書籍・雑誌

2009年11月 5日 (木)

夏目漱石夫人と猫

  
    本を読む楽しみのひとつに、その人となりをよく知らない歴史上の人物についても、書中でその人の思いがけないエピソードに出くわすことによって、その人の輪郭が鮮やか浮かび上がったりする点がある。

  かの夏目漱石の奥方、鏡子夫人はなかなかに性格の厳しい女性としてこれまで多くの人々が描いてきたこともあって、我々は、鏡子夫人を、こういっては何だが、まあ、「悪妻」の部類に分類してきたように思う。

  さて、そんな折に、鏡子夫人のお孫さんにあたる半藤末利子さん(あの歴史探偵・半藤一利氏の夫人である)が書いた「漱石の長襦袢」(文藝春秋刊)を読んでいたら、面白いエピソードに出くわした。同書で末利子さんは、「祖母は決して、世間が言うような悪妻ではなかった」と繰り返し書き、そうではなかったエピソードを次々にご披露なさっているのだが、そのさ中に、「漱石夫人と猫」と題された短文が現われる。

  末利子さんが、ここでご披露なさる「鏡子夫人像」がとても興味深いので、皆さんにもご紹介しておきたい。

<朝寝坊のために鏡子は遅い朝食を摂るのだが、火鉢の脇に座ってパンとサラダと紅茶が運ばれてくるのを待つのが常であった(夏はどうだったかは覚えていない)。すると決まってノコノコとどこからか這い出してきて鏡子の膝の上にちゃっかりと陣取って待機する奴がいる。火鉢の五徳の上に置かれた餅あみの上で裏表こんがりと狐色に焼かれたパンに鏡子がバターを塗り始めると、そやつは身を起こし前脚を伸ばしてパンを取ろうとする。と、本当はバターの香りに誘われてパンを欲しいとせがむ猫の気持も察せずに、「今やるよ」と一喝して頭をパチンとぶっ叩いてから、鏡子はおもむろにバターのついていないパンの耳をちぎってそやつに与えるのである。>(P36)

  ぐははははは。こういったさりげないエピソードが、当の人物の人柄を一番表すのではないかと私は思う。果たして鏡子夫人が悪妻であったか否かはみなさんのご判断に委ねるが、ひょっとして、「我輩は猫である」というのは、漱石が、家庭での自身のありようを自嘲的に表現したものかもしれない、と思うのはうがち過ぎであろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

湯船で谷崎潤一郎を読む悦楽

 
   朝風呂に入るようになってかれこれもう30年以上が経つ。夏場はバスタブに入らずにシャワーだけですませるのだが、今みたいに寒くなってくると湯船につかり、蓋にタオルを敷いてその上に両手を乗せて読書にふけることとなる。

   これが本当に楽しい。夜、ベッドの中に入って本を読むことも楽しいが、生温い朝風呂につかりながらの読書もまた格別の愉楽である。ベッドも湯船もどちらもこじんまりしていて温かい、という共通点があるが、こういう環境で本を読むことが好きなのかもしれない。

   さて、今日は何を読もうかなと、本棚を眺めていたら「谷崎潤一郎随筆集  篠田一士編」(岩波文庫)が目に付いたのでさっそくこれを手にしてバスルームへ。読み始めたら、あまりに面白くてやめられなくなってしまった。汗だらだら。

   何が楽しいといって、一番は「グルーブ感」。昔の正しい日本語で綴られているのに、作者の興が乗ってくると、なんともいえない「うねり」が文章に現われ、そのリズムに身を委ねていると(文字通り素っ裸で委ねているわけだけど)、はなはだいい気分になってくる。例えばこんな具合。

<(・・・・)閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返していうが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそういう厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に長細い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたたり落ちる点滴が、石灯籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつつ土に泌み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。>(「陰翳礼賛」P176-177)

「グルーブ感=文章の躍動感」は、また感性の躍動感でもある。よくもまあ、そういう風に感じるね、そういう風に飛躍できるね、とちょっぴり病的な感性の躍動に感心していると、<私は神経衰弱の激しかった時分>(P186)という一文が出てきたので、なるほど「ちょっぴり病的な」感じというのは、そんなところから来ているのかもしれない、と妙に納得してしまう。

  谷崎潤一郎のもうひとつの魅力は、江戸っ子らしい「歯に衣を着せぬ」物言い。晩年は関西を偏愛した作家だが、根っこはちゃきちゃきの江戸っ子である。

<実際、瀬戸内海地方の夕なぎなどに来合わせたら、ほんの少しビールを飲んでさえ直ぐ体じゅうがねとねとして、浴衣の襟や袂は脂じみ、臥ころんでいながら節々がほごれるようで、そういう時には全く慾も得もなく、房事のことなど考えてもウンザリする。>(「恋愛及び色情」P62)

<京橋の大根河岸あたりだったと思う、鏡花のひいきにしている鳥屋があって、鏡花、里見、芥川、それに私と四人で鳥鍋を突ッついたことがあった。>

  鏡花は衛生家で、用心深く、よく煮えた鶏肉しか食べないのだが、谷崎はよく煮え切らないうち食べてしまう。

<(・・・・)鏡花は、だから予め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に仕切りを置くことにしているのだが、私は話に身が入ると、ついうっかりと仕切りを越えて平らげてしまう。「あッ、君それは」と鏡花が気がついた時分にはもう遅い。その時の鏡花は何ともいえない困った情けない顔をする。(・・・)その顔つきがまたおかしくて溜らないので、時にはわざと意地悪をして喰べてしまうこともあった。>(「文壇昔ばなし」P272)

  こういうお茶目なところも魅力のひとつである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

立花隆氏と佐藤優氏の博覧強記について

  
    文春新書から「ぼくらの頭脳の鍛え方」という、派手なタイトルの新刊が出た。サブタイトルが「必読の教養書400冊」。筆者が立花隆氏と佐藤優氏。帯には<「知の巨人」と「知の怪物」が空前絶後のブックガイドを作り上げた>と、ずいぶんと大きく出た惹句が踊っている。その横に立花、佐藤両氏の写真が載っている。

    立花氏は髪も薄く白くなり、おなかがぽっこり出ていて、金正日のお兄さんみたいな風貌である。一方の佐藤氏は手足の短い5頭身の「起き上がりこぼし」のような按配である。どっちが「巨人」でどっちが「怪物」かは明示されていないが、なんとなく想像はつく。「怪物」呼ばわりされるのはあまり嬉しくないのではなかろうか。

    それはともかく、この両名は恐るべき読書家であり、かつ蔵書家でもある。立花氏は仕事場に35000冊、佐藤氏は15000冊。尋常な量ではない。普通の人間なら一生かかっても読み終えないほどの量である。このふたりが、まず、自分の本棚から「知的欲望に満ちた社会人へ」向けてそれぞれ100冊ずつセレクト。次に、「すぐに役に立つ、すぐ買える」文庫と新書をそれぞれ100冊セレクト。計400冊のブックガイドとなっている。おまけに、それぞれの書物についてふたりできめ細かく対談しているあたりが凄い。このふたり、いったいどれだけの本を渉猟し、かつ頭に叩き込んできたのかと、凡人は気が遠くなりそうになる。

    こんな荒業ができるのも、このご両人が、超人的な「本読み」だからなのだが、私は以前、このふたりは「特殊な映像記憶の持ち主」なのではないかと書いた(09年4月15日付け)。
http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/index.html
   
  引用してみる。

<その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。
    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。>
  
  こんな「サヴァン症候群」的能力の持ち主だからこそ、このようなブックガイドを編むことができるのではなかろうか。このおふたり、自分たちに可能なことは他人にもできると思っておられるのか、同書の中で、こんなアドバイスがなされたりしている。

<読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで1ページ、1ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。>(P245 立花隆による「実戦」に役立つ14カ条)

  こんなことも、映像記憶的に書物を読むことができるから言えるわけで、凡人にはこれができない。「1ページ、1ページ繰る」だけでは何にも頭に入って来ないのである。しかし、佐藤氏はこの指摘が外務省での後輩の教育に際して大いに役立ったと述懐している。

<「この本、ダメだな」と思っても、一応最後までページをめくれ、という指摘もありました。驚いたのですが、モサド(イスラエル諜報特務庁)とか、KGBとか、対外諜報庁の連中の本の読み方、本の買い方と立花さんは一緒なんです。>(P12)

  さて、この本の中には面白い話があちらこちらにちりばめられているので、ランダムに抜書きしておきたい。

<立花 ネット空間にも、本になっているものより水準の高い論文などが山のようにあります。ただ、そういう水準のものに出会う確率は相当低い。グーグルでキーワードを入れて検索するにもやはり基本的な教養が必要です。
佐藤  (・・・・)私は情報屋ですから資料も何も持たないで、どれだけインプットできるかが勝負なんです。(・・・・)情報の世界で最後に勝負するときには、紙も何も持っていないですから。私の場合、インターネットだったら紙から吸収する情報量の二十分の一くらいしか入ってきませんね。やはり紙をペラッ、ペラッとめくらないと入ってこない。>(P55)

  
  立花氏は哲学については以下の本を推挙。
「形而上学」 アリストテレス 岩波文庫
「パンセ」 パスカル 中公文庫
「方法序説」 デカルト 岩波文庫
「ツァラトゥストラ」 ニーチェ 中公文庫
「永遠の平和のために」 カント 岩波文庫ほか
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン 岩波文庫ほか
「プラグマティズム」 W.ジェイムズ 岩波文庫

  こんな具合にずらりと並べて<誰でもこれくらいは手に取るべき。>とさらりと書く。いかにも立花氏らしい。「手に取ること」ぐらいは簡単にできるだろうけれど、読破するのは容易ではない。

  佐藤氏は、「フランス革命についての省察」(パーク 岩波文庫)、「なぜ私は生きているか」(J.L.フロマートカ 新教出版社)と「現代のヒューマニズム」(務台理作 岩波新書)の間に、どういうわけか、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(講談社文庫)を挙げている。不思議である。しかも、その文章を大絶賛で、<同一律・矛盾律・排中律を見事に駆使して完璧な論理を打ち立てる。論理とは何かをしるためにも重要な本。>(P81-82)と手放しである。タイプなんだろうか?

  その佐藤氏、外務省に勤務していた頃、権力の中枢に位置する人物たちの様々な生態を目撃したという。例えば、こんな具合に。

<昔、赤坂の料亭で、鈴木宗男さんの前で「おしめ換えてくれ」とやる東大卒のキャリア官僚がいた(笑)。お腹を出すことによって、政治家に無限の忠誠を誓うんです。若い国会議員でも、「先生の前で隠すものはありません」と言って、素っ裸になって、オチオンチンを股にはさんで、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌っている場面も見ました。こういう官僚、政治家たちの姿を見たので、中江兆民のキンタマ酒がやはり政治の本質だと思うんです。>(P162)

  読んでるこっちが、こまっちゃうナだが、もうひとつ、にわかには信じがたい話を。

<佐藤 (・・・・)外務省のロシア語通訳はかなりひどい。ロシア政府の公式ホームページを観るとよくわかるんです。(・・・・)日本の要人とロシアの政府要人が会談をすると、そのときの冒頭取材の発言記録がホームページに掲載されるんです。日本側発言を観てみると、「通訳されたまま」というロシア語が出ている。どういうことかというと、メチャクチャなロシア語で、原発言がどうだったか、よくわからなかったという意味なんです。
立花  内容が理解できなかったから、そのまま載せたという断りなんですね。
佐藤  そうです。その日本側発言というのは、仮に日本語に訳してみると、こんな感じです。「あんたさん、ロシアの大統領さんだった。あたい、日本の首相だった。そのとき、二人話して、うまくいった。うまくいったのは何? それ、戦略的行動の計画ね」 これがロシア政府のホームページに出ている。国の恥です。>(P164)

  もしその通りならば、なるほど国の恥である。なぜ、こんなことが起きるかというと、外務官僚に、<通訳をできるようになりたいという動機がないんです。>というから、まさに病膏肓に入る、という気配である。大学生の知性が劣化しているだけではなく、官僚たちも充分退廃しているのかもしれない。

  この本を読んでいると、ああ、この本も読んでみたい、この本も手にとってみたいという気にさせられるから不思議である。最後に、「教養」について立花氏が興味深いことを喋っているので、引用しておきたい。

<教養というのは別の言葉で言えば、人類の知的遺産です。その場合、教養教育とは、知的遺産の財産目録を教えることになります。しかし、いかにしてその全体像を教えるか。私は、知の世界の果てがどうなっているか、それが想像できるような地点へ学生を連れていくことだと思っています。>(P240)

「知の世界の果て」か。刺激的な言葉である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 8日 (木)

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の「しなやかさ」


    先日、新聞を見ていたら朝日出版社の単行本の広告が出ていた。そこに、東京大学文学部教授の加藤陽子氏の近著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の書名があり、なんと10万部が売れた、と特記してあるのを見て、ほほーと思った。このような本が10万部も売れるなんて、素晴らしいなと思ったのである。

    この本は、日本近現代史の専門家である加藤教授が、栄光学園の歴史好きな中学生・高校生17名相手に、クリスマスから正月までの短い休みを利用して、「日本人の戦争」について行った講義をまとめたものである。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変から日中戦争、太平洋戦争について噛み砕いた語り口で書かれている。

    その中には、生徒への適切な「問いかけ」と生徒からの卓抜な「応答」が含まれていて、とても楽しい。「戦争」に関して書かれた本は、そのほとんどが、ある史観、価値観をもって、現在時点から過去を振り返る形で記述されたものである。その論調の大概は、「非道な戦争」か「正義の戦争」かのどちらかであることは、戦争について書かれた本を読んだことがある人なら、つとに周知の話である。しかし、本書は全く違う。

    その昔、といっても40年以上前の話だが、NHKで「タイムトンネル」という米国の番組が放送されていた。時空を行き来できる渦巻状のトンネルがあり、現在を生きる主人公が、いきなり過去の「白熱した歴史的現場」に放り出されて、右往左往するというのが毎回の話だったように記憶している。例えば、ある回では、少年が南北戦争の真っ只中に放り出されてしまう。そこでは、歴史として整理された「南北戦争」が描かれているわけではない。頭上を鉄砲の弾が行き交う、「切迫した現在」としての「南北戦争」展開されているのである.

    この本はちょうどそのような形で、生徒たちを、あるときは日露戦争の直前に、またあるときは満州事変の渦中へと誘うのである。そこで加藤教授が生徒たちに披露するのは日本の近現代史の最新の研究から得られた知見である。満州事変の渦中に置かれた栄光学園の生徒たちは、とりあえずその後、歴史はどのように展開していったかは知らぬものとし、その時、その場所で、時の政治家や軍の幹部が持っていた現状認識と、これから解決せねばならない問題を与えられるのである。そして、「さあ、あなただったら、この時どういう決断をしたでしょうか?」と問われるのである。

    そこで求められるのは、教条主義的な、あるいはイデオロギッシュな判断ではない。あらゆる条件を勘案した後に導き出される理性的で合理的な解決策なのである。そんなやり取りを読み進んでいるうちに分かってくることは、どの戦争にせよ、一部の狂信的な軍国主義者によって、日本が誤った方向へ引きずり込まれていったというわけでは決してなかった、ということなのである。

    むしろ、当時の日本の政治家や官僚や軍の幹部は、ほとんどベスト&ブライテストと呼んでもいいような怜悧な頭脳をもった人々であった。にもかかわらず、あるいはだからこそ、日本は戦争に突入せざるを得なかったのだ、という具合に思えてくるのである。書名の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」はそこから来ているのだと思う。

    現在時点から過去を断罪するのではなく、予断を排し、その歴史的事象が起こった時点にわが身を置き、その時のわが身を取り巻いたであろう状況と条件を深く考察し、しかるべき後に判断を下すこと。歴史から学ぶということは、まさにそういうことなのだと本書は教えてくれる。

    そういう意味で新鮮な1冊だったし、そのようなものの見方が10万人の読者をひきつけたという事実は感慨深いものがある。最後に加藤氏の「おわりに」の文章から、控えめだけれど強靭な言葉を引いておきたい。

<歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。

   しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

  私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また、現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去事例との対比を行っています。

  そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。>(P407-408)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 5日 (月)

「坂の上の雲」と「奇胎の四十年」

  暇がそんなにあるわけじゃないのに、そんなときに限って読書にはまる。朝早起きして、バスタブにつかりながら蓋の上に腕をおいて本を読む、というのはなかなかの快楽である。

    関川夏央氏の「『坂の上の雲』と日本人」(文春文庫)を読むと、関川氏が無類の「鉄ちゃん」、つまり鉄道好きだということがよく分かる。日露戦争当時の日本の鉄道網について薀蓄を披露し、「坂の上の雲」の中の記述に不可解な点があると指摘している。一般読者にしてみれば、あまり本筋とは関係のない、どうでもいいことなのだが、鉄道オタクにしてみると、看過できないことなのだろうな、とほほえましく思う。

  と同時に、関川氏はかなりの軍事オタクでもある。日露戦争のディテールになると、「坂の上の雲」を超えて、やたらと詳しい記述が登場する。それはさておき、同書で一番啓発されたのは次のような一文だった。

<司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、「坂の上の雲」にえがききったわけです。しかし、その健康であったはずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました。彼はそれを(・・・・・)「奇胎の四十年」としるしています。>(P301)

  それに続けて、関川氏は、「では、太平洋戦争後の40年間はどうだったか」と問う。明治維新後の40年が上り坂であり、その後、今次大戦に突入するまでの40年が下り坂であったとするならば、戦後の40年間はどうなのかと。そして、そのことを説明するために、船曳建夫氏の「『日本人論』再考」からこう引用する。

<・・・・個々の人間が自由にその人生を過ごし、個性のあふれた生活をすること。民主主義の下、社会から階層的な較差を廃し、平等を社会の中に、また男女の間に実現すること。そして、平和を専一として、それを至上の価値とすること。
  これらが戦後を担った、戦前から戦後にかけて活動し、戦前の反省を胸に刻んだ第一世代と、戦後の回復と高揚の実働部隊となった第二世代が、実現しようとしたことがらであった。これからの数十年を担う日本人は、そうした戦後の四十年に生まれ、その理念で育てられ、教えられた人々のことである。>(P304)

  戦後の四十年間がそのような「坂の上の雲」であったなら、その後の40年間(そこには現在も含まれるが)は「坂の下のドブ」、あるいは「奇胎の四十年」と変わり果てる蓋然性は、これまでの国民的性向を鑑みればかなり確度の高いものだと思わざるを得ない。そして関川氏は、嘆息でもつくようにこう書き記すのである。長くなる。

<昭和戦後の第三世代は明治の第三世代よりも、はるかに経済的に恵まれていました。親は彼らを徹底して守りながら、個性をのばせといいつづけました。その結果、音楽やスポーツなども得意で、「人が人の上に立つことを嫌い、男女が平等であることを」自然に受け入れ、「平和ということがいかによいことか、争いと摩擦は極力避けなければならない」と信じる日本人が多数出現しました。先行世代の「戦後の夢」はかなえられました。
  そんな彼らが、自由が制約との緊張関係のあいだに成立することを理解せず、また、ただ好きなことだけをして生きて行くことが「個性的生活」であると短絡し、人の上に立つことを「平等」のエクスキューズのもとに異常に恐れ、また「平和」を個人的レベルで実現するために他者との関係を、摩擦も融和もひっくるめて拒絶した「引きこもり」となったとしても、育てられ教えられたようにふるまっているだけなのだと考えることができる、と船曳さんはいいます。戦後の四十年には明治の四十年ほどの緊張感はありませんでしたし、その「平和」の理念にはあなたまかせのところが少なくありませんでしたが、おしなべてよい時代だったでしょう。しかしよい時代がよいものを次代に引き継ぐとは限らないのです。>(P306)

  痛ましい指摘だが、われわれはその痛ましい時代の渦中を喘ぎながら生きているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月27日 (日)

庄野潤三氏の訃報に接して

  庄野潤三氏が亡くなった。若い頃、氏の小説が好きでよく読んでいた。身辺の日常を精緻に淡々と描きながらも、その小説世界には、いつしか時間や空間を超越して、人生の真理とでも呼ぶべきものを瞥見させてくれる瞬間が訪れる。その時に味わう酩酊感が何よりも好きだったのだ。

   庄野氏と同世代の小説家の作品もずいぶんと愛読した。小島信夫や安岡章太郎、三浦哲郎・・・・。そういえば、明治以来綿々と続く、いわゆる私小説というものも嫌いではなかった、というよりもかなり愛好していた。「私」という曲がりくねった細いトンネルを潜り抜けていくと、突然広くて明るい(時には真っ暗な)光景が目前に広がる。その転変がたまらなかったのだと思う。

   そんなわけだから、村上春樹氏の小説もデビュー当時のものを偏愛していて、最近の「物語モノガタリ」したものは全く受け付けられない。「風の歌を聴け」「1972年のピンボール」以降の長編は私にとっては何物でもない。特に好きなのは「中国行きのスロウ・ボート」などの初期の短編で、どうしてこういうものをもっと書かないのかととてもいぶかしく思う。(余談だが、最新作「1Q84」を私は「IQ84」と勘違いし、IQの低い少年の話だと思い込んで、ずいぶんとチャレンジングな小説に挑まれたものだ、と驚いた)

