« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月

2009年3月26日 (木)

アカペラとプエルトリコ

 
  いつの間にか、間違えて覚えてしまっている言葉がある。
 
 たとえば、「アカペラ」。これは歌手が伴奏無しで歌を歌うこと、と理解しているが、正しくは「ヨーロッパの教会音楽の一様式」。アカペラはイタリア語のa cappellaで、英語だと in chapelに相当するんだという。意味は当然「聖堂にて」ということになる。
  
  私は長い間、「赤ペラ」だと思っていた。なんなの、赤ペラって? と思われる方もいるだろう。ご説明しよう。「赤」は「赤貧」のように、「非常に、とても」といった意味で、「ペラ」は「1枚の紙切れ」、そこから転じて、「何も記されていない楽譜」のことなのである。だから、「赤ペラ」は「全く白紙の楽譜」の意で、要するに、無伴奏で歌を歌うこと、になるのである。
  
  すごいこじつけでしょ。でも長い間勝手にそう理解していたのであるから、無知というのは恐ろしいものである。だから発音する場合にも、「ア・カペラ」ではなく「赤・ペラ」と発音していた。なんとなくその方が日本語ネイティブには言いやすいように思う。
  
  以前、クルマの名前に「カペラ」というのがあったけど、あれは「聖堂」という意味だったのかな。そんなに堂々としたクルマではなかったけれど、もしそうだとしたらすごいネーミングである。
    
  もうひとつ、最近、なんだそうだったのか、と気づいたのが「プエルトリコ」。長い間「プエル・トリコ」だと思っていた。なんなんだ、トリコって、と詰め寄られても困る。あえてご説明すると、「トリコ」とは「トライアングル」の意味で、「三角地帯」という意味である。現地にそんなものがあるのかどうかは知らないが、とにかくそういうことなのである。
 
 こんな誤解が私の頭に根付いたのも、正しい発音「プエルト・リコ」が、日本語ネイティブにはやはり発声しにくいからである。何だが字足らず、というか尻切れトンボというか・・・・。「プエルト・リコ」はスペイン語でPuerto Rico、英語だとPort Rich で文字通り「豊かで、美しい港」ということになる。
 
 ウィキペディアは、その語源を、コロンブスがサン・ファンの港に入港したときに、「なんて素敵な港なんだ!(¡Qué Puerto Rico!)と叫んだことに由来するといわれている、と記している。勉強になるなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月24日 (火)

路上潰想

 

  休日の朝6時。どんよりと曇って薄暗い空の下、八王子に向けて車を走らせる。お察しの通り、ゲンちゃんとゴルフである。午前中は雨との予報が出ていたが、なんとか外れてくれますようにとハンドルの前で手を合わせ、ゴルフの神様にお願いしながら、灰色の道路を疾駆する。

  と、突然、遥か先の道路の上に何かの死体が転がっている、と思ったらあっという間に近づいて、何台もの車に執拗に踏み潰されたネコの死体だと分る。あわててハンドルを切り、踏んづけないように、ぐちゃぐちゃネコを両輪の間を通過させる。

  朝っぱらから、気持ち悪いもん見ちゃったなあ、とげんなりしながらも、ふと、思い立つ。どうして自分は「ぐちゃぐちゃネコ」を見て「気持ち悪い」と思うのだろうかと。運転中は暇なので、いろんなことを思いつくが、暇にまかせて、この自問に向き合ってみた。だって、自分は「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもないマクドナルドのハンバーガーは平気、どころかおいしいと思ってしまっているではないの、と。

  これに対しては「ネコ」と「牛」は違うよ、という反対意見を表明される方もいるかもしれない。愛玩動物である「ネコ」がぐちゃぐちゃだから「気持ちが悪い」のであって、ほぼ食品としてしか接することのない牛ならば、ぐちゃぐちゃであっても平気なはずである、と。しかし、ちょっと考えただけでそんなわけはない、と分かる。

  次々に走り来るクルマに引かれてぐちゃぐちゃになった子牛を思い浮かべてみてほしい。大きく見開いた目の周りの長い睫毛に血がこびりついていることを想像すると、耐え難い気持ちになる。とてもじゃないがマクドナルドのハンバーガーなどを思いつくわけもない。ただ気持ち悪いだけである。

