日記・コラム・つぶやき

2019年1月30日 (水)

勝谷誠彦の早すぎる死を悼む

1982年初夏

 当時私は三〇歳で、月刊「文藝春秋」編集部に在籍し、毎日、編集部に大量に送られてくる郵便物に目を通す役目を負っていた。その中にブレーメンファイブと名乗る編集プロダクションからの封書があり、「仕事がしたい。一度会って話を聞いてほしい」と告げていた。今も昔もそうだが、会いたいという人には必ず会うことにしていた。

 約束の日にやってきたのは、ちょっと小太りの青年で、まったく似合っていないティアドロップのサングラスをかけ、大きな黒い鞄を下げていた。文藝春秋本社の一階にあるサロンに案内すると、青年は三尋狂人と名乗り、早稲田の学生だが編集プロダクションを主宰していること、様々な記事を企画、執筆していることを告げた。「で、いったいどんな記事をご執筆なさっているんですか?」と尋ねると、青年は、一瞬困ったような表情を浮かべたのち、意を決したように、大きな鞄から雑誌を取り出した。エロ本だった。人目をはばかるその雑誌のページを広げ、この記事がそうだと指さした。

私は、これは困ったことになったぞ、と思った。私の困惑の表情を読み取ったのか、「いや、他にもこんな記事がある」「あんな記事がある」と次々と手がけた雑誌をテーブルの上に積み上げたが、ぜーんぶエロ本だった。私は困惑した。サロンの女性や、他の来客に目撃されたくない。他人の視線をさえぎろうと体を雑誌の上にかぶせるようにしながら「三尋さん、『文藝春秋』にはこの手の記事は載せられないんですよ……」

青年の顔は汗ばんで、大きなサングラスが決して起伏が豊かとはいいがたい顔面から滑り落ちそうなり、その度に指で持ち上げた。「そ、そうですか」。青年はテーブルに積み上げたエロ本を鞄にしまうと、あたふたと立ち去って行った。

それが勝谷誠彦との初めての出会いだった。

 

1985年春

 6月に創刊される新雑誌「エンマ」編集部に異動となった。編集部に行くと新入社員も配属されていたが、そこに勝谷誠彦がいた。

「あれー、お前はエロ本を積み上げた……」。勝谷は「それだけは言うてくださるな」というように両手でなだめるようなしぐさをし、入社の経緯を説明し始めた。初めて文春のサロンに入ったときにすぐに場違いな会社に来たことを悟った。汗を拭きながら、こけつまろびつ文春の玄関を出た後に、卒業したらこの会社に入ろうと決意したのだという。

 雑誌が創刊になると当然ながら、新人らしからぬ活躍を見せるようになった。なにしろ一緒に歌舞伎町を歩くと風俗店の呼び込みが挨拶してくるほどの斯界への食い込み具合だったので、出す企画出す企画その手のものが圧倒的に多かったのである。とはいえ、文章力は新人離れしていた。このころだったと思うが、勝谷が学生時代に書いたという小説を読まされた。「帝都には雪が降っていた」(というような)書き出しの美文の小説で、ああ、勝谷は繊細な感受性の持ち主なのだなあ、と認識を新たにした記憶がある。

 勝谷は毎日飛び回っていたが、8月には、たまたま新幹線を利用したがために日航機墜落の難を逃れて九死に一生を得、11月には阪神優勝のテレビ中継を見ながら嗚咽していた。   

勝谷が書いている。

〈編集部の、テレビがある別室にほぼスタッフ全員が顔をそろえた。ヤクルト・角のピッチャーゴロをつかんだ中西が、一塁へ送球する。ガッチリとつかむ渡真利。やった! 阪神優勝だ。宙を舞う吉田監督の姿が不覚にもみるみるにじんでいく。

「あっ、勝谷、泣いてら」

 巨人ファン西川氏のあざけりの言葉もものかは、あとは涙、涙……。思えば尼崎市立七松小学校4年生の時、がき大将怖さに野球のルールも知らぬまま阪神ファンになって以来、苦節20年。先号の阪神特集ではライト・スタンドで撮影中に同志ファンにボコボコに殴られながらも守り通した男の操。今こそ天も泣け地も吠えよ。その夜はひとり飲み明かしつつ、次の21年間の新たな被虐への期待に心ときめいた。〉

 翌年の正月には岸和田に住む弟を借り出してクルマの運転をさせ、清原和博の墓参同行取材をこなしたりしている。

編集者の仕事は楽しかったに違いない。

 

1986年夏

「エンマ」の表紙担当だった私は、次回の撮影に勝谷を連れていくことにした。

「勝谷、次の表紙はアイドルの森尾由美ちゃんだ。撮影は三好和義。撮影場所は群馬県の法師温泉にある老舗旅館に決めた」

「三好さんて、あの楽園の三好さんが温泉で女の子を撮るんですか?」

「そう」

「なんで温泉なんですか?」

「なんでって、森尾由美ちゃんが温泉につかっているところをお前は見たくないのか?」

 かくして撮影スタッフは一路法師温泉へ。

撮影当日。人気のない温泉場で、三好カメラマンとアシスタントは準備よろしく海パン一丁となり、森尾由美ちゃんは肌色の水着を着用、私と勝谷は素っ裸になり、腰に大きなバスタオルを巻いた。三好カメラマンは大きな三脚をセットし、ヘアメイクの女性は由美ちゃんにナチュラルメイクを施す。私と勝谷は撮影場所を決め、レフ板の準備に怠りない。

撮影が始まる。私は「由美ちゃん、もっと肩を出して」とか、「タオルを右手で持って」とか、あれこれ指示を出しながら温泉場を駆け巡っていた。

そうこうするうちに、腰に巻いた大きなバスタオルはお湯を含み、とてつもなく重くなってきた。まずいぞ、これはと思った瞬間、ポタリと下に落ちてしまったのである。

「!」三好カメラマンも森尾由美ちゃんもヘアメイクやマネジャーの女性も一瞬息を飲んだ、ような気がした。しかしもはやどうすることもできない。バスタオルは重くなって腰に巻くことなどとてもできない。ええい、ままよ。ここは温泉場だ。裸でもいいじゃないかと開き直り、以後素っ裸で仕事をすることにした。

「勝谷、お前もバスタオルを取れ」

「え、取るんですか」

「取れ取れ。おれだけ裸っていうのはおかしいだろう」

 それから小一時間、私と勝谷は素っ裸で森尾由美ちゃんの目前を右往左往することとなった。

 

1991年1月

多国籍軍によるイラク空爆によって湾岸戦争が勃発した。その時、私は「週刊文春」のグラビア班デスクでここでも勝谷が部下だった。勝谷はカメラマンの宮嶋茂樹と湾岸戦争取材に行きたいと強く主張した。

「そんなこと言うけど、勝谷、お前、英語喋れるのか?」

「……」

 灘高校は出てるけど、英語はからきしダメなようだ、というのが編集部における勝谷の風評だった。が、その鼻息に押し切られ、結局、ゴーサインを出すこととなった。この時、宮嶋は単行本一冊分くらいの分厚い遺書を私に手渡して「何かあったら親に渡してください」と神妙な顔をしていたのが思い出される

