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2009年10月 8日 (木)

SEと教育者と「学び」と

   
    元SE(システムエンジニア)で現在は物書きである、きたみりゅうじ氏が書いた「会社じゃ言えないSEのホンネ話」(幻冬舎)を読んで、「SEとは寝ない人のことなり」と分かった。

    もうひとつ分かったことは、SEは情報システムを構築するために、PCに向かい「チクチクと、素人では全く解読できないプログラムというものを延々書き続ける人なり」ということも分かった。(その業界の知人に聞くと、そういう人はプログラマであって、SEはもうすこし上位に位置する職種だということだが、でもきたみ氏は眠らないSEであったということなんでしょうね)

    で、その「延々」というのが、どうも常軌を逸した「延々」で、2,3日徹夜ということは日常茶飯事的にあるようなのである。風呂にも入らず、一睡もすることなく、半睡半醒、朦朧とした状況でキーボードをタカタカタカタカ叩き続ける。タカタカ叩き続けている最中に睡魔が襲ってきて、椅子から崩れ落ちるように床に倒れこみ、そのまま眠ってしまうこともあるらしい。

    そんなとき、ヒートした頭は夢を見ている。その夢というのが、ちいさなコビトが何人も出てきて、キーボードのキーの上に乗っかって足踏みしながら、代わりにプログラムを書いてくれている夢である。すごい話ではないですか。

    そんなことだから、<自分を信用しない、それがこの業界の第一歩>というタイトルのエッセイが書かれることになる。こんな話である。

<プログラマ界隈でよく言われる格言というものがある。たとえば「プログラムは思った通りじゃなくて書いた通りに動くんだ」とか、「他人の書いたコードを信用しちゃいけない。自分の書いたコードはもっと信用しちゃいけない」みたいなものだ。(・・・・・)

   思えばこの業界に入った当初は、先輩が「自分がプログラミングした飛行機にだけは乗りたくない」とか言っているのを聞いておったまげたもんである。それでいいのか? と当時は思ったものだけど、そこまで自分を疑うようでないと、徹底したバグ出しなんかできやしないのだろう。>(P278)

   怖い話ですね。そんなきたみ氏のエッセイの中に<楽したバカモノは十年経って悔い改める>と題された一文があった。

<実は自分という人間は、「卒業のために最低限必要な勉強だけをする」というのを延々やってきてしまったバカモノである。
「こんな勉強が将来何の役に立つんだよ」

   そんな小賢しげなことを言っては、なまける方向へと逃げをうってきたものだ。
   しかし、将来というのがその人の思い込み次第でなんとでも姿を変えるように、その勉強が役に立つかどうかなんてのも、その人次第でどうとでも変わるものである。(・・・・)
   知識というのは、知っていれば視点を増やしてくれるものである。知らなければ手詰まりに見える局面も、知識の数が多いほど色んな視点からのとっかかりを得ることができるようになるものなのだ。
   学校で学んだことは、社会に出て即座に役立つものではない。むしろそれにこだわり過ぎると、素直さの消失という弊害を生みかねないものですらある。
   けれども時が経てば、そしてその時が長ければ長いほど、きっと役に立つ局面がやってくる。>(P146)

   これを読んでいて、すぐに内田樹氏の「学び論」を思い出した。内田先生は、この「学び」の話を手を換え品を換え、もう30回ぐらいブログや本や講演会でご披露なさっている。多分、ご本人はそんなに何回も書いたり喋ったりしていない! とお怒りになるかもしれないが、それはお忘れなのである。私は30回くらい読んでいる! 今回は先生のブログからコピペ。

<「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
  それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
      この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
   そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
   私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。>(ブログ、内田樹研究室
2009年1月28日)

   片やSE、片や学者にして教育者。そんなふたりが期せずして同じような結論に辿り着いたところがとても、面白い。

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