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2020年8月

2020年8月27日 (木)

『木簡 古代からの便り』(奈良文化財研究所 編)を読む

 奈良時代、平城京の役所でよく使われていた木簡。日本史の教科書で見たことがあるかもしれない。墨で文字を書きつけた細長いかまぼこ板状のものである。この木簡、古代律令国家の事務運営のためにはなくてはならないものだったが、平城京を中心に、これまで約四十数万点が発掘されている。本書は奈良文化財研究所の研究者たちの手による「木簡入門」とでもいった趣の本。これが実に楽しい。

  眺めていると、時空を超えて、まるで平城京で生きていた人たちの息吹が伝わってくるかのようである。千三百年も前に生きていた人たちなのに、ちっとも、私たちと変わらないではないか。

 木簡はまず、諸国から届けられる貢納物の「荷札」として使用された。主にコメや布だが、それ以外にも志摩や安房からはアワビが、駿河、伊豆からはカツオが、能登からはイリコが届いたことが木簡から分かる。どうも当時の平城京に住む人たちはアワビが大好物であったようで、長屋王の屋敷跡からもアワビ十匹の伝票が見つかっている。また、その長屋王の幼い子供が飼っていた犬にコメが届けられたり、「牛乳煎人」に牛乳が届けられたという伝票も見つかっている。「牛乳煎人」とは聞きなれないが、多分、牛乳を煮詰めて「蘇」という食べ物を作った人だと思われる。「蘇」は練乳のようなものかと思われるが、これがよく分からないらしい。

 木簡はまた「習書」に使われた。他の用途に使われた木簡の表面を小刀で削って新品にし、そこで習字の練習をした。ちなみに当時の人たちは達筆である。使っている文字は漢字のみ。超エリートだったに違いない役人たちは、難しい漢字を実によく知っている。「賣」という漢字をいくつも書いた後に、その横に今度は「買」という漢字を練習したりしている。またある人は、「馬」の文字をいくつもいくつも熱心に書き連ねている。いっぱいになるとまた表面を削ってそこに文字を書きつけた。まるで花かつおのような削り屑が平城京のゴミ穴から大量に見つかっている。これまで発掘された木簡の八割は削り屑なのだそうだ。

 木簡はまた律令制を支える記録や文書として利用された。平城京の造酒司跡からは酒を請求する木簡が見つかっているが、中には、もう滑稽なほどに頭を低くして酒が欲しいとお願いしているものがある。「恐る恐る謹んで請い申す」とか「酒司の坐す下に、……恩を蒙りて」とか、思わずにんまりせずにはいられない。

  かと思うと、急な腹痛に襲われて職務遂行できません、という言い訳の木簡も見つかっている。物品購入してそれを送り届ける仕事があった稲積さん。買ったのは甕が七つ、鍋が八つ、灯明皿百四十三枚。お代は和同開珎十枚。ところが、「稲積は、急な腹痛で納品と報告に参れません……」と書いたあと、本当に激痛が襲ったのであろう、それまでの几帳面な文字が崩れて乱れ、小さなごちゃごちゃの文字で窮状を訴えているのである……。

 またゲームか占いに使用されたのではと思われる木簡も見つかっている。「此取人者盗人妻成」(これをとるひとはぬすっとのつまとなる)。いったい、これ、何に使ったのであろう。

 さて多種多様に活用される木簡だが、最後には縦に細かく割られて、平べったい割りばし状のヘラに変貌する。かつて、これがまとまって出土した際には、その用途が分からなかったらしいが、細かく調べてみると回虫の卵が大量に見つかった。何のことはない、天平人は用を足した後、これでウンチをこそげ落としていたのである。

  しかもよく調べてみると、肌触りがいいように「面取り」までしてあるというから、彼らは大変繊細な人たちでもあったのである。

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2020年6月 月刊「hanada」に寄稿したものです

 