   というようなことを、もう何年も前に直接ご本人に面と向かって申し上げたことがあった。極めて不満そうな表情をされていたが、今となっては、世界的な作家に対して本当に失礼なことを申し上げたとは思うが、その気持ちは全く変わってはいない。

   だからなのか、このブログも時どき、とても「私小説」的な筆致になってしまうことがある。そのようなメンタリティが好きなのだから、仕方のないことなのだが、昨日、関川夏央氏の<「坂の上の雲」と日本人>を読んでいて、自分のそんな性向をちょっぴり反省した。

<日本の「純文学」は「私」というものが完全に主人公になったときに成立したと考えられます。だから自意識を主張しつつ作品化する、あるいは自意識の傷を鑑賞に値するものとして提出する、そのような過程をどうしてもどうしてもくぐり抜けなくてはならなかった・・・・・>(P93)

  もちろん、「鑑賞に値するものとして」の部分に感応したのである。「自意識の傷」を、それを読む人の「鑑賞に値するもの」として提出するにはそれなりの「芸」が必要になる。しかし、「芸」を演ずるには「自意識の傷」に溺れていてはかなわない。「自意識の傷」を客観的に俯瞰し、計量し、忖度する節度がなくては、「芸」など演ずることはできないからである。だが、「傷」を強く効果的に表出するには、「傷」の痛みの渦中にうずくまることが捷径なのである。

  このジレンマを乗り越えないと、「自意識の傷を鑑賞に値するものとして提出する」ことはあたわない。泥酔しながら覚醒していること。呻吟しながら平静でいること。(分りにくいかなあ)

  その確たる答えを得ることもなく、今宵もまた徒然なるままに、よしなきことを書き綴ってしまった。合掌。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月27日 (水)

「沖縄の最後」と「雷撃機出動」

  

   昭和42年に河出書房から刊行された「太平洋戦記シリーズ 雷撃機出動」(森拾三著)をアマゾンの古本リストの中から探し出して読む。42年前の本なので、定価も290円と安い。これまで戦記物などにまったく興味もなかったが、たまたま読んだ一冊がとても面白かったので、つい続けてシリーズを買ってしまったのだ。

  和歌山の田舎の実家の離れを建て替える際に、徹底的に屋内を整理したのだが、そのとき、同シリーズで「沖縄の最後」という本が本棚の奥から出てきたのだ。著者の名前を見ると、古川成美とある。

  あ、と思った。私は高校時代、古川氏の家に下宿していた。実家が山深く、通学にはなはだ不便なので、通っている高校の近くにある古川氏の家に居候することになったわけだが、古川成美氏はそのときどこかの高校の校長先生だったと思う。その古川先生がこんな本を書いていたとは、と驚いた。

  読み出すと、巻を措くことあたわず。太平洋戦争に従軍した兵士たちの生々しい体験が、ドクドクと鳴る血流が聞こえてくるほど鮮やかにそこに記されているのである。高校時代、ときに一緒に夕食を食べていたあの古川先生は、戦中こんな驚くべき体験をしていたのか、と今になって驚いた。

  本が刊行されたのは、昭和42年。終戦が昭和20年だから、戦後22年たっての出版である。原稿そのものが書かれたのはおそらくもっと前のことだろうから、人々の記憶や肉体の中に、戦争の傷痕がまだくっきりと残っていた時代に書き刻まれた文章なのである。文章の巧拙より前に、そこに書かれた事実そのものの迫力に気おされるのである。

  ああ、あの時、古川先生に戦中の体験を聞いておけばよかったなあ、と思うが、残念ながら、当時の自分には、そんなことはあまり関心ある物事ではなかったのである。

「沖縄の最後」を読了後、次に読み始めたのが上記の「雷撃機出動」。真珠湾攻撃にも参加した、海軍の雷撃機のパイロットである。ガダルカナル島での戦闘で右手首を失って戦線離脱。この本にも、信じがたい体験が素直な文章で書かれている。「死ぬこと」がこんなにカジュアルな日常があったのかと驚愕する。

  あとがきを読むと、筆者の森氏は、本が刊行されたころ、つまり昭和42年頃には、西荻窪の一角でささやかな酒場を営んでいる、と書かれている。私が上京したのが昭和46年。48,49年頃には西荻窪をうろうろしていたから、森氏と道ですれちがったり、あるいは店に迷い込んだりしたことがあったかもしれない。

  しかし、あれからもう40年。もはや従軍体験者の話を直接聞くことはできなくなってしまった。だからこうして、かび臭い古本を1ページ1ページ、緊張しつつ、大事に繰るしかないのであるが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月18日 (月)

金達寿著「日本の中の朝鮮文化」を読む

  かねてより、おかしいな、おかしいなと思い続けていた。

  週末、自家用車を運転して、関東のあちこちのゴルフ場に行く機会が多いのだけれど、郊外の、その地名標識を眺めながら、「これって、どう考えても日本語じゃないよなあ」と思うことが結構多かったのである。

  たとえば埼玉県にある嵐山GCに行くときには、東松山でICを下りて、新郷を左折、唐子、上唐子を曲がるのだが、「唐子」というのはどう考えても日本の地名ではない。というか、この地名が生まれた時に、この地域は、明らかに半島や大陸から訪れた人々の居住地域だったに違いない、と思われるのである。

  あるいは、五日市CCに行く際には、「あきるの市」を通過する。この「あきるの」というのも絶対に日本語ではない、と思った。住居表示は平仮名で「あきるの」だが、近くにある神社は「阿伎留神社」と表記する。音を聞くだけで、日本語じゃないなあ、と思わざるをえない。

  あるいは、千葉で「酒々井」という地名が「しすい」と発音するのだと知って、これも日本語としては奇異な読み方だと直感した。

  しかし、関東圏のこんな田舎に渡来人が住んでいた、というのも妙な話であるなあとも思い、自分のそんな推測を打ち消し、以後そう考えたことさえもすっかり忘れていた。

  ところが最近、古本屋さんで「日本の中の朝鮮文化」(金達寿著 講談社 昭和45年刊)という本を見つけて読んだところ、先に書いた自分の直感が正しかったことを知って驚いた。しかも同書には「唐子」「あきるの」の地名が半島からの渡来人の居住地域であったと明言されているのである。たとえば埼玉県の「唐子」については、

<(・・・・・)河田楨『武蔵野の歴史』にこう書かれている。
   唐子という地名は七世紀に遡る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。

  そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須恵や今宿というところもあるが、東松山には新漢(いまきのあや)の高貴を祀ったものといわれる高負古(たかふこ)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。>(P125)

  また「あきるの」に関しては、

<(・・・・・・)須田重信『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。
   狭山の西南方面、多摩川から秋川が分かれるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸に阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも伝えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。>(P126)

  この「日本の中の朝鮮文化」という本は、金氏が独自に行った学術的調査を書物にまとめあげたものではなく、その手の本や資料を縦横に渉猟しつつ、関東に存在する、半島からの渡来人ゆかりの地を、氏が自らの足で訪ね歩くという紀行文の体裁をとっている。そういうわけで、やたらに引用の多い、というか、肝心の部分はすべて引用、という形の書物となっている。

  だから、先に引用した文章もほとんどが引用、つまり引用の引用というややこしいことになってしまっているが、そのことに慣れてしまうと、同書のなかには驚くべき知見があちらこちらにちりばめられている。「えっ? そんなこと、日本史の授業で習わなかったよ」というような。そんな一節をランダムに拾ってみるとこうなる。

<「朝鮮帰化人の移住が盛んに行われ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういう具合である。
  まず、『続日本紀』の716年、霊亀2年5月条のいわゆる1799人の高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)

<(狛江古墳の中でもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる) どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の放牧もさかんとなった(・・・・・)。
  中島利一郎『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(こま・高麗)といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものである(・・・・・)。>(P100)

<日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国神社、許麻(こま・高麗)神社などというのも(渡来人が日本各地に群居した・・・・・)結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、彼らがいかにこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。>(P104)

<武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし・韓モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信『関東の史蹟と民族』にはこうある。
  ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先づ上総の国には武射郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚ほ山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明しておくが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。>(P194)

  あまり長々と引用ばかりしていてもきりがないからこのくらいでやめるが、同書を読むと、関東には古代より半島からの渡来人が多く住み着いたため、地名、神社名、人名に朝鮮由来のものが驚くほど多く存在していることがわかる。初めて教えられることも数多い(日本の義務教育ではなかなかここまで詳しくは教えてくれないので)が、その中でも、<だいたいそもそも、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである(・・・・・)」>(P198)というくだりには目から鱗が落ちた。

  ええ、そうだったの? 古墳というのは日本の天皇のお墓だとばかり思っていたのに、そもそも古墳という墳墓自体が朝鮮文化の産物であり、そこに眠っているのはほとんどが朝鮮から渡来した王族なのである、というのである。知らなかった。考古学的には現在どのような定説が主流となっているのか知らないが、なるほど日本のの文科省はそのあたりのことを積極的には教えたがらない理由もなんとなく分かる。

  古代、自分が大陸や朝鮮半島に住んでいたとする。もちろん紀元前、昔々の大昔である。その時、飢饉や戦乱など、不測の事態が出来してその地に留まることができなくなったときどうするか。敵が押し寄せてきて、どこかに逃れなくてはならなくなったらどうするか。そんな切羽詰った状況に置かれれば、おそらくは家族を引き連れて、成功するかどうか分からない、エキソダスを試みるだろう。

  船に乗って、はるか南に大きく広がる島に逃げるであろう。もちろんその頃にはその島に日本列島という呼称もなければ、人さえろくに住んでいなかっただろう。海に隔てられたかの島は逃亡先としては最適だったに違いない。大陸や半島だけではない。南の島々からも流れ着いた人々もいただろう。

  いってみれば大昔の日本列島は、東南アジアの吹き溜まり、避難民のアジールだったのではあるまいか。つまり渡来人が渡ってきたのはなにも西暦5,6世紀だけのことではなく、先史時代から次々とあちらこちらから渡来人がやってきていたのではないか、という感想をこの本を読むと持たざるを得ない。

  極論すれば、現在日本人と呼ばれる人はすべて渡来人である。1万年前に来て住み着いた渡来人の末裔もいれば、1500年ほど前に渡ってきた渡来人の末裔もいる。そのすべては遺伝子的にシャッフルされてもはや出自は分からぬようになってしまっているが、どの人もこの人も、早く来たか遅く来たかの違いだけで、すべて渡来人なのではないか。

  通勤の電車の中で前のシートに座る見ず知らずの乗客の顔をつくづくと眺めると、我々は全員が「日本人」だと思い込み、これは日本人の容貌をしている、と無根拠に納得しがちだが、よくよく顔を見つめてみると、そこにははなはだしいバリエーションがある。朝青龍のような顔もあれば、金正日みたいな顔もある。ペヨンジュンみたいな顔もあれば林家ペーみたいな顔も、あるいは玉木宏みたいな顔の人もいる。日本人として、とてもひとくくりにはできない多様性があるように思う。それも我が国の位置が、東南アジアの吹き溜まりなればこそなのではないかと思わないわけにいかない。

  同書には、しばしば「朝鮮からやってきた帰化人が・・・」という表記が見られるが、この「帰化人」という言葉にも違和感を覚えざるを得ない。我々が理解する「帰化」とは「日本国籍でない人が日本国籍を取得すること」である。しかし、その意味で、当時の渡来人たちは「これから日本人になろう」と決意したのだろうか、という疑問は残る。だって、まわりじゅう渡来人だらけで、確かにずいぶんと早く来た人もいるので言葉が通じなかったりしたこともあっただろうが、全く違う国に紛れ込んでしまったという感覚は少なかっただろうと思うからだ。

<高句麗、百済(馬韓の発展したもの)、新羅(辰韓の発展したもので、のち弁韓の駕洛・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、1世紀のはじめごろであるが、7世紀の668年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗が亡び、遺民の多くは地つづきであった満州へ入って渤海国を打ちたてることになる。が、その一部はまた海を渡ってこの日本へやって来たものであった。>(P33)

  私が、赤坂の韓国クラブへ行くと、ホステスからいきなり韓国語で喋りかけられ、「いやいや、私は韓国語が分からないですから・・・」と制止しても、「なにしらばっくれてるのよ。顔観りゃわかるわよ」とあくまで韓国人として遇されるその理由も、80歳になる母親が、どうみても韓国映画に出てくるおばあちゃんにそっくりなのも、親戚のおじさんがチョーヨンピルに似ているその理由も、きっとそういうことなのだろうと、深く理解できてしまうのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月20日 (月)

内田樹氏の「Googleとの和解」のテクストを読んで

  09年3月23日付けのご自身のブログで、内田樹氏は「Googleとの和解」と題して、著作権についてのお考えを開陳しておられる。一読して、得もいえぬ違和感を覚えたので、そのよって来るところについて書いてみたい。なんだか、とても長くなるような予感がするけれど・・・・。

  その前に、「Google問題」とは何かについて、コンパクトにまとめておきたい。これが理解できないと、内田氏が何を言っているのか、理解に苦しむからだが、とはいえ、この問題は、簡潔にまとめるにはかなり骨が折れるしろものである。この際だから、Google問題を整理しておきたいので、本論に関係ないところまで詳しく書いてみる。関心のないムキには、まったくどうでもいいことのように思えるだろうが、しばしご辛抱を。

  インターネット上の検索エンジンとして有名なGoogleを運営しているのがアメリカ合衆国のソフトウェア会社Googleである。同社は、「人類が生み出した全ての情報を集め整理し、検索できるようにする」という気宇壮大かつ稚気溢れる使命感をもって1998年に設立された。

  2004年、同社の使命を実行すべく、Google社は、提携したいくつかの図書館(ハーバード大学、スタンフォード大学、ニューヨーク公立図書館など)に収蔵されている図書を、著作権者の許諾を得ることなく、片っ端からスキャン開始。これまでに700万冊をスキャンし終え、電子書籍のデータベースを構築、書籍検索や抜粋表示に利用してきた。

(ここで注意しておくべきは、同社の収益の大部分は、アドワーズなどのリスティング広告の収入に依存しており、当然ながら、上記の電子書籍データベースを活用した検索結果表示に対しても、それを利用した広告が表示されたという事実である。つまり、端的に言えば、Google社は、著作権者に許諾を得ることなく蓄積した書籍のデータベースを活用してすでに金儲けをしてきた、ということである)

    Google社のこの行為に対して、アメリカ作家組合(authors guild)とアメリカの有力出版社5社は、さすがに業を煮やし、2005年の秋に、「著作権侵害である」として訴訟を起こした。これに対して、Google社はアメリカ著作権法107条の「フェア・ユース(公正な使用)」にあたると反論。

    この「Google書籍検索訴訟」の和解が昨年の10月に成立。ニューヨークの下級裁判所を介しての「和解」なのだが、ここからがこの話の凄いところであり、かつはなはだハタ迷惑なところなのである。よーく、目を凝らしてお読みいただきたい。

    今回の訴訟はクラス・アクションとして和解に至った。はてクラス・アクション(class action)とは? とお思いだろうが、これに完全に合致する法的概念は日本には存在しないらしいのだが、あえて言うと「集団訴訟」。つまり、アメリカ作家組合とアメリカの有力出版社5社が起こしたこの訴訟は、「世界中の著作者と出版社を代表して起こした」訴訟、ということになるらしいのである。

    日本人も、イギリス人も、フランス人も、ドイツ人もだーれも頼んでもいないのにアメリカ合衆国にお住まいの何人かが「その代表」として訴訟を起こし、その結果成立した「和解」の効力が他の国の人々も及ぶことになった、というわけなのである。

    一般化して言うと、クラス・アクションとは、訴訟に参加している当事者と利害が共通する関係者は、その訴訟に直接参加していなくとも、裁判の判決や和解案などの効力が自身に及んでくるというアメリカ独特の訴訟制度のことなのである。

    世界のほとんどの国が批准している、著作権に関する国際条約であるベルヌ条約に基づいて、日本の著作権者はアメリカ国内においても著作権を有し、保護されることになっているので、今回の和解の効力は、日本在住の著作権者、出版社にも及ぶことになったというわけなのだ。

  さて、では日本の著作権者はどうすべきだと今回の和解は告げているのか?

 「和解」文書は以下のようなことを提示し、世界中の著作権者に対して、本年の5月5日までに自身の態度を表明せよ、と言っている。まことに急な話である。

   2009年1月5日以前に出版された書籍について、

① 著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合はどの程度かを表明する権利を持つ。
②Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入、およびその他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取ることができる。
その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館や教育機関には無料で)頒布することができる。ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲覧できる。
③既にスキャンしてしまった著作物については、請求があれば1冊につき60ドルを受け取ることができる。

    その他にも、こまごまといろんなことが書かれているのだが、それはすべて、どのような条件を満たせば、Googleはスキャンした書籍のデータを自社のビジネスに使用することができるか、という話である。(実はこの和解文書の中には、法律の専門家でさえ、いったい何を言っているのかさっぱり分らない部分がかなり存在しており、その内容を完全に把握することは、現時点で困難であるらしい。無茶苦茶な話である)。

    さてそれに対して、日本の著作権者はどのように対応することができるのかというと、「和解に参加する」か「和解に参加することを拒否する」の2通りしかない。

    もっと詳しく書くと、

① 和解に参加し、Googleによる著作物のデータ使用を全部認める。
② 和解に参加した上で、
(a) 表示使用から自分の著書を除去させる。
(b) 表示使用から自分の著書のうち、特定の書籍を除去させる。
③ 和解に参加することを拒否する。(今年の5月5日までに申し立てる)
④ 和解に対して異議申し立てを行なう。(今年の5月5日までに米国の裁判所に異議を申し立てるか公聴会への出席希望通知を出し、公聴会で意見を述べる)

    とまあ、整理して書いているだけでもわけが分らなくなるのに、こんな内容をいきなり英文で突きつけられた(実際的には各出版社が日本語化したようだが)、当事者である日本の著作権者の皆さんの「苦虫の噛み潰しよう」を想像すると気の毒に思わざるを得ない。もし私が著作権者だったなら、一言「ふざけんな!」とののしって、和解文書を破り捨てただろう。

    もし、そのように破り捨てたらどうなるか? それこそGoogleの思う壺なのである。破り捨てた途端に、その人の著作物は「和解」の対象外と認定される。そうなると、どうなるか? Googleは自分たちの行為は「フェア・ユース(公正な使用)」であるという従前の主張を維持して、これまで通り、「破り捨てた」著作権者の書籍のデジタル・データを使用するだけでなく、今後もどんどん彼の著作物のデジタル化を推し進めていく可能性が高いのである。

    Googleは何のためにそんなことをするのか? 表向きには「フェア・ユース」を標榜して、人類の知的資産を全人類が平等に簡便に活用できるように、というだろう。確かにそういう一面がないとは言わないが、実際的には自社のビジネスをより一層強固にするため、であることは自明なことであるだろう。

    つまり、そうされることがいやなら、地球上の著作権者は、否が応でもまずはこの和解に応じるしかない、という無茶苦茶がまかり通っているのである。しかも、ニューヨークの地方裁判所が仲介した単なる一和解案であるにもかかわらず、世界中の著作権者がただ今現在、これに振り回されているのである。そんなことがアリなのだろうか。

    たとえば、和歌山地方裁判所で成立した、日本の著作権者と、どこかの検索エンジン業者の「和解」が世界中の著作権者にその効力を及ぼすことがありうるだろうか。もしそうしたとして、米国の著作権者および出版社はそれを尊重するだろうか。たぶん、一顧だにしないような気がする。ここにアメリカの驕りというか、夜郎自大というか、オレ様ぶりが如実に顕在化しているような気がする。いわば文化的帝国主義である。

    それとともに思わざるを得ないのは、アメリカ社会の振幅の激しさのことである。ある傾向が生じると、極端にまで行き着くまでその傾向はとめどなく増進する。サプリメント信仰しかり、反イスラムしかり、反共産化しかり、デジタル化しかり。今回の一件を眺めていて分るのは、社会のある傾向(なんの傾向でもいいが)が極端に走ることを制御するブレーキがないことなのである。

    極端に行き着くまで行って、不都合が生じるとゆり戻す、というのがアメリカ社会の特徴である。今回も同様で、不都合が生じたので訴訟が起こされた。裁判沙汰になるまでは、基本的には「どうぞ、自由におやんなさい」という自由放任主義がアメリカ社会の根底には横溢している。それが社会秩序を揺るがしそうになると、「司法」が強権を揮って「社会秩序」の再構築に努めるのである。だからこそ、訴訟社会になるのだろう。

    一方、わが国はそうはなっていない。アメリカ合衆国で「司法」がその任を負っている「社会秩序の形成」は、日本では「立法」がその任を負うているのである。社会が極端に走り出す前に法律がそのブレーキの役目を果たす。この「司法」国家と「立法」国家の違いが、今回の一件にも大きく影響していて、事態の理解をより困難にしているように思う。

