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2010年2月26日 (金)

Sさんが逝く

    Sさんが亡くなった。

    私にとっては兄貴のようでもあり、父のようでもあり、ときに友達のようでもあった。20年以上の付き合いがあったのに、享年が正確にいくつだったのか、知らない。

    Sさんは、数年前に腰骨のガンで、腰の骨を半分近く取り除き、人工骨を埋め、杖をついて歩いていた。ゴルフが大好きだったから、辛かったことと思う。

    私にゴルフの面白さを教えてくれたのはSさんだった。ある日、ハワイから帰ってきたSさんは、「ほれ、ハワイでキャディバッグを買ってきてやったから、これを使え」とくれた。アイアンとドライバーも自分が使わなくなったものをくれた。

    アイアンはマッスルバックのとんでもなく難しいもので、よくぞ初心者にこんなものをくれたもんだと、今になって思う。当時は、アイアンというのはこういうものだと思っていたから不思議に思いはしなかったけれど。

    人工骨になってからも、ゴルフへの思い絶ちがたく、杖をつきつきゴルフ場へ行ったのだと語っていた。

「でもな、トップしかでないんで、つまらないから止めた」

  銀座のクラブ通いを教えてくれたのもSさんだった。「麻衣子」「グレ」から始まって「シレーヌ」「洋子」「サードフロア」、出撃前には同伴で「京星」や「松島」や「長月」でメシを食ったものだった。

  どの店もとんでもなく高いもので、恥ずかしながら一度とて自分で支払ったことはなかった。それどころか、帰りは店の前に黒塗りのハイヤーが出迎えにやってきて、よく送ってもらったものだった。

「食物屋でも、クラブでも、とおりいっぺんのサービスしか受けられないような人間はだめだ」とSさんはよく言っていた。それなりの扱いを受けるようになって初めてひとかどの大人なのだ、と。

  その言葉の通り、どの店でも愛されていた。行く先々でスペシャルなもてなしを受けていた。その様を横で見守りながら、客としてのふるまいかたを随分と学んだように思う。「粋」であること、「人として恥ずかしいふるまいをしないこと」。

  そう書いて、ふと思い出したことがある。

  一緒にゴルフに出かけたときのことだ。ティショットを放った後、ティペグを拾うのだが、他人が拾い忘れていったティペグも、うつむきながらせっせと拾っていたら、突然罵声が飛んだ。

「みっともないまねはよせ! ティが惜しいなら、オレがいくらでも買ってやる。そんな乞食みたいなまねはよせ!」

  そういう人だった。ゴルフ、銀座のクラブ以外にも、もうすこし教えられたことはあるけれど、ここではちょっと書きにくいことがらである。

  人工骨を腰に入れた後、Sさんは肺に転移したガンを手術で取り除き、定期的に抗ガン剤治療を受けていた。通常人ならば、抗ガン剤が体内に1滴でも入ったとたんに気分が悪くなるものなのに、Sさんは一向に食欲が衰えなかった。

  ステーキでも中華でも平気で食べ歩いた。いったいどれだけ頑丈なんだろうと、知人たちは顔を見合わせて驚いた。病院の看護婦たちは「不死身の男ね」とささやいて微笑んだという。

「なんだよ、不死身って。オレがもう、死にそうな状況にあるってことか?」

  強い強い男だった。

  1月の末、病室へ見舞いに行った。どんより曇った午後、コートを着て病室を訪れると、Sさんは車椅子に座って、ぼーっと表情なくテレビの画面を眺めていた。観ていた、というより画面の方向に眼を向けている、という感じだった。

  腕に点滴を、鼻には酸素の管を、下半身からは尿のカテーテルが伸びていて、かろうじて生命を保っているという様子だった。

  Sさんは、一回りも二回りも小さくなって、土気色の顔をしていた。喜怒哀楽の表情も消え、モルヒネのせいか、口ぶりも不鮮明だった。ぶつぶつと囁くけれど、何を言っているのか聴き取りにくいものだった。はっきり分かったのはこんな言葉だった。

  力なく自分の右手の人差し指を自分の顔に向けて、

「オレが誰だかわかるか?」

  と尋ねてきた。私が知っているSさんの顔ではなかった。まるでSさんの抜け殻が車椅子に座っているようだった。

「わかるよ、わかるとも。何言ってるんだよ!」

  そう言って私は声を上げて笑おうとした。それが、Sさんと交わした最後の言葉だった。

  故人の意思で葬儀は親族のみで執り行われるという。いかにもSさんらしいと思う。

    遠からず、また一緒にラウンドすることになるだろう。その時は、Sさん、いじきたなくティペグを拾い歩いたりしないようにするよ。

  

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