映画・テレビ

2016年8月31日 (水)

天才的子役発見!

 

  最近はまっているNETFLIXで、オリジナル新作「ストレンジャーシングス」を、夜も寝ないで一気に見た。シナリオ自体は、つっこみどころ満載であまり誉めたものではないが、主人公の女の子エル(イレブン)を演じる子役がスゴい。 ほとんどセリフがないので表情やしぐさで表現するしかない難役を、みごとにこなしている。

 

   彼女の名前はミリー・ボビー・ブラウン(Millie Bobby Brown)。まだ12歳! 

 

この先、絶対に出てくる。断言しておく。

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2011年11月27日 (日)

だめだろ、こんなタイトルじゃ

    スティーヴン・ソダーバーグの新作「コンテイジョン」を観た。

    いやあ、よくできた映画である。面白い!怖い! 観終わったら、かならず手を洗ってうがいをしたくなること請け合いである。

    しかし、今回は映画の話ではなくて邦題の話。

    なんなの、この「コンテイジョン」というタイトルは。原題は「CONTAGION」だから、そのままカタカナにしただけ。無茶苦茶である。せっかくのすごい映画なのに、この題名では、「観に来なくていいから」と言っているに等しいではないか。

    配給会社の方々は、根底から、もういちど、映画の邦題を考え直したほうがいいのではないか。WBから原題を尊重せよという指示があったのかどうか知らないが、「コンテイジョン」という題名からは、どういう映画なのかまったく想像することもできない。

    ここはきちんと邦題をつけて欲しかった。たとえば「感染」。あるいは「接触感染」。これだけで十分に怖い。「致死的接触」でもいいし、なんならストレートに「ウイルス」でもいい。

   「コンテイジョン」では韓国料理の映画かと思っちゃうのではないか。

   もう一点、指摘しておきたい。日本で、2007年に翻訳が出たノンフィクション「史上最悪のウイルス」(文藝春秋)の中身に、この映画はとてもよく似ている。このノンフィクションはSARSの蔓延について、カール・タロウ・グリーンフェルドという香港在住のジャーナリストが書いたもの。

    しかし、映画のエンドロールを目をさらにして見つめても、この本のことは一行もでてこない。いったいどうなってるんだろうか?

    帰りに「紙うさぎロペ」のDVD、第二弾を購入。家に帰って寝る前に見たが、だめだ。第一弾のような抜けた馬鹿ばかしさがない。シナリオが弱い。もう一度初心に返って、やけっぱちで破天荒な脚本を書くべきである。

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2011年1月23日 (日)

送君千里 终须一别

     送君千里 终须一别

「君を千里送るとも、終には須く別すべし」。これは中国に古くからある諺らしい。先日、新聞の映画欄を読んでいて、この諺を知った。

「君との別れが辛いので、いつまでもどこまでも君を送って行こう。だけれども、どれだけ遠くまで君を送ろうとも、最後には、必ず別離がやってくる」という意味なんだそうである。

  この諺に触発されて、中国の若き映画作家・趙曄(チャオ・イエ)は、「ジャライノール」という映画を撮った。監督、脚本、編集、製作のすべてを一人でこなした独特の映画である。

  この映画が見たくなって、東中野のポレポレ坐という映画館に出かけた。客席が100程度の小さな映画館だが、なんだかとても懐かしい感じがする素敵な映画館である。

   ロシアとの国境が近いモンゴル自治区満州里にある炭鉱の町の名前が「ジャライノール」。吐く息がすぐにも凍てつくような極寒の地の炭鉱町で、定年になる老機関士は職場を去って故郷へ帰る。彼をしたう若者は「もう、帰れ」という老機関士の命に従おうともせず、いつまでもどこまでもついて行く。

  しかし、どれだけ慕おうとも、どこまで見送ろうとも、最後には老機関士と若者の別れはやってくる。老機関士は迎えに来た娘夫婦の車に乗り込む。若者は、にっこり笑い、わざとおどけて、くるりとターンしてみせる。

