音楽

2011年8月28日 (日)

なぜ、演歌が好きなのか

    昔から、演歌が好きだ。なぜなのか、その理由は分らない。

    子供の頃に、さんざっぱらテレビで歌謡曲を聞いたからなのか。

    しかし、そんな人は同世代にかなりいるが、必ずしも演歌好きとは限らない。

    ある演歌が心の奥深くに突き刺さったことを実感したことがある。

    1975年の冬の夜。一人でパリに住んでいたころに、サンミッシェルの路地裏の薄汚い日本料理屋で餃子定食だかなんだかを一人でわびしく食べていた時のこと。店内のスピーカーから突然演歌が流れ出した。

    のちにその曲は北原ミレイの「石狩挽歌」(なかにし礼作詞 浜圭介作曲)だと知るのだが、その時は本当に雷に打たれたような気がした。

    フランスにいて、フランス語を学び、フランス人の物の感じ方や考え方を学ぼうとやっきになっていたのだが、この曲を耳にしたとたんに、ああ、自分は日本人だ、根っからの日本人だ、この日本的な感傷に抗することができない、と涙ぐんでしまったのである。もう、フランスのことなんかどうでもいいや、と。

    演歌好きだというのは、実はこの「日本的感傷」にたまらなく弱い、ということなのかもしれない。

    辛く悲しい思いを、地べたに這い蹲るようにして血を吐くように吐露する。もう泣きじゃくるしかすべはないのだが、街路で号泣するのではなく、井戸の底で声をひそめて泣くような陰性な悲しみ。

    泣くことでしか救われないことが、この世の中には確かにある。

    いや、実は、いくら泣いたとて何も救われはしないのだが、泣くことによって、ほんの少しだけ目の前がほんのり明るくなったように思える瞬間がある。

    演歌は、自分の内に潜む悲しみを覚醒させ、増幅し、胸元にぐっと突きつける。それにうろたえ、悲嘆の渦に飲み込まれるが、渦の収束後は、幾分こころが軽くなったような気にさせられるのである。

    今、好きなのは吉幾三の「情炎」である。吉幾三は作詞・作曲を手がける。誰も言わないが大変な才能の持ち主だと思う。「酒よ」「雪国」は大変な名作である。

    さて、「情炎」である。Youtubeで検索するとキム・ヨンジャとのデュエットが出てくる。これがなかなか凄いのである。

    まず、最初にキム・ヨンジャが歌う。眉間に皺を寄せて悲しそうな表情である。哀切である。

どうせあんたは 他者(よそ)のひと
夜明け来る前 帰るひと
窓をたたいて 風が言う
そんな男(やつ)とは 別れなと

涸れたはずでも 泪でて
月日数えて 振り返る
世間どこでも あるような
こんな恋でも 私には

夢ならこのままで
花なら枯れないで
このまま帰らずに
このまま傍にいて

  これを受けて吉幾三が無表情に歌う。

きっとあんたの 心には
棲んでないのね 私など
別れ言葉は 持ってても
逢えば消えます ねえあんた

    吉の横に立つキム・ヨンジャの顔が悲しげに歪む。歌の世界の中に没入しているのか、あるいは自身の人生に思いを馳せているのか。彼女の胸中は分らない。吉の哀切な声が響く。

ポロリポロリと 冬の宿
残る足あと 雪の中
窓に映した 明日みて
いつも思うの 今日かぎり

    その瞬間、キム・ヨンジャの顔が突然崩れ、涙が溢れる。吉の歌声に耐え切れなくなったのか。悲しそうに身をよじる。

夢ならこの続き
雪なら溶けないで
このまま帰らずに
このままここにいて

  そして、二人でエンディングを熱唱。  

女の情けとは
死ぬまで炎(もえ)る事
このまま嘘ついて
死ぬまで嘘ついて

    このデュエットを聞きながら、ああ、オレは演歌が好きだ、とまたしても再確認してしまう。まあ一度聴いてみてくださいよ、この曲を。

http://www.youtube.com/watch?v=v5m18bcAovo

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2010年2月 7日 (日)

デイブ・ブルーベックに酔う

 
    良く晴れた冬の日曜日。空は青く透き通り、冷たい風が耳たぶを引きちぎっていく。

  本日も7時前に起床。いつものごとく朝風呂につかって読書。そののちに朝食。トーストと紅茶。紅茶はダージリンのセカンドフラッシュ。トーストにはバターと蜂蜜を塗り、その上にシナモンをちらす。

    そしてヨーグルトに牛乳を入れてよくかき混ぜたもの(ラッシーみたいな感じですね)をごくごく。ついでにバナナとみかんを食べながらゴルフネットワークで石川遼の活躍を見守る。USPGAのノーザントラスト・オープンを堂々の予選通過。18歳である。

    テレビを消して洗濯をし、洗濯物を室内に干し(もう花粉が飛び交っているので外には干せないのだ)、掃除に取り掛かる。マキタの充電式掃除機でほこりを吸いまくる。コードがないので実に便利。

    目に見えるほこりを吸い取った後に、花王のクイックルでフロアを拭く。しかるのちに2箇所のトイレ掃除。便器をコキコキと磨き、トイレクイックルでごしごし素手で磨く。きれいになると気持ちがいい。

    掃除を終えてもまだ10時半。車に乗って散髪に出かける。店に入ると「今日は寒いねえ。風も強いし」とオヤジが言う。前回も同じようなことを言っていた。「知ってるよ、そんなことは」と前回は思ったが、もうそう思うことはやめて「そうですね」と大人らしい返事をする。

    髪の本数が少ないせいなのか、待っている客が多いせいなのか、散髪はすぐに済む。駐車場から車を引きずり出して、クリーニング屋へ行き、シャツをピックアップ。

    このクリーニング屋のおばちゃんには世話になっている。シャツのボタンが取れると、「ボタンが取れた」といって、付けてもらう。紀尾井町のヒシダボタン屋でワイシャツのボタンをしこたま買ってきて、このクリーニング屋に無理やり預かってもらい、それをつけてもらうことにしている。

    しかし、親切で付けてもらっているのにこんなこと言って申し訳ないけれど、付け方が雑である。愛がこもっていない。しょうがないか、愛なんか最初からないんだから。

    クリーニング屋のお次はヴィクトリア。タイヤのチューブみたいなトレーニング用のラバーを買う。ゴルフでテイクバックからダウンスイングに入る始動の際に右ひじが浮くフライング・エルボーの癖があり、ボールがスライスする。これを矯正しようという考えからである。

    13時。腹が減ったのでサミットの2階にある「カフェレストラン たか」という殺風景なレストランに行く。店内は愛想のかけらもないが、ここのスパゲッティナポリタンとドライカレーはうまい。しかも安い。しかしいつも同じものなのも芸がないなと思い、お店の女の子に「一番注文の多いのはどれ?」という大雑把な質問をする。

    回答に従って「豚ばら肉のしょうが焼き」とライスを注文。ダイエットをしているのにこんなもん食っていいのだろうか、と一瞬思うが、思いながら全部食ってしまう。この店の女の子(数人いるが)はみんな美人である。店のおじちゃんもおばちゃんも全然そうでないのに、どうしたわけかといつも不思議に思う。

