書籍・雑誌

2013年12月21日 (土)

江藤淳の心の闇

    江藤淳の「近代以前」(文春学藝ライブラリー)を読んでいたら、ふと、引っかかる文章に出くわしたので、ここに書き留めておきたい。この本は江戸期の文人や儒者についての論考だが、論考そのものとは何の関係もなく、次のような述懐がさりげなく挟み込まれている。

 

<私は、日常生活が停年をひかえた老サラリーマンの前でなくても容易にひび割れるものであることを、その裂け目から非現実が顔をのぞかせるとき何がおこるかを、少しは識っている。それは「天使」の顔をしているとはかぎらない。しかし、何の顔をしているにせよ、それはわれわれの日常生活のいかだが浮かんでいる深い淵の存在を覗き見させ、われわれの生活がどんな脆弱な仮定の上にいとなまれているかを思い知らせる。>(P269「上田秋成の『狐』」)

 

  なぜ、引っかかったのか? 小学生時代の江藤淳は、家に引きこもって本ばかり読む、不登校児童の先駆けのような幼児期を送っていた。また愛妻を病で亡くした翌年、「自分は全く形骸化してしまった」という遺書を残し、66歳で、風呂の中でカミソリで手首を切って自殺してしまっている。それらの事実の背後に、余人には量りがたい江藤淳の心の闇を感じていたからである。

 

 我々が生きる日常がいかに脆弱なものであるのかを、少しは識っている、と書いた江藤淳は、若き日に、どんな闇を見たのだろうか

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2011年12月15日 (木)

笑っちゃうほど、分からない

 
   夜寝る前に、ベッドの中で本を読む。眠くなるまで読む。まあ、一種の睡眠薬のようなものだが、今、読んでいる本は、2ページも読まないうちに眠くなる。

  まるで気絶するように眠くなる。

  その本のタイトルは「フーコー」(河出文庫)。著者はジル・ドゥルーズ。ドゥルーズは1925年生まれのフランスの哲学者。70歳の時にアパルトマンから身を投げて自死している。

  その彼が、20世紀フランスを代表する知性の一人、ミッシェル・フーコー(1926-1984)について論じた本が「フーコー」である。

  これがもう笑っちゃうくらい、何が書いてあるか分からない。若いころは難解な本に出会うと、すごく腹が立って、ビリビリに破いて捨てたものだが、最近は、「よーし、どれくらい分からないか試してみよう」という遊び心が芽生えて、余裕をかまして読み進めるのだが、これが読めない。何しろ、眠くなっちゃうのだから。

   どのくらい分からないか、アトランダムに引用してみようか。

<しかし、フーコーにはもうちょっと安心させてくれる面もある。もし、言表が稀少であり、本質的に稀少であるなら、言表を生み出すために少しも独創性はいらないのだ。ある言表は、いつもこれに対応する空間に配分される特異性の放射、あるいは特異点の放射をあらわしている。こういった空間そのものの形成と変形は、創造、始まり、措定といった用語では、よく表現できないトポロジックな問題を提起する。>(P17-18)

  ね、笑っちゃうでしょ。何に笑っちゃうのかというと、ドゥルーズには、読者に理解してもらおうという気持ちはさらさらない、そのなさ加減に笑っちゃうのである。彼に限らず、フランスの知識人の書き物には、「分かる人だけ分かればよい。馬鹿は近寄るなでないぞ」という強烈な選別感がみなぎっているが、それはなぜなんだろうか?

  この途方もないエリート意識はどこから生まれるのだろうか。そのことに興味がわく。

  学生時代に、新潮社から刊行されたフーコーの「言葉と物」(結構高かった記憶がある)を買い、エンピツで線を引きながら読んだ記憶があるが、何が書いてあったかは全然、思い出せない。

  そういえば、今思い出したが、私はミッシェル・フーコーの講義を聴いたことがある。1975年だったと思う。サンミッシェルのソルボンヌ大学の廊下にある掲示板に、フーコーの特別講義がどこそこである、と掲出されていたのだ。

  おお、あのフーコーかあ、と思い野次馬気分で友人とふたりで、その教室に出かけた。教室は、サンデルの白熱教室のようなすり鉢状で、鉢の底の方で、黒っぽい服装の、ハゲのフーコーが話をしていた。
  
    何を話していたか? 何も覚えていない。日本語で講義がなされていたとしても多分、理解できなかったのではなかろうかと思う。ただ覚えているのは、この人が現代フランスを代表する知性の持ち主なのか、という畏怖するような気分になったことである。以来、フランス知識人には、なんともいえぬ畏怖を感じるようになってしまったのだが。

  

  

  

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2011年4月11日 (月)

国分拓「ヤノマミ」の大宅賞受賞を喜ぶ

     第42回大宅壮一ノンフィクション賞に、国分拓氏の「ヤノマミ」(NHK出版)が選ばれた。国分氏はNHKの報道局ディレクター。氏とは何の面識もないが、この本をいち早く読んで感動した者の一人として、今回の受賞は他人事ながら本当に嬉しい。

     一人のジャーナリストがその仕事人生の中で達成できる、括目すべき取材成果はほんの2、3本ではないかと思う。国分氏にとって、この「ヤノマミ」はその2,3本の1本で、もう、このように濃密で、人間の生き死に関わるような取材は、体力的にも精神的にも成しえないのではないかと思う。

     この本について書いたブログをコピペしておく。

     去年の4月5日と8日にこんなことを書いていた。

【新聞広告で妙に気になって、すぐにアマゾンで購入したその本のタイトルは「ヤノマミ」(NHK出版)。筆者はNHKのディレィターである国分拓氏。

    ヤノマミとは、アマゾンの最奥部、ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に、1万年以上にわたって生きる先住民で、保護区となったその地域に、約2万5000人~3万人が200以上の集落に分散して住んでいると言う。

「ヤノマミ」は部族の言葉で「人間」を意味する。国分氏は、そのヤノマミ族の生態をドキュメンタリーとして記録すべく、ワトリキと呼ばれる集落に、07年11月から08年12月にかけて4回にわたり、のべ150日間同居した(番組は09年4月、「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」と題されて放送された)。

    ワトリキには167人のヤノマミがほとんど全裸で、大きな円形のひとつ家で暮らしている。彼らは独自の文化、風習を守り続け、時に「最後の石器人」と呼ばれたりしているが、本書は、そんな彼らとNHKディレクターとの想像を絶する同居の記録である。震撼せざるを得ない体験の、赤裸々で正直な告白である。

