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2011年2月

2011年2月11日 (金)

内田洋子「ジーノの家」を読んで目頭を熱くする

    以前、このブログで、村上春樹の最近の小説はあまり好きではない、と書いたことがある。極初期の小説、「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」や「中国行きのスロウ・ボート」などはずいぶんと熱心に読んだ記憶があるが、それ以降の長編群はどうしても好きになれない。

    どうしてなのだろう、と長い間考えていたのだが、 つい最近、内田洋子さんの本「ジーノの家」(文藝春秋)を読んでその理由が分った。内田さんのこの近著は「イタリア10景」と副題が副えられたエッセイ集である。30年にわたるイタリア生活での見聞、経験を淡々と綴った美しい本である。

    1ページづつ、ゆっくりと読み進めているうちに、この文章を綴らずにはいられなくなった内田さんの「已むに已まれぬ思い」に出くわして、思わず目頭が熱くなった。
   
    そのときに、思い至ったのである。初期の村上作品にあって、最近の長編では失われてしまったものは、他でもない、筆者の、この「已むに已まれぬ思い」なのではないかと。あらゆる「書き物」には、その背後に、筆者の「已むに已まれぬ思い」が張り付いていなくてはならないと、私は経験的に確信している。それがないすべての「書き物」は、遺書であれ、ラブレターであれ、小説であれ、空疎な文字の連なりにすぎない。

    初期の村上作品に接したころ、私は20代で、確かにそこに、同じく20代だった村上氏の「已むに已まれぬ思い」を嗅ぎ取っていたのだ。痛いほどに共感し、心を揮わせたものだったのだ。しかし、それ以降、本格的な作家活動に入ってからの村上作品から感じるものは、作家の職業的惰性に基礎付けられた営為だった。

    ややこしい書き方だが、簡単に言うと、「お仕事で書いてるなあ」という思いだった。もっと言えば、「物語を物語るために、物語っているなあ」という感懐だった。私はもはや、これを書かずにはいられない村上氏のかつえた情動を察知することができなくなってしまったのだ。

    当然のことながら、私が鈍くなってしまったせいもあるだろうし、村上氏と共有できる体験も感覚も少なくなってしまったからでもあるだろう。しかし、そのことを差引いても、小説の背後に張り付く「已むに已まれぬ思い」は希薄化したのだと思う。

    つい先ごろの芥川賞受賞者、西村賢太氏の小説に色濃く横たわっているのは(背後に張り付いているどころではない)、この凶悪な相貌をした一人の男の「このことを書かずには死んでも死に切れぬ」という強烈な飢餓感である。彼の小説を読むものは、好むと好まざるとにかかわらず、すぐにこの肥大した「已むに已まれぬ思い」にぶちあたってたじたじとさせられる。

    もう一人の受賞者の繊細で技巧的で脳内作業的小説に比すれば、骨太で、無技巧で、極めて肉体的である。しかし、読者はこの無骨な「已むに已まれぬ思い」に強く揺り動かされる。最後に人を揺り動かすのは「知性」ではなく「感性」なのだと思い知らされるのである。

    前置きがはなはだしく長くなった。内田洋子さんの「ジーノの家」に戻りたい。

    人はたまたまこの世に生まれ出る。1万年前でもなく1万年後でもなく、なぜかこの時代に、なぜかこの惑星に生を受ける。悠久の時の流れの中のこの瞬間にたまさか生まれ落ち、瞬きするほどの短い時間をこの地で過し、そしてまた二度と戻れない冥暗のなかに消え去っていく。

    ほんの短い時間、私たちはこの世界を目撃する。天を仰ぎ地をながめ、雲や風を感じ、街並みや人をみつめ、この世界を観照する。そのことの「有難さ」を、我々は日常的にはなかなか悟ることがない。

    しかし、人生も終盤に至り、この「観照時間」終了の刻限が徐々に近づいていることを自覚しはじめた途端に、世界はその輪郭をくっきりと現し、輝きを増し始める。

    街並みも、カフェの主人も、すれ違う犬も、降りしきる雪も、「かけがえのないもの」として眼前に立ち上がってくる。

    この「ジーノの家」に収められた文章はいずれも、30年のイタリア生活のなかで内田さんが出会った「かけがえのないもの」についての、愛惜をこめて綴ったレポートである。あるいは、長い間自分を受け止めてくれた、イタリアとイタリア人への「已むに已まれぬ思い」のこもったラブレターである。

    あとがきの中で内田さんは書いている。

<行き詰ると、散歩に出かける。公営プールに行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じっと観る。ときどきバールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。生活便利帳を繰るようであり、秀逸な短編映画の数々を鑑賞するようでもある。
  名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。>
  
    ほんとうに「かけがえのないもの」は、失うことによってしか手に入れられないのかもしれない。

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