 二人は中東の地に降り立ったものの、案の定、イラク国内に入ることもできず、おまけにアラビア語は読めないし英語も不自由なせいで、戦況そのものさえ十分に把握できなくなっていた。仕方がないので私は毎日毎日、日本の新聞をコピーし、FAXで送っていた。

「なんか違うくない?」と思いながら。

 そんなある日、宮嶋から国際電話が入った。

ヨルダンの首都アンマンからだった。宮嶋の声が妙に暗い。聞けば、戦場に入ることができずにいらだった勝谷は小舟をチャーターして海を渡りサウジアラビアに入る画策をしているというのである。サウジからなんとか国境を突破してイラクに入るのだと言ってきかないらしい。「でも、海には機雷がプカプカしてるんですわ」。明らかに宮嶋は腰が引けていた。言外に何とか勝谷を思いとどまらせてほしいという空気が漂っている。しかしこのまま何の成果もなくおめおめと帰国するのは二人のプライドが許すまい。そこで私は考えた。

この時のやり取りを勝谷は「週刊文春」のグラビアの記事に軽妙にまとめている。

〈電話が特徴的な音を発した。地上戦開始直後のヨルダンの首都・アンマン。深夜二時。前線入りを阻まれていた私たちは、ヨルダンからイラク国境を突破して入るという方針を決めたばかりだった。ルート工作も車の手配も終えた。イラク国内で逮捕されれば、過酷な運命が待っていることは間違いない。しかし、私たちはその可能性に掛け、東京に意見具申した。この電話はそれへの回答に違いない。

「もしもーし、東京のニシカワですがあ、あのねえ、イラクへ入るっていうの、あれ危ないからやめよ。それよりね、そっちにいいオンナいるでしょ。え? ナニって、オンナよオンナ。湾岸美女図鑑っていけると思わん?」

 従順な前線兵士として、私たちは命令に従った。しかし、それはバグダッドへ向かうよりはるかに厳しい道だった。ロイターやAPの端末が吐き出すニュースに真剣に見入る世界中のジャーナリストたち。情報省の役人には次々と真摯な取材のアレンジ申し込みが寄せられる。回りに他のマスコミがいない時を見計らって、私たちはおずおずと切り出した。「あのお、モデルさんとか、女優さんとか紹介してくれへんやろか?」役人はしばらく意図をはかりかねるようにこちらの顔を注視する。町中で女性の姿をとることさえ難しい、イスラムの国だ。役人は鼻下の髭を震わせて怒鳴った。

「とっとと失せろ! 前線でお前たちを見かけたらぶち殺してやる」

 かくして湾岸諸国を股にかけた美女探索の苦難の道は始まった。〉(9144日号「祝停戦 原色美女図鑑 湾岸スペシャル」)

 人をおちょくる文章を書かせると勝谷は天下一品だった。

 

 勝谷のことを語るに、宮嶋茂樹カメラマンとの名コンビについて触れないわけにはいかない。宮嶋はなぜか自衛隊が大好物で数々の「自衛隊物」をものしたが、「週刊文春」誌上で大々的に自衛隊を取り上げたのは916月の「ペルシャ湾をゆく自衛隊掃海艇同乗記 機雷モ見エズ雲モナク」だった。宮嶋は取材から帰国するや厚さ2センチほどの原稿を自ら書き上げ写真とともにデスクの机のうえに置いた。あまりの分量の多さに編集者たちはみんな担当になることを尻り込みしたが、ひとり勝谷だけは喜んでリライトを引き受けた。勝谷は大いに楽しみながら原稿を書いている。こんな具合である。

〈機雷も見えず雲もなく、何も起こらず波立たず。鏡のごときペルシャ湾、今日もゆくゆく自衛艦。賛否の海を乗り越えて、はるばる来けり三千里。機雷の一つも始末せにゃ、どんな顔して帰らりょか。夜明けに早くも三十度、昼の灼熱四十度。冷房もなき掃海艇、こんな苦労をだれが知る。お国のマスコミ乗せてみりゃ、妙なアングル撮りまくる。国へ帰るは三月のち、その評判が気にかかる。天に入られぬ亡霊か、地に住みかねる鬼っ子か。声を絞りて我は問う、「まだかわらずや憲法は」〉

この調子でまだまだ続くのだが、それはよく読むと、自衛隊を賛美しているのかおちょくっているのかよく分からない微妙な記事で、掲載誌が世に出ると、自衛隊と悶着が起きた。

が、そんなことにめげる勝谷・宮嶋コンビではなかった。

「PKOカンボジア海上輸送部隊 17日間完全密着同行取材! 絶望の船酔い日記」(921029日号)

「カンボジアの掘立小屋で19日 宮嶋カメラマンPKOムカデ戦記」(93128日号)

「モザンビークPKO同行底抜け脱線レポート 不肖宮嶋のカメレオン戦記」(94210日号)

 やはり毎回、自衛隊とはなんらかの悶着が起きたが、勝谷は楽しそうだった。

宮嶋カメラマンに「不肖宮嶋」の名を冠したのも勝谷だった。初出は93年の「ムカデ戦記」だが、その時私は宮嶋カメラマンのマスコットネームを前谷惟光の「ロボット三等兵」にならって「宮嶋三等兵」にしようとしていたらしい。そこに勝谷が割って入って、「いや、不肖宮嶋がいい」と主張、勝谷誠彦こそ、いまでは多くの人が知っている「不肖宮嶋」の生みの親なのである。

 

1996年2月

 1985年に文藝春秋に入社後、勝谷は「エンマ」「文藝春秋」「週刊文春」「マルコポーロ」「文春文庫部」と異動を重ね、96年2月に依願退職した。

在職中は上司・花田紀凱にその異才を認められ、大いにかわいがられたものだったが、その花田が「マルコポーロ事件」の責任を取るようにして96年に退社すると、まるでそのあとを追うように勝谷も退職した。つまらなかったのだろう。

その後の勝谷の活躍は世間の人が知るとおりである。勝谷の書くエッセイを雑誌で見かけたときなど、ああ元気でやっているのだなと遠くから眺めていた。ときどきテレビで目にする勝谷は、目を三角にし、まるで今にも相手に噛みつきそうな様子で何事かを激しく主張していた。私が知っている、温顔でふっくらした勝谷はもはやそこにはいなかった。繊細で傷つきやすい精神をまるでガードするように強固な鎧をまとっているようにさえ見えた。

 問わず語りに勝谷が聞かせてくれた身の上話を思い出すと、すこし笑いそうになる。

「子供のころ、母親に強いられてクラシックバレエを習いにいっていた」

「灘高では、授業についていけなくなって、授業中校庭で遊んでいるように言われた」

「大学進学の際、担任に青山学院大学文学部に行きたいといったら、頼むからやめてくれと止められた」

「どうしても医学部に行きたくて、ある医学部は作文だけだというので、作文なら自信があったので受けに行った。しかし、設問を見ると長たらしい化学式が記されていて、これについて記せ、というもの。結局一行も書けず、終了のベルが鳴るまで地獄のような苦しみだった」

 勝谷はこんな話を面白おかしく聞かせてくれる部下だった。

 

2018年1129

 その日は、すでに初冬だというのにコートも必要ないくらいに温かい陽気だった。尼崎の葬祭場の前庭に止まった霊柩車に勝谷の棺が運ばれていく。近所の住民と思しき人たちも何人か路上で勝谷を見送ろうとたたずんでいる。

