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2012年3月24日 (土)

「方丈記」と「ミレニアム」と、松本大洋「Sunny」

 
    前回の話の続き。

  堀田善衛の「方丈記私記」(ちくま文庫)を読んで思ったよしなしことを書き綴ったが、書き漏らしたことがある。この本を読みながら、ふと「鴨長明は同性愛者だったのではなかろうか」と思ったのである。

  もちろん学術的な裏付けがあるわけではない。直観である。長明は生涯独身であり、子供もいない。隠棲したのちの話し相手は10歳ほどの少年だけである、とも書いている。世に受け入れられがたい同性愛者の孤独な独白として「方丈記」を読むと、妙に納得できる部分があるのである。

   たとえば、

<世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。>(P67)
 という文章も、異性愛者としてふるまうことのできぬ苦衷を吐露したものとして読むとすんなり腑に落ちはしないだろうか。

 もっとも、中世日本で、同性愛者がいかほど肩身が狭かったか、あるいはそうでもなかったかは私の知識の範囲外なので、単なる妄想でしかないかもしれない。

 面白いのは、文庫の巻末で堀田氏と五木寛之氏が「方丈記」をめぐって対談を行っているのだが、その中で、五木氏も、「一概にホモといわれる人、そういう体質の匂いが鴨長明にはありますね」と語っている。だからどうした、というわけではないのだが、「方丈記」を通読すると、この本は<世に背を向けた、完全なる隠棲者の省察>というようなものでは全くなくて、俗世への未練たらたら、不遇をかこつしかない知識人の、世界に向けての、屈折したラブレターではないのか、という気がする。

 さらに面白いのは、五木氏は、1980年に行われたこの対談の最後に、「長明が書かなかった部分を大量に、何万枚とかいうふうに書いてみたいという気も、ないではありません」と述べている。今から32年前の発言である。その素志が「親鸞」や古寺ものの書物にまとめ上げられた様をみると、物書きの業というものも、考えないわけにはいかない。

 このような古臭い本を読みつつ、同時に読んでいたのがスティーグ・ラーソンの「ミレニアム 1 ドラゴン・タトゥーの女」(早川書房)。この本を読んだ周りの人々が、「もう読んだか? めちゃくちゃ面白いぞ」とけしかけてくるものだからつい手にしてしまったのが運のつき。確かに面白い。文字通り、巻を措くこと能わず、である。

 さて、このミステリーについてはみんなが色んなことを既に書いているが、私が興味を持ったのは、4部に分かれたこの大部な小説の各部の頭に、さりげなく置かれた4つの文章である。引用する。

<スウェーデンでは女性の18パーセントが男に脅迫された経験を持つ。>(第一部)

<スウェーデンでは女性の46パーセントが男性に暴力をふるわれた経験を持つ。>(第二部)

<スウェーデンでは女性の13パーセントが、性的パートナー以外の人物から深刻な性的暴行を受けた経験を有する。>(第三部)

<スウェーデンでは、性的暴行を受けた女性のうち92%が、警察に届けを出していない。>(第四部)

 要約すれば、スウェーデンでは、多くの女性が男性から脅迫を受け、暴力や性的暴行を受け、泣き寝入りしている、ということになる。これがこのミステリーの核心である。その具体的事例が小説のあちらこちらにちりばめられている。下巻のP406に、
<「女を憎む男がここにもひとり」と彼女はつぶやいた。>
 という一文がある通り、この小説のテーマは「女は常に男から憎悪される」になるだろう。

 そう書いて、あれ、このフレーズはどこかで読んだことがあるぞ、と思いたって調べたら、それは、内田樹氏の本、「映画の構造分析」(文春文庫)に収められた「アメリカン・ミソジニー」と題された論考でだった。

 ミソジニー (Misogyny) とは女性や女らしさに対する蔑視や偏見、憎しみを指す語で、ギリシア語のmisos(憎しみ)+gyne(女性)に由来するという。大昔から、男性は女性を憎んできたということなのか。

 さて、内田氏はその論考をこう書き出している。

<アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。
 私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。>(P207)

 そして、映画の話になる。

<・・・ハリウッド映画がその全史を通じて強烈な女性嫌悪にドライブされていることについては深い確信を有している。これほど激しく女性を嫌い、呪い、その排除と死を願っている性文化を私は他に知らない。
 私が最初にアメリカ映画の女性嫌悪に気づいたのはマイケル・ダグラスによってである。・・・・これまで映画の中でマイケル・ダグラスが「殺した」のは、グレン・クローズ(『危険な情事』)、キャサリン・ターナー(『ローズ家の戦争』)、シャロン・ストーン(『氷の微笑』)、デミ・ムーア(『ディスクロージャー』)、グウィネス・パルトロウ(『ダイヤルM』)などなど錚々たる顔ぶれである。>

