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2009年12月28日 (月)

「トイレの作法」試論

  
    消臭スプレーの話を書いたからなのか、トイレのことをあれこれ考えるようになり、いつの間にか、頭の形がTOTOのようになってきた。これから先はトイレ話を全面スプラッシュしたいと思う。尾籠な話も山盛りなので、その手のお話が苦手な方はそそくさとお引き取りいただきたい。誤って踏んづけると、滑ってころんで大変なことになっちゃいますよ・・・。

  女性の方々には想像もつかないことだが、長年にわたって、男性用小用便器を使用していると、たまに思いがけない出来事に出くわす。ご承知のように、百貨店や会社や映画館などでは、男性用小用便器は横にずらりと並んでいる。これは世界中(といっても知っているのは15カ国で、アマゾンの奥地やアフリカについては知らないが)どこでもそうなっている。

  その便器間の境目には小さな目隠しが設置されていることもあるが、たいがいは何もない。ジョジョーと排泄していると、見知らぬ誰かが隣にやって来て、やはりジョジョーとやっている。別に首を曲げて覗き込むわけではないのだが、なんとなく雰囲気で、その見知らぬ誰かの排泄行為は大体が自分と似たり寄ったりなのであるということは察知される。

    しかし。ときにぎょっとするような振る舞いをする御仁が隣に来ることがある。会社の同僚のS君は雑誌を持ってトイレにやってきて、雑誌を小脇に抱えた後、チャックを下ろし、下着の中から泌尿器をおもむろに取り出して、しかるのちに、再び両手で雑誌を持ちなおして読みふけりながら排尿するのである。

    うーむ、われわれ小物にはとても真似のできることではない。小物は小物ゆえ、両手できちんと目指す方向を良導してやらないと、あたり一面の惨劇を招きかねないのである。しかるに、S君は・・・・。いったいどうしているのであろうか。長いホースを便器の端にちょこんと乗せて、その豊かな自重でもって方向性を確保しているのであろうか。

    まことに興味深く、ちょっと覗き込んでみようかという誘惑にかられはしたが、さすがにそれも憚られ、「手離し排尿の奥義」はまだ見極められないでいる。

    かと思うと、ときどき、とんでもない奴が隣に来ることがある。女性の方々はこれまたご存知ないであろうが、男性諸氏は排尿後、淑女の皆様のように「紙で拭く」ということをしない。え、と驚かれるかもしれないが、残念ながらしない。では、どうするか。簡単なことである。尿道に残った出残りをしごき出し、かつ先っぽに残った「しずく」をぷるるんとはね飛ばし、「これできれいになった」ことにして、そそくさとホースを格納するのである。

  冷静に考えてみると、ちっとも「これできれいになった」わけではないと思うのだが、ここであんまり神経質になっても仕方ないので、とにかくそれでよしとするのである。この「しずく」のぷるるん行為は人によってまちまちで、下半身全体を上下にゆすり(オランウータンがウホッホと叫んでいる状態に似ている)、その動きにシンクロしてホースがたゆたい、結果しずくをはね飛ばす人がいるかと思えば、指先のみの動きで、厳密に言えば人差し指と中指の間にホースを挟んでぴゅっとしずくをとばす人もいてまちまちであるが、まあ、一般的に言ってそれらは常識的なぷるるん行為であると言っても差し支えないであろう。

  先日出くわした「戦慄のぷるるんオヤジ」はそんな常識的なものでは一向になかった。なんと、ホースの根っこを右手でしっかと押さえ、縄跳びの紐を360度振り回すようにブルルン、ブルルンとぶん回し始めたのである。王貞治の一本足打法も真っ青である。「テメー、このやろ。テメーのしずくが私のズボンやきれいに磨いた靴にかかるじゃねえか」とガツンといってやりたいのだが、なにしろこちらも最中であるから、はなはだ気合いが入らない。

  何にも言えなくて、ただ、この「戦慄のぷるるんオヤジ」側ではない方向に身をよじって避け(といっても何しろ最中なので、慎重にツツツと逆サイドに両足を寄せ)、前代未聞の災禍から身を守ろうとするばかりなのであった。

  さて、こんな珍妙な体験を積み重ねるうちに、私は「トイレにおける人の所作」について色々と考えるようになった。もっと正確に言うと「トイレでの作法を人はどうやって学ぶのか」に思いを至すようになったのである。