  ここまで考えてくると、結局、ヒトでも牛でもネコでも犬でも、路上でぐちゃぐちゃになっている様を目撃すると、自分は「気持ちが悪くなる」のだということが分かる。ここまではいい。では、マクドナルドはどう考えればいいのか。

  あれはどこから見たって、牛の肉体をぐちゃぐちゃにして焼いたもの以外の何物でもないではないか。ぐちゃぐちゃにするだけでも大惨事なのに、あまつさえそこに塩と胡椒どころか玉葱まで刻んで混ぜるという非道な行いを果たした後に完成する、とんでもない食物である。なのに美味しそう、と思うのは「ぐちゃぐちゃ」が存在する「場所」の問題なのかもしれない。路上だから気持ちが悪いのであって、キッチンのステンレスの上ならば旨そう、に感じるのではないか。つまり、「ぐちゃぐちゃ」がどこに存在しているのかが「気持ち」を大きく左右するのである。

  うーん、そうだろうか。

  では、次にこう考えてみる。道路の上に「ぐちゃぐちゃ牛」の代わりに「近江牛のサーロインステーキ肉10キロ」が落ちていたらどうなるか。考えるまでもない、誰でも、「お、うまそう」とクルマを止めて拾い上げに行くに違いない。

  私は、「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもない「ユッケ」が気持ち悪くて嫌いだが、「ユッケ」ならば、たらい一杯路上に落ちていようがキッチンのステンレスの上に置かれてあろうが、どちらにしても、気持ちが悪い。つまり、「場所」の問題ではなくて、そこに死んでいる動物の「様子」が気持ち悪さを生むようである。どうやら私は、「ぐちゃぐちゃ」がいけないようなのである。

  つまり「ぐちゃぐちゃ」のように「死骸」の様相を呈していると「気持ちが悪く」、「サーロインステーキ」のように「食物」の様相をしていると「旨そう」に感じるのである。「気持ち悪さ」は「場所」ではなく「様相」の問題であるようなのだが、しかし、ことはそんなに単純ではない。「死骸」と「食物」の境目のありようは人によって個人差があり、またそれを認める人の胃袋のありようによっても異なっているからである。

  以前、ラジオで聴いた話である。オーストラリアのさるレストランの、ジビエ料理を得意とするシェフはジビエのシーズンが到来すると、籠を持って、近所の幹線道路に赴き、テクテクと歩く。クルマにはねられて死んでいる動物のなかから、旨そうなものを選りすぐって持ち帰り、料理して客に供するというのである。そのシェフにとっては「ぐちゃぐちゃ」だろうが何だろうが、そこに死んでいる動物はすべて「食材」なのである。

  ここが難しいところである。「気持ち悪さ」に絶対性は皆無なのである。

  つまり、命をなくした動物は、それが存在する環境によって、あるいは形状によって、あるときは死骸であり、またあるときは食料ということになる。そしてそれを見極めるのは、それを見ている人間だということになる。それを視認した人間の脳みその中で、「死骸」と「食料」のスイッチが切り替わるのである。

  しかし、このスイッチは極めて個人的なものでなかなか一般化することはできない。各人が送ってきた食生活や生活習慣によって全く異なるものとなることはすぐに分る。佐川一政氏にとって死亡した白人女性の太腿は「食料」だったし、アンデス山中に墜落した航空機の乗客の中で生き延びた人々にとって、死亡した同乗者の脳みそはいつのまにか「死骸」から「食料」に変わった。喜びをもって貪ったという記録が残されている。

  太平洋戦争下、南方の島で食糧が絶たれ、飢餓に直面した日本兵は最後の最後に、耐え切れずに死体を食った。人肉を食った人間はすぐにそれと分かったと、結城昌治の小説「軍旗はためく下に」にはある。それまで目がくぼみかさかさの肌をしていた兵隊の肌の色艶が急によくなる、というのである。彼らにとって友人の死骸はある一瞬に食料に変貌したのである。「死骸」と「食料」の境目は、それを見つめる人間が置かれた状況によっていくらでも変わる。

  イヌイットの方々は厳冬期、捕獲して殺したアザラシを自宅の庭に投げ捨てておいて、腹が減ったらガチガチに凍ったその肉をナイフで削って「食料」とする。そう見てくると、「死骸」と「食料」の線引きは、時代によって、民族によって、また個人の習慣によって全く変わってくる極めて「文化的な産物」だということができる。