  閑散とした、名も知らぬ中国深奥部の駅頭での別れ。この後、ふたりは、おそらく二度と再会することはないだろう。  

  広大な真っ青な空は偏光フィルターのせいかほとんど真っ黒に見えるが、その黒い空の下、寒々として凍てついた大地がどこまでも広がる。日本ではもう見られなくなった蒸気機関車が白くて大きな煙を吐く。少ない会話。絵画的なハイ・コントラストの映像。これは映画というよりは「映像の散文詩」とでも呼ぶべきものなのかも知れない。

  「君を千里送るとも、終には須く別すべし」。

  切々とした詩情溢れる佳作である。

  これまたつい先日、内田樹氏のブログを読んでいたらはっと思うような一文に出会った。

<もう何度も書いていることだけれど、哲学者の書きものを読むというのは、徹底的に個人的な仕事である。
    読む者が、そこに傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り、智者はその叡智を開示してくれない。
    レヴィナスは「語られざること」(non-dit)が読み手に開示されるのはどのような場合かについて、次のような印象深いフレーズを書き残している。
「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる。この懇請なしでは言明のテクスチュアのうちに内在する『語られざること』(non-dit)はテクストの重みの下に息絶え、文字のうちに埋没してしまうだろう。懇請は個人から発する。目を見開き、耳をそばだて、解釈すべき章句を含むエクリチュールの全体に注意を向け、同時に実人生に-都市に、街路に、他の人々に-同じだけの注意を向けるような個人から。懇請は、そのかけがえのなさを通じて、そのつど代替不能の意味を記号から引き剥がすことのできる個人から発する。」(Emmanuel Lévinas, L’audelà du verset, p.136)」>(2011年1月12日のブログより)

  そして、この映画を観ながら、ことは「哲学者の書きもの」だけではないだろうと、思い至った。真摯に、命がけで表現されたものは、それを受け取る受け手もまた、「傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り」、表現物は、何事も語りださないに違いない、と確信したのである。

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2010年9月26日 (日)

「十三人の刺客」を観る

  どうしても「紙兎ロペ」のDVDが欲しくて、お台場のメディアージュへ。だって、定価が2940円なのに、ヤフーのオークションでは4000円以上するんですから。

   メディアージュに行ったついでに、三池崇史監督の最新作「十三人の刺客」を観る。13人対300人のチャンチャンバラバラがどのくらい派手な物なのかをこの目で確かめておきたかったので。期待したのはサム・ペキンパーばりの「殺しの美学」。「日本刀による人斬り」には、それなりのカタルシスがあるに違いないと思っていたので。

   しかし、案に相違して、いわゆるチャンバラと呼ばれる殺陣シーンが延々続く(50分も)ばかりで、刀と刀がぶつかり合うときの金属音と、刀が肉体を切り裂くときの切断音ばかりがハデで、少し退屈であった(刀が肉体を切り裂く音を最初に導入したのはTVドラマ「三匹の侍」で、あの音はキャベツを切って作ったという噂が)。凡庸な人斬りをいくら重ねても、凡庸さは払拭できない。量は質に転換しないのである。

    たとえば、こんな描写を期待していたのだ。

    日本刀は重い。チャンバラ映画のように簡単に振り回せるようなものではない。その重量感のある、しかも磨き上げられて極めて鋭利な刃物を振り回すとどうなるか。

    だいたい、剣と剣をぶつけ合ううちに、まずは、柄を握る手の指が最初に斬りおとされるはずで、戦いの現場の地面には何本もの指が落ちているはずである。

    指がなくなった、血が噴きだす手で刀を握り続けることが困難になり、切り殺された男の顔のすぐそばに、自分の指が何本かころがっている。

    映画では、切り込みは背中やら腹やら、見栄えのするところに刀が襲い掛かりばっさり切られるシーンが描かれるが、実際にはそんなに都合よくきれいに切れるものではない。顔の右三分の一を斬りおとしたり、相手の腿を半分切ってぶらぶら状態にしたり、というのが現実だったのではないか。

