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2009年4月

2009年4月21日 (火)

不肖・宮嶋、高円寺「沢」で嘆く

  
    高円寺駅のガード下にある「お好み焼き・沢」にて、不肖・宮嶋とお好み焼きを豪食する。といっても、往年のすさまじい分量はもうふたりともこなせなくなっているが。先日、丸ビルで宮嶋氏は講演会を行い、講演内容にふさわしくない多額の謝礼をもらったようなので、それでオレにお好み焼きをおごれ、という強要が昨晩実を結んだのであった。

  豚ペイ焼、鳥皮焼、にんにく焼(あ、だから、朝起きたら部屋の中が猛烈に臭いんだ!)、豚タマのお好み焼き、野菜炒め、焼うどん、牛タン焼、ねぎ焼くらいは思い出せるが、あと何を食べたかは酔っ払っていてよく思い出せない。飲めないのに、生ビールを2杯も飲んだし・・・・。ダイエットをしようしようと思っているのに、こんなじゃあ、とてもダメだ。

  酒席の話題は、老母の面倒をどうすればいいか、という20年前の二人には思いつきもしなかった話題である。つらくて厳しいテーマである。

  もうひとつの話題は、最近の若者はいかにアホか。不肖・宮嶋に憧れてアシスタント志望で若者が次々とやってくるらしいが、どいつもこいつも使い物にならん、という話を氏は延々と語る。「最近の若者は・・」と口にし始めたらすでにそのひとはおっさんであるが、すでにふたりとも立派な、押しも押されもせぬ、筋金いりの、オッサンである。

「きみ、僕のとこにアルバイトしに来たいのは分かったけど、将来は何がしたいの?」
「はあ、映画製作です」
「おお、映画か。そんじゃあ、『トラトラトラ』は観たか?」
「はあ? 『トラトラトラ』ですかあ?」
「おお、そうや、知っとうか?」
「いいえ」
「なにい、そんなことも知らんのか。そんじゃあ、真珠湾攻撃発令時の暗号は?」
「はあ? 何ですか、それは」
「真珠湾攻撃は知ってるよな」
「はあ、いいえ」
「なにい! そんなことも知らんのか! そんじゃあ、『トラトラトラ』というのは何だと思ってるんだ」
「掛け声じゃあないんですか。ワッショイワッショイ、みたいな・・・・」
「・・・・・・・・・・・」

  という凄まじい世代間格差というのか、ミリタリー・リテラシー格差というのか、そのようなものに遭遇し、不肖は言葉少なに、「もう、日本は終わりでっせ」と呟くのだった。

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2009年4月20日 (月)

内田樹氏の「Googleとの和解」のテクストを読んで

  09年3月23日付けのご自身のブログで、内田樹氏は「Googleとの和解」と題して、著作権についてのお考えを開陳しておられる。一読して、得もいえぬ違和感を覚えたので、そのよって来るところについて書いてみたい。なんだか、とても長くなるような予感がするけれど・・・・。

  その前に、「Google問題」とは何かについて、コンパクトにまとめておきたい。これが理解できないと、内田氏が何を言っているのか、理解に苦しむからだが、とはいえ、この問題は、簡潔にまとめるにはかなり骨が折れるしろものである。この際だから、Google問題を整理しておきたいので、本論に関係ないところまで詳しく書いてみる。関心のないムキには、まったくどうでもいいことのように思えるだろうが、しばしご辛抱を。

  インターネット上の検索エンジンとして有名なGoogleを運営しているのがアメリカ合衆国のソフトウェア会社Googleである。同社は、「人類が生み出した全ての情報を集め整理し、検索できるようにする」という気宇壮大かつ稚気溢れる使命感をもって1998年に設立された。