  習慣や経験や教育という文化的なふるまいというのは、実に奇怪なものであると時々思うことがある。話しはすこしそれて、鶏の卵の話をする。

  われわれはいつの間にか、鶏の卵を「卵」という「食材」としてごくごく自然に受けとめている。白くて硬い殻に入った黄身と白身を「卵」と呼んで、ゆでたり、焼いたり、炒めたりして実に多種多様な調理法を駆使して日常的に食べている。「卵」をおいしくいただいているわけである。

  しかし、皆さんは、ご存知だろうか。メスの鶏を解体して内蔵を掻き分けると、卵の中身、つまり黄身と白身が、いくつも連なって並んでいることを。それも大きいものから少しずつ小さくなっていく。もちろん殻などついていない。大きいものから順に、薄皮で包まれ、そのまわりに殻をつけて体外に排出されるのだが、あの卵の中身は、じつは鶏の内臓なのである。

  嘘だと思うなら、人間の卵を考えてみればよろしい。人間の卵も受精しなければ体外に排出されるが、あれは卵巣という内臓からはがれてやってくる女性の体の一部なのである。同様に、鶏の卵の黄身はヒヨコを作り出すための内臓の一部であり、白身はほとんど「オリモノ」みたいな物なのである。

  そう考えると、「卵ご飯」ほどおぞましいものはない。温かいごはんに、ヒヨコになるはずの鶏の卵子をぶっかけ、おまけにオリモノまでまぜこんで、しかるのちに醤油までさして、箸でくちゅくちゅくちゅくちゅ掻き回してずるずるっと口の中へ運ぶのである。こんなおぞましいことが世の中にあるだろうか。

  メレンゲなんぞを口にするなんてのは狂気の沙汰ではなかろうか・・・・。けだし、「文化的なふるまい」というのは恐ろしいものだ。

  なんて下らないことを考えているうちにクルマは五日市CCに到着。こんなことをグルグル考えていたわけだからスコアがいいはずもなく、沈没。お昼には、カレーライスに生卵をぶちこみ、ウスターソースをじゃぶじゃぶかけて食べる。旨い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月18日 (水)

ジル・サンダー、ユニクロを手がける

  昨夜、フォーシズンズ椿山荘で行われた、ユニクロの懇親会に出かける。いったい何事なんだろう、と思って会場に足を踏み入れると、そこには柳井会長と、デザイナーのジル・サンダーさんの姿があった。

   なんと、ジル・サンダーさんがユニクロ商品のデザインを手がけることになったんだという。こりゃまた、凄い話である。

  今はもうブランドを売り払ってしまったので、「ジル・サンダー」は彼女の名前を冠してはいるけれど、もはや彼女のブランドではない。彼女が自身でデザインしていた頃の「ジル・サンダー」は上質で上品で、かつ高価な洋服であった。

  私も何着かスーツを持っていたが、最高の素材に最高の着心地で、それはもう素晴らしいものだったのだが、その彼女がユニクロという「大衆商品」のデザインにチャレンジするのである。いったいどういうものが出来上がるのか、大いに愉しみである。

  発売されたら、すぐに買いに行こうと思う。ジルはこんなメッセージを残している。

<ファッションの世界に再び関わるようになる機会はこれまでにも何度もありました。しかし完璧主義な私は、その都度慎重にならざるを得ませんでした。今回のユニクロからのオファーには大変驚きましたが、私が新しいスタートを切る良い機会になるものと思いました。私が探していたのは、斬新でゼロからのスタートができる場です。私の才能や経験のすべてが必要とされる場を探していたのです。(・・・・・)

  私がこれまでずっとこだわってきたのは、クオリティとピュアネス。こうした私がこだわってきた価値観を新しい世界で服として具現化することを楽しみにしています。シンプルかつパーフェクトで誇りを高められるようなスタイル、具体的にはベーシックで体にフィットし、知性が感じられるようなファッションを提案したいと思っています。>

  楽しみである。これでますます、ユニクロの一人勝ち路線は強化されるだろう。昨今は「いかに自分には知性がないか」を誇示するファッションが隆盛を極めているから、そこにどのようにして一石が投じられるのかが、大いに興味のわくところである。