    時には目の玉をえぐったり、いきなり喉にささったり、大変だったはずである。

    そんなリアリズムが50分のうちの10分くらいはあってもよかったのではないか。

    相手の羽織を切り裂き、背中の肉が切り裂かれるところをスローモーションで。肉はゆっくりと、ぱっくり裂けていき、一瞬おいた後に、動脈から血しぶきが飛び出す。

    横一文字に腹を切られた男は内臓をはみ出させて、驚いて自分の手でそれを元に戻そうとしている(スピルバーグの「プライベート・ライアン」にそんなシーンがありましたね)。

    何人もの肉体を切っていると刀は刃こぼれしてぼろぼろになる。人間の骨は硬いので曲がったりしているはずである。しかも、脂肪が刃に絡み付いてどうしようもなくなる。ぬぐってもぬぐっても、脂肪のぬめりはとれず、握りも血と脂肪でぬめぬめになって、とても斬りあいをしているどころではなくなるはずである。

    そんな人斬りのリアリズムがもう少しあれば、納得したかもしれない。私が表現に求めることは「驚き」と「発見」であるから。チャンバラってこういうモノでしょ、という様式美や定型化は退屈なのである。目から鱗が落ちるようなチャンバラが観たいのである。

    でも、稲垣吾郎くんの悪辣な殿様ぶりは必見。

    また、夜の明かりがロウソクだった時代の、薄暗く、おぼろな日常の映像表現は素晴らしい。撮影監督に拍手。

    映画を観終わり、車を飛ばして、新横浜プリンス・ホテルへ。中国の若き作家、郭敬明氏にお目にかかる。まだ20代の若さ。小さくて華奢で、そして美しい。握手をした手の骨の細やかさに驚いた。

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2010年9月20日 (月)

「食べて、祈って、恋をして」と「紙兎ロペ」

   久しぶりにお台場のメディアージュへ。お目当ての映画は、ジュリア・ロバーツ主演の「食べて、祈って、恋をして」。

  見終わっての感想はというと、「アメリカ映画は、というかニューヨーク製の映画は、どうしてこんなに、生きることの息苦しさや困難さを主題に一生懸命映画を作るのだろうか」というまっとうなものと、「ジュリア・ロバーツは前からこんなにチンパンジーみたいな顔だったっけ?」というもの。

  仕事に行き詰まり、結婚を破綻させ、恋愛も不完全燃焼な女主人公(ジュリア・ロバーツ)は、「より充実した人生を送る方途を探して」イタリア、インド、タイへと旅立つ。それぞれの地で、生の輝きを目撃し、タイでは新たな恋人に出会ってめでたし、めでたしというものなのだが・・・・。

  とりわけ男女間の人間関係における「生きることの困難性」を選択的に主題に据えて映画を作り続けるアメリカ人を見ていると、かの国の方たちは、「悩み、のたうつことが趣味なのではないか」と思わざるを得ない。

「マグノリア」であれ、「アメリカン・ビューティ」であれ、彼らの悩みの淵源は、「今ここではないどこかに」自分に最もふさわしい場所があり、「今、目の前にいる相手ではない誰か」が、きっと自分を幸せにしてくれる、という根拠のない信憑にとり憑かれている点にあるように思える。

  60近くなってくると分るけど、そんなもん、おまへんで。

  自分に相応しい仕事も場所も伴侶も、そんなものはこの世に存在しない。存在するのは、「何物にも納得、満足できない自分が存在する」という事実のみである。

  映画の中で、タイの歯抜けのじいさんがジュリアに「脚が4本ある人体の絵」を授けて、「こんな風にしっかりと大地に根を下ろし、肝臓で微笑むほどににこやかに暮らし、心で周りを見つめなさい」とアドバイスをするが、東洋的叡智と言うのはまさにそうしたもので、ジュリアはNYから離れることなく、かの地でじっくりと自分を見つめ直してみるべきだったのではないか、と老婆心ながら思う。