関西では勝谷は有名人だった。尼崎駅前の喫茶店に入っても、タクシーに乗っても、「勝谷さんのお葬式ですか」と尋ねられた。

8月に勝谷が劇症肝炎で病院に担ぎ込まれたという報を目にして驚いた。文藝春秋にいた頃は、そんなに酒を飲んでいる印象はなかった。しかし、6月にあるパーティで会った時には確かに勝谷は呂律がまわっていない感じだったのだ。あとから知らされたことだが、四六時中酒を飲み続けていたという。病院では集中治療室に入れられ、生死が危ぶまれる状態だとも聞かされた。

 しかし闘病の後、奇跡的な生還をとげ、9月に文春時代の同僚だった柳澤健が安否を気遣うメールを送るとこんな返事が返ってきた。

〈一滴も酒はこれから呑まないので(しかも、黙ってそうする)、何かうまいものでも食べに行きましょう。最初は今日明日で、と別れた妻や海外に出発する直前の娘まで枕頭に呼ばれたのに、なぜか生き延びました。

 ガン、静脈瘤、肝硬変と「あるはずのものがない」ごとに医師たちが「おかしいなあ」と首をひねっているのがおかしくて。

 何を食いにいきましょうか。西川さんと花田さん、誘うと楽しそうだな。〉

 

 しかし勝谷はその後病院を転々とし、ついに好転することはなかった。病院のベッドの下からウイスキーの瓶が何本も出てきたと聞かされた時には言葉を失った。

若き日に作家を目指した、繊細な感受性を持った男は、アルコールの力を借りなければ生き馬の目を抜くメディアの世界で正気を保っていられなかったのだろうか。

 

霊柩車が長くクラクションを鳴らし、勝谷が幼少期を過ごした尼崎の街に響き渡る。車が静かに動き出した。隣には花田さんと柳澤が立って勝谷を見送っている。すこし離れた柱の陰にいる不肖宮嶋を見ると顔歪めて嗚咽している――。

 

勝谷――、花田さんや柳澤と、そうだ、宮嶋も誘ってみんなで一緒に飯を食いに行きたかったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月18日 (日)

尾崎豊 没後20年

   

    数日前の午前中、クルマの中でラジオを聴いていたら、尾崎豊を育てた須藤晃さんというプロデューサーが登場して、尾崎の素顔についてエピソードを語っていた。
 
    今年は、尾崎豊没後20年にあたるのだそうだ。もうそんなになるのかと思った。尾崎豊は1992年4月25日、26歳で亡くなった。その日の早朝、足立区の千住河原町の民家の軒先に全裸で倒れているところを発見されたのである。

    その死後に知ったことであるけれど、私は、尾崎と同じマンションに住んでいた。だから、その数日間、マンションが妙に騒がしかったことを覚えている。

    彼の死の翌日だったか、10歳になる息子と長い長い散歩に出かけた。「尾崎が死んじゃったんだねえ」と語りかけながら、ふたりで延々、歩いた。千住宮本町から三ノ輪を通り、浅草まで出かけて、白鬚橋経由で千住曙橋まで帰った。とても天気のいい日だったように思う。

    ラジオから尾崎の歌が流れ出した。10代の青年が紡ぎだした息苦しいほど切ない曲である。聴きながら、尾崎は天才だったんだなあ、とあらためて思った。60歳を過ぎてしまった私でさえ、まだ、彼の歌を聴いていると心が震えて涙ぐみそうになる。いい年をしたオッサンが、10代の青年の魂の叫びに共感してしまっているのである。

    進むことも退くこともできず、もがき苦しむことしかできない心情が叩きつけられるようにメロディに刻み込まれている。この切なさはいったいなんなのかと思う。あの時代の息苦しさだったのか。それとも、誰の思春期にも舞い降りる厄病のようなものなのか。

    これほどにダークで苛烈な心情を乗せた商業的CDは、尾崎の死後まだ出ていない。そのようなアーティストも出現しなければ、そのようにきわどい、綱渡りのようなプロデュースを許容する土壌もレコード会社からは消え去ってしまったのだろう。

    尾崎豊の前に尾崎豊はなく、その後にも、残念ながらなにもない。

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2012年9月27日 (木)

難しい言葉

   日常的によく使っている言葉でも、あらためて尋ねられると、いったいなんのことやらさっぱり分からない、というものがある。 

   昨日の夜、たまたまそんな話になって、例に出たのが以下の言葉。

 ●タカをくくる。

 ●タガがはずれる。

 ●ウダツが上がらない。

 ●シノギを削る。

     さあ、タカ、タガ、ウダツ、シノギとは何か、すらすら答えられますか? 意味は分かっているけれど、その中の単語の意味を聞かれると答えられません。

 解説

 ●タカ  「高」の意味で、「生産高」や「残高」など物の数量や金額を見積もった際の合計額のこと。「くくる」は「括る」で、ざっくりまとめること。そこから、安易に予測したり、大したことはないだろうと侮ることを「タカをくくる」というそうな。(語源由来辞典より)

 ●タガ  今はもう木でできた桶や樽を見かけることがほとんどないけれど、桶や樽の木がばらんばらんにならないように、腹巻のように締め付けているのがタガ(箍)ですね。なので、抑制がなくなって手の着けようがなくなることをいうんでしょうね。

 ●ウダツ  これは「語源由来辞典」を読んでももうひとつ分かりにくい。屋根を支えるための横木「梁」と、屋根の骨組みの一番高いところに使う「棟木」のの間に立てる柱を「うだつ」という説。もうひとつは堀井戸など周囲を石で積み上げるとき、一番下の土台として組む枠を「うだつ」という説。で、意味は出世したり、地位が上がったりしない、金銭に恵まれない、という意味。分かりにくいなあ。

 ●シノギ 「鎬」と書く。刀の刃と峯(背中の部分)の間の部分をさす。ここがギリギリと削りあうような、激しい争いの様を「シノギを削る」というらしい。(語源由来辞典より)

     難しいね。

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2012年4月 9日 (月)

起きてしまったことは

  起きてしまったことは、ただそれが既に起きてしまったという理由だけで、受け入れるしかない。

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2012年3月24日 (土)

「方丈記」と「ミレニアム」と、松本大洋「Sunny」

 
    前回の話の続き。

  堀田善衛の「方丈記私記」(ちくま文庫)を読んで思ったよしなしことを書き綴ったが、書き漏らしたことがある。この本を読みながら、ふと「鴨長明は同性愛者だったのではなかろうか」と思ったのである。

  もちろん学術的な裏付けがあるわけではない。直観である。長明は生涯独身であり、子供もいない。隠棲したのちの話し相手は10歳ほどの少年だけである、とも書いている。世に受け入れられがたい同性愛者の孤独な独白として「方丈記」を読むと、妙に納得できる部分があるのである。

   たとえば、

<世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。>(P67)
 という文章も、異性愛者としてふるまうことのできぬ苦衷を吐露したものとして読むとすんなり腑に落ちはしないだろうか。

