« ジル・サンダー、ユニクロを手がける | トップページ | アカペラとプエルトリコ »

2009年3月24日 (火)

路上潰想

 

  休日の朝6時。どんよりと曇って薄暗い空の下、八王子に向けて車を走らせる。お察しの通り、ゲンちゃんとゴルフである。午前中は雨との予報が出ていたが、なんとか外れてくれますようにとハンドルの前で手を合わせ、ゴルフの神様にお願いしながら、灰色の道路を疾駆する。

  と、突然、遥か先の道路の上に何かの死体が転がっている、と思ったらあっという間に近づいて、何台もの車に執拗に踏み潰されたネコの死体だと分る。あわててハンドルを切り、踏んづけないように、ぐちゃぐちゃネコを両輪の間を通過させる。

  朝っぱらから、気持ち悪いもん見ちゃったなあ、とげんなりしながらも、ふと、思い立つ。どうして自分は「ぐちゃぐちゃネコ」を見て「気持ち悪い」と思うのだろうかと。運転中は暇なので、いろんなことを思いつくが、暇にまかせて、この自問に向き合ってみた。だって、自分は「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもないマクドナルドのハンバーガーは平気、どころかおいしいと思ってしまっているではないの、と。

  これに対しては「ネコ」と「牛」は違うよ、という反対意見を表明される方もいるかもしれない。愛玩動物である「ネコ」がぐちゃぐちゃだから「気持ちが悪い」のであって、ほぼ食品としてしか接することのない牛ならば、ぐちゃぐちゃであっても平気なはずである、と。しかし、ちょっと考えただけでそんなわけはない、と分かる。

  次々に走り来るクルマに引かれてぐちゃぐちゃになった子牛を思い浮かべてみてほしい。大きく見開いた目の周りの長い睫毛に血がこびりついていることを想像すると、耐え難い気持ちになる。とてもじゃないがマクドナルドのハンバーガーなどを思いつくわけもない。ただ気持ち悪いだけである。

  ここまで考えてくると、結局、ヒトでも牛でもネコでも犬でも、路上でぐちゃぐちゃになっている様を目撃すると、自分は「気持ちが悪くなる」のだということが分かる。ここまではいい。では、マクドナルドはどう考えればいいのか。

  あれはどこから見たって、牛の肉体をぐちゃぐちゃにして焼いたもの以外の何物でもないではないか。ぐちゃぐちゃにするだけでも大惨事なのに、あまつさえそこに塩と胡椒どころか玉葱まで刻んで混ぜるという非道な行いを果たした後に完成する、とんでもない食物である。なのに美味しそう、と思うのは「ぐちゃぐちゃ」が存在する「場所」の問題なのかもしれない。路上だから気持ちが悪いのであって、キッチンのステンレスの上ならば旨そう、に感じるのではないか。つまり、「ぐちゃぐちゃ」がどこに存在しているのかが「気持ち」を大きく左右するのである。

  うーん、そうだろうか。

  では、次にこう考えてみる。道路の上に「ぐちゃぐちゃ牛」の代わりに「近江牛のサーロインステーキ肉10キロ」が落ちていたらどうなるか。考えるまでもない、誰でも、「お、うまそう」とクルマを止めて拾い上げに行くに違いない。

  私は、「ぐちゃぐちゃ牛」以外の何物でもない「ユッケ」が気持ち悪くて嫌いだが、「ユッケ」ならば、たらい一杯路上に落ちていようがキッチンのステンレスの上に置かれてあろうが、どちらにしても、気持ちが悪い。つまり、「場所」の問題ではなくて、そこに死んでいる動物の「様子」が気持ち悪さを生むようである。どうやら私は、「ぐちゃぐちゃ」がいけないようなのである。

  つまり「ぐちゃぐちゃ」のように「死骸」の様相を呈していると「気持ちが悪く」、「サーロインステーキ」のように「食物」の様相をしていると「旨そう」に感じるのである。「気持ち悪さ」は「場所」ではなく「様相」の問題であるようなのだが、しかし、ことはそんなに単純ではない。「死骸」と「食物」の境目のありようは人によって個人差があり、またそれを認める人の胃袋のありようによっても異なっているからである。