    さあて、腹ごしらえもできたからイトウ・ゴルフガーデンに行って練習でもするか、と立ち上がった途端に、古本屋へ雑誌を売りに行かねばならないことを思い出す。しかも前回持って行った古本の代金500円ももらい損ねていることに気付く。

「ナショナル・ジオグラフィック」を3年分ほどと椎名誠の単行本10冊ほど、ダン・ブラウンの小説上下などを「古書上々堂」に持ち込む。紙袋4つに分けて持ち込んだ「ナショジオ」を見て、店主は「ああー、もう売れないんだよね、ナショジオ・・・」と実に迷惑そうな顔をする。

    その顔を見ているうちに実に実に自分は空しいことをしているという気になり、「お金はいらない・・・」と言い捨てて店外に出、さっさと車に乗り込んでゴルフの練習に行く。5時まで3カゴ打ちまくる。石川遼よりもずっと早くゴルフを始めたのに、まだアメリカのトーナメントに出られないでいる自分が悲しい。

    5時。三鷹産業プラザの駐車場に車を入れ、カフェ・ハイ・ファミリアに行く。店のドアを開けるとすぐ目の前にコウダテ君がいて原稿のチェックをしている。私は週末にしかこの店に来ないが、コウダテ君はこの店を自分の食堂代わりにしているからいつもいる。よって、かなりの確率で遭遇することになる。

    コウダテ君との会話は楽しい。これといって核になる話があるわけではないが、コウダテ君は「面白く話しをする」という天性のサービス精神があって、いつまでも話を聞いてしまう。ふと気がつくと3時間近く話をしていることがあって驚く。

    今日は、今すっかり気に入ってしまっているCD、デイブ・ブルーベックの「LOVE SONGS」を店に持ち込み、店主に「これをかけて」とお願いをする。「え、大丈夫ですか、これ?」と不安な表情を見せる。きっとろくでもない音楽だと思ったに違いない。

「大丈夫、素敵なジャズ・ピアノだから」と安心させる。今度、三上寛でも持ってきてやろうか。このアルバムがいかに素晴らしいかを、コウダテ君に一生懸命説明する。百言は一聴にしかず。店内に流れるメロディを指差しながら、「ほら、この曲。オードリーっていうんだよ。オードリー・ヘップバーンに捧げる曲。いいでしょ。最後の曲がベサメ・ムーチョ。もう、たまんないねえ、この感じ」と、中味ない会話をし続ける。

*************************

    深夜1時の高速道路で、暗闇の中を疾駆しながら聴く「 dave brubeck  love songs 」は、今、生きてこの世にあることを思わず感謝してしまうほどの喜びと、それと同じほどの悲しみに満たされた、極上の快楽である。夜空の中に身を溶け込ませて消失してしまいたくなるような、たまらない気持ちにさせられる。まるで酔っ払ったような気分に襲われる。

  デイブ・ブルーベックを知ったのは、数年前、CATVでクリント・イーストウッドが作ったドキュメンタリー映画「ピアノ・ブルース」を観たときだった。イーストウッドが自身が敬愛するピアニスト(そのほとんどはもう老人である)を尋ねてその演奏を聴きながらインタビューするという趣向のものだった。

  そこに、すでに80歳を過ぎたブルーベックが登場。横にイーストウッドを座らせて、静かにある曲をひきはじめた。すでに老いて、往年の指さばきはもはやない。一音一音を慈しむように穏やかに、しかし情感をこめて奏で始めたのである。

  すぐに彼の演奏の虜になった。そのリリカルで悲しみに彩られたメロディが脳裏から離れなくなった。その曲が「オードリー」だった。

「オードリー」はこのアルバムの7曲目に収められている。そして最後に収められた「ベサメ・ムーチョ」がこの上なく、素晴らしい。我々が知っている「ベサメ・ムーチョ」とは全く異なる「ベサメ・ムーチョ」がここにはある。

  運転中にこれを聞くと、壁に激突して死んでも、もうかまわないかな、という気にさせられるから恐ろしい。

  聞いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=lGGucwpHdK4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=P_a2f9HI2JI

  というわけで、このブログはカフェ・ハイ・ファミリアでアルバムを聞きながら書きました。

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2009年10月 5日 (月)

哀しみのソレアード

  実にめまぐるしい土曜日だった。朝、4時半に起床。朝風呂に入った後に、迎えに来てくれたゲンちゃんのスマートに乗って、一路、中央区新川にあるショップ・チャンネルのスタジオへ。午前6時55分に集合、打合せを済ませた後、8時からON AIR。ゲンちゃんと組んで作ったトラベル・バッグをテレビ通販で売りまくったのである。

    バッグ製作会社の社長がメイン・ゲストで、私がおまけのゲストで出演。けたたましい勢いで、いかにこのバッグが素晴らしいかを力説し、今すぐ買うべきであると勧奨するMCの女性に合いの手を入れたり、質問に即応したりしながら1時間。なんとバッグは完売! 

    現場の緊張感はただごとではない。ON AIR中、時々刻々と、あと何個残っているかや、何色の売り上げが弱いかや、視聴者がバッグの中の収納を見たがっているなどという情報がカメラの前に立つわれわれに届けられる。それに即応しなくちゃならないから、緊張もいやがうえにも高まるわけである。

    放送終了後、ゲンちゃんと朝飯を食いに築地に出かけてみたものの、観光客と思しき人々で溢れかえっているので、諦めて「コンラッド東京」のゴードン・ラムゼイでコンチネンタル・ブレックファーストを食べる。食後、いつものようにぐずぐずとよしなしことを喋り続ける。「とにかく、ふたりとも、65歳までは健康でいて、一生懸命働こう」と誓い合う。でもまだ午前11時である。

    ゲンちゃんに会社まで送ってもらい、職場のソファに横になる。眠ろうと思ったがなぜか眠れないので、机の上にあった本を読む。きたみりゅうじ氏という人が書いた「SEのホンネ話」で、帯には「最先端技術を駆使した肉体労働者(=SE)の過激で笑える胸の内」とある。システム・エンジニア(SE)という人種と話をしたこともないので、その生態の一端が分かって興味深い。

    気がつくと夕方になっていたので、半蔵門から地下鉄に乗って三軒茶屋へ。本日のメイン・イベントである。世田谷パブリックシアターで行われる、浜田真理子さんのコンサート「マイ・ラスト・ソング vol.2」を聴く。タイトルから分かるとおり、久世光彦氏のエッセイ集「マイ・ラスト・ソング」の中から何曲かを選び出して、浜田さんが歌うという趣向のもの。昨年もこの会場で行われたが、仙台に出張していたので聴くことができなかった(その辺の話は2008年12月9日付けですでに書いた。http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/index.html

  今回で浜田さんのコンサートを聴くのは3回目だが、過去2回はみっともない話だが、泣いてしまっている。浜田さんの歌声に接するとなぜか涙腺が緩むのだ。しかし、今回は会社の同僚が複数いる。隣には女性の同僚。すこし先には、あろうことか弊社社長までいるから、うかつに泣くわけにはいかないのである。なんとか涙腺をきゅっと締めて最後の曲まで辿り着く。あとはアンコールが残るのみ。「あー、まさか<哀しみのソレアード>なんか歌ったりしないだろうなあ・・・・」と身構えていたら、案の定、その通りだった。この曲には弱いのだ。

