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2009年4月20日 (月)

内田樹氏の「Googleとの和解」のテクストを読んで

  09年3月23日付けのご自身のブログで、内田樹氏は「Googleとの和解」と題して、著作権についてのお考えを開陳しておられる。一読して、得もいえぬ違和感を覚えたので、そのよって来るところについて書いてみたい。なんだか、とても長くなるような予感がするけれど・・・・。

  その前に、「Google問題」とは何かについて、コンパクトにまとめておきたい。これが理解できないと、内田氏が何を言っているのか、理解に苦しむからだが、とはいえ、この問題は、簡潔にまとめるにはかなり骨が折れるしろものである。この際だから、Google問題を整理しておきたいので、本論に関係ないところまで詳しく書いてみる。関心のないムキには、まったくどうでもいいことのように思えるだろうが、しばしご辛抱を。

  インターネット上の検索エンジンとして有名なGoogleを運営しているのがアメリカ合衆国のソフトウェア会社Googleである。同社は、「人類が生み出した全ての情報を集め整理し、検索できるようにする」という気宇壮大かつ稚気溢れる使命感をもって1998年に設立された。

  2004年、同社の使命を実行すべく、Google社は、提携したいくつかの図書館(ハーバード大学、スタンフォード大学、ニューヨーク公立図書館など)に収蔵されている図書を、著作権者の許諾を得ることなく、片っ端からスキャン開始。これまでに700万冊をスキャンし終え、電子書籍のデータベースを構築、書籍検索や抜粋表示に利用してきた。

(ここで注意しておくべきは、同社の収益の大部分は、アドワーズなどのリスティング広告の収入に依存しており、当然ながら、上記の電子書籍データベースを活用した検索結果表示に対しても、それを利用した広告が表示されたという事実である。つまり、端的に言えば、Google社は、著作権者に許諾を得ることなく蓄積した書籍のデータベースを活用してすでに金儲けをしてきた、ということである)

    Google社のこの行為に対して、アメリカ作家組合(authors guild)とアメリカの有力出版社5社は、さすがに業を煮やし、2005年の秋に、「著作権侵害である」として訴訟を起こした。これに対して、Google社はアメリカ著作権法107条の「フェア・ユース(公正な使用)」にあたると反論。

    この「Google書籍検索訴訟」の和解が昨年の10月に成立。ニューヨークの下級裁判所を介しての「和解」なのだが、ここからがこの話の凄いところであり、かつはなはだハタ迷惑なところなのである。よーく、目を凝らしてお読みいただきたい。

    今回の訴訟はクラス・アクションとして和解に至った。はてクラス・アクション(class action)とは? とお思いだろうが、これに完全に合致する法的概念は日本には存在しないらしいのだが、あえて言うと「集団訴訟」。つまり、アメリカ作家組合とアメリカの有力出版社5社が起こしたこの訴訟は、「世界中の著作者と出版社を代表して起こした」訴訟、ということになるらしいのである。

    日本人も、イギリス人も、フランス人も、ドイツ人もだーれも頼んでもいないのにアメリカ合衆国にお住まいの何人かが「その代表」として訴訟を起こし、その結果成立した「和解」の効力が他の国の人々も及ぶことになった、というわけなのである。

    一般化して言うと、クラス・アクションとは、訴訟に参加している当事者と利害が共通する関係者は、その訴訟に直接参加していなくとも、裁判の判決や和解案などの効力が自身に及んでくるというアメリカ独特の訴訟制度のことなのである。

    世界のほとんどの国が批准している、著作権に関する国際条約であるベルヌ条約に基づいて、日本の著作権者はアメリカ国内においても著作権を有し、保護されることになっているので、今回の和解の効力は、日本在住の著作権者、出版社にも及ぶことになったというわけなのだ。

  さて、では日本の著作権者はどうすべきだと今回の和解は告げているのか?

 「和解」文書は以下のようなことを提示し、世界中の著作権者に対して、本年の5月5日までに自身の態度を表明せよ、と言っている。まことに急な話である。

   2009年1月5日以前に出版された書籍について、

① 著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合はどの程度かを表明する権利を持つ。
②Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入、およびその他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取ることができる。
その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館や教育機関には無料で)頒布することができる。ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲覧できる。
③既にスキャンしてしまった著作物については、請求があれば1冊につき60ドルを受け取ることができる。

    その他にも、こまごまといろんなことが書かれているのだが、それはすべて、どのような条件を満たせば、Googleはスキャンした書籍のデータを自社のビジネスに使用することができるか、という話である。(実はこの和解文書の中には、法律の専門家でさえ、いったい何を言っているのかさっぱり分らない部分がかなり存在しており、その内容を完全に把握することは、現時点で困難であるらしい。無茶苦茶な話である)。