  2004年、同社の使命を実行すべく、Google社は、提携したいくつかの図書館(ハーバード大学、スタンフォード大学、ニューヨーク公立図書館など)に収蔵されている図書を、著作権者の許諾を得ることなく、片っ端からスキャン開始。これまでに700万冊をスキャンし終え、電子書籍のデータベースを構築、書籍検索や抜粋表示に利用してきた。

(ここで注意しておくべきは、同社の収益の大部分は、アドワーズなどのリスティング広告の収入に依存しており、当然ながら、上記の電子書籍データベースを活用した検索結果表示に対しても、それを利用した広告が表示されたという事実である。つまり、端的に言えば、Google社は、著作権者に許諾を得ることなく蓄積した書籍のデータベースを活用してすでに金儲けをしてきた、ということである)

    Google社のこの行為に対して、アメリカ作家組合(authors guild)とアメリカの有力出版社5社は、さすがに業を煮やし、2005年の秋に、「著作権侵害である」として訴訟を起こした。これに対して、Google社はアメリカ著作権法107条の「フェア・ユース(公正な使用)」にあたると反論。

    この「Google書籍検索訴訟」の和解が昨年の10月に成立。ニューヨークの下級裁判所を介しての「和解」なのだが、ここからがこの話の凄いところであり、かつはなはだハタ迷惑なところなのである。よーく、目を凝らしてお読みいただきたい。

    今回の訴訟はクラス・アクションとして和解に至った。はてクラス・アクション(class action)とは? とお思いだろうが、これに完全に合致する法的概念は日本には存在しないらしいのだが、あえて言うと「集団訴訟」。つまり、アメリカ作家組合とアメリカの有力出版社5社が起こしたこの訴訟は、「世界中の著作者と出版社を代表して起こした」訴訟、ということになるらしいのである。

    日本人も、イギリス人も、フランス人も、ドイツ人もだーれも頼んでもいないのにアメリカ合衆国にお住まいの何人かが「その代表」として訴訟を起こし、その結果成立した「和解」の効力が他の国の人々も及ぶことになった、というわけなのである。

    一般化して言うと、クラス・アクションとは、訴訟に参加している当事者と利害が共通する関係者は、その訴訟に直接参加していなくとも、裁判の判決や和解案などの効力が自身に及んでくるというアメリカ独特の訴訟制度のことなのである。

    世界のほとんどの国が批准している、著作権に関する国際条約であるベルヌ条約に基づいて、日本の著作権者はアメリカ国内においても著作権を有し、保護されることになっているので、今回の和解の効力は、日本在住の著作権者、出版社にも及ぶことになったというわけなのだ。

  さて、では日本の著作権者はどうすべきだと今回の和解は告げているのか?

 「和解」文書は以下のようなことを提示し、世界中の著作権者に対して、本年の5月5日までに自身の態度を表明せよ、と言っている。まことに急な話である。

   2009年1月5日以前に出版された書籍について、

① 著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合はどの程度かを表明する権利を持つ。
②Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入、およびその他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取ることができる。
その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館や教育機関には無料で)頒布することができる。ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲覧できる。
③既にスキャンしてしまった著作物については、請求があれば1冊につき60ドルを受け取ることができる。

    その他にも、こまごまといろんなことが書かれているのだが、それはすべて、どのような条件を満たせば、Googleはスキャンした書籍のデータを自社のビジネスに使用することができるか、という話である。(実はこの和解文書の中には、法律の専門家でさえ、いったい何を言っているのかさっぱり分らない部分がかなり存在しており、その内容を完全に把握することは、現時点で困難であるらしい。無茶苦茶な話である)。

    さてそれに対して、日本の著作権者はどのように対応することができるのかというと、「和解に参加する」か「和解に参加することを拒否する」の2通りしかない。

    もっと詳しく書くと、

① 和解に参加し、Googleによる著作物のデータ使用を全部認める。
② 和解に参加した上で、
(a) 表示使用から自分の著書を除去させる。
(b) 表示使用から自分の著書のうち、特定の書籍を除去させる。
③ 和解に参加することを拒否する。(今年の5月5日までに申し立てる)
④ 和解に対して異議申し立てを行なう。(今年の5月5日までに米国の裁判所に異議を申し立てるか公聴会への出席希望通知を出し、公聴会で意見を述べる)

