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2011年3月

2011年3月26日 (土)

石原慎太郎さんも藤波心さんも

 

  福島の原発事故は一向に解決に向かわない。
  
    それどころか、じわりじわりと、もっとも悲劇的な結末に向けて転がっているような気がする。時の経過がいずれ真相を教えてくれるだろう。年内には、関係者への網羅的な取材を敢行した秀逸なノンフィクションが現れてくれることを期待したい。
  
    3月14日、石原慎太郎・東京都知事は、蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を受けて、「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用して、我欲を一回洗い落とす必要がある」と語っている。今回のカタストロフは「天罰だと思う」とも言っている。
  
    この石原発言が原発事故のことを受けたものかどうか定かではないが、なるほど我々の「我欲」が今回の悲劇を招いたと言えなくはないなと思う。
  
    思い起こせば、1945年の敗戦以降ずっと、我々がやってきたことは「我欲」のあくなき拡大・肥大であった。「もっと、もっと」の連続であった。駅のプラットフォームへのエスカレーターまで設置してしまうほどの「快適への偏執」であった。
  
    もう、これで結構。これで充分。この範囲内で生活をよりよくする方向を目指しましょう、などとは誰も言い出さなかったのである。
  
    そりゃ、原子力発電所でも作らなければ肥大する欲望の需要に応じられないだろう。いかに肥大していたかは、寒いオフィスや、暗くて運転しにくい高速道路ですぐわかる。
  
    戦中を生き延びてきた石原慎太郎は、そんな現代人の「放埓な欲望」を苦々しく思っていたに違いない。「この際、しっかり我欲を洗い流せ」とは、そのような意味合いの言葉ではないのか。
  
    内田樹氏は、自身のブログで、こう書いている。

<今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。
だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。
私たちは地球物理学的にも、地政学的にも、つねに一歩誤れば国を失うような危険のうちで生きている。
そのことを念頭に置いて社会システムを制度設計していれば、「こんなこと」は起こらなかった。
「こんなこと」が起きたのは、そのことをすっかり忘れていたからである。
だから、日本人はこれで「眼を覚ます」だろうと私は思っている。
私たちにとってもっともたいせつなものが何かを思い出すだろう。思い出さねばならない。
それは国土の保全と民生の安定である。
自余のことはそれに比べれば論じるに足りない。>(2011年3月24日)
  
    内田氏もまた、石原氏とは違う言い方で「眼を覚ませ!」と、珍しく熱く訴えている。そして続けて、こう書いている。

<(1) すべての原発の即時停止と廃炉と代替エネルギー開発のための国家的プロジェクトの始動
(2) 「できるだけエネルギーを使わないライフスタイル」への国民的シフト
(3) 首都機能の全国への分散
(4) 首都圏に集中している人口の全国への分散
とりあえず、これからだろう。>
  
    一方、アイドルの藤波心さんはご自分のオフィシャル・ブログで、

<今の原子力に頼らない電力の生活に

社会全体のシステムを変えればいいのです。

変えれますよ。

電力を絞れば、変わらざる得なくなる・・・。

初めは不便でも、やがて人間はそれに順応していく。

そんなことで、経済が落ち込んだりしても、

生活水準が下がっても、全然OK!!

原子力の事故で世の中がごちゃごちゃになるより

はるかに、リーズナブルで経済的。(*゚ー゚*)>(2011年3月23日)

  と書いている。このブログのURLは下の通り。

http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html

  是非、読んでみて欲しい。とても中学2年生のアイドルの女の子とは思えない。まさかゴースト・ライターがいるわけではないですよね。おもわずそう思ってしまうほど、その思考の確かさにドギモを抜かれる。

  心さんは最後にこんなことも書いている。

<私には、福島原発の煙が、不謹慎かもれませんが、
そんなパンドラの箱を開けてしまった私たちを死滅させる
巨大なバルサンか、ゴキジェットに見えます…。>

  アイドルから爺さんまで、みんな同じようなことを考えている。

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2011年3月21日 (月)