    さてそれに対して、日本の著作権者はどのように対応することができるのかというと、「和解に参加する」か「和解に参加することを拒否する」の2通りしかない。

    もっと詳しく書くと、

① 和解に参加し、Googleによる著作物のデータ使用を全部認める。
② 和解に参加した上で、
(a) 表示使用から自分の著書を除去させる。
(b) 表示使用から自分の著書のうち、特定の書籍を除去させる。
③ 和解に参加することを拒否する。(今年の5月5日までに申し立てる)
④ 和解に対して異議申し立てを行なう。(今年の5月5日までに米国の裁判所に異議を申し立てるか公聴会への出席希望通知を出し、公聴会で意見を述べる)

    とまあ、整理して書いているだけでもわけが分らなくなるのに、こんな内容をいきなり英文で突きつけられた(実際的には各出版社が日本語化したようだが)、当事者である日本の著作権者の皆さんの「苦虫の噛み潰しよう」を想像すると気の毒に思わざるを得ない。もし私が著作権者だったなら、一言「ふざけんな!」とののしって、和解文書を破り捨てただろう。

    もし、そのように破り捨てたらどうなるか? それこそGoogleの思う壺なのである。破り捨てた途端に、その人の著作物は「和解」の対象外と認定される。そうなると、どうなるか? Googleは自分たちの行為は「フェア・ユース(公正な使用)」であるという従前の主張を維持して、これまで通り、「破り捨てた」著作権者の書籍のデジタル・データを使用するだけでなく、今後もどんどん彼の著作物のデジタル化を推し進めていく可能性が高いのである。

    Googleは何のためにそんなことをするのか? 表向きには「フェア・ユース」を標榜して、人類の知的資産を全人類が平等に簡便に活用できるように、というだろう。確かにそういう一面がないとは言わないが、実際的には自社のビジネスをより一層強固にするため、であることは自明なことであるだろう。

    つまり、そうされることがいやなら、地球上の著作権者は、否が応でもまずはこの和解に応じるしかない、という無茶苦茶がまかり通っているのである。しかも、ニューヨークの地方裁判所が仲介した単なる一和解案であるにもかかわらず、世界中の著作権者がただ今現在、これに振り回されているのである。そんなことがアリなのだろうか。

    たとえば、和歌山地方裁判所で成立した、日本の著作権者と、どこかの検索エンジン業者の「和解」が世界中の著作権者にその効力を及ぼすことがありうるだろうか。もしそうしたとして、米国の著作権者および出版社はそれを尊重するだろうか。たぶん、一顧だにしないような気がする。ここにアメリカの驕りというか、夜郎自大というか、オレ様ぶりが如実に顕在化しているような気がする。いわば文化的帝国主義である。

    それとともに思わざるを得ないのは、アメリカ社会の振幅の激しさのことである。ある傾向が生じると、極端にまで行き着くまでその傾向はとめどなく増進する。サプリメント信仰しかり、反イスラムしかり、反共産化しかり、デジタル化しかり。今回の一件を眺めていて分るのは、社会のある傾向(なんの傾向でもいいが)が極端に走ることを制御するブレーキがないことなのである。

    極端に行き着くまで行って、不都合が生じるとゆり戻す、というのがアメリカ社会の特徴である。今回も同様で、不都合が生じたので訴訟が起こされた。裁判沙汰になるまでは、基本的には「どうぞ、自由におやんなさい」という自由放任主義がアメリカ社会の根底には横溢している。それが社会秩序を揺るがしそうになると、「司法」が強権を揮って「社会秩序」の再構築に努めるのである。だからこそ、訴訟社会になるのだろう。

    一方、わが国はそうはなっていない。アメリカ合衆国で「司法」がその任を負っている「社会秩序の形成」は、日本では「立法」がその任を負うているのである。社会が極端に走り出す前に法律がそのブレーキの役目を果たす。この「司法」国家と「立法」国家の違いが、今回の一件にも大きく影響していて、事態の理解をより困難にしているように思う。

    話が大いに脱線した。ここでやっと、内田氏の主張にたどり着くのである。今回のこのGoogle問題に関しての内田氏の意見、主張を、氏のブログを引用しながらまとめると以下のようになる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。(・・・・・・)私の場合は、テクストを書くことで「一円でも多く金を稼ぎたい」ということより「一人でも多くの人に読んで欲しい」ということの方が優先する。
ただ、私はそれを原理主義的に主張しているわけではない。「専業物書き」が職業的に成立しなくなると、読者は困る。すぐれた書き手が書くことに専念できる環境は読者の利益のためにもぜひ担保すべきものである。
そのためにはテクストの「交換価値」を生み出すための市場が必要である。
しかし、テクストは商品ではない。
テクストを商品と「みなす」のは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、テクストを書き、読む快楽が増大する確率が高いからである。
「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。自余のことは、その快楽を増進させる上でどれほど効果的かという尺度に基づいて考量されるべきである。(・・・・・・)著作権の保護が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成するし、ウェブでのテクスト頒布が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成する。著作権の保護とウェブ上でのテクスト閲覧が背馳するなら、そのどちらか、より「テクストを書き、読む快楽」を増進させる方に私は賛成する。(・・・・・・)私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。(・・・・・・)著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。
そういう「プロの物書き」が多数存在することは事実であるけれど、私は彼らを「物書きのデフォルト」とみなすことには同意しない。>