    とまあ、整理して書いているだけでもわけが分らなくなるのに、こんな内容をいきなり英文で突きつけられた(実際的には各出版社が日本語化したようだが)、当事者である日本の著作権者の皆さんの「苦虫の噛み潰しよう」を想像すると気の毒に思わざるを得ない。もし私が著作権者だったなら、一言「ふざけんな!」とののしって、和解文書を破り捨てただろう。

    もし、そのように破り捨てたらどうなるか? それこそGoogleの思う壺なのである。破り捨てた途端に、その人の著作物は「和解」の対象外と認定される。そうなると、どうなるか? Googleは自分たちの行為は「フェア・ユース(公正な使用)」であるという従前の主張を維持して、これまで通り、「破り捨てた」著作権者の書籍のデジタル・データを使用するだけでなく、今後もどんどん彼の著作物のデジタル化を推し進めていく可能性が高いのである。

    Googleは何のためにそんなことをするのか? 表向きには「フェア・ユース」を標榜して、人類の知的資産を全人類が平等に簡便に活用できるように、というだろう。確かにそういう一面がないとは言わないが、実際的には自社のビジネスをより一層強固にするため、であることは自明なことであるだろう。

    つまり、そうされることがいやなら、地球上の著作権者は、否が応でもまずはこの和解に応じるしかない、という無茶苦茶がまかり通っているのである。しかも、ニューヨークの地方裁判所が仲介した単なる一和解案であるにもかかわらず、世界中の著作権者がただ今現在、これに振り回されているのである。そんなことがアリなのだろうか。

    たとえば、和歌山地方裁判所で成立した、日本の著作権者と、どこかの検索エンジン業者の「和解」が世界中の著作権者にその効力を及ぼすことがありうるだろうか。もしそうしたとして、米国の著作権者および出版社はそれを尊重するだろうか。たぶん、一顧だにしないような気がする。ここにアメリカの驕りというか、夜郎自大というか、オレ様ぶりが如実に顕在化しているような気がする。いわば文化的帝国主義である。

    それとともに思わざるを得ないのは、アメリカ社会の振幅の激しさのことである。ある傾向が生じると、極端にまで行き着くまでその傾向はとめどなく増進する。サプリメント信仰しかり、反イスラムしかり、反共産化しかり、デジタル化しかり。今回の一件を眺めていて分るのは、社会のある傾向(なんの傾向でもいいが)が極端に走ることを制御するブレーキがないことなのである。

    極端に行き着くまで行って、不都合が生じるとゆり戻す、というのがアメリカ社会の特徴である。今回も同様で、不都合が生じたので訴訟が起こされた。裁判沙汰になるまでは、基本的には「どうぞ、自由におやんなさい」という自由放任主義がアメリカ社会の根底には横溢している。それが社会秩序を揺るがしそうになると、「司法」が強権を揮って「社会秩序」の再構築に努めるのである。だからこそ、訴訟社会になるのだろう。

    一方、わが国はそうはなっていない。アメリカ合衆国で「司法」がその任を負っている「社会秩序の形成」は、日本では「立法」がその任を負うているのである。社会が極端に走り出す前に法律がそのブレーキの役目を果たす。この「司法」国家と「立法」国家の違いが、今回の一件にも大きく影響していて、事態の理解をより困難にしているように思う。