「トイレでの作法を人はどうやって学ぶのか」。これについては男性も女性もないのだが、振り返って考えてみると、実はこのことについて、私はきちんと学んだという記憶がない。ナイフとフォークを使っての食事のマナーについては学校で確かに学んだが、大小便の排泄方法とその後の処理について、義務教育課程では誰も何も教えてくれなかったのである。

    もっと言うと、食べること、排泄すること、眠ることなどなど、人の一生において数限りなく繰り返される一連の行為について、義務教育は実に不思議なことに、なにほどのことも教えてはくれないのである。本来ならば、その意味や適切な方法や知恵について、人生の先達たちが教授してくれてもよさそうなものだが、そのことについては誰も配慮してくれない。因数分解やモル数や源氏物語や三権分立については教えてくれたけれど、「適切なぷるるん行為」については誰も教えてはくれなかったのである。

    そしてどうなったか。誰もその適切な方法を教えてはくれないにもかかわらず、どなたにも事態は切迫する。しかたなく我々は、まだ物心のつく前から、必死でそれまでの短い人生経験を参照しながら、まるで孤児のように、なんとか独力で事態を解決し、乗り越えてきたのである。

    ことは単に「ぷるるん行為」だけではない。まだ幼い我々を待ち受けているのは、「小」だけではなく、情け容赦なく「大」の試練も襲い掛かる。かちんかちんで切れちゃいそうなときはどうすればよろしいのか。しゃびしゃびでひっきりなしに間歇的に溢れ出そうなときはいかに対処すればよろしいのか。事後、どのように拭けばよろしいのか。前から? 後ろから? 紙はどのくらい重ねておけば指の安全は確保されるのか? 清拭後は、紙を視認し、まだ拭き足りないのか、もうこれでよろしいのかを判断する? どのくらい拭けば「よし、これでよし!」となるのか。

    いたいけな子供たちは、このすべてを一人ぼっちで、対応してきたのである。考えてみれば涙ぐましい試練であると言わざるを得ない。するとここで、「いや、小さい頃に親に教わっただろう」という反論をする方がいるかもしれない。確かにオムツが取れた頃に、親はいくつかのアドバイスをしてくれたかもしれないが、そんなことあなた、覚えていますか?

    あらゆる人は、人生のごく初期に両親から「排泄のマナー」について教えられたかもしれないが、そんなものは比喩的に言えば2,3歳のころに「あいうえお」を教わるだけで、あとは自力で哲学書を読めるようになるようなものではないのか。だいたい、男性の「ぷるるん行為」について、女親が適切な指導ができるとはとても思えないではないか。

    かくして、人は、おのがじし、トイレという密室の中で他者からの指導や影響を受けることなく、その一生を使って、独力で、自らの経験と発意と知恵のみで「トイレの作法」をあみ出し、進化させてきたのである。密室ゆえに相互の影響もない極めて独自な進化である。まるでガラパゴス諸島で、生物たちが他の地域とは全く違う進化を遂げたように、各自、個室でユニークな進化を遂げたのである。

    前述の「戦慄のぷるるんオヤジ」などは、そのいい例である。しかし、これはあくまで「小」の方の話であって、男性の「小」はOPENな環境下で遂行されるため、まだしも相互の影響や学習の機会が保たれていて、腰を抜かすほどの進化とはなりえていないように思う。

    驚愕の進化は、個室でこそ遂げられる。男性の「大」、女性の「小」「大」「その他」は想像するに(想像するしか手立てはないのだが)、「想像を絶する」進化を遂げているに違いないと思う。

    常識的に考えて「そっちの方向に進化しちゃまずいだろう」という進化でさえ、それを阻止し、押し留める要因が皆無なため、カンブリア紀の生物のように多彩で爆発的なものになっている可能性は大きいのではなかろうか。

    しかし、その「進化の驚愕的多様性」について、我々はついに知る機会はない。なぜなら、よっぽどの物好きたちが、自らの進化について赤裸々にカムアウトしない限り、知りえない事柄だからである。

    そんなこと、誰もしませんわね。

    しかるに、なぜ私が「トイレにおける作法は独自に進化する」という考えにとらわれたかというと、ごくまれに「自らの作法」と「他者の作法」が違うということを知る機会を持ったからなのである。