    その体験がどのようなものであったかをここに記すのは、これから読もうとする読者に対してあまりにも申し訳ないので書かないが、その体験がどれほど心身にとって過酷なものだったかは、取材後に帰国した国分氏の「壊れっぷり」から想像できるだろう。

    国分氏はこう書いている。

<東京に戻ってからも、体調は悪化する一方だった。食欲がなかったし、食べるとすぐ吐いた。十キロ異状減った体重は中々元には戻らなかった。(・・・・・)
  外に出ると、よく転んだ。まっすぐ歩いているはずなのに壁に激突することもあったし、ぼぉーとしてトイレに行ったら、そこが女子トイレだったこともあった。何かが壊れたようだった。
  菅井カメラマンとは、あの場面を見てしまったショックからだろうと話し合った。あの日以来、菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになったと言った。僕はそんな夢は見なかったが、なぜか夜尿症になった。週に二、三回、明け方に目が覚めると、パンツとシーツがぐっしょり濡れていた。>(P309)

  ひとりのNHKディレクターをここまで追い込む世界は、我々の社会とは全く異質なものだった。<ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。>(P310)

  ひとつのエピソードだけ引用しておこう。先に国分氏は「あの場面を見てしまったショック」と書いているが、「あの場面」とはどのようなものだったのか?

  出産のとき、ヤノマミの女たちは森に入り、母親や姉妹が見守り、手助けするなかで産む。男たちは、その場所に参加することを許されていない。無事に子どもが生まれ落ちると、周囲の女たちはすっと引き下がり、生まれたばかりの赤ん坊と、たった今、その赤ん坊を産み落としたばかりの母親とを対峙させる。

  母親は、生まれ落ちたばかりのわが子をじっと見つめながら、しばしの間考える。何を? この赤ん坊を精霊のまま天に返す(殺す)か、人間として迎え入れる(生かす)かをだ。

  母親たちが何を基準にして赤ん坊の生殺を決めているのかは分からない。しかし、ある時は赤ん坊を抱いて集落に帰り、またある時は手ぶらで帰る。赤ん坊の生殺与奪は当の母親に握られている。

  国分氏らが目撃したシーンはこのようなものだった。

<一瞬嫌な予感がしたが、それはすぐに現実となった。暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を締め始めた。とっさに目を背けてしまった。すると、僕の仕草を見て、遠巻きに囲んでいた二十人ほどの女たちが笑い出した。女たちからすると、僕の仕草は異質なものだったのだ。失笑のような笑いだった。僕はその場を穢してしまったと思った。僕のせいで、笑いなど起きるはずのない空間に笑いを起こしてしまった。僕は意を決してローリの方に振り返った。視界に菅井カメラマンが入った。物凄い形相で撮影を続けていた。>(P218)

  カルチャー・ショックと一言で言えば簡単だが、アマゾンの奥地で国分氏らが味わった体験は、ことほどさように過酷なものだった。あとがきで国分氏は述懐している。

<僕はワトリキで人間が持つ「何か」に触れ、しかも、その「何か」を肯定したことだけは間違いなかった。言葉にすれば、レヴィ=ストロースが言ったように「人間が持つ暴力性と無垢さ」なのだと思う。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。たぶん、僕はそう思ったのだ。>(P313)

  夕刻、この本を読み終え、国分氏が作った番組を観てみたいと強く思った。さっそくPCで検索をかけると、すぐに出てきた。

    http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50797602.html

  国分氏が長い年月をかけて成し遂げた過酷なドキュメンタリー番組は、放映後にもかかわらず、じつに簡単にアクセスすることができる。これを見終えて、ふーっとため息をつき、ついその下にあるURLが目に入ったのでこれもクリックしてみた。
  
    アマゾンの別の部族のドキュメンタリーだという。

    YouTube - Origin of Faith - Disturbing

  愕然とした。Youtubeが映しだすのは、族長に命じられたからであろう、部族の生活の安寧のために、心身ともに薄弱な妹(4,5歳)を、その兄(15,6歳)が生き埋めにするシーンなのである。正直言って、最後まで見ることができなかった。気がつくと、思わず、停止ボタンを押してしまっていたのだ。

  心が冷え冷えとしてきた。気温も気持ちもどん底なまま、車で渋谷に出かけた。話題の韓国映画「息もできない」を見るためである。日曜日の最終回にもかかわらず、ほぼ満席の盛況である。見終えて、気分はますます、ダーク&ヘヴィーに落ち込んだ。

    これもまた、「人間が持つ暴力性と無垢さ」のドラマである。それは確かにそうである。しかし、「暴力性と無垢さ」という整理された言葉で総括した途端に消し飛んでしまう「ゾワゾワとした何とも知れず気分の悪いモノ」がこの映画には充満している。】

【前回、国分拓氏の新著「ヤノマミ」を紹介しつつ、アマゾンの最奥部に住む先住民社会には、「人間が持つ暴力性と無垢さ」が裸形でうずくまっている、という話を書いた。

  あまりに気分がダークだったので、書き続ける気が起きず、そのままアップしてしまったのだが、もう少し書き足しておきたい。

「暴力性と無垢さ」は対極的な概念ではなく、両者はお互いに手に手を取り合っているような親密で、不即不離の関係なのではないかと、思った。

「無垢さ」に似た言葉で「無知」というものがある。「無知」は「暴力」を増長させる、ということについてはどちらさまもご理解いただけると思う。無知故に暴力性が加速してしまった例というのは枚挙にいとまがないだろう。

    ところで、「無知」というのは「知っているべきことを知らない」ということである。そして、「無垢」というのは、「自分は<知っているべきことを知らない>ということについて無知である」ということなので、実は「無知」よりも一層たちが悪いのではないかと思う。

「無垢」は「暴力性」を激しく加速する。

  というような由なしことを、のらりくらりと通勤電車の中で考えていた。

  さて、「ヤノマミ」に書かれてあるエピソードの中で、とても興味深かったものを書き留めておきたい。

  国分氏とカメラマン氏は、ある日、村の広場で、村人全員を前にして歌をうたうことを強要されたと言う。困った国分氏は「赤とんぼ」を歌った。

  カメラマン氏は、たぶん十八番なのだろう、「島唄」を歌い上げた。すると、その夜、ヤノマミの人々がカメラマン氏のところにやってきて、「島唄」をもう一度歌え、歌えとやかましい。

  そうなのである。「島唄」が、ヤノマミ族の人々の心に刺さったのである。「島唄」はご存知のように、伝統的な沖縄の美しい旋律で成り立っている。言ってみれば、東南アジア的心性の上に咲いた楽曲である。これにヤノマミ族は反応したのである。