もうこの世は終わりだと思った9歳の頃

   放射能を含んだ雨がしとしとと降り続いている。

   雨を眺めながらふと思い出した。

   小学生のころ、ソ連が核実験を行なった。地下でもなんでもない。シベリアの大地でドッカーンと爆発させたのである。記憶では50メガトンだったと思う。

   小学校の低学年だったが、SANYOのモノクロのブラウン管で、「気をつけろ、死の灰が降ってくる」と必死の形相でアナウンスするニュースを見たことがある。

   Googleで調べてみると(こういうときにネットは本当に便利だ)、その核実験は1961年10月30日にノヴァヤゼムリャという北極海の島で(シベリアの大地ではなかった)行なわれている。

   その時、もうこの世は終わりだと思った。僕は9歳と6ヶ月。野菜に死の灰が降りかかっているからよく洗わなくちゃだめ、とキャベツを洗う母親に「僕が代わりに洗う」といって、キャベツに中性洗剤をたっぷりかけてコキコキ洗ったことを昨日のことのように思い出す。

   考えてみれば、水道水にもたっぷり混じっていただろうから、あまり意味のないことだったように思う。

   今のようにガイガーカウンターもあちらこちらに設置されてるわけでもないから、いったいどのくらいの放射能が僕の頭に降りかかってきたのか分らない。

   そのうちに、誰もそのことを言わなくなってしまったし。

   あのとき、いったい、今どきの単位で言えば、どのくらいのシーベルトを浴びたんだろうか?

   大阪の阿倍野区の晴明ケ丘小学校に入学したのは昭和34年。あの、安倍晴明ゆかりの土地である。時は高度成長に向かう真っ最中で、西成の方では信じられないような煤煙が毎日大量に煙突から吐き出されていた。

   朝礼のとき、最後尾に立っていると、台の上の校長先生の姿が見えなかった。スモッグのせいである。時間の経過とともに生徒がバタバタと倒れた。

   すさまじい時代だったと思う。

      :::::::

   降りしきれ 原発の上に 瀟瀟と 涙のごとく 3月の雨

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パラダイスへの扉は地獄の中にある

   
   手に汗を握る一週間だった。いやな緊張を強いられる毎日だった。

   もちろん、まだ、もっとも悲劇的なシナリオから完全に脱したわけではないから、「だった」と過去形で書くことは適切ではないかもしれない。しかし、一時の、あの絶望的な事態を思い起こすと、最悪な事態はとりあえずなんとか避けられそうではある。

   この間、いろいろ考えたり思ったり読んだりしたことがあった。忘れないうちにそのことを、ランダムに書き残して置きたい。平時に戻ると、今の「この感じ」のことなど、あっという間に消え去ってしまうだろうから。

   まず、強く思い知らされたのは、人間の本性といえばいいのか、人間性というべきなのか、あるいは、その人間の「裸形」といえばいいのか、そのようなものは「非常時」に際立つということだった。

  「平時」には安穏な空気のなかでぼんやりしている「人間性」も、「非常時」になると、エッジが立って、輪郭がくっきりと見えてくる。おお、君はそういう人間だったのか、というシーンに出くわすことが多くなる。

   とりわけ政治家は矢面に立たされるから、いっそうその器量が際立つ。もちろん、政治家だけではない。自衛官も、警察官も消防士も、財界人もジャーナリストも、己の「指紋」を衆人の目前にさらけ出してしまっている。

    しかし、いちばんはっきりしたのは自分自身だった。自分のことは自分が一番よく知っている。度量の小さい、臆病でせっかちな性格の人間であるということは、何十年もかけて熟知したはずだったが、ここまで「非常時」に耐性がないとは思わなかった。だいたい、気がつくと、呼吸が浅くなってしまっている。

   先日、この「非常時」に遭遇することで、初めてSNSの存在意義が分った、ということを書いた。http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-903d.html