    もう何十年も前のことだが、会社の女性用トイレの前を通りかかったとき、その中から「カランカランコロンコロン」という音が高らかに聞こえてきたことがあった。今から思えばその音はトイレットペーパーホルダーの金属製のカバーが、ホルダーが取り付けられているタイル壁に勢いよく当たって奏でる音だったのであるが、そのときにはまだ、なぜカバーが勢いよく壁に当たるのかが分からなかったのだ。

   それからしばらくして、会社の作業台で残業夕食のラーメンを何人かで食べていたときのことである。その作業台の上には、口を拭いたり、台を拭いたりするためにトイレットペーパーがひとつコロンと置かれていたのだが、一人の女性が食べ終わるや、そのトイレットペーパーを手に取って両腿の上に置き、両手でペーパーの端をつかんで両手をクルクルと猛然たるスピードで回し始めたのである。うまく説明しにくいのだが「カイグリカイグリトットノメ」を行うときの手の動作と同様の動きである(もっとわかんないか)。

   その時、私は「わお、トイレットペーパーをそんな風に勢いよく大量に取り出す人がいるのか!」と驚いた。私のそれはもっと静かで慎ましやかなものだったからである。驚いて聞いてみた。

「あのー、トイレでもそうやって勢いよく紙を取り出してるの?」
  彼女はちょっと困惑し、顔を赤らめて「うん」と答えた。

    なるほど、あの「カランカランコロンコロン」はそういう理由だったのか、と得心するとともに、紙の取り出し方ひとつとってもこれほどに自分と違う人がいるのかと驚くことにもなった。

    もう一回の体験は、何かの拍子で(多分、銀座のクラブでだったと思う。話すことが何もなくなったので、やけっぱちでその話題を唐突に持ち出したような気がするが、何しろ酔っ払ってのことなので正確には思い出せない)、「お尻を拭くときは前からか後ろからか」という下らない問いかけを周囲の若い女性たち(ホステスなんですけどね)に投げかけたことがあった(それも複数回)。

「前からか後ろからか」というのは、「前から後ろに向って拭くのか、後ろから前に向って拭くのか」という下らない問いかけではない。手を前からもっていくのか、後ろから持っていくのか、というもっと上質な質問だったのであるが、彼女たちは「はあ?」という顔をして、「そんなの、後ろからに決まってるじゃないの」と応答したのである。

  私は驚いた。「え? 後ろ? あのね、手をどちら側から持っていくのかという話だよ。前ならば、両脚の間に、つまり股間に空隙があるからすんなりそこから差し込めるよね。でも後ろだったら、便座にピッタリくっついているお尻を少し持ち上げて隙間を作り、そこから手を持っていくんだよ。わかってんの? そんな面倒なことをしてまで、後ろなの?」「そうよ」「・・・・・・・・」

  私はまたしても、驚愕した。私には「前」しか不可能なのである。腕が短いので、とても後ろから回しこむことなど不可能なのである。もう五十数年間、ずーーーと「前」からであって、それ以外に選択肢はない。私にとっては「前」が常識だったのであるが、しかし、目の前にいるこの人たちにとってはそんなことは全くの「非常識」だったのである。

   そんな経験を通して、私は、少なくとも「トイレの個室での作法」は人によって全く違う。1000人いれば1000通りの「その人にとっての常識」があるのだ、ということをしみじみと悟ったのだった。

  人は、その生涯を費やして、たった一人で、誰からの手助けをも受けることなく、孤独に、自らの「トイレでの作法」を確立していく。その作法は、人生の晩年ともなると、それなりの完成度を見せているに違いない。

  しかし、その人が一生を費やして辿り着いた「トイレでの境位」も、その人が死ねば同時に死に絶える。一生涯かかって完成させた「トイレの作法」は、誰にも伝承されることなく、無に帰するのである。そう、このブログをあなたが読んでいるたった今も、世界中で、様々な「トイレの作法」が消滅していっているのである。

  そうして、ここまで考えてきて分かることは、その人が死ぬことによって消え去ってしまうものは、何も「トイレの作法」に限らないだろう、ということなのである。思想も、哲学も、文学も、みなおなじように、泡のように消え去っていくもののように思われるのである。

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