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2009年2月10日 (火)

そこにあったものがなくなることによって       立ち現れてくるもの

 
  週末の夕刻、羽田から小さなジェット機に乗って、田舎に帰った。出発ゲートをくぐるとバスに乗って航空機にまで運ばれる。ちっぽけな地方の空港向けの便は、こんなふうに冷遇されている。

  だけど、そのおかげで、バスから降りてタラップまでの数メートルを歩く間に、冷えた夕暮れの空気の彼方に富士山の影を見ることができた。

  あくまでもだだっ広い空港の滑走路のはるか向こうにその姿を認めると、いつものように、ああ、江戸時代の人々は関東平野からこんなふうにして毎日、富士の姿を仰いでいたんだろうなあ、と懐かしさに似た感慨を抱く。

  今は東京のどこに行っても、ビルやマンションが林立して、関東平野の広大さを自覚する機会はない。智恵子は「東京には空がない」と嘆いたというから、その頃から、東京には建物が犇いていたのだろう。

  だから、ふっとタイムスリップしたようなこんな光景に出会うと、得したような気分になるのだ。例えば、道を歩いていて、ビルの取り壊し(四ツ谷の駅から半蔵門に向かって歩いていると、最近なぜか建て直しが多い)に出くわすと、囲いの間からその風景を覗いてみる。

  すると、ビルがあったせいで見えなかった「ビルの向こう」の風景が見えてとても新鮮に感じることがある。ああ、麹町に住んでいた江戸の住民は、この風景を見ていたんだなあ、と妙な気持ちになる。そこにあったものがなくなることによって、そこに物がなかった頃の時間が帰ってくる、というような感じである。

  今回の帰省は、「離れ」の取り壊しに立ち会うためである。昭和13年に建てられた木造の平屋は歳月とシロアリと居住者の急減によってすっかり荒廃してしまった。もはや建て替えるしかないので、昨年末からせっせとその中に収められていた家財道具を整理し続けていたことは、このブログでもしつこいほどに書いた。

  いよいよその取り壊しである。70年間そこに家が建っていた場所は、大きなブルドーザーがやってきて、ひとたまりもなく平地に戻った。本当にあっというまだった。敷地が広く、明るくなった。おお、我が実家はこんなに広かったのか、と驚くほどさっぱりしてしまった。

  長い黒髪の美女が丸坊主になったような(見たことないけど)ものである。

  その時に思ったのは、我が祖先たちがここに住み始めたときに眼にした光景はこのようなものであったんだろうなということだった。遠い遠い昔の時間が舞い戻ってきたような錯覚にとらわれた。

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