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2012年1月

2012年1月18日 (水)

橋下徹氏の「負けたらあかん」

 
    話題の大阪市長、橋下徹氏の本「体制維新  大阪都」(文春新書)を読む。

  面白い。痛快である。これだけ言いたいことをずけずけ言う人に近頃会ったことがないので、思わず笑った。

  北風と太陽、という比喩がある。人を説得するのに、強圧的に力づくで説き伏せるか、はたまた、温順に丁寧に説明して、その気にさせるか、の二通りがあるというわけである。

  その伝でいけば、橋下氏は北風派。それも鼻や耳が引きちぎれそうなほどビュービューと吹きすさぶ突風である。

  通読してすぐに分かるのは、氏の生きる姿勢が「喧嘩腰」というか、尋常ならざる「ファイティング・スピリット」で覆われている、という事実である。

  本の中に頻出するのが「競争」という言葉。いちいち実例を挙げないが、簡単に言うと、世界にはさまざまな競争があり、ぼやぼやしてると負けちゃうやんけ、いや、それどころか、大阪はもう、ボロ負けやんけ、という切迫感がみなぎっている。

  ぱっとページをめくったら、すぐに「競争」という言葉が目に入ってきた。たとえば、こういう一文である。

<・・・都市の実態に合わせて考えるという視点が重要であり、それは世界を視野に入れる場合も同じです。僕はいつも「二百六十万人規模の大阪市では世界の都市間競争で通用しません」というのですが、大阪都構想に反対の学者さんは「ヨーロッパの都市を見てください。百万人くらいの規模で十分に都市経営をしているところはありますよ」と反論してきます。>(P198)

  橋下氏には、学力だろうが都市間競争だろうが、権力闘争だろうが、およそ争いと名のつくものは、「負けたらあかん」という哲学が身に沁みついているのである。

  勝者がいれば、当然ながら敗者がいる。1位がいれば、ブービーメーカーがいる。誰かが上位に上れば、誰かが順位を落とす。つまり、世界は、誰かがいい気分になれば、誰かが悲哀をなめる仕組みになっている。

  だから、人によっては、「いいじゃないの、ビリで。誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私たちがビリになってあげようよ」という温和で生ぬるい敗北主義を口にしたりするが、橋下氏はそんなものは、きっと許せないものなのだろう(実は私も絶対に許せない人間なのだが・・・・)。

  しかし、橋下氏はこのような「喧嘩腰」をどこで身につけるに至ったのだろうか。理不尽に差別され続けた出自の問題もあるだろう。関東人には全く想像を絶するような強烈な差別意識が、関西にはまだ黒々と横たわっている。

  物心ついたころから世間と戦い、大阪の進学校に進んで、そこでラグビーの全国大会に出場し、早稲田の政経にもぐりこんだ後に、弁護士試験を獲得してみせる。簡単にトレースしただけでも、どれほどの「競争空間」を生き延びてきたかがよく分かる。

「喧嘩腰」でないと、ここまでやってこれなかったに違いない。

  我々の世界は、国内を見ても国外も見ても、もはやにっちもさっちも行かなくなりつつある。にもかかわらず、それを打開する有効な手立ては見つからないばかりでなく、当たり障りのない言説が飛び交うばかりなのである。

  その窮状に、いきなり鼻っぱしの強いとっちゃん坊やが出現したから、じつは私は楽しくてしようがないのである。ハシズムとしてみんなに叩かれる。独裁者になる、と恐れられたりもする。マスコミもこぞってバッシングである。

   しかし、橋下氏はめげることがない。めげないどころか、ますますファイティング・スピリットは高まるばかりのように見える。面白いじゃないか。がんがんやってみてほしい。このスタイルがどこまで続くのか、見守りたいと思う。

  願わくは、ケネディのような末路に終わらぬことを祈りたい。

  

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2012年1月17日 (火)

思えば遠くまで来たもんだ

 
    伯母の葬儀に参列するために、津田沼まで出かけた。1971年に田舎から上京して下宿生活をしていたころ、お金が乏しくなったり、何かおいしいものを食べたくなったりした時には伯母に電話をかけて、晩御飯を食べさせてほしいと厚かましくも、ねだったものだった。