  久世氏の本にこの曲が載っているわけではない。「久世さんにこの曲を捧げる」という趣旨で浜田さんは歌うのである。原曲は、作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldanでタイトルが「SOLEADO」。

    スペイン語で「日当たりの良い場所、陽だまり」のことだそうである。最初はイタリアのグループがインストで演奏。それがアメリカに渡って、クリスマスソングになったらしい。「哀しみ」など、最初はどこにもなかったのに、どこかの誰かが「哀しみのソレアード」と名づけた。「哀しみの陽だまり」。いいタイトルである。浜田さんが静かに、哀切に歌い始めると、会場のあちらこちらで嗚咽が聞こえ始める。

もうすぐ終わるのね
ふたりの砂時計
さよならの足音が
背中に聞こえるわ

あなたの温もりを下さい
もう一度 この心 この肌で
覚えておきたいの

ひとりで生きてゆく
明日はつらいけど
倒れずに行けるでしょう
想い出があるかぎり

淋しい人生に
光をくれた人
今はただ言いましょう
この愛をありがとう

今はただ言いましょう
この愛をありがとう

  ベソをかきそうになるのをかろうじて堪えて、もちろん、社長に挨拶もせずに、会場を後にする。三軒茶屋から地下鉄に乗り、渋谷で山の手線に乗り換え、新宿で総武線に乗り換えて、静かに電車の振動に身を預ける。窓の外は暗い。窓に映った自分の姿を見つめる。蛍光灯の明かりで青白く見える。

  三鷹で下りて、なじみのカフェ「ハイ・ファミリア」に行き、スパゲッティ・ミートソースを食べ、ベルギーの生ビール「ヒューガルデン ホワイト」を2杯一気に飲む。夜道をふらふらしながら家に帰る。公園の前で千鳥足になっている自分が分かる。随分安上がりな体質だな、と思う。

  家に帰って、シャワーを浴びる。新型インフルエンザのウイルスはしっかり洗い流しておかなくちゃな。文庫本をもってベッドにもぐりこむが、読み出すパワーがすでにない。電池は切れかかっている。頭の中では「哀しみのソレアード」のメロディがずっと続いている。

  ゲンちゃんももう眠っているだろうか、と思いつつ眠りに落ちる。

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2009年2月26日 (木)

人生に負けるな! 玉置浩二

  
    はなはだしく遅ればせながら、YOU TUBEというものの威力、というのかやりたい放題といえばいいのか、そんなものをつくづく思い知らされることがあった。
  
    ある日の夜、突然、パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」が聴きたくなって、どこかでダウンロードできるかなとWEBを調べ始めたのだが、「その前に、一応YOU TUBEでも検索してみよう」と探ってみると、あっという間に、歌と映像が画面に映り出したので驚いた。
  
    そんなに簡単に見聞きできるならと、豊島たづみや園まりや伊東ゆかりの名前を片っ端から検索にかけてみると出てくる出てくる・・・・。そりゃ、CD売れなくなるわけだわ。
  
    で、すごく好きな歌である玉置浩二の「メロディ」を調べてみると、これまたいっぱい映像が出てきた。初期の玉置から最近の白髪頭の玉置まで広範にアーカイブされているので次々と聞いてみたのだが、驚かされたことがあった。
  
    時代によって、玉置の顔つきが違う。
  
    もちろん人間誰だって、若い頃と年老いたときとでは顔つきが違うのは当たり前なのだが、そういう容貌の変化ではない。「面構え」が違うのである。うまく説明できないのだが、是非一度YOU TUBEで玉置浩二を検索して、各時代の顔を見比べてみて欲しい。
  
    はなはだしく変わってしまっている。穏やかな明るい顔、狼のように鋭く険しい顔、ふっくらと穏やかに老いた顔。本当に同一人物なのだろうか、とその尋常ならざる変化に奇妙な感じをいだきつつ、彼のライブの記録映像なのだろう、「MR.LONLEY」という曲をア・カペラで熱唱する映像と歌声に接することになった。
  
    それを聞いているうちに涙が次から次へと溢れて出て止まらなくなってしまったのである。
    
http://www.youtube.com/watch?v=tdI0OTRYwIo&feature=related
  
    その時の玉置は、短く刈り上げた髪で、鍛えた身体をTシャツに包み、文字通り身をよじり、心の内奥から振り絞るように「言葉にならない悲しみ」を叫びに乗せて吐き出して見せている。
  
    それにじっと聞き入っているうちに、そこに「男の、死にそうなほどの孤絶の叫び」を聴き取ってしまったのである。「孤独な男の叫び」ではない。そうではなくて、「男が男として生きていかねばならないときに避けがたくまとわりついてくる孤独」についての絶望的な表白を玉置がステージの上で必死に行っているように思えたのである。
  
    なんなのだろう、この耐え難いほどの孤絶感は。いったい、何があったんだろう、と思わずいぶかしみ、その謎を解き明かしたくて、GOOGLEで玉置浩二と検索してみた。すると、今、彼は病気と闘っているという話に出くわした。それによると膵臓をいためて活動を休止しているとのことだった。
  
    なるほど、病気なのか、と思いつつさらにスクロールしているうちに、「ある時期に玉置は心を病み、精神科に入院。しかし、過剰な投薬に恐怖を覚えて退院、故郷に帰って自然の中で療養につとめた」という記事に出くわした。
  
    またしても、なるほど、と思った。玉置浩二は苦しんでいるのだ、と思ったのだ。

    そう思ったときに、なぜ自分が彼の歌が好きなのか、なぜ彼が作った歌にえもいわれぬ感銘を受けるのかが分かった気がした。その「面構え」の激変ぶりも腑に落ちた。そしてまた、彼は、持続的に安定した人間関係を維持することが決して上手ではなく、そのために3回もの離婚を繰り返したに違いない、という勝手な想像をしたりもした。
 
    一刻も早く病から立ち直り、もう一度元気な姿で、あの感動的な歌を聞かせて欲しいものだと思いつつ、その夜、PCの電源を落とした。
 
    翌朝、スポーツ紙の一面に、玉置が石原真理子とニトリで一緒に仲良くお買い物をしている写真が掲載された。そこには、長い紆余曲折の後、二人は最近よりを戻した、という話が書かれていた。もの凄いシクロニシティというものはあるもんだな、と不思議な気がした。
 
    記事を読みつつ、そうすることで玉置が幸せになれるなら、それにこしたことはない。はやく再びステージに立ち、またあの「孤絶の叫び」を聞かせて欲しいものだと思った。たとえ石原のおかげで「孤絶」の度合いがいくばくか和らぐことがあったとしても、それはそれでしょうがないな、とも思いつつ。

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2008年12月20日 (土)

「昭和の感傷」とは何か?