    話が大いに脱線した。ここでやっと、内田氏の主張にたどり着くのである。今回のこのGoogle問題に関しての内田氏の意見、主張を、氏のブログを引用しながらまとめると以下のようになる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。(・・・・・・)私の場合は、テクストを書くことで「一円でも多く金を稼ぎたい」ということより「一人でも多くの人に読んで欲しい」ということの方が優先する。
ただ、私はそれを原理主義的に主張しているわけではない。「専業物書き」が職業的に成立しなくなると、読者は困る。すぐれた書き手が書くことに専念できる環境は読者の利益のためにもぜひ担保すべきものである。
そのためにはテクストの「交換価値」を生み出すための市場が必要である。
しかし、テクストは商品ではない。
テクストを商品と「みなす」のは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、テクストを書き、読む快楽が増大する確率が高いからである。
「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。自余のことは、その快楽を増進させる上でどれほど効果的かという尺度に基づいて考量されるべきである。(・・・・・・)著作権の保護が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成するし、ウェブでのテクスト頒布が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成する。著作権の保護とウェブ上でのテクスト閲覧が背馳するなら、そのどちらか、より「テクストを書き、読む快楽」を増進させる方に私は賛成する。(・・・・・・)私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。(・・・・・・)著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。
そういう「プロの物書き」が多数存在することは事実であるけれど、私は彼らを「物書きのデフォルト」とみなすことには同意しない。>

  例によって、明晰だけれどややこしい主張をもう一段要約するとこうなる。

<「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。その快楽がより増進されるかどうかで、WEB上でのテクスト頒布の是非を決するべきで、「経済的利益が損なわれるか否か」で決めるべきではない。>

  以下に何ゆえに違和感を覚えたかを書く。

    まず、指摘しておきたいのは「テクストを書く快楽」と「テクストを読む快楽」は必ずしも一致するものではない、ということである。ここで急いで「テクスト」とは何かを定義しておくと、「テクスト」とはある作者が書く文章のことである。

    例えば、内田氏がご自身のブログに気ままに書いているのは「テクスト」という名の一次作物である。内田氏ご自身は誰に頼まれたわけでもない、自発的に書きたいことを書いているわけだから、大いに「テクストを書く快楽」に浸っておられるに違いない。しかし、そのテクストがそのまま「読む快楽」に直結するかというと、失礼ながら、そんなわけでは全くないのである。

  内田氏の熱烈ファンは氏のブログを楽しみながら読んでいるだろうが、殆どの読者が氏の文章に接し、「読む快楽」を得ているのは、氏の「テクスト」からではなく、実は「書物(本)」からなのである。

「書物(本)」は「テクスト」をそのまま紙にインクで印刷したものではない。「書物(本)」というのは、内田氏が日々生産する一次作物的テクスト(その中には読むに値しないものもあれば、つまらぬもの、下らないものも混在している)の中から、「読む快楽」を齎してくれるであろうテクストを、編集者という名の共同作業者が取捨選択し、順番を決め、タイトル、リードを付し、本の体裁(大きさ、紙質、デザインなど)を勘案し、ついでに宣伝方法を考えてその費用を捻出し、営業的にも、この書物がより多くの読者の手に届くように各方面に活動を繰り広げる、そうした一連の行為の末に誕生する物なのである。

  だから、極論すれば、内田氏の本は、専一的に内田氏ただ一人によって生み出された作物ではなく、それが世に出、多くの人々の手中に納まるまでには多数の人びとの知恵と労力がそこに注ぎ込まれているのである。

  それだからこそ、「本」は「商品」なのである。それに見合った対価を得ないと、良質な「本」は産まれない。物書きは片手間でできるだろう。大学教授をしながら、銀行員や医師をしながらでも文章は書けるだろう。しかし、編集者は片手まではできない。その全生活を編集に捧げないと編集者は務まらないのである。優秀な編集者は、書き手が費やした何倍もの時間と労力を、その編集のために費やす。その行為によって「読む快楽」を与えてくれる「本」は誕生するのである。編集者は自らが生み出したその商品によって経済的利益を得なければ、他に生活を支える方法はない。だから「本」は「商品」なのである。「本」は「商品」になることによって初めて「本」になるのである。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」なるご本をお書きになったのだから、そのぐらいのことは重々ご存知のことと思っていたが、あるいは、ほうっておくと唯我独尊的に生き急ぐ傾向がご自身に抜きがたくあるものだから、それへの戒めとしてこのご本を上梓されたのであろうか。
  
  最後に、予言的に書いておきたい。WEB上でのテクストの発表は、ここで私がどうがなろうと、世の趨勢として強まっていくだろう。そうして、テクスト制作者はより簡便に、そのテクストを世に頒布するようになるだろう。しかし、残念ながら、かつての書物に匹敵する内容を備えたものはこの先もはや産まれないと断言してもいい。ただ、貧しいテクストがインターネットの海の中にやみくもに漂うようになるだけである。

  内田氏は先の文章の冒頭でこう書いておられる。

<私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。>

   そこまでおっしゃるなら、どうぞ、実行してみていただきたい。「あらゆる措置」とおっしゃるならば、書店で無料で配布することである。その費用は当然、ご自信の負担となるだろう。

   その時、心ある編集者たちは、一人去り二人去りするであろう。そうなったとき、果たしてそこに「読む快楽」を十全に与えてくれる書物が誕生する余地があるものかどうか、お考えいただければありがたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月15日 (水)

写真を撮るように本を読むということ

  
    ラジオの読書の番組で、ナビゲーターの児玉清さんが、リスナーからの「どうすれば本を早く読むことができるようになりますか?」という質問に答えて、いつものように、あー、それはですねえ、という紳士的な口調でこんな風に語っていたのを聞いて驚いた。

「それはですねえ、カメラで写真を撮るように読めばいいんですよ。見開いた2ページをぱっと頭の中に入れちゃう。そうすると、大体分かりますよ。新聞なんかもぱっと見て情報を頭の中にいれるでしょ。それと同じです」

  それを聞いて、ははあ、児玉さんもレインマンなんだ、と思った。レインマンというのは1988年に公開された映画のタイトルで、サヴァン症候群の人物を主人公にした物語。ダスティン・ホフマンが主人公を演じていた。

    いや、もちろん、児玉さんがサヴァン症候群に罹患しているといいたいわけではない。そうではなくて、とても特異な能力を備えている人なんだなあということが分かったということなのである。その証拠に、児玉さんは誰でも「カメラで写真を撮るように読む」ことができるものだと思っている。しかし、そんなことができるわけないじゃないの、というのが私を含めて、ごくごく普通の人の反応なのではなかろうか。

    その前に「サヴァン症候群」説明しておかなくてはいけない。ウィキペディアの解説によると、<知的障害や自閉性障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者の症状を指す。「savant」は、フランス語で「賢人」の意味である。>

    あわてて断っておくと、当然ながら児玉さんが知的障害者であるといっているわけではない。むしろ、「常人には及びもつかない能力」をお持ちだと言いたいのである。サヴァン症候群の人びとが備えている超人的能力というのは、これまたウィキペディアを引用すると、

<●特定の日の曜日を言える(カレンダー計算)。ただし通常の計算は、1桁の足し算でも出来ない場合がある。
●航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起すことができる。映像記憶。
●楽譜は全く読めないが、1度聞いただけの曲を、最後まで間違えずにピアノで弾くことができる。
●書籍や電話帳、円周率などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。
●芸術性の非常に高い作品(絵画、彫刻など)を作ることができる[1]。
●並外れた暗算をすることができる。 >
  
    この中の「映像記憶」というのが、児玉さんの言う「写真を撮るように本を読む」という能力のことで、実は、この能力を備えている、あるいはどうも備えているように思えるという人が、確かにときどきいるのである。
  
    その一人が内田樹氏で、氏は、たぶん養老孟司氏との対談本でだったと思うが(読み終わった本は捨てるか古本屋に売るので、今手元になくて確認できなくて申し訳ないのだが)、「自分は中学くらいまでは、教科書は見開きごと、映像で頭の中に入っていた」と語っている。「だから、試験のときも、その映像を呼び戻せば、たちどころに回答が分かった。しかし、その能力も高校に入ると消えてしまった」と喋っている。氏の博覧強記の秘密はその辺にあるのかもしれない。

    もうひとり、そうではないかと思われるのが、佐藤優氏。氏の、学生時代のことを書いた本を読むと(これまた売り飛ばしてしまって書名を挙げられないが)、京都の中華料理屋に仲間と入って食事をする場面が出てくるのだが、その時に回想的に列挙されるメニューが実にリアルなのである。
  
    おそらく、佐藤氏はそのシーンを書いているときには、その場面が頭の中にはっきりと映像として甦っているに違いない。しかもディテールまで克明に・・・・。なにも、食事のメニューだけではない。氏の回想的部分の文章の詳細さは、全く尋常なものではないのである。
  
    もうひとり、これは自分で目撃したのではっきりと尋常なことではないと断言できるのが立花隆氏の読書法。私は学生時代にアルバイトで、立花氏の「日本共産党研究」の資料整理を手伝ったことがある。その時、締め切りの夜になると、氏は執筆前に7,8冊の資料本を読まなくてはならなくなる。すべて神田で入手してきた共産党関連の古本だが、これを黙々と読む。
  
    いや、それは読む、というようなものではない。むしろ「ページをめくり続ける」と形容したほうが適切かもしれない。見開きを数秒間にらみつけて、またページを繰る。そんなふうにして、ぱらりぱらりと本を読んでいく。高さ30センチほどの本も当然ながら、一晩で読了することになる。
  
    初めてその行為を目撃したとき、「そんな馬鹿な、眺めているだけで中身が頭に入るのものだろうか?」とはなはだしくいぶかしんだものだった。しかし、本の内容はしっかりと、氏の頭の中に入っているのだった。それもヴィジュアルとして記憶されているのだった。驚いたのは、原稿を書いている最中に、立花氏が、これこれの本の大体この辺の右ページの最初の方にこういうことが書いてあるからそのページを開いてくれ、と我々に注文してきたことだった。ページを繰るとその通りのページが確かに現れた。
  
    そんなことが一度ならずあった。
  
    世の中には、つくづく、もの凄い人がいるものだとその時に思った。それ以来、その手の方々は私の中では「レインマン」とカテゴライズされ、私の人物帳にはそのように登録されている。児玉清さんも今日からその仲間入りである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 9日 (月)

埴谷雄高さんて、どんな人でしたか?

   たとえば、象を前にして、その印象を10人の人に聞けば、あるひとは鼻が長いといい、またある人は皮膚が厚いだの、目が小さいだの、脚が太いだの、耳が団扇のように大きいだの、背中にしょぼしょぼと情けない毛が生えているだのと、各自各様の所見を述べるだろう。
 
   そんな様々な所見の総合が象という動物の輪郭を浮かび上がらせることになる。
  
    では、同様のことを埴谷雄高という、難解でなる小説家を対象にして行ったらどうなるか。「埴谷雄高ってどんな人でしたか?」という質問を、氏を知る27人の人びとに率直に訪ね歩くという面白いことを敢行した若き書き手がいる。
  
    その人、木村俊介氏は、東京大学教養学部で立花隆氏のゼミ「調べて書く、発信する」を受講し、それを契機に一人でこつこつと前述のインタビューを始めたのである。大学を卒業してすぐに開始したと言うから、20代前半の仕事ということになるが、それが、このたび文春文庫から「変人 埴谷雄高の肖像」という、大胆な書名の本となって世に出た(99年2月に平凡社より単行本としてすでに刊行されている)。
  
    立花先生の「人にインタビューする際にはその人が物書きならば、彼が書いた主なものは全部読んでから臨むのが礼儀である」という教えを守り、たとえば本多秋五氏のインタビューに際しては、なんと「本多秋五全集」全16巻を読んでから出かけたというから、ハンパな青年ではない。
  
    だから、この本に収められたインタビューはなかなかに面白い。どれほど面白いか、数人の「埴谷雄高像」に耳を傾けるだけでそのことはすぐに分かる。

● 埴谷家の向かいに住むFさんの話。<吉祥寺の駅ビル「ロンロン」の中の本屋にもよく行ってたけど、そのロンロンの前で上半身、裸になってる姿を見かけたことがあります(笑)。さすがに恥ずかしくて声をかけられなかったですね。夏はアロハみたいなシャツを着てるんですけど、前のボタンを留めないの(笑)。それであばら骨を見せながらどこにでも行くものですから、「やめたほうがいいんじゃな?」って止めました。でも「僕は台湾うまれですから」というの(笑)。>

● 埴谷家の向かいに住むCさんの話。<いくら何か思想があったとしても、奥さん三回も四回も子供を堕ろさせるのは、人間として許せなかった。>

● 本多秋五氏の話。<(・・・・・)伊豆旅行をして伊東に泊まった夜、埴谷君は雄弁だったなあ。埴谷君はそこでセックスの実践講義をやりはじめたんだ(笑)。(・・・・)身体の各部をラテン語に直して指さして、微に入り細を穿ち、みんなもう「闃として声なし」だった(笑)。>

● 島田雅彦氏の話。<作品読んだらきっとファンキーなじじいなんだろうなあと思っていました。実際会ってみたらやっぱりファンキーなじじいで。>

● 三田誠広氏の話。<(ご自宅に)伺った時にはご近所の人に、「ゴミのポリバケツの置き方が悪い」といわれてすごく謝っていました。>

● 中村真一郎氏の話。<母親に保護されていて、明日からどうやって食おうという日常の苦労がない。真面目に勤めたことがないし、家庭内でのもめごともない。埴谷にはもともと実生活やそれにまつわる苦労がないんだ。>

● 最晩年の埴谷氏の世話をした家政婦古澤和子さんの話。<夜中に目が覚めると「どなたかいますか? 来て下さい」とおっしゃられます。「どうしたんですか?」と応えると、「あなたですか。いるならいいんです。確認です」とおっしゃり、ベッドに戻られる。と思うと戻ってすぐにまた「誰かいるんですか? いませんか!」と叫ばれる。そんなことが一晩に何度もありました。>

● 黒井千次氏の話。<埴谷さんの碁は定石を殆ど無視します。ある元新聞記者がいうには「鳩に豆を撒くように」ポンポンポンポンすごい勢いで石を置く。大局的視点からパチリと打つわけではない。>

● 飯田善國氏の話。<埴谷さんは大ホラ吹きです。ホラ吹きの壮麗さがある(笑)。男はああでなくちゃいけない。>

● 島尾伸三氏の話。<私が小さい頃から考えていた、人に話しても理解してもらえず馬鹿にされるようなことを、あの方は一生懸命考えていたから、ちょっと嬉しかったですね。>

● 小島信夫氏の話。<埴谷さんの小説を一言でいうとお坊ちゃんの小説です。>

● 吉本隆明氏の話。<埴谷さんにとっては、「死霊」を書くことが生きるすべてだったのだと思います。もちろんそれ以外にも生活したり、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり、生きてるのは楽しいなあと思ったり、女の人と楽しんだり、ということなどもあったでしょう。でもそれは埴谷さんにとっては小さい部分だったのではないでしょうか。>

     どうです? 本、読みたくなってきませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月12日 (木)

男は女のできそこないである


  科学者が書いた読物は大概が面白くないものだが、福岡伸一氏は数少ないその例外の筆者のひとりである。氏が書いたものを初めて読んだのは「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)だったが、まずはその語り口のうまさに舌を巻いた。

  学者の読物には、その専門分野の該博な知識は確かに充填されてはいるのだが、その知識を「いかに面白く読ませるか」という「物語る技術」がはなはだしく欠落していて、なかなか読み進めないことが多い。

  そういう意味で、福岡氏の、その端正で詩的な文章や簡潔な比喩が駆使された「物語力」は群を抜いている。「須賀敦子さんの文章が好きだ」とどこかで書いていたが(私も大好きである)、確かにそうに違いないと思わせられる繊細な文章にしばしば出会って驚かされることも多い。

  今、手元に「生物と無生物のあいだ」がないので記憶で書くのだが、刺激的だったのは、ドイツの生物学者、ルドルフ・シェーンハイマーという人が唱えた「動的平衡論」の紹介。我々は人間の体が様々な分子で構成されていることを知っている。そして人体を構成する分子は固定されたままである、と思い込んでいる。

  食物を摂取しても、ただ消化器官で消化吸収し、不要物を排泄するだけ、食物を構成する分子群は体内をスルーしていくものだと思い込んでいる。しかし事実はそうではないということを、シェーンハイマーは実験で証明して見せた。簡単に言えば、我々の身体を構成する分子は、つねに入れ替わっているのである。体内に取り込まれた食物は分解され、原子、分子レベルで、体を構成しているそれと頻繁に置き換わっているというのである。

  これを読んだときに私が抱いたイメージはバケツに水道水がざーざー注ぎ込まれている様子だった。バケツは私たちの体。注ぎ込まれる水は食物。どれだけたってもバケツの中の水はバケツの形だが、中の水は常に入れ替わっている。行く川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず、というわけである。確たる形で確固として存在しているように見える生物も、実はとてもはかなくも流動的な存在なのだと知らされて、興奮してしまったのである。

  もう一点は、ウイルスについて。私はウイルスと言うのはごくごく微小な、極めて悪辣なバイキンのようなものだと思い込んでいた。拡大すれば身体や足があるに違いないと思っていた(私だけなのかな、そんなことを思っていたのは)。

  しかし、ウイルスは生物とも無生物ともいえぬ、まるで鉱物のように見える物質なのだという。ふーん、そうなのかあ、と目からウロコがぱらぱらと落ちていった。どうして高校の生物の教科書にはそういう面白いことが書いてないのだろうか。

  またしても前置きが馬鹿みたいに長くなってしまった。今回書きたかったのはそんなことではなくて、福岡氏の近著(といっても08年10月刊)の「できそこないの男たち」(光文社新書)。今回もまた、ウロコが何枚もはらはらと落ちまくるほどの面白さだった。

  その面白さは「物語る力」にあると思うが、ご本人もそのことを的確に指摘している。

<教科書はなぜつまらないのか。それは、なぜ、そのとき、そのような知識が求められたのかという切実さが記述されていないからである。そして、誰がどのようにしてその発見に到達したのかという物語がすっかり漂白されてしまっているからでもある。>(P37)

  今回、福岡氏が読者を案内してくれるのは、「男はいかにして男になるのか」という、これまた実に興味深いテーマにとりつかれた科学者たちの、しのぎを削りあう研究・実験のスリリングな現場である。精子の発見、染色体の発見、遺伝子の働きの解明などののち、その科学的巡礼の最後に我々が辿り着くのは「生命のデフォルト=基本仕様はメスであり、オスはメスのできそこないである」という身も蓋もない結論である。

  アリマキという小さな蟻のような昆虫がいる。この昆虫はすべてがメスで、生殖行為もなくメスがメスを産むという営みを営々と続けている。が、冬になる直前にだけ極少数のオスが産まれる。女の群れの中に生れ落ちたオス君は、まさに腎虚、恐るべき数のメスと死ぬまで交わり続けることになる。

  確かに生命の基本仕様はメスだが、ひたすらメス→メス→メスとつながる単一の命の流れの中では遺伝子はすべて同一である。延々と同一遺伝子が継続するということは環境の変化への対応を考えるとはなはだ脆弱なものだといわざるを得ない。そこで、遺伝子をシャッフルする役目を負ってオスが登場したわけである。

<つまり、メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。生物界においては普通、メスの数が圧倒的に多く、オスはほんの少しいればよい。(・・・・・)
  本来、すべての生物はまずメスとして発生する。なにごともなければメスは生物としての基本仕様をまっすぐに進み立派なメスとなる。このプロセスの中にあって、貧乏くじを引いてカスタマイズを受けた不幸なものが、基本仕様を逸れて困難な隘路へと導かれる。それがオスなのだ。>(P184)

「すべての生物はまずメスとして発生する」という事実は人類にあっても例外ではない。その証拠に、人間の胎児は染色体の型(XXがメス、XYがオス)に関係なく、受精後7週目までは全員が女である。それ以降、オスはメスを無理矢理改変する形で形成されていくのだが、そのあたりのことを福岡氏は次のように説明する。

<生命の基本仕様。それは女である。(・・・・・)
  基本仕様によれば、まず割れ目から細い陥入路が奥へと伸びる。これはミュラー博士が注意深い顕微鏡観察によって見出した、胎児における原始的な管組織である。以来、袋小路のこの管は、ミュラー管と呼ばれるようになる。
  ミュラー管は、このあと細胞分化によって入り口の部分は膣に変化し、奥に行くにしたがって広がりつつ、子宮、そして卵管を作り上げる。(・・・・・・・)割れ目の中央にできた膣口の上に、腎臓へ伸びる尿道が開口する。さらに上方の舳先(へさき)には尖った陰核が作り出され、割れ目は船形の、より割れ目らしい形となる。これが生命の発生プログラムにおけるデフォルト=基本仕様なのだ。
  では、もしこの子が男の子になろうと思うなら、まずしなければならない変更点は何?
  それはなにはともあれ、割れ目を閉じ合わせることである。男なら皆、自分の体の微妙な場所で、それが実際に起こったことだということを知っている。睾丸を包む陰嚢を持ち上げてみると、肛門から上に向かって一筋の縫い目がある。それは陰嚢の袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐ続いている。
  俗にこれは、“蟻の門渡り”と呼ばれる細いすじである。男の子は早いうちからこのすじの存在に気づいている。(・・・・・)
  蟻が一列に並んで渡らなければならないほど狭い通路、そう名づけられたこのすいじこそが、生命の基本仕様に介入してカスタマイズがかけられたことを示す、まごうことなき痕跡なのである。>(P154)

