« 先見の明? | トップページ | 北京にて »

2011年8月28日 (日)

なぜ、演歌が好きなのか

    昔から、演歌が好きだ。なぜなのか、その理由は分らない。

    子供の頃に、さんざっぱらテレビで歌謡曲を聞いたからなのか。

    しかし、そんな人は同世代にかなりいるが、必ずしも演歌好きとは限らない。

    ある演歌が心の奥深くに突き刺さったことを実感したことがある。

    1975年の冬の夜。一人でパリに住んでいたころに、サンミッシェルの路地裏の薄汚い日本料理屋で餃子定食だかなんだかを一人でわびしく食べていた時のこと。店内のスピーカーから突然演歌が流れ出した。

    のちにその曲は北原ミレイの「石狩挽歌」(なかにし礼作詞 浜圭介作曲)だと知るのだが、その時は本当に雷に打たれたような気がした。

    フランスにいて、フランス語を学び、フランス人の物の感じ方や考え方を学ぼうとやっきになっていたのだが、この曲を耳にしたとたんに、ああ、自分は日本人だ、根っからの日本人だ、この日本的な感傷に抗することができない、と涙ぐんでしまったのである。もう、フランスのことなんかどうでもいいや、と。

    演歌好きだというのは、実はこの「日本的感傷」にたまらなく弱い、ということなのかもしれない。

    辛く悲しい思いを、地べたに這い蹲るようにして血を吐くように吐露する。もう泣きじゃくるしかすべはないのだが、街路で号泣するのではなく、井戸の底で声をひそめて泣くような陰性な悲しみ。

    泣くことでしか救われないことが、この世の中には確かにある。

    いや、実は、いくら泣いたとて何も救われはしないのだが、泣くことによって、ほんの少しだけ目の前がほんのり明るくなったように思える瞬間がある。

    演歌は、自分の内に潜む悲しみを覚醒させ、増幅し、胸元にぐっと突きつける。それにうろたえ、悲嘆の渦に飲み込まれるが、渦の収束後は、幾分こころが軽くなったような気にさせられるのである。

    今、好きなのは吉幾三の「情炎」である。吉幾三は作詞・作曲を手がける。誰も言わないが大変な才能の持ち主だと思う。「酒よ」「雪国」は大変な名作である。

    さて、「情炎」である。Youtubeで検索するとキム・ヨンジャとのデュエットが出てくる。これがなかなか凄いのである。

    まず、最初にキム・ヨンジャが歌う。眉間に皺を寄せて悲しそうな表情である。哀切である。

どうせあんたは 他者(よそ)のひと
夜明け来る前 帰るひと
窓をたたいて 風が言う
そんな男(やつ)とは 別れなと

涸れたはずでも 泪でて
月日数えて 振り返る
世間どこでも あるような
こんな恋でも 私には

夢ならこのままで
花なら枯れないで
このまま帰らずに
このまま傍にいて

  これを受けて吉幾三が無表情に歌う。

きっとあんたの 心には
棲んでないのね 私など
別れ言葉は 持ってても
逢えば消えます ねえあんた

    吉の横に立つキム・ヨンジャの顔が悲しげに歪む。歌の世界の中に没入しているのか、あるいは自身の人生に思いを馳せているのか。彼女の胸中は分らない。吉の哀切な声が響く。

ポロリポロリと 冬の宿
残る足あと 雪の中
窓に映した 明日みて
いつも思うの 今日かぎり

    その瞬間、キム・ヨンジャの顔が突然崩れ、涙が溢れる。吉の歌声に耐え切れなくなったのか。悲しそうに身をよじる。

夢ならこの続き
雪なら溶けないで
このまま帰らずに
このままここにいて

  そして、二人でエンディングを熱唱。  

女の情けとは
死ぬまで炎(もえ)る事
このまま嘘ついて
死ぬまで嘘ついて

    このデュエットを聞きながら、ああ、オレは演歌が好きだ、とまたしても再確認してしまう。まあ一度聴いてみてくださいよ、この曲を。

http://www.youtube.com/watch?v=v5m18bcAovo

|

« 先見の明? | トップページ | 北京にて »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: なぜ、演歌が好きなのか:

« 先見の明? | トップページ | 北京にて »