    話が大いに脱線した。ここでやっと、内田氏の主張にたどり着くのである。今回のこのGoogle問題に関しての内田氏の意見、主張を、氏のブログを引用しながらまとめると以下のようになる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。(・・・・・・)私の場合は、テクストを書くことで「一円でも多く金を稼ぎたい」ということより「一人でも多くの人に読んで欲しい」ということの方が優先する。
ただ、私はそれを原理主義的に主張しているわけではない。「専業物書き」が職業的に成立しなくなると、読者は困る。すぐれた書き手が書くことに専念できる環境は読者の利益のためにもぜひ担保すべきものである。
そのためにはテクストの「交換価値」を生み出すための市場が必要である。
しかし、テクストは商品ではない。
テクストを商品と「みなす」のは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、テクストを書き、読む快楽が増大する確率が高いからである。
「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。自余のことは、その快楽を増進させる上でどれほど効果的かという尺度に基づいて考量されるべきである。(・・・・・・)著作権の保護が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成するし、ウェブでのテクスト頒布が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成する。著作権の保護とウェブ上でのテクスト閲覧が背馳するなら、そのどちらか、より「テクストを書き、読む快楽」を増進させる方に私は賛成する。(・・・・・・)私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。(・・・・・・)著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。
そういう「プロの物書き」が多数存在することは事実であるけれど、私は彼らを「物書きのデフォルト」とみなすことには同意しない。>

  例によって、明晰だけれどややこしい主張をもう一段要約するとこうなる。

<「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。その快楽がより増進されるかどうかで、WEB上でのテクスト頒布の是非を決するべきで、「経済的利益が損なわれるか否か」で決めるべきではない。>

  以下に何ゆえに違和感を覚えたかを書く。

    まず、指摘しておきたいのは「テクストを書く快楽」と「テクストを読む快楽」は必ずしも一致するものではない、ということである。ここで急いで「テクスト」とは何かを定義しておくと、「テクスト」とはある作者が書く文章のことである。

    例えば、内田氏がご自身のブログに気ままに書いているのは「テクスト」という名の一次作物である。内田氏ご自身は誰に頼まれたわけでもない、自発的に書きたいことを書いているわけだから、大いに「テクストを書く快楽」に浸っておられるに違いない。しかし、そのテクストがそのまま「読む快楽」に直結するかというと、失礼ながら、そんなわけでは全くないのである。

  内田氏の熱烈ファンは氏のブログを楽しみながら読んでいるだろうが、殆どの読者が氏の文章に接し、「読む快楽」を得ているのは、氏の「テクスト」からではなく、実は「書物(本)」からなのである。

「書物(本)」は「テクスト」をそのまま紙にインクで印刷したものではない。「書物(本)」というのは、内田氏が日々生産する一次作物的テクスト(その中には読むに値しないものもあれば、つまらぬもの、下らないものも混在している)の中から、「読む快楽」を齎してくれるであろうテクストを、編集者という名の共同作業者が取捨選択し、順番を決め、タイトル、リードを付し、本の体裁(大きさ、紙質、デザインなど)を勘案し、ついでに宣伝方法を考えてその費用を捻出し、営業的にも、この書物がより多くの読者の手に届くように各方面に活動を繰り広げる、そうした一連の行為の末に誕生する物なのである。

  だから、極論すれば、内田氏の本は、専一的に内田氏ただ一人によって生み出された作物ではなく、それが世に出、多くの人々の手中に納まるまでには多数の人びとの知恵と労力がそこに注ぎ込まれているのである。

  それだからこそ、「本」は「商品」なのである。それに見合った対価を得ないと、良質な「本」は産まれない。物書きは片手間でできるだろう。大学教授をしながら、銀行員や医師をしながらでも文章は書けるだろう。しかし、編集者は片手まではできない。その全生活を編集に捧げないと編集者は務まらないのである。優秀な編集者は、書き手が費やした何倍もの時間と労力を、その編集のために費やす。その行為によって「読む快楽」を与えてくれる「本」は誕生するのである。編集者は自らが生み出したその商品によって経済的利益を得なければ、他に生活を支える方法はない。だから「本」は「商品」なのである。「本」は「商品」になることによって初めて「本」になるのである。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」なるご本をお書きになったのだから、そのぐらいのことは重々ご存知のことと思っていたが、あるいは、ほうっておくと唯我独尊的に生き急ぐ傾向がご自身に抜きがたくあるものだから、それへの戒めとしてこのご本を上梓されたのであろうか。
  