   次に、女性嫌悪ストーリーに潜む説話原型を描きだし、なぜ、そのような説話原型がアメリカで好まれるようになったのかという、歴史的考察を加えている。その一方で、アメリカのフェミニストたちは、「アメリカの男はなぜ、これほどまで病的に女が嫌いなのだろう?」という問いをどうして発しないのか? それが理解できぬ、と書く。なぜ、女性嫌悪の現象のリストを長々とあげつらうだけで、その背景を考察しないのか、と。

   フェミニストのひとり、フェッタリーがアメリカにおける女性嫌悪の起源を「西欧文化全体」に「先送り」する手つきを見て、これは<現代アメリカ人固有の思考上の「奇習」である>とまでこき下ろして見せるのである。

   そこまで読んできて、はたと考え込んでしまった。「女性を憎悪するのは西欧文化に特有の疾病なのだろうか」と。女性を憎悪しているのは、ひとり西欧文化だけではない。確かにハリウッド映画にはその傾向が赤裸々に露呈してしまっているかも知れないが、我々、東洋の島国に生きる男性にも、ミソロジーな心性は息づいているのではないか、と。

    そう書くと、そんなことはない、私は女性を敬い、愛していると宣言する男性が必ず出てくるだろう。しかし、ちょっと待ってほしい。その男性にこう問うてみたい。男性という生き物であるあなたは、本当に、その心と体の最深奥部を直視し終えたのか、と。覗き込んだ先に見えるのは、本当に「愛」と「崇敬」だけなのかと。

   さて、ここから、とんでもない「奇想」を展開する。

    愛憎ふたすじという言葉があるごとく、敬愛と憎悪はコインの裏表のようにぴったりとくっついている。過剰に深く強い愛は、ほとんど憎悪と同義語である。激しい憎悪は、ついに満たされることのなかった愛によって裏打ちされ、駆動される。

    我々男性は、あるときは、女性を強く激しく求める。憧憬し、羨望し、嫉妬し、同化できぬものかと身をよじる。またあるときは、八つ裂きにしてしまいたいと思うほどに、制御できぬほどに憎悪し、この世から抹殺してしまいたいと残酷に欲望する。

    この極端な振幅は、同じ情動を、裏と表から見た違いにしか過ぎない。

    なぜ、そのように奇怪な情動が、「男性」に芽生えてしまうのか。それは、「男性」は「人間」として極めて劣性な生き物だからである。生物学的に言えば、男性は女性のできそこない、である。そのことはかなり以前に、ブログに書いた。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-5be6.html

    人間はまず、全員が胎内では女性である。そのまま育てば、全員が女性としてこの世に誕生することなるのだが、ある割合で、男性への変更を迫られる。生物としてはかなり奇矯な、無理矢理な、つらい変更である。だからこそ、男性には女性の名残として、不要な乳首が残り、クリトリスの名残としてのペニスが残り、陰嚢の裏には、かつては女性器であったものが無理矢理嚢状に改変を強いられた閉線が残る。

    端的に言って、男性は「劣性人間」である。だからこそ、寿命も女性より短い。地球上、どの民族をとっても、男性の方が女性より早死にする。「できそこない」だから無理ないのである。人間として、正調なのは、女性である。「優性人間」と言い換えてもいい。

    我々は教育によって、人類には女性と男性という両性が存在すると教えられている。ふたつの性が、完全なる対となって、等価値的に存在していると理解している。しかし、それは本当だろうか。人類には「女性」という正しい人類と、どういうわけか、そこから派生的に生まれた「男性」と呼ばれる不完全な人類の二種類が存在するばかりである、としたらどうだろうか。

    ミソロジーとは、「不完全な人類」である「男性」の、「完全な人類」である「女性」に対する、無意識化での憧憬である。嫉妬である。ああ、あのように完全な生物になりたい、という絶望的な渇望である。そしてそれがついに果たせぬことを知ったときに生じる嫌悪と憎悪である。それは、男性をして、ある時は、愛の化身のようにふるまわさせ、またある時は暴虐の狂人としてふるまわさせるのである。

    男性は、この両極の間で、股裂きに合うようにして生きている生き物なのである。

    ミソロジーは西欧にのみ存在するものではない。男性が男性である限り、拭い去りがたく、その深奥に潜み続けるものなのだ。

    とまあ、バカなことを考えながら、疲れるてくると、松本大洋のマンガ「Sunny」(小学館)の第2巻を読む。読んでいると、記憶の奥底にある、ほとんど霞がかかったような子供時代のことがいろいろと思い出されてくる。そして、泣けてくる。特に何か悲しいことが描かれているわけではない。しかし、悲しくなってくるのである。

    各話の最後の2,3ページのコマ割りは天才的なものを感じる。リリシズムというものの力を強く、感じる。漫画の世界でそれが喚起されるということはめったにないが、松本大洋の漫画には、それがある。

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