  久世光彦氏の「マイ・ラスト・ソング」は、「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、中野翠さんは氏を追悼する文章の中で書いている。また、「私たちは『マイ・ラスト・ソング』シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった」とも記している。

  では、「昭和の感傷」とはいったい何なのだろうか? 「平成の感傷」でもなく「大正の感傷」でもない、「昭和に固有の感傷」とはいったいどういうものなのだろう。私は昭和に生まれ、昭和時代に青年期を過ごしたが、久世氏が14年間もかけて、かけがえのないものとして書き残さねば死んでも死に切れぬと思った「昭和の感傷」の直接の担い手であったかというと、ちょっと違う気がする。もちろん、理解はできる。読んでいて涙ぐみそうにもなる。しかし、その感傷を自らの胸のうちに抱きこんで孵化させ、血を吐くように表白する、当の「昭和人」であるかというと、すこし違うように思う。

  久世氏は昭和10年の生まれで、私はそのほぼ20年後に誕生している。ともに昭和生まれで、思春期を昭和の時代に過ごしてはいるけれど、その20年の間には大きな懸隔がある。それはつまりこういうことでないのかと思う。

  阿久悠氏が、やはり久世氏を偲ぶ文章の中で、

<久世光彦が死んだ。それは得がたい人を失ったということより、もっともっと切実な、僕の中の貴重な証人に突然去られた思いで、ぼくもまた一部死んだのである。>(「マイ・ラスト・ソング  最終章」文藝春秋 P186)

  と書き出して、「貴重な証人」について実に興味深いことを述べている。これを読むと、「昭和の感傷」とは、このような「昭和人」によって初めて抱かれる「哀切な独特の感懐」なのではないかと思われてくる。引用が長くなる。

<そう、久世光彦は最大の証人だった。ぼくもまた、彼の証人だった。
  昭和20年8月15日を八歳とか九歳とかで迎えた少年は、滅びるでもなく、生まれるでもなく奇妙な間の世代で、お互い同士でしか理解し難い特異性を持っていて、それを何らかのアイデンティティとするには、相互証人の立場を取るしかなかった。
  久世光彦から、あんたは証人だと言われたことはなかったが、言われなくてもわかった。なぜなら、ぼくは証人を探してこの仕事の世界へ入って来たのであるから、雑踏の中で宇宙人が宇宙人を認識するように、霊能的にわかったのである。
  8歳、9歳、いや10歳、そのあたりで歴史の活断層を跨いだ少年は、少年ではあるが子供ではなかった。子供をスキップしてかなり皮肉な面もある大人になり、それからの数年間は子供を演じて抹殺を免れた。
  信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる。>

  この文章を読むと、敗戦のその時を、8歳、9歳、10歳で迎えた昭和人こそが、久世氏が書き留めようとした「昭和の感傷」の担い手なのではないかという気がしてくる。終戦時に20歳であった人間は確かに生年で考えれば昭和人であるが、敗戦という「歴史の活断層」を、大人の眼差しで見つめ跨ぐことができたはずである。しかし、8歳、9歳の少年は違う。

  すこし想像力を働かせれば分かるはずだが、彼らは、生まれて後、物心ついたときから、「天皇陛下の赤子として、お国のために死ね」と教えられて育ったのである。親からも教師からも、世間の多くの人たちからも「国のために殉ぜよ」という滅私の精神を説諭されて育った世代である。そんな無茶なと、拒否する心さえ彼らには芽生える余裕はない。なにしろ、人として生まれ落ち、言葉を理解するようになったその時には、すでに熾烈な戦いが戦われ、隣近所の何人かは死に、またこれから死地に赴こうとする人びとがいる中で、「お前たちもお国のために尽くすんだよ」と言われて育てば、それを当たり前のこととして受けとめる以外に術はなかっただろう。

  「お国のために死ね」と説いた年長の人々には、自分たちが無体なことを言っている、という意識はあっただろう。そんなスローガンを必要としない世の中を生きた経験が彼らにはあり、たまたま生きる方途としてのっぴきならず国家主義、軍国主義を選び取ったという意識があったはずだからだ。だから彼らは日本の敗戦を一人の大人として冷静に、相対化して受けとめることができたはずだが、多くの久世少年たちは違った。彼ら少年にとって「歴史の活断層」を跨ぐことは、身を引きちぎられるような苦痛に満ちた精神的経験であったに違いない。なにしろ、昨日までは「お国のために死ね」と言われ、今日からは「今までは間違っていた。新しい国を建設するために強く生きろ」と言われるのだから。本当はどっちなんだ? 何が正しくて何が間違っているんだ? 大人が言っていることを信じていいのか?

  だからこそ、「信じられないだろうが、ぼくらは史上稀な、少年が虚無を感じた世代である。生きるには子供ぶるしかない。そして、大人びた心をひた隠して子供ぶる」しかなかったのだと阿久氏は書くのだろう。考えてみれば、悲しい悲しい世代である。

    信じるべきなにものももたず、頼るものは自らしかない。幼少年期に受けた心の傷はトラウマとなって生涯彼らの心に傷痕を残し続けた。焼きゴテでジュッと捺されたような傷痕は、おなじ傷痕を持つ者を、すぐに見つけだしただろう。だから彼らは自分たちしか理解できない屈折を、お互い同士で、証人として証言するしかないのである。

    内田樹氏は、新著「昭和のエートス」(バジリコ)の中で、こう書いている。

<私が「昭和人」に数え入れるのは「断絶以前」の自分と「断絶以後」の自分との不整合を個人的な葛藤として苦しんだ人々である。>(P16)

  そして「昭和人」の一人として養老孟司氏を挙げる。

<養老孟司は1937年生まれで、敗戦の年にはまだ8歳であるが、早熟の少年にとっては「断絶」の衝撃は十分すぎるものであった。養老はそのことの意味について著書の中で何度か触れている。(・・・・・・・)
  養老は「だまされた」半身を断絶以前に残している。それは切り捨てることのできぬものとして戦後も尻尾のようについて回る。だから、養老たちの世代の葛藤は「もう、二度とだまされない」ということがつねに、どのような局面でも優先的に配慮されるという徴候を示すのである。>(P17)

  また典型的な「昭和人」として、もう一人吉本隆明氏の名を挙げる。

<彼を転向論に導いたのは、「敗戦経験」が彼にもたらした「気狂いじみた執念」である。吉本はそう書いている。にぎやかに戦後民主主義をことほぐ進歩的知識人とは違って、彼は彼の少年期の揺籃であった日本の封建制を簡単には否定できない自分を感じていた。断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られているというこの感覚こそがおそらく「昭和人」に共通する実感なのである。>(P21)
  
  そのような「昭和人」として久世光彦氏を見つめると、氏が綴った「昭和の感傷」はもうすこしその姿が鮮明になる。

  「断絶前の封建的・軍国主義的日本に半身を人質に取られている」がゆえに、いくら断絶後にその非道さを説諭されても、「封建的・軍国主義的日本」への得もいえぬ傾斜、懐かしい親和感を抱いてしまう自分がいる。抱いてしまうが、それは否定されるべき心性であると断絶後の自分は頭では理解するものの、だからといって、戦後ののっぺりとした明るさは到底許容することのできるものではない。

    戻る場所もなく、行くべき場所もない。この宙ぶらりんな寄る辺なき心持ちから生まれる悲しみこそが、久世光彦が書き遺そうとした「昭和の感傷」なのではないだろうか。

  しかし、そのような「昭和人」も次々と世を去り、「昭和の感傷」自体も世の中に理解されにくくなり始めている。いずれ、この複雑な「感傷」も理解されなくなり、世の中から静かに、消えてなくなるだろう。