  例によって、明晰だけれどややこしい主張をもう一段要約するとこうなる。

<「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。その快楽がより増進されるかどうかで、WEB上でのテクスト頒布の是非を決するべきで、「経済的利益が損なわれるか否か」で決めるべきではない。>

  以下に何ゆえに違和感を覚えたかを書く。

    まず、指摘しておきたいのは「テクストを書く快楽」と「テクストを読む快楽」は必ずしも一致するものではない、ということである。ここで急いで「テクスト」とは何かを定義しておくと、「テクスト」とはある作者が書く文章のことである。

    例えば、内田氏がご自身のブログに気ままに書いているのは「テクスト」という名の一次作物である。内田氏ご自身は誰に頼まれたわけでもない、自発的に書きたいことを書いているわけだから、大いに「テクストを書く快楽」に浸っておられるに違いない。しかし、そのテクストがそのまま「読む快楽」に直結するかというと、失礼ながら、そんなわけでは全くないのである。

  内田氏の熱烈ファンは氏のブログを楽しみながら読んでいるだろうが、殆どの読者が氏の文章に接し、「読む快楽」を得ているのは、氏の「テクスト」からではなく、実は「書物(本)」からなのである。

「書物(本)」は「テクスト」をそのまま紙にインクで印刷したものではない。「書物(本)」というのは、内田氏が日々生産する一次作物的テクスト(その中には読むに値しないものもあれば、つまらぬもの、下らないものも混在している)の中から、「読む快楽」を齎してくれるであろうテクストを、編集者という名の共同作業者が取捨選択し、順番を決め、タイトル、リードを付し、本の体裁(大きさ、紙質、デザインなど)を勘案し、ついでに宣伝方法を考えてその費用を捻出し、営業的にも、この書物がより多くの読者の手に届くように各方面に活動を繰り広げる、そうした一連の行為の末に誕生する物なのである。

  だから、極論すれば、内田氏の本は、専一的に内田氏ただ一人によって生み出された作物ではなく、それが世に出、多くの人々の手中に納まるまでには多数の人びとの知恵と労力がそこに注ぎ込まれているのである。

  それだからこそ、「本」は「商品」なのである。それに見合った対価を得ないと、良質な「本」は産まれない。物書きは片手間でできるだろう。大学教授をしながら、銀行員や医師をしながらでも文章は書けるだろう。しかし、編集者は片手まではできない。その全生活を編集に捧げないと編集者は務まらないのである。優秀な編集者は、書き手が費やした何倍もの時間と労力を、その編集のために費やす。その行為によって「読む快楽」を与えてくれる「本」は誕生するのである。編集者は自らが生み出したその商品によって経済的利益を得なければ、他に生活を支える方法はない。だから「本」は「商品」なのである。「本」は「商品」になることによって初めて「本」になるのである。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」なるご本をお書きになったのだから、そのぐらいのことは重々ご存知のことと思っていたが、あるいは、ほうっておくと唯我独尊的に生き急ぐ傾向がご自身に抜きがたくあるものだから、それへの戒めとしてこのご本を上梓されたのであろうか。
  
  最後に、予言的に書いておきたい。WEB上でのテクストの発表は、ここで私がどうがなろうと、世の趨勢として強まっていくだろう。そうして、テクスト制作者はより簡便に、そのテクストを世に頒布するようになるだろう。しかし、残念ながら、かつての書物に匹敵する内容を備えたものはこの先もはや産まれないと断言してもいい。ただ、貧しいテクストがインターネットの海の中にやみくもに漂うようになるだけである。

  内田氏は先の文章の冒頭でこう書いておられる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。>

   そこまでおっしゃるなら、どうぞ、実行してみていただきたい。「あらゆる措置」とおっしゃるならば、書店で無料で配布することである。その費用は当然、ご自信の負担となるだろう。

   その時、心ある編集者たちは、一人去り二人去りするであろう。そうなったとき、果たしてそこに「読む快楽」を十全に与えてくれる書物が誕生する余地があるものかどうか、お考えいただければありがたい。

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コメント

これ読んで、ご主人様は滂沱。ぜひ、新聞全紙の主筆を集めてレクチャーし、日本マスコミ界で大キャンペーンを張っていただきたい。と申しておりました。そういえば「書籍じゃない」新聞はちゃっかり記事検索を自前で有料システム化して得意になってて。アホやニャ。

投稿: ユメ(猫♀) | 2009年11月11日 (水) 09時01分

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