 もっとも、中世日本で、同性愛者がいかほど肩身が狭かったか、あるいはそうでもなかったかは私の知識の範囲外なので、単なる妄想でしかないかもしれない。

 面白いのは、文庫の巻末で堀田氏と五木寛之氏が「方丈記」をめぐって対談を行っているのだが、その中で、五木氏も、「一概にホモといわれる人、そういう体質の匂いが鴨長明にはありますね」と語っている。だからどうした、というわけではないのだが、「方丈記」を通読すると、この本は<世に背を向けた、完全なる隠棲者の省察>というようなものでは全くなくて、俗世への未練たらたら、不遇をかこつしかない知識人の、世界に向けての、屈折したラブレターではないのか、という気がする。

 さらに面白いのは、五木氏は、1980年に行われたこの対談の最後に、「長明が書かなかった部分を大量に、何万枚とかいうふうに書いてみたいという気も、ないではありません」と述べている。今から32年前の発言である。その素志が「親鸞」や古寺ものの書物にまとめ上げられた様をみると、物書きの業というものも、考えないわけにはいかない。

 このような古臭い本を読みつつ、同時に読んでいたのがスティーグ・ラーソンの「ミレニアム 1 ドラゴン・タトゥーの女」(早川書房)。この本を読んだ周りの人々が、「もう読んだか? めちゃくちゃ面白いぞ」とけしかけてくるものだからつい手にしてしまったのが運のつき。確かに面白い。文字通り、巻を措くこと能わず、である。

 さて、このミステリーについてはみんなが色んなことを既に書いているが、私が興味を持ったのは、4部に分かれたこの大部な小説の各部の頭に、さりげなく置かれた4つの文章である。引用する。

<スウェーデンでは女性の18パーセントが男に脅迫された経験を持つ。>(第一部)

<スウェーデンでは女性の46パーセントが男性に暴力をふるわれた経験を持つ。>(第二部)

<スウェーデンでは女性の13パーセントが、性的パートナー以外の人物から深刻な性的暴行を受けた経験を有する。>(第三部)

<スウェーデンでは、性的暴行を受けた女性のうち92%が、警察に届けを出していない。>(第四部)

 要約すれば、スウェーデンでは、多くの女性が男性から脅迫を受け、暴力や性的暴行を受け、泣き寝入りしている、ということになる。これがこのミステリーの核心である。その具体的事例が小説のあちらこちらにちりばめられている。下巻のP406に、
<「女を憎む男がここにもひとり」と彼女はつぶやいた。>
 という一文がある通り、この小説のテーマは「女は常に男から憎悪される」になるだろう。

 そう書いて、あれ、このフレーズはどこかで読んだことがあるぞ、と思いたって調べたら、それは、内田樹氏の本、「映画の構造分析」(文春文庫)に収められた「アメリカン・ミソジニー」と題された論考でだった。

 ミソジニー (Misogyny) とは女性や女らしさに対する蔑視や偏見、憎しみを指す語で、ギリシア語のmisos(憎しみ)+gyne(女性)に由来するという。大昔から、男性は女性を憎んできたということなのか。

 さて、内田氏はその論考をこう書き出している。

<アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。
 私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。>(P207)

 そして、映画の話になる。

<・・・ハリウッド映画がその全史を通じて強烈な女性嫌悪にドライブされていることについては深い確信を有している。これほど激しく女性を嫌い、呪い、その排除と死を願っている性文化を私は他に知らない。
 私が最初にアメリカ映画の女性嫌悪に気づいたのはマイケル・ダグラスによってである。・・・・これまで映画の中でマイケル・ダグラスが「殺した」のは、グレン・クローズ(『危険な情事』)、キャサリン・ターナー(『ローズ家の戦争』)、シャロン・ストーン(『氷の微笑』)、デミ・ムーア(『ディスクロージャー』)、グウィネス・パルトロウ(『ダイヤルM』)などなど錚々たる顔ぶれである。>

   次に、女性嫌悪ストーリーに潜む説話原型を描きだし、なぜ、そのような説話原型がアメリカで好まれるようになったのかという、歴史的考察を加えている。その一方で、アメリカのフェミニストたちは、「アメリカの男はなぜ、これほどまで病的に女が嫌いなのだろう?」という問いをどうして発しないのか? それが理解できぬ、と書く。なぜ、女性嫌悪の現象のリストを長々とあげつらうだけで、その背景を考察しないのか、と。

   フェミニストのひとり、フェッタリーがアメリカにおける女性嫌悪の起源を「西欧文化全体」に「先送り」する手つきを見て、これは<現代アメリカ人固有の思考上の「奇習」である>とまでこき下ろして見せるのである。

   そこまで読んできて、はたと考え込んでしまった。「女性を憎悪するのは西欧文化に特有の疾病なのだろうか」と。女性を憎悪しているのは、ひとり西欧文化だけではない。確かにハリウッド映画にはその傾向が赤裸々に露呈してしまっているかも知れないが、我々、東洋の島国に生きる男性にも、ミソロジーな心性は息づいているのではないか、と。

    そう書くと、そんなことはない、私は女性を敬い、愛していると宣言する男性が必ず出てくるだろう。しかし、ちょっと待ってほしい。その男性にこう問うてみたい。男性という生き物であるあなたは、本当に、その心と体の最深奥部を直視し終えたのか、と。覗き込んだ先に見えるのは、本当に「愛」と「崇敬」だけなのかと。

   さて、ここから、とんでもない「奇想」を展開する。

    愛憎ふたすじという言葉があるごとく、敬愛と憎悪はコインの裏表のようにぴったりとくっついている。過剰に深く強い愛は、ほとんど憎悪と同義語である。激しい憎悪は、ついに満たされることのなかった愛によって裏打ちされ、駆動される。

    我々男性は、あるときは、女性を強く激しく求める。憧憬し、羨望し、嫉妬し、同化できぬものかと身をよじる。またあるときは、八つ裂きにしてしまいたいと思うほどに、制御できぬほどに憎悪し、この世から抹殺してしまいたいと残酷に欲望する。

    この極端な振幅は、同じ情動を、裏と表から見た違いにしか過ぎない。

    なぜ、そのように奇怪な情動が、「男性」に芽生えてしまうのか。それは、「男性」は「人間」として極めて劣性な生き物だからである。生物学的に言えば、男性は女性のできそこない、である。そのことはかなり以前に、ブログに書いた。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-5be6.html

    人間はまず、全員が胎内では女性である。そのまま育てば、全員が女性としてこの世に誕生することなるのだが、ある割合で、男性への変更を迫られる。生物としてはかなり奇矯な、無理矢理な、つらい変更である。だからこそ、男性には女性の名残として、不要な乳首が残り、クリトリスの名残としてのペニスが残り、陰嚢の裏には、かつては女性器であったものが無理矢理嚢状に改変を強いられた閉線が残る。

    端的に言って、男性は「劣性人間」である。だからこそ、寿命も女性より短い。地球上、どの民族をとっても、男性の方が女性より早死にする。「できそこない」だから無理ないのである。人間として、正調なのは、女性である。「優性人間」と言い換えてもいい。

    我々は教育によって、人類には女性と男性という両性が存在すると教えられている。ふたつの性が、完全なる対となって、等価値的に存在していると理解している。しかし、それは本当だろうか。人類には「女性」という正しい人類と、どういうわけか、そこから派生的に生まれた「男性」と呼ばれる不完全な人類の二種類が存在するばかりである、としたらどうだろうか。