  帰りに、市ヶ谷の「ちたや」によって「味噌煮込みうどん、しめじ入り」を食べてから、総武線に乗る。中吊り広告に「2016年 東京オリンピック招致」のワイド広告が貼ってあったが、その文章の何たる悪文。コピーしてこなかったからここに紹介できないが、この程度のオツムでオリンピックを招致するんならば、そうしないほうが国益にかなうのでないかと思う。

  今朝、クルマの中でNHKの「ラジオ・ビタミン」を聴く。ゲストとして宮嶋茂樹氏が出ていて驚く。で、不肖・宮嶋が何を思ったか、「曲のリクエストは?」と聞かれて、「旧ソ連邦の国歌」のレコードを持参し、それをかけさせていたのに驚愕する。午前中のNHKでそんなものを流したのは宮嶋を嚆矢とするであろう。

  村上信夫アナウンサーに「不肖、というのは誰がつけたんですか?」と聞かれた不肖・宮嶋、「ああ、それは20年前に・・・」と答えていたが、そうか、もう20年にもなるのかと感慨ひとしお。名づけたのは私であった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年3月15日 (日)

「チェンジリング」と左足の靴

   
    お台場のメディアージュに映画を観に行った。

    入場料が1000円均一のスペシャルデーだとかでえらい混みようである。チケットを買おうと窓口に行ったが、良い席はすでに埋まっているとのことで、前から2列目の中央のシートを手に入れる。

    劇場はこじんまりしていて、前から2列目というのはかなり前なのである(当たり前ですな)。しかし、1列目が2列目よりも50センチほど階段状に低くなっているので目の前を遮るものもなく、快適と言えば快適なのである。

    予告編が終って、さあ映画が始まるぞ、というときに私は靴を脱ぎ、足を組んでリラックスした体勢を整え、ストーリーに集中しようと画面を注視した。と、そのとき、コロリンと靴が一足、前席のほうに転がり落ちていってしまったのである。

「あっ」と思ったがもう遅い。前席には客が座り、しかも映画は始まったばかり。ガサゴソ動き回るわけにもいかぬ。じっとしたまま、脱いだ1足の靴を横向きに設置して、そこに両足先を乗せて映画鑑賞とあいなったわけであった。

  やってみればどなたもすぐに分るであろうが、この姿勢は辛い。身から出た錆(とい喩えはあまりふさわしくないけれど)としては、ガリガリに錆びた錆びである。あー、早く映画終らないかなあ、靴を拾い上げに行きたいなあ、と痺れた脚をさすりつつ、子どもみたいなことを考えながらスクリーンに見入る。

  やっと映画が終わり、エンディングのクレジットがだらだらといつまでも続く。大概の観客はそれがすべて終る前にがやがや帰っていくものだが、どうしたわけか、私の靴を落としたと思しき席の観客はなかなか席を立とうとしない。こんにゃろー、意地悪してやがんのかな、靴落としちゃったから・・・・。

  やっとその客が立ち上がりコートを着て出て行ったので、私は右足にだけ靴をはき、急いで1列目に降り、落とした靴を探し始める。え、えーー。ないよ。おいらの左足の靴がないよ。上からのぞいても、這いつくばって下から探しても、ない!

  あんにゃろー、意地悪しておいらの左足の靴、持ってっちゃったのかなあ・・・。困ったなあ。右足だけ靴を履いた私は呆然として場内に立ち尽くしていた。

    3階に靴屋があるからあそこで買うしかないか。しかし、あそこまでどうやって行けばいいのか。右足だけ履いていくべきか、それともそれはみっともないから、両足とも裸足で胸をはって堂々と通路を歩いていくべきか。

    そんな思案に暮れていると、一緒に行った友人が「ほらよっ」と探し当てた靴を投げてくれた。椅子の陰に隠れて見えなかったのだ。よかったー。嬉しい。靴が片一方だけ見つかることがこんなに嬉しいこととは知らなかった。友人に心から感謝する。

    ところで観た映画は「チェンジリング」。細かいことはもう書く時間がないので簡単に言うと、これほどまでに「役者の力技」を見せ付けられる映画はそうそうあるものではない。

    もちろんその功績の大部分は監督であるイーストウッドが担うものであろう。役者からこれほどのパフォーマンスを引き出すのだから底知れぬ力量である。とともに、監督に応えて、これほどの演技をしてみせる役者の力量もすさまじいものだと思わざるをえない。