    だけれども、私は書き残しておきたいと思う。そんな感傷にすがりつくようにして生きていた年上の昭和人たちがこぼした涙や、うつむきがちに消えていく後ろ姿を、確かにこの目で見、とても強く心を動かされたということを。

  

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2008年12月 9日 (火)

浜田真理子さんのコンサートへ

  年末であるからして、どうしても忘年会のようなものが増える。今夜も、築地の布恒更科で一席設け、呑めもしない日本酒を呑んだものだから、はっきり言って、ヘロヘロである。ヘロヘロのまま、会社に戻り、机のPCを起動させ、うつらうつらしながら文章を書いている。なぜそうまでしてPCに向かっているかというと、そうでもしないとブログの更新が覚束ないからである。

  では、なぜ、そうまでしてブログを更新しようとしているのかと言えば、ひとつには書きたいことがあるから、そしてもうひとつは、見ず知らずの方だけれど、頻繁にのぞきに来てくださっている方がいるということが、「生ログ」のチェックで分かってしまうからである。こんなどこの馬の骨だかわからないオッサンが書いているブログを、わざわざ読みに来てくれる人がいるという事実に、たまらなく恐懼してしまうのである。

  酔っ払いは前置きが長い。


   12月6日の土曜日、横浜の神奈川県民ホールへ、浜田真理子さんのコンサートを聴きに出かけた。タイトルは「花鳥風月 ~波止場にて~」。浜田さんにとっては今年の掉尾を飾るソロ・コンサートであるという。先日書いたけれど、世田谷で開かれた浜田さんのコンサート「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」を仕事の都合で聴き逃しているので、そのよすがをひょっとすると味わえるかもしれないと思い車を飛ばして出かけたのである。

   いいコンサートだった。特に「マイ・ラスト・ソングを歌う」で歌われた「哀しみのソレアード」は背筋の毛が総立ちになるほどに素晴らしいものだった。まだ、CDには一度も収録されていないが、この哀しみのメロディが浜田さんの歌声に乗ると、筆舌に尽くしがたく哀切である。もう死んでもいいや、という気にさせられる。

   分かったことが一つある。浜田さんの歌はそのどれをとっても、歌い出す前に「何事かがすでに終わってしまっている」のである。恋であれ、夢であれ、人生の希望であれ、歌の最初の第一声を発する前に、どういう理由でかもう断ち切られてしまっているのである。断念。諦念。絶望。悲嘆・・・。そのすべてが入り混じった感情が第一声に重く閉じ込められている。閉じ込めながら、悲しみの淵にある魂を鎮めようとする声のように思える。と、いくら書いても、浜田さんの「清冽な絶望」の歌声の醍醐味はなかなか分かってもらえるものではないだろう。

   その「清冽な絶望」の歌声の主が、久世光彦の「マイ・ラスト・ソング」に痛く感応して、小泉今日子さんと一緒になってコンサートを開いたことが私には、とても興味深い。久世さんの「マイ・ラスト・ソング」は「昭和のさまざまな感傷」を描くと前項で書いたけれど、なぜ、浜田さんが久世さんが描く「昭和の感傷」に感じ入ったのかはなんとなく分かる気がする。「昭和の感傷」も、もはや終わろうとしているからである。久世さんが目を潤ませながら書き留めようとした「昭和の感傷」を、まるで自身の傷跡をなぞるようにして「受けとめる」人が早晩、いなくなろうとしているからである。

   久世さんが書き留めようとした「昭和の感傷」とはこのようなものであった。

<惚れて  惚れて
 惚れていながら  行くおれに
 旅をせかせる  ベルの音
 つらいホームに  来は来たが
 未練心に  つまずいて
 落とす涙の  哀愁列車

 三橋美智也の「哀愁列車」がヒットしたのは、(・・・・・・)昭和31年だが、そのころの汽車は、たとえばいまの新幹線に比べれば、歩いているみたいに遅かった。私がその2年前に、疎開先の富山から大学受験のために上京したとき、むろん鈍行ではあったが、富山から上野まで12時間もかかったものだ。夜中に何度も目が覚めて、その度にデッキに出て夜風に当たる。遠い民家の灯が瞬きしているように光っては消え、それはあの「雪国」の冒頭の文章そっくりの夜景だった。ときどき寒村の玩具みたいな駅に停車して、長いこと動かないことがある。北陸線にはそのころまだ複線になっていないところがあって、向こうからくる汽車を待っているのだ。3月の夜寒の中に汽車の蒸気が白々とホームに流れ、年とった駅員の掲げるカンテラが滲んでゆれていた。
  もうあんな寂しい情景を見ることはないだろう。

 燃えて  燃えて
 燃えて過ごした  湯の宿に
 うしろ髪ひく  灯がひとつ
 今宵逢瀬を  待ちわびる
 君の幸せ  祈りつつ
 旅にのがれる  哀愁列車

(・・・・・・)三橋美智也の高く張った声は、遠ざかる汽笛に似ていた。闇に消えてゆく赤いテールランプを追いかける、女の悲鳴にも聞こえた。私はそのころ、まだ20歳そこそこだったが、どうしてか「哀愁列車」や「おさらば東京」の草臥れた横顔の男の心情が見に沁みた。(・・・・・・)昭和30年代というのは、そういう時代だったのだと思う。

 泣いて  泣いて
 泣いているのを  知らぬげに
 窓は二人を  遠くする
 堪えきれずに  見返れば
 すがるせつない  瞳のような
 星がとぶとぶ  哀愁列車

「すがるせつない  瞳のような」というフレーズに痺れた。名文句である。「縋る」にしても、「切ない」にしても、日本語にしかない絶妙のニュアンスを持った言葉である。(・・・・)こうした言葉が歌の中に生きていたのも、昭和30年代までだった。39年の東京オリンピックを境に、歌の「文句」は「歌詞」になり、そのフレーズは目に見えて翻訳調になっていった。(・・・・)
  あと半世紀もすれば、「汽車」という言葉はほとんど死語になってしまうだろう。いまだって「汽船」とは誰も言わない。煙を吐いて汽車が走る風景をイメージできる人がいなくなれば、「いまは山中 いまは浜」や「汽笛一声新橋を」などと歌うこともなくなってしまい、男と女の別れだって、喫茶店の片隅や、空港の出発ロビーばかりで、「縋る」女も「切ない」男の後ろ姿もーー歌の中から消えてしまうだけである。

 やりきれないよ
 胸にやきつく  あの瞳
 この世に生まれて  ただ一度
 真実惚れた  夜も夢
 あばよ東京  おさらばだ>

  書き写すために久世さんの本をぱらぱらと読み返していたが、何度読んでも心がしんとする。

  昨日の深夜、ベッドの中でTV番組制作会社のテレビマンユニオンのリーフレットを読んでいたら、今野勉氏が、亡くなった吉田直哉さんの言葉としてこんな言葉を記していた。

「私が死ぬと、私のなかで私と共に生きてきた、何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ」

「何人」を「何曲」と、「人びと」を「歌」と置き換えると、久世さんが哀切な思いで、14年間もかけて「昭和の感傷」を書き残そうとした気持ちがすこし分かる気がする。

  何回読んでも、私は「マイ・ラスト・ソング」に涙する。

  (この項はまだまだ続く)