  福岡センセイが思いっきり楽しみながら書いている様子が目に浮かぶ。絶好調な筆致である。もうすこしゼッコーチョー振りをご披露しよう。

<このカスタマイズのプロセスでひとつだけ不都合なことが生じる。要らなくなった膣口を閉じることはよい。大陰唇を縫い合わせて玉袋をつくることもよい。が、そこから上の割れ目を全部閉じ合わせてしまうとどうなるか。精子を放出する開口部が出口を失ってしまうという困った事態が出来する。また、はたと気がつけば割れ目を閉じると尿の出口もなくなってしまうではないか。>(P163)

  いいですねえ、もう筆は止まりません。

<しかしそのとき一つだけ配慮が行われた。(・・・・・・)縫い合わせる際、尿と精子が通過できる細い空洞を残しながら割れ目を閉じていったのである。(・・・・)内部に細い通路を残しながら小陰唇を全部左右に縫い合わせると最後に三角形の突起に行き当たる。小陰唇を合一した棹は最後にその頂にこの三角形の突起をドーム状に拾い上げて載せてから、その下側に通路の口をあけた。テストステロンの作用がこれらに参画するすべての細胞の増殖を促進し、一連の造形を太く、長くした。これで完成である。
  男性諸君、今一度、自分の持ち物の形状を仔細に点検してみよう。棹にあたる部分はあたかも“たらこ”のような紡錘形の海綿組織を左右から寄せ合わせたようになっている。亀頭の部分もそうだ。こけしの頭の真ん中に穴をうがったような単純な半球形ではない。まさに爬虫類の頭部のように上側は丸く底面は平たい。そして尿道はその底面の中央をあたかも左右に寄せたような浅い通路を通って開口しているのだ。この不可思議にも精妙な形状はすべて、女から男へのカスタマイズの明々白々な軌跡そのものなのである。>(P164-165)

  実にスリリングで、手に汗握る迫真の描写力である。男は性器ひとつとってもこのように無理に無理を重ねて女から改造されるのだから、体全体を考えれば、おそらく想像を絶する負荷がかかっているだろうと思われる。

  多分そのせいで、男は女より寿命が短い。あらゆる国で、ありとあらゆる民族や部族の中で、男は常に女より平均寿命が短い。男は女より、いつでもどこでも弱く、死にやすい存在なのである。弱きもの、汝の名は男なり、三時のおやつは文明堂! なのである。

  長くなったが、もう一つ二つだけこの本が教えてくれた驚愕の新事実(?)を記しておきたい。2002年に世界中の男性から多数のY染色体が集められた。Y染色体は人をして男たらしむる指令が書き込まれた染色体のことで男だけが持っているものである。これを精査した結果、分かったことは現在地球上に存在するすべての男性は、十数万年前、アフリカで生まれた一人の男性に由来する、という事実だった。

  アフリカから始まった「男の旅路」はC、D、E、F、K、Pの6つのルートに大別できるが、それを大雑把に描くとこういうことになる。

  C系統はソマリア沿いにアフリカを脱出、アラビア半島を経てインドへ向い、その後、インドネシア、パプアニューギニア、オセアニアに。

  C系の一部は分派してインドシナ半島からアジア大陸を北上、バイカル湖付近に至る(C3型)。C系統の分岐が起こったのは約2万8000年前、旧石器時代のことである。シベリアに達したC3系の一部がサハリン、カムチャツカ半島を経由して日本にやってきたと思われている。このC3型はベーリング海峡を渡って、アラスカからアメリカ大陸にまで足を伸ばし、アメリカ先住民となった。

  D系統はアフリカを出てひたすら東を目指した。インドシナ半島を北上、一部はモンゴルへ、一部はチベットへ。最後の一団は朝鮮半島を経由して日本の南部へ。ここに安住の地を見つけ繁栄した(D2型)。D2型は日本固有のタイプで、日本人の男性はほとんどがこのD2型。Dからすぐに分岐したE型はアフリカに留まったり、ヨーロッパ南部に定住した。

  F系統は世界各地に散らばり、もっとも沢山の分派を生み出した。F系の子孫であるG、H、I、J系は主に中東と西アジアに。F系から枝分かれしたK系はさらにL、M、N、O系を生み出し、東南アジア、中国に広がった。

  F系から枝分かれしたもう一つの分派、P系はRとQの系統を生み出し、彼らはヨーロッパ人となっている。

  女性のルーツもミトコンドリアの遺伝子を解析することで、アフリカに生きていた一人の女性であるということが分かっているが、人類はみんなアフリカからやってきた兄弟ということになる。この長い長い遺伝子の旅路を考えるとめまいがしそうになる。

  最後に本当に驚いたことを簡単に記して終わりとしたい。これから書く知見は2003年に「アメリカ人類遺伝学雑誌」という専門誌に発表されたというから、信用するに足るものではないかと思う。発表したのは、オックスフォード大の生化学者たち24名の共同研究である。

  彼らは、アジア16地域から採集した2123人の男性のY染色体をこまかく解析し分類を進めた。サンプルのうち92%は出アフリカを果たした様々な男たちを祖先とする混成集団だった。ところが、残りの8%の男性はなぜか、ほとんど同じ型(C3型の系譜)を共有していた。しかもこの8%の男たちは同一の民族でもなく、同一地域に住むものでもなかった。男たちは、広く、中国東北部からモンゴル、果てはウズベキスタン、中央アジアはアフガニスタンに至るまで広大に散在している。通常、このような広大な地域に同一型の染色体をもつ男がぱらぱらと住んでいることは確率的にはありえないことなのである。

  だが、実際には、そのありえないことが起きている。
  この8%の男たちの染色体を詳しく調べると、全員にわずかな染色体の書き間違いが見られ、その間違いが起きたのは約1000年ほど前のことだということが分かった。1000年前、アジアはどうなっていたか?

  1162年ごろにチンギス・ハーンはモンゴルの有力な一族に生まれ、1206年には全モンゴルの支配者となっている。モンゴル帝国は西はチグリス川まで版図を広げ、世界史上最も広大な領土を有する帝国となった。征服した国々での略奪は凄惨を極めたが、チンギス・ハーンはどの戦士たちにも平等な略奪権を与えたという。しかし、例外があった。美女はすべてチンギス・ハーンに献上しなければならなかった。

<かくしてチンギス・ハーンのC3タイプY染色体は数え切れないほど多く蒔かれたのである。数多くの子孫たちはまた各地に散開し、より多くの種を蒔き、それが何世代も繰り返された。その結果、あらゆる場所の、あらゆる階層にハーンの刻印があまねく広まることになった。
  もちろん、チンギス・ハーン自身のY染色体を現在、手に入れて調べるすべはないから(チンギス・ハーンの墓がどこかはいまだに謎である)、厳密に言えば、アジアの1600万人に共有されているY染色体が、ハーンに由来するものだと100%は断定できない。
  しかし、このY染色体が出現した時期とその分布がモンゴル帝国の勃興と領土にぴたりと一致し、帝国の境界線を越えた地域ではほとんど見つからないことは、これがまぎれもなくハーンの染色体であることを示唆するものである。>(P226)

  時に、こんな記述に出くわすから、科学物の読物はやめられないのである。

  
  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月20日 (火)

苅谷剛彦「階層化日本と教育危機」を読む

  高速道路を車で走っていて、渋滞に巻き込まれたとき、遅々として進まぬいらいらから「どこのアホがちんたらちんたら走っとんねん!」と呪い声をあげることがある。

  ポルシェやBMWやベンツなど、軽―く時速200キロ走行できる優秀な車が、渋滞の先頭を、落ち葉マークを貼り付けた、どこぞのポンコツ車がよたよたと走っているせいで、そのオタンコナスに合わせて走らねばならない髀肉の嘆をかこってしまっているではないか、と。

  いっそのこと、右端のレーンは時速200キロ制限、真ん中は100キロ、左端は80キロという風に分けたらどうなのか、と思う。そうすればそれぞれの車の実力を十分に発揮することができるし、渋滞だって解消するだろう。それぞれに能力の違う車に、同じ規則を適用するのは、間違っているのではないか。

  というような私の高速道路上の呪詛を、苅谷剛彦氏の「階層化日本と教育危機 不平等再生産から意欲格差社会へ」(有信堂)という本を読みながら思い出した。苅谷氏は東京大学大学院教育学研究科の教授。現在の日本の教育現場の悲惨な現状を、「階層」という概念を持ち込みながら鋭利に描き出している。

  学者の書き物というのはえてして「研究のための研究」に陥りがちだが、本書には、一人の学者として、崩壊した日本の教育を再生するための一助となりたいという強い意志が漲っている。とても刺激的で様々な発見に富んだ論考が収められているが、門外漢の私にもとても興味深かった2、3の見解をここに拾っておきたい。

  まずは、「学力による序列化を悪しきもの」ととらえる戦後の風潮について。苅谷氏はこう書く。

<たしかに、戦後日本社会に生きる私たちの多くは、能力や学力、あるいは学業成績によって、子どもたちを差異的に扱うことを嫌悪してきた。学力や成績によって子どもたちを差異的に扱うことが「落ちこぼれ」や「非行」の原因である。そのような見方も、私たちのあいだにかなり広範に存在する。学力による序列化、成績による生徒の差異的処遇は、「差別」であり、「悪しきもの」である。教育をとらえるこのような見方は、すでに私たちの「日常的知識」とさえなっている。>(P68)

  では、

<日本の教育を、「能力主義的差別」、あるいは「差別=選別教育」として同定する教育の認識枠組みは、どのような経緯で発展していったのか。>(P69)

  こう言うとき、実は「差別」という言葉の意味合いが、国際比較の観点からすると、必ずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない、と苅谷氏はいう。たとえば英語における「差別」=discriminationはこのような事態を差別とは呼ばない、と述べ、英語圏における「差別」概念を次のように説明する。

<discriminate: to make a difference in treatment or favor on a class or categorical basis in disregard of individual merit(個人のメリットとはかかわりなしに、階級(集団)的あるいはカテゴリカルな基盤をもとに差異的な処遇をしたり、ひいきをしたりする)

Discrimination: the act, practice, or instance of discriminating categorically rather than individually (個人的にではなく、カテゴリカルに、差異的に扱う行為、実践、事例)>(P72)

  つまり個々人を、女性だから、黒人だからというような、カテゴリカルなくくりで画一的に処遇することが「差別」なのであって、<個人の能力差や成績の差異を基準とした差異的処遇にまで射程を広げ、そうした事態を「差別」とみなす議論ではないのだ。> 従って、<「能力主義的差別」や「差別=選別教育」として結晶化された、私たちが教育をとらえる認識の枠組は、(戦後)日本社会に出現した、社会的、文化的、歴史的な産物であるということができるのである。>(P73)

  そのような産物を生み出すのに精力的に寄与したのは日教組で、50年代から60年代にかけて、「能力主義」は「差別教育」につながるとことごとく指弾してきた。

<(・・・・・)教育における序列化や差異化を問題視する場合、序列のなかで下位に位置づけられた子どもの差別感を除去すべきであると判断し、そうした感情を喚起する教育を差別教育とみなす認識枠組みがつくりだされてきた。>(P81)

  その結果、

<「できない子」の心情を起点においた差別批判では、具体的な解決策は出にくい。成績による序列が問題の根源だとされ、にもかかわらず実態として残る学力差に対しては、成績による序列化をみえにくくすることのみが解決の方法となる。どの子もがんばればできるはずだ、という理想をかかげ、それでも生まれる差異については、「できない子」の心情を配慮し、できるだけ表面に出ないようにする。そうした解決策が、一方では欧米的な意味での教育における<差別>問題を不問に付し、他方で、まっとうな学力の評価さえ忌避する教育界の「雰囲気」をつくりだしてきたのである。>(P130)

  ここで、私の高速道路上の呪詛が立ち上がるわけである。なにもクルマを例に採らなくてもよい。マラソンでもいい。42キロを2時間台で走る生徒もいれば10時間かけても走れぬ生徒がいる。それは本人のやる気や「がんばり」とは別の次元で現に存在する。その時に、明らかに存在する個体間の能力差を無視して、10時間レベルの生徒に「悲哀」を味わわせないようにしようと、低レベルに合わせてみんなに「平等」な指導を施せば、2時間レベルの生徒にとっては、それは時間の浪費以外の何物でもない。それぞれの生徒の能力に応じた指導をすることこそが、まさに「平等」な教育というものなのではないのか、というのが私の考えである。

  身体能力に歴然と格差があるように、知的能力にも同様の格差が、人間にはある。それは「差別」ではなく「格差」である。それぞれの生徒がそれぞれに最高のパフォーマンスを発揮できるようにすることこそが、教育の本来の姿なのではないのだろうか。

  
    が、日本の教育界はそうは考えなかった。簡単に言えば、過剰な競争が子どもたちの心に荒廃をもたらすという理由から、「もっとゆとりをもたせよう、教える内容を簡単にしよう」という学習へ向かわせる圧力をぐんと低下させた。1999年10月号の「論座」で、文部省の寺脇研政策課長は、「だれでも100点が取れる」教育を目指すと語っている。

  おお、寺脇研! 懐かしい名前である。40年ほど前、「キネマ旬報」に日本映画評をせっせと投稿し続けていた東大生である。それに負けじと一生懸命映画を観て、しこしこ映画評を書いては送っていたのはこの私だった。ともに10代か20代の始めの頃である。そんな映画青年が、卒業して文部官僚となり、こんなふやけた教育理念を語るとことになるとは思いもよらなかったぞ、寺脇。

  寺脇らが推進した「ゆとり教育」が目指したものは、<自らの興味・関心に従い、自己実現をめざす、意欲あふれる個人、「自ら学び、自ら考える」個人、「内発的な動機づけ」にしたがった、自己啓発的な人間のモデル>(P178)を作り上げることだった。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」。そのことを自発的、内発的に考える生徒を作り出すことだった。

  しかし、ちょっと考えれば分かることだが、ほとんど哲学的ともいうべきこの難問に立ち向かうには、「自発的」「内発的」な思弁を待っているだけでは応えることができるわけがない。「なんのために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」を考えるためには、まず「つべこべいわずに死に物狂いで勉強すること」が必要だし、「膨大な量の知識を自身に詰め込んでから」でないと「その知識」の有用性など分かるはずがないではないか。知識というものがそもそもそういうものなのだから・・・・・。

   結果、ゆとり教育という名の、「学習への減圧」は「馬鹿の大量発生」を招くことになったことは、先刻多くの方々が指摘する通りである。

   それだけではない。戦後、実際に存在する個人間の「格差」を見てみぬふりをしてきた教育界は、その背後に大きく潜む社会的格差=階層(収入や社会的威信や文化資本の有無)をもほとんど意図的に見落としてきた。苅谷氏がこの本1冊を要して問いかけているのも、戦後日本に厳然として存在する社会階層の存在と、それが教育の現状に密接にリンクしているという事実にどう対応していくべきなのかということなのだが、実はここにも驚くべき知見が記されている。

   詳しくは本書を参照されたいが、ごくかいつまんでいうとこうなる。

   統計的調査によると、低い社会階層の出身である生徒は、勉強時間が短く、かつ「あくせく勉学に励む」ことを忌避し、むしろ積極的に学習的態度からドロップアウトし、そうすることで「自身の有能感」を得ている、というのである。びっくりするような話ではないか。

   ここからは、私の想像である。つまり、彼らは、物心ついたときから、「がつがつ勉強ばかりしているやつは、人間のくずだ。人間にはもっと大切なことがある。自分と何か。本当に自分がしたいことは何か。それを追い求めることこそが人生で一番大切なことなのだ」という、ほとんど洗脳に近い教育を強く刷り込まれてしまったのではないか。だからこそ、がつがつとした「能力主義」の土俵に乗ることを忌避し、まさにそのことで自己の有能感を味わっているのではないか。

   しかし、その彼らを待ち受ける世界は、そのように甘いものではない。世知辛い能力主義が、日本のみならず、全地球規模で待ち受けている。しかし、彼らはドロップアウト・ライフスタイルを改めることはしない。いまさら改めようもないのだ。就職の機会には、そのライフスタイルを改める気持ちがさらさらない、というその理由で正規雇用者の地位を獲得するチャンスは極端に低くなる。結果、彼らの行き着く先はフリーターであり派遣社員という弱者の立場以外にはない。

   想像するに、彼らはまさにそのような立場に追い込まれているという事実にしがみつくようにして、今、自己の有能感を思う存分、満喫しているのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 5日 (水)

篤姫が眺めていた「江戸の惨状」

   NHKの大河ドラマ「篤姫」が大人気らしい。幕末の疾風怒涛の世を、宮崎あおい扮する篤姫が必死の覚悟で生き抜こうとする、その真摯な生き方に心動かされるようである。不況風激しく、「蟹工船」が愛読されるこの時勢だからこそ、よけいに感動を呼ぶのだろうか。あおいちゃんが、毎回瞳をうるうるさせているのを見ると、日本中の視聴者も一緒になってうるうるしているのに違いない。

   実際、篤姫が生きた時代は、毎日うるうるするしかないほど、変転の激しい世の中だった。生まれたのが1836年、亡くなったのが1883年。47歳で生涯を閉じるその瞬間まで、めまぐるしく移り変わる変転の渦中に身を置き続けた女性だった。

   中学、高校の日本史で、明治維新というのが、日本の近代史の中の結節点ともいうべき特異な時期だったことは概念的には学んだが、どのくらい特異な時期であったかは、なかなか感覚的には分からない。江戸時代、明治時代という年号を聞くだけで、なんだかとても昔の話に聞こえるからである。

   そこで、面白いことを考えついた。江戸、明治というから皮膚感覚的に実感しにくいのだから、これを、我々になじみのある昭和、平成に置き換えて日本史年表を眺めれば、全く違った時間感覚で歴史を捉えなおすことができるのではないかと思ったのである。

   明治維新を平成元年に起きたこととして年表を書き換えると、篤姫は昭和32年に生まれて平成16年に亡くなったことになる。これだと、とても実感しやすいのではないだろうか。ちなみに、昭和32年に生まれた女性には、秋野暢子さんやかたせ梨乃さんがいる。ご両名はともにご存命であるが、もし、篤姫が平成20年まで生きていたとしたら、そんな感じである(どんな感じなんや?)。

   昭和、平成の元号に置き換えて篤姫の生きた時代を描き換えるとこんな風になる。

昭和32年 薩摩に生まれる。
昭和33年 1歳。天保の大飢饉、大塩平八郎の乱。
昭和34年 2歳。高野長英、渡辺崋山らが鎖国政策を非難。
昭和37年 5歳。天保の改革。
昭和49年 17歳。ペリーが浦賀に来航。薩摩藩主・島津斉彬の養女に。
昭和50年 18歳。日米和親条約締結。
昭和54年 22歳。安政の大獄。大老井伊直弼、老中間部詮勝らが「日米修好  通商条約への調印、徳川家茂の将軍職継承」の施策に反対する一派を弾圧。
昭和56年 24歳。桜田門外の変。水戸藩浪士が井伊直弼を暗殺。徳川家定の正室として大奥に。
昭和58年 26歳。生麦事件。薩摩藩士がイギリス人を殺傷。夫・家定急死。結婚生活1年9ヶ月で夫を失う。10日後、父・斉彬も死去。
昭和59年 27歳。薩英戦争勃発。
昭和60年 28歳。蛤御門の変。長州藩士が京都御所を襲う。
昭和61年 29歳。長州征伐。
昭和62年 30歳。薩長同盟成立。倒幕をめざす。
昭和63年 31歳。大政奉還、江戸幕府が滅びる。王政復古の大号令。
昭和64年・平成元年 32歳。戊辰戦争。明治新政府が江戸幕府勢力を一掃。江戸城開城。
平成2年  33歳。版籍奉還。
平成4年  35歳。廃藩置県。郵便制度制定。義務教育開始。新橋・横浜間に鉄道開設。東京・大阪間に電信開通。太陰暦から太陽暦に。
平成5年  36歳。群馬県富岡に製糸工場設立。
平成6年  37歳。徴兵令発布。地租改正で、初めて土地の私的所有権が確立。
平成7年  38歳。板垣退助、後藤象二郎らが民選の議会設置を要望。
平成10年  41歳。西南戦争。
平成12年  43歳。琉球藩を沖縄県とする。
平成14年  45歳。10年後に帝国議会を開設を天皇の名で国民に約す。
平成15年  46歳。大隈重信が立憲改進党を結党。
平成16年  死去。

  こうして、年号を置き換えるだけで、我々のタイムライフに即した物差しで明治維新前後の出来事を把握することができるので、漫然と日本史年表を眺めているときとはずいぶんと印象が違う。