  タイの地で、やたらめったら濃ゆい顔の男と恋に落ちて幸せそうなジュリアだが、この恋も長持ちはすまい、と思う。だって、この男、コーエン兄弟の非情の暴力映画「ノーカントリー」で、罪もないおじいちゃんを撃ち殺しまくった悪い奴(ハビエル・バルデム)で、しかも、競演女優喰いで有名。ペネロペ・クルスを孕ませちゃった奴ですからね(笑)。

「ノーカントリー」については過去のエントリーを。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_1f24.html

  で、ここからが本題。メディアージュでは何本かの予告編が終って、さあこれから本編が始まるというときに、数分のオマケのアニメが上映される。

  これが無茶苦茶面白いのである。

  もう20年近く前のことだが、イタリアの場末の映画館で、本編が始まる前に短い実写のコメディを見たことがある。試験会場の受験生を主人公にしたコメディで、必死になってカンニングしようとする男の滑稽な仕草に大笑いした。それが初めてみた「ミスター・ビーン」だった。

  あるいは同じころ、やはりヨーロッパのどこかの映画館で短いオマケのアニメを観た。電線に鳥がいっぱいとまって、電線がたるんでくるという爆笑アニメだったが、そのときに初めてピクサーのクレジットを目にした。

  今回目撃したそのアニメ「紙兎ロペ」は、その前例に匹敵するほど面白いのである。百聞は一見にしかず。まずは、下記のyoutubeでどうぞご堪能ください。

http://www.youtube.com/watch?v=k9IXFr-1jT8
http://www.youtube.com/watch?v=QWDyxV7mLqI
http://www.youtube.com/watch?v=V0D4NlHuNRg
http://www.youtube.com/watch?v=C2Y2QGnButY
http://www.youtube.com/watch?v=4a2vyZO74bc

「ガチャガチャ篇」は何回見ても笑ってしまう。

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2009年8月24日 (月)

「サブウェイ123 激突」と「強欲資本主義」

 
    先日、映画「サブウェイ123 激突」(トニー・スコット監督)を観た。映画そのものは特筆すべきものは特になし。地下鉄を乗っ取る犯人役をジョン・トラボルタが、運行司令室の職員をデンゼル・ワシントンが演じていて、そのふたりの熱演ぶりは、まあ、特記しておいていいかもしれない。が、まあその程度なのである。

  話は実に単純で、あるグループが地下鉄を乗っ取り、警察がその一味を追い詰める、というだけのもの。単純といえばこれほど単純な展開はない。その中で唯一面白かったのが以下のシーン。

  地下鉄を乗っ取った一味の企みは、「地下鉄乗っ取り事件」で株価を急落させ、金(ゴールド)を暴騰させることによって、瞬時に大金を手にすること。実に今時の知能犯なのだが、事件の冒頭ではまだ、捜査陣はその一味の素性をつかむことができない。

    捜査が進展して、やっと犯人たちのプロフィールがおぼろに見えてきたときに、捜査陣にひらめきが走る。「犯人はウォールストリート・ガイズだ!」と叫ぶのである。これを聞いて、私はほほう、と思った。

「ウォールストリート・ガイズだ!」は、訳してみれば「証券業界の野郎たちだ!」くらいになるだろうか。つまり、このろくでもない事件の犯人は証券業界の野郎どもだ、とスクリーンの上で捜査陣は大見得を切るのである。