    しかも、彼らに勝るとも劣らぬ役者がわんさかいるであろうアメリカ芸能界の厚みに思いを致さないわけにはいかない、というのがこの映画を観てのまず最初の感想である。

    とりわけ震撼させらたのは、へらへらした異様な連続誘拐殺人犯役を演じた役者(ジェイソン・バトラー・ハナー)と、その共犯の男の子を演じた子役のすさまじい演技力である。

    もし自分が役者で、この役が振られたら、と想像してみれば、彼らの演技力がいかに凄いかが分るはずである。われわれが台本を渡されて、この役はこう演じようと思案する、その遥か上を彼らは楽々と演じていくのである。

    とにかく、靴が見つかってよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

なんだか釈然としない

    そもそも、このブログを始めたのは、特段何かの目的があったわけでもないし、もっともらしい狙いや理由があったわけでもない。ただ、なんとなく、日々の無聊を慰めるにはかっこうのオモチャになるような予感がしたまでである。

  無聊というのは、じつはそれまで、朝も夜もない昼夜も平気で転倒するようなヤクザで面倒な稼業を営んでいたのだが、そこから離れ、規則正しい生活を送るようになった途端にいささか時間を持て余すようになってしまったのである。

  イトウ・ゴルフガーデンの打ちっぱなしで時間をつぶすにも限度がある。玉は一発ウン十円するし、そもそも財布が悲鳴を挙げる前に、足腰がもはや長時間の酷使に耐えぬようになってしまっている。

  そんなわけで始めたブログだが、これがボケ防止にははなはだ都合がよろしい。本を一冊読んでも、映画を一本見ても、誰かとみっちり話し込んでも、そのことを面白く書いてやろうというすけべ根性が首をもたげて、その日にあったことをしみじみじっくり反芻するようになったのである。

    そうしているうちに、黴臭い脳みそもちっとは活性化されたに違いない、記憶の引き出しに物事が整理されて収納されるようになり、たとえば喫茶店で人と何事かを話す機会があった折などには、その引き出しからあれこれ話題を引っ張り出してくるという芸当ができるようになったのである。

    これは、ブログの必死の継続が自分にもたらした功徳かもしれぬ。

    そんな具合で始めた老人体操のようなブログなので、その存在を友人・知人にあまねくお知らせすることははなはだ憚られた。したがって、「私がこのブログを書いている」ということを知っている人は、多分この地球上に10人ほどしかいないはずである。

    その10人程度の方々は、「私と言う人間はどうせこの程度のやつである」ということを重々ご承知の方々で、ちょっとやそっとの乱暴な物言いなど、へとも思わぬであろうという方々であると、私は思い込んでいる。

    だから、日々このブログを読みに来てくださる方はまず、私のことを知らない方々であるといっても過言ではない。しかも不親切なプロフィールしか書き込んでいないので、いったいどこのどういうオヤジがこんな埒もないことを日々書き付けているのかも分らぬようになっている。

    ほとんどの来客は何かを検索した際にうっかりここに迷い込んでしまった人々ばかりなので、再度訪れる方は極めて少ない。それでも時どき「生ログ」というものを無聊に任せて眺めていると、しょっちゅう来訪される「山梨在住の人」や「福井の人」がいることを知るようになる。

    更新が滞っているときに彼らの来訪があったことを知るとまことに申し訳ない気持ちになり、なんとか早く何事かを書き込まねばと気ばかりが焦る。そうして、こんな風にまたかりこりと文章を綴ることになるのだが、正直言って、一日の平均的来客数は約18人。齷齪数じゃなくてアクセス数はだいたい30前後なのである。

    一日だけ来訪者数0という日があって、すこしがっかりしたこともあったが、精進が足らぬからだ、とがらにもなく自らを叱咤激励し今日まで続いている。

   さてそんな日のある夜。ブログのカウンターを見ると、来客数180、アクセス数220という見たことも聞いたこともない天文学的な数字が叩きだされているではないか。すわ、一大事と目をむいて画面を睨み付けるが、その数字は間違いではない。しかもなぜかやたらめったら「玉置浩二」の項が読まれているではないか。