   篤姫ほど、生まれてから死ぬまで、人生とその時代がかくもシュトゥルム・ウント・ドラングな女性は日本史の中でもそんなに多くはないだろうと思う。もの心がつくころには、世の中の既成秩序が軋みをあげ始めており、そこへ海外からの圧力が加わり、戦いの歳月が続くことになる。日本国内で同胞が、その政治的立場をことにするという理由だけで血で血を洗う争いに向かうことになったわけである。

  そして訪れた、「一種の革命」とも言える明治維新で、既存のエスタブリッシュメントは崩壊し、新秩序が血なまぐさい空気の中で荒々しく打ち立てられていく。平成元年から篤姫が亡くなる平成16年までの年表を見ると、毎年のように新たな制度や施策が打ち立てられ、世の中は激しく変貌していく。その波浪に洗われながら、篤姫はなるほどうるうるするしかなかったのだろうなとしみじみと実感されるのである。

  ところで、明治維新後、世の中の激変によって泣きそうになったのは篤姫だけではなかったらしい。とりわけ東京では、貧民が大量に発生。町中に貧民が充満し、すさまじいことになっていたのだと、文春新書「貧民の帝都」(塩見鮮一郎著)が教えてくれる。1868年、幕府が瓦解、江戸が薩長の手に落ちたとき、江戸は完全に無政府状態だったというのだ。まあ、想像してみればそれもそうだろう、と思うが、そう指摘されるまではそんなことは考えもしなかった。日本史の授業でもそんなことまでは教えてくれない。

  世間の不穏な空気を察知するや、各藩の要人たちは屋敷を捨て、さっさと故郷へ逃げ帰り、江戸には各藩邸に雇われていた使用人たちや、各藩相手に商売をしていた町人たちが職を失って溢れかえっていたというのである。

<百万人の江戸は半分になり、都市機能は完全に破壊された。給金も支払われなくなり、日常の物資の運搬もままならない。駕籠舁きがいても乗り手はまれだ。通りという通りに紙くずが舞い、くさった野菜がちらばり、猫の死骸がころがる。馬の糞をひろう物もいなくなった。堀には死体がゴミに取りかこまれてぷかぷかと流れている。おびただしいカラスが初夏の空に舞った。
  旧暦四月の初めに江戸城が官軍に明けわたされるが、しばらくはそのまま放置されていた。とてつもなくおおきな「空き家」が江戸の中央に誕生したわけだ。よろこんだのはこじきたちで、かんざしの一本も落ちてはいないかと大奥にまで入りこんだ。夜鷹(街娼)をつれてきて将軍気取りであそぶ者もいた。>(同書 P17)

   マルコス大統領が逃げ出したマラカニアン宮殿のことをつい思い出してしまう。1986年の人民革命でマラカニアン宮殿を追われたマルコス大統領夫妻はハワイに逃げたが、暴徒が宮殿に殺到。そこで、イメルダ夫人の3000足の靴、500着のブラジャー、膨大な量の香水が発見されたと当時噂された。

<徳川に最後まで忠誠をつくそうとするサムライは、八百八町の夜の闇にひそむテロリストで、道がわからないでまごまごしている官軍の兵は斬られた。小伝馬町の牢屋敷にいた囚人たちも、火事のときに行われる「切放」の制度が適用されて街頭に放出されている。三日以内にもどってくれば刑を一等減じてもらえるという約束だが、今回は裁く者がいない。それなのにとぼとぼと小伝馬町にもどってくるのは、廃市でどうやって食っていけばいいのかわからなかったからだ。それにしても物騒なことで、空き巣狙いは常態で、泥棒に強盗に恐喝、婦女暴行が日夜くりひろげられた。>(同書 P18)

  東京の、そのようにすさまじい様変わりを篤姫はどのような気持ちで眺めていたのだろうか? そのことは、小説を読んでも、ドラマを見ても、一向に分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 8日 (水)

内田樹氏は、「それでよろしいのか」おじさんである

    プレジデント社から刊行されたばかりの「大人のいない国」(鷲田清一 内田樹著)をあっという間に読み終える。全115ページ。いくらピンポイント選書と銘打つにしても、いくらなんでも薄すぎませんか? それで1143円とはいくらなんでも高すぎませんか?
    まあ、それでも買う自分が悪いんだけどね。

    この本の編集者さまにお伝えしたいのは、雑すぎる、ということ。ちゃんと校正を通しましたか? たとえば、44ページの「彼らの言悦の過半は」は「言説」の間違いではないでしょうか? 「言悦」って何かを語って悦楽にひたるようなことなのかしらん。でも、そんなの聞いたことないよ。

    あるいは、初出一覧の中の、「不愉快な他社を受け容れること」というのは「他社」ではなくて「他者」でしょ、きっと。「不愉快な他社」というのも確かにいっぱい存在するけど、そんなことを内田氏が書くわけないしね。

    で、話のマクラはこれくらいにしてと。この本を読んで、内田樹氏というのは、「それでよろしいのか」おじさんである、ということに気がついた、ということについて書きたい。「それでよろしいのか」おじさんとは何かというと、内田氏の語り口は大体において、読者に対して「みなさん、本当にそれでよろしいのか、え、よろしいのか?」とにじりよるスタイルを得意技とするおじさんである、ということである。

    分かりにくいね。具体的に書こう。内田氏の語法は簡略化するとこうなる。

    ○○について、みなさんは△△だと思っておられるようだが、○○は△△ではない。○○は実は□□なのである。
    ○○を△△だと思うことによって、人は幸せになれないし、世の中が住みよくなるわけでもないのだが、みなさん、それでよろしいのか? 本当に本当にそれでよろしいのか? 

    とまあ、こんな具合である。最初の○○にあたるものがある時は「愛国者」であり、またあるときは「言論の自由」であったり「学び」であったりするが、ここには実にさまざまな論件が充当される。そう思って氏のさまざまな言説を読むと、ふむふむととても理解がしやすい。

    具体的に当てはめてみよう。まずは「愛国者」。

「愛国者」について、みなさんは<日本と日本人を愛する人>だと思っておられるようだが、事実は全くそうではない。「愛国者」は「(自分たちと)政治的意見を異にする人々を<日本人>に算入することを拒む」人々である。
  しかし、真の「愛国者」とは「肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら<不快な隣人たち>を国民国家のフルメンバーとして受け容れること」ができる人のことを言う。
   みなさん、同胞に対して狭量な精神でしか臨むことのできぬ人々を「愛国者」として遇してよろしいのか? 本当によろしいのか?

   お次は「言論の自由」。

「言論の自由」について、みなさんは「誰でも言いたいことを言う権利がある」と信じておられるようだが、実はそうではない。
「すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する<敬意>がなくてはすまされぬ」。
「言論の自由」とは、「自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである」。「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う」のが「言論の自由」だとはき違えていると、そのことによって傷つく多くの人が出現するであろうが、みなさん、それでよろしいのか?

   最後に「学び」。

「学び」という行為について、みなさんは、<これだけの時間をかけて、こんな方法で、このようなことを教えてもらう。その費用はかくかくしかじか>というように、消費者の立場から、あたかも「商品」のごとく、実利的に捉えておられるようである。しかし、「学び」は全く「商品」ではない。このようなマインドでは「学び」を動機づけることはできない。
  なぜなら、「学び」とは「自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない、だから<学び>を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順逆が逆転したかたちの営み」なのである。「学び」をそのように捕らえないと、学ばない子供や労働しない若者を次々に生み出すことになるけれど、みなさん、それでよろしいのか?

  これでご理解いただけただろうか、「それでよろしいのか」おじさんの面目躍如が。

    世間的には△△だと思われている○○を、□□だと言い張る語法、説き伏せる技術は、読んでいてとても小気味のいいものでもある。逆に言うと、内田先生は世間の常識を覆すことを、無上の喜びとされておられるご様子でもある。これまで誰も思いつかなかったこと、思っても誰も言い出さなかったことを、できる限り明晰に語ってみせるという姿勢が、内田樹氏の真骨頂であると思う。その明晰さは、ご本人の性格もあるだろうけれど、フランス語とフランス文学を学んだことの影響が多大にあるに違いない。

    なぜなら、明晰でないものはフランス的ではないからである。

    時に、先生、いくらなんでも論理展開に無理があるのでは、そりゃ飛躍しすぎなのでは、と思われる場所にさしかかると、先生はやおら、「私はそう考えている」「私はそう信じている」という力強い一文をさしはさみ、ご自分でご自分の背中を、ぐいっと押されながらどんどこ前進されていくのである。おもわず、むふっと、読んでいるこちらの頬がゆるむ。

    そんな風にして、ごりごりと邁進して行く内田氏の背中に漂っているのは、「この世の中を少しでも住みよくしたい」「人が少しでも幸福に生きていくにはどうすればいいのか」という、私の身の回りではめったに出くわすことのない崇高な「志」なのである。

    そしてその「志」にほだされて、私は今日もまた、内田樹氏の、脳味噌に鞭を入れるような文章を読むハメになってしまうのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月25日 (木)

「神様が降りてきた」数学者たち

   たぬきの話を書いて以来、仕事に遊びに忙しくて、まったく更新することができない。まだ更新してないのかよ、さっさと更新しろよ、とときどきのぞきにきて下さっている方が罵詈雑言を浴びせかけていることを知っているので、まことに落ち着かない。とても申し訳ない。

  ふたたびたぬきの話で申し訳ないが、直前の項で書いた、ウスイさんちのたぬきだが、なーーーーんと、9月25日号の週刊文春の表紙を飾っている。といっても、ウスイさんが撮影した写真ではなく、その写真を見て、イラストレーターの和田誠氏が描いたものである。高円寺のたぬきが週刊誌の表紙を飾るなんてなんだかとても愉快である。

  で、忙しい忙しいとしきりにエクスキューズを繰り返しているが、何に忙しかったかというと、ゴルフなのであった。9月13日は大学時代の同級生とアメリカ人の弁護士2人と一緒に、兵庫県の芦屋カンツリー倶楽部で。昭和27年に開業された名門コースであるらしいが、アップダウンが激しくて、なかなか厳しい。

  ゴルフ英語について、かねがね気になっていることがあったので、昼食時にネイティブに聞いてみた。

「日本人はいい当たりをしたときに、ナイスショットと声をかけるが、それはいささか猥褻な意味合いを含んでいるので、できることならグッドショットと言ったほうがいいと言われたんだけど、ほんと?」
「いいや、どちらも使うよ、ほとんど同じ」
「ふーん。では、打った球がグリーンに乗ってコロコロ転がって外に出そうになったときに、テレビでPGAの試合などを見ていると、ステイ、ステイと叫んでいる。何で、ストップって言わないの? 日本人の感覚だと、留まれ! というより止まれ! と言うほうが適切に思うんだけど」
「それは、慣用的にステイ・オン・ザ・グリーンという言葉があるからだと思うよ」
「ふーん。じゃ、プロに試合で観客に対して、お静かにという札を出しているけど、あれはクワイエットと書いある。なんでカームじゃだめなの?」
「カームだと、幼稚園児が騒ぎまわっているときに、静にしなさい!という感じ。クワイエットはご静粛にって感じかな」

  さすがに弁護士は説明がうまい。

    帰りの新幹線に乗車する前に、新大阪駅の地下にあるHORAIで餃子と生ビールで乾杯する。今度は東京で一番うまい餃子を食べに行こう、と約束する。

   9月20、21日は長野県の三井の森蓼科ゴルフ倶楽部で連荘でラウンド。台風のせいで2日目は雨にたたられる。一緒に回ったのはエイベックスのHさんやスポーツ紙のSさんたち。エイベックスのHさんの車に乗せてもらったら、車内TVではずーっと80年代の歌謡番組が流れている。もちろんDVDで。あれこれ録画して自身で編集したらしいのだが、ピンクレディ、キャンデーズ、松田聖子、山口百恵、郷ひろみらの全盛期の歌と映像が次々と映し出される。

   その歌番組を見ていると、いまどきの楽曲がいかにつまらないか、いかに貧血しているかがよーく分かる。70年代、80年代の日本の音楽シーンは最高である、とつくづく思う。フォークがあり、歌謡曲があり、演歌があり、ポップスがあり、なによりもクリエイティビティがある。売れるか売れないか、金になるか否かといったビジネス的基準ではなく、なにかいいもの、新しいものを作り出そうという熱気が音楽界に渦巻いていたように見える。

   現代はそうではない。すべてマーケッティング至上主義であり、なによりもまず、売れることが大事なのである。投資した金を回収できなければ次にのぞめないという世知辛い世の中である。リスクは冒したくない。となると、今売れている楽曲に似たもの以上のものを危険を冒して作る気概は、なかなか持てるものではない。よって、なんだか聞いたことのある曲がいつも流れていることとなる。

   事情は、音楽界だけではなく、映画業界も、TV業界も、雑誌業界も自動車業界も家電業界もすべて同じである。いまほどコンテンツ、コンテンツとその重要性が声高に語られているくせに、コンテンツ自体に金太郎飴的退屈さが充満しているのは実に不思議なことである。本当に困った世の中である。政治だって同様かもしれぬ。

   で、今週末だが、今度は九州は福岡である。27日は志摩シーサイドカンツリークラブ、28日は古賀ゴルフクラブ。やはり大学時代の同級生と回る。古賀GCは今年の日本OPENが開催される名門なので非常に愉しみなのであるが、そんなことを友人に話すと、君はいったい何をやっているのかね、優雅だねえ、とあきれられる。そうである、優雅である。優雅であることはいけないことであろうか?

   などと言っている間に、リーマン・ブラザーズは破綻し、まるで腹話術の人形のような麻生太郎が総理大臣になってしまっている。有為転変は、まことに世のならいである。皆さん、覚えておいでだろうか。ホリエモンの会社、ライブドアがあったビルは六本木ヒルズであるが、実はリーマン・ブラザーズが入っていたのも六本木ヒルズなのである。しかも多分、複数のフロアーを一括して借りていたはずである。

   六本木ヒルズはよくよく運の悪いビルだな、と思うのは話の順序が逆で、実際は、多くのライブドアやリーマン・ブラザーズのような会社が六本木ヒルズのようなものを必要とし、産み落としただけのことなのである。


  ライブドアとリーマンの両社に共通しているのは、「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増やすことはよいことである」という信念である。そのためにありとあらゆる手立てを尽くし、策を弄し、知恵を巡らせたわけである。しかし、ちょっと考えればすぐに分かることであるが、この地球上にただ今現在存在する富は一定なのだから、どこかの誰かが「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増や」せば、どこかの誰かが「あっというまに、手持ちのお金を失う」ことになるのである。そんなこたあ、あったりまえなのである。

  その当たり前のことに気がつかず、全員が汗水たらしてお金を稼ぐことを放棄し、「できるだけ努力しないで、手持ちのお金を増や」そうとすれば、世の中、立ちいかなくなるのが当然なのである。世界のヘッジファンドや投資銀行が行っていることの内実を世界中の人がつぶさに知れば、絶対に仰天するようなことを彼らはしているはずである(確たる証拠があるわけではないが、絶対にそうであると確信している)。

  何年かして、あるいは何十年かして現在の金融界を振り返ったときに、なんであんなことが当時は許されていたんだろうか、という日が必ず来るような気がする。

  どうでもいいことをグダグダ書きすぎてしまった。今日書こうと思ったことはこんなことではなかった。

  8月28日の項で、ソフトボールの上野由岐子投手や、水木しげる氏の話を引用しながら、「神様が降りてきた」人たちの話を書いた。ある事柄を達成しようと、驚異的な集中力でのぞむ人々には、ごく稀に、「神様が舞い降りてきた」のではないかと錯覚するほどの、恐るべきパフォーマンスがもたらされるものだ、という内容である。

    そんな話を書いた直後に、面白い本を読んだ。「天才の栄光と挫折 数学者列伝」藤原正彦著 文春文庫)。

    そうなのである。「ある事柄を達成しようと、驚異的な集中力を発揮する人々」の最たるものが「数学者」なのである。考えて考えて考え抜いた、ほんのひとにぎりの数学者たちの上に、ある日、ふっと神様は舞い降り、奇跡的な発想や思考を賦与してくれる。その瞬間に、その数学者は歴史に名を残すことになる。

    この本は、その奇跡が舞い降りた地に筆者である藤原氏自身が足を運び、ごく少数の天才的な数学者たちに訪れた、一生に一度の奇跡の瞬間を再現して見せようという、とてもスリリングで興味深い列伝となっている。しかも、数式など一切使用することなく(されてもちんぷんかんぷんなんだけど)、一般人にも理解できるような言葉で綴られているところが、素晴らしいと思う。

    登場する天才数学者は、アイザック・ニュートン、関孝和、エヴァリスト・ガロワ、ウィリアム・ハミルトン、ソーニャ・コワレフスカヤ、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、アラン・チューリング、ヘルマン・ワイル、アンドリュー・ワイルズの9名。

   その中でも驚倒したのはインドが生み出した天才数学者ラマヌジャンである。1887年に生まれた彼は一冊のノートブックを残した。これがもの凄いしろものなのである。

<「ノートブック」を埋めつくす計3254個もの公式を一つずつ証明する試みは、その後、・・・・幾多の学者によりなされてきた。その一人であるイリノイ大学のバーント教授は、ここ20年間その集大成に心血を注ぎ、1997年になってやっと5巻本を完成した。ただしそれは証明が完了したというだけで、これら公式の持つ意義、数学における位置付け、応用等についてはほとんど手がついていない。>(P190)

  そして、ここからが筆者・藤原氏の筆が冴えるところなのである。

<ラマヌジャンは「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見しただろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「十年か二十年もすれば誰かが発見する」のである。
  ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した気に少なくとも私はなれないのである。それは誰かが、我が家の柿の木の根元に金塊が埋まっていると予言し、それが事実だったときの気分である。事実は認めても、予言の必然性や脈絡をたどれぬ限り苛立つ。>(P192)

  うまいなあ、書きっぷりが。柿の木の下の金塊なんていう比喩はなかなか思いつくものではない。数学に全く造詣のない私をこんなに夢中にさせるというのは、全く持って筆者の筆力のおかげである。ラマヌジャンという人は、神様が降りてきた、というよりは神様そのものだったのかもしれない。

  もうひとつだけ、印象的な一文を引用しておきたい。アンドリュー・ワイルズの話である。ワイルズ氏は「フェルマー予想」が正しいということをついに証明してみせた数学者である。「フェルマー予想」とは、

<Nを3以上の整数とするとき、
XのN乗+YのN乗=ZのN乗 を満たす正の整数X、Y、Zは存在しない。>

  というもので、17世紀の前半にフランス人のフェルマーはそう書き記し、ついでにノート端っこに「余はこの命題の真に驚くべき証明を発見したが、この余白はそれを書くには狭すぎる」と書き残して死んでいったのである。以来、3世紀半、その命題を証明しようと幾人もの数学者が挑戦し、そして敗退してきたのである。ものすごい話である。350年間、誰も解決できなかったのであるから。

  だが、ワイルズ氏がついに証明に成功したのである。
  1994年9月19日、月曜日の朝、ワイルズ氏についに神が舞い降りた。彼はこう語っている。

<「突然、まったく不意に信じがたい閃きに打たれました。コリヴァギン=フラッハ法だけでは駄目だが、岩澤理論と合わせるとうまくいくことに気づいたのです」>(P279)

  そのときのことを後に、BBCテレビの特別番組でワイルズ氏は項語っている。

<「形容できない、美しい瞬間でした。とても単純でとても優雅で、なぜそれまでに気づかなかったのか自分でもわからず、20分間ほどじっと見つめていました。それから数学教室を歩き回っては机に戻るということを繰り返し、アイデアがそこにまだあることを確かめていました。とても興奮していました」
  そしてしばらく何かを思い出すように沈黙してから、
「あれほどのことはもう二度とないでしょう、私の生涯に」
  こう言うとワイルズは突然絶句し横を向くと、カメラをさえぎるように右手を振った。>(P280)

  この部分を読むたびに私は感動する。
   
   これほどの天啓はもう二度と再び自分には舞い降りないだろうという諦念と、しかし確かに一度は舞い降りたという幸運の狭間で涙ぐむワイルズ氏の姿を想像すると、私まで涙ぐみそうになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月 6日 (水)

不肖・宮嶋の「私の異常な愛情」

  

    不肖・宮嶋こと、カメラマンの宮嶋茂樹氏から最新刊の文庫が送られてきた。「私の異常な愛情」(光文社文庫)。不肖・宮嶋らしい異常なタイトルである。「博士の異常な愛情」をもじったタイトルなのであろうが、まあ、意味はよく分からない。分からないが、別段問題はない。

  サブタイトルが「不肖・宮嶋流 戦争映画の正しい観方」。これで、内容がはっきりする。そう、「トラ・トラ・トラ!」から「硫黄島からの手紙」まで、宮嶋氏が愛してやまない戦争映画27本について、いかにも氏らしい薀蓄をこれでもか、これでもかとひたすら大展開してみせるのである。

