« どこまでも直情径行 | トップページ | 橋下徹氏の「負けたらあかん」 »

2012年1月17日 (火)

思えば遠くまで来たもんだ

 
    伯母の葬儀に参列するために、津田沼まで出かけた。1971年に田舎から上京して下宿生活をしていたころ、お金が乏しくなったり、何かおいしいものを食べたくなったりした時には伯母に電話をかけて、晩御飯を食べさせてほしいと厚かましくも、ねだったものだった。

  電車を乗り継いで、習志野の伯母の家に行くと、伯母は鶏のレバーをフライパンで炒めてお醤油で味付けしたものをよく出してくれた。「うまい。これはうまい」とでも大きな声で私が言ったに違いない。伯母の家での食事を思い出すと、レバー炒めばかりが蘇る。

  軽快にフライパンをふるっていた伯母は、津田沼の教会の中に置かれた棺の中で、身じろぎもせず、静かに眠っていた。鶏のレバー炒めから、かれこれ40年が経過している。ああ、遠くまで来てしまったなあ、という感慨が去来する。

    喪主である、ほぼ同世代のいとこたちにも秋霜烈日は手加減を加えてはいない。いとこのひとりは、かつての伯母を髣髴とさせるし、そのいとこの娘さんは、よく知っている若き日のいとこ自身を思い出させる。

    白い花を伯母に手向けたあと、実に久しぶりに会ういとこに頭を下げて挨拶をすると、いきなり、「読んでるわよ、路傍の意地」と言われて、ひっくり返りそうなほど驚いた。どうして分かったんだろうか、と呆然として考えると、思い当たることはひとつしかない。

    このブログで祖父の話を実名入りで書いたからに違いない。極力誰にも知られず、ひそかにコキコキと書き続けていこうと誓って始めたブログだが、なんのことはない、身近なところでばれてしまっているではないか。

    夕方、六本木の国立新美術館に出かける。友人の野田裕示君の大規模な個展が1月18日よりスタート(野田裕示 絵画のかたち/絵画の姿)するのだが、そのオープニング・レセプションが行われた。野田君とは、同じ年に生まれ、同じ高校に入学、ともに美術部に所属し、イーゼルを並べて油絵を描いていた仲である。

  そして1971年、ともに東京に出てきたのである。

  今回の展覧会のために立派なカタログが編集され、かれの1981年から2011年までの主だった作品をずらりと並べるのみならず、丁寧なバイオグラフィまで添えられている。画家・野田裕示を理解するためには、それで十分なのだが、美術評論家たちは誰も知らない、上京当時の生活にぶりについて、書き留めておきたい。

    今となっては誰も信じられないだろうが、71年当時、赤坂のTBSの脇にある神社の横の道を登っていくと、ちょっとした高台に出た。草がぼうぼうに生えた空き地のようなところがあって、そこには大きな倉庫が建っていた。

    この倉庫は出光が、サム・フランシスのアトリエとして建てたものだった。野田君はこの巨大なアトリエというか倉庫の留守番役としてここに入居し、生活をしていたのである。サム・フランシスが描いたと思しきバナナが描かれたキャンバス地(枠から外された)だけが、無造作に壁に貼られていたりした。

    倉庫(アトリエ)には立派なバスタブや洋式トイレが設置されていた。このスペースを思う存分利用し、野田君はここで絵を描き、眠り、飯を食い、また絵を描いていた。倉庫の中の青春、とでもいうべきものだった。夏は思い切り暑く、冬は室内に氷がはるほど寒かった。

    この倉庫を時々訪ねては、和歌山弁で会話をし、高台から降りて、赤坂の街中で一緒にラーメンを食べた。ともに金は乏しく、この先、どういう人生が待ち受けているのかも、皆目分からなかった。ふたりとも、ただただ、若いだけだったのだ。

    新国立美術館で会った野田君は、今年還暦を迎える第一線の画家の風貌を示していた。でも笑うと、若いころの面影が戻ってくる。

「なあ、野田君、思えば遠くまで来たもんだなあ。赤坂時代を思い出すと、夢のようだなあ」
「ほんとにね」
「こんな立派な展覧会、もう一回やれと言われてもできないだろう」
「うん、もうできないね」
「うん、もう生きてるうちにはできないかもしれないね」

  野田裕示という一人の画家が、文字通り人生をかけ、一生をかけて描き続けてきた絵が会場内に屹立している。そんな気がした。

|

« どこまでも直情径行 | トップページ | 橋下徹氏の「負けたらあかん」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 思えば遠くまで来たもんだ:

« どこまでも直情径行 | トップページ | 橋下徹氏の「負けたらあかん」 »