  最後に、予言的に書いておきたい。WEB上でのテクストの発表は、ここで私がどうがなろうと、世の趨勢として強まっていくだろう。そうして、テクスト制作者はより簡便に、そのテクストを世に頒布するようになるだろう。しかし、残念ながら、かつての書物に匹敵する内容を備えたものはこの先もはや産まれないと断言してもいい。ただ、貧しいテクストがインターネットの海の中にやみくもに漂うようになるだけである。

  内田氏は先の文章の冒頭でこう書いておられる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。>

   そこまでおっしゃるなら、どうぞ、実行してみていただきたい。「あらゆる措置」とおっしゃるならば、書店で無料で配布することである。その費用は当然、ご自信の負担となるだろう。

   その時、心ある編集者たちは、一人去り二人去りするであろう。そうなったとき、果たしてそこに「読む快楽」を十全に与えてくれる書物が誕生する余地があるものかどうか、お考えいただければありがたい。

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2009年4月15日 (水)

写真を撮るように本を読むということ

  
    ラジオの読書の番組で、ナビゲーターの児玉清さんが、リスナーからの「どうすれば本を早く読むことができるようになりますか?」という質問に答えて、いつものように、あー、それはですねえ、という紳士的な口調でこんな風に語っていたのを聞いて驚いた。

「それはですねえ、カメラで写真を撮るように読めばいいんですよ。見開いた2ページをぱっと頭の中に入れちゃう。そうすると、大体分かりますよ。新聞なんかもぱっと見て情報を頭の中にいれるでしょ。それと同じです」

  それを聞いて、ははあ、児玉さんもレインマンなんだ、と思った。レインマンというのは1988年に公開された映画のタイトルで、サヴァン症候群の人物を主人公にした物語。ダスティン・ホフマンが主人公を演じていた。

    いや、もちろん、児玉さんがサヴァン症候群に罹患しているといいたいわけではない。そうではなくて、とても特異な能力を備えている人なんだなあということが分かったということなのである。その証拠に、児玉さんは誰でも「カメラで写真を撮るように読む」ことができるものだと思っている。しかし、そんなことができるわけないじゃないの、というのが私を含めて、ごくごく普通の人の反応なのではなかろうか。

    その前に「サヴァン症候群」説明しておかなくてはいけない。ウィキペディアの解説によると、<知的障害や自閉性障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者の症状を指す。「savant」は、フランス語で「賢人」の意味である。>

    あわてて断っておくと、当然ながら児玉さんが知的障害者であるといっているわけではない。むしろ、「常人には及びもつかない能力」をお持ちだと言いたいのである。サヴァン症候群の人びとが備えている超人的能力というのは、これまたウィキペディアを引用すると、

<●特定の日の曜日を言える(カレンダー計算)。ただし通常の計算は、1桁の足し算でも出来ない場合がある。
●航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起すことができる。映像記憶。
●楽譜は全く読めないが、1度聞いただけの曲を、最後まで間違えずにピアノで弾くことができる。
●書籍や電話帳、円周率などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。
●芸術性の非常に高い作品(絵画、彫刻など)を作ることができる[1]。
●並外れた暗算をすることができる。 >
  
    この中の「映像記憶」というのが、児玉さんの言う「写真を撮るように本を読む」という能力のことで、実は、この能力を備えている、あるいはどうも備えているように思えるという人が、確かにときどきいるのである。
  
    その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。

    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。
  
    そんなことが一度ならずあった。
  
    世の中には、つくづく、もの凄い人がいるものだとその時に思った。それ以来、その手の方々は私の中では「レインマン」とカテゴライズされ、私の人物帳にはそのように登録されている。児玉清さんも今日からその仲間入りである。