   さては玉置浩二ファンの逆鱗に触れるようなことを書いてしまったのであろうかとあわててコメント欄を見てみるがその気配は一向にない。なんだか釈然としないまま「生ログ」をスクロールしているうちにあることに気がついた。

「玉置浩二」を読みにやってきた方々はみんな、特定のサイトから飛んできた方々なのである。リンク元としてhttp://ime.nu/kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/20...
と記されている。いったいどんなサイトなんだろうとクリックしてみると、なんだか皆目分らないサイトである。エロサイトのような、現在制作中のサイトのような。

   で、そのなんだかよく分らないサイトの上方に「宜しければ上記のリンクをクリックしてください」と書かれていて、そこに私のブログに案内するURLが載っているのである。いったいどういう料簡なのであろうか。何を伝えたくて私のブログを紹介したのであろう。

   来訪者の全員が「なんか、もっとエロいサイトに行けそう!」と思ってわくわくしながらクリックしたに違いないのに、次に現れる画面は「玉置浩二の熱唱を聞いて涙した」というエロからはもっとも遠い感想が書き連ねてあるエントリーだったのである。

   かれらの落胆振りを想像するといかにも申し訳ない気持ちにさせられる。どうせリンクするならばもっと艶めいたエントリーにしてくれればよかったのにと思いつつも、彼らの落胆を思うと、すこし愉快な気持ちにもさせられるのである。

   しかしそれにしても、上記のサイトはいったい何なのであろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 9日 (月)

埴谷雄高さんて、どんな人でしたか?

   たとえば、象を前にして、その印象を10人の人に聞けば、あるひとは鼻が長いといい、またある人は皮膚が厚いだの、目が小さいだの、脚が太いだの、耳が団扇のように大きいだの、背中にしょぼしょぼと情けない毛が生えているだのと、各自各様の所見を述べるだろう。
 
   そんな様々な所見の総合が象という動物の輪郭を浮かび上がらせることになる。
  
    では、同様のことを埴谷雄高という、難解でなる小説家を対象にして行ったらどうなるか。「埴谷雄高ってどんな人でしたか?」という質問を、氏を知る27人の人びとに率直に訪ね歩くという面白いことを敢行した若き書き手がいる。
  
    その人、木村俊介氏は、東京大学教養学部で立花隆氏のゼミ「調べて書く、発信する」を受講し、それを契機に一人でこつこつと前述のインタビューを始めたのである。大学を卒業してすぐに開始したと言うから、20代前半の仕事ということになるが、それが、このたび文春文庫から「変人 埴谷雄高の肖像」という、大胆な書名の本となって世に出た(99年2月に平凡社より単行本としてすでに刊行されている)。
  
    立花先生の「人にインタビューする際にはその人が物書きならば、彼が書いた主なものは全部読んでから臨むのが礼儀である」という教えを守り、たとえば本多秋五氏のインタビューに際しては、なんと「本多秋五全集」全16巻を読んでから出かけたというから、ハンパな青年ではない。
  
    だから、この本に収められたインタビューはなかなかに面白い。どれほど面白いか、数人の「埴谷雄高像」に耳を傾けるだけでそのことはすぐに分かる。

● 埴谷家の向かいに住むFさんの話。<吉祥寺の駅ビル「ロンロン」の中の本屋にもよく行ってたけど、そのロンロンの前で上半身、裸になってる姿を見かけたことがあります(笑)。さすがに恥ずかしくて声をかけられなかったですね。夏はアロハみたいなシャツを着てるんですけど、前のボタンを留めないの(笑)。それであばら骨を見せながらどこにでも行くものですから、「やめたほうがいいんじゃな?」って止めました。でも「僕は台湾うまれですから」というの(笑)。>

● 埴谷家の向かいに住むCさんの話。<いくら何か思想があったとしても、奥さん三回も四回も子供を堕ろさせるのは、人間として許せなかった。>

● 本多秋五氏の話。<(・・・・・)伊豆旅行をして伊東に泊まった夜、埴谷君は雄弁だったなあ。埴谷君はそこでセックスの実践講義をやりはじめたんだ(笑)。(・・・・)身体の各部をラテン語に直して指さして、微に入り細を穿ち、みんなもう「闃として声なし」だった(笑)。>