  この話を知って、すこし目眩のようなロマンを感じた。アマゾンの奥地に住む先住民たちはモンゴロイドである。何万年か前に、彼らの先祖は遙かアジアの地を旅立ち、凍てついたアリューシャン列島を通り、北米大陸に渡った。

  あるものは北米の最北部に残ってエスキモーに、またあるものはインディアンとして大陸に住み着いたが、またあるものはさらに南下を続け、中南米大陸に渡り、先住民となった。

  何万年も前に故郷を旅立ち、何万キロも離れたジャングルの奥地に住み着いた彼らの心に、今もなお、アジア的リリシズムに感応する感覚が残っているのではないか、と思うと、気が遠くなるようなロマンを感じてしまうのである。】

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2011年3月 9日 (水)

後藤正治「清冽 詩人茨木のり子の肖像」を読み終えて

 もう呆れるほど長い間更新していない。忙しくて、ゆっくりと何事かを書き付ける時間がない。というか、書き付けるべき内容を思いつかない。いや、思いつくけど、ゆっくりと考える余裕がない。などと言い訳を書いているが、まあ、忙しすぎるんだな。

  前回のブログで、あらゆる書き物の背後には、その筆者の書かずにはいられない「已むに已まれぬ思い」がなくてはならない、という話を書いた。そのようにして書かれた書き物を、読者は抜き身の我が身を捻りこむようにして読み込むのだ、とも。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-9319.html

  昨夜読み終えた後藤正治氏の新刊「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(中央公論新社)は、まさに筆者・後藤氏の「已むに已まれぬ思い」が巻頭からあとがきにまで貫通する一冊だった。

  茨木のり子の名前は知っていたが、その詩集を読んだことはない。従って、その詩人に興味を抱いたこともないけれど、とても興味深く読み終えることができた。感動さえした。それはひとえに、筆者・後藤氏の「茨木のり子に対する恩義」のようなものが全編に溢れかえっているからだ。

  後藤氏は、若き日に茨木の詩に接し、近年になってじっくりと茨木の詩集を読みこむことになったという。詩人が紡ぎ出す言葉は、後藤の背中を押し、生きる力を授けてきたのである。その恩義ある詩人は、若くして夫に先立たれ、晩年をひとりでひっそりと静かに暮らし、そして誰にも看取られることなく自宅で亡くなった。

  決して幸福な一生だったとは言いがたい人生を送った、一人の女性詩人の生涯を極めて丁寧な取材でトレースし、後藤は、生前には親交のなかった詩人の素顔に、頬を接するようにして肉薄する。時に哀切であり、また時に粛然とさせられる。

  本のカバーをはずすと、扉に、若き日の美しき茨木のり子の写真がモノクロで印刷されている。まだ20代だろうか。笑みを浮かべ、生気に満ち溢れた穏やかな表情を見せている。この美しい女性が、この何十年か後に、80歳を目前にして、東伏見の古くなった自宅のベッド中で一人死んでいったのかと思うと、ひとの一生の条理のなさ加減をしみじみと思い知らされる。

<戦中、敗戦、戦後、現在・・・・時代の相貌は著しく変わり続けた。けれども、いつの世も、人が生きる命題においては何ほどの変わりはないのかもしれない。自身を律し、慎み、志を持続してなすべきことを果たさんとする―――。それが、茨木のり子の全詩と生涯の主題であり、伝播してくるメッセージである。>(p263)

  最後に茨木が60代のときに書いた「さくら」という詩を掲げる。

<ことしも生きて
 さくらを見ています
 ひとは生涯に
  何回ぐらいさくらをみるのかしら
  ものごころつくのが十歳ぐらいなら
  どんなに多くても七十回ぐらい
  三十回 四十回のひともざら
  なんという少なさだろう
  もっともっと多くみるような気がするのは
  祖先の視覚も
  まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
  あでやかとも妖しとも不気味とも
  捉えかねる花のいろ
  さくらふぶきの下を ふららと歩けば
  一瞬
  名僧のごとくにわかるのです
  死こそ常態
  生はいとしき蜃気楼と>

  詩などなくても人は生きていける。だけれども、一編の詩もない人生は、ひとしお淋しいものだと、これを読んでいて思う。

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2011年2月11日 (金)

内田洋子「ジーノの家」を読んで目頭を熱くする

    以前、このブログで、村上春樹の最近の小説はあまり好きではない、と書いたことがある。極初期の小説、「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」や「中国行きのスロウ・ボート」などはずいぶんと熱心に読んだ記憶があるが、それ以降の長編群はどうしても好きになれない。

    どうしてなのだろう、と長い間考えていたのだが、 つい最近、内田洋子さんの本「ジーノの家」(文藝春秋)を読んでその理由が分った。内田さんのこの近著は「イタリア10景」と副題が副えられたエッセイ集である。30年にわたるイタリア生活での見聞、経験を淡々と綴った美しい本である。

    1ページづつ、ゆっくりと読み進めているうちに、この文章を綴らずにはいられなくなった内田さんの「已むに已まれぬ思い」に出くわして、思わず目頭が熱くなった。
   
    そのときに、思い至ったのである。初期の村上作品にあって、最近の長編では失われてしまったものは、他でもない、筆者の、この「已むに已まれぬ思い」なのではないかと。あらゆる「書き物」には、その背後に、筆者の「已むに已まれぬ思い」が張り付いていなくてはならないと、私は経験的に確信している。それがないすべての「書き物」は、遺書であれ、ラブレターであれ、小説であれ、空疎な文字の連なりにすぎない。

    初期の村上作品に接したころ、私は20代で、確かにそこに、同じく20代だった村上氏の「已むに已まれぬ思い」を嗅ぎ取っていたのだ。痛いほどに共感し、心を揮わせたものだったのだ。しかし、それ以降、本格的な作家活動に入ってからの村上作品から感じるものは、作家の職業的惰性に基礎付けられた営為だった。

    ややこしい書き方だが、簡単に言うと、「お仕事で書いてるなあ」という思いだった。もっと言えば、「物語を物語るために、物語っているなあ」という感懐だった。私はもはや、これを書かずにはいられない村上氏のかつえた情動を察知することができなくなってしまったのだ。

    当然のことながら、私が鈍くなってしまったせいもあるだろうし、村上氏と共有できる体験も感覚も少なくなってしまったからでもあるだろう。しかし、そのことを差引いても、小説の背後に張り付く「已むに已まれぬ思い」は希薄化したのだと思う。