  「平時」のソーシャル・メディアはクソである。「非常時」にはそれがミソになる。その理由ははっきりしている。「非常時」には、参加している人間全員の刻下の関心事が同じものだからである。みんなが同じ方向を見つめ、同じようにハラハラし、同じように涙し、おなじようにうなだれるからである。

  「平時」にそんなことは皆無である。みんながてんでバラバラの方向を見つめ、まったく違った感懐を抱いている。共有するものなどほとんどないメッセージは、もはやメッセージたりえないから、クソでしかない。他愛もない世迷言の羅列である。

  「非常時」にはFACEBOOKもtwitterもyoutubeも濃密な連帯感を生み出し始める。このときの「連帯感」はえも言えず心地よいものなのである。全員うちそろって報道に一喜一憂し、応援し、力づけ、泣き、怒る。この「同じ時代の同じ時間を、確かに今一緒に生きている」という感覚は、なぜかとても気持ちがいいのである。

   おそらくは、「打倒、鬼畜米英!」も「挙国一致」も「進め一億、火の玉だ」もとっても気持ちがよかったのではないかと思う。体験していないから確定的には言えないが、多分、そうだったに違いない。

   ひいていく津波のように、人心を一定の方向へ引っ張っていく「連帯感」という名の麻薬は、考えようによってはとっても怖いものなのだと思う。

   1941年12月。太平洋戦争の火蓋が切って落とされた直後の東京の様子もこんな感じだったのでないか、と昼休みに人通りのめっきり減った街を歩きながら思った。節電であちらこちらが暗い。人々はなんとなく元気がない。パーティや催し物や会食など、心うきうきするものが次々にキャンセルされていく。陽気でいることがなんとなく後ろめたいもののように思えてくる・・・・。

   震災後の被災民たちの冷静で秩序正しい行動を、とりわけ中国のメディアは驚きを持って報じていた。確かに、今回は空前絶後のカタストロフではあったが、被災民の間にパニックは起きなかった。起きなかったどころか、むしろ秩序正しい行動が自律発生的に彼らの中で醸されたように見える。

   絶望的にも思えるカタストロフの中では、ひとは却って冷静に秩序正しくふるまうようになるのではないかという気がする。

   思い起こせば、「アンデスの聖餐」でも、死亡した同僚の肉体を乾肉にしたり、脳味噌をすくって食べたりしていたが、それは決してパニックではなかった。救助されるまで、ルールができ秩序正しい生活が送られている。チリの地中深く取り残された鉱夫らもパニックに陥ることはなかった。阪神大震災でも、人々は冷静に行動していた。

   古新聞を読んでいたら面白い本の紹介記事を目にした。本のタイトルは「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット著 亜紀書房)。新聞は日本経済新聞2011年2月6日朝刊。書評子は慶大教授の渡辺靖氏。氏の文章を引用する。

<大規模な災害が発生すると、最初の数日はショックのあまり判断が混乱した状態に陥るが、そこから2カ月ほどの間は「災害ユートピア」が出現するとされる。災害によって一変した新しい環境のなかを生き抜くべく、人びとが自発的にルールを作り、互いに支え合う束の間の理想郷だ。>
  
   著者は世界各地で発生したさまざま大地震、大洪水、大爆発、巨大テロなどの勃発時に出現した相互扶助と利他行為を綿密に検証してこの本を書き上げたのだという。興味深い話である。
  
   著者はこう書く。「今の時代、パラダイスがあるとすれば、そこへの扉は地獄の中にある」と。
  
   この事態をどのように説明できるのだろうか。生命の危機さえ感じる絶望的な状況に置かれた人間は、なんとか生命(ドーキンス風に言えば遺伝子)を次世代につなぐために、もっとも有効な方法を、一種の恍惚感の中で構築する、ということではないか。
  