  電車を乗り継いで、習志野の伯母の家に行くと、伯母は鶏のレバーをフライパンで炒めてお醤油で味付けしたものをよく出してくれた。「うまい。これはうまい」とでも大きな声で私が言ったに違いない。伯母の家での食事を思い出すと、レバー炒めばかりが蘇る。

  軽快にフライパンをふるっていた伯母は、津田沼の教会の中に置かれた棺の中で、身じろぎもせず、静かに眠っていた。鶏のレバー炒めから、かれこれ40年が経過している。ああ、遠くまで来てしまったなあ、という感慨が去来する。

    喪主である、ほぼ同世代のいとこたちにも秋霜烈日は手加減を加えてはいない。いとこのひとりは、かつての伯母を髣髴とさせるし、そのいとこの娘さんは、よく知っている若き日のいとこ自身を思い出させる。

    白い花を伯母に手向けたあと、実に久しぶりに会ういとこに頭を下げて挨拶をすると、いきなり、「読んでるわよ、路傍の意地」と言われて、ひっくり返りそうなほど驚いた。どうして分かったんだろうか、と呆然として考えると、思い当たることはひとつしかない。

    このブログで祖父の話を実名入りで書いたからに違いない。極力誰にも知られず、ひそかにコキコキと書き続けていこうと誓って始めたブログだが、なんのことはない、身近なところでばれてしまっているではないか。

    夕方、六本木の国立新美術館に出かける。友人の野田裕示君の大規模な個展が1月18日よりスタート(野田裕示 絵画のかたち/絵画の姿)するのだが、そのオープニング・レセプションが行われた。野田君とは、同じ年に生まれ、同じ高校に入学、ともに美術部に所属し、イーゼルを並べて油絵を描いていた仲である。

  そして1971年、ともに東京に出てきたのである。

  今回の展覧会のために立派なカタログが編集され、かれの1981年から2011年までの主だった作品をずらりと並べるのみならず、丁寧なバイオグラフィまで添えられている。画家・野田裕示を理解するためには、それで十分なのだが、美術評論家たちは誰も知らない、上京当時の生活にぶりについて、書き留めておきたい。

    今となっては誰も信じられないだろうが、71年当時、赤坂のTBSの脇にある神社の横の道を登っていくと、ちょっとした高台に出た。草がぼうぼうに生えた空き地のようなところがあって、そこには大きな倉庫が建っていた。

    この倉庫は出光が、サム・フランシスのアトリエとして建てたものだった。野田君はこの巨大なアトリエというか倉庫の留守番役としてここに入居し、生活をしていたのである。サム・フランシスが描いたと思しきバナナが描かれたキャンバス地(枠から外された)だけが、無造作に壁に貼られていたりした。

    倉庫(アトリエ)には立派なバスタブや洋式トイレが設置されていた。このスペースを思う存分利用し、野田君はここで絵を描き、眠り、飯を食い、また絵を描いていた。倉庫の中の青春、とでもいうべきものだった。夏は思い切り暑く、冬は室内に氷がはるほど寒かった。

    この倉庫を時々訪ねては、和歌山弁で会話をし、高台から降りて、赤坂の街中で一緒にラーメンを食べた。ともに金は乏しく、この先、どういう人生が待ち受けているのかも、皆目分からなかった。ふたりとも、ただただ、若いだけだったのだ。

    新国立美術館で会った野田君は、今年還暦を迎える第一線の画家の風貌を示していた。でも笑うと、若いころの面影が戻ってくる。

「なあ、野田君、思えば遠くまで来たもんだなあ。赤坂時代を思い出すと、夢のようだなあ」
「ほんとにね」
「こんな立派な展覧会、もう一回やれと言われてもできないだろう」
「うん、もうできないね」
「うん、もう生きてるうちにはできないかもしれないね」

  野田裕示という一人の画家が、文字通り人生をかけ、一生をかけて描き続けてきた絵が会場内に屹立している。そんな気がした。

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2012年1月12日 (木)

どこまでも直情径行

 
    高校時代の母校からの原稿依頼があり、断るわけにいかず引き受けたものの、書いているうちにどんどん長くなり、かつ、後輩に当たる中高生に何が言いたいのかも分からなくなった次第。ごめんなさい。
 
    最近、ブログの更新が滞っているので、再録して、お茶を濁す方針です。
  
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  小学校の低学年のころ、役者になりたかった。当時テレビで「風小僧」や「白馬童子」に熱中し、主演の山城新伍に憧れて、なんとしてでも役者になって、共演したいと強く願うようになった。