    つい先ごろの芥川賞受賞者、西村賢太氏の小説に色濃く横たわっているのは(背後に張り付いているどころではない)、この凶悪な相貌をした一人の男の「このことを書かずには死んでも死に切れぬ」という強烈な飢餓感である。彼の小説を読むものは、好むと好まざるとにかかわらず、すぐにこの肥大した「已むに已まれぬ思い」にぶちあたってたじたじとさせられる。

    もう一人の受賞者の繊細で技巧的で脳内作業的小説に比すれば、骨太で、無技巧で、極めて肉体的である。しかし、読者はこの無骨な「已むに已まれぬ思い」に強く揺り動かされる。最後に人を揺り動かすのは「知性」ではなく「感性」なのだと思い知らされるのである。

    前置きがはなはだしく長くなった。内田洋子さんの「ジーノの家」に戻りたい。

    人はたまたまこの世に生まれ出る。1万年前でもなく1万年後でもなく、なぜかこの時代に、なぜかこの惑星に生を受ける。悠久の時の流れの中のこの瞬間にたまさか生まれ落ち、瞬きするほどの短い時間をこの地で過し、そしてまた二度と戻れない冥暗のなかに消え去っていく。

    ほんの短い時間、私たちはこの世界を目撃する。天を仰ぎ地をながめ、雲や風を感じ、街並みや人をみつめ、この世界を観照する。そのことの「有難さ」を、我々は日常的にはなかなか悟ることがない。

    しかし、人生も終盤に至り、この「観照時間」終了の刻限が徐々に近づいていることを自覚しはじめた途端に、世界はその輪郭をくっきりと現し、輝きを増し始める。

    街並みも、カフェの主人も、すれ違う犬も、降りしきる雪も、「かけがえのないもの」として眼前に立ち上がってくる。

    この「ジーノの家」に収められた文章はいずれも、30年のイタリア生活のなかで内田さんが出会った「かけがえのないもの」についての、愛惜をこめて綴ったレポートである。あるいは、長い間自分を受け止めてくれた、イタリアとイタリア人への「已むに已まれぬ思い」のこもったラブレターである。

    あとがきの中で内田さんは書いている。

<行き詰ると、散歩に出かける。公営プールに行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じっと観る。ときどきバールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。生活便利帳を繰るようであり、秀逸な短編映画の数々を鑑賞するようでもある。
  名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。>
  
    ほんとうに「かけがえのないもの」は、失うことによってしか手に入れられないのかもしれない。

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2011年1月24日 (月)

浅田次郎著「一刀斎夢録」読了

 
    昨日の夜、赤坂にある麺通団できつねうどんの大盛りを食べてから、めちゃくちゃ腹部が気持ちが悪い。吐き気も下痢もないから、単なる食べすぎか、あるいは風邪か。

  食欲はゼロ。何も食べたくないばかりか、昨日のうどんのことを思い浮かべると、うっと胸がつかえる。

  病院に行ってきたが、「多分、食べすぎでは」としか診断してくれない。本当か? 消化剤をもらって白湯で服むが、特に変化はない。

  問題は今夜の会食である。市ヶ谷の中国飯店である。全く食欲がないばかりか、完全に脱力・病気状態なのに、中華が食えるのだろうか? 分からない。

  昨日の夕方、背中が寒いのにシコシコとブログを更新していたのが悪かったのか。

  浅田次郎著「一刀斎夢録」(文藝春秋刊)を読み終える。大正の頭まで生き延びた新撰組隊士の「昔語り」という形で物語りは展開する。

  読み終えて、結局、浅田次郎という作家は、「君を千里送るとも、終には須く別すべし」という人生の宿業について、そのことについてのみ書き続けている作家なのではないか、という気がした。

  ああ、腹が気持ち悪い・・・・。

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2010年4月 5日 (月)

「人間が持つ暴力性と無垢さ」

 
    この日曜日、お花見に行こうと考えていたのだが、あまりの寒さに中止。気温自体はさほど低くないのに、なぜか体の芯がズンと冷えるような薄ら寒さである。こういうのを「花冷え」というんだろうな、と思いつつ、やることもないので手元にあった本を読み始める。

    新聞広告で妙に気になって、すぐにアマゾンで購入したその本のタイトルは「ヤノマミ」(NHK出版)。筆者はNHKのディレィターである国分拓氏。

    ヤノマミとは、アマゾンの最奥部、ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に、1万年以上にわたって生きる先住民で、保護区となったその地域に、約2万5000人~3万人が200以上の集落に分散して住んでいると言う。

「ヤノマミ」は部族の言葉で「人間」を意味する。国分氏は、そのヤノマミ族の生態をドキュメンタリーとして記録すべく、ワトリキと呼ばれる集落に、07年11月から08年12月にかけて4回にわたり、のべ150日間同居した(番組は09年4月、「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」と題されて放送された)。

    ワトリキには167人のヤノマミがほとんど全裸で、大きな円形のひとつ家で暮らしている。彼らは独自の文化、風習を守り続け、時に「最後の石器人」と呼ばれたりしているが、本書は、そんな彼らとNHKディレクターとの想像を絶する同居の記録である。震撼せざるを得ない体験の、赤裸々で正直な告白である。

    その体験がどのようなものであったかをここに記すのは、これから読もうとする読者に対してあまりにも申し訳ないので書かないが、その体験がどれほど心身にとって過酷なものだったかは、取材後に帰国した国分氏の「壊れっぷり」から想像できるだろう。

    国分氏はこう書いている。

<東京に戻ってからも、体調は悪化する一方だった。食欲がなかったし、食べるとすぐ吐いた。十キロ異状減った体重は中々元には戻らなかった。(・・・・・)
  外に出ると、よく転んだ。まっすぐ歩いているはずなのに壁に激突することもあったし、ぼぉーとしてトイレに行ったら、そこが女子トイレだったこともあった。何かが壊れたようだった。
  菅井カメラマンとは、あの場面を見てしまったショックからだろうと話し合った。あの日以来、菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになったと言った。僕はそんな夢は見なかったが、なぜか夜尿症になった。週に二、三回、明け方に目が覚めると、パンツとシーツがぐっしょり濡れていた。>(P309)

  ひとりのNHKディレクターをここまで追い込む世界は、我々の社会とは全く異質なものだった。<ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。>(P310)

  ひとつのエピソードだけ引用しておこう。先に国分氏は「あの場面を見てしまったショック」と書いているが、「あの場面」とはどのようなものだったのか?