  私がほほうと思ったのは、現在のアメリカ合衆国では、「証券業界の野郎ども」はすっかり「悪者」のカテゴリーに分別されてしまっており、そのことに違和感を抱く人々は決して多くないのだなと実感したからである。それはまるで、9.11事件以降のイスラム原理主義者(イスラム教徒)のようでもある。

  思えば、1987年に公開された「ウォール街」(オリバー・ストーン監督)では、監督の意図はともかく、証券マンが実に魅了的に描かれていた。この映画をNYで観た私はチャーリー・シーン演じる証券マンのファッションがかっこいいと思い、すぐにズボン吊りを買いに走り、しばらくそれをして出社していたおっちょこちょいでもあったが、ウォールストリート・ガイズがそれほど、かっこよく描かれていたのである。

  それから二十数年。ウォールストリート・ガイズは地に落ちた。このたびの金融危機の元凶となったのだから、無理もないが、まるで「悪の象徴」のようでもある。

    が、それもむべなるかなと思ったのは、文春新書の「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(神谷秀樹著)に記された彼らの所業を知ったからである。こういうときのために自業自得という言葉はあるのではないかと思わざるをえない。何度も書いたことだが、今回の金融危機のすべての源は、アメリカ合衆国の金融業界に端を発する、「楽をして大金を儲けることは良いことである」という信憑がグローバルに瀰漫したからであると思っている。

    同書には、米国金融関係者のこんな言葉が引用されている。

<「・・・・・ウォール街がぶち壊している産業はホテルだけではないよ。今すべての産業で同じことが起こっている。投資といっても、所詮は安く買い、出来るだけ早く高値で売るために使っている金だ。彼らには将来を築くための投資を十分にする気持ちなどないよ。買い叩いて、コストを削って見かけのキャッシュフローを増やして売り払うことしか頭にない。しかもほとんど他人の金でそれをやる」>(P120)

  ウォールストリートで日本人として20年以上金融ビジネスに携わった人物の見聞だけに、書かれていることに説得力がある。最近のウォールストリートのモラル・ハザードぶりには目を覆うものがあるとも書く。グローバル・スタンダードの美名のもとに、その価値観が日本にも流通しようとするだろうが、日本人は絶対にこのモラル・ハザードに侵されてはならぬ、と神谷氏は力説する。

  そのモラル・ハザードぶりを、こんな風に、一口キャッチフレーズ風にして紹介している。

<曰く「借りた金で今日を愉しむ」、「借りた金で投機する」、「貸せる金は融資基準をいくら下げても貸し込め。そのローンを束にして売ってしまえば、不良化しても自分の損にはならないから」、「ノンリコースで借りた金は、返せなくなったら担保物件の鍵を渡せば終わり。値上がり益は僕のもの、値下がり損は君のもの」、「連帯保証など怖くない。眠り口銭(手数料)が入ってくる」といったものである。>(P155)

  ウォールストリート・ガイズの悪辣振りをもっと知りたい方はどうぞ、同書をご覧いただきたい。

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2009年6月28日 (日)

映画「剱岳 点の記」と「キャデラック・レコード」

   
    6月17日、有楽町の朝日ホールで映画の試写会があった。映画のタイトルは「剱岳 点の記」。監督はかの有名な映画撮影カメラマン、木村大作氏である。長年、著名な監督と組んでフィルムを回してきた木村氏が、満を持して取り組む大作である。原作は新田次郎。

  試写会にはなんと、浩宮皇太子殿下もご臨席。開幕直前に数人のSPに伴われて来場。ど真ん中にお座りなったと思ったら、すぐに映画が始まった。

  さて、その出来具合は? 申し訳ないが、前人未到の退屈さ、であった。あるいは、壮大なる駄作というべきか。こんな物を、わざわざ皇太子殿下をお呼びして、お見せしてよろしいものなのであろうか。殿下は確かに山好きだそうだが、だからといって・・・・。

