« 岸恵子とへちまタワシと本間雅晴中将 | トップページ | ネズミが来た! »

2009年11月29日 (日)

ラブイズオーバーについて

    偶然というのはあるものだと思う。以前、玉置浩二について、このブログに思うところをあれこれ書き連ねたことがあった(09/2/26)。すると、その翌日のスポーツ紙の1面に石原真理子との「復縁」が大きく取り上げられていて、ぎょっとしたことがあった。

    またしても、似たようなことが起きた。特にそのことについて書こうと思っていたわけではないのに、話の流れでつい映画監督の斎藤耕一氏の映画「約束」のことを書いた。私にとっては、出目昌信監督の「俺たちの荒野」とともに、今でも忘れられない我が青春の日本映画の1本なのである(09/11/23)。その5日後、斎藤氏が80歳で亡くなったという新聞記事を目にしてやはり驚いた。

    ああ、こうして我が青春にご縁があった映画人がひとり、またひとりと消えていくのだなと思うと、すこし淋しい気がした。

   カーラジオで、欧陽菲菲がが「ラブイズオーバー」と歌っているのを聞いて、思うところがあった。彼女は「ラブが終わった」と歌っているけれど、話の順番が違うのではないか、と思った。「ラブイズオーバー」なのではなく、私たちは「オーバーしてしまったものをラブと名づけた」のではないか、と思ったのだ。
 
  師弟愛でも、神の愛でも、祖国愛でも、家族愛でもなんでもいい。どの愛も、破綻するまでは私たちの意識の中で前景化することはない。

    師弟愛は、師を失ったり、弟子が離反したときに、師弟の関係が充実していたときのことを思い出しながら、「それが失われてしまった」という形で哀切に回想されるときに生じる概念なのである。

  神の愛が、この地上に遍く降り注がれていたことは、昔も今も一度もない。少なくとも誰もその存在を実感したことはない。しかし、私たちの知らない大昔に、神の大きな愛で包まれていた時代があったという前提のもとで、私たちはいつのことだか分からないけれど、それを喪失してしまったという大きな悲しみとともに「神の愛」の蘇生を強く願うのである。その時に「神の愛」という言葉が誕生したのである。

  祖国から追われたり、他国に侵略されて不自由な環境に置かれたとき、人は、そうではなかった時のことを追憶しながら、祖国愛をひしひしと実感するのではないか。

  男女の愛も同様である。ふたりの仲が順調で、笑顔に満ち、会話がはずみ、心を許して抱きしめあっているその最中に、私たちは「男女の愛」を感じることはない。それまでの笑顔が消え、会話が途絶え、信頼がうせ、ふたりの豊かな関係を成り立たせていた一切合財を失ったときに初めて、私たちは痛切に「その人への愛」を感じるのである。

  あの暖かい笑顔にもう二度と接することはないのだ、あの愉快な会話を交わすことは、もう二度と再び訪れることはないのだ、という強い失意と欠落感の中で、私たちは初めて「LOVE」に遭遇するのではないかと思う。

|

« 岸恵子とへちまタワシと本間雅晴中将 | トップページ | ネズミが来た! »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ラブイズオーバーについて:

« 岸恵子とへちまタワシと本間雅晴中将 | トップページ | ネズミが来た! »