  出産のとき、ヤノマミの女たちは森に入り、母親や姉妹が見守り、手助けするなかで産む。男たちは、その場所に参加することを許されていない。無事に子どもが生まれ落ちると、周囲の女たちはすっと引き下がり、生まれたばかりの赤ん坊と、たった今、その赤ん坊を産み落としたばかりの母親とを対峙させる。

  母親は、生まれ落ちたばかりのわが子をじっと見つめながら、しばしの間考える。何を? この赤ん坊を精霊のまま天に返す(殺す)か、人間として迎え入れる(生かす)かをだ。

  母親たちが何を基準にして赤ん坊の生殺を決めているのかは分からない。しかし、ある時は赤ん坊を抱いて集落に帰り、またある時は手ぶらで帰る。赤ん坊の生殺与奪は当の母親に握られている。

  国分氏らが目撃したシーンはこのようなものだった。

<一瞬嫌な予感がしたが、それはすぐに現実となった。暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を締め始めた。とっさに目を背けてしまった。すると、僕の仕草を見て、遠巻きに囲んでいた二十人ほどの女たちが笑い出した。女たちからすると、僕の仕草は異質なものだったのだ。失笑のような笑いだった。僕はその場を穢してしまったと思った。僕のせいで、笑いなど起きるはずのない空間に笑いを起こしてしまった。僕は意を決してローリの方に振り返った。視界に菅井カメラマンが入った。物凄い形相で撮影を続けていた。>(P218)

  カルチャー・ショックと一言で言えば簡単だが、アマゾンの奥地で国分氏らが味わった体験は、ことほどさように過酷なものだった。あとがきで国分氏は述懐している。

<僕はワトリキで人間が持つ「何か」に触れ、しかも、その「何か」を肯定したことだけは間違いなかった。言葉にすれば、レヴィ=ストロースが言ったように「人間が持つ暴力性と無垢さ」なのだと思う。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。たぶん、僕はそう思ったのだ。>(P313)

  夕刻、この本を読み終え、国分氏が作った番組を観てみたいと強く思った。さっそくPCで検索をかけると、すぐに出てきた。

http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50797602.html

  国分氏が長い年月をかけて成し遂げた過酷なドキュメンタリー番組は、放映後にもかかわらず、じつに簡単にアクセスすることができる。これを見終えて、ふーっとため息をつき、ついその下にあるURLが目に入ったのでこれもクリックしてみた。
  
    アマゾンの別の部族のドキュメンタリーだという。

YouTube - Origin of Faith - Disturbing

  愕然とした。Youtubeが映しだすのは、族長に命じられたからであろう、部族の生活の安寧のために、心身ともに薄弱な妹(4,5歳)を、その兄(15,6歳)が生き埋めにするシーンなのである。正直言って、最後まで見ることができなかった。気がつくと、思わず、停止ボタンを押してしまっていたのだ。

  心が冷え冷えとしてきた。気温も気持ちもどん底なまま、車で渋谷に出かけた。話題の韓国映画「息もできない」を見るためである。日曜日の最終回にもかかわらず、ほぼ満席の盛況である。見終えて、気分はますます、ダーク&ヘヴィーに落ち込んだ。

    これもまた、「人間が持つ暴力性と無垢さ」のドラマである。それは確かにそうである。しかし、「暴力性と無垢さ」という整理された言葉で総括した途端に消し飛んでしまう「ゾワゾワとした何とも知れず気分の悪いモノ」がこの映画には充満している。

    それをどう評していいものやら、僕にはよく分からないのだ。花冷えのする4月の夜、僕はうつむいて公園通りを歩くしかなかった。

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2010年3月14日 (日)

候文は難儀にて候

  久しぶりに休日出勤。腹ごしらえに近所の牛丼松屋で牛丼を食う。しかし、なんで味噌汁がこんなにぬるいんだ。吉野家でもそうだけれども、指をつっこんでもちっとも熱くないのが、牛丼界の常識なのか?

  マクドナルドの熱いコーヒーを自分の股間にぶっこぼして火傷し、大金をせしめたアメリカ人のオバハンがいたが、その手のクレーマーを恐れてのことなのか。あるいは、あまり熱いと客がフーフーいってさますので時間が余計にかかって回転が悪くなるからなのか。

  いずれにせよ、生ぬるい味噌汁は許せん! なので、全部残してしまった・・・・・。

  ひょっとして、今、世間の味噌汁の温度は、このくらいが普通になってしまっているのか? もし、そうだとすると日本人の劣化は、味覚にも及んでいると断ぜざるを得ない。

    どこかの雑誌が、日本人はどんどんバカになってきているという痛快な大特集をやっていたが、バカになってきているのは、オツムだけではなく、舌もなのかも。

  最近、せっせと読みふけっているのが大佛次郎の「天皇の世紀」。面白くてたまらん、という話はすでに書いたが、依然として読み終わっていない。

    文春文庫で最近出版された(<歴史文学の名著、待望の復刊! 明治維新のすべてがここにある。>と帯に書かれている)ものを読んで一挙にその世界に引きずり込まれたのだが、月に1冊ずつしか刊行されないので、刊行ペースが遅すぎて待っていられない。

    仕方がないのでアマゾンで昭和52年に出た昔の朝日文庫を入手して読みついでいる。しかし、これが全17巻ときたもんだ。しかも、昔の文庫本だから活字が小さく、かつすでにインクが褪色してしまって読み辛いことこの上ない。

    おまけに候文の手記、日記、手紙、書籍の引用が山のようにあって、とてもすらすら読めるようなシロモノではない。候文というのがどういうものか、引用してみよう。
   
    1846年に黒船が浦賀に来た直後、徳川斉昭が老中の阿部伊勢守に宛てて書いた手紙である。

<夷狄は一疋も残らざるよう召捕次第、打殺し切殺し候よう、厳重御達に相成候よう致したく候。内地の戦争は勝利これあり候えば、土地をも得候故、励み候場もこれあり候えども、異船防禦の儀は何の益もこれなく候えば、せめて、船、筒(大砲)等にても取得候えば、少しは励みの為に相成べく候>(文春文庫版 第1巻 P171~172)

  同書の最初の頃こそ、大佛氏の「地の文章」が多かったのが、巻が進むに連れて、候文の引用がはなはだ多くなってくる。大佛氏も疲れてきたのかもしれない。

  候文もパターンを飲み込めば読めるようにはなるけれど、しかし、現代文ほどにはスムースにいかない。そんな訳で、目下第9巻目を読み進んでいるところ。

  先に、日本人が劣化していると書いたけれど、同書を読みつつそのことを考えていた。

    この「天皇の世紀」は明治100年を記念して、朝日新聞紙面に連載されたものである。ちなみに、新聞各紙は明治100年を記念して似たような企画を進めている。読売新聞は「昭和史の天皇」、産経新聞は司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」。