    ミソロジーとは、「不完全な人類」である「男性」の、「完全な人類」である「女性」に対する、無意識化での憧憬である。嫉妬である。ああ、あのように完全な生物になりたい、という絶望的な渇望である。そしてそれがついに果たせぬことを知ったときに生じる嫌悪と憎悪である。それは、男性をして、ある時は、愛の化身のようにふるまわさせ、またある時は暴虐の狂人としてふるまわさせるのである。

    男性は、この両極の間で、股裂きに合うようにして生きている生き物なのである。

    ミソロジーは西欧にのみ存在するものではない。男性が男性である限り、拭い去りがたく、その深奥に潜み続けるものなのだ。

    とまあ、バカなことを考えながら、疲れるてくると、松本大洋のマンガ「Sunny」(小学館)の第2巻を読む。読んでいると、記憶の奥底にある、ほとんど霞がかかったような子供時代のことがいろいろと思い出されてくる。そして、泣けてくる。特に何か悲しいことが描かれているわけではない。しかし、悲しくなってくるのである。

    各話の最後の2,3ページのコマ割りは天才的なものを感じる。リリシズムというものの力を強く、感じる。漫画の世界でそれが喚起されるということはめったにないが、松本大洋の漫画には、それがある。

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2012年3月17日 (土)

保育園児からイニシャル・アプレ・クーまで

 
    朝、家を出て最寄の駅まで歩く間に、かならずといっていいほど、2,3歳の子供たちの一群に出会う。保育園の子供20人ほどを、4,5人の若い女性保育士たちが手をひいたり、乳母車(?)様の手押し車に乗せたりしてどこかに出かけるのだ。
 
    もうかれこれ10年以上、この光景を目にしている。その日まで、そんなことは考えもしなかったのだが、なぜか、その日突然、妙なアイデアが浮かんだ。
 
    10年以上の間、自分は、その子供たちを、ああ、いつもの子供たちだなあ、と思いながら見送っていたのだが、よくよく考えてみれば、10年前にすれ違った子供は、多分、もう中学生くらいになっている。毎年毎年新しい子供たちが保育園にやってきて、古い子供たちは卒園し、常に交替しているのだという、実に当たり前の考えだった。次に思ったことは、子供たちだけではない、ということだった。
 
    若い保育士たちも、次々と代替わりしているだろうし(だからいつも若い女性が子供の手を引いているわけだ)、それだけではなく、犬の散歩をしている老人も、薬局から脚を引きずりながら出てくる老人も、10年前の老人達ではないのだということだった。
 
    10年前にすれ違った老人の何人かはすでに亡くなっただろう。10年前には矍鑠としていた初老の男女が、今は杖をついてゆっくり歩いている。そのとき、頭に落ちてきたアイデアは、つまり、こういうことだった。
 
    自分の目の前に広がる世界は、日々、何の変化もないように見える。今日目にする子供も青年も、老人も、昨日の子供であり、青年であり、老人であるように思い込んでいる。しかし、それは事実ではない。世界は、「定常的」に見えるけれど、実は「日々更新されている」のだという理解が舞い降りてきた。ミクロに見ると常に変化しているのに、マクロに見ると常に安定的、無変化的に見えている、という感覚である。
 
    次に思ったことは、福岡伸一氏の著書「動的平衡」(木楽舎)に書かれた「動的平衡」という考え方にどことなく似ているな、ということだった。

    福岡氏がこの本で展開したのは、19世紀末、ドイツに生まれた生化学者、ルドルフ・シェーンハイマーが提唱した「生命とは動的平衡にある流れである」という考え方である。脳や心臓の細胞は新陳代謝しないと言われるが、原子レベルで見ると、その細胞を構成する原子は常に入れ替わっている、という事実をシェーンハイマーは実験によって示した。「平衡」に見えるけれどその内実は極めて「動的」である、という指摘である。

    それを受けて福岡氏は、「従来の生命の定義に欠けているのは、<時間>であり、生物には必ず、不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたまれたら二度と解くことのできないものとして存在している」と述べている。

    そんなことをあれこれ考えながら、四ッ谷駅で電車を降りて、新宿通りを会社に向かって歩いていると、「動的平衡」なのは、何も生物に限ったことではない。目の前のこの街並みそのものも、充分に「動的」ではないか。しかも、千代田区の街並みとして、いつも「平衡的」ですらある、という思いが頭に訪れた。

    そう思ったのは、新宿通りに沿って左右に新しいビルがいくつも建設されていて、はて、このビルが建つ前に、ここにはどんなビルや店があったんだろう、と思い返してみたものの、もはやちっとも思い出せない自分に気づいたからである。街並みの部分部分は常に不可逆的に変化している。しかし総体としての街並みは、常に平衡的であると、思ったのである。

    と、ここまで考えて、そういえば、鴨長明という人が「方丈記」で述べていたのはこのことではなかったのかと、はたと思い至った。そんな思いに捕らわれたのは他でもない、堀田善衛の「方丈記私記」を電車の中で読んでいたからである。

「方丈記」といえば、教科書にも出てくるこの一文が有名である。

<ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし>
 
    もちろん、鴨さんは河の話が書きたかったわけではない。これに続けてこう書いている。

<世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。>
 
    通勤途上で出会う保育園の子供や、新宿通り沿いの建物は、河の流れのように変転していく、と言っているのであり、鴨さんもまた、世界の「動的平衡」に嘆息ついているように思えるのである。「方丈記」の文章はこのあと、次のように続く。長くなるけれど引いてみる。

<たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争える、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしえ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける。不知、生れ死る人、何方より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはゞあさがおの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといえども夕を待つ事なし。
 
    予(われ)、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれるあいだに、世の不思議を見る事、やゝたびたびになりぬ。>

「方丈記」のこの文章は、人の世の無常を嘆いたものである、としばしば言われるが、こうして全文を読んでみると、そんな簡単な、分りやすい話ではないのではないか、という気がする。特に、<予(われ)、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれるあいだに、世の不思議を見る事、やゝたびたびになりぬ。>を目にすると、鴨さんは、「世の無常」ではなく、むしろ、そのようにしてしかありえぬ「世の不思議」を書きたかったのではなかろうか、と思う。
 
    堀田善衛も<ここにある無常感は、決してただひたすらに、人間あわれあわれといったものではない。>(P116「方丈記私記」ちくま文庫)と記している。
 
    さて、先の「方丈記」一文の中に「不知、生れ死る人、何方より来たりて、何方へか去る。」というものがある。これを読むたびに私は、こんなイメージを思い浮かべる。
 
    保育園の園児たちは乳母車のようなものに乗っている、と書いた。今、私の目の前を通り過ぎるこの園児A君が占めている、乳母車のその空間は、しばらく前に別の園児B君が占めていた空間であった。そして来年、その空間は、園児C君によって占められることになるだろう。

   園児だけではない。老人Aが占めている、この世の空間はかつて老人Bの空間であったし、近い将来老人Cの空間に取って代わられるだろうという気づきである。
 
    そしてもう一歩話を進めればこうなる。今、私が占めているこの場所、この空間は、かつて私以外の多くの先人たちに占められていたものであり、それを引き継いで自分が束の間お借りしているにすぎない。そして当然のことのようにして、近い将来、この場所、この空間は私ではない、私に似た誰かに確実に引き継ぐことになる、という「世の不思議」に思い至る。
 