    そうなると、今も変わらぬ直情径行の性情がむくむくとわき起こり、手紙を書かずにはいられなくなった。

「山城さん、僕は小学生ですが、山城さんのファンです。僕も山城さんのような役者になりたいです。どうか、付き人にしてもらえないでしょうか?」
 
    返信用の封筒もちゃんと用意して送ったのだが、返ってきた封筒の中には、サインが一枚入っているだけだった。

   中学生のころ、漫画家になりたいと思いつめた。手塚治虫の漫画の描き方の参考書を買いこんで、ケント紙にGペンでコキコキと毎日、漫画を描いていた。ある日、またもや、いつもの直情径行が励起し、手紙を書かずにはいられなくなる。

「石ノ森章太郎先生、僕は漫画好きな中学生です。和歌山の田舎に住んでいますが、どうか先生のアシスタントにしていただけないでしょうか?」

   これは、返事が来なかった。きっと、そんな少年が日本中にいっぱいいたのに違いない。

   高校生の頃、将来は映画監督になろうと思った。今でもまだあるのだろうか? 御坊市内にある、トイレの匂いが漂う映画館で、3本立ての映画を2周(つまり6本ですね)も見たりしていたのだ(ずいぶん、体力があったんだなあ)。そして、例の直情径行がまたしても発動する。

「淀川長治先生、僕は高校生ですが、将来、映画監督になろうと思います。ついては、先生の弟子にしていただきたく、お願いする次第です」

   残念ながら、これも返事が来なかった。しかし、もし先生のオメガネにかなって、なまじお弟子になどなっていたら、今頃はきっと内股で歩くような人生を送っていたに違いない(幸せになれたかどうかはわからない)。

   大学生の頃になると、よーし、小説家になろう、と思って髪を伸ばし始めた(五木寛之も水上勉も、長髪をかきあげてかっこよかった)。原稿用紙を大量に買いこんできては、誰に頼まれたわけでもないのに、こつこつと小説を書き始めた。書いたものがたまると、アルバイトで貯めたお金で、自費出版の小冊子を作った(表紙の装丁は、高校時代に一緒に美術部に在籍した野田裕示君に依頼)。

   小冊子が出来上がってくると、これを販売しないではいられなくなる。新宿紀伊國屋や早稲田大学の生協や、下宿の近所の本屋に出かけては、「とにかく、いい本なので販売していただきたい」と、押しつけた(今考えると、汗が出てくるような無茶苦茶な所業だが、なぜかみんな売ってくれた)。

   それが済むと、次には、この本を何人かの作家に送り付け始めた。誰にお送りしたのかほとんど忘れてしまったが、明瞭に覚えているのは、野呂邦暢氏(長崎県諫早市在住の芥川賞受賞作家)に手紙を添えて送ったことだ。氏からは、読後の丁寧な感想をしたためた手紙が送られてきたのだ(今でも宝物として大事にしまっている)。

   大学生活も後半になると、「物書き」として食っていこう、という漠とした思いが強まってきたものの、同い年の村上龍氏が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞するや、「あ、だめだ。この才能は追い越せない」とただちにしっぽを巻いて、文筆業からの撤退を決め込んだ。

   とは言うものの、就職の季節が近づく。文筆業に比較的近しい職場にしようと出版社を片っ端から受験。かくして、一番最初に合格通知をもらった出版社に入社することとなった。

   入社後は週刊誌やスポーツ誌、月刊誌などの雑誌編集に従事。その間、子供の頃に手紙を出したお相手にお目にかかる機会もあった。

   銀座の映画会社の試写室の暗がりの中で、まるで置物のように小さくなって背中が曲がった淀川先生を見かけた(声はかけなかった)。

    代々木の仕事場へ、石ノ森先生に原稿執筆をお願いに出かけたこともあった(手紙の話はしなかった)。

    山城新伍氏には、2009年に亡くなる直前、さるパーティの会場で初対面のご挨拶をした。

「山城さん、あなたは僕のことを何にも知らないだろうけれど、僕はあなたのことをよく知っている。40年以上前に、付き人にしてほしいって、手紙を出したんですよ。そしたら、サインが一枚入った手紙をもらいました。それをみて、僕は山城さんサインが書けるようにずいぶん練習したんですよ。ほら、今でもこうして書けるんです」