  このブログを始めるに当たって、悪口は書くまい。何がダメ、これがダメ、こいつが馬鹿、などということは決して書くまいと心に誓っていた。そんな否定的なことを書くぐらいならば、もっと肯定的なこと書くべきだと思っていたからである

  その割には悪口が多いのではないか、と思われる方は、私の日常的悪口の嵐を知らないからそんなことが言えるのであって、じつはこれでも随分抑えているのである。

  まあ、そんなことはどうでもいいか。今回は例外。書かずにいられないのだ。どこがどう駄作なのか。簡単に言えばドラマがないのである。ドラマが効果的に描かれていないのである。これはひとえに監督の責に帰すべき問題だと思う。剱岳をはじめとする山々は、四季の風景の中で、美しく捉えられている。貴重な映像、印象的なシーンはいくつもある。が、肝心のドラマがないためにちっとも心にひっかかってこないのである。

  そんな中でも、香川照之の演技は光っているが、役者が一人輝いているだけではどうしようもない。それにしても、木村大作は長年にわたって有名監督のもとで映画製作に関わってきたはずなのに、いったい、そこから何を学んで来たのか、と思わざるを得ない。

  数日後、アメリカ映画「キャデラック・レコード」を観た。傑作である。登場人物の一人ひとりが際立っている。そうなのだ、映画は人間が描かれていないとダメなのだ。喜び、苦しみ、怒り悲しむ人間の姿がくっきりと描かれていないと、映画は映画として成立しないのだと、つくづく思い知らされた。

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2009年3月15日 (日)

「チェンジリング」と左足の靴

   
    お台場のメディアージュに映画を観に行った。

    入場料が1000円均一のスペシャルデーだとかでえらい混みようである。チケットを買おうと窓口に行ったが、良い席はすでに埋まっているとのことで、前から2列目の中央のシートを手に入れる。

    劇場はこじんまりしていて、前から2列目というのはかなり前なのである(当たり前ですな)。しかし、1列目が2列目よりも50センチほど階段状に低くなっているので目の前を遮るものもなく、快適と言えば快適なのである。

    予告編が終って、さあ映画が始まるぞ、というときに私は靴を脱ぎ、足を組んでリラックスした体勢を整え、ストーリーに集中しようと画面を注視した。と、そのとき、コロリンと靴が一足、前席のほうに転がり落ちていってしまったのである。

「あっ」と思ったがもう遅い。前席には客が座り、しかも映画は始まったばかり。ガサゴソ動き回るわけにもいかぬ。じっとしたまま、脱いだ1足の靴を横向きに設置して、そこに両足先を乗せて映画鑑賞とあいなったわけであった。

  やってみればどなたもすぐに分るであろうが、この姿勢は辛い。身から出た錆(とい喩えはあまりふさわしくないけれど)としては、ガリガリに錆びた錆びである。あー、早く映画終らないかなあ、靴を拾い上げに行きたいなあ、と痺れた脚をさすりつつ、子どもみたいなことを考えながらスクリーンに見入る。

  やっと映画が終わり、エンディングのクレジットがだらだらといつまでも続く。大概の観客はそれがすべて終る前にがやがや帰っていくものだが、どうしたわけか、私の靴を落としたと思しき席の観客はなかなか席を立とうとしない。こんにゃろー、意地悪してやがんのかな、靴落としちゃったから・・・・。

  やっとその客が立ち上がりコートを着て出て行ったので、私は右足にだけ靴をはき、急いで1列目に降り、落とした靴を探し始める。え、えーー。ないよ。おいらの左足の靴がないよ。上からのぞいても、這いつくばって下から探しても、ない!