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2008年11月28日 (金)

久世光彦「マイ・ラスト・ソング」は 「昭和の感傷」を描く

●夕方、虎ノ門のSPEの試写室で「007/慰めの報酬」を観る。
    頭から、激しいアクションシーンである。イタリアのコモ湖沿いの道を疾駆するアストンマーチン、追うアルファロメオ。エンジンの轟音と機関銃の金属音、ブレーキの悲鳴。顔に血糊をちらせながら、冷静にステアリングを握るジェームス・ボンド。いきなり手に汗を握ってしまうオープニングである。

  しかし、すぐに悟る。あまりに過剰な(長丁場でかつ種類豊富な)アクションシーンは、物語の進行を劇画的に簡略化してしまうだけでなく、アクションシーンそのものの持つ衝迫力を減じてしまうものであることを。起承転結、序破急、緩急、オードブル・スープ・メインディッシュ・デザート。どういってもいいのだが、内容もテンポも違うものが、ある流れの中にあるからそれぞれが引き立てあって効果的なのである。想像すれば分かるだろうけれど、頭から最後まで、ずっとこぶしだらけの演歌がもしあったとしたら、極めて退屈なのと同様に、アクションだらけだと飽きてきちゃうのである。

  そういう意味で前作「007/カジノ・ロワイヤル」の方が、私には楽しかった。特筆すべきは、ボンド役のダニエル・クレイグの存在感。鍛えられた肉体をトム・フォードのスーツに包み、冷徹な表情でことに当たる姿ははなはだセクシーであると思う。この冷たい鋼のような男の存在は、女性の目から見てどのように見えるのだろう。「たまらなくセクシー!」という声はあまり聞かれないような気もするが・・・。

●その後、新宿に行って、紀伊国屋書店の地下にある「モンスナック」でポークカレーの大盛りを食べ、額の汗をぬぐいながら今PCに向かっているところである。
    カレーを食べながら、ふと思い出したのだが、71年に田舎から東京に出てきたころ、新宿駅東口の改札を出れば紀伊国屋書店まですぐにたどり着けるのに、駅の出口がそんなにいくつもあるものだとは気がつかなくて(だって田舎の駅の出口はひとつだった)、最初の半年ほどは、新宿駅南口で甲州街道に出て、テクテク長い道のりを歩いていたのだった。

  その頃は、新宿紀伊国屋書店で高橋和巳や寺山修司や五木寛之の文庫本を買って、2階の「ブルックボンド」に腰を落ち着け、パチンコでとったDUNHILLのタバコをゆっくりくゆらせつつ、長髪をかきあげながら、深刻な顔をして本を読みふけり、時にイングリッシュティをすすったりして自由な時間を過ごしていたものだった。

    当時、この紀伊国屋書店の2階で書架を眺めていると、地下1階のカレー屋「モンスナック」からなんともいえないカレーのいい香りが漂ってきて、たまらず階段を駆け下りていったものだった。もう、ほとんどの人は忘れてしまっているけれど、紀伊国屋の地下のレストラン街はその昔は通路の中央に位置し、レストラン両側は通路だったのである。だから、「モンスナック」には両側の通路から入店できるようになっていたし、しかもキャッシュオデリバリーで、前金だったのである。

  あのころカレーを作っていた人たちの顔はもう今の「モンスナック」にはないし、あの頃の、薫り高いスープカレーも今ではもうだいぶ様子が変わったような気がする。昔はお代わりをして3杯立て続けにがつがつ食べたこともあった。
「モンスナック」のしゃびしゃびカレーをスプーンですくっていると、懐かしい自分の昭和の青春の一こまが甦る気がする。

●11月15日と16日、ちょうど仕事で仙台に行っていた間に、世田谷パブリックシアターで興味深いコンサートが開かれていた。題して「浜田真理子LIVE 久世光彦 マイ・ラスト・ソングを歌う」。これがどういうコンサートだったのか、すこし説明がいるだろう。久世光彦氏とは、あの有名なTVドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などの演出、プロデューサーを務めたテレビマンだが、後半生には文筆家としても活躍(06年逝去)。いくつかの小説を残したが、多くのファンを引きつけたのが14年も雑誌連載を続けた「マイ・ラスト・ソング」というエッセイだった。

<こんなことを考えるのは、私だけだろうか。私の死がついそこまでやって来ているとする。たとえば、あと五分というところまで来ている。そんな末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最後に何か1曲、何でもリクエストすれば聞かせてやると言ったら、いったい私はどんな曲を選ぶだろう>

  というきっかけで始まった「音楽エッセイ」だったが、それは毎回、私たちが、私たちの人生のある日、ある時、ある場所で、心のどこか深いところで交差したさまざまな楽曲を取り上げ、その曲に私たちが託した思いがどのようなものだったのかを、哀切に探る、という体裁のものだった。「哀切に探る」とは妙な言いようだが、そうとしか言えない書きっぷりなのだから仕方ない。

  それを中野翠さんは「日本人の感受性のみなもとを探り、昭和の心を掘り起こすような深い仕事」であると、久世氏を追悼する一文の中で記している(「マイ・ラスト・ソング 最終章」久世光彦著 文藝春秋 P172)。そして続けて、

<(久世さんは)昭和の歌の数かずが「忘れないで」と手をさしのべているのを感じたのだろう。例えば「海ゆかば」の回など読むと、何か大きなものに背中を押されて書いているんだなという感じが伝わってくる。「支那の町の支那の子」や「茶目子の一日」のような昭和の色濃い歌を忘却の淵から救い出し、藤田まさと「妻恋道中」の「好いた女房に 三下り半を/投げて長脇差(ながどす) 永の旅」の後半の「なの字尽くし」に「歌詞」とは違う「文句」の芸を発見し、「昭和維新の歌」(青年日本の歌)と「インターナショナル」を青年たちにとってのロマンティックな革命歌として等価に語るー。やっぱり久世さんにしかできなかった仕事だと思う。
  私たちは「マイ・ラスト・ソング」シリーズを通じて、昭和のさまざまな感傷に触れた。そして、その中で自分の感傷性の質や型に気づかされて行くのだった。
  久世さんは溺れることを怖れない人だった。
  好きなものにはとことん溺れた。頭を垂れ、跪き、自分の感傷性を思いっきり解放した。(・・・・・・)
  なにしろ久世さんは「マイ・ラスト・ソング」の中で、ほとんど曲ごとに泣いているのだ。「泣いた」「涙を流した」とハッキリ書いていない場合でも、文章自体が潤んでいる。そう、潤んでいるのだ。>

  14年間も続いたそんなエッセイ集の中から、松江に住む歌手・浜田真理子さんが選んだのはこんな曲だった。初日と二日目とでは、第二部のラインナップが変わっている。 初日は、

【第一部】
みんな夢の中 (作詞・作曲:浜口庫之助)
月の砂漠 (作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる)
離別(イビヨル)(作詞・作曲:吉屋潤)
冬景色(文部省唱歌)
朧月夜(作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一)
おもいでのアルバム(作詞:増子とし 作曲:本田鐡磨)
プカプカ(作詞・作曲:象狂象)
海ゆかば(作詞:大伴家持 作曲:信時潔)
港が見える丘(作詞・作曲:東辰三)

