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2009年5月

2009年5月31日 (日)

羽田空港のバカヤロー!!

  2年前の夏に、友人3人とサイパンへゴルフ旅行に出かけた。「3泊4日7ラウンドの旅」というすさまじいもので、焼けつくような太陽の下、午前1ラウンド、午後1ラウンドを苦行僧のように眉間にしわを寄せながらこなして、結局5ラウンド回り終えて発熱、腹痛でダウンした。

  その試練に比べれば今回は大したことはない(少なくともブログをアップしようという気持ちが残っているだけまし)が、しかし、腰と股関節がかなり悲鳴をあげている。

  土曜日、日曜日は悪友たちと、それぞれ札幌国際CC島松コース、恵庭CCへ。月曜日、火曜日と仕事をして、水曜日は会社のイベントに呼ばれて、よみうりカントリー倶楽部でラウンド。木曜の早朝8時の飛行機で宮古島へ。これは地元のリゾートホテルにご招待いただいて。で、金曜日の朝8時よりシギラベイCCでラウンド。南の島の陽光は5月とはいえかなり厳しい。 シャワーを浴びて休憩した後、夜の便で羽田へ。10時過ぎに羽田到着。帰宅したのが12時過ぎ。

   すぐに寝ればいいものを、なぜかゴルフシューズを抱いて風呂に入り、ボディソープと歯ブラシできれいに掃除。靴の内部もシャワーをかけてきれいにする。まことに気分爽快である。しかし、眠りについたのが1時半過ぎ。 翌朝6時に起床して、五日市CCへ。仕事仲間とのコンペに参加。小雨の降りしきる中かまわず強行。集中してがんばったおかげで3位に入賞。夕方帰宅してそのまま爆睡。翌朝8時まで眠る。

    本日、日曜日、鉛の詰まったような体をかろうじて起こし、なんとかベッドから這い出して、部屋をクイックルで掃除し、クリーニング屋へ行ったり、洋服を修理に出したり、東急百貨店で信州フェアーをやっているのでそこへ軽井沢ソフトクリームを食べに行ったりしながら、すでに夕方。おなじみの三鷹・ハイ・ファミリアで紅茶を飲みながらこれを書いている。

     今回特記しておきたいのは羽田空港の駐車場の大馬鹿ヤローぶりについてである。宮古島への便はANAであったので車をP3に駐車。「P3、5階、いるか、いるか・・・」と、駐車場所を忘れぬように、その階に掲げられた動物の名前を何度も繰り返しながら意気揚々と出発。

     しかし、なんという不運か、帰りはJALであった。カートにゴルフバッグやら旅行鞄を積み込み、さあP3駐車場へ、と思って案内板を眺めるが、P3の表示はどこにもない。P1、P2があるばかりで、P3に行くにはどうすればいいか皆目分らないのである。

      JALとANAとでは出発の際、建物が違うことは分っていたので、駐車場もそれぞれの建物に付属していて、P3は今自分が居る場所とはかなり隔たった場所にあるのであろうことは分かるのだが、そこへどうやって行けばいいのかの案内が皆無なのでさっぱり要領を得ない。

     夜も遅い。乗客も空港職員もほとんどいない。 と、そこへ制服を着て胸になんだかわからないバッジをつけた若い男性がやってきたので、丁寧に尋ねると、「一つ上の階に行けば案内が出てますよ。行けば分りますから」と言われてその気になって重いカートをゴロゴロ押してエレベータに乗り込み上がって見ると、周りは食堂ばかり。案内板もありゃしない。あの野郎、だましやがったなと思ってみても後の祭り。

     また、エレベータに乗り込み倒れそうになるゴルフバッグを左手で必死に支えながら、もとの階に戻って、やっと警備員に出くわしたので聞くと、「巡回バスに乗るか、B1の京急の乗り口の横にある長い通路を渡っていくしかない」と言う。巡回バスに乗るにはカートをあきらめて荷物をバスに載せるしかない、とも言う。外を見ると雨がザーザー降っている。