  あんにゃろー、意地悪しておいらの左足の靴、持ってっちゃったのかなあ・・・。困ったなあ。右足だけ靴を履いた私は呆然として場内に立ち尽くしていた。

    3階に靴屋があるからあそこで買うしかないか。しかし、あそこまでどうやって行けばいいのか。右足だけ履いていくべきか、それともそれはみっともないから、両足とも裸足で胸をはって堂々と通路を歩いていくべきか。

    そんな思案に暮れていると、一緒に行った友人が「ほらよっ」と探し当てた靴を投げてくれた。椅子の陰に隠れて見えなかったのだ。よかったー。嬉しい。靴が片一方だけ見つかることがこんなに嬉しいこととは知らなかった。友人に心から感謝する。

    ところで観た映画は「チェンジリング」。細かいことはもう書く時間がないので簡単に言うと、これほどまでに「役者の力技」を見せ付けられる映画はそうそうあるものではない。

    もちろんその功績の大部分は監督であるイーストウッドが担うものであろう。役者からこれほどのパフォーマンスを引き出すのだから底知れぬ力量である。とともに、監督に応えて、これほどの演技をしてみせる役者の力量もすさまじいものだと思わざるをえない。

    しかも、彼らに勝るとも劣らぬ役者がわんさかいるであろうアメリカ芸能界の厚みに思いを致さないわけにはいかない、というのがこの映画を観てのまず最初の感想である。

    とりわけ震撼させらたのは、へらへらした異様な連続誘拐殺人犯役を演じた役者(ジェイソン・バトラー・ハナー)と、その共犯の男の子を演じた子役のすさまじい演技力である。

    もし自分が役者で、この役が振られたら、と想像してみれば、彼らの演技力がいかに凄いかが分るはずである。われわれが台本を渡されて、この役はこう演じようと思案する、その遥か上を彼らは楽々と演じていくのである。

    とにかく、靴が見つかってよかった。

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2009年2月24日 (火)

「おくりびと」のアカデミー賞受賞を祝う

「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。大変な偉業だと思う。

昨年の秋に、松竹の試写室でこの映画を見た後、感動するところがあって、このブログでこんなことを書いた。

<悲しむ遺族の前で、床に横たわる遺体をきれいに整え、死後の世界へ送り出す葬儀社の青年の話である。本木雅弘がその青年の役を演じている。
   
    映画の性質上、次々と遺体がスクリーンに現れる。多分、布団の上に横たわる遺体がこんなに数多く登場する映画はこれまで洋の東西を問わず、存在しなかったと思う。だいたい、「おくりびと」を主人公にした映画を作ろうと思い立ち(まあ、思い立つことはあるだろうけれど)、それを完成させた製作者たちの腕力には、脱帽するしかない。
   
    その次々に登場する遺体の一人が峰岸徹さんだった。ただ、せんべい布団の上に無精髭を生やして「死んでいる」役である。回想シーンで数秒間ほど生きているシーンがなくはないが、登場シーンはほぼ「死んでいる」役なのである。しかも、本木が愛憎を抱く実父の役であり、実の父親の死に装束を調えるもっくんが静かに涙を流すシーンは圧巻である。
   
    峰岸さんが肺ガンで亡くなったという報に接したときすぐに思い出したのはこの映画のことだった。撮影は昨年の春ごろだというから、まだ病はそれほど重篤ではなかっただろう。が、ご本人も周囲の人たちも、峰岸さんが肺ガンに冒されていることは知っていたに違いない。
   
    そんな、「死にとても近づいている」俳優に、「死んでいる」役を依頼しに行った人もすごいけれど、その要請をしっかと受けとめて、自身にひたひたと近づきつつある「死んでいる人」の役をみごとに演じきった峰岸という役者もすごい人だとしみじみ思う。
 
    役者の持つ、すさまじいまでの業というものを感ぜざるをえない。>
  
    今回の受賞を峰岸さんもどこかで喜んでいることだろうと思う。
  
    この映画の凄さにはいくつかのレベルがあると思う。まず、①納棺師に着目しその映画を作りたいと思いたち、その実現化に努めた映画人がいた、ということ。自分が映画人だったら、と想像してみればいい。まず、思いつかないし、思いついたとしてもすぐに自分で否定してしまっているはずである。