    実はそうであるのは、空間だけでない。水も空気も同様である。原子レベルで考えれば、水素や酸素がもしひとつひとつ履歴書を持っていたら、今私の血管の中を流れる血液の水分は、かつて誰か(恐ろしいほど複数の)の血液の水分を担ってきた水分であることが分るだろう。
 
    というようなことを考えていたときに、内田樹と中沢新一の対談本「日本の文脈」でこんな発言に出会った。無闇に併読していると、アイデアが、トランスフォーマーみたいにガチャガチャと組み合わさる瞬間があるということを言いたくてこの文章を書き始めたのだったが、やっとそろそろ終わりに差し掛かってきた。

   内田氏の発言はこのようなものだった。

<レヴィナスの本を読んでいて僕がいちばん「来た」のは、「始原の遅れ(initial après-coup)」という概念です。人間は何もないところにぽこっと誕生したわけではなく、誰かが自分の場所を空けてくれたので、そこにできたスペースに存在することができた。自分たちがここに存在するために、それ以前にそこにいた何かが姿を消した。その「もう存在しないもの」が、私たちが生き、存在することを可能にしてくれた。そういう考え方です。>(P133「日本の文脈」角川書店)
 
    イニシャル・アプレ・クー。

    クーというのはクーデタのクーである。エタ(英語で言えばstate=政体)のクーである。クーとは何か? クルマの「クーペ」のクーである。クーペはお尻をすぱっとカットしてあるからクーペである。クーとは英語で言えばカットである。政体をカットしてしまうのがクーデタである。

    そのようなものが「クー」である。従って、アプレ・クーとは、スパっとカットしてしまったような「何か大きな激変の後」という意味になる。そのようなものが、われわれがこの世に存在し始める一番最初(イニシャル)にある、というのがこのイニシャル・アプレ・クーである。

    分りにくい話である。分かりにくい話ではあるけれど、つまりこういうことではないかと自分勝手に私は理解している。我々の存在は、とにもかくにも、それに先立つ「大きな激変」があったから可能になったんだよ、と。

    道端の保育園児からイニシャル・アプレ・クーまで、長い道のりであった。あー、疲れた。

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2012年3月11日 (日)

漢文的教養

  
    さて、前回、成島柳北という江戸時代の知識人が書いた「航西日乗」のことを書いた。この日記の中に次のような面白い話が載っていたことも書いた。

<幕末から明治初期、かなりの数の日本人が渡欧した。そして街中の靴屋で西欧風の靴をあつらえた。すると靴屋が首をかしげた。「どうして、日本人はみんな、左足の方が大きいんだ? 実に不思議だ」
  
    これを受けて、柳北がこう書いている。と、原文を引用しようと思ったが、どこにあったか探し出せない。こんな内容である。
 
    日本では武士の子供は、幼少の頃より、大小の両刀を左腰に佩刀している。かなりの重みのある物を左腰に常に帯びていたので左足が大きくなったのだろう。>

   前回は原文のありかがわからず、記憶で引用しておいたのだが、原文はこのようなものだった。

<此日、新靴を穿ちしに左足痛みて歩する能はず。之れを靴工に質す。工人曰く、日本の人は何故か左足の右足より大なる者多し、君も亦然るかと。余熟く思ふに、我邦の士人は幼少より両刀を佩べり。之れが為め左足に力の入るよりして自然に右足より巨大なるを致せるなる可し。之を友人に質すに皆余と同案なりき。>(P72「幕末維新パリ見聞記」岩波文庫)
 
    長い道草をしてしまったが、前回言いたかったことは、日本人の左足のことではなく、成島柳北の文章に横溢する、漢文的教養についてだった。前出の日記文も漢文の読み下し文のようにして書かれている。

    もっとも、ひとり成島に限らず、江戸時代の知識人はみんな素晴らしい漢文的教養を備えている。いったいどう読めばいいのか分らない漢字が頻出し、想像しながら理解するしかないのだが、想像のしようもない言葉も結構多い。

    完全にお手上げ状態になってしまうのは、漢詩である。成島はこの旅日記の随所に、興趣がつのったのだろう、漢詩をしたためている。たとえばこんな詩句を記すのである。

<鉄蹄翔処翠裙披
狂蝶穿簾鶯遶枝
千古誰追項王感
烏騅背上舞虞姫>(P73 同書)
  
    PCで横書きで表記するのは、漢字変換も大変だけど、それよりも何よりもものすごく気持ちが悪いね、こうして書いてみると。でも現代の大陸の中国人は、漢字をおそろしいほど簡略化し、しかも横書きを基調にしてしまっているのだから、何をかいわんや、だけど、それはさておき。
  
    さて上記の漢詩だが、漢字を知っているだけではなく、項王やら虞姫の何たるかを知っていなくては全く意味をなさないものである。このような詩句をいくつもいくつもつっかえつっかえしながら読んでいると、つくずく思い知るのである。
  
    戦後、われわれ日本人は、この種の漢文的教養を一気に投げ棄ててしまったことを。現代の平均的日本人は、上記の漢詩は読めない。たかだか150年ほど前に、同じ日本人が書いたものを、もはや読めないのである。意味を想像することも難しいのである。
 
    鴎外や漱石は完璧に読めただろう。荷風も読みこなしただろう。彼らは読むだけではなく、自ら作詩もしただろう。つまり、明治、大正の知識人たちにとって、漢文的教養は、今の我々の英語的教養のようなものだったに違いない。
  
    かつて、高等教育を受けたものたちはみな、漢文的教養と素養を有していた。しかし、戦後(太平洋戦争の戦後である。もちろん)、我々は、どういう理由があったのかしらないが、この連綿として続いてきた漢文的教養を一挙にかなぐり捨ててしまった。
  
    そればかりか、漢字そのものも、常用漢字だとか当用漢字だとかのリストを作り、「知っていればいい漢字」の総量を極端に減らした。その結果が今である。私を含めて、多くの日本人は成島が記す漢字の華麗さ、豊穣さに舌を巻くだろう。
 
    もったいないことをしてしまったなあ、と思う。戦後の必須的教育プログラムを役人たちが思案したときに、英語、数学、化学、物理と数え上げていって、黴臭い漢文的教養は、もはやさほど重要なものに見えなかったに違いない。しかし、あらゆる喪失がそうであるように、失ってしまって初めて、私たちは失ったものの大きさに直面するのである。
    
    というようなことを考えながら、内田樹氏の「呪いの時代」(新潮社)を読んでいたら、こんな文章にぶち当たった。何冊もの、なんの脈絡もない本を並行的に読んでいるとこんな風に符合するアイデアに出くわすことがある。これが得も言えず楽しい。

<韓国は公用文を原則としてハングルだけを用いて表記する法律が制定され、1968年には漢字教育が廃止され、1970年には教科書から漢字が消えました。現在の若い韓国人はもう自分の名前以外の漢字はほとんど読むことも書くこともできない。それは要するに2世代前の人たちが書いた文章が読めないということです。祖父母の世代が書いた文学作品が読めない。政治的テクストも、哲学的論考も、日記も読めない。(・・・・・)目前に、漢字さえ読めれば簡単にアクセスできる膨大なアーカイブがあるにもかかわらず、漢字を使えないばかりにこの宝庫に入ることができない。(・・・・・)これはテクストを通じての国民的エートスの継承、先賢の知恵の伝達という点からすれば、危機的な事態ではないかと僕は思います。>(P97)

