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2010年4月 5日 (月)

「人間が持つ暴力性と無垢さ」

 
    この日曜日、お花見に行こうと考えていたのだが、あまりの寒さに中止。気温自体はさほど低くないのに、なぜか体の芯がズンと冷えるような薄ら寒さである。こういうのを「花冷え」というんだろうな、と思いつつ、やることもないので手元にあった本を読み始める。

    新聞広告で妙に気になって、すぐにアマゾンで購入したその本のタイトルは「ヤノマミ」(NHK出版)。筆者はNHKのディレィターである国分拓氏。

    ヤノマミとは、アマゾンの最奥部、ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に、1万年以上にわたって生きる先住民で、保護区となったその地域に、約2万5000人~3万人が200以上の集落に分散して住んでいると言う。

「ヤノマミ」は部族の言葉で「人間」を意味する。国分氏は、そのヤノマミ族の生態をドキュメンタリーとして記録すべく、ワトリキと呼ばれる集落に、07年11月から08年12月にかけて4回にわたり、のべ150日間同居した(番組は09年4月、「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」と題されて放送された)。

    ワトリキには167人のヤノマミがほとんど全裸で、大きな円形のひとつ家で暮らしている。彼らは独自の文化、風習を守り続け、時に「最後の石器人」と呼ばれたりしているが、本書は、そんな彼らとNHKディレクターとの想像を絶する同居の記録である。震撼せざるを得ない体験の、赤裸々で正直な告白である。

    その体験がどのようなものであったかをここに記すのは、これから読もうとする読者に対してあまりにも申し訳ないので書かないが、その体験がどれほど心身にとって過酷なものだったかは、取材後に帰国した国分氏の「壊れっぷり」から想像できるだろう。

    国分氏はこう書いている。

<東京に戻ってからも、体調は悪化する一方だった。食欲がなかったし、食べるとすぐ吐いた。十キロ異状減った体重は中々元には戻らなかった。(・・・・・)
  外に出ると、よく転んだ。まっすぐ歩いているはずなのに壁に激突することもあったし、ぼぉーとしてトイレに行ったら、そこが女子トイレだったこともあった。何かが壊れたようだった。
  菅井カメラマンとは、あの場面を見てしまったショックからだろうと話し合った。あの日以来、菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになったと言った。僕はそんな夢は見なかったが、なぜか夜尿症になった。週に二、三回、明け方に目が覚めると、パンツとシーツがぐっしょり濡れていた。>(P309)

  ひとりのNHKディレクターをここまで追い込む世界は、我々の社会とは全く異質なものだった。<ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。>(P310)

  ひとつのエピソードだけ引用しておこう。先に国分氏は「あの場面を見てしまったショック」と書いているが、「あの場面」とはどのようなものだったのか?

  出産のとき、ヤノマミの女たちは森に入り、母親や姉妹が見守り、手助けするなかで産む。男たちは、その場所に参加することを許されていない。無事に子どもが生まれ落ちると、周囲の女たちはすっと引き下がり、生まれたばかりの赤ん坊と、たった今、その赤ん坊を産み落としたばかりの母親とを対峙させる。

  母親は、生まれ落ちたばかりのわが子をじっと見つめながら、しばしの間考える。何を? この赤ん坊を精霊のまま天に返す(殺す)か、人間として迎え入れる(生かす)かをだ。

  母親たちが何を基準にして赤ん坊の生殺を決めているのかは分からない。しかし、ある時は赤ん坊を抱いて集落に帰り、またある時は手ぶらで帰る。赤ん坊の生殺与奪は当の母親に握られている。

  国分氏らが目撃したシーンはこのようなものだった。

<一瞬嫌な予感がしたが、それはすぐに現実となった。暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を締め始めた。とっさに目を背けてしまった。すると、僕の仕草を見て、遠巻きに囲んでいた二十人ほどの女たちが笑い出した。女たちからすると、僕の仕草は異質なものだったのだ。失笑のような笑いだった。僕はその場を穢してしまったと思った。僕のせいで、笑いなど起きるはずのない空間に笑いを起こしてしまった。僕は意を決してローリの方に振り返った。視界に菅井カメラマンが入った。物凄い形相で撮影を続けていた。>(P218)

  カルチャー・ショックと一言で言えば簡単だが、アマゾンの奥地で国分氏らが味わった体験は、ことほどさように過酷なものだった。あとがきで国分氏は述懐している。

<僕はワトリキで人間が持つ「何か」に触れ、しかも、その「何か」を肯定したことだけは間違いなかった。言葉にすれば、レヴィ=ストロースが言ったように「人間が持つ暴力性と無垢さ」なのだと思う。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。たぶん、僕はそう思ったのだ。>(P313)

  夕刻、この本を読み終え、国分氏が作った番組を観てみたいと強く思った。さっそくPCで検索をかけると、すぐに出てきた。

http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50797602.html

  国分氏が長い年月をかけて成し遂げた過酷なドキュメンタリー番組は、放映後にもかかわらず、じつに簡単にアクセスすることができる。これを見終えて、ふーっとため息をつき、ついその下にあるURLが目に入ったのでこれもクリックしてみた。
  
    アマゾンの別の部族のドキュメンタリーだという。

YouTube - Origin of Faith - Disturbing

  愕然とした。Youtubeが映しだすのは、族長に命じられたからであろう、部族の生活の安寧のために、心身ともに薄弱な妹(4,5歳)を、その兄(15,6歳)が生き埋めにするシーンなのである。正直言って、最後まで見ることができなかった。気がつくと、思わず、停止ボタンを押してしまっていたのだ。

  心が冷え冷えとしてきた。気温も気持ちもどん底なまま、車で渋谷に出かけた。話題の韓国映画「息もできない」を見るためである。日曜日の最終回にもかかわらず、ほぼ満席の盛況である。見終えて、気分はますます、ダーク&ヘヴィーに落ち込んだ。

    これもまた、「人間が持つ暴力性と無垢さ」のドラマである。それは確かにそうである。しかし、「暴力性と無垢さ」という整理された言葉で総括した途端に消し飛んでしまう「ゾワゾワとした何とも知れず気分の悪いモノ」がこの映画には充満している。

    それをどう評していいものやら、僕にはよく分からないのだ。花冷えのする4月の夜、僕はうつむいて公園通りを歩くしかなかった。

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