  読んでいるうちに、二人で品川のイマジカへ「プライベート・ライアン」の試写会に出かけた日のことを思い出した。ちょうど10年前、1998年の今頃だったのではなかろうか。宮嶋氏の、ほとんど筋者としか思えぬ柄の悪いベンツ(ガラスは真っ黒で、しかも神戸ナンバー)に乗って、ドーンとイマジカに乗り付けたのだった。

  座席にふんぞり返って余裕をかましていたのは映画が始まるまでで、始まったとたんに二人はビビリまくり、座席で小さくなっていたのである。冒頭から始まるノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンのあまりの迫力に声を失った。イマジカの音響設備は素晴らしいもので、四方八方から飛んでくる金属的で鋭利な銃弾音は、まるで自分がその戦闘の真っ只中に放り出されたような気にさせられた。見終わった二人はぐったり疲れ、言葉もない。

「あかんで、宮嶋。戦争取材には行ったらあかん・・・・。死ぬで」
「はあ、すごかったですなあ」
「この映画、もう一回観に行こ。映画館でもう一回ちゃんと観てみよ」
「はあ・・・」

  たぶん、二人でもう一度この映画を観に行ったように記憶する。私はそれでも足りず、DVDまで入手し、音量をできるだけ大きくして、これまで5,6回は観たはずである。かなり精緻に鑑賞したつもりでいた。

  しかし、不肖・宮嶋の観点は想像を絶するほど、人と変わっていた。極めてユニークであった。ほとんど話しについていけないほどコアであった。どれほどユニークであるか、同書から引用してみたい。

<武器のディテールだけでも、この映画は観る価値がある。わずかだが、動くタイガー戦車も出てきた。・・・映画でツィメリット・コーティング(対吸着性地雷装甲)された戦車を見たのも初めてである。ただ旧ソ連のT34をベースに改造したため、かなり小ぶりのタイガーであった。本物のタイガーは56トン。自動車のカローラが五十台分くらいの重戦車だったのである。>

<しかし、なんちゅうても影の主役はドイツのMG機関銃である。今に至るもNATO軍が改良に改良を重ね、愛用し続けている機関銃の中の傑作である。それが、あの七十年前にドイツではすでに完成されていたのである。まさにドイツのクラフツマンシップが生み出した、銃の中のメルセデスベンツなのである。シンプルな構造、振り回しやすいバランス性、MG34(1934年ドイツ軍制式採用)、MG42ともに現在に至るも口径7・62ミリ。あまりに速い連射性から(銃声が連続的に聞こえるため)、その銃声は牛の鳴き声とも、ヒトラーのひき肉機とも言われた。・・・・上陸用ハッチが降りた瞬間から、もう、いっきなしミラー中隊が洗礼を受けたのも、このMG機関銃である。鉄のヘルメットを紙のように弾頭を貫通させ、脳ミソ、肉片をそこら中に撒き散らす。>

  とまあ、こんな具合である。これほどディテールにこだわって映画を観ることができたらさぞかし楽しいだろうなあ、と感心する。

  それから4年後の2002年の初めに、やはり二人で「ブラックホーク・ダウン」を観に行ったが、ここでも二人はビビリまくった。

「あ、あかん、宮嶋。アフリカだけは行ったらあかんで。なぶり殺しにあうで・・・・」
「ごっついですなあ、これは。実話でっさかいな」
「おお、あかんでえ、行ったらあかん。もう戦争取材はやめとけ、やめとけ。高円寺で一緒にお好み焼き食べてたほうがええで・・・」

   映画を観た後しばらくは、不肖・宮嶋もビビッていたが、喉もと過ぎればなんとかで、その数年後、一番ホットな時期にイラクに潜入、九死に一生を得ることとなるが、その話はまた今度。
  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月27日 (木)

桜木花道に、なぜ涙してしまうのか。

  本当に、不明なことだったと今になって恥じ入る。
  長い間、漫画を見くびっていた。漫画が嫌いだったわけではない。少年マガジンも少年サンデーも創刊号から読み続けていた。二宮光と同じようにボールを握り、ちかいの魔球を投げようと日夜努力していたこともあったのである。小学生のころには石森章太郎に「弟子にしてほしい」と切々たる手紙を書いた覚えもある(返事はこなかったけど)。なのに、いつしか、漫画を読まなくなっている自分がいた。

  社会人になってから、湘南に住む寺田ヒロオ氏の自宅に伺ったことがある。他でもない、「スポーツマン金太郎」の作者である。小学生の頃には、氏の漫画をそっくりそのまま学校のノートに書き写したりしながら、いつの日か漫画家になろうと夢見ていたこともあった。寺田氏はそのころ、すでに第一線から遠ざかり、静かな日々を海辺の閑静な住宅で過ごしていた。そして、最近の漫画はつまらないね、とポロっと本音を漏らされるのだった。
 その頃からだったような気がする、漫画が自分の視野からフェイドアウトしていったのは。

  最近、必要があって人気漫画家の作品を片っ端から読むことになった。その中の一人に井上雄彦がいた。目を通したのは「バガボンド」と「リアル」。ん? と思った。なんだか、とても面白いのである。絵がうまい、というのは当然のこと、物語の世界に読者を引きずり込む力が、並大抵のものではない。登場人物のひとりひとりが、その個性をくっきりと際立たせていて、とても魅力的に描きこまれている。確かな「才能」が、ほとんど漫画を読んでいなかった私にもひしひしと伝わってきたのである。

  そんな話を漫画好きの友人にしたところ、「井上雄彦なら『スラムダンク』を読まなくちゃだめだよ。もう、これまでなんど読み返したか分からない。私のバイブルといってもいいほどの作品」なんだという。
「スラムダンク」の名は知っていた。しかし、そんなもんはどうせ、ズボンが半分脱げかかったような頭の悪い青年が登場するバスケ漫画なんだろう、とたかをくくっていたのである。

「スラムダンク」完全版全24冊をその友人から借りてきて読み始めた。「これまでなんど読み返したか分からない」というだけあって本はすこし傷んでいる。中には、「風呂で読んでて、どぼんとつけちゃったこともある」というのまであって、なんだがガバガバした巻もある。
  しかし、そんなことの一切が気ならないほど、物語には吸引力があった。巻を措く能わず。かっぱえびせんではないが、読み始めたら、やめられない、止まらない状態になり、い、いかん、こんなに熱中して読んだらすぐに終わっちゃう、とセーブをかけ、読んでいいのは一晩2冊までとし、楽しみを先延ばしにする作戦をとったのだが、第20巻以降はその自主規制もふっとんだ。
  山王工業×湘北の試合が始まると、もう、手に汗握る状態で、ページを繰るのももどかしい。
  20、21、22、23、24と5巻まとめて怒涛の一気読み。空が白んでくるのもなんその。
  24巻の真ん中あたりからは、もう溢れ出る涙で、ページが滲んでよく見えん。でもなんだか、無性に悲しい。ぬぐってもぬぐっても涙がこぼれてくるのである。いったい、この感情はなんなのだ? なぜ、こんなに切ないのだ?

 そのことについてこの1週間ずーっと考えていた。そして、なんとなく、自分の「悲しみ」の理由が分かってきたように思う。なぜ、そんなに涙が出てきたのかについて記してみたいと思う。
  しかし、いかんせん、「スラムダンク」を読んだことのない人にとっては、こいつはいったい何を言っているんだろうと、いぶかしまれるような話になるかもしれない。できることなら、どちらさまも、全24巻読了した後にお読みいただけたら幸いなのだが(これも最近知ったのだが、「スラムダンク」は累計1億冊も売れたんだそうである。すさまじい、ポピュラリティである。未読の人のほうが少ないのだろうか?)。

  第20巻から最終巻の24巻まで、5巻分を使って、インターハイのバスケットボールの事実上の決勝戦とも言える、秋田代表の山王工業と神奈川代表の湘北との死闘が描かれる。この1試合だけを描くために、井上雄彦は約1200ページを費やすのである。そんな漫画、これまで、見たことも聞いたこともない。恐るべきしろものである。

  物語は湘北高校バスケットボール部を軸に展開する。すでに読んだことのある読者が、その記憶を喚起するためにも、メンバーの名前を書いておこう。キャプテン赤木剛憲、木暮公延、桜木と犬猿の仲の流川楓、宮城リョータ、三井寿、そして主人公ともいうべき桜木花道。その名前を見るだけで、懐かしいシーンが甦ってくるはずである。

  そんな彼らが一丸となって、最強のチーム山王工業に立ち向かう。1200ページ全篇に汗が飛び散り、ぜーぜーはーはーと激しい呼吸音がひっきりなしに響く。読んでいるこちらも、心拍数が上がるような死闘が延々と繰り広げられる。主人公・桜木花道はさしてバスケに興味もなかったのだが、ひょんなことからそのメンバーに加わることとなり、特訓の成果もあって急速に成長、リバウンド王として、チームになくてはならぬ存在となっている。

  後半残り2分24秒、74対66で山王がリード。宮城の左膝に当たったボールがコートの外に飛び出そうとするその瞬間、相手ボールにするわけにいかないと、桜木は身を挺して、ボールをコート内に投げ戻す。しかし、自身は体勢を大きく崩して大会委員が居並ぶ机に背中から激突する。

  残り1分40秒、76対69で依然山王リード。このころから、桜木の背中の痛みが激しくなる。「いてえ・・・ やっぱいてえ・・・ 何だよ これは」と桜木自身も、ひょっとするとこれは「選手生命にかかわるダメージかもしれない」と、その痛みに不安を感じ始める。にもかかわらず、激しいプレーに挑み、ついにコートサイドに倒れこんでしまう。もはや、これまでかと周囲の人間は誰しもそう思った。

  残り1分9秒、76対71で山王リード。気力で立ち上がった桜木はプレーに復帰しようとするが、安西監督はそれを押しとどめる。このままプレーを続行させれば「選手生命」そのものが危ぶまれることを誰よりも察知していたからに他ならない。しかし、その監督に向かって汗をぬぐいながら桜木が尋ねる。
「オヤジの栄光時代はいつだよ・・・・ 全日本のときか?」
 応えに窮する安西監督に、畳み掛けるように花道は言う。
「オレは・・・ オレは今なんだよ!!」
 桜木は監督の指示を無視して、自ら「交代」を告げる。不安の視線を投げかける周囲の目をよそに、監督に鮮明に告げる。
「オヤジ・・・ やっとできたぜ オヤジの言ってたのが・・・・ ダンコたる決意ってのができたよ」

 桜木の鬼気迫るディフェンスと三井の3点シュートが決まり、残り49秒、76対74で山王リード。2点差。
 流川のシュートが阻止され、ボールがコート外に飛び出そうとするのを、再び桜木が身を投げ出して拾い上げ、宿敵流川に投げ返す。背中に甚大なダメージを抱える桜木にとってはほとんど自殺行為とも言えるようなプレーである。ボールを受け取った流川は、3点シュートをきれいに決めて、ついに逆転。77対76、湘北リード。残り24秒。

 秒針が刻一刻と回っていく。15秒、14秒、13秒、12秒・・・。
 残り9秒4、非情にも山王のシュートが決まる。78対77で山王逆転。その瞬間、桜木は自ポスト下に向かって気力を振り絞り全力で走っていく。必死の形相である。赤木からのすばやいパスが流川に渡る。残り4秒。流川がドリブルで切り込む。残り2秒。右45度で、待ち受ける桜木。
「左手はそえるだけ・・・」と特訓での教えを自らに言い聞かせる。桜木がフリーであることを見た流川は、すかさず桜木にパス。残り1秒。桜木、シュート!

 ボールはゆっくり弧を描いてネットに吸い込まれていく。

 タイムアウトの笛。試合終了。79対78、ついに湘北は山王工業を下す。

 大歓声、涙、汗、激しい呼吸音、蒸気を上げそうなヒートアップした体温。
 描きこまれた全員が号泣している。涙、涙、涙。
 当然のように読んでいるこちらも涙、涙、涙。
 ひょっとしたら、井上雄彦自身も泣きながら描いていたのではないか、とさえ思わせるようなカタルシスである。

  多くの読者が、このシーンで涙を流したはずである。
  バスケに青春をかけた高校生たちが、長く激しい試練ののちに、ついに自らの手で勝利をおさめる。その歓喜の瞬間を一緒になって迎えるうちに、読者は感動の渦に巻き込まれてしまうのである。
  いってみればステレオ・タイプのスポーツ漫画のカタルシス・パターンである。情熱をかけて打ち込むべき何事かがあり、それが成就した瞬間に立ち会うことによって、ともにその感動に打ち震える。

  しかし、である。実は私が味わった「切なさ」はそのようなものではなかった。「感動」ではなく「悲しみ」だったのである。いったい、それは、どこからやってきたのか?
「スラムダンク」のエンディングについて、これまで、誰もそのような指摘はしなかったし、ただの一人もそのようには読み取らなかったようなのだが、思い切って書いてしまおうと思う。一つの比喩として。

  実は、桜木花道は、死んだのである。

  残り2分24秒の時点で、桜木はルーズボールを拾い上げようとして、背中から机に激突している。そして、残り1分40秒の時に、痛みに耐えかねてコートサイドに倒れこむ。桜木は、重篤な脊椎損傷を負っている。
  それ以降に展開される試合はすべて、花道のうすれゆく意識の中で繰り広げられる「妄想」にすぎないのである。そのことに多くの読者は気づいていない。もちろん、作者である井上雄彦さえ、気づいてはいない。
 時に物語は作者の手を離れて、物語それ自体が生き始めることがある。

  残り1分9秒、朦朧とした桜木は、監督の許可も得ず、勝手に自分で選手交代を告げてコートに戻る。そもそも、「妄想」の世界以外に、そのようなことはありえない話である。「このままプレーさせておくべきではないと分かっていた」と冷静な判断を下す安西監督が瀕死の選手のプレーへの復帰をすんなり許可するわけがない。体を張って制止するはずなのである。物語ではそのシーンはコミカルに小さいコマで描かれている。そのようにスルーさせるしかないような、ありえない話だからである。そのようなありえない話は「妄想」の中でしか起こりえない。

  あるいは、全24巻中、23巻と四分の三巻まで犬猿の仲だった桜木と流川が、最後の最後に絶妙のコンビネーションを2度見せる。最初は身を挺して救ったルーズボールを、桜木が流川にパス。2度目は、切り込んだ流川から桜木への勝利をもたらす奇跡的なパスである。いくら漫画だからといって、そんな漫画のようなこと(!)が都合よく2度も起きるものではないのである。それも、桜木が無意識のうちに切望したことであったとすると、分からぬ話ではない。桜木が誰よりも憎んだ流川は、誰よりも愛した仲間だったのである。冥冥たる意識の中で、桜木はそのことを、確かに実感したはずである。

  桜木がその短い一生をコートで終えた以上、物語は終わるしかない。続けようにも主人公がいなくなっては、話が続かない。「スラムダンク」の唐突なエンディングはそのように考えれば、すんなり飲み込めるはずである。

  桜木花道は死んだ。明日のジョーが白く燃え尽きたように、青春の熱情の中で、その短い生を終えたのである。そのことが、切なかったのである。

「オヤジ、おれが一番輝いているのは今なんだよ。今、燦然と輝くことができるなら、この先の人生なんか棒に振ったっていい。今、今、頼むからオレに輝かせてくれよ!」
  そんな風に絶叫し、破壊された背中を震わせながら、花道はコートに舞い戻る。

  これまで、いったいどれだけの青春が、その熱情に翻弄されるように、おのれ自身を焼き尽くしてしまったことか、と思うと涙を禁じえなかったのである。

  青春の渦中にいるものは、その「青春の熱情」が一時的なものでしかないことになかなか気がつかない。気がつかないばかりか、時に永遠に続くものなのだと錯覚してしまうことさえある。
 年齢を重ねると分かるが、「熱情の季節」は一瞬で終わる。その後には、地道で平穏な長い日常がやってくる。満員電車に乗り、タイムカードを押し、風呂上りに缶ビールを飲むような、退屈といえば退屈、穏やかといえば穏やかで凡庸な日常が訪れる。多くの人間は、激動の青春の季節を過ごした後に、なだらかにそのように大人になっていく。

  だけれども、中には、そのような人生にきっぱりとノーを突きつける青春もある。桜木花道とは、そんな青年の一人だったのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月17日 (月)

哲学とは「愛知」なのだった

  バンザーイ、バンザーイ! 
  1月28日から始めたこのブログの累計アクセス数がついに1000を超えたあ。ウレシイ!
  もっとも、そのうちの200くらいは、全然人が来ないので、ちゃんとブログ画面は機能してるんかいな、と心配になって覗きに行った自分のアクセス数だが、いいのだいいのだ、そんなことは気にすまい。
  千里の道も一歩から、さあ、今日も地味な話でコツコツ行くよう。

 3月1日の「嘔吐論」という気持ちの悪い話の項で、外国文学作品が翻訳されて日本語になると、なんだか急にいかめしい題になるという話を書いた。

<サルトルの「嘔吐」はフランス語の題では、「La Nausée」。「吐き気」「むかつき」なのに、日本語のタイトルになると、とたんにいかつい「嘔吐」なんて言葉に変わってしまう。ほんとに不思議。ついでにいうと、カミュの「反抗的人間」も「L'Homme Révolté 」で、「暴れる男」なのに、漢語の落ち着き払ったタイトルに変わる。これ、外国の文学作品の日本語訳タイトルの通弊ですね。>
 
 かねてより想像はしていたけれど、ことは文学作品においてだけではなく、哲学の分野などにおいては、もっと凄まじいことになっていることを、木田元氏の「反哲学入門」(新潮社)を読んで知った。確かに、哲学の用語なんてものはそもそも、古来からの日本語にはなかったわけで、凄いことになっているらしいことは、薄々は知ってはいたんですけどね・・・。

 「哲学」という言葉からして、自分自身が果たして他の日本人のかたがたと同じ意味を共有しているかどうか怪しい。おそらく、他の人も怪しいと思っているだろう。怪しい同士が小皿たたいてチャンチキオケサを踊ったりすれば、もう、収拾のつかない怪しさが駆け巡るだろう。
「数学」ぐらいになると、ああ、算数の難しいやつね、という共通理解があるが、「哲学」になるとそうはいかない。なんで、こんなことになったのか。
 「哲学」という概念を生み出した西欧の人々も、我々のような「怪しさ」の中にいるんだろうか? (そういえば、「概念」というのも分からん言葉だね)

 そのような疑問に木田先生は分かりやすく説明してくださっている。
 ということで、今回は「哲学」豆知識。木田先生の受け売りである。
 高校時代に日本史の授業で、「哲学」という言葉は明治初期に西周がphilosophyの訳語として編み出したと教えられたが、木田先生によると、これは明らかな誤訳なんだそうである。知らなかった。

 英語のphilosophyは古代ギリシヤ語のphilosophiaから来ている。philosophia はphilein(愛する)という動詞とsophia(知恵、知識)をくっつけた合成語で「知を愛すること」、つまり「愛知」という意味なんだそうである。しかし、これは、「知的好奇心が強い」とか「知識欲が旺盛」というような意味にしか過ぎず、これを限定的な特殊な意味で使ったのがソクラテスだという。
 プラトンの対話篇「饗宴」の中で、ソクラテスは独自の愛の理論を展開している。

<愛するものは、その愛の対象をなんとか自分のものにしようともとめます。ということは、知を愛しもとめる者というのは、まだ知(知識)をもっていない、もっていないからこそ、ひたすらそれを愛しもとめるのだ、と言うのです。知をもっていないことを無知と言います。つまり愛知者は無知であり、無知だからこそ知を愛しもとめるのだ、というわけです。>(「反哲学入門」P32)

 いわゆる、「無知の知」というやつですね。で、これを受けて、江戸時代に「蕃書調所」で日本最初の哲学の講義をした西周は、philosophyを「希哲学」と訳したらしい。philein(愛する)=希、sophia(知恵、知識)=哲、でつじつまは合っているのだが、しかし、明治になって西は、なぜか「希」を削ってしまったのである。なんで削ったのかね。で「哲学」だけが残ったと。
 そんなことを知ると、「愛知学」とか「希知学」としておけばもう少し、なじみやすかったのではないかと悔やまれる。

 この本の中で、もうひとつ興味深い用語の来歴が記されている。その用語とは「形而上学」。初めて見たら、その読み方も、意味も想像もつかないだろう。

 形而上学とは、英語ではmetaphysics(メタフィジックス)、ラテン語でmetaphysica(メタフユシカ)、ギリシア語ではta meta ta physika(タ・メタ・タ・フユシカ)。ややこしいけど、これを覚えておいていただきたい。

 紀元前350年頃、アリストテレスが書きとめた講義録は、それから250年ほど経ってから、ロドスのアンドロニコスという人の手によって整理編纂される。彼は、アリストテレスが創立した自分の学園リュケイオンの最後の学頭だった。

<(その彼が)アリストテレスの講義録を編纂する際、アリストテレス自身が「第一哲学」と呼んでいた学科の講義ノートを「自然学(フユシカ)」のノートの後に配列して、それに「自然学の後の書」(タ・メタ・タ・フユシカ・ビブリア)という名を与えました。おそらくこれはリュケイオンではまず、具体的な科学的研究(動物学や植物学、心理学関係の諸科学)や理論的思考の訓練を受けて、高学年になってから「自然学」(タ・フユシカ/運動論や時間論などをふくめた物理学)の勉強をします。
 そして、おそらく最高学年で、プラトンのイデアのような超自然的原理の設定をすることができるかどうか、あるいはその設定の方法がきちんとなされているかどうかを判断する「第一哲学」を学ぶということになっていたのではないかと思います。ですから、「自然学の後の書」という講義ノートの名前は、講義録集の配列の順番を示すだけではなく、「自然学」を読んだ後で学びなさい、というカリキュラム上の指示を含んだ名称だったわけです。>(同書 P80)

 なんだよー。そんなことだったのかよー、とがっくりさせられませんか?
 だから、木田先生も、<ですから、「形而上学」などといういかめしい漢語とは、だいぶ距離がある内容です。>と締めくくっている。

 医学にせよ、数学にせよ、哲学にせよ、外来の新知識・新学問に関して、日本人というのはよくよく、こ難しくすることが好きな民族なのである。

 しかしだよ、こんな話をいくら、しこしこ書いても、アクセスは絶対に増えないよなあ。しかもブログのタイトルが「路傍の意地」だもんなあ。
 まことに困った民族である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月14日 (金)

それは、ジョン・ヒューストンだった!