【第二部】
爪(作詞・作曲:平岡精二)
ガード下のくつみがき(作詞:宮川哲夫・作曲:利根一郎)
さくらの唄(作詞:なかにし礼 作曲:三木たかし)
As Times goes by(作詞・作曲:Herman Hupfeld)
街の灯り(作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)
知りたくないの(作詞:D.Robertson作曲:H.Barnes 訳詞:なかにし礼)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  そして、二日目は、第二部がこう変わっている。

【第二部】
愛のさざなみ(作詞:なかにし礼 作曲:浜口庫之助)
星の流れに(作詞:清水みのる 作曲:利根一郎)
爪(作詞・作曲:平岡精二)
十九の春(沖縄県民謡)
.黒の舟歌(作詞:能吉利人 作曲:桜井順)
.テネシーワルツ(作詞・作曲:P.W.King/R.Stewart)
哀しみのソレアード(作詞:F.Specchia/M..Seimandi/A.Salemo 作曲:Zacar/D.Baldan)

  2日間で歌われた歌は21曲。そして、浜田真理子さんがこの21曲を歌う前に、久世氏の「教え子」でもあった小泉今日子さんが、氏のエッセイを朗読する(のだろうと思う。何しろ仙台に出張に言っていたから聞いていないのだ)。

  このコンサートを聴いた知人は「ぐずぐずに泣いた」という。「まわりの人たちもみんな泣いていた」という。「海ゆかば」ではどうしても、涙がこらえきれなかったのだという。もし私がこのコンサートに出かけていたら、最初から最後まで鼻水をすすりあげていたことだろう。

  聴きたかったなあ。(この項続く)

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2008年5月28日 (水)

石川セリさんの「八月の濡れた砂」

  昨夜、六本木ミッドタウンの中にある「ビルボードライブ東京」に出かけた。石川セリさんの久々のコンサートを聴くためである(今回のコンサートは彼女の最新アルバム「Re:SEXY」を記念してのもの)。

  セリさんとは、アンテプリマの荻野いづみさんを介してお近づきになった。私にとっては、何といっても「八月の濡れた砂」の石川セリであり、井上陽水夫人でもある。「お近づき」とは言っても、なんだか、緊張してしまうのである。4年ほど前に、六本木グランド・ハイアットのレストランで一緒にお食事をする機会があったのだが、当方の緊張などどこ吹く風、セリさんはいたってざっくばらんな女性であった。

  食事をご一緒した翌日だったと思うが、セリさんは心臓のトラブルで緊急手術しなくてはならない身の上となり、以降、音楽活動からは遠ざかっておられた。そのセリさんの久々のコンサートであるからして、大いに楽しみにして出かけたのは言うまでもない。

  オープニングはジャズの名曲、「LOVE LETTERS」。私が大好きな曲である。私のIPODにはこの曲が2曲入っている。1曲は、シンニード・オコナーのもの(アルバム「Am I Not Your Girl?」に収録)、もうひとつはペギー・リーのもの(アルバム「Peggy Lee Best One」に収録)で、どちらも、鳥肌が立つほど素晴らしい。その名曲を、セリさんはパリのキャバレーの踊り子風の衣装で歌い始めた。

 2曲目は新曲「ひまわり」。そして、3曲目が「八月の濡れた砂」。この曲のイントロが流れ始めると、もう心の奥底でさざなみが立ち始める。それが、いったいどういうものなのか、説明するのはとても難しい。この曲は1971年の8月に公開された藤田敏八監督の同名の映画の主題曲としてリリースされた。作詞は吉岡オサム、作曲はむつひろし。この歌を歌うセリさんはこのとき、19歳だった。
  そして、この映画を見終わって、71年の8月の炎天下、焼け付くような新宿の雑踏をさ迷い歩く私も19歳だった。どこに向かって歩けばいいのか、何を目指せばいいのか、何も分からず、ただ、あてどない焦燥感に炒られるようにして西新宿をうろうろしていたのである。この曲のイントロが流れると、一挙に当時の自分に舞い戻り、穏やかな心持ちではいられなくなる。涙がこぼれそうになる。70年代に青春を送ったことのある人ならば、なんとなく共有できる感情ではないかと思う。
 
  熱くて、息苦しい、殺伐とした70年代だったのである。

  大病を乗り越えて、思うように声が出ないセリさんは、声を振り絞るように、全身を使って歌う。

  私の海をまっ赤に染めて
  夕日が血潮を流しているの
  あの夏の光と影はどこへ行ってしまったの
  悲しみさえも焼きつくされた
  私の夏は明日もつづく

  確かに「私の夏」はその後も続き、学校を卒業し、無事に社会人にもなった。ある日あるとき、打合せで立ち寄った東京プリンスのトイレで用を足していると、隣に藤田敏八監督が立った。我々映画ファンは監督のことを、「ふじたびんぱち」と呼び習わしていたが、びんぱちと並んでおしっこをすることになったのである。
  ああ、このおっさんが「八月の濡れた砂」を作ったのか思いながら、便器を見つめていたことだった。
 
  びんぱちは、1997年8月に65歳で亡くなった。「八月の濡れた砂」の公開から、きっかり26年後のことだった。

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2008年4月10日 (木)

倍賞千恵子の「やるせない声」

 もう、忙しくてたまらん。4月の人事異動で、なんだか急に仕事が増えてしまって、とてもブログを更新している場合ではないのである。時々のぞきに来てくださっている方々(ごくごく少数でしょうが)には、誠に申し訳ない。「なんだよー、この前のままじゃないかよー」とお怒りのことと思う。もうすこし、時間を下さい。席の移動やら、新しいメンバーとの打ち合わせやら、歓送迎会やら、よせばいいのに、新しくオープンするレストランの試食会だとかでバタバタなんです。馬鹿みたいだと、自分でも思う。

 忙しい最中に、時間を見つけて、桜を観にいった。山手通りの目黒橋に車を停めて、車の中から、目黒川の両岸に猛然と咲き誇る桜を眺めた。まるで、吹雪のように花びらが降りしきる。その有様を見つめながら、これまたよせばいいのに、倍賞千恵子のCDを聞いてしまった。誰かにもらった2枚組みの「まるで映画のひとこまのように」なるソニーのCDである。その中に、「ゴンドラの唄」(中山晋平作曲、吉井勇作詞)が入っている。

降りしきる桜の花弁を眺めながらこの曲を聴くと、もうたまらない気持ちになる。

「ゴンドラの唄」がどういうものかすぐには思い出せない方も、「命短し、恋せよ乙女」というあの曲である、と聞かされれば、すぐに思い出していただけるであろう。(吉井勇は、行動的な詩人である。あっちこっちで出くわすぞ、この人には。京都・祇園の白川通り沿いをそぞろ歩いていると、この人の詩碑に出くわす。「かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」。好きだったんだな、祇園が。)  ここまで読んでも、全然わかんない方は、どうぞ、どこか別のブログを読みに行ってください。


  文字で、「命短し、恋せよ乙女」と書いてもなんてことはないのだが、倍賞千恵子の声にこの歌が乗ると、もう悶死しそうになる。

 切ない、というのでもない、悲しい、というのでもない。「やるせない」のである。漢字だと、「遣る瀬ない」となる。慰める手立てはなにもない、というような感じである。倍賞千恵子の声には、日本の女性が昔から抱え込む「やるせなさ」が浸潤しているような気がする。