● 島田雅彦氏の話。<作品読んだらきっとファンキーなじじいなんだろうなあと思っていました。実際会ってみたらやっぱりファンキーなじじいで。>

● 三田誠広氏の話。<(ご自宅に)伺った時にはご近所の人に、「ゴミのポリバケツの置き方が悪い」といわれてすごく謝っていました。>

● 中村真一郎氏の話。<母親に保護されていて、明日からどうやって食おうという日常の苦労がない。真面目に勤めたことがないし、家庭内でのもめごともない。埴谷にはもともと実生活やそれにまつわる苦労がないんだ。>

● 最晩年の埴谷氏の世話をした家政婦古澤和子さんの話。<夜中に目が覚めると「どなたかいますか? 来て下さい」とおっしゃられます。「どうしたんですか?」と応えると、「あなたですか。いるならいいんです。確認です」とおっしゃり、ベッドに戻られる。と思うと戻ってすぐにまた「誰かいるんですか? いませんか!」と叫ばれる。そんなことが一晩に何度もありました。>

● 黒井千次氏の話。<埴谷さんの碁は定石を殆ど無視します。ある元新聞記者がいうには「鳩に豆を撒くように」ポンポンポンポンすごい勢いで石を置く。大局的視点からパチリと打つわけではない。>

● 飯田善國氏の話。<埴谷さんは大ホラ吹きです。ホラ吹きの壮麗さがある(笑)。男はああでなくちゃいけない。>

● 島尾伸三氏の話。<私が小さい頃から考えていた、人に話しても理解してもらえず馬鹿にされるようなことを、あの方は一生懸命考えていたから、ちょっと嬉しかったですね。>

● 小島信夫氏の話。<埴谷さんの小説を一言でいうとお坊ちゃんの小説です。>

● 吉本隆明氏の話。<埴谷さんにとっては、「死霊」を書くことが生きるすべてだったのだと思います。もちろんそれ以外にも生活したり、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり、生きてるのは楽しいなあと思ったり、女の人と楽しんだり、ということなどもあったでしょう。でもそれは埴谷さんにとっては小さい部分だったのではないでしょうか。>

     どうです? 本、読みたくなってきませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 7日 (土)

有明がんセンターに行く

 

   先日、雨のそぼ降る中、有明のがんセンターに行ってきた。豊洲からゆりかもめに乗って広大な埋立地を見晴らしながら進む。がんセンターというのは俗称で、正確には癌研究会有明病院というらしい。おどろおどろしい名前だなあ。

   1月25日に書いたように、この20年ほど髪を刈ってくれていた床屋のおやじが肺がんになり、がんセンターに入院しているのでその見舞いにでかけたのだ。手に見舞いの品の「ビリケンの貯金箱」を持って。

   なぜビリケンなのかは1月25日の「ビリケン」をお読みいただければ、分る。何としても、ビリケン人形を届けないではいられなかったのだ。たまたま知人にビリケン人形を製作している人がいたので、事情を話して送ってもらったのである。

   ビリケンの頭のところにスリットが入っていてコインをちゃりんと入れられるようになった貯金箱なのだが、なにも病床で貯金をしなさいよ、という意味ではない。ビリケンの足の裏をなでて、幸福を呼び込んでほしかったのだ。ビリケンは「福の神」なのだ。

  病院はまだ新しく広々として清潔だった。パジャマを着た入院患者が歩き回っている。若い人も老人も、男も女もいる。よく見るとみんなおそろいの縦縞のパジャマを着ている。まあ、横縞だと強制収容所みたいになっちゃうから縦縞なんだろう。 がんセンターに入院する患者というのは悲歎にくれた暗い顔をしているに違いないと思っていたが、全然そんなことはなく、みんな淡々と動き回っている。

   病室に行こうとエレベータに乗り込むと、二人の女性の入院患者が一緒に乗り込んできた。老人の女性が若い女性に目で挨拶し、にっこり笑う。若い女性もそれを受けてひとことふたこと言葉を交わし、またにっこり笑う。エレベータは静かに上昇し、穏やかな日常の時間が流れている。

  床屋のおやじは治療中で病室にいなかった。看護師さんが待合室で待ってればすぐに戻ってくるので待っていてください、というので待つことにする。テレビが置かれ、何冊もの本が本棚に収まっている。この本の持ち主だった人たちは今どうしているんだろうか、という思いが頭をかすめる。大きな自動販売機が備えられていてかすかにモータの音がしている。 大きな窓の向こうには広大な埋立地が広がる。細かな雨が降り続け、世界は渺茫としている。