   たしかに生物には(昆虫であれ、魚類であれ、哺乳類であれ)そのような本能が組み込まれているような気もする。もちろん、これはインチキ生物学の妄想であるけれど。
  
   例のストックホルム症候群も、この理屈で説明できないのだろうか。ストックホルム症候群とは、犯人と人質が閉鎖空間で長時間にわたり非日常的体験を共有しているうちに、人質が犯人に対して信頼や愛情を感じるようになる心理的反応とされる。
  
   そうなったほうが、そうならないよりも生命を次世代につなぐ確率がぐんと高くなるからではないのか。
  
   最後に驚愕の予言ブログを紹介しておきたい。松原照子さんという預言者がいる。あっさり書いたが、じつは松原さんが何者かも、預言者というのがどういう仕事なのかも知らない。なんにも知らないが、その松原さんが今年の2月16日に書いた(と思える)ブログを読むと腰を抜かす。こんなことがあるのだろうか?

   http://shohweb.com/?m=20110216

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2011年3月16日 (水)

 放射能を待ちながら

 
  この非常事態時に、毎晩、銀座の雑居ビルのクラブで夜遅くまで酒をかっくらっている輩がいたら、私は心から尊敬したい。地震? 放射能? なにいってやんでい、と両切りタバコをプカプカ吸っているオヤジがいたら、私は心底畏敬したいと思う。

 そのくらい、自分自身は萎縮していることが分かる。もちろん日常の業務はきちんとこなし、できるだけ平静でいるように努力しているけれど、体のどこか深いところでアラートが鳴っている感じなのである。

  自分自身の生命体としての感度が上がり、「今、ここにいるのは危険である。ただちに退避せよ」と本能が命じている。しかし、理性はその本能を抑えつけようとしている。そのせめぎ合いの中で、心身ともにぐったりと疲労しているのが分かる。

  会社の入り口は、放射能の侵入を防ぐためだろうと思われるが、オートドアが封鎖され、脇の小さなドアから出入りすることになった。入り口に立つ守衛さんはみんなマスクをするようになった。まあ、どう考えても気休めにしか見えないが・・・。

  出社している社員の数は少ないし、昼休み、付近を歩いている人の数が少ない。しかも、顔が暗い。まあ、明るくなる理由がないから、暗くなるのも当然なのだが。仕事で付き合いのある会社の多くは社員を自宅待機させている。

  原発付近に住む、小さな子供を抱える親や、妊婦は気が気でないだろう。一刻も早く「疎開」したいに違いない。いてもたってもいられない、その気持を想像するとやりきれない気持にさせられる。

  今回の震災と原発事故による日本経済の落ち込みは尋常なものではないだろう。いくつかの会社はつぶれるだろうし、農業・漁業の従事者の無産化もすすむだろう。そんな事態は決して起きては欲しくないが、もし「東京」を放棄しなくてはならない事態が到来したら、国力はまず、半減するに違いない。もう一回、1945年からやり直しだ。

  まあ、そうなったらそうなったで、きっと楽しいこともあるだろうけれど・・・・・。

  これまでずっと、SNSと称する「ソーシャル・ネットワーク・サービス」というものをうさん臭いものだと思ってきた。ビジネスの現場で、金儲けの手段として語られることが多かったからでもあるが、個人情報と引き換えに、たわいもない由無しことを発信し続ける有象無象がはなはだ多かったせいでもある。いったい、この方々は正気なんだろうか、と思い続けてきたのである。

  しかし、この度のカタストロフの中で、SNSが、市場原理の桎梏をはずれて、生き生きと、活発に活用されている様を見て、その考えを改めないわけにはいかなくなった。エジプトを始めとする中東各国の「民主化革命」はSNSが後押しをしたという意見を聞いて、さもありなんと思うようになった。

「情報」がネットワークを通じて融通無碍に流通するという「最終兵器」的機能だけではなく、一番強く感じるのは、何よりも瞬時に、持続的に、地域に縛られずに「連帯」を醸し出すことにおいては、この右に出るメディアは存在しないからである。