    その次に、②どうみても興行的には大成功をおさめるとは思いがたいテーマの映画を作ることにGOサインを出した松竹の雅量の大きさ。制作陣は最初に東宝に話を持って行ったらしいが、合意に至らなかったらしい。東宝が失ったものは大きい。

    ③は、公開時には小規模でスタートしたにもかかわらず、じわじわとクチコミでその評判が広がり、最終的には多くの観客を感動させたと言う事実である。誰がどう考えたって、爽快な話ではない。見終わって自身の人生が前向きな明るいものに思えるようになる、というものでもない。

    にもかかわらず、観客が押し寄せたという事実に、なんだか「凄い」ものを感じる。

    納棺師は、人間が死んだ際に、その人を厳かに、傷つけることなく、誠意を持って死者のサイドへ送り出す役目を負っている。生者が死者へ移行し、この世ではないどこかへ旅立つ儀式を、死者の尊厳をそこなうことなく、執り行なう者のことである。

    内田樹氏はその著書「街場の教育論」(ミシマ社)の中で、孔子の六芸、礼、楽、射、御、書、数の筆頭である「礼」というのは「祖霊を祀る儀礼のこと」であると書いている。

<どうやって正しく死者を弔うか。これが人間が第一に学ぶべきことである。(・・・・)葬礼というのは「正しく祀れば死者は災いをなさない。祀り方を誤ると死者は災いをなす」という信憑の上に基礎づけられています。生きているもののふるまい次第で死者のふるまいが変わるというのは、要するに死者とのコミュニケーションが成立しているということです。「存在しないもの」とも人間はコミュニケーションできる。これを人間が学ぶべきことの筆頭に置いたというのは、人間の洞察として深いと私は思います。>(P84)
   
    つまり、もっくんは「死者とのコミュニケータ」なのである。
  
    この映画の「凄さ」の④は、先に書いた映画人の発意や、映画会社の雅量や、この映画が持つテーマの真摯さもさることながら、「そんな映画を観ようと足を運ぶ日本人がまだ数多くいる」という日本の社会事況そのものが、おそらくはアカデミー賞選考委員の心を揺さぶったに違いない、という点にある。
  
    多くの欧米人にしてみれば、日本にいる、この「死者とのコミュニケータ」は見たことも聞いたこともない、驚くべき存在だったに違いない。日本には、自分たちとは全く違う死生観を持ち、全く違う方法で死者と接する人がおり、その人をテーマにした映画を観るためにわざわざ足を運ぶ多くの日本人がいるという事実に、「なんだか分からないもの」を感じてしみじみ畏怖したのではなかろうか。
  
     彼らがこの映画をどう観たのか、早く知りたいと思う。

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2009年1月30日 (金)

「アンダーワールド ビギンズ」の不可解

  雨がざんざか降る中、虎ノ門まで出かけて、映画「アンダーワールド ビギンズ」を観る。化け物同士の戦いの話である。最初から最後まで、狼男族と吸血鬼族の血で血を洗う争いの映像が続く。しかしどうしてこういう話が欧米の方々はお好きなんだろうか。そこのところがもうひとつよく分からない。

  日本で言えば一つ目小僧とロクロ首の戦い、みたいなもんだがそんなもの誰も観たくないもんね。

  特筆すべきは、吸血鬼族の頭を演じた、ビル・ナイの鬼気迫る演技。青い目をぎらつかせながら、英国アクセントで芝居がかったセリフを吐き出すように喋るのだが、異様な存在感があった。パンフレットを見ると、英国の舞台で活躍し大きな賞を受賞している模様。「スティル・クレイジー」と「ラブ・アクチュアリー」ではともにピーター・セラーズ賞を受賞。「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」では半分イカ、半分人間の役を演じてMTVムービー・アワードを受賞したというから、半端な人じゃないよ、この人は。

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