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2009年4月12日 (日)

桜の花の、その下で

  春爛漫である。和歌山の草深い田舎でぼよよーんとしていると、のんびーりした気持ちになる。こういう様子を、昔の人は「命の洗濯」とか「キンタマのしわのばし」などと呼んだ。実に適切な表現ではなかろうか。

  2月から建て始めた「離れ」が8分がた出来上がったので、そのチェックのために金曜日の夜に帰省。土曜日にはレンタカーに乗って御坊のホームセンター「コメリ」に出掛け、白いプラスチックの椅子を買ってくる。980円なり。

  これを庭に据えて、ぐでんと座って庭を眺める。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、ゆで卵を作って、庭で食べる。春らしい陽光が胸や膝に降り注ぎ、乾いてなまぬるい風が首筋をなでていく。

  見たこともない小鳥があわただしく飛び回って、グリリリリと、これまた聞いたこともない鳴き方でさえずっている。蜂が、大きいのから小さいのまで各種、ぶんぶん飛び回っている。この時とばかり、花に頭を突っ込んでいる。特に庭の中央に大きく育った濃いピンクの小さな花がびっしり咲いている花蘇芳(はなすおう)の周りには、朝から蜂君たちがせわしない。

  庭の西南に大きな桜の木が立っている。私が中学校に入学したとき、その記念にと母親が植えたものが、すでに巨木と化している。18歳の年に郷里を離れたが、そのころには桜の木が植えられた理由も知らなければ、そもそも桜の木がそこにあることも知らなかった。だから当然、桜の花を愛でたことさえなかった。

  なのに、今は、散り急ぐ桜の花を、ぼーっと眺めながら、時の過ぎ行くさまを呆然と見送る愉しみを身に着けたように思う。なんといえばいいか、竹内マリアの「デニム」な感じと言えばいいか。

  満開の桜を眺めるのも、はらはらと散り急ぐのを見上げているのも嫌いではない。今年も、隅田川の墨堤で、四谷の土手で、千鳥ケ淵の公園でピンク色の光りを楽しんだ。

  今、自宅は三鷹の下連雀にある。朝家を出て、玉川上水沿いの通り(「風の通り道」と名づけられている)に出る。出た場所が、今から61年前に太宰治が入水自殺した現場で、そこには記念碑が立っている。そこから駅まで約5分。ずっと続く桜並木の下を歩いていく。

  上水側の歩道は、信号もなく、自転車も、自動車も通らず、ただただマイペースで、右手にせせらぎを感じつつ、頭上の桜を振り仰ぎ、土手に咲き乱れるかわいい白い花や、誰かが植えたチューリップを見ながら歩き続けることができる。言ってみれば、「毎朝がお花見」状態で、極めて愉快である。

  こんな快適な通勤路は、東京中探してもそうないだろうと思う。玉川上水の南側は三鷹市、北側は武蔵野市なのだが、明らかに三鷹市のほうがこの「風の通りに道」の環境整備に力を入れている。ということはつまり、お金をかけている。

  歩道を整備し、電線の地中化をすすめ、桜並木の手入れをし、満開のシーズンには街灯に特別に設置した電灯でライトアプしてみせる。三鷹市の住民としては、うん、確かにわしの住民税が有効に使われておるわい、と実感できて大変満足である。あまり誰も言わないけれど、三鷹市下連雀は極めて快適な土地だと思う。

  というわけで、本日は、まるでご隠居様のような、のんびーりした桜話に終始したが、この境涯がご隠居様ならご隠居様も悪くないな、と思わないわけでもない。数時間後には東京行きの飛行機に乗って、またあわただしい日常に帰るが、これからは御隠居様気分で行ってみよう。東京に戻ったら、のんびりと中目黒の目黒川沿いの桜でも観に行こう。