    仕方ない。B1で行くしかあるまい、と観念してまたしてもカートをゴロゴロ押してエレベータに乗り込み、B1へ。通路を見つけてゴロゴロ行くと、突然階段が目の前に現れる。「バカヤロー、どうなってんだよ、羽田はよ。想像力を働かせて設計しろよ、想像力を働かせて! ちょっと頭を使えば、カートにゴルフバッグを乗せた人はこの階段を登れないことぐらいすぐに分るだろうが!」と内心で怒鳴りながら、左右を見渡すとエレベータの標識が。 おお、エレベータがあった! とカートを押してその方向に向かう。

    ゴルフバッグは最初のうちこそ縦に積んでいたが何度も倒れそうになるのですでに横向きに倒して積んでいる。ゴロゴロとエレベータに近づくと、なんともちっぽけなエレベータでゴルフバッグを縦にしないと乗り込めないのである。ええい、バカヤローと罵詈しつつ、疲れた体でバッグを縦に立て、左手で支え、右手でカートの取っ手を下に押しながら(カートは取っ手を下に押さないとブレーキがかかって動かない)必死の思いで乗り込む。 ガタゴトガサゴソ。開いた扉が閉まりそうになるのを無理やりカートを押し出して防御しつつ、外に転がり出る。

   全く、もう! やっとの思いでP3に到着。エレベータで5階に上がり、車に荷物を積み込み、お次はカートをカート置き場に返却しなくてはならないのだが、これがまたどこにあるのか分らない。カート置き場くらいあちらこちらに設置して、C のマークでもデカデカと出しておいたらどうなんだ、といらだつ。

   ガラスに囲まれたスペースにカート置き場はあった。「カート置き場」の案内もまことにささやかに、わざと目立たないように配慮しているとしか思えない大きさで掲示されていた。しかもカート置き場にカートを納めるために、ガラスの自動扉を開けて入らねばならぬというおたんちんぶりである。そんなこんなで、10時半に羽田に着いたのに、家に着いたのは12時半。疲れた・・・・。

   一体全体、この手の公共施設のグランド・デザインは、どこのどいつが、何を考えてやっているのかと思う。一度、ゴルフバッグを4つほど車に積んで羽田の駐車場に泊め、ANAで宮古島に行き、帰りはJALに乗って羽田に到着してみろ、といいたい。もちろん、どしゃぶりの夜にである。そうすれば、羽田空港のグランドデザインがいかに狂気の沙汰かがよーく理解できるだろう。

   狂気の沙汰は何も、羽田空港だけではない。道路、それも高速道路、とりわけ首都高の無定見ぶりには驚くしかない。道路がドライバーに「死ね! 死ね!」と叫んでいる。が、この話になるとまた長くなるのでこれはまたの機会に詳しく書きたい。

   しかし、書いているうちにまた腹が立ってきた。

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2009年5月27日 (水)

「沖縄の最後」と「雷撃機出動」

  

   昭和42年に河出書房から刊行された「太平洋戦記シリーズ 雷撃機出動」(森拾三著)をアマゾンの古本リストの中から探し出して読む。42年前の本なので、定価も290円と安い。これまで戦記物などにまったく興味もなかったが、たまたま読んだ一冊がとても面白かったので、つい続けてシリーズを買ってしまったのだ。

  和歌山の田舎の実家の離れを建て替える際に、徹底的に屋内を整理したのだが、そのとき、同シリーズで「沖縄の最後」という本が本棚の奥から出てきたのだ。著者の名前を見ると、古川成美とある。

  あ、と思った。私は高校時代、古川氏の家に下宿していた。実家が山深く、通学にはなはだ不便なので、通っている高校の近くにある古川氏の家に居候することになったわけだが、古川成美氏はそのときどこかの高校の校長先生だったと思う。その古川先生がこんな本を書いていたとは、と驚いた。

  読み出すと、巻を措くことあたわず。太平洋戦争に従軍した兵士たちの生々しい体験が、ドクドクと鳴る血流が聞こえてくるほど鮮やかにそこに記されているのである。高校時代、ときに一緒に夕食を食べていたあの古川先生は、戦中こんな驚くべき体験をしていたのか、と今になって驚いた。

