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2011年1月23日 (日)

送君千里 终须一别

     送君千里 终须一别

「君を千里送るとも、終には須く別すべし」。これは中国に古くからある諺らしい。先日、新聞の映画欄を読んでいて、この諺を知った。

「君との別れが辛いので、いつまでもどこまでも君を送って行こう。だけれども、どれだけ遠くまで君を送ろうとも、最後には、必ず別離がやってくる」という意味なんだそうである。

  この諺に触発されて、中国の若き映画作家・趙曄(チャオ・イエ)は、「ジャライノール」という映画を撮った。監督、脚本、編集、製作のすべてを一人でこなした独特の映画である。

  この映画が見たくなって、東中野のポレポレ坐という映画館に出かけた。客席が100程度の小さな映画館だが、なんだかとても懐かしい感じがする素敵な映画館である。

   ロシアとの国境が近いモンゴル自治区満州里にある炭鉱の町の名前が「ジャライノール」。吐く息がすぐにも凍てつくような極寒の地の炭鉱町で、定年になる老機関士は職場を去って故郷へ帰る。彼をしたう若者は「もう、帰れ」という老機関士の命に従おうともせず、いつまでもどこまでもついて行く。

  しかし、どれだけ慕おうとも、どこまで見送ろうとも、最後には老機関士と若者の別れはやってくる。老機関士は迎えに来た娘夫婦の車に乗り込む。若者は、にっこり笑い、わざとおどけて、くるりとターンしてみせる。

  閑散とした、名も知らぬ中国深奥部の駅頭での別れ。この後、ふたりは、おそらく二度と再会することはないだろう。  

  広大な真っ青な空は偏光フィルターのせいかほとんど真っ黒に見えるが、その黒い空の下、寒々として凍てついた大地がどこまでも広がる。日本ではもう見られなくなった蒸気機関車が白くて大きな煙を吐く。少ない会話。絵画的なハイ・コントラストの映像。これは映画というよりは「映像の散文詩」とでも呼ぶべきものなのかも知れない。

  「君を千里送るとも、終には須く別すべし」。

  切々とした詩情溢れる佳作である。

  これまたつい先日、内田樹氏のブログを読んでいたらはっと思うような一文に出会った。

<もう何度も書いていることだけれど、哲学者の書きものを読むというのは、徹底的に個人的な仕事である。
    読む者が、そこに傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り、智者はその叡智を開示してくれない。
    レヴィナスは「語られざること」(non-dit)が読み手に開示されるのはどのような場合かについて、次のような印象深いフレーズを書き残している。
「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる。この懇請なしでは言明のテクスチュアのうちに内在する『語られざること』(non-dit)はテクストの重みの下に息絶え、文字のうちに埋没してしまうだろう。懇請は個人から発する。目を見開き、耳をそばだて、解釈すべき章句を含むエクリチュールの全体に注意を向け、同時に実人生に-都市に、街路に、他の人々に-同じだけの注意を向けるような個人から。懇請は、そのかけがえのなさを通じて、そのつど代替不能の意味を記号から引き剥がすことのできる個人から発する。」(Emmanuel Lévinas, L’audelà du verset, p.136)」>(2011年1月12日のブログより)

  そして、この映画を観ながら、ことは「哲学者の書きもの」だけではないだろうと、思い至った。真摯に、命がけで表現されたものは、それを受け取る受け手もまた、「傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り」、表現物は、何事も語りださないに違いない、と確信したのである。

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