(この話はまだまだ続く)

   オマケの話。たった今、佐野眞一氏の「あんぽん 孫正義伝」(小学館)を読み終える。私の上司は、「読み始めたが品が無いので途中で放擲した」と感想を述べていたが、その感覚がなんとなく分る。佐野氏はもっと推敲すべきだった思う。もともとが週刊誌の連載なので、「雑」なのは仕方ないとしても、単行本化する際にもっと手を入れるばきだったと思う。

  そう思う一例は、「豚の糞尿と密造酒の臭いが充満した」という形容句の使用が多すぎる、ということである。正確にカウントしたわけではないが、一冊の本の中に20回は登場する。いくら気に入ったフレーズでも「ひとつ覚え」すぎるし、死球ギリギリの球を好んで投げているように見える。これが「下品」感をもたらすのではないか。

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2012年2月25日 (土)

成島柳北と永井荷風

    年が明けて以降、さして面白いこともなく、最近はブログの更新も全く果たせないでいる。仕事で原稿を書かなくてはならないハメになると、まめにカタカタとキーボードを叩くけれど、個人的ブログとなると、怠け心が芽生えて、「まあいいやあ、今度書こ」ということになってしまう。

    最近の個人的なニュースはというと、白内障の手術、その後、である。左目には多焦点眼内レンズを挿入した。想像していたほど快適なものではなかったので、右目の手術は延期、というか、取りやめ(勝手に自分の意志で)。

    そうなると、極端なガチャ目になる。左目は遠くの方ならば1.2は見える。右目はと言うと強烈な近眼。目先20センチのところにピントが合っているだけ。不便この上ないのだが、人間と言うものはよくできたもので、時間とともに、この激ガチャ目にも慣れてくるのである。

    遠くを見るときは左目で、近くのものは右目で見るように、自然になってくるのである。別に努力しているわけではない。どうやら脳味噌の方が勝手にそのように操作してくれているようなのだ。そういうわけで、右目の白内障が悪化しないかぎりは、多分このまま生きていくことになりそうである。

    そんな激ガチャ目でも、なんとか本は読める。しかし、すぐに目が疲れてしまって、本を閉じる。しばらくしてまた読み始めようとするのだが、つい、別の本に手が伸びてしまう。本を読むスピードよりも買うスピードの方が速いので、読みたい本が溜まる一方である。いきおい、1冊を読了する前に別の本に手が出てしまうというわけである。

    読書のスピードは明らかに個人差がある。観察していると、本当に読んでいるのだろうかというくらい速読の人がいる。文字の塊を、画像処理しているような感じである。これを人力PDFファイル型読書、とすると、私はテキスト・ファイル型読書。一字一字読んでいる。しかも、自分ではっきり分るのだが、脳の中で、文字を音声化しながら読んでいる。口に出して音を出すことはないが、頭の中で文字を音に変換している。私にとって、文字を読むという行為は、「黙読」に他ならない。本を読むスピードが遅いのも当たり前なのである。

    遅読者はおのれの読書スピードの遅さにいらっとして、読みかけの本を放り出して、つい別の本を手にとってしまうのだが、またすぐにいらっとしてまた別の本を手に取ってしまう。そんなわけで、今は5冊ほどの本を分裂症的に、同時並行して読んでいるのだが、こういうことをしていると面白いことが起きる。

    ある本に書いてあることと、別の本に書いてあることが、まるでジグソーパズルの断片がうまくはまるようにぴたっと合う瞬間があるのである。トランスフォーマーみたいにガチャガチャガチャと組み合わさるのである。決して同じ傾向の本だけを読んでいるわけではないのに実に不思議。

    まず、最初に読んでいたのが、成島柳北という江戸時代の知識人が書いた「航西日乗」。この人は実に不思議な人間なのである。天保8(1837)年生まれ。成島家は代々将軍の侍講を担うインテリ家系で、1868年の1月には外国奉行に。しかし、直後に江戸幕府が崩壊するや、柳北は33歳なのにさっさと隠居。36歳の折には一民間人として、本願寺現如上人に随行してヨーロッパに渡る。で、10ヶ月後にアメリカ経由で帰国。

   「航西日乗」はその旅日記で、海外で見聞したことを日記形式で書きとめたもの。最初に驚いたことは、明治初年に、緊張感を持って渡欧したのにもかかわらず、実に頻繁に娼館に通っていること。
 
    1873年4月1日の日記の末尾にはこうある。

<寓に帰りて晩餐し、夜、諸氏とテレザの家を訪ふ。仏国里昂(リヨン)の人なり。>
 
    このテレザの家とは何だろうか、といぶかしんでしまうが、同行の「諸氏」の中のひとり、松本白華が自身の「航海録」のなかで、「夜、春を探り、以斯斑亜(イスパニア)の花を買ふ」と明かしてしまっている。ただし、松本はこれを漢文で記しているらしい。
 
    ふーんと思って読んでいると、その4日後、4月5日にまたしても柳北は<夜、同行と希臘人イダの家を訪ふ。>と、また行ってしまっているのである。いったい、どういうやつなんだろう、と思ってGoogleで検索をかけると出てきました、成島柳」北の写真が。なよっとして、どこか永井荷風に似ている。
 
    そう思った瞬間、あ、永井荷風は絶対に成島を読んでいる、と分った。成島の「航西日乗」に対するものが「ふらんす物語」であり、「断腸亭日乗」ではないか。成島の「柳橋新誌」が「墨東綺譚」や「新橋夜話」なのではないか、そう直感した。もちろん、丁寧に検証したわけではないので、単なる思い付きですけど。
 
    この本に面白い話はいくつもあるが、その中で、なるほど!とうなったのが次の話。幕末から明治初期、かなりの数の日本人が渡欧した。そして街中の靴屋で西欧風の靴をあつらえた。すると靴屋が首をかしげた。「どうして、日本人はみんな、左足の方が大きいんだ? 実に不思議だ」
 
   これを受けて、柳北がこう書いている。と、原文を引用しようと思ったが、どこにあったか探し出せない。こんな内容である。
 
    日本では武士の子供は、幼少の頃より、大小の両刀を左腰に佩刀している。かなりの重みのある物を左腰に常に帯びていたので左足が大きくなったのだろう。

    ねっ、面白いでしょう?