  本が刊行されたのは、昭和42年。終戦が昭和20年だから、戦後22年たっての出版である。原稿そのものが書かれたのはおそらくもっと前のことだろうから、人々の記憶や肉体の中に、戦争の傷痕がまだくっきりと残っていた時代に書き刻まれた文章なのである。文章の巧拙より前に、そこに書かれた事実そのものの迫力に気おされるのである。

  ああ、あの時、古川先生に戦中の体験を聞いておけばよかったなあ、と思うが、残念ながら、当時の自分には、そんなことはあまり関心ある物事ではなかったのである。

「沖縄の最後」を読了後、次に読み始めたのが上記の「雷撃機出動」。真珠湾攻撃にも参加した、海軍の雷撃機のパイロットである。ガダルカナル島での戦闘で右手首を失って戦線離脱。この本にも、信じがたい体験が素直な文章で書かれている。「死ぬこと」がこんなにカジュアルな日常があったのかと驚愕する。

  あとがきを読むと、筆者の森氏は、本が刊行されたころ、つまり昭和42年頃には、西荻窪の一角でささやかな酒場を営んでいる、と書かれている。私が上京したのが昭和46年。48,49年頃には西荻窪をうろうろしていたから、森氏と道ですれちがったり、あるいは店に迷い込んだりしたことがあったかもしれない。

  しかし、あれからもう40年。もはや従軍体験者の話を直接聞くことはできなくなってしまった。だからこうして、かび臭い古本を1ページ1ページ、緊張しつつ、大事に繰るしかないのであるが。

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2009年5月26日 (火)

吉永小百合さん、ありがとうございました!

  
    週末を利用して、いつものゴルフ仲間と、札幌へ「2泊3日2ラウンドの旅」に出かける。JALツアーズを利用すると、信じられないくらい安い。これでどうやって各社は利益を捻出しているのかと思う。ちなみに明細を書いておくと、羽田、札幌間の往復航空券、札幌グランドホテル2泊、ゴルフ2ラウンドすべて込みで約7万円!

  土曜日の夜はすすき野の羊肉の店で、メ~~と泣きそうになるくらい腹いっぱいラムを食べる。ミルクラムから始まって、各部位を食べつくす。ラムやマトンはあまり好きではないのだが、同行の3人が大好物だというので、うつむきながらご相伴する。

  食後、ホテルの部屋に帰ってシャワーを浴びるが、自分が羊臭いことがわかる。口の中はもちろんだが、体全体から羊肉臭が立ち上っている。深夜、トイレで小用を足すが、なんと、羊臭い!!!!

  コーヒーを大量に飲んだ後の小用のときに、コーヒー臭がすることは経験的に知っていたが、羊肉臭とは・・・・・。このトイレでの羊肉臭は、翌日の昼間まで続いた。羊さんは侮れないよ。

  考えてみると、この小用時の「羊肉臭」というのは、羊肉をたまにしか食べないし、あまり好きな香りではないので、こんなふうに敏感に感じてしまうだけなのかもしれない。実は牛肉やマグロを食べたときにも、味噌汁を飲んだときにも同様の現象は起きているのだけど、あまりに日常的なことなので慣れっこになっているだけなのかもしれない。

  西洋人が成田に到着したときには、鰹だしの匂いや醤油の匂いがすると言っていたのを思い出す。イベリコ豚もどんぐりばっかり食ってるからああいう香りになるのだろう。

  豚インフルエンザを恐れてマスクをしている人が多い。多くのレストランの入り口にはアルコールの消毒液が設置されている。その様を見ながら、ふと思った。現在は医学(科学)が進んだので、凶悪そうな新手のウィルスが豚に取り付き、それが人間に感染したという科学的事実が喧伝されているが、ひょっとして、過去にも似たような事象は少なからず起きていたのではないか、と。

  明治期、大正期、昭和初期。たまたま科学的技術が発達していなかったためにそのことを察知できなかっただけで、当時も同様に、鳥やら豚やら羊やらの体内で増殖したウィルスが人間に感染していたのではなかろうか。最近になってそのような事態が白日の下に晒されるようになっただけで、かつては何も知らないままみんな感染してしまっていたのではなかろうか。

  年配者がこの豚インフルに感染しにくいのも、彼らがその長い人生の途上のどこかで、すでに凶悪なウィルスに感染し、それを駆逐し、頑強な免疫力をつけたがためなのではないか。もちろんこれは、ド素人の勝手な疫学的妄想ですが・・・・。

  ゴルフは、土曜日には札幌国際CC島松コースを、日曜日には恵庭CCをラウンド。土曜日は雨が降り、うすら寒い最悪のコンディションだったが、日曜日はうってかわって絶好のゴルフ日和。暑くもなく寒くもなく、はるか彼方に恵庭岳を遠望しつつ、快適な1.5ラウンドをこなす。途中、どこかのバンカーでウェッジの52度を置き忘れたらしく、困り果てる。

  と、マスター室のカートがやってきて「お忘れ物です」とウェッジを届けてくれる。

「このウェッジ、吉永小百合さんが拾ってくださいました」
「え? ヨシナガさんて、あの吉永さん?」
「ええ、小百合さんです」
「後ろをラウンドしてらっしゃるの?」
「ええ、プライベートで」
「ふーん、あとでお礼に伺わなくては・・・」

  しかし、その後すぐに0.5ラウンドに突入したため、結局、吉永さんにはご挨拶ができずじまい。吉永さん、どうもありがとうございました! この場を借りて御礼申し上げます。

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2009年5月18日 (月)

金達寿著「日本の中の朝鮮文化」を読む

  かねてより、おかしいな、おかしいなと思い続けていた。

  週末、自家用車を運転して、関東のあちこちのゴルフ場に行く機会が多いのだけれど、郊外の、その地名標識を眺めながら、「これって、どう考えても日本語じゃないよなあ」と思うことが結構多かったのである。

  たとえば埼玉県にある嵐山GCに行くときには、東松山でICを下りて、新郷を左折、唐子、上唐子を曲がるのだが、「唐子」というのはどう考えても日本の地名ではない。というか、この地名が生まれた時に、この地域は、明らかに半島や大陸から訪れた人々の居住地域だったに違いない、と思われるのである。

  あるいは、五日市CCに行く際には、「あきるの市」を通過する。この「あきるの」というのも絶対に日本語ではない、と思った。住居表示は平仮名で「あきるの」だが、近くにある神社は「阿伎留神社」と表記する。音を聞くだけで、日本語じゃないなあ、と思わざるをえない。

  あるいは、千葉で「酒々井」という地名が「しすい」と発音するのだと知って、これも日本語としては奇異な読み方だと直感した。

  しかし、関東圏のこんな田舎に渡来人が住んでいた、というのも妙な話であるなあとも思い、自分のそんな推測を打ち消し、以後そう考えたことさえもすっかり忘れていた。

  ところが最近、古本屋さんで「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著 講談社 昭和45年刊)という本を見つけて読んだところ、先に書いた自分の直感が正しかったことを知って驚いた。しかも同書には「唐子」「あきるの」の地名が半島からの渡来人の居住地域であったと明言されているのである。たとえば埼玉県の「唐子」については、

<(・・・・・)河田楨『武蔵野の歴史』にこう書かれている。
   唐子という地名は七世紀に遡る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。

  そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須恵や今宿というところもあるが、東松山には新漢(いまきのあや)の高貴を祀ったものといわれる高負古(たかふこ)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。>(P125)

  また「あきるの」に関しては、

<(・・・・・・)須田重信『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。
   狭山の西南方面、多摩川から秋川が分かれるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸に阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも伝えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。>(P126)

  この「日本の中の朝鮮文化」という本は、金氏が独自に行った学術的調査を書物にまとめあげたものではなく、その手の本や資料を縦横に渉猟しつつ、関東に存在する、半島からの渡来人ゆかりの地を、氏が自らの足で訪ね歩くという紀行文の体裁をとっている。そういうわけで、やたらに引用の多い、というか、肝心の部分はすべて引用、という形の書物となっている。

  だから、先に引用した文章もほとんどが引用、つまり引用の引用というややこしいことになってしまっているが、そのことに慣れてしまうと、同書のなかには驚くべき知見があちらこちらにちりばめられている。「えっ? そんなこと、日本史の授業で習わなかったよ」というような。そんな一節をランダムに拾ってみるとこうなる。

<「朝鮮帰化人の移住が盛んに行われ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういう具合である。
  まず、『続日本紀』の716年、霊亀2年5月条のいわゆる1799人の高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)

<(狛江古墳の中でもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる) どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の放牧もさかんとなった(・・・・・)。
  中島利一郎『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(こま・高麗)といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものである(・・・・・)。>(P100)

<日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国神社、許麻(こま・高麗)神社などというのも(渡来人が日本各地に群居した・・・・・)結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、彼らがいかにこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。>(P104)

<武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし・韓モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信『関東の史蹟と民族』にはこうある。
  ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先づ上総の国には武射郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚ほ山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明しておくが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。>(P194)

  あまり長々と引用ばかりしていてもきりがないからこのくらいでやめるが、同書を読むと、関東には古代より半島からの渡来人が多く住み着いたため、地名、神社名、人名に朝鮮由来のものが驚くほど多く存在していることがわかる。初めて教えられることも数多い(日本の義務教育ではなかなかここまで詳しくは教えてくれないので)が、その中でも、<だいたいそもそも、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである(・・・・・)」>(P198)というくだりには目から鱗が落ちた。

  ええ、そうだったの? 古墳というのは日本の天皇のお墓だとばかり思っていたのに、そもそも古墳という墳墓自体が朝鮮文化の産物であり、そこに眠っているのはほとんどが朝鮮から渡来した王族なのである、というのである。知らなかった。考古学的には現在どのような定説が主流となっているのか知らないが、なるほど日本のの文科省はそのあたりのことを積極的には教えたがらない理由もなんとなく分かる。

  古代、自分が大陸や朝鮮半島に住んでいたとする。もちろん紀元前、昔々の大昔である。その時、飢饉や戦乱など、不測の事態が出来してその地に留まることができなくなったときどうするか。敵が押し寄せてきて、どこかに逃れなくてはならなくなったらどうするか。そんな切羽詰った状況に置かれれば、おそらくは家族を引き連れて、成功するかどうか分からない、エキソダスを試みるだろう。

  船に乗って、はるか南に大きく広がる島に逃げるであろう。もちろんその頃にはその島に日本列島という呼称もなければ、人さえろくに住んでいなかっただろう。海に隔てられたかの島は逃亡先としては最適だったに違いない。大陸や半島だけではない。南の島々からも流れ着いた人々もいただろう。

  いってみれば大昔の日本列島は、東南アジアの吹き溜まり、避難民のアジールだったのではあるまいか。つまり渡来人が渡ってきたのはなにも西暦5,6世紀だけのことではなく、先史時代から次々とあちらこちらから渡来人がやってきていたのではないか、という感想をこの本を読むと持たざるを得ない。

  極論すれば、現在日本人と呼ばれる人はすべて渡来人である。1万年前に来て住み着いた渡来人の末裔もいれば、1500年ほど前に渡ってきた渡来人の末裔もいる。そのすべては遺伝子的にシャッフルされてもはや出自は分からぬようになってしまっているが、どの人もこの人も、早く来たか遅く来たかの違いだけで、すべて渡来人なのではないか。

  通勤の電車の中で前のシートに座る見ず知らずの乗客の顔をつくづくと眺めると、我々は全員が「日本人」だと思い込み、これは日本人の容貌をしている、と無根拠に納得しがちだが、よくよく顔を見つめてみると、そこにははなはだしいバリエーションがある。朝青龍のような顔もあれば、金正日みたいな顔もある。ペヨンジュンみたいな顔もあれば林家ペーみたいな顔も、あるいは玉木宏みたいな顔の人もいる。日本人として、とてもひとくくりにはできない多様性があるように思う。それも我が国の位置が、東南アジアの吹き溜まりなればこそなのではないかと思わないわけにいかない。

  同書には、しばしば「朝鮮からやってきた帰化人が・・・」という表記が見られるが、この「帰化人」という言葉にも違和感を覚えざるを得ない。我々が理解する「帰化」とは「日本国籍でない人が日本国籍を取得すること」である。しかし、その意味で、当時の渡来人たちは「これから日本人になろう」と決意したのだろうか、という疑問は残る。だって、まわりじゅう渡来人だらけで、確かにずいぶんと早く来た人もいるので言葉が通じなかったりしたこともあっただろうが、全く違う国に紛れ込んでしまったという感覚は少なかっただろうと思うからだ。

<高句麗、百済(馬韓の発展したもの)、新羅(辰韓の発展したもので、のち弁韓の駕洛・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、1世紀のはじめごろであるが、7世紀の668年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗が亡び、遺民の多くは地つづきであった満州へ入って渤海国を打ちたてることになる。が、その一部はまた海を渡ってこの日本へやって来たものであった。>(P33)

  私が、赤坂の韓国クラブへ行くと、ホステスからいきなり韓国語で喋りかけられ、「いやいや、私は韓国語が分からないですから・・・」と制止しても、「なにしらばっくれてるのよ。顔観りゃわかるわよ」とあくまで韓国人として遇されるその理由も、80歳になる母親が、どうみても韓国映画に出てくるおばあちゃんにそっくりなのも、親戚のおじさんがチョーヨンピルに似ているその理由も、きっとそういうことなのだろうと、深く理解できてしまうのである。

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2009年5月12日 (火)

覚悟してろよ、スワローズ

  見つかったらしい。

   例の宝の地図を書いてボトルに入れて流した張本人が。この一つ前のエントリーで新聞記事を引用したので、詳細はそれをお読みいただくとして、その新聞記事を読んだ親御さんが「うちの子供が流したものではないでしょうか」と海上保安部に連絡をとったらしい。流したのは小学生。保安部の逞しい海の男たちはこの子を船に招待して、楽しい一日をプレゼントしようと手ぐすね引いて待っているらしい。とにかく、よかった。

   さて、この週末は和歌山に帰省。完成に近づいた「離れ」をとくと観察。なかなか良いできばえで、満足。「とにかくオレには金がない。金はないけど、母親が人生の最後の穏やかな日々を過ごすための家を作ってやりたいんだ。だから、そこのところを何とか頼む」という、強引&わけの分からない懇請で工務店の社長をかきくどき、最低価格の家がついに完成寸前。エントランスには、かわいい花壇まで作ろうというのだから、私も変わった。でもまあ、よかった。

   よくないことが一つある。まだ、人が住む前なのに、空気孔の覆いの上にツバメが巣を作ってちゃっかり2羽でそこに棲みついてしまっているのである。2羽で一生懸命藁くずのようなものを拾ってきては巣を補強している。犬走りのコンクリの上にウンチをたらしていたりする。

   コノヤロー、人がまだ住む前にあつかましいヤローだ。ぶち壊してやる、と息巻いていると、妹が「まあまあ、ツバメさんが住みたくなるような家なんだから、きっといい家なのよ。幸せを運び込んでくれてるんだから、そのままにしておいてあげましょう」とグリム童話みたいなことをいうのでなんとなく気勢をそがれる。

   仕方がないから、今回は多めに見てやろうと思う。しかし、冬になったら、はしごに登って、水をかけてふやかしたのち、きれいに取り除いてやろうと思う。覚悟してろよ、スワローズ。

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2009年5月 8日 (金)

「人間に対する愛」がそこにあるから

  
    いいなあ、こういうニュース。この記事を書いた報知の記者もえらいけれど、その妙味を認めて配信させた上司もえらいと思う。

  こういうほのぼの系の記事を書くのはとても難しい。ほとんどの記者は、このテの事実を知っても、「こう書けば記事なる」と直感的に悟ることはないだろうと思う。

  しかしこの記事を書いた記者は、そうではなかった。面白みのツボをきちんと掴んで楽しくまとめている。こういう眼差しのある記者の書いたものは信用していいと私は思う。何よりも「人間に対する愛」がそこにあるからだ。では、引用開始。

<ペットボトルの中に「たからのちず」差出人だぁれ?

  5月8日8時1分配信 スポーツ報知
 
  神奈川県横須賀市の横須賀海上保安部の船着き場に、4月に漂着したペットボトルの中から「たからのちず」と記された紙が見つかり、7日、同保安部が公開した。小さな子どもの筆跡ながら、「たからのしるし」として、ドクロマークで3か所もの宝の隠し場所を示す内容。同保安部では今後差出人を捜し、見つかれば「そのお宝とは何なのか?」を尋ねた上で、記念品の贈呈や巡視艇の体験乗船などのプレゼントを考えているという。

 「たからのちず」「こたつ」「ゆうたへや」-。巡視艇の乗組員たちも興味津々の“お宝マップ”が発見された。地図は1枚で、B5判の白い紙に鉛筆書き。部屋の間取り図のようにも見え「たからのしるし」として、ドクロマークが3か所記載されている。

 横須賀海上保安部の管理課によると、地図が見つかったのは4月22日。東京湾内を巡る巡視艇「ゆうづき」乗組員が出航前、プロペラに絡まったりするのを防ぐため、網で周辺のゴミを取り除く作業をした際、500ミリリットルのペットボトルが交じったという。

 乗組員はペットボトルの中に手紙のようなものを発見。2つに折った後に丸められた紙を取り出して開いてみると「たからのちず」の文字が。乗組員8人の船内で、思わず「宝の地図を見つけた!」と声を上げたという。

 地図を拾った乗組員は、数日後に管理課に提出。同課では地図を吟味した結果「ゆうたへや」「なつベット」「しょうくん」と書かれていることから、「差出人は3人兄弟」との見方を強めた。

 ただし「どの方面から流れてきたかは全く分からない」という。ペットボトルのキャップにはJTのお茶「辻利」の文字。JTによると「2007年9月から、全国的に販売されている」商品で、宝のありかの手がかりは、あまりに薄い。

 同課では差出人が分かり次第「まず、宝が何なのかを聞きます。こちらから宝を探しに行きたいぐらいです」。差出人の年齢などを考慮した上で、記念品の贈呈や巡視艇の体験乗船などを検討しているという。

 問い合わせは同保安部まで。(電)046局861・8366 >

  というわけなので、何か手がかりを知っている方は、是非上記の電話番号にご一報いただきたい。

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2009年5月 1日 (金)

トラベラー・バッグ・ガールズ

  

  最近、気がついた。ひょっとすると、気づくのがかなり遅いのかもしれない。

  若い女性が、小さくてかわいいトラベラー・バッグ(底にキャスターが付いていて、取っ手が、孫悟空の如意棒みたいにぐいーんと伸びるバッグのこと)をコロコロ引きずって歩いているのである。

  最初は、地方から東京見物に来た女の子がホテルに向かっているのかな、と思っていたのだが、どうも様子がおかしい。だって真昼間に、麹町をコロコロさせている子がいるかと思えば、午前中に三鷹のバス通りをコロコロ引きずっている子がいる。

  ひょっとして、新手の風俗嬢なんだろうか、とも考えたが、それにしては妙におしゃれである。となると職のないニートさんで、インターネットカフェで寝泊りしてるのかな、ブリトニーとかいう女性漫画家みたいに、とも思うが意外に清潔そうである。

  いろいろ思案した結果、私的には、「これは、若い女性の最近のファッションであろう」という結論に達した。しかし、ファッションだとするとはなはだ面倒なファッションではないか。
 
    一時期、頭の悪そうな青年が、子供の頃に乗った「足こぎ二輪車」(なんと呼ぶのか知らないが、きっと英語のおしゃれな呼び名があるに違いない)みたいなものを大事そうに抱きかかえて電車に乗り込んできたことがあった。電車から降りると、それに片足を乗せて、ホームをすいすい転がって行った。

    落ちろ! 線路に落ちろ! 馬鹿は電車に轢かれてしまえ、と強く念じたが、祈念むなしく若者はすいすいと先に進み、見えなくなってしまった。最近ではあの「足こぎ二輪車」もすっかり見なくなったが、あれも随分と不便なファッションだったなあ、と思う。

    というわけで、このトラベラーバッグのはやりも早晩廃れることになるだろう。しかし、おじさんは知りたいのだ。あのバッグの中に何が入っているのだろうか。一体全体、どこがおしゃれだと思って、あんなものを引きずっているのだろうか。

    世のトラベラー・バッグ・ガールズよ、教えてくれないか。
  

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