を浮かべる。ことの流れはその通りなのだが、なぜか、笑顔を作ることで、かつて自分が笑顔を浮かべたときの気分が再現されるのである。とても不思議な発見だった。

    昔、指圧師の浪越徳次郎は「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く、がははははは」と高笑いをし、「笑いは人間の健康にとてもいい作用を及ぼす」とTVでおかしくもないのに大笑いしていたが、本当にその通りだなと思った。

    最近のTVは低俗なバラエティ番組しか視聴率がとれない、という話を聞くが、これは視聴者が低俗になったのではなくて、そのような番組にすがって無理矢理笑みを浮かべたり、馬鹿笑いをしたり、という行為に没入しないと、とても日々のシビアな現実を生き延びることができないということを、無意識のうちに感じ取っているからではないのだろうか。

   それはともかく、一度、ベッドの中で、眠る前に笑みを浮かべてみて下さい。ほんのすこしだけ、幸せになったような気持ちになりますから。本当です。

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2009年2月 1日 (日)

カフェ・ハイ・ファミリアの午後

   

   穏やかな日曜日。明るい日差しが午前中から降り注いでいる。すこし風が強いかもしれない。今日も昼すぎから三鷹市の中心部(というようなものがあるとしたらだが)にある「カフェ・ハイ・ファミリア」で遅い昼食。このカフェは居心地がいい。PCを広げて文章を書きたくなるような気持ちのいい空間である。「今日も」というのは「昨日も」ここで昼食を食べたから。昨日はキャベツとアンチョビのスパゲッティにアメリカン・コーヒーとタルト・タタン。本日は豚肉と大根のスープとご飯。そしてまたしてもタルト・タタンを注文。このタルトはこの店のスペシャリテであるらしく、確かにうまい。店長はおいしいりんごが手に入る季節に限って作っていると胸をはる。

  タルト・タタンとうのはそもそもがアップルパイの作りそこないから生まれたらしい。フランスの田舎町にオテル・タタンと言う名のホテルがあり、そこでステファニーとカトリーヌのタタン姉妹が働いていた。調理担当のステファニーがある日アップルパイを作ろうとしてりんごを焦がしてしまったのだが、ええいままよ、とフランス語で言ったかどうか知らないが、客にそのまま出したところが「これは旨い」ということになりフランス中に広まることになったらしい。姉妹は20世紀初頭に亡くなっているから、タルト・タタンが誕生したのは19世紀の終わり頃だろう。

  おおっと、今タルト・タタンが到着。生地に発酵バターが練りこまれていてとてもいい香りがする。19世紀終わり頃にフランスの田舎町でたまたま誕生したお菓子が21世紀初頭の三鷹でいただけるようになるとはタタン姉妹は想像だにしていなかっただろう。では、ちょっといただきます。うーん、生地がクリスピーでかさかさしていてその上に乗っかったりんごがあくまでも柔らかくて甘い。うまーーーい。で、お願いしておいて濃い目のダージリンで口の中をさっぱりさせる、と。

  昨日はこのタルトを食べた後に夕暮れのなか、イトウ・ゴルフガーデンに出かけてゴルフの練習に。ばったりゲンちゃんに遭遇。いつものようにレッスンが始まる。「全然だめ。手打ちになっている。ますます下手になってきてる。だめだよ、腰からきらなきゃ」といういつものレッスンが延々続く。周りのひとはさぞかし迷惑だったろうと思う。

  さて本日もイトウにいくのだがその前に読書。この土日で京都大学大学院理学研究課教授の山極寿一氏のゴリラの本を2冊読んだのだが、申し訳ないけど、山極さんがラジオで喋っていたことのほうが10倍面白い。山極さんはアフリカで野生のゴリラの生態を研究する学者ゆえ、本を書く段になるとどうしても学問的厳密性をなおざりにできない性質なのだろうと思う。厳密であるということは煩瑣で面白みに欠ける。あらゆる物語は面白く物語られねばならない、と信じている私からすると全くもってもったいないことだと思う。学術論文じゃないんだから、エピソードとディテールと比喩が満載の面白ゴリラ本になったはずなのに。

  野生ゴリラの生態で面白いと思ったのは、思春期にさしかかったメスが集団から出奔してよそのオスのもとへ走ること、ボス・ゴリラであるシルバーバックは実にこまめに子育て(自分の子どもでなくとも)のお手伝いをするということ、シルバーバックの威嚇行為である大声と胸たたき、怒涛のダッシュがすさまじいものであること、ゴリラは笑ったり、一人でハミングしたりしているということ、じーっと人の顔を覗き見る「顔のぞき」という妙な習性があること、などなど。まあ、これだけ面白いポイントを教えてくれたのだから山極さんの本も意味があったということかな。

  読んだのは「ゴリラ」(東京大学出版会)、「ゴリラと人の間」(講談社現代新書)。もしゴリラに興味があるなら是非一読を。

  じゃあ、そろそろ出かけるかな。

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