  そんなことを考えるのもこの頃、内田百閒にはまってしまい、あのなんともいえぬうねうねした文章の虜になってしまっているせいもあるかもしれない。これからは、百鬼園先生に倣って、「可憐で、おちゃめな、クソ爺」にGO! である。   

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2009年4月 2日 (木)

「東京オリンピック招致」中吊り広告の駄文

  しばらく前のブログで、電車の中吊り広告に、「東京オリンピック招致」を目指すものがあって、その文章がろくでもないものだった、と書いた。そのろくでもない広告に、再び車中で出会ったので、急ぎ携帯で撮影。その画面をじっと目を凝らしながら書き取ったのが以下の文章である。

  いったいこれはなんなのだろう?
   
  何が言いたいのだろう? 分かりますか? すんなりと。

< 来ますよ。
21世紀の東京オリンピック。

日本経済は必ず復活します。
いつ、その時がくるのか。
どうすれば、より早く来るのか。
日本人自身が、日本のよさに気づくこと。
世界の人にそれが伝わり、日本に注目が集まること。
   2016年の開会式当日までの7年間
   新しいエコの取り組みと日本の経済力に、
世界は感心するでしょう。
パラリンピック選手をお迎えするために
街全体をバリアフリー化しながら準備を進める。
その姿に、世界はなるほどと思うでしょう。
それが、自然を尊敬し、平和を求める国、日本の
あたらしいオリンピックです。
2016年東京オリンピック・パラリンピックには
莫大な経済効果があります。
でも、それ以上に大切なのは、
気配りや、おもてなし、もったいない、安全世界一、
といった日本らしいオリンピックで世界を結ぶことで、
大人が自信を取り戻すこと。
それを見た世界の子供たちに夢を与えることです。

さあ、東京オリンピックで、
日本は世界を結びます。>

 何度読んでも、はっきりと分からん。支離滅裂である。「オリンピックを招致することには経済効果がある」ということを言いたいのかと思ったら、「そうではない。それ以上に大切なことがある」という。それは何なの? と問うと、「自然を愛し、平和を求める姿を内外に誇示することである」という。そうすることで、大人は自信を取り戻し、それを見て子供も夢を抱くことができるようになる、というのである。はあ、そんなもんですかねえ、と首をひねっていると、いきなり「2016年東京オリンピック・パラリンピックには莫大な経済効果がある」とまた、わけのわかんないことを言い出す。

  いったい何を言いたいんだよ、と普通の人ならば怒り出すだろう。誰が書いたんでしょうね、この文章。私が想像するに、最初の文章はこのようなものではなかったろう、ということ。多分、どこかの代理店のコピーライターが書いたに違いない。

  で、これでどうでしょうか、と代理店の担当者がクライアントのところへ持って行ったところ、「だめだ、こんなんじゃ」とクライアントのボスが自分でガシガシと赤を入れたのではなかろうか。出来上がった文章がろくでもないものだということは、周りの誰もが気づいたが、誰一人ボスにそう忠告することもがきない。で、結局そのまま印刷されてしまった、という次第なのではないか。

  もちろん、想像である。しかし、そうとでも考えなければ、こんな駄文を、高い金を払って(多分、東京都民の税金だろう)、電車の中のワイドの中吊りに印刷したりしないだろう。

  文章の出だしに、「来ますよ。21世紀の東京オリンピック」というコピーがあるが、ここでは「来る」と漢字を使用しているのに、そのすぐ後の「いつ、その時がくるのか」の「くる」は平仮名。この統一性のなさは、普通では考えられない、のである。さて、そのボスって誰なんでしょうね?

  話題は変わって、ジル・サンダーがユニクロの服を作る、という話。早くこの服を着てみたいが、この洋服のブランド名を思いついたので、いち早くここに記しておきたい。2009年4月2日記、である。ジル・サンダーがデザインしたユニクロの名は「ジルクロ」! これで行きましょう!

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