    数冊の本を併読する面白みについて書こうと思ったけど、もうPCの電池がない。時間もない。ちょっと疲れたので、続きはまた今度。本当はこれからが面白いんだけど・・・。

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2012年1月18日 (水)

橋下徹氏の「負けたらあかん」

 
    話題の大阪市長、橋下徹氏の本「体制維新  大阪都」(文春新書)を読む。

  面白い。痛快である。これだけ言いたいことをずけずけ言う人に近頃会ったことがないので、思わず笑った。

  北風と太陽、という比喩がある。人を説得するのに、強圧的に力づくで説き伏せるか、はたまた、温順に丁寧に説明して、その気にさせるか、の二通りがあるというわけである。

  その伝でいけば、橋下氏は北風派。それも鼻や耳が引きちぎれそうなほどビュービューと吹きすさぶ突風である。

  通読してすぐに分かるのは、氏の生きる姿勢が「喧嘩腰」というか、尋常ならざる「ファイティング・スピリット」で覆われている、という事実である。

  本の中に頻出するのが「競争」という言葉。いちいち実例を挙げないが、簡単に言うと、世界にはさまざまな競争があり、ぼやぼやしてると負けちゃうやんけ、いや、それどころか、大阪はもう、ボロ負けやんけ、という切迫感がみなぎっている。

  ぱっとページをめくったら、すぐに「競争」という言葉が目に入ってきた。たとえば、こういう一文である。

<・・・都市の実態に合わせて考えるという視点が重要であり、それは世界を視野に入れる場合も同じです。僕はいつも「二百六十万人規模の大阪市では世界の都市間競争で通用しません」というのですが、大阪都構想に反対の学者さんは「ヨーロッパの都市を見てください。百万人くらいの規模で十分に都市経営をしているところはありますよ」と反論してきます。>(P198)

  橋下氏には、学力だろうが都市間競争だろうが、権力闘争だろうが、およそ争いと名のつくものは、「負けたらあかん」という哲学が身に沁みついているのである。

  勝者がいれば、当然ながら敗者がいる。1位がいれば、ブービーメーカーがいる。誰かが上位に上れば、誰かが順位を落とす。つまり、世界は、誰かがいい気分になれば、誰かが悲哀をなめる仕組みになっている。

  だから、人によっては、「いいじゃないの、ビリで。誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私たちがビリになってあげようよ」という温和で生ぬるい敗北主義を口にしたりするが、橋下氏はそんなものは、きっと許せないものなのだろう(実は私も絶対に許せない人間なのだが・・・・)。

  しかし、橋下氏はこのような「喧嘩腰」をどこで身につけるに至ったのだろうか。理不尽に差別され続けた出自の問題もあるだろう。関東人には全く想像を絶するような強烈な差別意識が、関西にはまだ黒々と横たわっている。

  物心ついたころから世間と戦い、大阪の進学校に進んで、そこでラグビーの全国大会に出場し、早稲田の政経にもぐりこんだ後に、弁護士試験を獲得してみせる。簡単にトレースしただけでも、どれほどの「競争空間」を生き延びてきたかがよく分かる。

「喧嘩腰」でないと、ここまでやってこれなかったに違いない。

  我々の世界は、国内を見ても国外も見ても、もはやにっちもさっちも行かなくなりつつある。にもかかわらず、それを打開する有効な手立ては見つからないばかりでなく、当たり障りのない言説が飛び交うばかりなのである。

  その窮状に、いきなり鼻っぱしの強いとっちゃん坊やが出現したから、じつは私は楽しくてしようがないのである。ハシズムとしてみんなに叩かれる。独裁者になる、と恐れられたりもする。マスコミもこぞってバッシングである。

   しかし、橋下氏はめげることがない。めげないどころか、ますますファイティング・スピリットは高まるばかりのように見える。面白いじゃないか。がんがんやってみてほしい。このスタイルがどこまで続くのか、見守りたいと思う。

  願わくは、ケネディのような末路に終わらぬことを祈りたい。

  

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2012年1月17日 (火)

思えば遠くまで来たもんだ

 
    伯母の葬儀に参列するために、津田沼まで出かけた。1971年に田舎から上京して下宿生活をしていたころ、お金が乏しくなったり、何かおいしいものを食べたくなったりした時には伯母に電話をかけて、晩御飯を食べさせてほしいと厚かましくも、ねだったものだった。

  電車を乗り継いで、習志野の伯母の家に行くと、伯母は鶏のレバーをフライパンで炒めてお醤油で味付けしたものをよく出してくれた。「うまい。これはうまい」とでも大きな声で私が言ったに違いない。伯母の家での食事を思い出すと、レバー炒めばかりが蘇る。

  軽快にフライパンをふるっていた伯母は、津田沼の教会の中に置かれた棺の中で、身じろぎもせず、静かに眠っていた。鶏のレバー炒めから、かれこれ40年が経過している。ああ、遠くまで来てしまったなあ、という感慨が去来する。

    喪主である、ほぼ同世代のいとこたちにも秋霜烈日は手加減を加えてはいない。いとこのひとりは、かつての伯母を髣髴とさせるし、そのいとこの娘さんは、よく知っている若き日のいとこ自身を思い出させる。

    白い花を伯母に手向けたあと、実に久しぶりに会ういとこに頭を下げて挨拶をすると、いきなり、「読んでるわよ、路傍の意地」と言われて、ひっくり返りそうなほど驚いた。どうして分かったんだろうか、と呆然として考えると、思い当たることはひとつしかない。

    このブログで祖父の話を実名入りで書いたからに違いない。極力誰にも知られず、ひそかにコキコキと書き続けていこうと誓って始めたブログだが、なんのことはない、身近なところでばれてしまっているではないか。

    夕方、六本木の国立新美術館に出かける。友人の野田裕示君の大規模な個展が1月18日よりスタート(野田裕示 絵画のかたち/絵画の姿)するのだが、そのオープニング・レセプションが行われた。野田君とは、同じ年に生まれ、同じ高校に入学、ともに美術部に所属し、イーゼルを並べて油絵を描いていた仲である。

  そして1971年、ともに東京に出てきたのである。

  今回の展覧会のために立派なカタログが編集され、かれの1981年から2011年までの主だった作品をずらりと並べるのみならず、丁寧なバイオグラフィまで添えられている。画家・野田裕示を理解するためには、それで十分なのだが、美術評論家たちは誰も知らない、上京当時の生活にぶりについて、書き留めておきたい。

    今となっては誰も信じられないだろうが、71年当時、赤坂のTBSの脇にある神社の横の道を登っていくと、ちょっとした高台に出た。草がぼうぼうに生えた空き地のようなところがあって、そこには大きな倉庫が建っていた。

    この倉庫は出光が、サム・フランシスのアトリエとして建てたものだった。野田君はこの巨大なアトリエというか倉庫の留守番役としてここに入居し、生活をしていたのである。サム・フランシスが描いたと思しきバナナが描かれたキャンバス地(枠から外された)だけが、無造作に壁に貼られていたりした。

    倉庫(アトリエ)には立派なバスタブや洋式トイレが設置されていた。このスペースを思う存分利用し、野田君はここで絵を描き、眠り、飯を食い、また絵を描いていた。倉庫の中の青春、とでもいうべきものだった。夏は思い切り暑く、冬は室内に氷がはるほど寒かった。

    この倉庫を時々訪ねては、和歌山弁で会話をし、高台から降りて、赤坂の街中で一緒にラーメンを食べた。ともに金は乏しく、この先、どういう人生が待ち受けているのかも、皆目分からなかった。ふたりとも、ただただ、若いだけだったのだ。

    新国立美術館で会った野田君は、今年還暦を迎える第一線の画家の風貌を示していた。でも笑うと、若いころの面影が戻ってくる。

「なあ、野田君、思えば遠くまで来たもんだなあ。赤坂時代を思い出すと、夢のようだなあ」
「ほんとにね」
「こんな立派な展覧会、もう一回やれと言われてもできないだろう」
「うん、もうできないね」
「うん、もう生きてるうちにはできないかもしれないね」

  野田裕示という一人の画家が、文字通り人生をかけ、一生をかけて描き続けてきた絵が会場内に屹立している。そんな気がした。

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