 思い出してほしい。さくらが寅次郎に切々と諭すシーンを。
「おにいちゃん、おにいちゃんのせいで、みんな困ってるじゃないの。ほら、みんな泣いてるわよ。私だって、私だっておにいちゃんのせいで、どんなにつらい思いをしてきたことか・・・」
 さくらがそう訴えかけるとき、観客もみんな自分に向かってそう言われているような気がしてしーんとしてしまったはずである。
 「やるせない」のである。なんとかしてあげたいけど、どうにもしてあげられないミゼラブルな声なのである。分かっていただけるだろうか。


  疲れていることもあって、ちょっとおセンチになりそうだったので、あわてて別のCDに換える。がしかし、これが竹内まりやの「デニム」に入っている「人生の扉」なのだった。もう、あかん。。。。。

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2008年3月11日 (火)

五木ひろしの「近道なんか、なかったぜ」

 ちょっと前の話だが、サントリーのウイスキーの広告で、顔に深い皺が刻まれた老いた男の顔のドアップの写真を使ったものがあった。写真はモノクロ。男は、多分、西部劇によく出演する、とても有名な俳優である。名前は忘れた。
 その写真に添えられたコピーが、「近道なんか、なかったぜ。」
 誰のコピーだったかも忘れた。アート・ディレクションとデザインは井上嗣也氏。それは間違いない。井上氏の事務所で、その新聞広告用のゲラを見て、「おお、かっこいいコピーですねえ」と賛嘆した覚えがあるからだ。

 もうすぐ還暦を迎える五木ひろしの「紫綬褒章受賞を祝う会」に出席、涙をこらえながら熱唱する五木ひろしを見つめながら、そのコピー、「近道なんか、なかったぜ。」を思い出した。

 会場は、芝のザ・プリンス パークタワー東京のボールルーム。そこに招かれた客が約700名。政界、財界、芸能界、スポーツ界、マスコミなどなどテレビで見たことのある顔がぎっちり並んでいる。
 周りをキョロキョロするだけで、長門裕之、朝丘雪路、藤あやこ、コロッケ、池乃めだか、つんく、堀内孝雄、吉幾三、研ナオコ、笑福亭鶴瓶師匠・・・。
最前列にはなんと、長嶋茂雄に金田正一。よーく眼を凝らすと、SPに守られるよう海部俊樹元首相やら、ぷっくり太った加藤紘一元国務相なんかが顔を並べている。まったく、余計な感想だが、太った加藤紘一はなんとなく、太った吉幾三に似ている・・・・。

 この盛大な会の趣旨は、五木ひろしの紫綬褒章受賞を祝うとともに、数日後に控えた還暦を祝し、かつ、事務所の移籍(五木プロモーションからアップフロントエージェンシーへ)を内外に広く告知することにあるようなのだが、それにしても、大規模なものである。司会は、泣き虫・徳光和夫アナ。その絶妙の口上の後に最初の挨拶に登場したのが、麻生太郎氏。縦縞のシャツに蝶ネクタイ、おまけに口がゆがんでいるから、ひょっとして腹話術でもご披露されるのであろうか、と一瞬驚くが、例の、しわがれ声で、「歌手で紫綬褒章を受章したのは五木さんが11人目。最初は東海林太郎。つい最近では8年前に島倉千代子さんが受賞」と、今回の受賞がいかに大変な壮挙であるかを独特の口調で説明される。


 話が終わって、徳光さんが、「さすがにいい声をしていらっしゃる。今度は浪曲子守唄をぜひ聞いてみたい」とソッコー、いじる。天才的である。

 しかし、麻生太郎氏にせよ、五木ひろしにせよ、スピーチがうまい。スピーチがうまい人は、話の間に、あー、うー、えー、と、大平正芳のように声をはさまない。はさまずに沈黙を置く。平気で、聴衆に沈黙を投げかける。喋りべたはその沈黙に耐えられず、つい、意味のない音を出してしまう。これが、「下手」にますます拍車をかける。

 それはさておき。冒頭の「近道なんか、なかったぜ。」である。
五木ひろしは現在でこそ、日本演歌界において、押しも押されもせぬ不動の地位を築きあげているが、ここに至るまでには、決して平坦な道のりではなかった。

 16歳のときにコロンビア全国歌謡コンクールで優勝してスカウトされるものの、その後7年間は鳴かず飛ばず。1970年、これでだめなら田舎に帰って農業をやる、と決意して、あの「全日本歌謡選手権」に挑戦。長沢純が司会をつとめていた名物番組で、奇跡的に、10週連続勝ち抜きグランド・チャンピオンの座に輝き、首の皮一枚残してプロの世界に居残ったわけなのである。そして翌年、「よこはま・たそがれ」で再デビュー。
 以後のとんとん拍子は、我々がよく知るところなのだが、当然のことながら、余人にはあずかり知らぬ、決して吐露できない苦労がきっと数多くあったに違いない。女優との結婚、母親の死などのプライベートな事件のみならず、何しろ、演歌の世界である。一筋縄ではいかぬ、義理と人情の複雑なしがらみが渦巻いていたとしても不思議はない。

 そんなこんなの一切合切が、集まった客を前にして歌う五木ひろしの心に一挙に去来したに違いない。感情の堰があやうく切れそうになりながらも、締めの曲「道」を、ドラマチックに最後まで歌い上げてみせた。

 しかし、その後、700人の観客を前にしての最後の挨拶で、「今、声を上げて泣きたいきもちです」と言葉を詰まらせると、五木ひろしは急に目頭を押さえた。
 3日後に還暦を迎えようという男が、壇上の上で、大勢の客の前で泣くのである。

 16歳でデビューして44年間、自分の「喉」に命をかけて、ひたすら歌い続けてきた。44年間は長い。自分の「喉」に、自分の家族の、そして、周りの関係者の生活のすべてを賭けて歌い続けることの「孤独」と「不安」を想像してみてほしい。ほとんどの人間は、普通、そのような「孤独」に直面しないで生きている。しかし、歌手は違う。「たったひとりで生きていくしかない」職業なのである。

 他の誰も、助けてはくれない。

 そんな人知れぬ艱難の末に、今上天皇から、「本当によくがんばった。立派である」というお褒めの言葉として、紫綬褒章を授かったのである。今上天皇から授かるということは、日本中の人々から、「よく頑張ったね。ほんとにありがとう」という労いの言葉を受けるに等しい。そりゃ、泣けてくるだろう。感極まるだろう。
 44年間の歳月の中には、きっと辛いことが、いっぱいあっただろう。死ぬまで人には言えぬ苦しい思い出も数え切れぬほどあるに違いない。
 いいよ、いいよ、泣けばいい、思いっきり泣けばいいよ。遠くから見ていて、そんな気持ちがこみあげてきた。

 パーティが終わって引き上げる客の一人ひとりに挨拶するために五木ひろしは出口に立っていた。そして、真っ赤な目を潤ませながら、一人ひとりの手を強く握って頭を深々と下げる。
 そんな姿を見ていると、「近道なんか、なかったぜ。」という例のコピーがくっきりと、思い出されたのである。

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