  以前、ラジオで聴いた話である。オーストラリアのさるレストランの、ジビエ料理を得意とするシェフはジビエのシーズンが到来すると、籠を持って、近所の幹線道路に赴き、テクテクと歩く。クルマにはねられて死んでいる動物のなかから、旨そうなものを選りすぐって持ち帰り、料理して客に供するというのである。そのシェフにとっては「ぐちゃぐちゃ」だろうが何だろうが、そこに死んでいる動物はすべて「食材」なのである。

  ここが難しいところである。「気持ち悪さ」に絶対性は皆無なのである。

  つまり、命をなくした動物は、それが存在する環境によって、あるいは形状によって、あるときは死骸であり、またあるときは食料ということになる。そしてそれを見極めるのは、それを見ている人間だということになる。それを視認した人間の脳みその中で、「死骸」と「食料」のスイッチが切り替わるのである。

  しかし、このスイッチは極めて個人的なものでなかなか一般化することはできない。各人が送ってきた食生活や生活習慣によって全く異なるものとなることはすぐに分る。佐川一政氏にとって死亡した白人女性の太腿は「食料」だったし、アンデス山中に墜落した航空機の乗客の中で生き延びた人々にとって、死亡した同乗者の脳みそはいつのまにか「死骸」から「食料」に変わった。喜びをもって貪ったという記録が残されている。

  太平洋戦争下、南方の島で食糧が絶たれ、飢餓に直面した日本兵は最後の最後に、耐え切れずに死体を食った。人肉を食った人間はすぐにそれと分かったと、結城昌治の小説「軍旗はためく下に」にはある。それまで目がくぼみかさかさの肌をしていた兵隊の肌の色艶が急によくなる、というのである。彼らにとって友人の死骸はある一瞬に食料に変貌したのである。「死骸」と「食料」の境目は、それを見つめる人間が置かれた状況によっていくらでも変わる。

  イヌイットの方々は厳冬期、捕獲して殺したアザラシを自宅の庭に投げ捨てておいて、腹が減ったらガチガチに凍ったその肉をナイフで削って「食料」とする。そう見てくると、「死骸」と「食料」の線引きは、時代によって、民族によって、また個人の習慣によって全く変わってくる極めて「文化的な産物」だということができる。

  習慣や経験や教育という文化的なふるまいというのは、実に奇怪なものであると時々思うことがある。話しはすこしそれて、鶏の卵の話をする。

  われわれはいつの間にか、鶏の卵を「卵」という「食材」としてごくごく自然に受けとめている。白くて硬い殻に入った黄身と白身を「卵」と呼んで、ゆでたり、焼いたり、炒めたりして実に多種多様な調理法を駆使して日常的に食べている。「卵」をおいしくいただいているわけである。

  しかし、皆さんは、ご存知だろうか。メスの鶏を解体して内蔵を掻き分けると、卵の中身、つまり黄身と白身が、いくつも連なって並んでいることを。それも大きいものから少しずつ小さくなっていく。もちろん殻などついていない。大きいものから順に、薄皮で包まれ、そのまわりに殻をつけて体外に排出されるのだが、あの卵の中身は、じつは鶏の内臓なのである。

  嘘だと思うなら、人間の卵を考えてみればよろしい。人間の卵も受精しなければ体外に排出されるが、あれは卵巣という内臓からはがれてやってくる女性の体の一部なのである。同様に、鶏の卵の黄身はヒヨコを作り出すための内臓の一部であり、白身はほとんど「オリモノ」みたいな物なのである。

  そう考えると、「卵ご飯」ほどおぞましいものはない。温かいごはんに、ヒヨコになるはずの鶏の卵子をぶっかけ、おまけにオリモノまでまぜこんで、しかるのちに醤油までさして、箸でくちゅくちゅくちゅくちゅ掻き回してずるずるっと口の中へ運ぶのである。こんなおぞましいことが世の中にあるだろうか。

  メレンゲなんぞを口にするなんてのは狂気の沙汰ではなかろうか・・・・。けだし、「文化的なふるまい」というのは恐ろしいものだ。

  なんて下らないことを考えているうちにクルマは五日市CCに到着。こんなことをグルグル考えていたわけだからスコアがいいはずもなく、沈没。お昼には、カレーライスに生卵をぶちこみ、ウスターソースをじゃぶじゃぶかけて食べる。旨い。

|

« ジル・サンダー、ユニクロを手がける | トップページ | アカペラとプエルトリコ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 路上潰想:

« ジル・サンダー、ユニクロを手がける | トップページ | アカペラとプエルトリコ »