  つまりこの「天皇の世紀」は朝日の朝刊に載った新聞小説なのである。江戸幕府が崩壊して100年。1967年当時、まだ日本には新聞の読者層の中に、この候文を普通に読みこなす人が大量にいた、ということなのである。

  そうでなくては、新聞小説として成立しないであろう。翻って現在、朝刊の連載小説にこの手の候文を頻出させていたら、おそらく読者は離反するだろう。いや、むしろ、ついて来られないに違いない。

  その時から早40年。明治維新から140年。この小説を難渋しながら読み進めつつ、我が身を含めて、我々がどれほど劣化してしまったかをつくづくと思い知らされるのである。

  それはさておき、小説そのものについてだが、すべて読了後にあらためてきちんと書きたいと思うけれど(思うだけでやらないかも知れないので急いで記しておくのだが)、読んでいてすぐに分かったことは「明治維新とは、とてつもなく血生臭い、血で血を洗う抗争であった」ということである。

  それはほとんど「革命」に近い。テロルを含め、日常茶飯事的に人殺しが横行した時期だった。人殺しだけではない。ほいほいと人が腹を切る。実にカジュアルに従容として自殺を遂行しているのである。

  刑罰としての首切りも、実に頻繁に行われている。首を切って切って切りまくっている。切り取った首級を道端に晒したり、あるいは腐らないように塩漬けにして桶に入れ、遠地へ証拠として送り届けたりしている。まことにすさまじい時期なのである。

  かろうじて(ほとんど運だけで)生き残った者たちによって担われたのが明治維新であったということがよく分かる。(横道にそれるが、朝日新聞の読書欄を読んでいたら髙村薫氏が岩波新書「清水次郎長」の書評でこう書いている。<幕末維新とは、大義や志より、ともかく濁流を乗り切った者が歴史をつくることの見本のような時代だったのではないかという思いを強くした。> うまいこと言うね)

  この時期に顕在化した我々の「残忍性」(ある目的のために、人を殺したり、あるいは自死することをへとも思わぬ心性)は、その後も脈々として我々の中に息づいており、折に触れて激しく露呈するように思われる。

  それは、太平洋戦争時や過激派が跋扈する時期に強く顕在化した。日本刀を振りかざして吶喊する日本兵や、仲間を惨殺した赤軍派兵士らは、まぎれもなく、幕末の志士たちのアバターであり、おそらくこの心性は今後もこの国の変革の時期に必ずや浮上してくるに違いない。

  そんな時代は、少なくとも私が生きている間には到来しないでほしいと切に願うけれど。

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2009年12月17日 (木)

内田樹「日本辺境論」を読んで分かったこと

  内田樹氏の「日本辺境論」(新潮新書)を読了。といっても、発売と同時に買って読み終えたので、読了したのは随分前のことなのだが、なかなか感想を書く気がおきなくて今日になってしまった。

  書く気がおきなかったのは、もちろん、あまり刺激的ではなかったからである。なぜ刺激的ではなかったかというと、その理由ははっきりしている。氏のブログをこまめにチェックしている「タツラー」(内田ファン)の身には、書かれていることの大半がすでに、氏のブログで読んでしまっていることだったからである。つまり、「この話、もう読んだことがあるよ!」という、はなはだ新鮮味に欠けた内容に思えたからである。

  やっぱり、書下ろしの新刊を上梓する場合には、その中身をちょろちょろ小出しにするべきではないのではないかと思わざるをえない。それは、言ってみれば、ある映画をロードショーで公開する前に、パート、パートをTVで小出しに見せるような、あるいは、絶世の美女が、結婚前にパートナーにその裸身をチラチラ晒して見せるような、そんな種類の愚挙に類するのではないか(ちょっと違うか?)。

  そんな退屈さの中で、おや、と強く興味を引かれたのは、内田氏が人称代名詞に関して言及している個所だった。内田氏は、この本を書き始めるにあたって、自身のことを「ぼく」と記述することにしたのだという(なんだか村上春樹みたいだが)。ところが、あれこれ難しい話を書いているうちに、どうしても「ぼく」では乗り切れなくなったというのである。内田氏はこう書いている。

<(・・・・)とにかく勢いで突破せねばならない行論上の難所にぶつかったとき、「私」に切り替えたのです。「ぼく」では腰が弱すぎて、この難所を越えられないと思ったからです。

「ぼく」という書き手は読者と非常に近い位置にいる(ことになっている)。だから、想定読者がたぶん知らないような人名や概念には言及しない(言及する場合もかならずていねいに説明して、「周知のように」というような意地悪なことはしない)。いつも読者と「同じ目線」をキープして、「この人は、読者を置き去りにすることはないよな」と読者を安心させておいて、ゆっくり進んでゆく。ところが、ときには読者との親密な距離を保っていると飛び越えることができない行論上の段差に出くわすことがあります。読者と手を繋いで歩いている限り、それは飛び越えられない。一時的にではあれ、読者を置き去りにして、書き手だけが必死の思いで「向こう側」に飛び移り、それから縄梯子を作って垂らすというような二段構えでゆかないと越えられない難所がある。>(P213-214)

  内田氏は、これに続けて、とりわけ、「宗教」のことを論じ始めたときに、「ぼく」で書き続けることに困難を覚えた、と告白している。それを読んで、どれどれと、その部分を再読してみると、「私を絶対的に超越した外部」(P159)という文言に出くわした。なるほど、確かにこれが、「ぼくを絶対的に超越した外部」であったならば、どうにも緊張感が足りないよな、と実感した。へなへなでなかなか前に進みにくいというのはよく理解できる。

    それだけではなく、「日本辺境論」は全編「です・ます」で書かれているが、注意深く読むと、ところどころでそれが破綻している。「だ、である」に切り替わっている場所が数箇所あるのである。これも、「行論上の難所」を乗り越えていくためには必要な処置だったのだろうな、となんとなく納得できないわけではない。

  しかし、さて、とその次に思ったのである。「私」が「ぼく」でも、「だ、である」が「です、ます」であっても、本1冊を通じて筆者が読者に伝えたいと思ったことは、ちゃんと伝わるのではないか。筆者が懸念するほどに、語句の微妙な差異は、読者の理解の妨げにはならないのではないか、と感じたのである。