 世の中に、シンクロニシティというのはあるのかも知れない。
 3月11日に五木ひろしの紫綬褒章のパーティの模様を書いたのだが、その中で、井上嗣也氏がADをつとめた、サントリーのウイスキーの広告の話を書いた。コピーが「近道なんか、なかったぜ。」というもの。他の詳細は全然分かりません、と書いたのだが、なんと、本日、リトルモアから、「井上嗣也の仕事 1981-2007」という豪華な本(定価9500円)が届けられた!

 びっくりしたなあ、もう。
 この本には、井上氏の力強い作品群が収められている。確かに一時代を画した、ほれぼれするようなアートワークである。
 で、ゆっくりページを繰っていくと、あった!
 P169-170に、サントリー・オールドの広告。映画監督シリーズと題された広告だった。クレジットを記しておきます。
 AD、デザイナーは井上嗣也。写真、富永民生。そしてコピーライターが小野田隆雄(小野田さん、名コピー!)。そして、モデルとなったしわくちゃの男の名前は、ジョン・ヒューストン。
 すごい企画である。広告にこの上ないパワーがあった時代である。サントリーもお金がいっぱいあったんだな。
 この映画監督シリーズは他に、ドン・シーゲル、ジョン・ミリアス、ローレンス・カスダン、アーサー・ペンと続く。
 
 本屋さんで立ち読みでいいから、この作品集は眼を通しておいたほうがいいと思う。観ておいて損はないよ。ある作品にはクリエイティブ・ディレクターとして私の名前もクレジットされているもんね(自慢)。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年2月26日 (火)

大佛次郎「終戦日記」を読む。

 ブログを始めたからなのか、人の日記ににわかに興味がわいてきた、という話は以前に書いた。佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)について、佐野氏がその執筆にあたって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、時に日記の筆者を罵倒しながら(笑)、死ぬほど退屈な日記を読み続けた話は、ご披露したばかりである。

 で、続けて読み始めたのが、大佛次郎の「終戦日記」(文春文庫)。鞍馬天狗の作者の、昭和19年9月から、20年10月までの個人的な日記である。これを、毎日、風呂の中で、スポーツドリンク片手に汗をだらだら流しながら、読み進めた。一気に読みきるのではなく、まさにだらだらと楽しみながら読み続けた。そして、昨夜、ベッドの中で深夜、読了。読み終わって、泣いた。

 比喩ではない。夜の闇の中で、静かに、涙を流した。本を読んで泣く、などということはめったにあることではない。まあ、ちょっと、歳をとって涙もろくなったということはあるかもしれない。が、何よりも僕の心をつかんで静かに強く揺さぶったのは、「日本と日本人の行く末をこんなにも一生懸命、案じた人がいたのか」という、崇敬に近い思いだった。
 もちろん、その後で、「翻ってこの俺は、いったいなんという人生を送っていることか」という慙愧の念が襲ってきたことは言うまでもない。

 日記を読む楽しみは、まるで、その筆者と寝起きをともにしているような気になることである。会ったこともない、口をきいたこともない、明治30年生まれの作家と、戦時下の鎌倉で、一緒に酒を飲み、飯を食い、時の為政者や軍部の愚行をのろい、ともにB29の空襲におびえ、ゲーテやツルゲーネフやゴオゴリやチェーホフを紐解くのである。

 何日もかけてその日記を読みついでいくと、まるで、大佛次郎が自分の身内のような気持ちになってくる。とても大事な人に思えてくるのである。
 しかし、読み終えて、文庫のカバーに記された作家の経歴を見ると、

<昭和48(1973)年4月30日逝去。>

 とある。そうか、もう死んだのか、もう、死んじゃったのかよー、というなんとも言えない哀切な気持ちが心を覆いつくす。明治30年生まれなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、日記を読み続けていた何日間かをともに生きた、という実感があるから、ある種の喪失感が訪れる。もう、いないのか、あんなにも日本と日本人のことを真摯に憂い続けた人が、もうこの地球上にはいないのか、と思うと、とても無念な気持ちにさせられる。
 できることならば、謦咳に接したかった、と今の僕は切実に思う。が、昭和48年の僕は、たとえそのとき、目の前に大佛次郎がいたとしても、そんなことはこれっぽっちも思わなかったに違いない。

 日記を読んで驚いたことがふたつある。ひとつは、昭和19年、20年というせっぱつまった年であるにもかかわらず、彼らはほとんど毎日浴びるように酒を飲んでいることである。もっとも、稼いだ金はほとんど麦酒と本に費消したとどこかで自嘲的に豪語していたぐらいの人だから、その飲酒量が日本人の平均であったわけではないだろう。

 しかし、昭和のその頃は、銃後でさえ、飲まず喰わずであったに違いない、と戦後生まれの僕たちは早とちりするが、日記を読む限りでは、なかなかどうして、みんな、ジャンジャン飲んでいるのである。他にすることがなかった、ということもあるに違いない。
 どんなに飲んでいるか、その部分だけを書き抜いてみよう。こんな具合である。

<昭和20年 元旦  夕方酔いて門田君のところへ行く。大住君坂田水口などいる。深酔して些か過激の言を弄し翌朝極りわるきことなりし。

正月六日 茶室で熱燗の酒を出し暗くなってから二楽荘へ行く。集る者里見久米長田秀吉屋信子川端康成、村上猶太郎、皆々酔う、乞食大将(大佛次郎のこと)も威張って見せる。

正月七日 佐、今、清、吉野と香風園へ行き飲む。気焔の残りを吉野君と家へ持って帰り激語す。

正月八日 広安氏がくれたウイスキを飲んで寝たが夜中睡られず。

正月九日 新聞三回書き夜十時ウイスキーをのみながら酔った勢いで大きく外科手術をする。
正月 十一日 木原君のところの合成酒を取寄せ岸吉野を呼び飲む。吉野の酔い方近頃激し。>

  おとなしく飲んでいるだけではない。こんな日もあった。

<二月十九日 夕方相馬君が清酒一升さげて入ってくる。岸君を呼び何もないからコンニャクで飲む。吉野君加わる。酔って腹の立つことあり吉野君にバケツで水をかぶせる。怒らなかったのに後で感心した。>

<七月二十三日 山田兼次来たる。昼食後吉野君の家へ酒を持って二人で行き、沢木原これに加わってから無政府状態の酔となり、家へ帰り土中を掘起し取っておきの酒までぬく。(略)あばれ出すと飲みものも喰いものも人に出して了うこと洗城の観あり。何もなくなった。>

 思わず、頬がゆるむが、これは、特に飲酒シーンが多い日を選択的に列挙しているわけではない。適当に選んで抜書きしてみたらこうなったまでである。ビールなどは、本数は少なくなったものの一般に配給されている。日本酒も、あるところにはいっぱいあったようである。 
 考えてみれば、ビールの製造に携わる人々はそれで生計を立てていたわけだから、戦中といえども、生活をしなくてはならず、ビールを製造し続けていたとして何の不思議もない。(もっとも、昭和20年3月14日付けで、「昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定すと、いよいよ禁酒なり。」の記述がある。もちろん、どうやって調達したのか、大佛次郎翁はその後もかわらず、飲み続けているが。)

 もうひとつ驚いたことは、なんと人の行き来が多い家なんだろうか、ということである。上記の日記の抜粋を見ただけでも、何人もの人物が(我々が知っている人も知らない市井の人も含めて)、入れ替わり立ち替わり大佛家を訪れ、飯を食い、酒を飲み、何事かを談じ、ときに酔っ払って泊まっていくのである。ほぼ毎日誰かが訪れている。しかも、大佛次郎はそのことを苦痛には思っていない。むしろ、愉快に感じているふしもある。

 一升瓶を持って来る人がおり、獲れたばかりのアジをいっぱい持って来てくれるひとがおり、野菜や砂糖や肉を届けてくれる人がいる。向こう三軒両隣のお付き合いだけではない。出版社の編集者、新聞社の記者、軍人、作家、評論家、画家、近所の飲み屋のオヤジやおかみさんなど、およそありとあらゆる人が大佛次郎を尋ねてきて、ほっこりした気持ちで帰っていくのである。人徳といえば人徳だが、むしろ当時の人々は、そのようにしてお互いに助け合って生きていた、と考えるほうが自然なように思う。

 たとえば、この日記の末尾に、当時、大佛次郎が書いた書簡が掲載されている。その中にこんな記述がある。

<この豆腐屋やの大将がこの間ひょっくりと台所へ顔を出した。奥さん見てくれと云って二尺ぐらいの大きな鯛を出して、旦那が戦地から帰ってきたお祝いに何か持って来たいとずっと思っていたら今日になってやっとこいつを見つけたから持って来た、喰っておくんなさいと云う。>(昭和19年12月1日付け)

 実は、この豆腐やの大将に限らず、こんな人のいい人々がこの日記には次々と登場するのである。
 ちょうど、この日記を読み進めながら、同時に、内田樹氏の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文藝春秋)というエッセイ集を読んでいた(氏の書名としては、曲に溺れた難解なタイトルである)。

 そして、なるほど、内田氏が手をかえ品をかえ、主張していることはこういうことなのか、と深く納得することとなった。
 内田氏は、一人で食事をする「孤食」、あるいは「個食」の人が増えていることを踏まえて、こんなことを書いている。

<「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。
 それが可能であるのは二つの理由がある。
 一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。
 これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。
 けれども、人類が誕生して数十万年の間、「食物や水が貴重な財ではなく」、「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」という環境に人間が生きることができたのはきわめて例外的な場合だけである。
 ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。>(P196-197)

 「終戦日記」に登場する人々の心理と行動はまさに上記の通りではないか。いつ死ぬかもしれない、明日の運命をもしれぬ日常を生きることになると、人は無意識のうちに手を取り合って生き始める。スタンド・アローンな生き方は、即、死に直結する。<人間は共同体を分かち合う他者がいてはじめて人間になることができる。>(P66)という「人類学的知見」も実によく分かるのである。
 内田氏がレヴィ=ストロースの知見としてよく引用している、「人は手に入れたいものは、それを他者に与えることによってしか、手に入れることはできない」という文言も、あるいは、<今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。>(P80)という一文も、よく飲み込めるというものである。

 理屈っぽい話になってしまった。内田氏の文章を引くと、とたんに話が理屈っぽくなってしまうのが困ったもんである(笑)。勝手に引用しておいて難癖つけるとはどういう料簡だ、と叱られるだろうが。

 それはさておき。この日記に記された好きなシーンを最後にご紹介しておきたい。日記には、簡潔な文章で、メモのように坦々と日々の出来事が記されている。詩的な感興や文学的たくらみを、そこに封じ込めようという作者の意図はもとよりないのだが、それにもかかわらず、眼がそこに釘付けになる記述というものがある。まさにその時代のその日時を生きていた人たちの息遣いを、しっかりと聞き取ったような気持ちにさせられるような描写がある。

 たとえば、昭和20年2月7日。

<新聞を二回書いて送ってから一睡。鞍馬の火祭りの校正二百五十頁了、後半など悪くないと思った。合成酒と麦酒一本をコタツで飲む一時半床に入る。宵より雪となる。便所の窓から手を伸ばし南天の葉につもりしを払う。>

 深夜、便所の窓から手を伸ばして南天の葉に積もった雪を払い落とす、大佛次郎の姿が見える。どんな気持ちで、なぜ払い落としたのかは書かれない。しかし、夜の暗闇の中で、さっと落ちる白い雪が見える。
 そんな記述が僕の胸に刺さる。

 あるいは、9月26日。すでに戦いも終結し、疎開していた人々がつぎつぎに帰郷してくる。漫画「フクちゃん」の作者・横山隆一もその一人だった。親交の厚い大佛は横山のことをフクちゃんと呼んでいた。
 
<客、水口内山基、野原夫人、門田ゲッティ来たり夕食、フクちゃんも信州から出てきて加わる。フクちゃん台所より入り来たり酉子の顔を見るなり無言で落涙す。よき人なり。>

 生きて戦後を迎えた二人が再会する。大佛家のかって知ったるフクちゃんは、玄関からではなく、台所の勝手口から入ってくる。そして、大佛夫人を見とめて無言で泣くのである。涙をただ流すのである。
 たまらないシーンである。何回読んでも胸に迫る。
 昭和20年の9月26日夕刻、横山隆一は大佛家の台所で、確かに、すすり泣いていたのである。

 大佛次郎は、戦後の日本と日本人はどうあるべきかを真摯に案じ、かつ実践した人であった。
 戦後の日本の復興を、政治・経済・外交・文化のさまざまな局面で推進した人々は、そのような多くの大佛次郎たちであった。彼らは、明治中期から後期に生まれ、大日本帝国憲法下の「アンシャン・レジーム」のもとで成長し、その倫理と論理を確立した、骨のある日本人たちであった。
 皮肉なことに、戦後の日本の推進力となったものは、戦前の廃棄すべき体制のもとで形成されたものだったのである。
 その彼らがこの世から去り(大佛次郎が死去したのは1973年)、戦後生まれの、戦後の倫理と論理を身につけた日本人が日本運営の中心メンバーになってからというもの、日本丸の運行はまことにもってはかばかしくない。
 明治後期生まれの日本人の実力は、実に、侮れないものなのだ。

 長くなった。クサい話が好きな僕らしいエピソードを書いておしまいにしよう。
 この分厚い日記の中で、大佛次郎は2回、野糞をしている。しかも、うれしそうにそのことを書いている。さあ、どこに書いてあるでしょう?
 ご自分の目で探してください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

橋本治の恵み

 橋本治氏について、さほど多くのことを知っているわけではない。
 一番古い記憶は、今から40年ほど前。
 古いなあ、話が。我ながら驚いてしまうが、いまだに鮮明に覚えているのだからしかたがない。何気なくテレビを見ていたら、デニムのつなぎを着た長髪の青年が登場して、タバコをすったり寝転がったりしながら、カメラの前でニコニコしつつ何やら一生懸命喋っていたのである。おせんべいのような、丸くて平たい顔がとても印象的だった。

 それが橋本治氏だった。1968年の東大駒場祭のポスターの絵とコピーを書いた本人として紹介されていた。当時、20歳。東大文学部国文科の学生であり、かつイラストレーターだったのである。どれだけの人が覚えているか知らないが「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という名コピーとともに橋本氏の名前は人々にしっかりと記憶された。

 それから20年。友人(男性)がなにやら派手なセーターを着ていた。胸のあたりになんだか分からないが絵が編みこまれている。
「どうしたの、そのセーター」
 と聞くと、
「あ、これ? 橋本治さんにもらったんだよ。橋本さん、編み物うまいんだよ」
 ふーん、器用な人なんだなあ、とそのとき思った。

 それからまたまた20年。
昨年の小林秀雄賞の授賞式での橋本氏のスピーチがとても秀逸だったと友人から聞いた。受賞者は内田樹氏。文春新書の「私家版・ユダヤ文化論」での授賞である。そのお祝いのスピーチをするために、選考委員を代表して橋本氏がマイクの前に立った。
 内田氏の学生時代の卒論がモーリス・メルロ=ポンティだったことを受けて、
「人は学生時代に、メルロ=ポンティに出会うか、カルロ・ポンティに出会うかによって、その後の人生が大きく変わる」
 うまいこというなあ。センスいいなあ、と大いに感心した。
ちなみに書いておくと、メルロ=・ポンティはフランスの哲学者、カルロ・ポンティはイタリア人の映画プロデューサーでソフィア・ローレンの亭主である。

 私の中で、橋本治氏は、絵も描けば、コピーもものする器用で、センスのいい人として登録されたのだった。その橋本氏が「小林秀雄の恵み」(新潮社)なる評論を上梓したというので、早速買って読み始めた。何しろ、小林秀雄賞の選考委員でもある。さぞや、数々の「恵み」が軽快に披露されているのだろう、と思ったのである。

 読み始めて驚いた。なんじゃ、こりゃ、とひっくりかえったのである。申し訳ないがそれが素直な感想だったのである。それまで、橋本氏の本を読んだことがなかったので、なおのこと「びっくり」に拍車がかかった。
「こんにちわー」と橋本家の門扉を開けて玄関に向かう道が、あまりの悪路でひっくり返りそうになったような感じなのである。おそらく、本書を読了した人は、作者自身と編集者と校正者と、あとはGOOGLEのスキャナーくらいのもんではないか、と思う。

 つべこべ言ってないで引用しよう。

<読み手である私が「小林秀雄を読む」とは、私にとって必要なところ、分かるところだけを拾って読むのに過ぎない。「私の読んだ小林秀雄」は、「小林秀雄の語ったこと」の一部に過ぎない。「私の分かったところ」に「私の分からないところ」を合わせて、それが「小林秀雄の語ったこと」である。「分かる、分からない」は読み手の能力の問題でもあるが、それを超えて「分からない」になる部分もある。それは、時代の差である。小林秀雄が死んだのは、私が小林秀雄を読む二年前だが、それは偶然に過ぎない。しかしあるいは、必然かもしれない。なぜならば、私にとって、小林秀雄は初めから「古典」だからである。(略)
 
 小林秀雄は、私とは違う時代に生きていた。だから、私が小林秀雄を読んで「分からない」と思う部分は、彼の生きた時代のもたらした部分である------そのように思うからこそ、「分からない」ということが気にならない。それは、自分の生きている時代とは違う、「小林秀雄の生きていた時代」に関わることだからである。その「分からなさ」を看過してしまえば、容易に小林秀雄は分かる。そしてそうなった時、小林秀雄は私の同時代人である。しかし、その私の「分かったこと=読んだこと」は、小林秀雄の語ったことのすべてではない。一部である。私は、小林秀雄の「語ったこと」にしか関心がない。小林秀雄の「語らない部分」はどうでもよい。そして、私が知るべきことは、「小林秀雄の語った、私の分からない部分」なのである。>
(P15-16)

 もう、分かったよー。と叫びたくなってくる。くどいよーーーーー。
 しかし、まだまだ続くよ。

<『本居宣長』をもう一度読まなければならないと思った二〇〇三年の私は、小林秀雄の「分かる」と「分からない」の違いを、明確に意識していたわけではない。ただ、「今読んで分からない部分はあるのだろうか?」と思って読み始めた。「おそらく、小林秀雄の語ることのすべては分かるだろう」と、考えてもいた。「『本居宣長』に書かれたあらかたはもう知っている」と思えばこそ、そのようにも思った。ところが、読み始めてしばらくして、愕然とした。愕然として仰天して、感動に手が震えた。>(P17-18)

 私も愕然とした。愕然として仰天して、本を投げ出した。
 もう、勘弁してください、という心境である。

 世の中に、難解な文章というものがあることは分かる。難解にしか表現できないことがらが存在するからである。しかし、難解な文章と悪文は断固として違う。難解に書く必然性のない難解な文章のことを悪文、というのである。そして、上記の文章は、正真正銘の悪文である。

 なんのために、こんな牛のよだれのような文章を書こうと、橋本氏が思い立ったのか、私にはさっぱり分からないのである。しかも、第一章の冒頭に、である。さあ、旨い寿司を食うぞ、と思って寿司屋の暖簾を分けて入ったら、いきなり、わけもなく、塩をまかれたような気分である。せめて、終章ぐらいのリズムの文章をお書きいただきたかった、と一読者として慨嘆せざるをえない。「小林秀雄の恵み」どころか「橋本治の恵み」にも邂逅することなく、すごすごと退散するしかなかったのである。

 こうなったら、悪文ついでに、もうひとつ書いておこう(笑)。
 かねてより、不思議に思うことがある。朝日新聞の大江健三郎のエッセイである。なぜ、朝日が、「名文と呼ぶにはいささか困難を覚える」氏の文章に、大きなスペースを割くのか、これも皆目分からない。たまたま、朝日の2月19日付け朝刊で氏の「定義集」と題された一文を目にした。