   しばらくすると、おやじがなんだかモニターみたいなものをガラガラ転がしながら帰ってきた。目が合うと、オッという顔をして笑う。元気そうである。

「いやいや、悪いね、こんなとこまで来てもらって」と言いながらおやじは隣の椅子に座って、タリーズの野菜ジュースを飲み始める。

「もうずっと放射線治療。見てよこれ」と、治療計画表みたいなものを見せてくれる。毎日放射線を照射し、その治療が終るとその日のところにチェックが入る。もう2週間ほどのチェックが入っている。

「なんだ、こりゃ、夏休みのラジオ体操の出席表みたいだな」と軽口を叩いてみせる。

「このまえCT撮ったら、肺のがん、6センチだって。これを放射線ですこし小さくして、それから手術。小さくなる可能性は40パーセントくらいなんだって。でも、胃の上のほうにもがんがあるらしくて、肺の前に胃をほとんど取らなくちゃいけないなんだよ、まいっちゃうね」   おやじはそんな話をにこやかに話す。

「病室の隣の奴が咽頭がんとかでこの前手術して戻ってきたら、あごのとこまで切られちゃって、舌も半分になっちゃってね。そいつが一生懸命話かけてくるんだけど、何しろ舌が短くなっちゃってるから何言ってるかわかんない。最近やっと少しづづ分るようになったけど。こいつが喋ると唾やらなんやらが一杯飛んできたねえんだ。おい、唾飛ばすなっていうんだけど、全然治らないね。そいつがもうすぐ退院するんだけど、退院したら新橋の飲み屋に行って一杯やるんだとさ。嬉しそうな顔してそう言いやがんだよ」  

 ビリケンを渡すと、顔がほころんだ。「お、いいねえ。足の裏をなでればいいんだろ。よし、ベッドの脇に置いとこう」   

   じゃ、そろそろ、帰るわ、というと、おやじは見舞いに貰ったマンゴをひとつくれた。また来るからね、というとおやじは笑って手を振った。  

 病院の外に出て、細かな雨を頭に浴びながら駅まで歩いた。人はなんの前触れもなく、不運に見舞われる。誰を恨むことも、誰かのせいにすることもできない。ただ、突然、不運はコンコンとドアをノックしてやってくる。 そんな不運の突然の訪問をいったいどのように受け止めるのかで、その人の人柄が分るなあ、と考えながらゆりかもめに乗り込んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 6日 (金)

九州のセンス

   東京では「スイカ」。ご存知、例の、電車に乗る際のプリペイド・カードの名称である。すいすい改札口を通り抜けられるカードだから「スイカ」。面白くもなんともない。
 
   これが関西に行くと、「イコカ」。「行こか?」にかけた駄洒落である。関西人の卓抜なセンスに頬がゆるむ。
  
    でだ、九州に行くと、これが「スゴカ」なのである。「凄かあ!」ということなのかな。でもそんなに凄くなかー、単なるカードでごわすよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 3日 (火)

稲越功一さんの思い出

 

    写真家の稲越功一氏が亡くなった。
  
    若い頃に一緒に仕事をしたことがあるのですこし寂しく切ない気持ちになった。そういえば、一緒に仕事をした写真家ですでに鬼籍に入った人が、思い出せる限りで3人いる。こうして仕事仲間が一人消え、二人去りしていくのかと思うと、長生きするのはつらい作業なのかもしれない。
  
    原宿駅前にあるマンションの一室が稲越さんのオフィスだった。ドアを開けてすぐのところに白い、洗いざらしのズックが何足も並んでいたことを思い出す。
  
    趣味のいい調度品が室内に飾られ、年季の入った大きな作業机の上には、いろんな雑誌や本がインテリアのようにして積まれていた。
  
    その作業机の上で、稲越さんは絵葉書の宛名を書いていたりした。青鉛筆で、独特の直線的な筆跡で文字を「描く」。味のある筆跡で、何枚かもらった絵葉書は今でも美しいので引き出しの中にしまってある。
  
    白いズックと青い筆跡、シャイな笑顔と長い髪。記憶の中の稲越さんはいつも笑っている。
  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »