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2009年10月

2009年10月26日 (月)

立花隆氏と佐藤優氏の博覧強記について

  
    文春新書から「ぼくらの頭脳の鍛え方」という、派手なタイトルの新刊が出た。サブタイトルが「必読の教養書400冊」。筆者が立花隆氏と佐藤優氏。帯には<「知の巨人」と「知の怪物」が空前絶後のブックガイドを作り上げた>と、ずいぶんと大きく出た惹句が踊っている。その横に立花、佐藤両氏の写真が載っている。

    立花氏は髪も薄く白くなり、おなかがぽっこり出ていて、金正日のお兄さんみたいな風貌である。一方の佐藤氏は手足の短い5頭身の「起き上がりこぼし」のような按配である。どっちが「巨人」でどっちが「怪物」かは明示されていないが、なんとなく想像はつく。「怪物」呼ばわりされるのはあまり嬉しくないのではなかろうか。

    それはともかく、この両名は恐るべき読書家であり、かつ蔵書家でもある。立花氏は仕事場に35000冊、佐藤氏は15000冊。尋常な量ではない。普通の人間なら一生かかっても読み終えないほどの量である。このふたりが、まず、自分の本棚から「知的欲望に満ちた社会人へ」向けてそれぞれ100冊ずつセレクト。次に、「すぐに役に立つ、すぐ買える」文庫と新書をそれぞれ100冊セレクト。計400冊のブックガイドとなっている。おまけに、それぞれの書物についてふたりできめ細かく対談しているあたりが凄い。このふたり、いったいどれだけの本を渉猟し、かつ頭に叩き込んできたのかと、凡人は気が遠くなりそうになる。

    こんな荒業ができるのも、このご両人が、超人的な「本読み」だからなのだが、私は以前、このふたりは「特殊な映像記憶の持ち主」なのではないかと書いた(09年4月15日付け)。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/index.html
   
  引用してみる。

<その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。
    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。>
  
  こんな「サヴァン症候群」的能力の持ち主だからこそ、このようなブックガイドを編むことができるのではなかろうか。このおふたり、自分たちに可能なことは他人にもできると思っておられるのか、同書の中で、こんなアドバイスがなされたりしている。

<読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで1ページ、1ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。>(P245 立花隆による「実戦」に役立つ14カ条)

  こんなことも、映像記憶的に書物を読むことができるから言えるわけで、凡人にはこれができない。「1ページ、1ページ繰る」だけでは何にも頭に入って来ないのである。しかし、佐藤氏はこの指摘が外務省での後輩の教育に際して大いに役立ったと述懐している。

<「この本、ダメだな」と思っても、一応最後までページをめくれ、という指摘もありました。驚いたのですが、モサド(イスラエル諜報特務庁)とか、KGBとか、対外諜報庁の連中の本の読み方、本の買い方と立花さんは一緒なんです。>(P12)

  さて、この本の中には面白い話があちらこちらにちりばめられているので、ランダムに抜書きしておきたい。

<立花 ネット空間にも、本になっているものより水準の高い論文などが山のようにあります。ただ、そういう水準のものに出会う確率は相当低い。グーグルでキーワードを入れて検索するにもやはり基本的な教養が必要です。
佐藤  (・・・・)私は情報屋ですから資料も何も持たないで、どれだけインプットできるかが勝負なんです。(・・・・)情報の世界で最後に勝負するときには、紙も何も持っていないですから。私の場合、インターネットだったら紙から吸収する情報量の二十分の一くらいしか入ってきませんね。やはり紙をペラッ、ペラッとめくらないと入ってこない。>(P55)

  
  立花氏は哲学については以下の本を推挙。
「形而上学」 アリストテレス 岩波文庫
「パンセ」 パスカル 中公文庫
「方法序説」 デカルト 岩波文庫
「ツァラトゥストラ」 ニーチェ 中公文庫
「永遠の平和のために」 カント 岩波文庫ほか
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン 岩波文庫ほか
「プラグマティズム」 W.ジェイムズ 岩波文庫

  こんな具合にずらりと並べて<誰でもこれくらいは手に取るべき。>とさらりと書く。いかにも立花氏らしい。「手に取ること」ぐらいは簡単にできるだろうけれど、読破するのは容易ではない。

  佐藤氏は、「フランス革命についての省察」(パーク 岩波文庫)、「なぜ私は生きているか」(J.L.フロマートカ 新教出版社)と「現代のヒューマニズム」(務台理作 岩波新書)の間に、どういうわけか、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社文庫)を挙げている。不思議である。しかも、その文章を大絶賛で、<同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使して完璧な論理を打ち立てる。論理とは何かをしるためにも重要な本。>(P81-82)と手放しである。タイプなんだろうか?

  その佐藤氏、外務省に勤務していた頃、権力の中枢に位置する人物たちの様々な生態を目撃したという。例えば、こんな具合に。

<昔、赤坂の料亭で、鈴木宗男さんの前で「おしめ換えてくれ」とやる東大卒のキャリア官僚がいた(笑)。お腹を出すことによって、政治家に無限の忠誠を誓うんです。若い国会議員でも、「先生の前で隠すものはありません」と言って、素っ裸になって、オチオンチンを股にはさんで、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌っている場面も見ました。こういう官僚、政治家たちの姿を見たので、中江兆民のキンタマ酒がやはり政治の本質だと思うんです。>(P162)

  読んでるこっちが、こまっちゃうナだが、もうひとつ、にわかには信じがたい話を。

<佐藤 (・・・・)外務省のロシア語通訳はかなりひどい。ロシア政府の公式ホームページを観るとよくわかるんです。(・・・・)日本の要人とロシアの政府要人が会談をすると、そのときの冒頭取材の発言記録がホームページに掲載されるんです。日本側発言を観てみると、「通訳されたまま」というロシア語が出ている。どういうことかというと、メチャクチャなロシア語で、原発言がどうだったか、よくわからなかったという意味なんです。
立花  内容が理解できなかったから、そのまま載せたという断りなんですね。
佐藤  そうです。その日本側発言というのは、仮に日本語に訳してみると、こんな感じです。「あんたさん、ロシアの大統領さんだった。あたい、日本の首相だった。そのとき、二人話して、うまくいった。うまくいったのは何? それ、戦略的行動の計画ね」 これがロシア政府のホームページに出ている。国の恥です。>(P164)

  もしその通りならば、なるほど国の恥である。なぜ、こんなことが起きるかというと、外務官僚に、<通訳をできるようになりたいという動機がないんです。>というから、まさに病膏肓に入る、という気配である。大学生の知性が劣化しているだけではなく、官僚たちも充分退廃しているのかもしれない。

  この本を読んでいると、ああ、この本も読んでみたい、この本も手にとってみたいという気にさせられるから不思議である。最後に、「教養」について立花氏が興味深いことを喋っているので、引用しておきたい。

<教養というのは別の言葉で言えば、人類の知的遺産です。その場合、教養教育とは、知的遺産の財産目録を教えることになります。しかし、いかにしてその全体像を教えるか。私は、知の世界の果てがどうなっているか、それが想像できるような地点へ学生を連れていくことだと思っています。>(P240)

「知の世界の果て」か。刺激的な言葉である。

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2009年10月13日 (火)

ミルフィーユじゃなくてミルフイユ!

 
    久しぶりに、京都在住の関谷江里さんことエリチンのサイト(ブログと言うと怒られる)を見ていたら、いかにもエリチンらしいことが書いてあったので、思わず笑った。ぜひ、もっと多くの人々にこの主張をお届けしたいので、ここに引用させていただきます。エリチンのサイトの冒頭に、<わたしの言葉の好みはこちらです。よろしければご覧ください。>という、みょうちきりんな案内があって、そこをクリックすると、以下のような文章が登場する。一部割愛しつつ、ご紹介します。

<(・・・・・・)この話をはっきりするのは初めてですが、やっぱり聞いてくださいませ。<(_ _)> 
自分の言語感覚はヘンという認識もあった上で語るから許して~。
実はわたしは、ブログという言葉を使わないのです。
このサイトオープン当初には、何度か使いましたが、
ある時から音として耐えられなくなってしまったのです。
「ぶ」で始まる言葉:
ぶさいく 不細工
ぶざま 不様
ぶしょう 不精
ぶきよう 不器用
ぶようじん 無用心
ぶれい 無礼
ぶこつ 無骨 ・・・
で、
ブログ。 (-_-;)
「ブログ」とは、 weblog ウエブログの略であります。
けれど、 ログに、「ぶ」がつくなんて、
理不尽なことだ、かわいそうだ~。\(゜o゜)/
(・・・・)頑張って「ブログ」という言葉に対して無感覚でいようとするのだけど、
それでも「ブログ」という言葉には濁音が2音もあって美しくない。
音として、かなり耐え難いものがあると思います。
「ブロガー」なんて、さらに耐え難い~~~(叫)>

   と、まずは、エリチンの「言葉の音」に対する繊細な美意識をご披露する次第。お次は、用語についての一家言を。

<(・・・・・)どんな言葉をわたしは決して使わないかというと、以下のようなものです。
●お昼を軽く「済ます」というような言葉。食事はありがたく「いただく」ものです。用事じゃないんだから、毎回の食事はうれしいものなんだから、「済ます」という言葉は出てきません。もちろんわたしも毎回きちんとした食事をしているわけではないけれど、それでもたとえば朝食を「済ます」ってやっぱり言わない。(「とる」ならいいと思う。)
●お弁当や鍋を「つつく」とは、わたしは言わない。「つつく」って言うと、なんだかキツツキが木をつんつんしているイメージが思い浮かんで、お弁当やお鍋が痛くてかわいそうやん、と思っちゃう。やっぱりお弁当もお鍋も大切に「いただく」ものだと思うのです。
●それから「こだわりの」って言葉も絶対に使わない。美食にまつわる表現で、これほど安っぽくなってしまった言葉もないでしょう。世の中に、自分の料理(あるいはお菓子などの商品)を提供してやっていこうというくらいの人なら、こだわっていて当然だし、いやもう理屈を超えて、とにかくあまりに安易に使われるようになっていることがやだ~。
●さらに「癒し」とか「癒される」と言う言葉をわたしはほぼ100%使わない。(「傷が癒えたら」というように、本来の意味で使うことがあるから「ほぼ」です。)ものを表現するとき「癒しの○○」とか「癒される空間」といった使い方が、褒め言葉としてものすごく使われるけれど、わたしは全然いいと思わない(-_-;)何でかわからないけれど、これも安易に使われるのがいやだということと、もうひとつ、癒しというからには「疲れ」とか「ストレス」とか、前提としてマイナス要素を含んでいるからだと思う。「癒される」ということは、現在ストレッセな状態であることを認めたことになるんじゃないかと思うのです。例えば「癒しの空間」というのは褒め言葉なんだろうけれど、「心が洗われる空間」あるいは「気持ちが和む空間」っていう方がよりポジティヴなんじゃないかしらん?>

   今度はご自身が好まない言い回しについての説明がなされている。とてもよく分かる話である。「キツツキみたい」というのがいかにもエリチンらしくて笑ってしまう。さて、お次はフランス語について。これに関しては、エリチン、厳しいよ。

<(・・・・)そしてもうひとつ、表記について、日ごろ常々述べたいと思っていたので述べます。日本語におけるフランス語の表現とカタカナ表記についてです。これはかなり多くの料理人やパティシエの皆さんとも意見を同じくしているのです。作る側、それからライターとか編集者が今後一致して変えていかねばならないことです。
●長年の慣例とはいえ、いい加減、「ミルフィーユ」という発音と表記をやめましょう。「ミルフイユ」です。ミルのフィーユっていったら、女の子が1000人いるってことなのよ(-_-;) >

「女の子が1000人」ですか。なんだか、みみず千匹みたいだけど、ちょっと違いますか。え、全然違う? 失礼しました。「女の子1000人」はミルフィーユでmille filles。お菓子のミルフイユはmille-feuilleで、「1000枚の葉」。確かに薄片が何枚も重なったようなお菓子ですもんね。milleは「千の」という意味です。

   ちなみに、長さの単位のメートルはフランス語です。メートル原器がフランスで作られて、それが世界中の長さの基になっているからなんでしょうが、われわれが日常よく使う「ミリメートル」はmillimètreで、頭についているmilliは「千分の1の」というフランス語。つまり「1メートルの千分の1の長さ」が「1ミリメートル」なわけですね。ついでに言うと、「センチメートル」はcentimètreで頭のcentiは「百分の1の」という意味ですね。1メートルの百分の1が1センチである、と。ただし、centは「百、百の」という意味。英語のcenturyは、だから100年という意味で1世紀なんですね。話が脱線しました。エリチンの話を続けます。

<(・・・・)いい加減「ブーランジェリ」という発音と表記をやめましょう。「ブーランジュリ」です。「ジョルジュ・サンク」という発音や表記は定着しているのだから(「ジョルジェ・サンク」と言ったらヘンでしょう?)「ブーランジュリ」と言えない(書けない)はずはないと思う。>

   はい、ごもっとも。パン屋さん(お店)はboulangerie(ブーランジュリ)、パン屋さん(人)はboulanger(ブーランジェ)。多分、両方がごっちゃになって「ブーランジェリ」になったのではないでしょうか。ちなみに女性下着のブラジャーはフランス語ではsoutien-gorgeで、英語でbrassiere。この英語が日本に入ってきてブラジャーとなった、と物の本(どんな本やねん!)には書いてあるが、この英語の綴りはどう見てもフランス語綴りである。そこでフランス語の辞書をよーく見てみるとありました! Brassièreで「女性の胸着」と。しかし、こんな立派なフランス語があるのになぜ、フランス人はブラジャーをスーティエン・ゴルジュなどという不思議な単語(直訳すれば「喉支え」)にしたのか、私にはその心がよく分からない。おっと、また脱線だ。

<それから、「グランメゾン」という言い方はおかしいのです。いったいいつ、誰が言い出したのでしょう。言うなら「グランドメゾン」だし(メゾンmaison=女性形)、さらにこれは、たとえば「タイユヴァン」とか「グラン・ヴェフール」とか、いわゆる「老舗」といえるお店に使う言葉です。>

  これはすべての名詞に男女の別があるというフランス語ならではの話なので、なかなか難しいです。後ろの名詞がmaisonみたいに女性名詞ならその前につける形容詞は女性形になります。だから、grande maison(グランドメゾン)となる。しかし、男性名詞の前ではgrand(グラン)となる。gran-croix(グランクロワ=レジオンドヌール一等勲章)というように。どうすれば名詞の男女の別が分かるのか? これはフランス人なら誰でも分かる。八百屋で、ジャガイモはマスキュランかフェミナンかと尋ねると、即座に返事が返ってくる。他の野菜すべてについても同様。これには感動する。フランスやイタリアで、公園のホームレスが拾ってきた新聞を読んでいるのを見ると、ああ、イタリア語(フランス語)が読めるんだとちょっと嫉妬する。

    私が気持ち悪いのは「既視感」を意味するフランス語のdéjà vu。déjà が「既に」、vuが「見た。あるいは見られた」。日本語表記でデジャ・ヴュなのだが、ときどき「デジャブー」という表記を見ることがある。これが気持ち悪い。「すでに高木ブーになっちゃった」ということなのかと思ってしまう。

      ついでに書いておくと、よく「プチ・バカンス」という和製フランス語が使われるけれど、vacanceは女性名詞。しかも「休暇」という意味で使うなら複数となってvacancesとなるので正確には「プティット・ヴァカンス」petites vacancesとなります。どうでもいいけど。

  アー、疲れた。

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2009年10月12日 (月)

石川遼とチューイング・ガム

  18歳の石川遼が、49歳のケニー・ペリーを打ち負かした。

  10月8日より4日間、アメリカはカリフォルニア州のハーディングパークGCで行なわれたザ・プレジデンツカップ。石川遼は25名の世界のトップ・プレイヤーに立ち混じってプレーし、通算3勝2敗という好成績を残した。

  なにしろ、18歳である。1991年生まれである。1991年といったら、ついこの前ですよ。そんな頃に生まれた青年がすでに世界のトップ・プロに育ったのだから、驚異的な話である。私など、1997年から必死に練習しているけれど、100を切るのがやっとなのだから。

    まだ、成長途上で、体つきも華奢な石川遼が、自分の父親よりも年上の(たぶん)ケリー・ペリー相手に敢然と立ち向かい、力でねじ伏せるさまは、観ていて爽快なものがあった。勝利後のインタビューでも、拙いながらも一生懸命英語で答えている様子はとても好感が持てた。

    しかし、解せないことがひとつあった。この爽やかな青年が4日間、プレー中にずっとチューjング・ガムを噛み続けていたことである。なぜ、自分より遥かに格上の選手であるタイガーやペリー相手に、サングラスをし、ガムを噛み続けながらプレーするのだろうかと。すくなくとも、私が中継を観ていた限りでは、石川以外にガムを噛みながらプレーをしていた選手を皆無であった。

    アメリカの野球選手がよく噛みタバコやらガムをくちゃくちゃやっているのは知られたことだが、ゴルフは野球とは違う。ゴルフは、勝敗もさることながら、いかに「紳士的」であるか、いかに「人間として成熟しているか」が先行的に重要視されるゲームなのである。だから、impoliteな振る舞いをしたプレーヤーは出場停止になるのである。

    プレー中にガムを噛むのはimpoliteな行いである。葬式の挨拶をするときに、結婚式で神父の前で、演説をするときに、病院で診察を受ける際に、社長が訓示を垂れる際に、ガムを噛みますか?

    石川遼の周りの大人がどうしてそう指摘しなかったのか私には不思議で仕方がない。「タイガー・ウッズ相手にガムを噛みながらプレーするのは、相手に対して失礼にあたりますよ」と。

    本当のことを言うと、私はもっと絶望的な推測をしている。ゴルフ・ネットワークで放送されたザ・プレジデントツカップの中継中、頻繁に石川遼を起用したロッテのグリーン・ガムのCMが流されていたのである。爽やかな遼君が、試合中にガムを噛む、というCMである。

    なんの裏づけもないし、証拠があるわけでもない。しかし、こう思うのだ。それが、スポンサーなのか広告代理店なのかそれは分らない。だが「ザ・プレジデンツカップの試合でガムを噛んでプレーしてもらえないだろうか。噛んでもらえれば、1試合につき○○万円、CM契約料とは別にお支払いします」と頼み込んだ人物がいるのではないかと。あるいは、石川サイドから逆にそのような提案がなされたのかもしれない。その辺は部外者の私には全く分らない。

  だけれども、曇天の下でのプレーでもはずさなかったサングラスにも同様の疑念を私は感じている。ガムもサングラスも、いつもの石川遼らしくなく、とても不自然に見えたからだ。

  この不世出の、爽やかなゴルフ・プレーヤーが、「大人の思惑」に振り回されることなく、世界有数のトップ・プレーヤーに育つことを、また人間としても成熟した存在となることを心の底から祈る。ペリーを破った直後、グレッグ・ノーマンに「よく頑張ったね」と肩を抱かれてねぎらわれ、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている18歳の石川遼の姿を見ていると、強く、そう願わずにはいられない。

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2009年10月 8日 (木)

SEと教育者と「学び」と

   
    元SE(システムエンジニア)で現在は物書きである、きたみりゅうじ氏が書いた「会社じゃ言えないSEのホンネ話」(幻冬舎)を読んで、「SEとは寝ない人のことなり」と分かった。

    もうひとつ分かったことは、SEは情報システムを構築するために、PCに向かい「チクチクと、素人では全く解読できないプログラムというものを延々書き続ける人なり」ということも分かった。(その業界の知人に聞くと、そういう人はプログラマであって、SEはもうすこし上位に位置する職種だということだが、でもきたみ氏は眠らないSEであったということなんでしょうね)

    で、その「延々」というのが、どうも常軌を逸した「延々」で、2,3日徹夜ということは日常茶飯事的にあるようなのである。風呂にも入らず、一睡もすることなく、半睡半醒、朦朧とした状況でキーボードをタカタカタカタカ叩き続ける。タカタカ叩き続けている最中に睡魔が襲ってきて、椅子から崩れ落ちるように床に倒れこみ、そのまま眠ってしまうこともあるらしい。

    そんなとき、ヒートした頭は夢を見ている。その夢というのが、ちいさなコビトが何人も出てきて、キーボードのキーの上に乗っかって足踏みしながら、代わりにプログラムを書いてくれている夢である。すごい話ではないですか。

    そんなことだから、<自分を信用しない、それがこの業界の第一歩>というタイトルのエッセイが書かれることになる。こんな話である。

<プログラマ界隈でよく言われる格言というものがある。たとえば「プログラムは思った通りじゃなくて書いた通りに動くんだ」とか、「他人の書いたコードを信用しちゃいけない。自分の書いたコードはもっと信用しちゃいけない」みたいなものだ。(・・・・・)

   思えばこの業界に入った当初は、先輩が「自分がプログラミングした飛行機にだけは乗りたくない」とか言っているのを聞いておったまげたもんである。それでいいのか? と当時は思ったものだけど、そこまで自分を疑うようでないと、徹底したバグ出しなんかできやしないのだろう。>(P278)

   怖い話ですね。そんなきたみ氏のエッセイの中に<楽したバカモノは十年経って悔い改める>と題された一文があった。

<実は自分という人間は、「卒業のために最低限必要な勉強だけをする」というのを延々やってきてしまったバカモノである。
「こんな勉強が将来何の役に立つんだよ」

   そんな小賢しげなことを言っては、なまける方向へと逃げをうってきたものだ。
   しかし、将来というのがその人の思い込み次第でなんとでも姿を変えるように、その勉強が役に立つかどうかなんてのも、その人次第でどうとでも変わるものである。(・・・・)
   知識というのは、知っていれば視点を増やしてくれるものである。知らなければ手詰まりに見える局面も、知識の数が多いほど色んな視点からのとっかかりを得ることができるようになるものなのだ。
   学校で学んだことは、社会に出て即座に役立つものではない。むしろそれにこだわり過ぎると、素直さの消失という弊害を生みかねないものですらある。
   けれども時が経てば、そしてその時が長ければ長いほど、きっと役に立つ局面がやってくる。>(P146)

   これを読んでいて、すぐに内田樹氏の「学び論」を思い出した。内田先生は、この「学び」の話を手を換え品を換え、もう30回ぐらいブログや本や講演会でご披露なさっている。多分、ご本人はそんなに何回も書いたり喋ったりしていない! とお怒りになるかもしれないが、それはお忘れなのである。私は30回くらい読んでいる! 今回は先生のブログからコピペ。

<「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
  それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
      この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
   そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
   私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。>(ブログ、内田樹研究室
2009年1月28日)

   片やSE、片や学者にして教育者。そんなふたりが期せずして同じような結論に辿り着いたところがとても、面白い。

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「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の「しなやかさ」


    先日、新聞を見ていたら朝日出版社の単行本の広告が出ていた。そこに、東京大学文学部教授の加藤陽子氏の近著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の書名があり、なんと10万部が売れた、と特記してあるのを見て、ほほーと思った。このような本が10万部も売れるなんて、素晴らしいなと思ったのである。

    この本は、日本近現代史の専門家である加藤教授が、栄光学園の歴史好きな中学生・高校生17名相手に、クリスマスから正月までの短い休みを利用して、「日本人の戦争」について行った講義をまとめたものである。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変から日中戦争、太平洋戦争について噛み砕いた語り口で書かれている。

    その中には、生徒への適切な「問いかけ」と生徒からの卓抜な「応答」が含まれていて、とても楽しい。「戦争」に関して書かれた本は、そのほとんどが、ある史観、価値観をもって、現在時点から過去を振り返る形で記述されたものである。その論調の大概は、「非道な戦争」か「正義の戦争」かのどちらかであることは、戦争について書かれた本を読んだことがある人なら、つとに周知の話である。しかし、本書は全く違う。

    その昔、といっても40年以上前の話だが、NHKで「タイムトンネル」という米国の番組が放送されていた。時空を行き来できる渦巻状のトンネルがあり、現在を生きる主人公が、いきなり過去の「白熱した歴史的現場」に放り出されて、右往左往するというのが毎回の話だったように記憶している。例えば、ある回では、少年が南北戦争の真っ只中に放り出されてしまう。そこでは、歴史として整理された「南北戦争」が描かれているわけではない。頭上を鉄砲の弾が行き交う、「切迫した現在」としての「南北戦争」展開されているのである.

    この本はちょうどそのような形で、生徒たちを、あるときは日露戦争の直前に、またあるときは満州事変の渦中へと誘うのである。そこで加藤教授が生徒たちに披露するのは日本の近現代史の最新の研究から得られた知見である。満州事変の渦中に置かれた栄光学園の生徒たちは、とりあえずその後、歴史はどのように展開していったかは知らぬものとし、その時、その場所で、時の政治家や軍の幹部が持っていた現状認識と、これから解決せねばならない問題を与えられるのである。そして、「さあ、あなただったら、この時どういう決断をしたでしょうか?」と問われるのである。

    そこで求められるのは、教条主義的な、あるいはイデオロギッシュな判断ではない。あらゆる条件を勘案した後に導き出される理性的で合理的な解決策なのである。そんなやり取りを読み進んでいるうちに分かってくることは、どの戦争にせよ、一部の狂信的な軍国主義者によって、日本が誤った方向へ引きずり込まれていったというわけでは決してなかった、ということなのである。

    むしろ、当時の日本の政治家や官僚や軍の幹部は、ほとんどベスト&ブライテストと呼んでもいいような怜悧な頭脳をもった人々であった。にもかかわらず、あるいはだからこそ、日本は戦争に突入せざるを得なかったのだ、という具合に思えてくるのである。書名の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」はそこから来ているのだと思う。

    現在時点から過去を断罪するのではなく、予断を排し、その歴史的事象が起こった時点にわが身を置き、その時のわが身を取り巻いたであろう状況と条件を深く考察し、しかるべき後に判断を下すこと。歴史から学ぶということは、まさにそういうことなのだと本書は教えてくれる。

    そういう意味で新鮮な1冊だったし、そのようなものの見方が10万人の読者をひきつけたという事実は感慨深いものがある。最後に加藤氏の「おわりに」の文章から、控えめだけれど強靭な言葉を引いておきたい。

<歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。

   しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

  私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また、現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去事例との対比を行っています。

  そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。>(P407-408)

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2009年10月 6日 (火)

坂の下のドブ

  
    前回、われわれは「坂の下のドブ」に向かって、厳しい現実を歩んでいると書いた。前代未聞の不況と政治的混迷、民間の活力喪失などなど、いったい、この「暗夜行路」は何に起因しているのだろうかと、時に深く考え込んでしまうことがある。

  歴史に「IF」はないというが、もしこれが存在しなかったならば、われわれはこれほどの混迷を経験せずとも済んだのではないか、と思うものがふたつある。ともに20世紀末のアメリカ合衆国が生み出したモノだが、ずいぶんと罪作りなものを考案してしまったものだとしみじみ思う。

  ひとつは「インターネット」。嘘か誠かは知らないが、核戦争下、一つの都市が全滅したとしても指揮系統を混乱させることなく、その他の都市間の軍事的コミュニケーションをとり続けるためにアメリカの科学者たちが考案したといわれているしろものである。発明の動機がどのようなものであったにせよ、上記のような目的には最適のシステムであることに変わりはない。中枢がなく、各節々が独立して神経細胞のように有機的に繋結している。

  このシステムがぶち壊した既存のシステムを数え上げればきりがない。まずは既存メディアである、テレビ、ラジオ、新聞、出版・雑誌が壊滅的打撃を蒙った。新聞社は新聞紙を印刷して販売するだけでは経営が成り立たず、テレビもラジオも番組を電波に乗せて配信するだけでは会社が成り立たないところにまで追い込まれている。

    もはやこれまでのビジネス・モデルが成り立たなくなったのはこの業界に留まらない。レコード会社、映画会社、百貨店などの小売業など、間接的影響で衰退した業種を挙げていけばもっと膨大なものになるだろう。

    ぶち壊したのは、単にいくつかの業界だけではない。出会い系サイトやエロサイト、人殺し請負サイトや自殺幇助サイト、その他もろもろの出現で、それまでも無きに等しかった最低限のモラルもきれいさっぱり吹き飛んだ。流言飛語は日常茶飯事となり、名誉もプライバシーも白昼堂々毀損されている。もちろん、著作権も肖像権も知的所有権もへちまも実質的にはない。

    もちろんインターネットの「功」が皆無とは言わないが、それをチャラにしても余りある「罪」を膨大にかつ急激に世界にばら撒いたと私は考えている。

    アメリカが生み出したもうひとつの発明物は、これまでにも何回か書いたけれど、いわゆる「金融派生商品」である。最新の数学と金融工学を駆使した、金儲けの商品である。この商品群誕生の背後には「額に汗せずに大金を儲けることは善である」という非道な信念がうずくまっている。「労せずして誰かの大金を我が物とする」ということは、身も蓋もなく言えば、「誰かが汗水たらして稼いだ金をかっさらう」という行為に他ならない。

    そのような信念がアメリカに発生し、グローバルゼーションの掛け声とともに地球上に遍く行き渡ったとき、われらが世紀は失墜を始めたというわけである。「インターネット」と「金融商品」がタグマッチを組んだときには、この世で見たこともない、史上最悪の「商品」ができあがったのである。その傷からわれわれはまだ回復することができないばかりか、そもそも回復できるのかどうかさえ分からない。

    けだし、天罰である。

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2009年10月 5日 (月)

「坂の上の雲」と「奇胎の四十年」

  暇がそんなにあるわけじゃないのに、そんなときに限って読書にはまる。朝早起きして、バスタブにつかりながら蓋の上に腕をおいて本を読む、というのはなかなかの快楽である。

    関川夏央氏の「『坂の上の雲』と日本人」(文春文庫)を読むと、関川氏が無類の「鉄ちゃん」、つまり鉄道好きだということがよく分かる。日露戦争当時の日本の鉄道網について薀蓄を披露し、「坂の上の雲」の中の記述に不可解な点があると指摘している。一般読者にしてみれば、あまり本筋とは関係のない、どうでもいいことなのだが、鉄道オタクにしてみると、看過できないことなのだろうな、とほほえましく思う。

  と同時に、関川氏はかなりの軍事オタクでもある。日露戦争のディテールになると、「坂の上の雲」を超えて、やたらと詳しい記述が登場する。それはさておき、同書で一番啓発されたのは次のような一文だった。

<司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、「坂の上の雲」にえがききったわけです。しかし、その健康であったはずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました。彼はそれを(・・・・・)「奇胎の四十年」としるしています。>(P301)

  それに続けて、関川氏は、「では、太平洋戦争後の40年間はどうだったか」と問う。明治維新後の40年が上り坂であり、その後、今次大戦に突入するまでの40年が下り坂であったとするならば、戦後の40年間はどうなのかと。そして、そのことを説明するために、船曳建夫氏の「『日本人論』再考」からこう引用する。

<・・・・個々の人間が自由にその人生を過ごし、個性のあふれた生活をすること。民主主義の下、社会から階層的な較差を廃し、平等を社会の中に、また男女の間に実現すること。そして、平和を専一として、それを至上の価値とすること。
  これらが戦後を担った、戦前から戦後にかけて活動し、戦前の反省を胸に刻んだ第一世代と、戦後の回復と高揚の実働部隊となった第二世代が、実現しようとしたことがらであった。これからの数十年を担う日本人は、そうした戦後の四十年に生まれ、その理念で育てられ、教えられた人々のことである。>(P304)

  戦後の四十年間がそのような「坂の上の雲」であったなら、その後の40年間(そこには現在も含まれるが)は「坂の下のドブ」、あるいは「奇胎の四十年」と変わり果てる蓋然性は、これまでの国民的性向を鑑みればかなり確度の高いものだと思わざるを得ない。そして関川氏は、嘆息でもつくようにこう書き記すのである。長くなる。

<昭和戦後の第三世代は明治の第三世代よりも、はるかに経済的に恵まれていました。親は彼らを徹底して守りながら、個性をのばせといいつづけました。その結果、音楽やスポーツなども得意で、「人が人の上に立つことを嫌い、男女が平等であることを」自然に受け入れ、「平和ということがいかによいことか、争いと摩擦は極力避けなければならない」と信じる日本人が多数出現しました。先行世代の「戦後の夢」はかなえられました。
  そんな彼らが、自由が制約との緊張関係のあいだに成立することを理解せず、また、ただ好きなことだけをして生きて行くことが「個性的生活」であると短絡し、人の上に立つことを「平等」のエクスキューズのもとに異常に恐れ、また「平和」を個人的レベルで実現するために他者との関係を、摩擦も融和もひっくるめて拒絶した「引きこもり」となったとしても、育てられ教えられたようにふるまっているだけなのだと考えることができる、と船曳さんはいいます。戦後の四十年には明治の四十年ほどの緊張感はありませんでしたし、その「平和」の理念にはあなたまかせのところが少なくありませんでしたが、おしなべてよい時代だったでしょう。しかしよい時代がよいものを次代に引き継ぐとは限らないのです。>(P306)

  痛ましい指摘だが、われわれはその痛ましい時代の渦中を喘ぎながら生きているのである。

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哀しみのソレアード

  実にめまぐるしい土曜日だった。朝、4時半に起床。朝風呂に入った後に、迎えに来てくれたゲンちゃんのスマートに乗って、一路、中央区新川にあるショップ・チャンネルのスタジオへ。午前6時55分に集合、打合せを済ませた後、8時からON AIR。ゲンちゃんと組んで作ったトラベル・バッグをテレビ通販で売りまくったのである。

    バッグ製作会社の社長がメイン・ゲストで、私がおまけのゲストで出演。けたたましい勢いで、いかにこのバッグが素晴らしいかを力説し、今すぐ買うべきであると勧奨するMCの女性に合いの手を入れたり、質問に即応したりしながら1時間。なんとバッグは完売! 

    現場の緊張感はただごとではない。ON AIR中、時々刻々と、あと何個残っているかや、何色の売り上げが弱いかや、視聴者がバッグの中の収納を見たがっているなどという情報がカメラの前に立つわれわれに届けられる。それに即応しなくちゃならないから、緊張もいやがうえにも高まるわけである。

    放送終了後、ゲンちゃんと朝飯を食いに築地に出かけてみたものの、観光客と思しき人々で溢れかえっているので、諦めて「コンラッド東京」のゴードン・ラムゼイでコンチネンタル・ブレックファーストを食べる。食後、いつものようにぐずぐずとよしなしことを喋り続ける。「とにかく、ふたりとも、65歳までは健康でいて、一生懸命働こう」と誓い合う。でもまだ午前11時である。

    ゲンちゃんに会社まで送ってもらい、職場のソファに横になる。眠ろうと思ったがなぜか眠れないので、机の上にあった本を読む。きたみりゅうじ氏という人が書いた「SEのホンネ話」で、帯には「最先端技術を駆使した肉体労働者(=SE)の過激で笑える胸の内」とある。システム・エンジニア(SE)という人種と話をしたこともないので、その生態の一端が分かって興味深い。

    気がつくと夕方になっていたので、半蔵門から地下鉄に乗って三軒茶屋へ。本日のメイン・イベントである。世田谷パブリックシアターで行われる、浜田真理子さんのコンサート「マイ・ラスト・ソング vol.2」を聴く。タイトルから分かるとおり、久世光彦氏のエッセイ集「マイ・ラスト・ソング」の中から何曲かを選び出して、浜田さんが歌うという趣向のもの。昨年もこの会場で行われたが、仙台に出張していたので聴くことができなかった(その辺の話は2008年12月9日付けですでに書いた。http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/index.html

  今回で浜田さんのコンサートを聴くのは3回目だが、過去2回はみっともない話だが、泣いてしまっている。浜田さんの歌声に接するとなぜか涙腺が緩むのだ。しかし、今回は会社の同僚が複数いる。隣には女性の同僚。すこし先には、あろうことか弊社社長までいるから、うかつに泣くわけにはいかないのである。なんとか涙腺をきゅっと締めて最後の曲まで辿り着く。あとはアンコールが残るのみ。「あー、まさか<哀しみのソレアード>なんか歌ったりしないだろうなあ・・・・」と身構えていたら、案の定、その通りだった。この曲には弱いのだ。