    なぜというに、たとえば、外国語で書かれた文章を読んでいるときのことを思い起こしてみればいい。英語ならば、Iという「私」があり、BEという「です、ます」 があるばかりなのに、私たちは、それを適切に日本語に置き換えて筆者の言わんとするところを理解しているのである。同様の脳内作業を行えば、内田氏が読者に伝えたかったことは、「私」が「ぼく」でも、「だ、である」が「です、ます」であっても、理解はできるはずなのである。

    つまり、内田氏がこの本一冊を使って読者に伝えようとした「知的な標高」は、語彙の瑣末な差異(しかもその差異は、日本語のネイティブでないと、感覚的には理解しがたいだろう)などとは関係なく、読者の知的作業を経由して十全に伝達されるのではないか。

    そう考えていたときに、内田氏のブログで、こんな文章に出くわして、なーるほど、とまたしても思ってしまったのである。

<書物を読むというのは理想的にはその書き手の思考や感情に同調することであるけれど、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そんなことは起きない。
私たちにできるのは、文字を読むことと音声を聴くことだけである。
書き手の脳内に何が起きたのかを知ることはきわめて困難であるけれど、書き手がその文字を書き記していたリアルタイムにおいて書き手が「その文字」を視認し、「その音声」を聴取していたことはまちがいない。
その文字を見つめ、音を聴く限り、読み手と書き手は「同じ経験」を共有している。
「作者は何が言いたいのか?」というようなメタレベルに移行した瞬間に、「同じ経験」の場から私たちは離脱してしまう。
あらゆる感情移入はまず身体的体験の同調から始まるべきだと私は思う。
そのためには「理解する」や「解釈する」や「批判する」より先に「見る」と「聴く」にリソースを集中すべきだと私は思っている。
たいせつなのは外部からの入力を自分の脳内に回収して、分類し、整序してしまうより前に、手つかずの外部入力「そのもの」に、「生」の入力情報に、身体的に同調してみることだと思う。>(2009年11月28日)

 つまり、内田氏は、内田樹が、キーボードでその文字を打ち込み、脳内ではその文字を音声化して反芻している、まさにそのリアルタイムの成行きにこそ、読者は同調すべきなのだと言っているのである。外国語を日本語に置き換えて、読み進む行為に一瞬遅れて理解するような、調理的理解ではなく、今目の前で生成する「生モノ」に接する行為こそが読書の醍醐味なのであると、繰り返し主張しているように思える。だからこそ、内田氏にとって、一人称は「ぼく」ではなく「私」であらねばならず、「です、ます」が時には「だ、である」に変換される必要があったのだな、と理解できる話ではある。

 そして、この文章を読んでいるうちに、私にとって、「内田氏の書き物を読む快感」というものがどういうものであるのかが、分かったような気になった。

 端的に言うと、「内田氏の書き物を読む快感」とは、その書き物が到達した「知的な標高」の高さそのものではなく、内田氏がその「標高」に到達するまでのプロセスの「特異さ」を味わう喜びなのである。「知的な頂上」(それがエベレスト並みなのか愛宕山並みなのかは読者ひとりひとりによって異なるだろうが)に辿り着くまでの、内田氏の、その登りっぷりを見ていること楽しくて仕方ないのだ。

 内田氏は、ときに片手で、時に墜落しそうになりつつも、誰も登ったことのないルートを(わざわざ選びながら)、素手で、果敢に攻めるのである。氏が「理路」といい「行論」というのは、まさにこの「登攀ルート」に他ならない。その奇抜でアイデアに富み、かつアクロバッティックな「登り方」が、下から見上げているものにはたまらなく面白いのだが、登攀者にしてみれば命がけである。

 手が滑れば、真っ逆さまの即死だからこそ、「ぼく」ではなく、「私」という人称のロージンバッグを手のひらに丹念になでつけながら、内田氏は今日も、一歩一歩這い上がっていくのである。まことに申し訳ないけれど、それを下から見物させていただく恍惚は、読書が持つ、無上の喜びを私に思い知らせてくれるのである。

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2009年11月23日 (月)

岸恵子とへちまタワシと本間雅晴中将

●前項のタイトル「机上の脅威」というのは中学生のときに観たフランス映画「頭上の脅威」(Le Ciel sur la tête) (1964) のもじりだったのだけど、そのことに気付いた人は多分誰もいなかったに違いない。フランス海軍の誇る新鋭空母クレマンソーと、未知の飛行物体との遭遇を描いたSF作品。当時軍事おたくだった中坊は、撮影に本物のクレマンソーが使用されていることにいたく感激したものだった。監督は、岸恵子の亭主(当時。1975年に離婚)だったイヴ・シャンピ。

   1975年に岸恵子が結婚のために渡仏する際には、「一羽の美しい鶴が海を渡っていってしまった」とみんなが大いに嘆いたという。確かにその嘆息も理解できるほどに、1960年に公開された市川崑の映画「おとうと」(Tendre et Folle Adolescence)に登場する岸恵子はたとえようもなく美しい。

   原作は幸田文。フランス語のタイトルがついているのは海外で公開された際のものに違いない。岸恵子の美しさはその後も衰えることなく、1972年の「約束」(斉藤耕一監督)では40歳の大人の女の色香と哀しみを、思う存分表出していた。すっかりやられてしまった私はこの映画を5回ほど観た。最後には新宿の映画館内にオープンリールの大きなテープレコーダーをこっそりと持ち込み、全部を録音。

   まるでフランシス・レイのように流麗な宮川泰の音楽だけではなく、セリフまで暗記してしまうほどに繰り返し繰り返し聴いたものだった。音楽だけではない。まるでクロード・ルルーシュのような映像も、当時の日本映画にはありえないもので、長いレンズを逆光の中で平然と使用するそのテクニックに惚れ惚れとしてしまったものである。

   1975年の3月の夕暮れ。パリ17区の公園の脇を歩いていた私は、偶然、岸恵子さんにばったり逢ってしまった。思わず目をむいて駆け寄り、「き、岸さん、ファンです・・・・・」。にじりよる私を岸さんは不安な目で見つめるのだった。

●会社の部下が先日のシルバー・ウィークに中東にヴァカンスに出かけた。女性の一人旅である。出かけた先が、レバノン、アラブ首長国連邦・・・・。そんなところにヴァカンスに出かける気持ちが分らないが、本人は「日本人が全くいないのでずいぶん珍しがられて、親切にしてもらいました」と意気軒昂である。部署の仲間に土産として石鹸を買ってきた。レバノン製の石鹸である。