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大竹昭子著「東京凸凹散歩」を読む

 永井荷風は嘉永版の江戸切絵図を携えて大正の東京を散策、消えゆく江戸の風情を哀惜し、その変貌を呪いながら随筆『日和下駄』を書いた。

 昭和二十五年東京生まれ東京育ちの著者、大竹さんも荷風にならい、国土地理院の一万分の一地形図を手に、東京を縦横にめぐる散歩に出かけた。

 本書は、手書きの地図や写真も多くて、まるで大竹さんと一緒に散歩しているような気持ちにさせてくれる楽しい随筆である。

 ところで、書名にある凸凹とは、東京都心が丘と谷でデコボコしている点を指す。普段の生活ではなかなか気がつかないが、東京は指を広げた大きな手を北西からどんと突き出したように丘と谷が海に向かって交互に延びているんだという。言われてみればその通りで、ビルや住宅をはぎ取ってみれば、都心では尾根道と谷道が交互に走っていることが分かる。東から本郷通り、白山通り、春日通り、音羽通り、目白通り、新目白通り、大久保通り、靖国通り、新宿通りというように。本書は随所にそんな発見がちりばめられていて興味深い。

 大竹さんの散歩は、『日和下駄』に準じて「淫祠」「樹」「寺」「崖」「夕陽」など十一の項目に従っているが、何よりも特徴的なのは強いこだわり。執拗な好奇心なのである。

 まず冒頭に紹介されるのは「坂」ななのだが、ぱっと見、坂と分からないような坂はダメで、大事なのは坂であることが目でしっかり感じられるものであること。しかも、いい具合にカーブしているところにこそ坂の妙味があるのだという。そこでお薦めなのが小日向鷺坂、四谷暗闇坂、中目黒別所坂、赤坂薬研坂。なまじの散歩本とはすこぶる違うぞ、という気配をいきなり漂わせるのである。

 また、ある日の散歩は、今はもう消えてしまった渋谷川の痕跡を探そうと、「新宿御苑から水になった気持ちで低いほうへと歩き」出す。あちらこちらに〇〇橋という地名がまだ残っているので、これで川を辿ることができる。外苑西通りを下り、外苑橋下、観音橋を通り、途中から住宅街に入り、神宮二丁目を抜け原宿橋を通って、キャットストリートに入る。明治通りに出たところで宮下橋を抜け、渋谷駅地下へ。ここから地上に顔を出し、明治通りの裏手を流れ、恵比寿で進路を東にとり天現寺橋のところで名前を古川と改めて北上、古川橋、三の橋、一の橋と過ぎて東へ曲がる……。読んでいると、こんなところに大きな川が流れていたのかと驚かされる。ちなみに、かつて東急百貨店東横店の東館に地下の売り場がなかったのは、渋谷川のなごりが邪魔をしていたからだそうである。

 またある日には、四谷荒木町の探索へ。「荒木町のほぼ全域が松平摂津の守の屋敷で、大小ふたつの池があり、天然の滝が流れ落ちていた」らしいが、さて、その滝は今どうなっているのか? 探っているうちに、弁財天がまつられた策(むち)の池なる小さな池にたどり着いたり……。

 圧巻は路地巡り。「坂、崖、川、曲がりくねった道、空地、街路樹、塀越しにのぞく庭木など散歩の愉しみを深めてくれるものはさまざまあるが、これがなくては散歩にならない、と思うのは路地である」と大竹さんは宣い、四谷若葉町や芝高輪や三田の生活臭漂う路地裏にどんどこ入り込んでいく。「路地は表通りとは切り離された、入ってみないとわからないことだらけの別世界であり、そこを歩くのは自ら進んで誘拐されるようなものである」と読者を路地へと強く誘う。

 大竹さん曰く、散歩の妙味は「日常から一歩離れて別の時空をさまよう」こと。さて、憂きこと多い自粛の季節、マスクして、この本片手に散歩に出かけるのも一興かと。

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2020年5月 月刊「hanada」に寄稿したものです

 

 

 

 

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立花隆著『知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと』を読む

昔から、「萬巻の書を読む」という言葉があるけれど、これはまあ多読の比喩のようなもの。しかし立花さんの場合は比喩でもなんでもない。何しろ、本の副題が、「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」である。尋常な量ではない。実際、この新書には驚愕のエピソードが随所に登場する。