  久世氏の本にこの曲が載っているわけではない。「久世さんにこの曲を捧げる」という趣旨で浜田さんは歌うのである。原曲は、作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldanでタイトルが「SOLEADO」。

    スペイン語で「日当たりの良い場所、陽だまり」のことだそうである。最初はイタリアのグループがインストで演奏。それがアメリカに渡って、クリスマスソングになったらしい。「哀しみ」など、最初はどこにもなかったのに、どこかの誰かが「哀しみのソレアード」と名づけた。「哀しみの陽だまり」。いいタイトルである。浜田さんが静かに、哀切に歌い始めると、会場のあちらこちらで嗚咽が聞こえ始める。

もうすぐ終わるのね
ふたりの砂時計
さよならの足音が
背中に聞こえるわ

あなたの温もりを下さい
もう一度 この心 この肌で
覚えておきたいの

ひとりで生きてゆく
明日はつらいけど
倒れずに行けるでしょう
想い出があるかぎり

淋しい人生に
光をくれた人
今はただ言いましょう
この愛をありがとう

今はただ言いましょう
この愛をありがとう

  ベソをかきそうになるのをかろうじて堪えて、もちろん、社長に挨拶もせずに、会場を後にする。三軒茶屋から地下鉄に乗り、渋谷で山の手線に乗り換え、新宿で総武線に乗り換えて、静かに電車の振動に身を預ける。窓の外は暗い。窓に映った自分の姿を見つめる。蛍光灯の明かりで青白く見える。

  三鷹で下りて、なじみのカフェ「ハイ・ファミリア」に行き、スパゲッティ・ミートソースを食べ、ベルギーの生ビール「ヒューガルデン ホワイト」を2杯一気に飲む。夜道をふらふらしながら家に帰る。公園の前で千鳥足になっている自分が分かる。随分安上がりな体質だな、と思う。

  家に帰って、シャワーを浴びる。新型インフルエンザのウイルスはしっかり洗い流しておかなくちゃな。文庫本をもってベッドにもぐりこむが、読み出すパワーがすでにない。電池は切れかかっている。頭の中では「哀しみのソレアード」のメロディがずっと続いている。

  ゲンちゃんももう眠っているだろうか、と思いつつ眠りに落ちる。

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2009年10月 2日 (金)

銀座のユニクロでジル・サンダーの新作を検分

  
    昨日の夕方、銀座のユニクロに出かけた。あの、ジル・サンダーが手がけた秋冬物のお披露目会があったからである。もとの銀座ユニクロのビルは全館が女性用に。そのすぐ隣のビルが男性専用にと様変わりしている。

  両館を回遊して、ジルの手になるユニクロ製品「+J」をくまなく見てみたのだが、感想は「うーーむ」である。今回の商品を見て、あらためてジル・サンダーの魅力とはなんだったのかがよくわかってしまった、というのが屈折した結論なのである。

  ユニクロの特設フロアに並んだジル・サンダーの低価格の洋服を眺めながら、彼女の洋服の魅力の大半は、その形や色といったデザイン的部分もさることながら、一番は「素材」だったのだなあと思い知らされたのである。

    どこでどうやって手に入れてきたんだろうというような上質なカシミヤやウール、ため息のでるようなニット素材などがジルの真骨頂だったのである。それを身につけることでオーラのように発光し始める「上質感」は、当然のことながら、ユニクロ製品にはない。どんなに素晴らしいカッティングをしても、繊細なシルエットを描いても、凡庸な素材では話にならないのである。

    ユニクロ価格では、使用できる素材に限りがある。それどころか、ユニクロ製品内で見比べても、同価格帯を比較すれば、ジル製品には彼女へのギャラ(多分、かなりなものだと思うけど)が上乗せされている分、劣っているような気がしないでもない。
    逆に言えば、名もないデザイナーを起用したユニクロ製品の方が、かえって素材がいいのではなかろうか。

  そんなわけで、結局ジル製品はなんにも買わなかった。多分、同様の感想を持つ人は少なくないだろうから、こんなことを予想して申し訳ないけれど、「+J」はそんなに売れないのではなかろうか。そうなると、ただちにユニクロ内部でも今後どうするかについて議論が重ねられることになるだろう。

  あの完璧主義者のジル・サンダーが今回のユニクロ製品に、素材面を考えただけでも、素直にOKを出したとは思いがたい。おそらくはうんざりするほどタフな激論が交わされただろうと想像する。きっと、従来の製品作りに慣れ親しんだユニクロ・スタッフは心から面食らったに違いない。その末に生み出された製品がさして売れないとなると、今後についてはスタッフは懐疑的にならざるを得ないだろう。

  ジル・サンダーの盛名は、我々の世代(柳内さんもその中に含む)には響くけれど、ユニクロのヘビーユーザーには大して「霊験」はないのではなかろうか。むしろ、ジルの名前に惹かれて初めてユニクロの敷居を跨ぐ人が増加する、という点にこそそのメリットはあるのではないか。となると、今後の方策としては次の2つしかない。

  ひとつは、ジルの名に恥じない、もっと高品質の製品を作ること。価格は現在の3倍にする。その代わり、素材をもっと上質なものにする。さもなければ、すっぱり止める。ふたつにひとつだろうと、外野席で眺めながらそう思う。

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