 前段で、氏は、学生時代から、気に入った文章をカードに記録し、正確に引用するように心がけていた、と述べる。しかし、最近、その一節は覚えているものの、どの本から書き写したものだったかをしばしば忘れている、と書く。それを、受けて、

<その私は家内からどういう言葉なのかを聞かれ、きみもぼくから聞かされたはずだけれど、と話したのです。シェークスピアの二行ほどをフランスの小説家が引用していて、それをカードにとって訳したのをよく口にしてたから・・・・・記憶にあるのは、
  ----そのように考え始めてはいけない、というところでね。
 私は読んだ本を整理するのが仕事、とは幾度も書いてきました。家内は、人生で本当に大切に感じた本はすべてしまっておいてるのじゃないか、と思われるタイプ。高校を出たばかりの家内と私が知り合ったのは、友達のお母さんから、戦争の始まったころに出た本で(今年、朝日賞を受けられた石井桃子さんの訳の)「熊のプーさん」「プー横丁にたった家」を、娘が貸し失って嘆いている、どこかで見つけられないか、と頼まれたのがきっかけです。すぐに探して送ったのに礼状が来て、娘さんとは今も一緒にいます。>

 分からなくはない。分からなくはないが、いろいろと忖度して解釈しなくてはならない箇所が多すぎる。そのような文章もまた、悪文と呼ばれる運命にあるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月13日 (水)

佐野眞一氏が泣きじゃくる。

  このブログをスタートするにあたって、他人の日記というものに興味が起きた。
永井荷風の「断腸亭日乗」やら山田風太郎の「戦中派不戦日記」など、参考にすべき名作日記はいろいろとある。そんなことを思っていた時に本屋で偶然、佐野眞一氏の「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)なる本に出くわした。

  その帯の惹句に心が動いた。

<大正期、激動の宮中におそるべき“記録魔”がいた
世界最長の日記に佐野眞一が挑む!
宮中某重大事件、皇族・華族のスキャンダル、摂政問題、白蓮騒動、身辺雑記・・・・・
 とにかく書いた、何でも書いた。
 誰も読み通せなかった近代史の超一級史料をノンフィクションの鬼才が味わい尽す!>

 うまいもんですな。
担当編集者が興に乗って、パソコン相手に書きなぐっていたらどんどこ書けてしまって、ええい、全部帯に載せちゃえ、と言ったかどうかは知らないけれど、とにかくにぎやかな帯が出来上がっている。
「世界最長」という部分にまず、眼を奪われた。
   ミシシッピ川じゃあるまいし、そんな長いことに意味があるんだろうか、といぶかしんだ。次に「誰も読み通せなかった」というところが妙に気になった。なんで、読み通せなかったんだ? そんな凄い日記なのに、と誰しも思うだろう。

  そう、そう思ってしまったときに、もう、負けてしまっているのである。担当編集者にまんまと乗せられてしまっているのである。

  ページを繰ってみると、それはもう、もの凄い日記であった。

  まず、驚かされるのが、その分量。日記の巻数は、小型の手帳、大学ノートなど297冊。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。分厚い本にして50冊は優に超える量だという。しかも、癖のある手書きなので、解読は容易ではない。
  日記の筆者は、倉富勇三郎。1853年久留米藩の漢学者の家に生まれ、昭和23年、96歳で死去。東大法学部の前身の司法省法学校を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官など経て、枢密院議長などの要職を歴任したエリートである。佐野氏の比喩を借りれば、「石部金吉に鎧兜をつけたような」人物である。
       
「正直言って、これほど浩瀚な日記を書きつづけた人物が、本当に仕事をするひまがあったのだろうかと、訝られるほどである」という膨大な、この倉富日記の完全読破に挑戦した先達が2人いた。
  ひとりは倉富の縁戚にあたる作家の広津和郎。だが、その長大さに途中で投げ出し、次に挑戦したのが、みすず書房創業者、小尾俊人氏。が小尾氏も、倉富のみみずの書のような手書きに辟易して撤退。
  そんな難攻不落の巨大日記に、佐野眞一氏が敢然と挑戦! だと思って読み始めたら、全然そんなことはないのである。
 実は、佐野氏も日記全部を完全読破できていない。それどころか、26年分の中の2年半分しか読めていないのである(しかし、それでも、400字詰原稿用紙で5000枚ほど)。
  しかもそれだけを解読するのに5年を費やし、本書を完成させるためにさらに2年を費やしている。よっぽどの難業だったようで、佐野氏は泣くのである。泣いて泣いて泣きまくるのである。
  実は、ここが本書の一番面白い部分でもある。引用してみよう。

「ただただこの長い日記をひたすら読み込んだ者の立場から言わせてもらえば、倉富日記の記述は、重複がきわめて多いせいもあって、死ぬほど退屈である」(P17)
「例えて言うなら、倉富日記を読む作業は、渺茫たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている」(P18)
「倉富の記録精神は、やはりこの日記を全体としては砂を噛んだようなものにさせている。倉富日記を読む者は、益体もない記述の連続に、いやでもうんざりさせられ、必ず途中で投げ出すことだろう」(P20)
「こうした味気ない記述」(P21)
「ほとんど無味乾燥なこの日記」(P21)
「倉富は(略)、相かわらずどうでもいいようにしか思えないことを、おごそかな文体で述べている」(P38)
「読んでいてじれったくなるほど冗長な原文」(P66)
「修身の教科書にでも出てきそうな倉富の生活からは天才のひらめきも、特異な才能を持つ者が発するアブノーマルな底光りもまったく感じられない。(略)たゆまぬ努力によって該博な知識を身につけた超のつく凡人だった」(P109)
「倉富日記には、(略)くどくどしい言い回しが多く、書き写すのもうんざりする」(P227)
「倉富はなぜこんな埒もない出来事を、誰に読まれるわけでもない日記に書きとめたのだろうか」(P249)

 もう、ボロクソである。ここまで酷評されると、そりゃいったいどんな日記なんだろう、とかえって興味がわいてくるというものである。
読みたくなってきたでしょ?

 返す刀で、倉富自慢の漢詩についても、情け容赦ない。
「悲憤慷慨の思いだけは伝わってくるが、素人眼にもよくできた漢詩とは思えない。(略)対句仕立ての出来の悪い日めくり格言集を読まされたようで、思わず、吹き出してしまった」(P88)
  坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ついに、その舌鋒は倉富の容貌にまで及ぶ。
「倉富の風貌は(略)、村夫子そのものである。倉富の春風駘蕩然とした表情には、緊張感というものが微塵も感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめてきたかと思うと、本人には失礼ながら、その不思議さに頭が煮えてきそうだった」(P101)
 
 そして、佐野氏はついにこんな告白までしてしまうのである。
「ある日曜日、読み終わった倉富日記を朝から晩までパソコンに向かって打ち込む作業を続けた。夜になって一段落したとき、終日かかって書きあげたのが、倉富が執筆した1日分の日記に過ぎなかったことに気づいた。
 そのとき大げさでなく、体中に重い鉛をまきつけられて、深い海に沈められるような脱力感を覚えた。(略)正直に告白すれば、その時点でこの仕事をやめようと思った」(P250)
 にもかかわらず、7年の歳月を費やして、本書をなんとかかんとか完成することができたのは、
「倉富日記を何とか読み進めることができたのは、(略)刺激的なエピソードが、索漠たる叙述の中に時折現れ、その都度、鞭をあてられるように覚醒させられたからである」(P248)

 あくまでも、ボロクソである。

 そのような、前人未到の長大な日記を書き記した倉富が最後に書きとめた1行は、昭和19年の大晦日の日付欄にある。
「午後五時{十七時}三十分頃、硬便中量」
    
 午後5時30分、硬いウンコが普通の分量、出た。

 人の一生というのは、なんだか悲しい、としみじみ思う。
  
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月12日 (火)

不肖・宮嶋の「自衛隊レディース」

  「関西人の会」の翌日、不肖・宮嶋こと、カメラマンの宮嶋茂樹氏が、ご自身の新著を手渡しに来てくれる。
  新著は写真集で「自衛隊レディース」(イカロス出版)という。

http://secure.ikaros.jp/sales/mook-detail2.asp?CD=D-102
   その謳い文句は以下の如し。

<『カメラマン不肖・宮嶋、満を持して堂々世に送る』。 思い起こせば13年前、女性自衛官がまだ「婦人自衛官」と呼ばれていた頃、不肖・宮嶋、北から南まで飛び回り、全国の大和撫子自衛官を撮りまくった、あの伝説の傑作写真集が、21世紀を迎えた今まさに、満を持して、復活を遂げた! しかも今回はただの自衛官やない、すべて「空飛ぶ大和撫子」たちである。 ある者はP-3C哨戒機の左席に座り、ある者はC-1の機長を務め、またある者はキビシイキビシイ教官として男子学生をビシバシ鍛える。命がけの救難救助ミッションに敢然と立ち向かうヘリ・パイロットの凛々しい横顔、かと思えばスッチーに見まごう政府専用機の麗しい乗務員たち。さぁさぁ、そこらのギャルにうつつを抜かしている場合ではない。有事となれば一瞬の迷いもなく国防のため飛び立つうら若き乙女から、真実の戦いとはなにかを学ぶ時がきた。 今こそ、不肖・宮嶋のレンズの前に立つ憂国の美女たちの声を聞け。 さぁ、覚悟はできたか!? > 


   いいねえ、相変わらずの宮嶋節。衰えを知らぬ愛国エンタメ感が何よりも素晴らしい。写真集をぱらぱら見ていて、あることに気がついた。
「あれえ、今回は水着写真がないの?」
  宮嶋氏、口をとんがらかして、
「何をいうてまんねん。もう、そんな時代とちゃいまっせ。そんなセクハラ写真、撮れますかいな」
  今回の写真集は、自衛隊からのお声がかりによって成立したという。不肖・宮嶋の、これまでの信じられぬほどの活躍(戦地取材はもう、ここに書ききれぬほどなので、興味のあるかたは、宮嶋氏の著書をお買い求めください)を、自衛隊は正しく評価しているのであろう。あるいは、その真実の姿をまだ、よく認識していないのかもしれない。いやいや、そんなことは、あるまい・・・・・。
「あれえ、女性自衛官も男性自衛官も、おんなじ制服なの? ほら、股間のこの変なところにジッパーの引っ張るところがプラリンと・・・」
「また、しょうもないことによう、気がつきまんなあ。あんた、どこ見とんですか。一緒。男も女も制服は一緒ですわ」
「えええ? だってトイレのときに困るでしょ。男性は簡便だけど、女性はこんな格好だと、感単に用も足せないのでは?」
「緊急時の小用のときは、男性用にはポコッとつけるマスクみたいな簡易トイレみたいなもんがあるんですけど、女性用はないっ」
「ない!? どうすんの、女の子は」
「垂れ流し。そのまま、じょじょーと」
「そのまま、じょじょー!」
「そうです。ディズニーランドに遊びに行っとるんと違うんでっせ。戦場にいて、生きるか死ぬかの戦いをしているんでっせ。もう、羞恥心もへちまもありまっかいな。当然、じょじょーです」
「ああ、そんなもんですか。じょじょーですか」
「アメリカでもフランスでもじょじょーです」
  この手の知識については、宮嶋氏、恐るべき該博で、一緒に戦争映画など観にいったら、出てくる武器や戦車、戦闘機、制服について、ひとくさり能書きを聞かせてくれるので、退屈しない。
   その氏が、「じょじょー」だというのだから、きっと、「じょじょー」なのであろう。
   宮嶋氏、続けて、「低酸素状態の体験」について、面白い話を披瀝してくれた。自衛隊の戦闘機に同乗するには、それに耐えうる能力があるかどうか、その適正を事前にテストするのだそうだ。
    ご存知のように、ヒマラヤ山頂ははなはだしく低酸素で、酸素ボンベなしでは運動能力も知能も急激に低下する。戦闘機が飛行するのは、それよりもさらに高高度である。
「個室に入れられて、気圧をどんどん下げる実験をするんですわ。まあ、すこしづつでっさかい、だんだんに慣れてきます。で、紙と鉛筆を手渡されて、そこに、1000からひとつづつ少ない数字を書け、と言うんですわ。
  1000、999、998 と書くわけです。何をしょうもないことさせるんや、なめとんかい、こんなん、簡単やないか、とすらすら書く」
  で、実験室から外に出てから、自分が書いたその紙を手渡される。
  宮嶋氏、それを見て、びーーっくり!!!
「1000、999、998までですわ、おうとるんわ。後はもう無茶苦茶。998からいきなり940に飛んでたり、でたらめなことが書かれてまんねん」

  もうひとつの、面白い体験もご披露。
「もうひとつ、狭い部屋に何人も押し込まれて、徐々に空気を抜かれて、低気圧に対する耐性をテストされるんですわ。もちろん、酸素マスクをつけてまっせ。せやなかったら、死んでしまいますがな」
  誰でも経験があるに違いない。高速エレベーターで上階に昇ると、鼓膜が裏返ったようになるのを。体内の気圧が、対外の気圧よりも高くなり、鼓膜が内側から押されてペコポンとなったような感じがするのを。同じような感覚は飛行機に乗ったときにも味わうことがある。
  これが急速に起きると大変なことが起きる。体内の圧力が体外のそれに比して急激に高まり、内側から爆発してしまうのである。
  深海に棲む魚を一気に釣り上げると、手元に来たときには、口から内臓をはみ出させて悶死しているが、それも同じ理屈である。
「すこしづつすこしづつ気圧が下がっていくんですよ。そうするとですね、腸の中の気圧が高まって、自然にスーっと抜けていくんですわ。何が、って、ガスですよ。おなら」
「実弾は出ちゃわないの」
「また、汚いことを。そんなもん、出まっかいな。きゅっと締めてますがな。きゅっと。にもかかわらず、その辺の小さな隙間からすこしづづ、ガスが出て行くわけです。で、テストが終わって、試験官が、はい、では皆さん、酸素マスクをはずしてください、というんです。命令に従って、素直にマスクをはずしたら・・・・・・・、くっさーーーーーー! ものすごい臭いんですわ、おならが充満。12畳くらいの部屋に十数人がひしめき合って、全員が腸からガスを全部出してるから、もう、臭いのなんの、もの凄いにおいでっせ」
  尾籠な話で申し訳ない。しかし、私はこの手の話がなぜか、大好きなのである。宮嶋氏と話をすると、往々にしてこんな話になってしまう。
   クサい仲なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月11日 (月)

るんちゃん「論座」に載る。

  内田樹氏のブログ、「内田樹研究室」の2月6日付の文章に、驚くべきことが書いてあったので、そのことに触れたい。
 まずは、内田氏の文章を引用する。

<『論座』の今月号に私は短いエッセイを書いた。
掲載誌を送ってきたので、ぱらぱらと読んでいたら特集が「ポスト・ロストジェネレーション」である。
ロストジェネレーション話についてはこれまで何度か書いたので、私がこの問題の切り出し方について批判的であることはご案内の通りである。
この論題を持ち出したのはもともと朝日新聞であり、それが「え、もうポストなの?」と私はちょっと驚いたのである。
その中に「ポスト・ロストジェネレーション世代」の座談会というのがあって、四人の20代前半の男女がおしゃべりをしている。
読み進むと、中の一人の「01年に関西の高校を卒業して、それから東京に出てきてずっとフラフラしている」女の子が「東京高円寺の『素人の乱』という、アナーキストとろくでなし(笑)がやっているリサイクルショップでバイトしていましたが、いまは完全な無職です」と自己紹介したので、口からワインを噴き出す。
あまり父親を脅かすものではないよ>

 つまり、こういうことである。朝日新聞社刊の論壇誌「論座」の3月号に、内田氏は読書についての短文を寄稿した。その掲載誌を編集部が送ってきたのでパラパラページを繰っていたら、なんと、「ポスト・ロストジェネレーション世代」の座談会ページに、ご息女が登場していたというのである。そりゃ、「口からワインを噴き出」しもするだろう。

 この一件を読んで、いくつかのことを感じた。
まずは、編集者のマナーはどうなっているのか、ということである。
 ある特定の雑誌の特定号に、著名な文筆家の原稿を依頼し掲載する場合、その同じ号に当該文筆家の親族(妻、父母、子供でしかもマスコミとは無縁の市井の人である)になんらかの形で登場してもらう場合には、当該文筆家に断りくらい入れるのが常識ではなかろうか。

 ましてや、当の文筆家が極めて批判的な論題についての座談会に、彼の親族を引っ張り出し、しかも一言の断りも無いというのは、①当の文筆家に対して含むところがあり、「ハメる」意図が最初からあったか、②座談会に登場した女性がご息女であることを知らなかったか、③断りを入れるのを忘れたか、④断りを入れたのに、内田氏が繁忙のために、失念してしまっていた。という4つくらいの理由しか思いつかない。
 ④の「繁忙による失念」は、たった一人のご息女の事柄ゆえ、もし、打診があったなら、鮮明に内田氏の記憶に残るだろうから、まずありえない。②の、女性が内田氏のご息女であることに気がつかなかった、というケースは99パーセントありえないと思う。日本列島に住む、「ポスト・ロストジェネレーション世代」と思しき日本人の中から任意に4人を選び出したときに、その中の一人がご息女である可能性は限りなくゼロに近い。

 下衆の勘繰りを承知の上で書けば、こういうことではないか。
「ポスト・ロストジェネレーション世代」についての特集を組もうと考えた編集者は、まず、高橋源一郎氏のところへ相談に行った。そこで、座談会の話を持ち出したときに、ご息女の名前が挙がったのではないか。
 内田樹→高橋源一郎→橋本麻里→ご息女と、その交流は決して浅くは無いことを、内田氏のブログ・ファンならば知っている。この推測の正否は措くとして、担当編集者は「内田の娘」としてしかと認識していたはずなのである。
 となると、残るのは①と③だが、どちらであるにせよ、やはり編集者の「マナーの問題」として極めて劣悪であるというほかないのではないか。今後、内田氏は朝日新聞社からの依頼には、虚心坦懐に臨むことは難しいだろう、と他人事ながら思う。

 次に思ったことは、「ポスト・ロストジェネレーション世代」座談会、という企画はまだ、成立しえない、ということである。20代の男女4人が語り合うその座談会を読めば、「うーん、困っちゃうなあ」というシロモノであることは否定できない。どの4人にも、自身が属する世代を鳥瞰的に認識し表現する言葉と論理が備わっていないので、目先のあれこれを虫瞰図的に行き当たりばったりに発言する他ないのである。そうなると、1000人いれば1000通りの人生があるわけで、とても「世代座談会」には成りえない。日本列島に生息する当該世代に所属する若者を任意に4人選抜して座談会を催しても、おそらく結果は同じだろう。まだ、世代としての成熟が足りないのだ。

 最後に思ったことは、そうは言いながらも、内田氏のご息女の発言は、その中でも秀でているということである。これまでの人生で味わったさまざまな経験を血肉化していて(感知するセンスがあったのだろうと思う)、誰よりも重みのある発言を披露している。

<もう本当に、小学生時代からずっと、「早く学校を卒業したい」と思ってました。ゴミを拾っただけで、「お前、ホントにいいやつだな=偽善者だな」とか言われる。だから目立たないようにひたすら蹲って「早く大人になりたい」と思ってましたね。>
どうやって生活しているかを聞かれて、
<親の援助です。うちは離婚してるんでが、お父さんが、私が高校を卒業した後からだんだんお金持ちになってきたので。母方は岐阜の田舎で造り酒屋をやっていて、そこをいずれ私が継ぐことになっているので、困ったらそっちに引っ越せばいいという。>
<息を詰めていた学生時代があまりに長かったので。「学校を卒業した後は、1分1秒たりとも息を詰めたくない」ってずっと思ってましたから。楽に息ができないぐらいだったら、好き勝手生きて「もう食べていけない」ってなったら首つっちゃえばいいや、と思う。>(「論座」08年3月号P190~203)
 これらの発言を、朝日新聞社から送られてきた雑誌で初めて眼にした内田氏の狼狽ぶりは想像するに難くない。
 そこで、内田氏はブログにこう記している。

<私は娘がそれほど学校生活で屈託していたとは気がつかなかった。
学校がつまらないのは私もよくわかる(だから私も一年で中退したんだから)。
でも、自分の子どもの苦しみは「誰でもそんなもんだろう」と高をくくっていて、それほど深く苦しんでいるとは思わなかった。
配慮の足りない親であった。
育児論を偉そうに語る資格はない。
教師としても同じようにろくでもない教師であり、おそらく相当数の学生を回復不能な仕方で傷つけたはずである。>

 内田氏ほどの人でも、こと自身の子育てのことになると、こんな風に強く、自省的になるのがほほえましい。
 しかし、と思う。朝日新聞社が発行する雑誌の座談会に出席して、思うところを堂々と開陳する「るんちゃん」を育て上げたのは、他でもない、内田樹その人なのである。臆するところ無く、みごとに自身の考えを自身の言葉で語っているではないか。確かに、「内田樹の娘」以外の何者でもないではないか、と。
 ついに、子育てに失敗した一人の親として、羨ましく見つめるしかない、ほほえましい光景なのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)