小学1年生のとき、IQテストで1番になり、教師たちが遠巻きに顔を見に来る。このころ始まった、多読濫読は中学に入って拍車がかかり、学校の図書館のみならず、学外の複数の図書館の本をすべて読んでやろうという壮大な計画に発展。

高校時代には、始まったばかりの旺文社の大学入試模擬試験で全国1番に。進路指導の先生からは東大の文Ⅰ(法学・経済)を進められるが、そんなものに興味はないと、文Ⅱ(文学・教育)を選択し呆れられる。

東大入学後、マルクスの基本的文献、フォイエルバッハ、レーニンなどを読みまくり、ロシアの思想家ベルジャーエフに感化されて読破。専攻は仏文。20世紀の文学のみならず、興味関心の赴くまま、手当たり次第に本を読みあさる。

卒業後は、文藝春秋に入社(先輩に蒟蒻問答でおなじみの堤堯氏がいて、アゴで使われたらしい)したものの、<忙しすぎて読みたい本もろくに読めない。このままいくと、自分がどんどんバカになる>と、2年半で依願退職。

すぐに東大の哲学科に学士入学。ここで<ギリシャ語でプラトンを読み、ラテン語でトマス・アクィナスを読み、フランス語でベルクソンを読み、ドイツ語でヴィトゲンシュタインを読んだ。おまけに学科外の授業で、ヘブライ語の旧約聖書購読、漢文の『荘子集解内篇補正』講義もとっていた。そればかりか、アラビア語とペルシャ語とサンスクリットの授業もとっていた。>が、そんな知性も、東大紛争の激化や、経済的困窮には打ち勝てず、生活のために、なし崩し的に物書き稼業に。

そして昭和49年『文藝春秋』誌で発表した「田中角栄研究 その金脈と人脈」で、その名を知られることとなる。昭和50年には、やはり同誌で「日本共産党の研究」の連載が始まる。余談だが、この時の担当デスクは、若き日の花田紀凱編集長。そして筆者は学生アルバイトでこの取材チームに参加。まじかに立花さんの仕事ぶりを目撃することになった。机の上に大量の本を積み上げ、それを次々に読んでいく。そのスピードには驚嘆させられた。

目撃したのは仕事だけではない。

<いろんなバクチをやったんです。机の上で十円玉をポーンとはじいて、向こうの端っこ、落ちるギリギリのところで止まったら勝ち、というバクチね。それから、ウノというカードゲームにドボンというゲームを組み合わせて、僕が新開発したウノドボン(笑)。これで結構、小遣いを稼いだ奴もいた>。

 学生の分際で筆者もこのゲームに参加。結構稼がせていただいた記憶がある。

 実は後年、この取材チームには共産党のスパイが潜り込んでいたことが発覚(本人の告白による)。しかし、そのスパイ君も結構熱くなってこのウノドボンに参加していたのだから、。牧歌的な時代だったのだ。

余談だが、このバイトの際に、夜食が出た。高級な鰻重だった。それまで鰻重などというものを見たことも食べたこともなかったのでひどく感激。よーし、この会社に就職しようと決断するきっかけになった。

さて、その後立花さんは、宇宙、サル学、脳死、生命科学、言論の自由、がんなど常人にはできぬ幅と奥行きの仕事を精力的にこなしてきた。その様子が、新書という体裁にもかかわらず、実に簡潔に要領よく、かつ面白くまとめられている。                

 その立花さんも、今年で80歳。最後に書きたい本は、『立原道造』と『形而上学』の2冊だという。

<書き終わる前に寿命が尽きてしまうかもしれません。結局、人間というのは、いろんな仕事をやりかけのまま死ぬのだろうし、僕もおそらくはそういう運命を辿るんでしょう。>「知の巨人」も老いの前には無力と知らされ、なんだか淋しい。

 

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2020年4月 月刊「hanada」に寄稿したものです

 

 

 

 

 

 

 

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