   山城さんは、体調が悪かったのか、酔っぱらっていたのか、しばらく僕の顔をジーッとみつめていた。それから視線を移して、遠くの方を見つめるような眼をした。

   ある日には、会社の玄関で、野呂邦暢氏とすれ違った。あっと思ったが、急ぎの仕事を抱えていたので、またの機会にご挨拶しようとそのまますれ違った。野呂氏はしばらくのちに自殺して、ついにご挨拶する機会は訪れなかった。

  さて、こんな風にだらだらと昔話を書き連ねて、僕は後輩に当たるあなたたちに何を伝えようとしているのだろうか?

   僕の人生を駆動し続けた、「思いついたら、即行動」という、この直情径行(おっちょこちょい)を、諸君の人生のお供にもどうぞ、と勧めたいのだろうか。

   確かにこの直情径行は、社会人になった後もますます盛んで、拘置所から出てきたばかりの高橋源一郎氏や、喫茶店の店主をしていた村上春樹氏や、銀座の雑居ビルでサラリーマンをしていた椎名誠氏のもとに僕を向かわせたりした。思いがけない出会いを授けてくれたりもした。

   でも、おっちょこちょいのすすめを述べたいのではない。なんと今年で60年になる僕のこれまでの人生を楽しく、豊かで、気分のいいものにしてくれたのは、他でもない、多くの人との出会いであった、という単純な事実をお伝えしておきたいと思ったのである。

   60年生きてきて分かることがある。

    人との出会いの有難さは、対面しているまさにその時に実感するものではない。そうではなくて、時が過ぎ、時間が経って、回想的にその人のことを思い出すとき、その出会いが自分にとって、いかにかけがえのないものであったかを、身をよじるようにして痛感するものなのだ。

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2012年1月 3日 (火)

この世に、ひとつしかないもの

       ここしばらく、この世にひとつしかないものは何なのかを考えている。

    ひとつしかない「物」というのは、もちろん即物的なもの、形而下的なもの、物質的なものに限定しての話である。

    形而上的なものであれば、そんなものはいくらでもある。「神」だって「エゴ」だって「欲望」だって、ひとつしかない、と主張すればひとつしかないことになるから、考えたって意味がない。

    いろいろ考えた末に辿り着いた結論は、「この世にひとつしかない物質」は存在しない、というものだった。

    素粒子も原子も複数存在する。「私」はひとりしか存在しないが、「私」が属するホモ・サピエンスはごちゃまんといる。ホモ・サピエンスという種は一種類だが、まあ、オランウータンやらチンパンジーやゴリラといった似たようなものはいっぱい存在する。

    地球も太陽も月もひとつしかない、とおっしゃるムキもあるかもしれないが、似たような惑星、恒星、衛星は、これまた無数に存在する。

    しかし、この世にひとつしかないもの、と考えられているものは確かに存在する。「宇宙」がそれである。「ユニ・バース」と名づけられていることから分るように、これまで人々は「宇宙」は我々が認識する「この宇宙」ひとつしか存在しないものとして考えてきた。

    だが、「この宇宙」以外に、「この世にひとつしかない」物質が見あたらない以上、「宇宙」だって、ひょっとすると複数存在するのではないか、と考えたとしてもなんの不思議もない。

    よくよく考えれば、我々人類は、たまたま、「この宇宙」に存在する銀河系の中の太陽系に属する地球に誕生し、気が遠くなるような長い年月をかけて自分たちの周囲に関する認識を深め、「この宇宙」の存在を理解するようになった。

    ここで思うのは、もし、我々がこの地球に誕生しなかったとしたら、「この宇宙」を認識する主体が存在しないことになるので、「この宇宙」そのものが存在しなくなるという事実である。

    ところで、我々人類は、どういう理由でか、「この宇宙」にしか誕生しなかった。「他の宇宙」には生まれ出ずることができなかったので、理の当然として、「他の宇宙」の存在を認識することができないでいるのである。

    だから、宇宙は「この宇宙」しかないと、我々は思い込んでいるだけなのである。

    実は、宇宙は、無数に存在するのだ、と考えたとしても、さほど無茶な思考ではないのではなかろうか、と妄想する、2012年、新年早々なのであった。

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