 アラビア文字なので、それが洗濯石鹸なのか浴用石鹸なのかよく分らないのだが、匂いを嗅ぐといい香りがするので、多分これで体を洗っても大丈夫なのだろうと思い一個もらった。半径10センチほどの円形で、厚みが1センチほど。透明な石鹸をじーっと見つめていると、内部になんだか白い繊維状のものがつまっている。

   なんじゃ、これは、とよく観察すると、どうも「へちまタワシ」のようなのである。つまり丸い石鹸の中にヘチマが入っていて、石鹸をそのまま体にこすりつけると、石鹸がすこしづつ後退してタワシが露出し、体をごしごし洗ってくれるという寸法なのだ。ヘチマたわしにいちいち石鹸を付けるのが面倒なので、ええいっ、一緒にしてしまえ、というアイデアなんだと思う。

   これを観て、「うーん、ヒズボラの国だけあって、やることがズボラだね」とダジャレを飛ばしたが、誰にも受けなかった・・・。

   次に考えたことは、「ヘチマたわし」は極めて日本的な産物だと思っていたけれど、レバノンの石鹸がこういうことになっているということは、ひょっとして「ヘチマたわし」のルーツは中近東なのかもしれない、ということだった。ヘチマは胡瓜に似ている。胡瓜の「胡」の字は中国から見て西域、中近東あたりを指す文字である。

   胡麻も胡坐も胡椒もすべて原産地は中近東である。そこで「へちま」を調べると、「糸瓜」の別名とあり、原産地はインド。日本に入ってきたのは江戸時代とある。まあ、推測はほぼ的中したことになる。

   驚くべきことはこの次に記すことである。「ヘチマ」は「糸瓜」と書き、「いとうり」と呼ばれたが、そのうちに「とうり」と呼ばれるようになった。「と」の「うり」ということである。ところで、「と」は「いろは」の順番で言うと「へ」と「ち」の間に位置する。「へ」「ち」「間」。かくして、「とうり」は「へちま」となったんですと。知ってました?

●前項で、いろんな本を買い込んで収拾がつかなくなっているという話を書いたけれど、亀の歩みのごとくコツコツと楽しみながら一冊一冊読み進めている。立花隆氏や佐藤優氏のように「映像で読む」という芸当ができないどころか、一字一字声を出して読みそうな按配なので遅々として進まぬが、まあ、それも仕方ない。しかも浮気性なのであれを読み、これを読み、それにも手を付けるというだらしなさなのではなはだ効率はよろしくない。

   そんな中で、目下、夢中になっているのがジョン・トーランドの「大日本帝国の興亡」で、すでに第三巻目まで来た。古本(38年前に刊行)なので、文字のインクが色あせて灰色になっていて読みにくいことや、えらい黴臭いのが玉に瑕だが、面白いからまだ我慢できる。

   何が面白いといって、太平洋戦争の全貌を日米で発表された主な書物や文献を渉猟し、かつあきれるほど多数の関係者(今ではそのほとんどが鬼籍に入っている)にインタビューした後に執筆しているという、その内容の濃さである。この手法はその後、ニュー・ジャーナリズムに受け継がれ、デイヴィッド・ハルバースタムの諸作品に結実しているが、うむを言わせぬその猪突猛進的書きっぷりを見ていると、わが国のもの書きとは「スタミナが違う」と思わざるを得ない。

   そんな「大日本帝国の興亡」を読んでいて心に残ったことをここに書き残しておきたい。

   フィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した陸軍中将・本間雅晴という軍人がいる。当初の攻略は順調で、第14軍はマニラ市を占領に成功するが。バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け、多数の死者を出し作戦に失敗する。
  
 その後、コレヒドール要塞から日本軍に投降した捕虜を別の地域に移動させるために、過酷な行軍を行い、7千人から1万人の捕虜が死亡したといわれている。いわゆる「バターン死の行進」と呼ばれるものである。

    その時、自らが捕虜になりかねない状況にまで追い込まれていたマッカーサーにとって、本間は許せぬ存在だったに違いない。戦後、マニラ戦犯裁判に、「バターン死の行進」の責任者として本間中将を召喚し、死刑を宣告する。

    本間は、若い時期に英国留学の経験もあり、陸軍きっての親米英派を自認しており開戦にも反対し、比島では陸軍中央から叱責を買うほどに善政を敷いた積りでいたが、復讐心溢れるマッカーサーの前ではどうしようもなかった。

    処刑は、1946年(昭和21年)4月3日午前0時53分、ちょうど4年前に陸軍第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑であったのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑だった。(同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された山下奉文の場合は囚人服を着せられたままの絞首刑)

    刑の執行を前に、本間は、次のように語ったという。

「私はバターン半島事件で殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」。

    本間雅晴中将は黒い頭巾をかぶせられ、柱に縛り付けられた。その時、刑場に本間の、「さあ、来い!」という、気迫のこもった声が響いたという。

    長い前置きになったが、その本間が死刑執行の寸前に、子供に宛てて書いた手紙が、この本には引用されている。この手紙に私は感銘を受けた。長くなるが以下に引用する。

<之は父が御身達に残す此の世の最後の絶筆である。父は米国の法廷に於て父の言ひ分を十分述べて無罪を主張した。然しこんな不公正な裁判でこちらの意見が通る訳はない。遂に死刑の宣告を受けた。死刑の宣告は私に罪があると云うことを意味するものに非ずして、米国が痛快な復讐をしたと云う満足を意味するものである。私の良心は之が為に亳末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。戦友らの為に死ぬ、之より大いなる愛はないと信じて安んじて死ぬ。(中略)

   これから世の中に立っていくに就いて

   常に利害を考ふる前に正邪を判断すること。
   素行上に注意し、汚点を残さぬやうにすること。
   一時の感情から一生の後悔を残さぬやう。

   之を更に繰り返して訓戒して置く。御身等の顔を見ずに死んで行く事は何としても一番大きな心残りである。然しこれも運命で致し方はない。(中略)

   いくら書いても名残はつきぬ。父は御身達が立派な人間として修養を積み人格を完成し世人の敬意を受けるやうな人となることを信じて且つ祈っている。(攻略)>

   昔の人は偉かったとしみじみ思う。彼らは死を贖って、この国の未来を次世代に手渡したわけだが、果たして、我々は彼らの負託に十分応えているだろうか。忸怩たるものがある。

<常に利害を考ふる前に正邪を判断すること。>

   身につまされないか?

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