 昨夜、台湾の友人から、「台湾に住む人々からの、日本へのメッセージ」が詰まったyoutubeを教えられた。深夜、ベッドの中で、このメッセージを聞きながら、「youtubeの力」とでも言うべきものをまざまざと知らされた。そのURLを下に貼っておく。

  http://www.youtube.com/watch?v=eKduLvFwGGw

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2011年3月 9日 (水)

後藤正治「清冽 詩人茨木のり子の肖像」を読み終えて

 もう呆れるほど長い間更新していない。忙しくて、ゆっくりと何事かを書き付ける時間がない。というか、書き付けるべき内容を思いつかない。いや、思いつくけど、ゆっくりと考える余裕がない。などと言い訳を書いているが、まあ、忙しすぎるんだな。

  前回のブログで、あらゆる書き物の背後には、その筆者の書かずにはいられない「已むに已まれぬ思い」がなくてはならない、という話を書いた。そのようにして書かれた書き物を、読者は抜き身の我が身を捻りこむようにして読み込むのだ、とも。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-9319.html

  昨夜読み終えた後藤正治氏の新刊「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(中央公論新社)は、まさに筆者・後藤氏の「已むに已まれぬ思い」が巻頭からあとがきにまで貫通する一冊だった。

  茨木のり子の名前は知っていたが、その詩集を読んだことはない。従って、その詩人に興味を抱いたこともないけれど、とても興味深く読み終えることができた。感動さえした。それはひとえに、筆者・後藤氏の「茨木のり子に対する恩義」のようなものが全編に溢れかえっているからだ。

  後藤氏は、若き日に茨木の詩に接し、近年になってじっくりと茨木の詩集を読みこむことになったという。詩人が紡ぎ出す言葉は、後藤の背中を押し、生きる力を授けてきたのである。その恩義ある詩人は、若くして夫に先立たれ、晩年をひとりでひっそりと静かに暮らし、そして誰にも看取られることなく自宅で亡くなった。

  決して幸福な一生だったとは言いがたい人生を送った、一人の女性詩人の生涯を極めて丁寧な取材でトレースし、後藤は、生前には親交のなかった詩人の素顔に、頬を接するようにして肉薄する。時に哀切であり、また時に粛然とさせられる。

  本のカバーをはずすと、扉に、若き日の美しき茨木のり子の写真がモノクロで印刷されている。まだ20代だろうか。笑みを浮かべ、生気に満ち溢れた穏やかな表情を見せている。この美しい女性が、この何十年か後に、80歳を目前にして、東伏見の古くなった自宅のベッド中で一人死んでいったのかと思うと、ひとの一生の条理のなさ加減をしみじみと思い知らされる。

<戦中、敗戦、戦後、現在・・・・時代の相貌は著しく変わり続けた。けれども、いつの世も、人が生きる命題においては何ほどの変わりはないのかもしれない。自身を律し、慎み、志を持続してなすべきことを果たさんとする―――。それが、茨木のり子の全詩と生涯の主題であり、伝播してくるメッセージである。>(p263)

  最後に茨木が60代のときに書いた「さくら」という詩を掲げる。

<ことしも生きて
 さくらを見ています
 ひとは生涯に
  何回ぐらいさくらをみるのかしら
  ものごころつくのが十歳ぐらいなら
  どんなに多くても七十回ぐらい
  三十回 四十回のひともざら
  なんという少なさだろう
  もっともっと多くみるような気がするのは
  祖先の視覚も
  まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
  あでやかとも妖しとも不気味とも
  捉えかねる花のいろ
  さくらふぶきの下を ふららと歩けば
  一瞬
  名僧のごとくにわかるのです
  死こそ常態
  生はいとしき蜃気楼と>

  詩などなくても人は生きていける。だけれども、一編の詩もない人生は、ひとしお淋しいものだと、これを読んでいて思う。

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